第一話 遥かなる旅路、開幕
トルコのチャナッカレという町から
入口に設置してあるレプリカのトロイの木馬を見上げた榊は、思わず感嘆のため息をついた。実物は百人ほど収容できるとされているが、流石にそこまでの大きさでは再現されていない。
一通り下から眺めた後は実際に中へと入り、しばらく堪能したあと遺跡の方へと足を進めた。
トロイア遺跡では城壁や劇場跡などを見ることができるが、そのほとんどがシュリーマンが追い求めたトロイア戦争時代のものではない。
トロイア遺跡は九層から成立しており、火災の痕跡が見られた第二層こそがトロイアであるとシュリーマンは説いたが、実際にはトロイア戦争の時代から更に千年ほど前の遺跡とされている。
では、シュリーマンの探し求めたトロイア時代の遺跡はというと━━
「自分が発掘のために削り取った第七層こそが、本当に見つけたかったものとはねぇ。皮肉が効きすぎてるだろ」
遺跡を発見したことは確かに大きな功績だろうが、それを帳消しにするほどの罪もシュリーマンは犯している。先に記述した遺跡の損壊に加えて、出土した「プリアモスの財宝」を遺跡が属するオスマン帝国に無断で、ドイツへと寄贈している。そのため、「プリアモスの財宝」は現在でもトルコ、ドイツ、ロシアが所有権を巡って争っている。
そもそも、シュリーマンは当時自著にトロイアの実在は疑われていた、と記述しているが実際には発掘は行われていたため、仮にシュリーマンがいなくても遺跡が発見された公算は十分にある。むしろ、より後世に発見された方がより遺跡のためにはなっただろうと榊は踏んでいた。
とはいえ、今さらそんな事を言っても遺跡が復活するわけでもない。削られた遺跡を想像の中で描きながら、榊は遺跡を見て回った。
「ん?」
説明の書かれた看板を読んでいるとき、ふと首筋に視線を感じた。視線の感じ方からして相手はどうやら上空から見ているようだ。そんな位置からこちらを観察できる相手はかなり限られる。体こそ反応していないが、観察しているのは明らかに神に類する存在だろう。
特段振り向いたりはしないが、こちらが気づいていることは向こうもわかっているはずだ。それでも視線を外さないのは、こちらを誘っているのだろう。
痺れを切らした相手にせっかく残っている遺跡を壊されては構わないと考えた榊は、すぐさま遺跡から離れることにした。
遺跡の周辺は幸いなことに畑が広がっている場所だ。その一角に人払いの結界を張れば、大規模な人的被害は避けられるはずだ。
ある程度遺跡から離れた所で、視線の主が三頭立ての馬車に乗って降りてきた。
「神殺しとの闘いはいつも心躍るが、相手の武の腕が立てばなおいい。その点、あんたは十分そうだな」
人懐っこい陽気な笑顔を浮かべているが、その眼には闘志がありありと浮かんでいる。
白銀に輝く鎧を身に着け、槍を手にしたいかにも戦士に見える神は、ひらりと馬車から飛び降りる。
鎧を着こんだ上でなお身軽さを感じさせるその動作は、榊の目をもってしても隙を見つけることが出来なかった。
「俺はアキレウスってんだ。あんたは?」
ギリシャ神話に名高き英雄アキレウス。なるほど、この場所に相応しい神と言えるだろう。そして、その伝説から榊にとって
「立花榊だ」
死闘の気配を感じつつも、槍を作り出して構える。相手もまた、笑みを深めながら構える。彼我の距離は、十メートル近く離れているが、榊ほどの腕ならば二歩で踏み込める距離だ。その距離を相手は━━一歩で踏み込んでくる。
「ふん!」
互いに突きを放ち、鏡写しのようにそれぞれ半身になって躱す。そこからは足を止めて槍を交わす。
一撃の重さなら牛頭天王には及ばない。防御の巧みさでいけば未来視を持つオーディンの方が上だろう。だが、それらすべてを置き去りにする速さが榊に襲い掛かる。
(反撃する隙が━━ない!)
四方八方から迫る槍を躱し、払い、受け止める。始めは槍だけだったが、途中から時折蹴りや拳が混じるようになり徐々に押されだす。
横薙ぎに振るわれた槍を受け止めつつ、逆らわずに後ろに飛ぶことで相手との距離をとる。中空へと逃れた榊は鋼弓を取り出し、矢を三本一気に番えて放つ。
「槍も弓も一級品とは嬉しい限りだな、おい!」
かなりの速度で迫る矢で一薙ぎで払いのけ、槍を投擲する。膨大な呪力を込められた流星のごときそれは、射線上の全ての飲み込まんと榊に迫る。
まともに食らえばいかに頑丈なカンピオーネの体といえども致命傷は免れないであろう攻撃を前に、榊は不敵な笑みを浮かべて、全身の力を抜く。
手にした槍を倍の長さに伸ばしつつ、攻撃をギリギリまでひきつける。
「━━フッ」
完璧な精神統一の元に放たれる突きは、アキレウスの槍の先端と接触する。螺旋の動きで絡めとり、伸ばした槍の長さを存分に活かして受け流す。
受け流した槍の背後から、アキレウスが神速で迫る。
伸ばした槍での防御は━━間に合わない!
そう判断した榊は、槍を手放して権能で生み出したコインをアキレウスの振るう槍へ向けて指で弾く。コインへ刻まれたルーンは『
生成した短剣を茨の隙間からアキレウスの喉へと突き出す。アキレウスは明らかにその攻撃に気づきながら、回避も防御もしなかった。
ギィイイン!
金属音が響き渡る。想像通りの結果に榊は眉をひそめる。
「その剣、中々の業物だが俺の体は傷つけられんさ!」
神話に曰く、アキレウスは冥府の川へと身を浸すことで不死身の体を得たという。唯一の弱点が踵だとされており、実際に神話でも踵を射抜かれることでその命を落としている。
アキレウスの反撃をかわしつつ、『茨』のルーンをばらまきながら交代して仕切りなおす。
「はてさて、どうやって攻略したもんかねぇ……」
鉄壁の防御力を前に、榊は思わずぼやいた。そもそもあの神速を攻略しなくては、大技を当てることすら難しい。心眼で動きが見えるとはいえ、相手も榊と同等以上の武人である以上そう簡単には食らってくれないだろう。
手にした短剣を伸ばしつつ、アキレウスへと切りかかるが、神速で後ろに下がられてしまう。後退したアキレウスは、腰だめに槍を構えて━━榊へと突撃する。
ギィイイイイイイイイイイイイイイイイン!
アキレウスは驚愕した。突撃を躱されるのは想定内だった。カウンターを合わせられるのも相手の腕を考えれば当然だ。だが、カウンターを躱す動きに更に攻撃を合わせられたのは想定外だった。
榊の横を走り抜けた後、すぐさま振り返ると榊は頭に手を当てながらよろめいていた。何が起きているのかわからないが、その隙を見逃すアキレウスではない。すぐさま槍を撃ち込まんと接近する。
一方榊は『
「汝が支配す領域にて我が戦いに敗北は無し、『
戦闘開始前に人払いとして発動していた結界を、聖句を唱えて更に強化する。これにより、榊は結界内の出来事を手に取るように把握することができる。これで少しはアキレウスとの闘いを有利に進めることができるだろう。
榊は再び迫りくるアキレウスへと槍を突き出した。
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戦い始めて、何時間が経過しただろうか。太陽は既に落ち、空には満月が輝きだしている。神と神殺しの戦いは往々にして、千日手になるという。アキレウスはその神速と防御力で、榊はルーン魔術を活用することで互いの攻撃を封殺している。戦況は未だ互角、しかし如何にカンピオーネといえども神を相手にしての持久戦は分が悪い。榊は一旦仕切り直すために撤退する隙を窺っていた。
背中を見せればその瞬間に殺される。隙を突こうにも間隙は存在せず、そもそも相手の方が圧倒的に移動速度が速いのだ。それこそ瞬間移動のような手段でも使わなければ逃げ切ることは出来ないだろう。
生憎と榊のルーンにそのような便利な効果はない。体を霧へと変じるのは最後の切り札だ。一か八かの現状で使う訳にはいかない以上、『領土』が存在を告げる
決断を下した榊の行動は迅速だった。
「汝が速さにて我が敵の元まで駆けよ『
予め靴底に刻んでおいた『車輪』のルーンを発動させ、体勢はそのままに後方へと距離を取ると同時に金属の壁を生み出してアキレウスを妨害する。
「我が呪力を食らいて豊穣を為せ『
『収穫』は本来呪力を注いで植物を強制的に成長させるルーンだが、榊が使った場合の効果は植物に留まらず、呪力を注いでできることはそれにかかる時間を無視して実行することができる。本来であれば≪≪よく晴れた満月の夜≫≫にしか発動しないような呪術や、≪≪幾人もの優れた魔術師が半月以上≫≫かけて行う必要がある儀式を、呪力に糸目さえ付けなければ即座に実行することが出来る。
丁度壁を乗り越えたアキレウスと榊の間で『洞穴』が目を覚ます。
「貴様何をした!」
「さてね! 俺が聞きたいぐらいさ」
アキレウスが吼えるも榊はどこ吹く風で、『洞穴』へと吹き込む風に身を任せ、その先へと消えていく。
一瞬の逡巡がアキレウスの動きを止めるが、すぐさま榊を追うべく駆けだす。が、その瞬間を見計らったかのようにいつの間にやら取り付けられたワイヤーを通じて、爆炎が発生して体勢を崩しほんの少しだけ出遅れる。それでもひるむことなく、アキレウスは『洞穴』へと飛び込んだ。
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『洞穴』の中は深い闇で満たされていた。光源ははるか先に見える小さな光のみで、カンピオーネの目をもってしてもほとんど見通すことはできないが、アキレウスの気配を感じなくはなっていた。取り付けたワイヤーの振動から追われたのは把握できたが、どうにか撒くことができたようだ。
アキレウスの気配を探っているうちに、終点が近づき先ほど見えた光る球体へと呑まれる。
次の瞬間に感じたのは無重力。反射的に宙に浮いていると判断して、視界に移った樹の枝へと手を伸ばす。
「うおおおおおおおおおおお!?」
バキバキバキバキィッ!!!
奮闘空しく伸ばした手は宙を泳ぎ、木製の何かへと墜落する。
「いてて……」
半ばほど木製の何かへ沈み込んだ体を起き上がらせつつ、周りを観察する。どうやら、丁度馬車の荷台へと墜落したようだ。周囲には鎧を着込み、馬へと跨った男たちが榊へと殺気をぶつけている。引き続いてのトラブルの気配に、榊は嘆息しながら両手を挙げるのだった。
2か月振りやな(すっとぼけ)