彼女は朝から嫌な予感を感じていた。髪を梳いていた際に愛用していた櫛が折れる。普通ならば気に留めるようなことはないが、彼女の場合は違う。
彼女━万里谷裕理は七雄神社に仕える巫女にして、この国の呪術に係わることを管理する正史編纂委員会では媛巫女とも呼ばれる存在なのだ。特に万里谷はこの手の予感を外すことはない。
不安を抱えたため登校したが、特にこれといった出来事は起きなかった。あえていえば、隣のクラスの担任が変わったことぐらいだろう。周りの女子はかっこいいと言って騒いでいたが、彼女自身はそこまで気に留めていなかった。
だが、昼休みに入った途端屋上から呪力を感じた。そう強大というわけでもなかったが、それがトリガーとなって、彼女の特殊な力━霊視が発動した。
「冷たい大地……自らの身を捧げて得た力……」
彼女の脳裏に浮かぶのは、巨大な樹に逆さ吊りになっている隻眼の神。その体には槍が突き刺さっている。
あまり西洋の神話に詳しい彼女ではないが、これだけメジャーな神の名前なら分かる。
「オーディンの力……まさか!?」
彼女の直観が叫んでいる。屋上に神か神殺しがいると!
すぐさま彼女は屋上へと向かった。だが、屋上へと続く扉の前でピタリと脚が止まった。行かなくてはいけないという気持ちと近づきたくないという気持ちがせめぎ合っている。
人払いの魔術が発動しているのだ。明確な目的意識を持った魔術師でなければこの先に進むことはできないだろう。裕理の場合、目的意識はあっても東欧の魔王、ヴォバン侯爵によって刷り込まれた恐怖心が邪魔をしているため、前に進めないでいた。
5分ほど躊躇していただろうか。扉の向こうで新たな気配がした。裕理の脳裏に浮かぶのはオーディンと茨のイメージ。新たな魔術の気配に裕理は扉を勢いよく開けた。
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「俺たちやそこの彼女みたいな魔術師しか近づくことはできんさ」
扉を開けるなり裕理は指を指差されて気圧される。指差しているのは今日からこの学校で働きだした教師。彼からは呪力を感じない。
もう一人のほうに視線を向ける。こちらは男子生徒だ。見覚えが無いところからすると、別のクラスの生徒のはずだ。
そして気づく。この少年がカンピオーネであることに!
更には彼が手に持っているもの。わずかではあるが神の気配を感じる!
封印こそされていたが、裕理の霊感を刺激するには十分だった。
「……蛇……夜……」
「悪いがそこまでだ。下手に霊視するとあちらに気づかれかねんからな」
裕理の額に教師の指が突きつけられている。指と裕理の額の間には小さな鉄板がはさまれていた。裕理からその鉄板は見えないが、茨のイメージを感じた。ここに至って、目の前の男こそがオーディンを弑逆したのだと気づく。おそらくは隠蔽の魔術を使って、カンピオーネとしての気配を消しているのだろう。
「さて、君は……私のクラスの子じゃないな。名前を聞いてもいいかな?」
教師が裕理から離れながら問いかける。
「……万里谷裕理と申します。立花先生……いえ、
言葉の後半は生徒━護堂に向けてのものだ
「覚えていただいているようで光栄だね。呼び方は先生でいいよ」
「俺は草薙護堂。王なんて呼び方は嫌いだから草薙でも護堂でも好きに呼んでくれ。あと、敬語もやめてくれ」
「そんな!? ……困ります。身分だってちがいますし、男性を呼び捨てにだなんてしたことありませんし━」
恥じらいながら裕理が言う。
「身分って、いつの時代の言葉だよ。俺はそんな大したヤツじゃないぞ。……まあ、慣れないなら無理しなくていいけど、せめて、もう少し気楽に話してくれ。あと、様とか付けて呼ぶのもなしで頼む」
「はあ……。努力いたします、その、草薙━さん」
こちらの反応をうかがう裕理に、護堂はうなずいた。
同い年の娘に『さん』付けされるのもくすぐったいが、『様』よりは百倍マシだ。
「ところで、万里谷さんはどうして俺たちがカンピオーネだと断言できるんだ?」
「それが私の力なんです。私の目は、この世の神秘を読み解く霊眼なのです。……以前、草薙さんのご同胞のヴォバン侯ともあったことがあります。カンピオーネ━羅刹王の化身たる方々を見誤ったりはしません」
なるほど、と得心する護堂。
「君はもしかして媛巫女かい?」
榊の問いかけに裕理がうなずく。逆に護堂の顔にはハテナマークが浮かんでいる。
「ふむ……日本の場合魔術結社の代わりに魔術的なことを統括する正史編纂委員会というのがあるんだが、彼女らのような特殊な力を持つ術者━媛巫女を協力者としているのさ。ま、これでお前も晴れて魔王として世に知られるわけだ」
護堂が嫌そうな顔をしたが、榊は気にせずに続ける。
「本題に戻るとしようか。君は学校内で魔術の気配を感じ取ってやってきた。そして、今護堂が持っている神具が何なのか、それを知りたいと思っている。そうだね?」
「その神具からは神の気配を感じます。ややもすれば、それを狙って神が現れる可能性もあります。見逃すことはできません」
毅然とした態度で裕理が言う。その顔には魔王に対する恐怖など微塵も浮かんでいない。
「……いい表情だ。護堂! 放課後はあいているか?」
突然呼びかけられた護堂は、驚きながらも返事を返す。
「っ、ああ、空いてるけど……」
「もうそろそろ昼休みも終わる。授業をサボるわけにゃいかんから、この神具については放課後改めて話すとしよう。そうだな、できれば委員会の人間にも同席してもらいたいから、学校以外の場所がいいな。万里谷君、どこか適当な場所に心当たりはあるかい?」
「それでしたら━」
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地下鉄の芝公園駅を出た護堂は、裕理に先導されながら目的地へ向かっていた。榊だけは用事があるからと別行動をしている。3分ほど前に今から行くとメールが来たので、集合場所にたどり着くまでまだまだかかるだろう。
やたらと高い石段を登り、鳥居をくぐって境内へと足を踏み入れる。
こここそが裕理が勤める七雄神社だ。
「遅かったな二人とも」
「どうやったら先に来れるんだよ!?」
木に寄りかかって立つ榊に声をかけられて、護堂は思わず叫んだ。榊の性格なら、本当に3分前に出発したはずだ。
「待たせちゃいかんと思って急いできたまでさ。ま、普通の人間には少々無理な方法かもしれんがな」
「まさか、権能を使ったのか?! そんなことに使うなよ!」
「如何せん速く動くことしか能がない力なんでな、こういう使い道しかないのさ」
護堂の『鳳』の化身のような、神速を得ることのできる権能を持つのだろう。雷にも匹敵する速さなら、護堂たちより先にたどりつくことも十分に可能だ。
「おやおや、そんな簡単に手の内をばらしてしまってよろしかったのですか?」
護堂の背後から、男の声がした。革靴で境内を歩いてくるのに、踏み付ける玉砂利はかすかな音も立てていない。
見るものが見れば、即座に只者ではないと見抜ける歩き方だ。
「神が降臨した場所で霊視が降りれば、僕がどの神を倒したのかはすぐにわかってしまう。あの神から簒奪できる権能は、すぐに想像できるからね。あまり隠す意味がないのさ」
ま、ばれるまでは神の名前なんかは伏せるけどね、と榊は続ける。
「ははぁ、そういうことですか。申し遅れました。わたくし、正史編纂委員会の甘粕冬真と申します。以後お見知りおきを」
くたびれた背広をだらしなく着崩した、せいぜい二〇代後半の地味な青年。それが甘粕の第一印象だった。
それぞれ自己紹介を済ませたところで、榊が本題を切り出した。
「今日集まってもらったのは、イタリアの魔術師たちから託された神具━ゴルゴネイオンの処遇について話し合いたかったからです」
榊が大まかに、これを手に入れた経緯を話す。
「あなたちは、東京に禍つ神を呼び寄せるおつもりなのですか!? 地元住民の安全を、何だとお思いですか!」
晴天の霹靂。
話の途中からわなわなと震えていた裕理の叫びだ。
護堂はまじまじと、裕理の気品あふれる美貌を見つめ直した。今まで臈長けた風情の淑やかさだったのに、迫力が半端でない。
とにかく凛々しいのだ。思わず首をすくめてしまった。
「僕だってねぇ、問題は自分のとこで解決しろと言いたいし、そんな危険なこにと日本を巻き込むなと思ったさ。でもねぇ、そもそもイタリアの魔術師たちが頼るべきサルバトーレ・ドニを頼れなかったのはそこの護堂のせいなんだよ。この状況でもし僕たちが断り、まつろわぬ神による被害がイタリアにもたらされれば……最悪日本とイタリアの魔術大戦もありえるのさ」
榊の言葉に裕理がたじろぐ。
「まぁ大戦というのは極論かもしれないけど、必ず禍根を残すことになるだろうね。バルカンの魔王様だっているけど、あちらは神と変わらない災害のようだからね。穏便に収めるには僕たちが持ち帰る他なかったのさ」
「見方を変えれば、今回の件でイタリア魔術界に貸しを作ったともとれます。日本での被害を少なくできれば、それなりのメリットが出てくるはずです」
裕理はあくまで媛巫女であり、正史編纂委員会に協力するだけの立場である。こういった政治的な面に関しては疎く考えが回らない。だが、諭されればそれを受け入れる器量はあった。
「……異国の地とはいえ民の被害を少なくしようという考えはわかります。ですが、それで日本に被害をもたらしては本末転倒です。何かお考えがあるのですか?」
頭のいい子だ、と榊は思う。それに加えて霊視能力も持つ。権能を使うのに様々な制限を持つ護堂にとって、良いパートナーとなることだろう。
「僕にはこの神具を封印する術があった。これで諦めてくれればそれでよかったんだけど、そういう訳にはいかなかったみたいだ……でもあちらの居場所はつかめているからね、どこか無人島なり山奥なりにあちらさんを誘導してやれば被害は少なくできる」
「なるほど。
見た目に反してこの甘粕という男、なかなか有能だ。話が速い。
「二日前には、中国の西端あたりをさまよっていると聞いたんだが、情報提供者と連絡が取れなくなってしまってね、今どこにいるのは知らないんだ」
「ちょっと待てよ! それ一番大事なことじゃないか!」
今まで榊に話を任せて黙っていた護堂が叫ぶ。裕理の鋭い視線が護堂に突き刺さる。まずい状況だ。
「大丈夫。すぐにわかるさ。だろ? エリカ君」
「ええ。彼の神は今韓国にいます。移動速度から考えて明日の夕方には東京近辺に現れるでしょう」
護堂の耳に聞き覚えのある声が聞こえた。
いるはずのない、そして聞くはずのない少女の声。
驚く護堂の視線の先には、エリカ・ブランデッリの姿があった。
赤みがかった金髪は長く美しく、どこか豪奢な王冠めいた印象がある。
だが、それだけではここまで目立たない。
エリカを引き立てているのは、身にまとう華麗な雰囲気なのだろう。
衆目を集めることが当然と言わんばかりの不遜さと、気高いまでの誇り高さ。両者が絶妙のバランスで釣り合う、覇気に満ちた表情が生み出すものだ。
「どうしたの、護堂? メドゥサに見つかった侵入者みたいな顔をしているわよ」
蜜と黄金を溶かし込んだような声でエリカが言う。
だが、耳に心地よいはずの呼びかけに、護堂はため息をついた。
「そりゃ、会うはずのない人間と出くわしたからだ。おまえな、ここは東京だぞ。ミラノじゃないんだぞ? こんなところで油を売っている理由は何なんだよ?」
「理由? あいかわらずバカな人ね。遠距離恋愛中の恋人が、相手の住む街にやってくるの。愛しい人の顔を見るために決まっているでしょう?」
榊が、やはりあの人の孫ということか、と深刻な顔つきで呟いている。護堂は反論しようとしたが、それより先にエリカが傍にやってくる。
黒のタンクトップの上に紅いカーデガンを羽織り、下はデニムのパンツ。
そんな恰好をした金髪の少女と、古めかしい神社の境内。
似合いそうもない組み合わせのくせに、不思議と違和感がない。どんな状況でも主役になりおおせてしまう、エリカの図太さ故だろうか。
「こっちへ来て、護堂。あなたがいるべき場所は、いつだってわたしの傍なんだからね」
と、エリカは護堂の腕を取り、自分の方へと引き寄せた。
「な、何をなさるのですか? いきなり現れて、そんな破廉恥な……!」
「いいじゃない? わたしと護堂の仲は知っているんでしょう? 再開した恋人たちの逢瀬を邪魔するなんて、無粋な女がすることよ」
憤る裕理へ、悪びれもせずエリカは言い切る。
こら、誤解を招きそうなセリフを吐くな。文句を言いかけて、護堂は慄然とした。能面のように微笑む裕理が、心底怖かったのだ。
「ここは我らが祀る神のお社です。ふしだらな真似はお慎み下さいませ。━エリカさんも、もちらん草薙さんも。おわかりになりますよね?」
「あ、ああ。そういうことだからエリカ、ここは万里谷の言う通りにしよう。おまえだって、教会で悪ふざけはしないだろ?」
しかし、日本人ふたりの良識を、エリカは鼻で笑って退けた。
「悪ふざけはね。でも、神聖な場で愛する人と想いを確かめ合うのは、日本もイタリアも同じでしょ。ほら、結婚式なんかで」
「今は結婚式じゃないからッ。ふざけるのはやめてくれ!」
ちなみに、今までの会話は全て日本語である。
エリカの日本語は、文法、発音、共に完璧だった。おそらく護堂がイタリア語を覚えたのと同じ理屈で、エリカたち高位魔術師は多言語を短時間で習得するのだろう。
問題は、日本語であるがゆえに、裕理も会話を理解できてしまうところにあった。
━いや。他の言語でも同じかもしれない。
裕理の視線が怖い。見据えるだけで人を殺せそうな、氷のまなざしだ。
この眼光は、護堂の左腕に向けられている。そう、イタリア人少女が胸元のふくよかな部分をぐいぐいと押し付けている辺りに。
「草薙さん、そろそろ場所を移されてはいかがでしょう? あなたという方のいやらしい性根は十分に理解できましたから」
夜叉だ。護堂は確信した。
もし夜叉女が実在するとすれば、いまの裕理と同じ笑顔を浮かべるにちがいない。それほど冷酷で美しい、能面のような微笑だった。
その時だった。パン! と強烈な音が鳴り響き、全員の視線が音源へと向かう。
「そろそろ本題に戻るぞ。後話すべきは神の正体について、か」
音の正体は榊の
「あの神の正体だが、既に検討はついている。冥府を司る戦神にして知恵の神でもある。即ち━アテナだ」
「アテナだって? でもあの神様はゴルゴンを倒す側じゃなかったか?」
神話にあまり詳しくない護堂が疑問をぶつける。
「元々アテナはギリシャ神話に取り込まれた神でな、その前はアテナもゴルゴンも同一の存在だったのさ。詳しくは長くなるから省くぞ」
その後は、特に問題もなく細かな点を話し合った。
明日の放課後、ゴルゴネイオンの封印を解きつつ委員会所有のグラウンドへ移動。そこで護堂と榊が神を迎え撃つ、というものであった。
話を終えた一同は七雄神社を後にする。甘粕が車で送るというので、皆言葉に甘えて車に乗り込む。
最後に榊が助手席へと乗り込もうとしたところで、動きを止めた。明後日の方向をにらんでいる。
「どうかしましたか?」
榊の異変を察知した甘粕が問いかける。
「……いや、なんでもないさ」
答えながら榊が車に乗り込む。今感じたものが気のせいであってほしいと願いながら。
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「フフッ。危なかったなぁ」
とあるビルの屋上。給水タンクにもたれながら男は虚空に向かってしゃべる。
この屋上、先刻榊がにらんでいた視線の先に位置していた。
「まさかこの距離で気づかれるなんて……とても楽しみだなぁ」
男の顔には笑みが浮かんでいた。来たるべき闘いを喜ぶ、戦士の笑みが。
20日には投稿したいとか言ってたのは誰だっけ……?
はい、思った以上に難産でした。つーかいつもに比べて長い。なんでこうなったのやら……
次で戦闘に入る……のか? それは神のみぞ知る……