2006年10月中旬
恩方様を倉に迎えてから一カ月も経った。
師匠は子供の相手は面倒くさいと倉の二階に引きこもり、恐らく恩方様も同居人が居ると言うくらいしか思っていないだろう。
驚いたのは全て忘れた恩方様に私たちの知ることを教えるという役割がやけにすんなりと進んで言った事だった。
恩方様はまるで空(から)のスポンジが水を吸収していくようにどんどん言葉を覚えていった。
「八重架、やえか♪」
「はいな、恩方様♪お勉強は順調に進んどりますかいなぁ?」
私が確認すると恩方様はぷくぅと頬を膨らませて訴える。
「こんなの退屈なのじゃ、妾は偶にはお前と遊びたいのじゃ」
「はいはい、済ませたのなら遊ぶ前におやつとかはどうですかいなぁ?」
私が持ってきた小箱を見るや否や恩方様は瞳を輝かせて筆を机に置き駆けよって来て…裾を踏んで転びそうになった所を支えて止める。
--燕糸家は比較的現代の技術を受け入れず、古い格式ばった体制だった--
「こら、そんな恰好で走り回ったら危ないですえ」
「にゃぅ、う~こんなの着せた巫女どもに言えば良いのじゃぁ」
文句をたれながら恩方様は着せられた黒衣の裾を引っ張る。
それはまるで喪服のようで…恩方様の胸に刻まれた蜘蛛の紋が肌蹴た隙間からちらちらと見えた。
「………ぇか、やえか!プリンはまだかえ?」
「にゃっ!?あ、はいはい恩方様、今日は奮発してクリームプリンですえ♪」
わぁ…と紫の宝石のような丸い目を輝かせるその仕草はまるで年相応の少女のようで…
私の黒い想いを洗い流す癒しになった…。
私は、恩方様を憎んでいた。
いや、きっと今でも憎んでいる。
でもそれはきっとこの子には重すぎる荷だ。
◇
『何故私が耐えなければならないのなぜ何故ナゼ名瀬撫ぜ…』
「将は右舷前進、雑兵の無力化をお願いします
七星(ななせ)、一二三(ひふみ)、四葉(よつば)は固まって距離を維持…前方は私がとります!」
「「「御意!」」」
人気の失せた民家で、デフォルメした子供の落書きのような影を従えるエプロンをつけた異形のゴーストががなり散らす声を余所に
私は仲間達に指示を飛ばし剣を手に親玉に狙いを定める。
『あの子さえいなければあァァァァ!!!!!』
ゴーストが投げる包丁を剣でいなし、逆に剣をその元に目がけて投擲する。
『ギャあ!!』
親玉の絶叫とともに剣がその胸を貫き、ありえない軌道を描いて私の元へ帰ってくる。
念動剣イヅモディバイス、もう片方を取り出し拳を真ん中に弓の形を取ろうとした所で落書きが襲いかかろうと駆け出す。
しかし私たちには人外の膂力を持った仲間がいる。
鋏角修将軍、八ツ目(やつめ)は彼らよりも早くその間合いに入り込み、長槍を握って回転するシュレッダーと化した。
『アタシじゃない、お前がやったんだあァァァァ!!!』
「ッ!!」
「「「八ツ目様!!援護いたします!!」」」
子分を失って激昂した親玉が八ツ目に斬りかかる、しかし他の三人の巫女が舞を踊ることにより傷は禊がれ塞がっていった。
その内に私は魔力と巫女の力を矢の形にして、弓と化した詠唱兵器に携える。
『あの子さえいなければ私は自由だった…あの子のせいで私はここに縛られるのよおォォォ』
「それはあまりに、身勝手や」
一言つぶやいて、ゴーストに破魔矢を撃ちこんだ。
◆
「さ、たんとお食べー」「…キュイキュイ」
「八重架様、お疲れさまでした」
巫女たちが蜘蛛童にゴーストの残留思念を与えている内に、将軍が私に労いの言葉をかけてくれた。
「ええんよ、将軍もよぉ頑張ったなぁ♪」
「私は元より巫女様方の護衛が義務なれば、結界によって力衰えたとはいえお手を煩わせてしまった事こそ申し訳ない…」
八ツ目は世界結界と呼ばれる現在の世界を形作る常識ができる前の鋏角衆だ。
恩方様より前に私が封印を解き従えているこの青年は、その時代からある重役の巫女を護ることが使命だったらしい。
そして、それを守りきる事ができなかった事も彼にとっては耐えがたい屈辱だっただろう。
「でも、よう頑張ったよ…今この世界で此処まで頑張れるんやから」
狂わずに…そう言いかけた所で言葉を飲み込む。
彼らを狂ってると言ってはいけない、それは私たち子供にとって暗黙の了解だった。
「八重架様も、まるで初代様のような気高い力を持っておいでです…それに見合うべく報いるのが某の役目なればこそ」
「気高い…?」
首を傾げた私を心底意外そうに見る八ツ目、すぐにすいませんと頭を下げた。
「え、えぇよええよぽか―んとしてて将軍にはレアな表情やったし。でも気高いか…そう、言えるんかなぁ」
「御自分の力に自信をお持ちでないのですか?」
八ツ目の言葉に私は考え込んでしまった。
「自信なんて、初めから持てるものやあらへんもん…」
◆
「のう、そこにおるんじゃろー?」
なーなーと、恩方様が語りかけるのは高く積まれた蔵の本棚の上。
それは師匠のお気に入りの場所で、彼女は基本としてそこから動く事はあまりなかった
特にそれは倉に恩方様が来てから寄り一層顕著になった。
「流石にヒトの気配くらいわかるのじゃ、先に住んでおったようじゃが…のう、寂しいので話くらいせぬか?」
「…………餓鬼に興味無くてね」
むぅ、と頬を膨らませる恩方様にこっそりと目を配らせるも、すぐに書物に目を戻し師匠は口を開けた。
「名前」
「にゃ?」
間の抜けた恩方様の返事にため息を突きながら師匠は答えた。
「私は巫女じゃないもの、過去の貴方に対する恩情が無い以上恩方様なんて呼ぶ訳にはいかないでしょう?」
「そ、それはそうじゃが…妾には名前が無いのじゃ」
恩方様が返すと、師匠は本棚の山の上から手を振ってこたえる。
「じゃあ八重架にでも付けて貰いなさいよ、名前は体を表す…名は形でありその本質を表す…ったく何言ってるんだか私は
というか、それ以前に名前が無いと呼べないし会話にもならないわ」
詭弁に過ぎないのは目に見えている、師匠は自称子供嫌いなのだ。
本当は好きな癖に、だから話しかけられればいくらでも意地悪に魔女らしく答えるだろう。
「う、う~…先住の女は意地悪じゃのう」
「綾乃、明・綾乃よ」
名を教えると本を閉じ、師匠は再び不貞寝と言う名の眠りについた。
◆
「やえか、妾にも名前が欲しい」
そんな事があったから、恩方様がそう言いだすのはある意味必然だったと言える。
事情を聞いた私は上を見るが師匠は応えることなく熟睡しているようだ。
「そぉ言われてもなぁ…そや、ほなら私の名前をちょぉ変えて…」
や⇒よ
え⇒う
か⇒こ
「ようこ、ようこ様や。とりあえずはそう呼びましょぉ、ええですかな?」
「…!!よ、う、こ…ようこ!!はは、妾はようこじゃ♪」
キャッキャとはしゃぐ恩方様を抱きとめて、人差し指でしーっと恩方様を諭す
「えっと…今はこの名前は私と恩方様と、師匠だけの秘密ですえ」
「…うん!わかったのじゃ、大好きじゃぁやえか♪」
名を与えられた恩方様は、凄くうれしそうな笑顔で…
その笑顔が、私の憎しみを癒して行く…
決して誇れる力でもなく
憎しみの為でも無く、父の為でも無く…私は何のために、巫女であるのか
私は未だ、自分の事だけが理解できず悩んでいた。