よかったのに
彼は薄汚れた軍病院の東棟三階の三〇五号室の隣にあるメディカルケアの為に設置された公衆電話の前に居た。受話器を取ってもらい。もう何回目か分からなくなるぐらい掛け続けた電話番号をもう一度、駄目もとで掛けた。これが掛らなければもう、二度と掛けないつもりでいる。
そう思うと顔や声に緊張や冷や汗が現れるもので、額から流れる汗は目じりのすぐ横を通り、右頬を半分まではゆっくり、ゆっくりと鉛でも付けられているかのような遅さで伝っていき、半分を過ぎると重りを外したかのような、先程までは考えられない速さで顎先まで行くとそのまま床へと彼から逃げていくように落ちて行った。彼にはそれが悲しく思えた。
電話のコール音が四回ぐらいなった後、切ろうと思った時に電話は繋がった。安堵の息を受話器の向こうに居る人に聞えない様に吐いた。だが、少しは聞こえてしまったのだろうかと柄にもなく神経質に相手を不愉快にさせまいと思考を凝らした。
「……もしもし、俺だけど……」
「俺は今日で二十四歳になった」などと最初は自身が誕生日を迎えたと言うありふれた話をしようとする。
しかし、いざそのことを言おうとして、喉に空気の塊が詰まった。声が出なくなった訳ではないが、どうしても、誕生日の話をすると塊が出来て声が詰まってしまう。
「どうしたんだい?」っと、電話の向こうに居る人が優しく問いかけてくるが、今の彼にはそれは単なる重圧にすぎなかった。
無理やり言葉を紡いだ。
「……いや、明日ぐらいに俺、そっちに帰れるんだけどさ――」
自分が寝ずに考えたどんな話をしようかと立てた計画が音を立てて崩れた瞬間であり、やはり自分には計画なんて立てられないんだと自身の大雑把なことを改めて認識した。
「そうか! やっと我が家に帰って来てくれるんだな! それで、いつ頃だ! 何時頃に帰ってこれるんだ! 何月、何日、何時だ!」
電話の向こうに居る彼の――父は歓喜した。その歓喜は当然息子である、彼にとってもうれしく、涙が出そうになる。だが、今はまだ泣くときでなかった。
ここからが本題だ。
「まぁ、明日帰るんだけど、他に行くところがない友達を連れて帰りたいんだ。家で一緒に住んでもいいかな?」
狂喜していた父親は一つ返事で「あぁ、いいとも! 遠慮なく住んでいいぞ!」と言った。電話の向こうで噎び泣く母の声が聞こえもした。それほど、彼の帰還報告が嬉しかったのだろう。
そこまで、彼の存在は両親にしてみれば大きいのだろう。
「でも、一つだけ言っておきたいことがあるんだ。彼は地雷を踏んでね、腕と足を失ってしまったんだ。でも、俺は彼を家にどうしても連れて帰りたいんだ」
その言葉聞いた途端に父も母も黙ってしまった。
一時の沈黙が訪れる。
「数日ならいいけれど、障害者の世話は大変よ。家にいる間に、そのお友達が住める所を一緒に探しましょう。あなたにも私たちにも自分達の人生があるのだから、そのお友達の世話に一生縛られるなんて無理よ」
いつの間にか電話相手は父ではなく母に変わっていた。彼の母がそう言うと、彼は黙って電話を切ってしまった。
次の日、両親達にもう一度電話が有った。今度は息子である彼ではなく、軍警察の人からだった。
内容は息子である彼が軍病棟の屋上から飛び降り、死亡したと言うものであった。
両親が死体に対面すると、彼等は言葉を失った。まるで、言葉を忘れてしまったかのようにずっと「あ」としか言わず、言葉が止まると母親は霊安室の床に座り込み泣き崩れ。父親はなにも言わずに顔に一枚の白い布をかぶせた。
彼の体に腕も、足もなかったと言う。一部の目撃者証言では、電話をするときも親友を頼って掛けていたらしく、手も足もない彼がどうやって屋上まで有ったのかは彼のボロボロの歯と擦れ雑巾みたいな服が全てをものがたっていた。そして、今でも彼のいた軍病院東棟の三階から屋上に掛けての床には彼の歯型が残っているらしい。