原作の裏側で。   作:clp

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本話では原作13巻終了後の雪ノ下の行動を書いてみました。
ネタバレ前提のお話になりますのでご注意下さい。



悲しみは雪のように

 部室にしっかりと鍵を掛けて。それを職員室に返却した私は、仕事の進捗を確認するために生徒会室に戻った。

 

 部屋に入るなり、こちらを見た一色さんが口を大きく開けて、身体ごと首を捻っていたけれど。すぐに「……あー」と呆れたような声を出して、その後は何も言わなかった。

 

 本牧くんと藤沢さんが何か言いたげな顔をしているのは、私の表情がさっきとは違って見えるからだろう。上目遣いでこちらを窺うのではなく、目を見開いている二人の様子から、私はきっと憑きものが落ちたかのような晴れやかな顔つきなのだろうなと思った。

 

 今日と明日は本牧くんの負担が大きいが、そこさえ乗り切れば一気に楽になる。バッファは多めに見積もっているので不測の事態にも対応できるし、保護者を説得する必要がなくなったので、私と一色さんは今日はもう仕事が無い。

 

 もっとも、それは予測していたことなのだけれど。

 

「プロムが実行できるようになったと、比企谷くんから報告があったわ」

「あ。それ、さっき先輩から聞きました。雪乃先輩がいないって知ったら、すぐに出て行っちゃって」

「そう。それなら詳しく話す必要はなさそうね」

 

 母が高校を訪れる。それを都築から聞いたのは出掛ける間際だった。表門の近くで車を洗いながら「今日の放課後です」と付け加えてくれて。母のことだから、きっと今日動くとは思っていたけれど、時間までは読めなかったので助かった。いつ来るかと一日中身構えるのは疲れるし、放課後なら段取りを調えられるからだ。

 

 おかげで時間を見計らってあの教室に移動して、あの場所で終わらせることができた。予想以上に早かったので、部室に直行したのかと思っていたが。ここに寄ってから来たのなら、逆算すると母との対話を短時間で切り抜けたということだ。大したものだと心から思う。それに。

 

「思った通りには動いてくれないわね」

 

 続く言葉が、思わず口から漏れていた。

 

「えっ、と……。先輩がどうにかするんじゃないかって、考えてたんじゃないんですか?」

「ええ、そうよ。でも具体的な行動までは読めないから。上手く事が収まって助かったわ」

 

 こちらでも保護者対策を怠っていたつもりはない。なのに一色さんがそれに言及しなかったのは、きっと彼が決着をつけると信頼していたからだろう。私と同じように。

 

 

 でも申し訳ないのだけれど、私が思い描いている行動はそれではない。

 

 一緒に過ごす時間が居心地いいって思える、そんな相手との関係を終わらせる。それは私にとって初めてでわからないことだらけで。だから私はかつての再現を図った。

 

 あれは去年の六月、由比ヶ浜さんの誕生日のこと。久しぶりに部室に来てくれたのに、事故のことで彼と意見が合わなくて。諦めようとして無理に明るい声を出す彼女と、諦めることで肩の荷を下ろそうとした彼に向かって、私は声を掛けた。

 

 開け放たれた窓から潮風が吹き込むのを感じながら、夕陽を背にして。

 

 つい今しがた私が背負った斜陽を、彼は覚えていてくれるだろうか。海の果てに消える直前、ほんのひと時だけ、陽の満ちるあの部屋で。一緒に何度も目にしたはずのあの夕陽、あの夕景、あの夕暮れを。

 

 あのまま話を続けられれば良かったのだけれど、彼は椅子を勧めてきた。せっかく六月と同じように、肩にかかった髪を払ってから話し始めたのに。「二人は等しく被害者で、すべての原因は加害者に求められるべき」と言って見えない線を引いた、あの日の再現を目論んでいたのに。

 

 でも、無事に事が済んで本当に良かった。

 

 今もなお面と向かって事故の話ができていない。文化祭の最後に、「今はあなたを知っている」と言って曖昧な形で済ませただけ。そんな紛い物でしかない私とは違って、あの二人は本物だと思うから。

 

「今日の仕事が無くなってしまったので、私は先に帰らせて貰うわね。仕事の割り振りの修正だけはしておくから、本牧くんも安心してくれて良いわよ」

 

 私の意図が読めなくて困惑しているのが伝わってきたので、そう告げた。曖昧に頷いている三人の間を抜けて、ホワイトボードに仕事の分担を書き終えて。

 

「では、お先に失礼するわね」

 

 おそらく私は、今までよりもずっと元気そうで、やる気いっぱいって感じで、どこか楽しそうにすら見えるのだろう。

 

 人前で泣いてしまわないようにと、ひそかに身構えていたのに。

 私はぜんぜん、泣くような気分ではなかった。

 

 

***

 

 

 自宅に戻ると、母はまだ帰っていなかった。「一緒に車で帰るように」という連絡が来なかったので、他にも用事があるのだろうとは思っていたけれど。何となく「出迎えられるのではないか」という予感があったので、不在と聞いて首を傾げてしまった。

 

 自室で手早く私服に着替えて、私は逃げるようにリビングに戻った。お手伝いさんに温かいお茶をお願いして席に着く。

 

 言い訳がましく「帰り道で思ったよりも冷えたので」と口にしたものの、理由は分かっている。マンションから自宅に戻って以来、開けたことのない段ボール箱。ウォークインクローゼットの奥に仕舞い込んだそれと同じ空間には、居たくないと思ってしまったからだ。

 

 あの中には、記念写真とぬいぐるみが入っている。写真はアトラクションの最後に貰ったもの。ぬいぐるみは彼に貰ったもの。何度も行ったディスティニィーランドも、初めて行ったららぽーとも、今となっては彼と過ごした記憶だけが大きくなり過ぎて、でも不思議とつらくはない。ただ距離を置きたいだけというのが正直なところだ。

 

 もしも、あの写真を由比ヶ浜さんに見られていたら。

 

 三人で過ごしたバレンタインデーの夜に、由比ヶ浜さんが荷物の片づけを手伝ってくれた。急にそんな話になったので、ぬいぐるみの裏に写真を隠すぐらいしかできなかったのだけれど。私が段ボール箱やゴミ袋の用意をしている間に、由比ヶ浜さんに見られていないという保証は無い。

 

 でも何も言われなかったから、きっと見られてはいないのだろう。

 

 たとえ冗談っぽくからかわれても。もしも応援の言葉を伝えられても。彼女の気持ちを知っている私は、上手く反応できなかっただろう。たぶん否定するしかできなくて、その話を続けることを拒絶して、それっきりで終わっていたのだろう。

 

 自分に都合のいい仮定をどれほど重ねても、結論は同じ。私が偽物である以上は、この現状以外に行き着く先は無い。それなのに頭の中では由比ヶ浜さんを便利に動かして、今とは違う未来が無かったのかと考えてしまう。ずるいのも、捻くれているのも、私のほうだ。

 

 

「今日はお父様が会合で、陽乃ちゃんはマンションに帰るみたいですね。お母様と二人分を用意していますよ」

 

 お茶を運んできたお手伝いさんにそう言われて、母の用事を悟った。

 

 年明けに母が彼と顔を合わせた時に、姉からこっそり「比企谷くんの名前は出してないからねー」と耳打ちされた。さすがに今日は名乗らざるを得なかっただろうから、その件で姉にお灸を据えに行ったのだろう。自宅に連行しないのは、せめてもの情けということか。

 

 二人の会話を想像すると、思わずくすっと笑いが出て。

 

「おや、何か良いことでもありましたか。雪乃ちゃんが楽しそうな顔を見せてくれると、おばちゃんも若い頃を思い出して元気が出ますよ」

「おばさんはまだまだ若いじゃない。それにもう高校生なのだから、そろそろ雪乃ちゃんはやめて欲しいのだけれど」

「おばちゃんから見れば、雪乃ちゃんも陽乃ちゃんもまだまだ子供ですよ」

 

 私が幼かった頃からずっとここで働いているので、そう言われると反論しにくい。ちょっとむくれてみたものの、ニコニコとした顔を向けられるとそれも長くは続かない。ふっと息を吐いて、普段どおりに過ごせている自分に胸をなで下ろす。

 

「姉さんなんて、私と一緒にいただけの男の子を威嚇するんだから。困ったものよね」

「それだけ雪乃ちゃんを大事に想ってるんですよ」

 

 あれも確か、ららぽーとでの出来事だった。彼の苗字を聞いて、事故を理由に私に付きまとっているのではないかと危惧したのだろう。彼の爪先からてっぺんまでを観察して軽く殺気を放った姉さんは、その後も言葉の端々で警告を伝えていた。

 

 あの時の彼は何も知らなかったので、まるで通じていなかったのだけれど。今になって思い返すと可笑しくなってくる。

 

 私が頬を緩めていると、お手伝いさんのスマートフォンが音をたてた。

 

「あ、都築からですね。……あと十五分ほどで戻られるそうですよ。おばちゃんは料理の支度に戻りますが、雪乃ちゃんはどうしますか?」

「中途半端な時間だし、ここで本でも読んでいるわ。棚の上に出ている文庫本は……今日はサガンを読んでいたのね?」

「あれを十八歳で書けるなんて、凄いですよねえ」

 

 そう言い残してキッチンに消えるお手伝いさんを見送って、私は話題の本を手に取った。

 

 

***

 

 

 都築が伝えたとおり、きっちり十五分後に母が帰ってきた。

 

 リビングに現れた母は、本を置いて立ち上がろうとした私を制すると「すぐに着替えて戻って来るから、そのまま本を読んでいなさい」と言って出て行った。私に「おかえり」を言わせないほどの早業だ。相当に機嫌が良いと見て間違いないだろう。

 

 本に集中できないでいると、母の足音が聞こえたので文庫を書棚に戻した。

 

「面白い男の子だったわ」

「ええ、そうね」

 

 夕食の準備を命じた母は私の向かいの席に腰を落ち着けて、開口一番そう告げた。苦笑しながらそれに応じると。

 

「陽乃もあなたも、私には秘密にしていたのね。害のない性格だから良かったものの……でもそうね。あなたたちも、そろそろ人の見極めができ始める頃かもしれないわね」

「まだまだ子供だと自覚しているから大丈夫よ。それで、彼は何と言って母さんを説得したの?」

 

 お手伝いさんとの会話を思い出しながら私がそう言うと、母は「あらあら」とでも言いたげに手で口を覆って。

 

「私に保護者の皆さんを説得して欲しいと言って、名前を口にしただけよ」

「そう。……なるほど、彼らしいやり方ね」

 

 その時の光景が目に浮かぶようだ。

 

 やはり彼は最後まで自分のやり方を貫いたのだと。そう考えながら一つ頷いて、私は過去の発言を振り返った。あんなにも「嫌い」だと思ったあの日の彼のやり方も、今は何故だか気にならない。あの時の彼の気持ちが、そして私の気持ちが、今ようやく理解できた気がした。

 

「損な性格をしているのね。うちの会社に入らせて、物言わぬ歯車として使い潰すのも良いかもしれないわね」

「その扱いが似合いすぎて、反論する気が起きないのだけれど」

 

 思わずふっと息を漏らした私に向かって、母は。

 

「……大した胆力だこと」

「残念ながら、今日の一件は私の差し金ではないのよ。その言葉は彼に言ってあげて」

「もう言ったわよ。そう……、彼が……」

「でも、そうね。彼にはもう特別な存在がいるのだから。変なちょっかいを掛けないで欲しいのだけれど」

 

 彼の評価を見直している母に、一つ釘を刺しておく。私にはこれぐらいしかできないけれど、少しは効果があるだろう。

 

「ああ、そういうこと。たぶんあの娘ね。残念だわ、せっかく『また会いましょう』と伝えたのに」

「彼はきっと、母さんとは二度と会いたくないと思っているはずよ」

 

 心底から面倒くさそうな表情を浮かべる彼の姿を連想して、変な声が出そうになった。なんとか堪えて、今の私は昨日までと同じ私だと、そう実感する。

 

「ところで、雪乃。今日の勉強は?」

「プロムが実施と決まって仕事が無くなったので、先に済ませてしまったわ。今晩はゆっくり過ごそうと思っているのだけれど?」

 

 嘘ではないけれど、正確には少し違う。今日の展開を見越して、昨日のうちに片づけておいたのだ。今日は勉強なんて手につかないだろうと、そう思っていたから。こんなに平然としていられるとは、思ってもいなかったから。

 

 痛ければ痛いほど、選んだ答えが本物だと信じることができる。そう思っていたけれど、現実は逆。痛みを感じていない私は、やはり偽物だったということだ。

 

 そこまで考えて意識を戻すと、慈しむような視線と出くわした。お手伝いさんが料理を並べながら、いたわるような表情で私に頷きかけてくれていた。さっき「元気が出る」と言ってくれた表情でそれに応えたいと思った私は、くすっと小さく笑った。

 

「では、温かいうちに頂きましょう。雪乃、食べ終わったらオーディオルームを使っても良いわよ。十一時まではあなたに鍵を預けるから、好きになさい」

「母さんがそんなことを言うなんて珍しいわね。じゃあ、おやすみの挨拶の時に鍵を返すわ」

 

 なんだか普通の母娘みたいな会話だなと。そう思ってまた小さく笑った私は、湯気を上げている料理に向かって軽く手を合わせた。そしてお箸を手にとって、食事に意識を集中する。

 

 

***

 

 

 父が設計したこの家には防音の部屋が二つある。一つはプレイルームと呼ばれていて、リビングに隣接している。もう一つはオーディオルームと呼ばれていて、リビングや私たちの部屋からは離れた位置にある。

 

 プレイルームとリビングを隔てる壁には大きなガラスが取り付けられていて、中の様子が一目で分かる。その名のとおり楽器を演奏するために作られた部屋で、かつて私もバイオリンやサックス、ギターやドラムスの練習をしたものだった。ドアを開ければリビングにも音が伝わるので、友人を招いてパーティーをするのに便利だと父が誇らしげに語っていたのを覚えている。

 

 私が文化祭で由比ヶ浜さんと一緒に演奏できたのは、この部屋で過ごした時間のおかげだ。

 

 一方のオーディオルームは純粋に音楽を聴くためだけの部屋だ。壁の位置や素材からコンセントの種類に至るまで父が徹底的に拘って作ったので確かに音は良いのだけれど、レコードやCDの収納部屋に行くにはいったん廊下に出る必要があるなど利便性に問題がある。各部屋で気軽に音楽が聴ける今となっては、少し持て余し気味なのが正直なところだ。

 

 とはいえ楽曲に集中したい時には重宝するのも確かだし、実際に聴き始めると「この部屋に来たかいがあった」と実感させられる。それに手持ちのコレクションを全て、お弁当箱のような形をした小さなPCに取り込んでからは、音源を取りに部屋を出る必要もなくなった。子供の頃にレコードやCDの取り扱いを教えて貰ってわくわくしたのを覚えているが、便利な世の中になったものだ。

 

「でも……久しぶりにCDで聴こうかしら」

 

 今日は妙に昔を懐かしむ気持ちが強い。だからオーディオルームに入った私はそう呟いて、まずはL社のプリメインアンプの電源を入れた。まだ小さかった頃に「38」という文字の形を面白く感じて、それを指差して何度も笑い声を上げていたのを思い出す。この記憶をいつもは恥ずかしいと感じるのに、微笑ましいと思えてしまうのが我ながら不思議だ。

 

 ひととおり機器の電源を入れ終えて。少し悩んだ末に、真空管が温まるまではスマートフォンから音を飛ばすことにした。せっかくCDをかけるのだから最初から良い音で聴きたいと考えたのだ。

 

 選曲がてら適当に流してみようと考えて、ふと悪戯心が湧いた。こんな日には「悲しい曲」に浸るべきかもしれないと、そう思い付いて。この調子だと涙は一滴も出ないと思うのだけれど、人並みに泣けるものなら泣いてみたいものだと。この時の私はそう考えていた。

 

「じゃあ『悲しい曲』のプレイリストを探して……曲名に『悲し』が含まれている作品を集めたと書いてあるし、これで良いわね」

 

 

 思い付きで始めたことが意外と楽しかった。歌詞に茶々を入れながら、私は部屋に備え付けられたソファに深く腰を下ろして選曲を進める。

 

「今日のことなのに、あまり悲しいとは思えないのが不思議なものね。やりきれないとも思えないし。やるせないモヤモヤはあるけれど、限りないむなしさや、もえたぎる苦しさも私には無いわね。どちらかと言えば空疎な感があるのだけれど」

 

 一曲、また一曲と。

 

「悲しみの果てに何があるか、それを知らないと言えるのが良いわね。だって今の私も、そんなものを知らないで済むのなら知りたくもないと思うもの」

 

 スマートフォンで歌詞を眺めながら。

 

「思ったよりもポップな曲調が多いわね。それに愛や恋と言われても私にはわからない。断言できるのは、彼に彼女を会わせたことを私は今でも悔やんでいない。あのクッキーの依頼の時に彼女の気持ちを知ってから、二人の邪魔をしたいと考えたことは一度も無いわ。ただ、寂しいという気持ちがとまらないのは、理解できる気がするのだけれど」

 

 良いと思った何曲かをCDで聴き直そうと考えつつ。

 

「私には、『泣かないでひとりで』と言ってくれる人も『そばにいるから』と言ってくれる人もいなかった。それは小学生の時から分かっていたことだし、仕方がないわ。あの時に私が望んでいたのはもっと些細なことだったのに。私が一歩を踏み出す勇気さえ貰えれば、彼の目が誰を向いていても構わなかったのに。私を選ばず姉との仲を深めてくれたらそれで良かったのに。どうして男の子は、時に物事をものすごく大袈裟に捉えてしまうのだろう。彼が葛藤する姿なんて、私は見たくなかったのに」

 

 いつもと変わらぬ精神状態だと信じて疑わなかった。

 

「ずいぶんと明るい曲調ね。先程の曲と作曲者が同じなのが面白いわね。でももしも、涙が乾いた跡に夢への扉があるのだとしたら……涙が出ない私には無縁のことね」

 

 だから、気が付くのが遅れてしまった。

 

 不意に悲しみはやってくるのだと。

 

「どうして……急に涙が出るのかしら。どうして、悲しみと仲良くなってみせるだなんて、そんなことが言えるのかしら。私には、わからない。私にはできない。だって、こんなに痛いのに。胸だけじゃない。心だけじゃない。私の全部が、痛いくらいに悲鳴を上げてるのに。もういいって思っても、痛みがぜんぜん引いてくれないのに。どうして、どうしてそんなことができてしまうの?」

 

 ひとたび流れ始めた涙はもう止まらなかった。無意識にせき止めていた感情も溢れ出てきた。私はそれらを押しとどめることができなくて、何度もしゃくり上げながら曲が終わるのを待つしかなかった。選んだ答えが本物かどうかなんて、もうどうでも良かった。ただ、身体中に痛みだけがあった。

 

 そして、次の曲が始まる。

 

 最初は歌が頭に入って来なかった。名前を呼ばれた気がしたので、楽曲に意識を向けようとしたものの。愛と言われても私にはわからないから小さく首を振って、さっきの曲の歌詞を思い返していた。

 

 そうして一番と二番を聞き流して、いつの間にか大サビに入っていた。英語のコーラスが耳についたのは単なる偶然。でも後から思えば必然だった気がする。私はあなたのために泣き、あなたは彼のために、彼は彼女のために、そして彼女は私のために泣く。それはきっと私たちと同じだと思ったから。

 

 

 少し冷静さが戻った頭で、大半を聞き流したこの曲と一つ前の曲とをCDで聴き直そうと決めた。泣き顔を誰にも見られたくなかったので、少しだけ扉を開いてこっそり廊下を窺って。新たな涙が出て来ないことに安堵しながら、ミュージシャン別にあいうえお順に整理された収納棚から浜田省吾のベストアルバムを、コンピレーション盤を集めた棚から1986年の歌年鑑というアルバムを持ち出した。

 

 オーディオルームに戻って、まずはCDプレイヤーのトレイを開けてそれを手で触れた。塗料が加水分解を起こしてベトベトになっていないか、CDを載せる前に確認するのが習慣になっている。定期的にしっかり清掃しているので大丈夫だとは思うのだけれど、古い機種なので気は抜かない。

 

 音の良さという点ではすぐ横にある最新の機種に到底及ばないのだが、父が大事に使ってきたこのS社のプレイヤーが私は好きだった。右下に小さく「CDP-R3」と書かれているのをちらちらと眺めながら、この部屋で父に昔話をせがんでいた頃を思い出す。

 

 今はもう絶えて久しいけれど、家族そろってここで音楽を聴いていた時期があった。その頃の私は、じっと座って曲を聴くよりも他にしたいことがたくさんあったので、あまり楽しいとは思わなかったのだけれど。そうした集まりがなくなった今になって初めて、その価値が分かるというのも変な話だ。

 

 充分に温まった真空管アンプにそっと触れて、T社のスピーカーに視線を移した。どうしてStirlingと書いてスターリングと読むのか、納得できないでいた小さな私に「そう読むと決まっているからだ」の一点張りで応じた若き母の姿が目に浮かんで、思わず苦笑が漏れた。たとえ子供に対してでも、正面から挑まれると真っ向から相手をするのだから大したものだ。

 

 私に欠けていたのは、おそらくそうした部分なのだろう。もっと早くに正面から向き合っていれば、結果は変わらずとも気の持ちようが少しは違っていたのではないかと。今頃になってそう考えても詮無きことだ。

 

 

 コンピ盤のCDをケースから取り出して機械に呑み込ませた。食事の前に読んだ小説と同じタイトルの曲が何曲目なのかを確認して、それを指定してからソファに移動した。

 

 さっきは大丈夫だったのに、どうしてのっけから涙が出て来るのだろう。これでは先が思い遣られると、そう考えていたら、今度は急に涙が止まってしまった。歌詞を聴きながら、生徒会室で話をしていた時の私はおろしたての笑顔を身に付けていただけなのだと、そう納得できたのが原因だろうか。我がことながらよく分からない。

 

 前向きなはずのサビの歌詞を聴いて、再び涙が浮かんでくる。どうしてこの歌い手は、ここまでポジティブになれるのだろう。どうすれば悲しみを友達のように迎えられるのだろう。この心境に至るまでに、どれほどの時間が必要なのだろうか。

 

 でも、この別れはあなたのせいじゃないと考えるのは同感だ。彼との想い出があふれだして、それをどれほど悲しく感じても。いつか元気にそれと向き合える日まで、そっと大事に仕舞い込んでおこうと私は思った。

 

 そして曲は二番のサビに。この歌詞を聴くと反射的に涙が流れる。きっとこれは一生を通して変わらない、そんな予感がした。不意にやってくる悲しみと仲良くするなんて、どうしてそんな言葉を明るく口にできるのだろうか。あまつさえ約束とまで言い切るなんて。

 

 最後のサビの繰り返しは、何も考えずにただ聴くしかできなかった。私が生まれるずっと前の曲なので、今まで存在すら知らなかったのに。それが今日を境に、私にとって特別な作品へと変貌するのだから不思議なものだ。

 

 

 演奏を止めて涙も拭わずに立ち上がると、CDを丁寧に回収した。浜田省吾のアルバムをトレイに置いて、ソファに戻ってからリモコンを操作する。程なくして、先程はほとんど聞き逃してしまった曲が流れ始めた。

 

 私にはやっぱり愛というものが理解できないのだけれど。悲しみを知ることで誰かを愛せるようになるとは、確かにそのとおりかもしれない。でも、愛したいと想う人はもういない。孤独は駄目だと歌われても、じゃあ私は誰を愛すれば良いのだろう。

 

 友達を作るべきだとは思っていた。恋をする必要があるのも知っていた。そうした経験が私には絶対的に不足しているということも。でも「誰を?」という段階でいつも立ち止まりを余儀なくされて、そこから先には進めたためしがなかった。あの部活にあの二人が入ってくれるまでは。

 

 楽しかった。初めてだった。嬉しかった。でも私は、誰かに頼ってもいいってことすら知らなかったから。だから、どこかでまちがえてしまった。気が付けば私たちは、自分以外の誰かのために泣いているのに、その涙を人には見せないような関係を築いていた。この歌と同じだ。

 

 私が由比ヶ浜さんのために泣いて、由比ヶ浜さんが彼のために泣いて。だからこそ彼を私のために泣かせるわけにはいかない。そこで三角形が成立すると依存が確定してしまう。けれども彼が由比ヶ浜さんのために泣けば、健全な二人の関係が始まる。

 

 もしも由比ヶ浜さんが私のためにも泣いてくれるのなら、私たちは健全な関係を築けるだろう。彼女が彼を手伝っていると教えられたあの時に、勢いよく抱き付かれて「一緒にいる」と言ってくれたから。だから私は大丈夫。彼に助けて貰えたし、終わりにもできた。きっと私は大丈夫だ。

 

 でも、身近には大丈夫じゃない人もいる。怒りの中で子供の頃を生きてきて、今も誰一人として許せないでいる人が。その原因は私にあるのだから、姉さんは必ず、私が救わなければならない。

 

 たぶん彼もずっと気にしているのだろう。過去を悔いて、何かを妬んで。そしておそらく、彼は姉さんのためにずっと泣いてくれていた。

 

 姉さんが彼のために泣けるようになるかは私にも予測ができないのだけれど。できれば私以外の誰かのために、少なくとも自分のために泣けるようにはなって欲しい。独りで泣くのは恥ずべきことではないと、それを分かって貰えるだけでも状況は変わると思うから。

 

 二番のサビが終わってブリッジに入った。一番では私に、二番では姉さんに、サビでは私たちに呼びかけているように感じられたこの曲だが、ここの部分は彼のために歌っているのだという気がした。

 

 彼が望んだ本物は、もしかすると幻想(ゆめ)かもしれない。その実在を証明する方法はただ一つ、過ぎゆく時の中で審判を待つしかない。ついに偽物だと証明できなかったものだけに本物たる資格がある。なればこそ彼には、彼女を壊れるまで抱きしめて欲しい。きっと由比ヶ浜さんなら壊れないと思うから。彼女は偽物ではないと、死が二人を分かつまで証明し続けてくれるだろうから。

 

 だから私は、愛する人の前を意図的に通り過ぎていく。

 振り返ることは、もうしない。

 




明けましておめでとうございます。なぜか新年最初の更新がこの作品になりました。

13巻を読み終えた時から「誰もが他の誰かのためにって曲が昔あったよなあ」と、ずっともどかしく思っていたのですが。新年会でこの曲を耳にして「ああ、これだ」とスッキリしたので、その気持ちのままに書きました。

前話は「もしこうだったら切ないなあ」というお話でしたが、本話は原作そのままでも切ないですね。

では、また本作を再利用する機会がありましたら宜しくお願いします。


最後に、作中に登場した曲は以下の通りです。
 ザ・フォーク・クルセダーズ「悲しくてやりきれない」(1968年)
 エレファントカシマシ「悲しみの果て」(1996年)
 杏里「悲しみがとまらない」(1983年)
 安全地帯「悲しみにさよなら」(1985年)
 斉藤由貴「悲しみよこんにちは」(1986年)
 浜田省吾「悲しみは雪のように」(1992年)

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