いわゆるバッドエンド的要素を含み、本編でのエンディングを否定するものになりますのでご注意下さい。
第30話 緩やかな終幕
ターニャ・デグレチャフは死んだ。
それはその名を名乗る者の死と言う意味だけで無く、その精神性を体現する者すらいなくなってしまったと言う意味での事だ。
親友が勝手な行動を取った末もう二度と会えなくなったと知った時、ターニャは今までに無いくらいに憤っていた。
死んでしまった友に、そしてそれを許した者達に強い怒りを覚えていた。
だから部下が戻って来た時、怒鳴りつけてやるつもりだったし、何なら全員を殴り倒してやりたいとすら思っていた。
しかし憔悴しきった顔のヴァイスを見た時、そしてその腕に抱かれた彼女を見た時、それらの怒りはターニャの中から消え失せてしまった。
その面影を残しているのが奇跡と思えるほどに傷だらけの少女。
それでもそれはターニャの親友であったティナに間違いは無かった。
「ティ……ナ?」
全身から力が抜ける。
真っ直ぐ立っていられなくなり、崩れかけたのを隣にいた副官に支えられた。
部下の前だ、みっともない真似は出来ないと思いながら、しかし体は言う事を聞かない。
堪えようとして、それでも抑えきれずに言葉がこぼれ落ちた。
「何でだ……?死ぬなって、わたしは言ったよな?分かったって、そう、お前は言ったよな?なのに何で……!ふざ、けるな!何でだ、ティナ!」
思わず詰め寄ろうとして、しかしやはり上手く立つ事が出来ずに地面に倒れ込んだ。
「何でだ!何で、お前は……!く、う……そんなの、認めん。わたしは絶対に認めないぞ!認めてやらないからな、ティナ!!」
ターニャはとうとう周りに部下がいる事も、自分の今の状態も、その全てが思考の外になり大声を上げた。
親友を失った痛み、ただそれだけがターニャの中を満たしていた。
それからの事は良く覚えていない。
後に帝国は敗北し、その後大きく変わったのだと聞かされたが、もうあまり興味が引かれなかったしいまいち理解出来なかった。
ティナは手厚く葬られたらしく、わたしの手元には彼女から送られた首飾りだけが残った。
彼女が最期に関わった作戦上、彼女の存在は秘匿されたし、彼女はわたしと同じく孤児院出身の為遺族もいない。
だからこの首飾りだけが唯一彼女が確かに存在した証だった。
あの日から、もう自分の体が自分のものでは無いかのように制御出来ない。
何もしたくなかったし、何も考えたくなかった。
一応毎日執務室に顔は出していたが仕事もまるで手につかず、周りが気を利かせてわたしに仕事を割り振らなかったのもあるのだろうが、結局何もせずただただ無為に日々を過ごした。
これではまるで自分が最も嫌う、感情に支配され非生産的な行動を取る無能の愚か者だと、そう自分の中で喚く声もあったが、それでも今の無気力に抗う事が出来なかった。
しかしとうとうあまりの怠惰を見かねたのか、ゼートゥーア閣下から呼び出しを受ける事になった。
「中佐、しばらく休養してはどうだ?確かに貴官のこれまでの功績を考えると軍としては惜しいのだが、しかし最近の様子を見ているとどうもな……」
「……申し訳ありません」
「いや貴官の事情も理解しているつもりだ。責めるつもりは無いが、しかし貴官はまだ若いのだし何もこれ以上軍にこだわる必要も無いだろう。無論無理強いするものでは無いが、ゆっくり休んで、それからまた次の身の振り方を考えるのも悪くは無いだろう?」
「…………そう、ですね。……そうします」
「……そうか。何、諸々の雑事はこちらで何とかしておこう。せめてもの労いだ。貴官は何も気にせずとも良い」
「……ありがとう、ございます」
ゼートゥーア閣下は出来るだけ優しい言い方をされていたが、前世で散々同じ事をして来た自分には即座に理解出来た。
これは、いわゆる首切り宣言だ。
それはそうだろう。
自分のような何もせずただ無気力なだけの者など、自分が同じ立場なら即座に首にする。
ここまで待ってくれたのは、やはり閣下の温情なのだろう。
しかしようやく戦争が終わり、ようやく危険な目に合わずに勤務出来るようになったのだ。
これからこそが自分が待ち望んでいた日々だし、それを捨てるなど論外だろう。
そうは思ったが、しかしやはりそんな自分の意志とは無関係に、わたしは閣下のお言葉に頷いていた。
わたしが承諾したのを確認すると、閣下は少しだけ眉間の皺を緩めた。
きっとここでわたしが騒ぎ立てるのを心配されていたのだろう。
わたしがかつて解雇を宣告した者達は例外無く不服を申し立てていたし、わたしとしても普通なら納得出来なかっただろう。
しかし今のわたしの状態では免職も無理からぬ事ではあるし、何より閣下や周りの者達に迷惑を掛け続ける訳にはいかない。
そうしてわたし、ターニャ・デグレチャフは軍を辞めた。
一応退役軍人として扱われるらしく、僅かばかりの補償と支援は受けられるらしい。
しかしこれで本当に何もする事が無くなってしまった。
ただ無為な日々を過ごす事に意味はあるのだろうか。
今のわたしを見たら、彼女は何と言うだろうか。
こんなわたしに生きている意味はあるのだろうか。
荷物を纏める為に自室に戻ったターニャだったが、ふとティナの首飾りが目に入った。
そう言えば、これは孤児院のシスターに貰ったと言っていたな。
そのシスターはティナにとても親身であったらしく、ティナも本当の親のように慕っていたようだ。
それならば、この首飾りはシスター返した方が良いだろう。
確かにティナの形見だが、だからと言って自分が持っていても仕方が無いし、最早宝珠を持ち歩く事も無くなった以上使い道も無い。
とにかく、少なくともティナの死くらいは伝えた方が良いだろう。
そう思い至ったターニャは、久し振りに生まれ育った孤児院に帰る事にしたのだった。
六年前、ティナと共に歩いた道をターニャは一人歩いて行く。
二度と戻る事は無いと思っていた孤児院を目指す。
あの時は、ティナが自分にとってこんなに大切な存在となるなんて思いもしなかった。
一歩進むごとに彼女との日々が、思い出が蘇るようで、何度も足が止まりそうになる。
かつてこの道を歩いた時よりも、今の自分は背も伸びたし、体力も付いた。
しかしゆっくりと進む道のりは、あの時と同じか、それ以上の時間を必要とした。
それでもその道のりにも終わりが訪れる。
目当ての孤児院は、あの時と変わらぬ姿で静かに佇んでいた。
しかし想定よりも遅い時間の到着となってしまった。
あまり遅い時間に訪ねても迷惑だろうし日を改めるべきかと思っていた所、孤児院の扉が開いて中から一人のシスターが出て来た。
記憶にあるより少し老けているが、間違い無い。
彼女こそティナの慕っていたシスターだ。
「おや、こんな時間にどうかしましたか?……あなたもしかして、ターニャ?」
「……ご無沙汰しております」
「驚きました。本当にお久し振りですね。あ、どうぞ中に入って下さい。ここに、用があったのでしょう?」
そう言うシスターに招かれ中へと足を踏み入れる。
流石にこの時間では子供達が眠っている為あまり騒ぐ訳にはいかず、シスターの私室に招かれる事になった。
「何のおもてなしも出来ないので、申し訳無いのですけれど」
「いえ、いきなり押し掛けたのはこちらです。お気になさらず」
「ふふ、それにしても随分立派になりましたね。……それで本日はどの様なご用でこちらにいらしたのですか?」
そう穏やかに微笑むシスターは、なるほど確かにどことなくティナに雰囲気が似ている気がした。
そんなシスターの雰囲気にも促され、ターニャはゆっくりとティナとの思い出を話し始めたのだった。
一緒に軍に入ってから、一緒に訓練した事。
同じ部隊になり共に戦場を駆けた事。
いつも一生懸命だったが、彼女はあまり軍人らしくは無かった事。
でも良く笑う彼女は、皆から慕われていた事。
最初は彼女の事が良く分からなかったが、いつからかとても信頼するようになっていた事。
沢山守って貰った事。
沢山助けて貰った事。
そしてそれ以外にも沢山の大切な日々を貰った事。
だけどそんな彼女が、自分の代わりに死んでしまった事。
ゆっくりと一つ一つを噛み締めながら説明するターニャの言葉を、しかしシスターは最後まで静かに聞いていた。
そうしてターニャが話し終えると同時に、シスターはターニャを優しく抱き締めた。
「何……を……?」
「大丈夫、大丈夫ですよ。あなたが悪い訳ではありません。だからそんなに自分を責めないで」
「……わたしは平気ですよ」
「ここにはわたししかいません。だから我慢しなくて良いのですよ。悲しい時は泣いても良いのです。ティナはきっと、あなたが辛い思いをする事は望んで無いのですよ」
確かにティナの死は悲しかったが、しかし今まで泣く事は無かったのだ。
だがそれは無意識に抑え込んでいたのだろうか。
何も感じ無いように、我慢していたのだろうか。
しかしそのシスターの言葉は、まるでティナにそう言われたような気がして。
ターニャは思わず熱いものが頬を伝うのを感じていた。
その後、ターニャが軍を辞めて暇になった事を知ったシスターの勧めで、ターニャはしばらく孤児院で手伝いをする事になった。
「このままではあの子も喜びませんよ。少しずつでも良いから、何かやってみませんか?」
そうシスターに言われては拒否出来なかった。
と言うかシスターの言葉は、まるでティナに諭されているような気がしてしまい、ターニャとしては否定し辛いものがあった。
流石に正式に宣誓をしてシスターとなった訳では無いが、それでも彼女達と同じように働いた。
ちなみに首飾りはまだわたしが持っている。
シスターに返そうとしたのだが、
「ターニャが持っていて下さい。その方がきっとあの子も喜びます」
と言われてしまったのだ。
まあシスターがそれで良いのならターニャとしてはそれ以上とやかく言う必要も無かったので、そのまま手元にあると言う訳だ。
かつてはあんなに嫌だった孤児院での日々は、それでも今のターニャにとっては有り難く感じられた。
ティナがいなくなったあの日からずっと続いていた喪失感が完全に消える事は無かったが、それでも少しずつ気持ちが落ち着いて行くのを感じていた。
このままここで生活して行くのも悪くは無いかも知れない。
ターニャはそんな事を考えていた。
帝国が敗戦し新たに連邦共和国と名を変えてから多くの時が流れた今、ヴィーシャは未だ軍人として祖国の再建に尽力していた。
それ所かかつての上官が退役してからと言うもの、何故かゼートゥーア閣下から様々な便宜を図って頂き、今では軍の中枢に名を連ねる事を許される身となった。
しかし軍を去ってしまったターニャのその後の足取りが分からず、ヴィーシャはずっと気掛かりであった。
本当にある日突然ふらりといなくなり、お別れも言えず終いだったのだ。
それにティナが亡くなってからのターニャの様子は見ていられないほどのものだったし、ヴィーシャもターニャは本当にいなくなってしまったのではないかとすら思わされた。
しかしつい先日、ヴァイス大佐からターニャの居場所が判明したと教えられた。
どうやら生まれ育った孤児院に戻っていたようだった。
その安否が判明し少し安心したヴィーシャだったが、今度は居場所を知ってしまうとどうにも気になって仕方が無かった。
とうとうヴィーシャは休暇を願い出て、ターニャの下を訪ねる事にしたのだった。
ヴァイスから聞いた情報を基にたどり着いたそこは、確かに所々傷んではいるものの、思っていたよりもかなり立派な建物だった。
ターニャやティナから昔聞かされた貧しい生活のイメージとは少し違うその佇まいに、ヴィーシャは少し驚いていた。
しかし本来の目的はそれでは無い。
ヴィーシャはすぐに気を取り直し、近くにいたシスターらしき人物の一人に声を掛ける。
「あの、すみません」
「はい、どうかされましたか?」
「ここに、ターニャ・デグレチャフと言う方がいらっしゃると聞いて来たのですが」
「あら、ターニャさんのお知り合いですか?彼女なら今は教会にいると思いますよ」
「教会?」
シスターに促された方を見れば、なるほど隣接するように建てられたら教会らしき建物が見える。
ヴィーシャはシスターお礼を言うと、教会に向かって歩きだした。
教会の扉を開き中に入ったヴィーシャだが、その薄暗さに目が眩んでしまい良く見えない。
一方で中にいた人物はこちらに気付いたようで声を掛けられる。
「こんにちは。あなたもお祈りにいらしたのですか?」
柔らかながら、どこか芯の強さを感じられる女性の声。
その声はゆっくりとこちらに近付いて来ているようだ。
「あ、いえ、わたしは人探しに……」
「そうでしたか。どのような方でしょうか?」
「それは……」
声の感じからどうやら目の前まで来ていたようだ。
ヴィーシャはようやく戻って来た視界でその人物を捉える。
先ほど掛けられた声は記憶のものより低い。
背もかなり伸びて、もう立派な一人の女性だ。
しかしその髪や目元に僅かな面影がある。
間違い無い、彼女こそヴィーシャの探し人だった。
「……お久し振りです、デグレチャフ中佐殿」
その女性はわたしの言葉に怪訝そうな顔をしていたが、しばらくわたしの顔を見詰めるとふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「……懐かしいな。セレブリャコーフ、中佐になったのだな。……どうだ、良ければ少しわたしと話をしないか?」
「は、はい。もちろんです!」
「そうか、ありがとう」
そうしてヴィーシャはターニャと別れてからのお互いの事、今の連邦共和国の事、そしてかつての仲間の事などを語り合った。
久し振りに会ったターニャは、しかしかつてに比べかなり穏やかな雰囲気となっていた。
それは少しだけ彼女の友人を思い起こさせるもので、ヴィーシャは嬉しいような切ないような、良く分からない気持ちになったのだった。
久し振りと言うにもあまりに長い時を経た二人の話は尽きる事が無く、しかしそれを語り尽くすにはあまりに時間が足りなかった。
「……もうこんな時間か。すまないな。忙しい身だろうに引き止めてしまって」
「いえ、わたしから望んだ事ですので。……あの、またここに来ても良いですか?」
「ああ、もちろんだ。いつでも待っている。気が向いたらまた会いに来てくれ。そして良ければまた話に付き合ってくれ」
「はい、必ず!」
そうして次の休暇にはちゃんと連絡をしてから、また必ず来る事を約束したヴィーシャは名残を惜しみながらもターニャとお別れしたのだった。
「ふぅ……」
ヴィーシャが去った後の教会で、ターニャは椅子に腰掛け息を吐いていた。
最近は何となくずっと身体の調子が良くない気がする。
若い頃に無理をし過ぎた影響か、それとも精神的な物だろうか。
魔導師は頑丈である事で有名なはずなのだがな、とターニャは自分の現状を省みて苦笑する。
それにしても。
今日は特に身体が重く感じる。
懐かしい顔に、柄にもなく気分が高揚したのだろうか。
いや偶にはそれも良いだろう。
窓から差し込む日差しに身を委ねながら、ターニャは先程までの時間を噛み締めるようにゆっくりと目を閉じた。
ターニャの下を訪れた数日後、いつも通り軍務に励んでいたヴィーシャの下をヴァイスが訪れた。
「やあ、ヴィーシャ。デグレチャフ中佐殿に会いにいったのだってな」
「はい、お元気そうで安心しました」
「そうか……。それならば尚更、非常に言い難いんだが、……中佐殿が亡くなられたそうだ」
「え、ど、どう言う事ですか!?理由は?」
「何でも病気だったそうだ。詳しくは今調べている」
「そんな……。でもわたしがお会いした時はあんなに元気だったのに……」
「推測に過ぎんが、もしかしたら君の前だったからかも知れんな。中佐殿は、我々に弱味を見せない方だったからな……。しかし本当に自分より若い者ばかり先に逝くのは参るな。ヴィーシャ、君は私より先に死んでくれるなよ?」
「……亡くなられたのはわたしのかつての上官ばかりです。ヴァイス大佐、あなたもその中に含まれていますので、どうかお気を付け下さいね?」
「なるほどな、これは一本取られたようだ」
ヴァイスなりの慰めだろう言葉にヴィーシャが皮肉を返せば、ヴァイスは違いないと軽く笑って戻っていった。
確かに病死であればヴィーシャにはどうしようも無いだろう。
しかしターニャはあの時それを知っていたのだろうか。
それなら何故再び会う約束などしたのだろうか。
もうそれを確かめる術は無くなってしまったが、ただそれでも約束を果たす事が出来なくなってしまった事だけが、ヴィーシャにとって僅かな心残りとなったのだった。
ふと誰かの気配感じ、僅かに目を開く。
どうやら少し眠ってしまったようだ。
いつからいたのだろうか、傍らには誰かの立つ陰。
しかしその顔は、逆光になってしまって良く見えなかった。
正体も分からない人物が近くにいる事に、いつもだったら間違い無く警戒する。
しかし今は何故だか警戒心も不快感も感じなかった。
まだ夢でも見てるのだろうか。
ぼんやりとそんな事を考えながら眺めていると、こちらの視線に気付いたのかその誰かがふわりと笑った気がした。
何となく懐かしい気配がした。
その瞬間、何かがすとんと心の中に収まった気がした。
ずっと足りなかった何か。
いつかに失ってしまったはずのそれ。
あぁ……。そうか……。
夢か現実かも定かではない。
いや現実では有り得ないから、やはり夢なのだろう。
しかしそれでも構わなかった。
例え夢でも、この満たされた心は確かに今こうして感じるのだから。
そんな事を考えながら、光に溶けて行く様に意識は消えて行った。