シムルグの雛鳥   作:時雨オオカミ

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逃がさない

 無事音楽室から出ることができた二人は、すぐそばの第二美術室へと足を踏み入れた。

 いろはからすればつい先刻までいた場所のはずなのだが、道中様々なことがあったせいか美術室というだけでほっと安堵している。

 

 勿論描きかけのキャンバスには布が掛けられて見えないようにされているし、ペンキの缶が転がってできた赤い文字もそのままになっている…… と思っていろはが文字を覗いたのだが、その顔が曇ったことでそうではないことが分かるだろう。

 ナヴィドは扉の付近で番をしていたが、彼女の変化にいち早く気がつくと、その場から動かず 「どうしたんだい?」 と心配気に言った。

 

「いえ…… その、出るときはこの文字が〝 かえさない 〟だったはずなんですけど、〝 にがさない 〟に変化しているみたいでおかしいな、って」

「それは確かにおかしいね」

 

 赤い血文字にも見えるペンキは、確かに平仮名で〝 にがさない 〟と書いてあるようだった。

 どう頑張っても文字が流れたで済まない変化である。

 

「これは、またなにかあると思った方がいいのでしょうか?」

「さあどうだろう。気をつけることぐらいしかできないから、あんまり深く考えない方がいいんじゃないかな。いざとなったら私が守るし、ね」

「…… はあ、ありがとうございます」

 

 薄い反応を返し、いろははそのまま自分の受け持った机へと歩み寄って道具を回収していく。

 その際には刃こぼれした自身のカッターナイフを見つけ、どうしようか迷った挙句に長い時間替えの刃を探していた。

 新品のスケッチブックは緊急事態、ということで教材の中から拝借することにしたようだ。

 

「これで大丈夫です…… 次はどうしましょうか」

「とりあえず校舎内を回ってみないことにはどうにもならないね」

 

 そう会話していろはが廊下に出ると、途端に周囲の状況が一変した。

 

「空が…… 赤い?」

 

 廊下はひんやりと冷たい空気が漂い、照明が覚束なくなり、窓から見た景色は上から覗いたアクアリウムではなく血の池地獄に。

 そして、真っ赤な空にポツリポツリとと現れた黒い点は段々と大きくなり、一メートルはある巨大な姿で飛翔して来るのだ。

 

「イ…… マ…… イツ…………」

 

 恐ろしく低い男の声と、甲高い女の声が合わさったような不安定な声色で巨大な〝 鳥のようなモノ 〟が言う。

 それを見て非常に心苦しそうな顔をしたナヴィドが 「なんてことだ……」 と呟いた。

 

「先生、早く逃げよう」

 

 痛まし気にそれを見つめる彼を、目を伏せたいろはが袖を引っ張り誘導するように走り出す。

 普段付随するはずの敬語もどこかへとやってしまったようで、珍しく焦った様子の彼女はこれでもかと彼を急かした。

 

「哀れだな……」

 

 悲しげなナヴィドはそのまま走り出す。

 いろはがすぐ近くまで寄ってきた鳥の姿を横目で見ると、どうやらその鳥の姿は大量の人間が形作っているようだった。

 まるで出来の悪いコラージュ作品を見たときのような、不気味で混ざり合ったその姿。それを認識してからはとても鳥の姿には見えず、醜悪なものとして彼女の瞳には映った。

 しかし、ナヴィドはそれを知ってか知らずか、終始哀れむような目元を変えることなく走り続ける。

 

「…… っ、西階段がない!」

「ほら、走り続けないと…… !」

 

 上がってきた西階段が消失し、動揺して立ち止まりそうになった彼女の手を、今度はナヴィドがしっかりと握って誘導した。

 しかしタイムロスをしたせいか、背後で窓硝子の割られる音が盛大に響き、バサバサと重苦しい音が立てられる。

 その度に末端の人間だったものは、ゴムのように弾力のある状態で廊下のあちこちにぶつかり鈍い音を立てた。

 

「先生、おかしい。廊下に終わりが見えない」

「…… そう、だね」

 

 そうこうしているうちに二人の行く先に割れた窓硝子が現れ、それが二度、三度と続けば誰だって気がつくだろう。

 

「ループしてるね」

「ええ……」

 

 このままでは不毛である。

 イタチごっこも片や人間、片や人間以外と来ればどちらに勝機がやってくるかなどすぐに分かることだろう。

 この鬼ごっこの終わりは来ない。そう判断したいろはは腕に抱えたスケッチブックをぎゅっと抱きしめ、ナヴィドの手を離す。

 

「ちょっと、いろはちゃん!」

「……」

 

 いろはにつられて止まったナヴィドが振り返ると、少々動きが遅いらしい鳥は、見た目だけは優雅に羽ばたきながらも彼らから大分引き離されている。

 だが、引き離しているとは言っても、彼らのところに来るまでは30秒と持たないだろう。

 

「…… っこんなんじゃ、間に合わない!」

 

 一心不乱にスケッチブックのページに鉛筆を走らせているいろはは、側から見れば気でも狂ったのかと思う行動をしていた。

 スケッチブックには、巨大な鳥の姿が描かれている。

 

「それに、顔が分からないと似顔絵の意味がないっ」

 

 筆に迷いを見せるいろは。

 その間にどんどん近づいて来ている鳥が奇怪な鳴き声を上げる。

 

「いろはちゃん、抱えられながらでも描けるかい?」

「え…… ?」

 

 ゴツゴツとぶつかる翼を動かしづらそうにしながら鳥が迫る。

 そんな鳥から引き離すようにいろはの手を掴み、引っ張って行くナヴィドが振り返らずに言った。

 その言葉に怒られるとでも思っていたのか、いろはは意外そうにしながら疑問の声を上げた。

 

「キミのこと、隠れ猟奇マニアだって言う人もいたらしいね」

「……」

「なんでもスケッチブックいっぱいに死体のような恐ろしい絵ばっかり描いてるとか、たとえば鳩だったら、数え切れないほど一羽ずつ特徴の違う死骸を描いてるとかさ」

「……」

 

 茶化すような軽い口調だが、ナヴィドは至って真剣に語りかけている。それは彼女にも伝わっているようで、あえて沈黙を貫き通していた。なぜなら、それは知られてはいけないことだったからだ。知ってもらいたくないことだったからだ。

 

( そうだ…… 一度だけ先生にも見られたことがあった。怖かったけど、でも…… だからこそ、わたしは…… )

 

 いろはは走りながらぎゅっと目を瞑り、繋いでいない側の手で自身の頬を叩いた。

 

( 言いたいことは、たくさんある。けど、今はそれよりこれをどうにかしないと )

 

 首を振って彼女は、とても珍しく意志の篭った声色で真っ直ぐと言い放った。

 

「先生、わたしを後ろ向きに俵担ぎをして走れますか? 無茶を言っているのは分かっています。お願いします……」

 

 その応えを聴いたナヴィドはにっこりと笑い、 「もちろん、やってみせるさ」 と自信を持って宣言した。

 

「さあいくよ!」

「はい!」

 

 走る彼女の手を引き寄せ、ナヴィドが振り返る。

 そして素早く抱き上げる。俵担ぎでは腹が苦しくなってしまいがちだ。表情を歪めたいろはは 「ふっ」 と息を吐くと、そのまま緩やかになったスピードを上げるナヴィドに身を任せた。

 

「苦しくないかい?」

「これくらいなんとかなります…… だから、アレはわたしがなんとかしてみせます」

 

 自信を持って宣言する彼女に、ナヴィドは息一つ乱さずくすりと笑った。

 

「頼もしい限りだよ。なら、キミのことは私が守り切ってみせようじゃないか!」

「はい…… !」

 

 ガガガ、と天井を削りながら肉厚な翼を振るう鳥は遠からず近からずの場所まで引き離されている。

 ナヴィドの肩の上でスケッチブックを開き、いろはは鉛筆を走らせる。

 

( 描きづらい…… けど、これしか方法はない…… ! )

 

 揺れる中、素早く走らされる鉛筆がしっかりと鳥の顔にくっついた人間を描いて行く。

 

( 顔を描かないと意味がない…… 全体を一気に見送ることはできない…… 一人一人、どうにかするしかない…… ! )

 

 いろはが最後に顔を入れ、そのページを破く。

 

「まず、一人目!」

 

 胸ポケットに入れていたカッターナイフを描いた絵に振りかざす。

 ビリビリ、と縦に裂けた紙に合わせるように、鳥に付いていた霊の一人が菊の花となって散り、その花弁はまるで喜ぶように窓ガラスをすり抜け、空に向かって行った。

 

( 夜空に戻ったけれど…… 一瞬だけか )

 

 花弁が空に吸い込まれるようにして消えて行く。

 その一瞬だけは、地獄のような赤い空が群青色の夜空へと変化していた。それに気がついたナヴィドは、肩に乗せたいろはの集中を乱さぬように声を出さずに走る。

 

「次!」

 

 ザア、と今度は紫苑の花が散った。

 

「次!」

 

 そしてどんどん描くスピードが上がり、鳥を構成している霊達は花となって空に還っていく。

 その花の種類は様々で、エーデルワイス、カランコエ、白百合、レンギョウ、白い朝顔、スイートピー、パンジー、そして勿忘草……とその魂を花弁に変えて去って行くのだ。

 

「先生、ごめんなさい。ちょっと順番間違えたかも」

「スピードが上がってる…… 軽くなったからか」

 

 重たいせいでゆっくりだった羽ばたきが、幾人か余計な部分が削がれて素早くなっている。それ故に鳥のスピードも上がり、ナヴィドを追う速さが上がる。

 

「大丈夫さ」

 

 それでも息を乱さないナヴィドは笑ってみせる。

 抱えられているいろはには見えないが、雰囲気で察したのだろう。 彼女は「頼りにしています」 と返事をした。

 

「機動力が高いのなら……」

 

 彼女が描くのは翼を形作っている霊達。

 数が少なくなったために全体像をしっかり捉え、顔を同時に描ける形をしているため一気に始末しに行った。

 

「落ちろ!」

 

 ドサリ、片翼を失い落下した物体がズリズリと体を引きずる。

 もはや形が崩れて鳥のシルエットにすらならないそれらをいろはが描き切る。

 全ての霊が花と散ったとき、途端に黒い霧となって窓の外へと立ち上り…… そして最初に見えていたもう一つの点に重なった。

 

「嫌な予感がします…… 先生、まだ走れますか?」

「ああ、心配しなくても大丈夫だよ」

 

 先程までの鳥はまだ人のような声をしていたが、今度の鳥は金属音のような、耳障りな鳴き声を上げて窓に突っ込んで来る。

 巨大なそれは校舎に窓から入ることができないようで、クチバシを模した部分だけを窓から校舎に突っ込んで奇襲してきているようだった。

 

「おっと、揺れるね」

 

 いろははスケッチブックを使い切るような勢いで描いては裂いてを繰り返しているが、また新たに黒い点が浮かび上がって来る。

 

「キリがない…… !」

「ん?」

 

 上手く鳥の攻撃を回避しながら進んでいたナヴィドだったが、突然なにかに気がつくと立ち止まった。

 

「先生、危ないよ…… !」

「……」

 

 タイミングを計って鳥のクチバシを避け、彼はその先にある壁を見る。

 今まで鳥は一定のタイミングで飛び込んで来ていたのだが、この場所に留まっているとどうやら連続で突っ込んで来るらしい。そう判断した彼は散らされる花を追って気がついた。

 

「この花、空に還ってないね」

 

 三回に一回、必ず反対側の壁に刺さるほどの突きを繰り出して来る巨大な鳥。そして連続で攻撃してきている廊下。どこかへ消える花弁。

 なにかある、と思うのには十分な証拠だった。

 

「次!」

 

 黄色い小ぶりの花が散る。

 そして、それは空ではなくナヴィドの真後ろに当たる壁に吸い込まれて消えて行く。

 もうここまで来れば分かってしまう。

 

「先生、先生早く避けて!」

「大丈夫、よくひきつけて……」

 

 鳥が大きく振りかぶる。

 

「今だね!」

 

 一層強い揺れが二人を襲った。

 ナヴィドがひらりと避けた場所には鳥のクチバシが見事に刺さり、今まではどれだけ突撃されても崩れなかった壁に穴が空いていた。

 その先は見覚えのある景色が広がっている。それが東階段だと直感的にいろはには分かった。

 壁の横には青い文字で〝通行はお一人様のみ〟と書かれており、入り口付近には下が刃物になっているシャッター。二人で通ったらどうなるかは、すぐに想像がつくだろう。

 

「先生、いくら描いても還らない人がいるの。きっとその人の遺体があの穴の中にある…… と思う。それを捜して、目の前で紙を裂かないと意味がない」

「分かった。じゃあいろはちゃんが見に行くことになるのかな……」

「はい」

 

 穴の中は鳥の襲撃が届かないようだ。しかし、必然的に残される方は鳥から逃げ惑うしかない。

 走りながら何回も通りすぎる穴に目をやり、ナヴィドは心配そうな声色を出すが、いろはは既に穴の中に入る気だ。

 

( 渡す時間はない…… か。まさか私がこんなに心配することになるとはね )

 

 無言で穴の前に立ち、いろはを下ろす。

 

「ちゃんと立てる? 痺れてないかい?」

「そんな親みたいに心配しなくても大丈夫ですよ」

「今は私がキミの保護者だからね」

「ふふ、そうかもしれないですね」

 

 そんな会話の後、素早くいろはが穴の中に潜り込んで潜入する。

 

「いってらっしゃい」

 

 背中にかけられた言葉に、頬を染めて照れたいろはが 「行ってきます……」 とか細い声で応えた。

 

( 本当に、親がいるみたい…… )

 

 久しく感じていなかった温もりに彼女はそっと、嬉しそうに笑った。

 

「さて、こっちはいろはちゃんが帰って来るまで逃げなくちゃね……」

 

 ナヴィドが振り返ると、そこには既にクチバシが迫っていた。

 しかし、クチバシの先端部にある頭蓋を掴み、彼は横の壁に受け流す。

 霊達は重量こそ感じさせる動きをしているが、空気に透けるように透明で、本来は人間が霊体を掴むことなどできないのは分かるだろう。

 だが、現に彼は〝 それ 〟を掴んでいた。

 そして、鳥の背後に目線をやって彼は言う。

 

「さあて…… 哀れな者を利用し、鳥の姿を騙ったお前は誰だ?」

 

 怒りを感じさせるその言葉は、いろはに届くことはない。

 

 

 

 

 

××× ×××

 

 

 

 

 

「嫌な感じ…… なんだか、台風が来る前みたいに湿ってる気がする……」

 

 生暖かい空気は人を不快にさせるものだ。

 湿気が混ざったその空気はどんよりと淀んだように階段に漂っていた。

 そこをいろはが一段一段降りながら見回して行く。必ずそこに、事の原因があるのだと。

 

「はあ、それにしても…… 知られちゃった」

 

 悩ましげにいろはが言う。

 スケッチブックを撫でる手は優しく、そして柔らかい。

 

「あのお姉さんに知られちゃ駄目って言われていたけど、先生ならいいかな……」

 

 彼女の脳裏に蘇るのは中学生の時分、自身の誕生日に亡くなった両親。そして病院で憧れの人物に出会った後、公園で会った女性だ。

 ブランコを頼りなく漕いで、落ち込んでいた人。可哀想な人。いろはが変わるきっかけとなった大切な思い出だった。

 

「先生に言おう…… きっと、先生なら分かってくれるよね…… ?」

 

 僅かな期待と不安を胸に抱くが、まずはこの現象を収束させることが大切だと首を振る。

 

「ここも、階段に終わりが見えない……」

 

 彼女は考えている間ずっと階段を降りていたのだが、一向に終わりは見えない。しかし、上に戻ろうとすればすぐにでも穴の空いた部分に戻ることができるようだった。

 

( 階段で有名な七不思議と言ったら、ええと、いち、に、さん…… )

 

 穴の部分から下りるごとに数を数え、十三を超えた辺りで彼女は何を思ったのか引き返す。

 

( いくら下っても登るときは十三段……なら、十三段目か、一段目になにかがあるのかな? )

 

 一番上の段、不吉と呼ばれる十三段目で彼女は壁に触れてみる。

 すると、そこから黒い腕が伸びてきたのだ。それは美術室に向かう前、東階段の下で見たものと同じであるように見えた。

 

( あれ、でもこの人…… 怖くない )

 

 黒い腕はうねうねと動きながら黄色い花弁を手のひらに乗せ、握ったり開いたりを繰り返している。

 最初は驚いて後退した彼女だが、今度は黒い腕に自ら手を差し出し、掴まった。

 途端に壁の中へと引き込まれて行くが、いろはは苦しむこともなくずぶずぶと沈んで行く。危ない目に遭うことなど微塵にも思っていない表情で、彼女は壁の中に招待されたのだ。

 

「ここは……」

 

 そこは小部屋だった。

 柱のようなものの中に作られた小さな空間で、平均身長より幾分か低いいろはでも身を屈めなければならない程の場所だ。そう、まるで箱の中のような、そんな場所だ。

 

「そう、人柱なんだ。だから見つけて欲しくて、以津真天(イツマデ)になって追って来たんだね…… でも、他の人も巻き込んでいた。あなたはもう天国にも冥界にも行けないでしょう」

 

 その場に横たわる骸骨はありもしない涙を流す。しかし、それは真摯な思いだといろはには伝わった。本人はなんとなくで読み取ったものでしかないが、どうやら的を射ている解答のようである。

 

「こんなにも恨むつもりはなかった…… のかな? じゃあ、なんで…… そう、分からないの…… やっぱり、今の学校は変だな。いつもはあんなに動物霊(ハト)がいたりしないのに…… おかしくなっている」

 

 水没したスケッチブックに描かれていたのは死に至る致命傷を持った鳩達の絵だ。窓を開けたのは逃がすためではない。あるべきところへ還すのに一番手っ取り早い行為だったからだ。窓、いや扉という形で行く先を示していただけに過ぎない。

 保健室ではナヴィドが準備をしている間、そして会話をしている間ずっといろはは金魚達の絵を描き続けていた。

 窓から保健室を出たとき、最初よりも校庭の金魚が減っていたのは彼女が描いていたからなのだ。

 

「とにかく…… 今まで誰一人としてやらなかったお見送りを、わたしがしましょう。本来のあなたは害意がないみたいだし」

 

 そう言って座り込むいろは。

 のんびりとスケッチブックを用意し、随分とすり減ってしまった鉛筆を少々カッターナイフで削ってから白紙のページに走らせる。

 描くのは目の前の骸骨。傷や古さなどを正確に描き、濃淡で色をつけていくことも忘れない。

 逃げながら描いた絵とは比べものにならないくらい慎重に、丁寧に、ただ無事行くべき所へ向かえるようにと想いを込めながら。

 

( たとえ、行くべき場所が地獄であったとしても…… それでも行かなくちゃならない。だからわたしは現実を直視させて、あの世に行けるための(よすが)を作る…… )

 

 人は自分の死体を見たとき、または発見されたとき初めて自分が死んだことを悟るのだという。では、見つけられなかった者はどうなるのか?

 それは簡単だ。見つからない遺体は人々の噂を生み、そして噂が大きくなっていって本人の霊に影響を与えてしまう。所謂妖怪が生み出されるプロセスと同じことである。

 彼は妖怪にはなっていないが、随分と長い間苦しんでいたようだった。奇妙な死と噂は魂の安らぎさえも奪ってしまうのである。

 

「どうか、あなたが来世は幸せでありますように…… ここに、わたしが見送りましょう」

 

 描いた絵を骸骨に見えるように掲げ、そして切り裂いた。

 すると不思議なことに骸骨から抜け出た白い塊が切り裂いた筈の紙を持ってくるくると回った。

 天井に消えていくそれを見送り、黙祷したいろははふと、足元に咲いている一輪の花に気がつく。

 すぐ幻のように消えて言ってしまったが、それはまるで感謝を告げるようで、彼女は表情を和らげて微笑んだ。

 そして間も無く、小部屋はどこもかしこも同じく花弁となって消えて行く。

 嵐のような花弁は不思議といろはに張り付くこともなく、彼女を襲うわけでもなく、膨大な数の花吹雪に目を細め、次に彼女が目を開けた時には既に元の廊下にいた。

 

「あ……」

「おや…… 良かった、無事だったんだね。鳥が突然花になったからびっくりしたよ」

「先生…… !」

 

 たたたっ、と彼に走り寄ってエプロンをぎゅっと握るいろは。

 抱きつくのはさすがに恥ずかしいのか、ナヴィドのエプロンに顔を埋めて彼女は全身で喜びを表していた。

 …… ただ、相変わらず声は無機質なままだったが。

 鳥に追われているときは感情豊かに話していたので、ナヴィドは少し残念に思っていることだろう。

 

「先生、話を聴いてくれますか…… ?」

 

 スケッチブックをぎゅっと握った彼女の手は鉛筆の色が移り真っ黒で、立派な画家の手をしていた。

 

 彼の返事は、言うまでもない。

 

 

 

 




 *花言葉

エーデルワイス 大切な思い出
カランコエ たくさんの小さな思い出
レンギョウ 達せられた希望
菊 清浄・私を信じてください
紫苑 遠い人を思う
スイートピー 優しい思い出・私を覚えていて
白い朝顔 喜び溢れる
パンジー 私を想ってください
勿忘草 私を忘れないで

 なんとなく弔いになりそうな、霊達が思っていそうな言葉を花言葉にして表現。
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