シムルグの雛鳥   作:時雨オオカミ

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 これにて最終話。



羽根を掴んで

 

 いろはが目を覚ますと、そこは見知らぬ場所…… ということもなく、とても見知った場所であった。

 

「孤児院…… でも」

 

 そこは彼女が中学生のときからお世話になっている孤児院の敷地内だった。しかし、その雰囲気は明らかに異なっていた。

 いろはが地面から起き上がり、頭上を見上げるとそこには桜の木がある。孤児院の庭にも桜や椛はあるので相違ないのだが、その〝 色 〟が問題だった。

 

「黒い…… 桜……」

 

 見知った孤児院の景色は全て白と黒の色のない影のような世界に変貌していたのだ。

 彼女はもちろん、自分自身が影の津波に飲み込まれてしまったことを覚えていた。だからこそ、冷静にその場所を眺められる余裕があったのだ。普通ならパニックに陥ってもおかしくない状況だが、生憎と彼女はこの手の怪奇現象に呆れ返るほど慣れきってしまっている。

 今更怪異に攫われても慌てるような気概は持ち合わせていないのだ。

 

「そうだ、羽根…… よかった。ちゃんとある」

 

 いろはは己のヘアバンドがなくなっていないことに安堵し、そして耳の横で揺れる羽根がまだそこにあることを確認して立ち上がった。

 

「みんな、ちゃんとある……」

 

 制服のポケットに入れているコンパクトミラーも、カッターナイフもきちんとあるべきところにあることを確認し、彼女はさっさと歩き始めた。

 

「火をつけるもの、あるかな……」

 

 はたから見れば少々物騒なことを言いながら彼女は孤児院の中に入る。

 しかしながら、孤児院の中には誰もいないので彼女のその発言を注意するものなど、当然ながらいないのだった。

 

 暫く進むと、ふといろはは立ち止まった。

 ぱちり、パチリと、なにかが跳ねる音が聞こえてきたからだ。

 

「こんなに火はいらない……」

 

 珍しく表情を引きつらせて彼女は反射的に踵を返す。

 キッチンのある方から着々と火が漏れ出てきているのだ。

 彼女の顔色は青く、火を恐れているように見える。火事に対してトラウマめいたものがあるように、羽根のことも忘れていろはは走った。

 

「確か…… あのときも…… こんな感じで、逃げてた……」

 

 彼女が思い浮かべるのは孤児院に入るきっかけとなった事件。

 重い病気で入院していた彼女を襲った悲劇だった。

 父母か見舞いに訪れたその日、彼女は見知らぬ場所で目を覚ました。

 

( そう、ちょうどこんな風に…… 周りは焼けていた )

 

 

 

 

 

××× ×××

 

 

 

 

 

 その日、彼女が目を覚ますと他にも大勢の患者が床に寝かせられていた。そして周りは焼け爛れ重い音を立てながら真っ白で大きなイモムシのような…… バケモノが崩れ落ちていくところだった。

 両隣に並べられた両親は見るも無残に傷つけられ、押し潰されている。

 彼女の他に起きることのできた患者はどこにもいなかった。

 

「立てる…… ?」

 

 そんな彼女に手を差し伸べたのは真っ白な少女。

 パニックに陥っていたいろはは少女に縋り付き、泣きじゃくった。

 

「もう、大丈夫」

 

 不思議なことに真っ白な少女の周りには火が及ばないようで、彼女に手を繋がれたいろははゆっくりと玄関を目指すこととなった。

 いろはは感情的に両親を置いて行くことに抵抗を示したが、少女の握る手の力は強かった。

 

「あなたは?」

「やめてよ! わたしはお父さんとお母さんのところに!」

「だめ、あなたの名前は?」

「いいでしょう!? どうせ病気で死んじゃうんだから、今死んだって関係ない!」

「だめ」

 

 無理矢理引っ張られながらの押し問答にいろはが押し負けるのに、そう時間はかからなかった。

 中学生の彼女も、いつまでも駄々をこねても無駄だと気づいたのだ。

 

「いろは……」

「そう、わたしはルチア。Lucia(ルチア) Rads(ラドズ)。名前はCulia(クリア)でもいい…… どちらも、一緒」

 

 抑揚のないルチアの声は不思議といろはを安心させた。

 

 

 

「そんなに注射したいのなら、お前がしなさい」

 

 

 

 彼女は次々と襲い来る怪異からいろはを守り、火事の中無事病院から脱出することに成功する。

 そして問うたのだ。

 

「あなたは病気を治したい?」

 

 いろはの負ったところどころの火傷を観察し、そして呼吸器に重い病気を抱えている彼女を落ち着かせて首を傾げる。

 無表情、そして抑揚のない声で問われたにも関わらず、いろはにはその表情が優しく微笑んでいるように見えた。

 

「お父さんとお母さんは……」

「生きている人じゃないと、わたしはどうにもできない」

 

 答えは決まりきっていた。

 

「そっか…… 両親の代わりに、たくさん、生きなくちゃ…… いけない、よね……」

「それが、答え?」

 

 いろはは安心感をもたらすその声に憧れを抱いていた。

 落ち着き払ったその対応に、勇気を与えられていた。

 

「お願い…… します……」

 

 いろはが言うと、ルチアは無表情なから満足そうに息を吐いていろはに向き合う。

 

「あなたの病、このCaladrius(カラドリウス)が引き受け、地獄まで持っていきましょう」

 

 いろはが気を失い、次に目を覚ましたときにはもうルチアはどこにもいなかった。

 しかし、彼女の負った全ての火傷や病気がすっかりなくなっていたことでそれは夢でなく現実だったのだといろはは知ることができのだ。

 

 

 

 

 

××× ×××

 

 

 

 

 

( 鏡の中にいたのは…… ルチアだった。だから、きっと傷だらけだったわたしを助けたのもルチアなんだろうな…… )

 

 もちろん、迷い込んだ学校で優しくアドバイスをしていた青い文字も彼女だったのだといろはは気づいている。

 赤い文字が桜子によるものなら、他の文字は別の人物がしたものだと予想はできていたのだ。

 

( ルチアに憧れて…… 人を安心させられるように練習して…… そうしていたら、いつの間にか声がおかしなことになってしまったけれど…… でも後悔はしていない )

 

 彼女の声に抑揚がないのはルチアの真似をしていた弊害だったのだが、それをルチアは知っているのだろうか? それはいろはにも分からない。

 それよりも今大事なのは、この炎の海から逃れることなのだから。

 

「早い…… !」

 

 迫り来る炎に走り続けるいろは。

 

( 昔はこんなに走れるようになるなんて思ってなかったな )

 

 案外呑気に考えながら走るいろはは気づけなかった。

 なにか硬いものにぶつかりヘアバンドが歪むのを。

 そして、校章と共にふわりと抜け出した羽根が彼女の視界を掠めてどこかへと向かっていく。

 一瞬の痛みに足を止めた彼女はすり抜けていく黄色い羽根に手を伸ばした。

 しかし、伸ばした手は届かない。

 

 羽根が炎の中へ飛び込んでいくのを知覚し、燃やす手間が省けたのではないかという思考が交錯し、しかし彼女は次の瞬間には燃え盛る炎の中に自ら手を突っ込んでいた。

 

「ぁっつぅ……」

 

 半分が燃え、焦げてしまった羽根を大事に胸に抱えて走る。

 焼け爛れた手で飛びついてきた火の粉をはたき、服に燃え移るのを防いで廊下の先の先まで走る。

 とっくに現実の孤児院よりも広い廊下になっていることには気づいていたが、彼女は息がきれても歩きたくなっても走り続けた。

 そうして時間を稼いでいればナヴィドが必ず気づいて助けに来る。そう信じていたからだ。

 

( きっと先生は…… 人間じゃない…… でも、それでもいい)

 

 その方がむしろ怪異だらけの日常に身を置く自分に相応しい。

 彼女はそのくらいのことを思っていてもおかしくないだろう。

 だからこそ、いろはは何度危ない目に遭っても彼がしくじったせいだとは言わなかったのだ。

 人間の危険は、人外においては危険と言えない。

 彼が判断を誤るのは当たり前のことだ。隣にいる彼が人間でないなんて、彼女にとってなんの関係もなかったのだ。

 いろはは、理性ある隣人は頼もしい味方だと信じてやまない。

 

 廊下を抜けると、夜空は真っ白くその一点に黒い月が輝いていた。

 

「はあ…… っふ、ん……」

 

 息を弾ませながら、流れる汗を拭う。

 背後から熱に炙られていたこともあり、ワイシャツはすっかり肌に張り付くほどに湿っていた。

 そんな彼女の周りには無数の影が集い、大勢の影法師を形作っている。

 

「先生…… 早く……」

 

 一度足を止めてしまったため、彼女は動けない。

 ざわざわと集っていく影にいろはは、すっかりと覆いつくされてしまった。

 彼女の大きいとはいえない体に大勢の影が入り込んでいき、いろはは声を出す間もなく震える。

 

( この人たち…… っ、生き返りたいの? )

 

 いろはに流れ込んでくる様々な記憶や感情、それら全ては己の動かすカラダを求め、彼女の意識を食い破ろうと手を伸ばしてくるのだ。

 全ては未練のため。やりたいことを成すため。やり残したことを果たすため。いろはを形作る〝 両親の分まで生きる 〟という目的は大きな欲望に覆い隠され、小さく儚いものと化していく。

 目的をそれしか持たない彼女は、大勢の望みを聴くうちにだんだんと自分の目的などちっぽけなものでしかないのだと思えるようになってしまっていた。

 

( この人たちに比べれば…… わたし〝 自身 〟は一つしか、ない…… の…… ?)

 

 一度に刻み込まれる記憶や感情、それらを全て受け止めてしまった彼女はその場に崩れ落ちるしかなかった。

 

「うぐっ、げほっげほっ…… くぅ……」

 

 力が抜けた際に落っこちたコンパクトミラーが開く。

 そこに映ったいろはは酷く苦しんでいながら、笑っていた。

 そして、とうとう許容量を超えた衝撃に彼女の内腑が悲鳴をあげて血を吐き出した。

 

「せん…… せ……」

 

 泣くことの滅多にない彼女がボロボロと涙を零す。

 それは生理的なものであり、絶望によってもたらされるものでもなかった。

 なぜなら、彼女はまだナヴィドのことを信じていたからだ。

 たとえ今彼女を襲っている苦しみがほんの少しの間の出来事だったとしても、耐え続けるだろう。

 彼女はそういう人物だった。

 

「たす……け……」

( 弱音なんて吐いてる場合じゃないよ。そんなこと言ったらますます付け込まれるってのが分からないの? 君って思ったよりバカなんだね )

「…… え?」

 

 いろはが驚いている間に彼女の身体は勝手に動き、その手がなにかを探すようにしていた。

 霞かかった視界でいろはが手の行方を追うと、そこにはコンパクトミラーと共に落とされたカッターナイフがあった。

 落ちた衝撃で開いたコンパクトミラーは彼女の吐いた血で真っ赤に染まり、ほんの僅かながら桃色に光っているようだった。

 

( 誰の許可もらってこいつのカラダを使おうとしてるんだい? 予約はぼくの方が先だよ! )

 

 震える手でカッターナイフをようやく掴み、いろはの手は勝手にその太ももへと振り下ろされる。

 一瞬、身体の中で奪い合うようになにかが暴れ狂ったような感触でいろはの意識が飛びかけるが、桃色の燐光を後押しに纏ったカッターナイフが勢いよく彼女の太ももに刺さった。

 

「いっ…… !!」

( やあ、お目覚めかな? いろは。なに諦めようとしてくれちゃってるの? ぼくを騙したときみたいな強い意志はどこにやっちゃったのさ! )

 

 影がいろはの身体から次々と抜けていき、最後には思い切り自傷したまま固まる彼女の姿が庭の真ん中にあった。

 無数の影は追い出されて苛ついているようであり、そして困惑するように彼女を遠巻きにして眺めているようだ。

 

「桜子、さん…… ?」

 

 カッターナイフを深々と足に突き刺したせいでさすがに抑揚が戻り、声を震わせているいろはが確認するように呟いた。

 

( そう、ぼくだよ! よくもやってくれたよ本当…… きみのせいでぼくはもう復讐ができない。なんてことをしてくれたんだよ! 復讐はきみとの契約でできないし…… おかげでぼくはきみと仲良しごっこするしかないってわけだ。 まったく、最悪な気分だね! )

「そっか……」

 

 安堵したようにいろはが微笑むが、その手は刺さったカッターナイフに添えられたままだ。いろはは痛みに耐えながらなんとか引き抜き、仕方なく制服についたリボンを巻きつけ、応急処置をする。

 

「いったぁ……」

( 自業自得だね、ざまあみろ。まあ、これ以上住民が増えるのは勘弁してほしいし、きみに協力してあげる。その代わり…… )

 

 独り言を零すいろはに影が再び狙いをつけるが、その身体に触れる直前に彼女自身の手によって斬り裂かれる。

 

(ちょっとカラダを使わせてもらうけど?)

 

 カッターナイフを持ったまま、傷などないように動く彼女はそのまま自分に迫る影だけを斬り裂き、はたき落とし、回避する。

 リボンに滲む血が痛々しいが、いろはの身体を使う桜子はどこ吹く風で影の攻撃をいなし続けた。

 

( いいねいいね、このカッターきみの大事なもの? すごく使い勝手がいいよ! )

「ずっと、使ってるから……」

 

 桜子は嬉しそうにカッターナイフを振るい、まるでストレス発散でもしているように笑っている。

 

『そこだ! 未練ごと消えろ!』

 

 段々といろはの口で物騒なことを言うようになった彼女に、いろはは不安になってたしなめるのだが効果が薄いのか( きみは黙って守られてろ! )と言われる始末だ。

 

 タイミングよく影を退けていく彼女を心中で眺めながら、いろはは仕方ないなと溜め息を吐いていた。

 辺りには黒い桜の花弁が巻い散り、少女の舞踏を彩っているが一向に終わりは来ない。

 影を斬り裂いたところで影は影。それが失われることはないのだ。

 

『しつこいやつは嫌われるよ! どうせそんなんだから未練が残ってるんだろう? カラダを手に入れてもきみたちに春が来ることは絶対にないね!』

 

 影を煽りながらも桜子の動きは鈍らない。

 

『こんなやつらに利用されてたなんて反吐が出るね!』

 

 どうやらそれが怒っている最大の理由らしいといろはは思った。

 それを桜子が聞いていたら酷い罵倒が飛んできただろうが、生憎彼女は目の前の影を処理するのに夢中だ。

 もはやいろはの声を聞く余裕も消え去り、ただただ興奮している。

 

( 先生、遅いな…… )

 

 もしや半分焦げただけでは効果がなかったのか?

 そういろはが思い始めていたとき、胸ポケットに入れていた羽根が光を浴びた。

 それを見てどうしようもなく焦燥に駆られたいろはは桜子に向かって何度も、何度も訴えかけるが彼女はほぼ暴走状態のようになっており、いろはの言葉を聞き入れない。

 

( 聞き入れてくれないのなら…… 無理矢理、奪い取るしかない )

 

 いろはが自ら手を伸ばす。その先には落としたままだったコンパクトミラーがあった。

 

『ちょっと、ぼくの邪魔しないでよ!』

 

 身体の制御を取り戻し、コンパクトミラーを手にしたとき時間がきた。

 

( ッチ、タイムアップか…… )

 

 真っ黒な月が大きな光に遮られる。

 そうして、落下してきた光の塊に全ての影たちが溶けて消えてなくなっていったのだ。

 いろははその光の中で目を瞑り、コンパクトミラーを胸に抱きしめていた。

 

( …… 危ない危ない、ごめんいろは。助かったよ )

 

 無事、桜子の声が聞こえることにいろはは安堵して顔を上げる。

 彼女が先程の光で消えてしまうのではないかと思い、いろはが無理矢理身体の主導権を握ってコンパクトミラーを守ったのだ。

 桜子が封じられているのはいろはの身体ではなく、コンパクトミラーの方だからだ。

 

「いい…… けど、暫く待っていてほしい」

( 分かったよ…… あ、でもぼくの器を後で変えて欲しいんだ。鏡じゃ割れたら終わりだし…… きみのカッターナイフに宿らせてくれれば永遠に刃の替えが必要のない素晴らしい働きをすると誓おう! いつも身につけているみたいだしね )

「やり方が分からない、けど…… 分かったらそうするよ」

 

 いろははその願いを聞き届け、コンパクトミラーの血を拭った。

 そして、この晩に一度あったカッターナイフの紛失を二度と起こさないように身につけ続けることを密かに目標とした。

 

「遅くなってすまない」

 

 眩しいくらいに輝いていた巨大な鳥はそのまま地面に降りるとそのクチバシをいろはの頬にすり寄せる。

 声は巨体にも関わらずいろはにはっきり聞こえる程度の音量しかなかった。きっと、それは彼の気遣いなのだろう。

 いろはは笑って、燃えてしまった羽根と同じものが大量に並ぶその身体に抱きついた。

 

「おや…… 怖い思いをさせて、ごめんね。場所の特定に時間がかかってしまった…… というのは言い訳だね。キミが無事で良かった……」

「一人ではありませんでした…… けれど、先生…… 待ってました」

 

 少しだけ震えた声に彼…… ナヴィドは目を細め、されるがままに羽毛を弄ばれている。彼女が満足するまでいつまでも付き合うつもりのようだ。

 

「また制服がボロボロだね…… いいのかい?」

「いいんです…… だから、帰りましょう先生」

 

 いろはが言うとナヴィドは彼女の足の下からクチバシを差し込み、持ち上げる。そして慎重に己の首へと導くと奥深くにある羽毛に掴まるように言う。

 

「表層にある羽毛は抜けやすいんだ」

「ふわふわ……」

 

 鳥の羽根にしてはふわふわとした感触のそれをいろはが楽しんでいる間にナヴィドは顔を上げ、翼を広げる。

 そしてゆっくりと羽ばたき白黒の世界の頂点にある黒い月へと向かって飛んでいく。

 いろはは彼の羽毛によって寒さや風圧から守られ、ときおり擽られる鼻への刺激だけに襲われた。それも喜ばしいのか、背の高い羽毛によってろくに見えもしない景色を眺めてはしゃいでいる。

 声の抑揚は嬉しげに揺れていた。

 その反応を聴いているナヴィドは彼女の声が感情を乗せていることに満足して密かに笑った。

 初めて喜びが乗せられたそれを聴き、噛みしめるように。

 

「影の世界を抜け出すよ。しっかりと掴まって」

「はい」

 

 黒い月を突き抜ければ、その更に向こうには現実の月が静かに輝いていた。

 深夜の空をゆっくりと飛行しながら円を描くように人気のない場所へとナヴィドは降り立ち、再びクチバシでいろはを掬い上げて地面に降ろす。

 それから翼を畳んで彼女に向き直ると、見上げてくるいろはにそっと話しかけた。

 

「…… もう、私は教員をやめようと思うんだ」

 

 それを聞いていろはは目を見開き、首を振った。

 

「わたし、黙っています。先生がなんであろうとわたしの先生でいることに変わりはありません。なんなら、全てを忘れさせることだってできるでしょう?」

「いいや、それはしないよ…… 私には教員が向いていないようでね。興味本位でやっていたことだが、これからは思うままにやっていこうと思っているんだ」

「確かに教職は向いてないと思いますけど…… でもわたしは」

 

 いろはの素直な物言いに彼は苦笑して 「私の決めたことに人間が口出しするつもりかい?」 と威圧的に言い放った。

 

「それは…… でも、それは…………」

 

 いろははとうとうなにも言えなくなり、俯いた。

 

「キミには桜子ちゃんもいるだろう? なにも寂しいことはないはずだが?」

「暴走しがちな彼女と一緒にいるためには、誰かの手を借りる必要もあります…… それに、わたしには居場所がありません。相談するべき大人もいません。先生はご存知でしょう? わたしは周りにただ合わせているだけで自分がない…… だから影に付け込まれたんです。でも、そのわたしが、今我を貫き通したいと思っているんです。お願いです先生、置いていかないで……」

 

 ただの子供のように我儘を言う彼女をナヴィドは優しく見つめて、そして目を閉じる。

 

「ヒーローは子供の願いを聞くべきだ。けれど、私は足枷をつけるつもりはないよ」

「遅れてやってくるヒーローのくせに、なにを言うんですか。それを言えるのは完璧なヒーローだけです」

「……」

 

 ナヴィドはやれやれと首を振り、自分の首元の羽根を一枚引き抜くと彼女に届くように頭を下げた。

 

「これをもう一度あげよう。だからもう少し返事は待っていておくれ」

「約束してください。必ず答えを出すと」

「そう言って、YESしか認めないつもりだろう?」

「ノーコメント、です」

 

 ナヴィドは苦笑し、いろはは笑い泣きをしながら彼のクチバシをそっと撫でた。

 彼は黙ったまま、 「さようなら」 とも 「またね」 とも言わずに翼を広げた。風圧に転がされるいろはには目もくれず、ナヴィドは去る。

 いろははその姿をコンクリートの地面に尻餅をついたまま見送った。

 

 いつも冷めていると言っていい彼女は、このとき確かな激情に支配されていた。

 やがて、ヘアバンドに自ら羽根をつけると一人ふらふらと帰途についた。

 

 

 

 それから十日間、抜け殻のようになった彼女は学校にも行かず閉じこもっていた。

 

( 必要だからってわざわざ自傷しないでぼくを出しっぱなしにしていればいいじゃないか。ぼくと対峙したときの不気味なくらいの我慢強さはどこにいったの? おかしいよ、きみ )

「…… そうかも」

 

 前と同じように声の抑揚を消し、表情も消してしまえば楽なのだといろはは知っていたが、どうにもそんな気分にならずに彼女はただ桜子と会話することでせっかく見つけた自分を見失わないようにしていた。

 

( その調子で自分を見失ってくれたらカラダの主導権を奪うのが簡単になって、ぼくには大変都合がいいんだけどね? )

「……」

( あーあ、こりゃだめだ )

 

 桜子の呆れ返る声にも反応を返さず、いろははベッドに沈む。

 この厄介者に施設の人間も随分と手を焼いているようだった。

 

「いろはさん、いろはさん返事をしてちょうだい」

 

 とんとん、と彼女の部屋のドアがノックされる。

 呼んでいるのはどうやら施設の職員のようだった。

 

( ほらほらヒキニートしてないで行ってきなよ、いろは )

「んぅぅ…… ん」

 

 いろはは怠そうに起き上がり、しっかりとヘアバンドに羽根がついていることを確認するとコンパクトミラーをポケットに入れ、ドアを開けた。

 

「良かった、あなたに会ってみたい人がいるそうだから身だしなみを整えて応接室に来てちょうだいね」

 

 職員はそう言うと、すぐに忙しそうに去って行った。

 向かう先をいろはが見れば、積木を踏んづけて泣いている子供がいる。そのフォローに向かったようだった。

 

「身だしなみ……」

 

 髪は先程整えたばかりだし、今朝方風呂に入ったばかりだったいろははしっかりした服装というものがよく分からず、とりあえず予備の制服に着替えて行くことにしたようだ。

 五分もかからずに準備を終えて部屋から出る。

 

( 面会? それとも引き取りかな? )

「さあ」

( ぼくはお邪魔だろうから戻っておくよ )

「分かった」

 

 素っ気なく返事をしながらコンパクトミラーについた血を拭う彼女に、いくつか悪態をつきながら桜子はその中へと戻って行った。

 

( わたしを引き取る物好きな親戚なんて、いないはずだけど )

 

 少しだけ荒れた心境で彼女が応接室を訪ねると、そそくさと孤児院長が中へ入るようにと勧める。高校生になった彼女はもうじきお金が貯まり次第一人暮らしをする予定だったのだ。

 少し早めに厄介払いできそうで嬉しいのだろうと当たりをつけ、いろはがその部屋の扉を開いた。

 

「やあ、待たせたね」

 

 彼女が息を飲む音がした。

 きゅっと唇が引き結ばれ、そして思い出したようにパチパチと瞬きをする。加えて顔をごしごしと拭い、その光景が夢かなにかだと思ったのか頬をつねった。

 

「その反応は酷いな…… これは現実だよ」

「………… 先生?」

 

 彼女がか細い声で確認すれば、彼―― ナヴィドは笑顔で頷いた。

 学校で見ていたときとは違い、今はきっちりとしたスーツを身に纏っている。テーブルの上の書類にはいろはのものが大半で、更にその中に養子縁組の書類が混じっていることを彼女は視認した。

 

「いったい…… どういう……」

「いろいろと準備があってね…… ところでいろはちゃん、キミの気持ちはあのときと変わりないかい?」

 

 ナヴィドは優しく問う。

混乱しているいろはに性急な問答は少々酷だったが、彼女はしっかりと答えた。

 

「ええ…… わたしには、ほとんどなにもありませんから」

「キミがここで生きづらいと言うのなら、私は〝 手助け 〟をしてあげることもできるんだ。どうするかい?」

「ヒーローは…… そんなことまでしないんでしょう?」

 

 震えた声で絞り出した言葉は、彼の差し出した手を拒絶しているような言葉だった。それに彼は機嫌を損ねるでもなく、続ける。

 

「するさ、だって私は手助け屋なんだから。言っただろう? キミのお願いなら羽毛布団でも、なんでも用意してみせる」

「人間は足手纏いじゃ、ないんですか?」

 

 ゆっくりと彼女が受け入れられるように、ナヴィドは必要な答えを全て用意していた。

 

「キミはヒーロー助手になるのさ。こんな機会、滅多にないと思うよ? なにかと人間の助手がいたほうがやりやすいしね」

「…… いいん、ですか?」

 

 俯いたままいろはが言う。

 

「おっと、そうだね。子供の方から言わせるのは酷だ」

 

 ナヴィドはそのまま応接室のソファから立ち上がり、いろはの前に立つ。そして涙を堪えている彼女の頭にふわりと手を乗せ、微笑んだ。

 

「いろはちゃん、私の娘になる気はないかい?」

 

 とうとう決壊した涙腺をどうすることもできずに彼女は彼に抱きついた。

 

「…… は、い」

 

 普通の子供のように声を震わす彼女を、彼はそっと抱きしめ返してその背をさする。

 

「私の本当の名前はシムルグ。鳥の王さ…… キミを、私の義理の娘として迎え入れよう」

「はい、はいっ……」

 

 こうして、遠くから人間を見守っていた鳥の王は一歩踏み出した。

 

 

―― 鳥さん、怪我をしてる。あなたひとりぼっちなんだね。

―― ありがとう、私の眷属を救ってくれて。君の名前は?

―― わたしは、いろは。

―― そうか、いろは。ありがとう。それではその子は返してもらうよ。

 

 

 

( 君が自分の生徒になったとき、とてもびっくりしたんだよね )

 

 それからの日常はあっという間だった。

 高校卒業と共にナヴィドの元で暮らすことが決まった彼女は、以前と変わりなく七彩高等学校に通っている。

 そして時折、彼の住んでいるマンションに押しかけては長い時間入り浸り、帰っていくのだ。

 

「先生、絵が入賞したよ」

「この前のやつだね。良かったね」

「はい」

 

 金の額に飾られた絵には、描きかけだった大小の黄色い鳥が空を飛び回る姿が描かれていた。

 

 

 

 

 

 

 




 これにて 「シムルグの雛鳥」 は完結です。
 二年前からちょこちょこ書いていたものなので前半と後半で少し書き方が違うかもしれません。
 三人称の練習に書いておりましたがどうでしたでしょうか?

 物騒なぼくっ娘、七不思議、そして人外×少女と私の趣味をこれでもかと詰め込んだ代物ですが、読者の皆様を少しでも楽しませることができたのならば私は満足です。

 もしかしたらこの先の2人の物語が続くかもしれませんが、それまでの間は完結として締めさせていただきます。

(オリジナル小説「ニャル様のいうとおり」にて大学生になったいろはが登場するため、恐らくそれまでの物語を「まほよめ」のような形式でお送りするかもしれません)

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