狼王戦記 ~黒き白狼天狗の軌跡~ 作:カオ宮大好き
――落ちていく。
ゆっくり、ゆっくり、少しずつけれど確実に。
「………………あれ?」
気が付くと、聖哉は不思議な世界に迷い込んでいた。
温かなお湯の中に居るような心地よさに背を預けながら、異界へと沈んでいく。
「もみじおねーちゃん? イリスおねーちゃん? ヴァン?」
身体は動かせないが口は開くので、聖哉は手当たり次第に知り合いの名を呼ぶが、返答はない。
というよりも、自分以外の存在を認識できない漆黒だけが広がっている。
幼子になった聖哉ですら判る程に、ここは異質な世界であった。
「……」
ここは何処なのか、どうしてこんな所に居るのか。
仙界へと逃げ込んですぐ、紫は神子達によって何処かへと運ばれていった。
慧音と命蓮寺の者達が総出となって不安がる人間達を宥め賺し……聖哉の傍には、布都と屠自古が居てくれた。
それから……紫の事が心配で、だけどどうする事もできなくて。
不安で押し潰されそうになって、椛やイリスに会いたくなって。
「それから……それから」
今はゆっくり眠るといいと布都に言われ、彼女に膝枕をしてもらって。
それで安心できたのか、瞼を閉じて眠ろうとして……気が付いたら、こうなっていた。
「ゆめ……?」
そう考えると、納得できた。
あまりに現実味のない世界の中を漂っているのだ、推測が確信に変わるのにさして時間は掛からなかった。
尤も、それが判った所で何かが変わるわけでもこのおかしな夢から覚めるわけでもないが。
――この夢は、いつまで続くのだろうか。
このまま身を委ね続けたいと思える心地良さではあるが、夢は覚めるからこそ夢なのだ。
帰りたい、帰らなくてはならない。
何もできない、何の力もない自分だけれど……それでも、皆の為に何かしたい。
けれど今の聖哉にできる事は、ただ異界の海に沈む事しか……。
「――考える必要なんかないわ。ただ深々と……眠りなさいな」
声が、響いた。
女性の声だ、何もない世界だと思っていた聖哉は当然驚き。
「さあ、目を閉じて。苦しい事も辛い事も悲しい事も全て忘れて……おやすみなさい」
優しい声が、聖哉の心に染み渡る。
……現実に戻ろうとする意志が、溶かされていく。
この声に導かれるまま、眠りたいと思ってしまう。
「………………やだ」
それを、真っ向から拒絶した。
全てを忘れて眠るわけにはいかないと、確かな決意を言葉に乗せる。
「へぇ……」
聖哉の呟きを聞き取ったのか、再び聞こえてきた女性の声には確かな驚きの色が混じっていた。
そして。
「驚いた。骨の髄……いえ、魂の髄まで他者の為に在ろうとするのね」
どこか愉しげな声が聞こえたと聖哉が理解した瞬間、世界は一変した。
黒一色だった世界は真白に染まり、心地良い感覚は消え、けれど身体は動かせず沈み続けるまま。
聖哉は、自分を見下ろすように眺める女性の姿を、視界に捉えていた。
現れた女性は、燃えるような赤髪の美女だった。
ただその恰好は変わっており、頭部には僅かに発光する球状の物体を乗せ、首輪から繋がっている二本の鎖の先には同じような物体が繋がりながら浮かんでいる。
身につけている衣服も変わっていて、ある意味では一目で幻想郷の住人ではないという事が判る外見だ。
「はじめまして、犬渡聖哉クン」
「……おねーちゃん、だれ?」
「んふふ……女神様って言ったら、信じるかしら?」
「めがみさま……?」
悪戯めいた笑みを浮かべ、冗談のような事を口にする女性。
しかし、不思議と聖哉には彼女はただ真実を告げているだけだと当たり前のように理解できていた。
いや、正確には自身の内側――奥底に眠る自分であって自分ではない“何か”が、訴えている。
「出たがっているのね、何もできないのがそんなに悔しい?」
「え……?」
「こっちの話よ。…………それよりも聖哉クン、アナタ本当に目覚めたいの?」
「?」
「このまま目覚めたとしてもアナタには何もできない、無力な子供では誰かを助ける事も支える事も守る事も出来ないのよ?」
「…………それは」
「そればかりかアナタの無謀な行いで傷ついた子も居る、力がないアナタが目覚めた所で、できることなどなにもない」
「……」
はっきりと、淡々とした口調で女性は事実だけを口にする。
子供になった聖哉にも判る紛れもない現実、女性の言う通りこの夢から覚めた所で……。
「…………ねえ、強くなりたいの?」
「な、なりたい!」
半ば反射的に、聖哉は女性の言葉にそう返す。
すると女性は優しく――本当に優しく微笑んで、ある提案を口に出してきた。
「なら、わたしと契約しましょう?」
「けいやく……?」
「そう。――あなたの奥底には本来の犬渡聖哉の人格がまだ残っている、あの魔獣は判らなかったみたいだけどね」
「? えっと……」
「それでどうするの? 契約をしてくれるのならアナタは本来の人格を取り戻し、そして“第三の枷”を外してあげる」
「かせ……?」
「……強くなれるという事よ」
「つよくなれるの? なら、けいやくするっ」
この女性は嘘を言っていない、そう信じられるからこそ聖哉は即答を返した。
そしてそれは決して間違いではない、間違いではないが。
「…………素直で可愛い子、本当に……ね」
今の聖哉には理解できない、契約には……“代償”を伴うという事を。
女性の笑みの中に確かな歪みの色が見え始めるが、聖哉はそれに気づかずニコニコと微笑むばかり。
こんな自分でも誰かの助けになれる、その事ばかりに囚われ彼は気付かない。
「じゃあ始めるわね、それと一つ覚えておいて。
目が醒めればアナタは元の犬渡聖哉に戻る事ができる、そして“第三の枷”を外した事によって新たな能力を扱える事ができるようになる。
だけど今のアナタの魂は著しく消耗し傷ついている、だからできるだけ早く闇から生まれたアナタ自身を滅ぼしなさい。そうしなければ今度こそアナタの魂は消滅してしまうから」
「えっと……」
「大丈夫。元のアナタに戻ればわたしの言葉の意味を理解できるから、今は目を閉じて目覚めなさい」
「うん、わかったっ」
言われた通りに聖哉は目を閉じ、すぐさま意識が薄れていく感覚に襲われた。
それと同時に奥底から自分自身が変化していく感覚を覚える、先程女性が言ったように新たな力に目覚めているのだろう。
その感覚に対する恐怖心は無く、寧ろ新しい力を得られることに喜びすら感じられた。
これで守りたいと、助けたいと思った人達の力になれると、聖哉は信じて疑わない。
「本当に素直で良い子ねアナタは、生意気盛りなあの子に爪の垢を煎じて飲ませたいくらい」
どこか遠い世界から、そんな声が聞こえてきたような気がした。
もう意識も殆ど消えてしまっている、だから聖哉は最後に女性に対し感謝の言葉を告げる。
「めがみさま……ありがとう……」
「あら、お礼なんていいのに。だって――」
犬渡聖哉という存在が、現実へと帰還していく。
再び戦いの世界に身を投じる為に、そして自身が愛した少女の為に。
そうして、彼はこの異界から姿を消した後。
「――だってアナタ、わたしと契約してくれたでしょう?」
一人残った女性は、誰も居なくなったこの世界でぽつりと、そんな言葉を口にした……。
◆
「――――っっっ」
意識が現実へと戻り、聖哉は勢いよく起き上がった。
周囲を確認、広い一室の中に居るのは先程まで眠っていた自分と、腕組みをしながら項垂れている布都と屠自古。
おそらく自分を看ていてくれていたのだろう、2人に感謝しつつ続いて自分の状態を確認する。
身体は……まだ子供のまま、精神だけが元に戻っている。
だが問題はない、そんな事よりも今はすべき事がある。
「布都、屠自古、起きてくれ!!」
「……んん? 聖哉殿……?」
「どうした、お腹が空いたのか?」
「すぐに八雲様の所に案内してくれ、手遅れになる前に!!」
「ん……? 聖哉殿、口調が……」
「いや、待て……まさかお前、元に戻ったのか!?」
「そうだ。だが今は詳しい説明をしてる場合じゃない、早く八雲様の所に行かないと手遅れになる!!」
「そ、それはどういう……い、いやわかった。こっちだ聖哉殿!!」
いきなりの事態に困惑しつつも、鬼気迫る聖哉の迫力に圧され布都と屠自古は聖哉を連れて紫が眠っている部屋へと向かう。
「? 布都、屠自古、どうしたのです? 声も掛けずに部屋へ入るなど――」
「2人を責めないでくれ神子、悪いのは俺だ」
「…………戻ってきたのですか、聖哉」
驚きつつも、彼の様子を見て神子は瞬時に状況を理解した。
一体何があったのかは判らないが、犬渡聖哉の精神が戻ってきている。
そしてその足で真っ先にここへと来たという事は……。
「八雲紫を、助ける事ができるのですね?」
「えっ……!?」
「……凄いな神子、なんでわかるんだ?」
「天才ですから。それより私達に何か手伝える事は?」
「残念ながら何もない。――ヴァン、俺の中に戻れ。“第三の枷”が外れた」
〈っ、どういう事だ? 一体お前の身に何が起きた?〉
「説明してる暇はない、もう八雲様に時間が残されていない事ぐらい判るだろう!?」
既に紫の身体の殆どは闇聖哉の攻撃によって蝕まれている、最早一刻の猶予もない。
半ば叫ぶように言ってヴァンを呼ぶ聖哉に、彼は問い質したい衝動を抑え――彼の内へと戻った。
聖哉の言っている事は正しい、八雲紫の身体は限界を迎えている。
だが――聖哉の、正確にはヴァンの力は奪う為だけのもの。
〈聖哉、オレの力は他者を破壊し、喰らい、蝕む事しかできない呪いの力だ。だからこそ闇聖哉にやられた八雲紫を救う術は……〉
「違う。それは違うぞヴァン、お前の力は……誰かを傷つけるだけのものじゃない」
力を開放する、だが聖哉の身体から溢れるオーラは今までのような闇よりも昏い漆黒のものではなく……。
「…………黄金の、光?」
全ての生きとし生ける者を照らし、導くような……黄金の輝きを放っていた。
「ヴァン、力は使い方次第で何にだってなるんだ。誰かを傷つけ、喰らい、奪う事ができるように……誰かを守り、支え、救う事だってできる……!」
〈お前がそうさせたと!? オレの力を、ただ奪うだけではなく……与えるモノに昇華させたっていうのか!?〉
信じられない、今までの器ではこんな事など起きなかった。
神代の魔獣の力は負そのもの、これは闇聖哉とは真逆の力だ。
(……わかる。今までとはまるで違う力の使い方なのに……昔から知っていたかのように、理解できる)
夢で話した“誰か”は言っていた、“枷”が外れた事によって新たな能力に目覚めると。
それは今までとは全く違う能力、他者を癒し、助ける能力だと理解できた。
(…………本当に、それだけか?)
何かが、引っ掛かった。
この力は間違いなくヴァンと自分のもの、それは疑いようのない事実。
けれど、それとは違う違和感がほんの少しだけ顔を出している。
無視してもいい、けれど目を背けるのは憚れるような……そんな小さな、深い違和感。
(っっっ、今は自分のすべき事を……!)
黄金の光を両手に集めていく。
その光をゆっくりと、紫を蝕む闇を呑み込むように広げる。
すると――少しずつけれど確実に、聖哉の光は闇を消し飛ばしていった。
「おぉ……」
その光景を視る事のできた神子は、おもわず感嘆の声を上げてしまった。
……これは、如何なる奇跡か。
仙人が用いる秘術でも治せなかった八雲紫を、治療している。
(新たな能力に目覚めたというわけですか聖哉……いやはや、友として接すると言いましたが……少し、揺らいでしまいそうです)
◆
「――――――は、ぁ」
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
聖哉のそんなため息と共に、黄金の光は消え去った。
後ろに倒れ込む聖哉、荒い息を繰り返し額には滝のような汗が浮かんでいる。
対する紫は、穏やかな表情で眠っている。
それを見れば、結果がどうなったかなど言わずとも判り、場の空気が瞬時に明るくなった。
「終わりましたか?」
「ああ……もう、大丈夫――むごっ」
「聖哉殿!! あ、ありがとう。本当にありがとう!!」
紫が助かったのが余程嬉しかったのか、瞳に涙を浮かべながら力いっぱい聖哉を抱きしめる藍。
しかし小さな子供の体格のままの彼にとって、今の藍の抱擁はご褒美よりも罰と言った方が正しい。
「藍様、そんなに強く抱きしめたら聖哉さん死んじゃいます!!」
「す、すまない聖哉殿……」
「い、いやいい……というよりも、元はといえば八雲様の怪我は俺が原因だ。藍に恨まれる事はあっても感謝される事はないさ」
……意識が朦朧としている。
新たな能力を使った反動は勿論あるだろう、だがこの異常はそれだけが原因ではない。
(魂が足りないんだ。あの夢の人物が言っていたように……早く俺を殺さないと今度こそ戻ってこれないな)
闇聖哉の居場所は判っている。
ヤツはまだ里に留まっている、今や誰一人として居ない里の中に。
何故、とは問うまい。
聖哉には闇聖哉が何を考えているのか、当たり前のように理解できるのだから。
「ところで聖哉、貴方の身に一体何が起きたのです?」
「…………ああ、それが」
神子の問いに、聖哉は一呼吸置いてから……説明を始めた。
ある夢を見た事、その夢の中で姿は見えなかったが女性と話した事。
その女性によって自身の精神が呼び戻され、更に“第三の枷”を外してもらった事。
だがその女性が一体何者で、具体的にどんな会話をしたのかは覚えていない事……包み隠さず、全てを話した。
「なんじゃそれは、曖昧が過ぎるではないか」
肩を竦め呆れたように言う布都に、聖哉は苦笑しか返せない。
彼女の言う通りあまりにも曖昧過ぎる、そもそも部分部分では明確に覚えているのに、それ以外は綺麗さっぱり忘れているなどあまりにも都合が良いではないか。
「しかし内側に眠っていた貴方の精神を呼び起こしただけではなく、神代の魔獣であるヴァンの“枷”を外すなどという離れ業をやってのけるというのは……その女性は、一体何者なのでしょうね」
「人智を超えた力の持ち主であるのは確かでしょうね太子様、もしかしたら聖哉のこの曖昧具合も意図的に起こされた可能性もあるかもしれません」
「屠自古もそう思いますか? それだけの力を持つのならば、そのような芸当も可能かもしれませんね」
「……」
改めて思い返してみても、思い出せるのは断片的なモノだけ。
…………何かが、引っ掛かる。
決して忘れてはならない、重要な事が……。
「とはいえ判らない事を話し合っても意味はありませんね。
聖哉、闇聖哉はいまだ人里に居るようですが……どうやら今は、里に入る事は出来なくなっているようです」
「何だと……?」
「おそらく何か強力な結界の類が展開されているのでしょう、里への“ゲート”が開かなくなっています。
相手の目的は不明ですが、これを突破するには少々時間が必要でしょう。なので貴方は先に
「……お見通しか、流石だよ本当に」
「天才ですから。――椛は今紅魔館に居るようです、そこに続く“ゲート”を開きましょう」
言って、神子は部屋の隅に円形の白く輝く扉のようなものを出現させる。
本来ならば、今すぐにでも闇聖哉の元に向かい彼を倒した方がいい。
だがそれと同じくらい椛の事が心配だ、生きているが何らかの怪我を負っている可能性がある。
「ありがとう神子、任せっきりになるけど……」
「気にしないでください聖哉、これは椛との“約束”も兼ねていますから」
「? そうか、それじゃあ行ってくる。
それと藍、悪いんだがもし俺が戻ってくる前に八雲様が目覚められたら……心配をお掛けして申し訳ないと伝えておいてくれないか? 勿論、俺から改めて謝罪をさせてもらうが」
「わかった。しかしきっと紫様は気にしてはおられないと思うぞ、お前を庇った事に一片の後悔も抱いてはおられまい」
「そう言ってくれると気が楽になるよ、ありがとう」
“ゲート”をくぐり、一瞬の浮遊感の後――聖哉は、紅魔館近くの“霧の湖”に広がる森の中に立っていた。
相も変わらず名に相応しい霧が漂い、普通の人間ならば数メートル先も見えないだろう。
いきなり紅魔館内に移動するのは互いの為にならないという神子の心遣いに感謝しつつ、聖哉は歩を進めようとして。
〈なあ、聖哉〉
(? ヴァン、どうした?)
〈お前、本当に誰と話したのか覚えてないのか?〉
(ああ……残念ながらな、今思い返しても女性だという事ぐらいしか覚えていないんだ)
我ながら滅茶苦茶な事を言っていると、聖哉は苦笑したくなる。
神子や屠自古の言う通り、ここまで来ると意図的なものを感じずにはいられない。
〈……あのババア、何かしやがったな〉
(ヴァン、どうしたんだ? ババアって……もしかして、何か知ってるのか?)
〈確証はねえ、だから今は気にすんな。お前にはやるべき事があるだろ?〉
(そう、だな……判らない事を考えても、時間の無駄か)
〈そうそう。早く愛しの奥様にお前の顔を見せに行こうぜ?〉
冗談めかしたヴァンの言葉に、苦笑しつつ「そうだな」と返し聖哉は改めて紅魔館に歩を進めていく。
そして、彼は赤き館で思い知る事となる。
――この世には、目覚めさせてはならない“狂気”の悪魔が存在するという事を。