狼王戦記 ~黒き白狼天狗の軌跡~ 作:カオ宮大好き
「くそっ、冗談じゃない……!」
迫る小さな太陽に睨みながら、魔理沙は右手に持つ八卦炉を前方に翳す。
左手で右手首を強く掴み固定し、瞬時に必殺の魔法を開放した。
「マスター……スパーーーーーーーークッ!!」
その言葉の解放と共に放たれる、巨大な砲撃。
小さな山ならば抉り抜く程の熱と魔力が込められたそれは、霧雨魔理沙のシンボルの1つでもある魔法。
“恋符”マスタースパーク――光の砲撃は空気を吹き飛ばしながら、人里に落ちていく小さき太陽とぶつかり合った。
瞬間、周りの空気が2つの熱によって“蒸発”する。
一瞬の事であり生物に影響はない、しかし確かに瞬間的ではあるものの周囲の空気が消え去った。
それだけの熱量、それだけの衝撃を周囲に撒き散らし、小さな太陽と光の砲撃は互いを消し去ろうとその勢いを増していく。
「ぐっ……こっ、のぉぉぉおっ!!」
歯を食いしばり、負けてたまるかという反骨精神と共に、魔理沙は八卦炉に更なる魔力を込めていった。
それに比例して砲撃は大きさを増し、少しずつ……ほんの少しずつではあるものの、小さき太陽を押し戻していった。
「……」
お空の口元に、歪んだ笑みが浮かぶ。
まるで魔理沙の行動を嘲笑うかのように、彼女はその笑みを浮かべたまま静かに左手を翳した。
「うぁ……っ!?」
それだけ、たったそれだけで小さき太陽はその威力を強め光の砲撃を文字通り飲み込んでいく。
無論魔理沙も更に魔力を込めていくが、先程とは違い拮抗するばかりか押し戻されていった。
圧倒的なまでの力の差、全力を出しても容易く追い込まれるという事実。
(嘘、だろ……?)
己の中に蓄積している魔力の殆どを使っても、小さき太陽の進行を止める事ができない。
そればかりか、このままでは自分もあの太陽に呑み込まれて灰すら残さず消滅してしまう。
しかし逃げられない、移動用に残していた魔力もマスタースパークにまわしてしまった。
浮かんでいるのがやっとの今、霧雨魔理沙という少女の運命は既に決まってしまっており……。
「…………あれ?」
呑み込まれる、そう思った瞬間に視界が乱れ。
気がついたら彼女は、小さき太陽の軌道から外れ咲夜に抱きかかえられていた。
「大丈夫?」
「……ああ、悪い。能力を使って助けてくれたんだな」
助かった、そう自覚した瞬間……魔理沙の身体からは滝のような汗が流れ始める。
寸前まで迫っていた死を改めて実感したが故か、身体は震え呼吸も荒くなっていく。
普段とはまるで違う魔理沙の様子に驚きつつ、咲夜はキッと彼女の命を奪おうとしたお空を睨みつける。
対するお空は咲夜達を見ようともしない、ただしそれは決して2人の事など眼中にないというわけではなく。
「嫌な予感がしたから来てみれば、とんでもない事をしてくれるわね」
小さき太陽を結界で消し去り、自分の邪魔をした存在。
そして同時に、今この場で尤も自身にとって脅威となるであろう少女――博麗霊夢に意識を向けなければならなかったからだ。
「あんたが霊鳥路空ってヤツね?」
「? どうして、私の名前を知っている?」
「あんたの主人、さとりから聞いたからよ」
「……何を言っているの? 私の主人は睦月様、さとり様はもう私の主人じゃない」
冷たく吐き捨てるように、さとりが聞いていれば間違いなく傷つくであろう言葉を放つお空。
――霊夢の表情が変わる。
今のお空の言葉が気に食わないかのように、否、実際に霊夢は今の言葉には間違いなく納得がいかなかった。
「話でしか聞いてないからよくは知らないけど、あんた達って主人とペットって関係だけど……家族のようじゃなかったの?」
「家族? ああ、そうだったのかもしれないね……」
あくまで表情も口調も変えず、淡々と事務的にお空は言葉を返していく。
その態度が、その言葉が、もうさとりの事など赤の他人以外の何者でもないと告げていた。
「……ああ、そう」
空気が、変わった。
霊夢が上記の呟きを放った瞬間、息苦しいまでに重い重圧がお空に襲い掛かる。
人間とは思えぬプレッシャー、流石は博麗の巫女ではあるが、それでもお空の表情は変わらない。
「何を、そんなに怒っているの?」
ただ、ある疑問が浮かんだのでお空は僅かに首を傾げながら問うた。
自身の答えに一体何が彼女の逆鱗に触れたのか、それが判らない。
今のお空には本気で理解できず、そして同時にその問いが彼女の怒りを更に加速させる。
「操られているのかそうでないのか知らないし正直興味はないわ、けどね……あんたを心配してるヤツの言葉を、涙を、思いを、あんたは事も無げに踏み躙っているのよ」
あれは、傷ついたさとり達を助けるために、竹林の永遠亭へと共に行った時の事だ。
身体の至る所に包帯を巻き、痛々しい姿を晒すさとりは……自身の事など省みずに、霊夢にある懇願をした。
『お願いします、あの子を……お空を助けてください。
あの子は優しい子なんです、本来ならあんな酷い事をするような子じゃない。操られてしまっているんです……!』
人間である霊夢に頭を下げ、涙を流しながら何度も何度も「お空を助けて」とさとりは言った。
それが、霊夢には眩く尊い姿に見えたのだ。
家族の居ない彼女にとって理解できず、けれど心に響く願い。
霊夢にとって聞き入れる必要などない願いだ、それでも……彼女には無視できなかった。
「覚悟しなさい。泣いて謝ったって……許さないんだから!!」
右手にお祓い棒、左手に札を構え、霊夢はお空に向かっていく。
真っ直ぐ向かってくる彼女に、お空は嘲笑しながら右手の制御棒を翳す。
そこから放たれる熱線、先程のものに比べれば劣るものの直撃すれば消し炭になるだろう。
しかし、霊夢は向かってくる熱線を前にしても回避しようともせず――直撃の瞬間、姿を消してしまった。
「なっ――――うぐっ!?」
左脇腹に衝撃が走り、何事かとお空は視線を向け……驚愕する。
いつの間に踏み込まれていたのか、衝撃が走った箇所に霊夢の回し蹴りが叩き込まれていた。
霊力が込められたその蹴りは少女のものとは思えぬ破壊力を生み、ミシミシと骨が軋む音がお空の耳に響く。
「し――!」
「がっ、ぐっ……!?」
続いて至近距離から放たれた札がお空の身体を釣瓶打ちにし、彼女の身体を吹き飛ばしていく。
当然その札にも霊力が込められており、一枚一枚の威力はまるで大砲の如し。
苦悶の表情を浮かべ、口から血を滲ませつつも、お空は背中の翼を大きく羽ばたかせその衝撃を相殺させる。
「お前……!」
お空の笑みが消える、霊夢を明確な敵として認識した彼女の瞳には先程には無かった怒りの色が見え始めていた。
同時に周囲の空気に熱が生じ、冬の季節だというのにまるで夏……否、それ以上の熱気に包まれていく。
太陽の力を持つ“八咫烏”をその身に宿したお空の能力が、地上を灼熱地獄の世界へと変貌させようとしていた。
「……」
圧倒的なまでの力、それを前にしても霊夢の表情は崩れない。
しかしそれは決して余裕の現れでも、お空の力を侮っているわけでもなかった。
……それ以上の怒りが、今の霊夢を支配しているからである。
お空がどれだけ強かろうが関係ない、すぐに叩きのめして正気に戻してから……主の元へと引っ張って必ず謝らせる。
「すぐに消してやる!!」
「やれるものなら、やってみなさい!!」
互いに叫び、両者はぶつかり合う。
「霊夢……!」
「加勢するわ」
「っ、よし、私も行くぞ!!」
咲夜から離れ、魔理沙は懐から小さなフラスコを取り出す。
中に入っている青色の液体、それは彼女が調合した魔力回復薬だ。
それを一気に飲み干し魔力を回復した魔理沙は、すぐに咲夜と共に霊夢の援護へと向かったのだった……。
◆
人影の消えた里の中を、橙は走っていた。
既に住人はこの里一番の屋敷であり同時に緊急時の避難場所である稗田家に避難している、今頃は里の“守護者”達によって結界が張られているだろう。
それは賢明な判断だった、何故なら今も里の中には咲夜達が対峙した黒い獣達が我が物顔で闊歩している。
一体一体の力そのものはたいした事はない、それこそ守護者はもちろんとして里の人間達によって構成されている自警団でもどうにか対処できる程だ。
しかしその数はあまりにも多く、更に増え続けている以上まともに相手をすれば消耗するだけ。
故に里の住人達は避難する事だけを考え、解決を博麗の巫女に任せる選択を選んだ。
妖怪と隣り合わせに生きる幻想郷の住人らしい考え方だ、そして今の橙にとってこの状態は好都合でもあった。
(次の角を曲がって、真っ直ぐ……)
ある記憶を思い浮かべながら、黒い獣達に見つからないように気配を殺しつつ移動する橙。
彼女が向かう先、それはもちろん現在主達に留守を任されている八雲屋敷である。
しかし橙には藍と違い紫のスキマを扱える力量は無い、なので紫が秘密裏に里の至る所に展開しているスキマのゲートを目指していた。
まずは屋敷に戻り、里の現状を藍達に報告しなければならない。かといって焦ればたちまち黒い獣達に発見されるので慎重に。
(後は、この細い路地を通れば……!)
前方に捉える、本来ならば行き止まりである路地に意識を向け、橙は一気に地を蹴った。
……慎重に行動する、まだ幼い橙だが彼女なりにそれを意識してきた。
その甲斐もあって今の今まで彼女は黒い獣達の目をすり抜け、屋敷へと続くスキマへと辿り着いたが。
「っ!?」
橙は、誰にも見つからずに路地裏に入るチャンスを自ら潰し、真横へと跳んだ。
「……え?」
幸いにも周囲に橙以外の人影も黒い獣も存在していない、だというのに彼女はその場から動けなくなった。
自然と頬には冷や汗が伝い、静寂な場が息をするのも躊躇われる重苦しい空気に包まれていく。
「――――なん、で」
自分はその場から動かず、身構えているのだろうか。
屋敷まであと少し、今は一刻も早く戻り主達に連絡しなければならないというのに。
橙の獣としての本能が、これ以上進めば死ぬと告げており、彼女の動きを完全に止めてしまっていた。
「――さすがに、妖獣は第六感に優れる」
場に響く、少女の声。
むろん自分のものではなく、かといって先程確認した通り周囲には誰もいない。
では今の声は何なのか、彼女の困惑が強くなると同時に。
「っ、うっ……!?」
身の毛がよだつような悪寒が走り、全力で身体を横に移動し。
衝撃が、橙の頬を掠め僅かに鮮血が舞った。
「は、ぁ……!?」
今のは、何だ。
第六感に従い咄嗟に身体を動かした、それと同時に
それは理解できる、だが改めて周囲を見渡しても人影1つ見当たらない。
では視認できないほどの超長距離から奇襲を仕掛けられたのか、とにかく今の不意打ちは橙にとってあまりに不可解なものであった。
「っ、にゃ……っ!?」
またしても全身に襲う悪寒が、橙に生命の危機を知らせる。
姿は見えない、だが確かに今自分は何者かによって攻撃を受けていると看破し、橙は意識を研ぎ澄ませる。
「ぎ……っ!?」
鳩尾に叩きつけられる鈍痛。
肺から強引に空気を吐き出され、橙の意識が一瞬途切れた。
衝撃からして拳か蹴りによる打撃だと理解するが、その攻撃の軌道はまるで読めない。
いや、そもそも攻撃どころか相手の姿すら見えないというのは一体どういう事なのか。
傍から見れば、橙の一人芝居にしか見えないある種滑稽な光景。
「が、ぅ……っ」
しかし確かな衝撃が的確に彼女の身体へと叩き込まれていた。
鳩尾の次は左肩、右肩、左脇腹へと続き再び鳩尾に衝撃が押し寄せる。
「ぅ……」
怒涛の連続攻撃、それでも橙は意識を失わずに立っていた。
相手の姿も攻撃の軌道もまるで見えず、サンドバックのように殴られ続ける彼女がいまだ意識を失っていないのは、獣としての第六感が働いているから……ではない。
――加減されているのだ、姿も見えぬ相手に。
一思いに壊そうとはせず、じわじわと嬲るように、まだ幼い橙を痛めつけているのだ。
「っ、ぐ、うぅぅ……!」
悔しい、完全に遊ばれているというこの状況に橙は痛みとは違う理由で顔をしかめた。
冗談ではない、自分の未熟さなど彼女とて判っているが、かといって今のように弄ばれる事を認めるつもりは毛頭ない。
せめて一矢報いてやる、そんな気概を胸に秘め橙の瞳に強い意志の色が宿るが。
「は、か……っ」
そんな決意すら、拳の雨の中では無惨に消え去ってしまった。
抵抗する姿が気に食わないのか、正体不明の拳撃は一気に激しさを増し橙の身体をつるべ打つ。
式神を降ろし普段より力を増している事など知らぬとばかりに叩き込まれる攻撃は、確実に橙の身体を壊しその命を奪おうと迫る。
(駄目……このままじゃ……!)
何も出来ぬまま殺される、それだけは駄目だ。
自分は主から留守を頼まれた、そして友人である聖哉の事を守らなければならない。
こんな所で無様に殺されるなどあってはならない、その想いのみで橙はかろうじて致命傷を避けていた。
しかしそれもいつまで保つか、既に頭を守ろうとガードの体勢のまま固定している両腕の感覚は殆ど無い。
妖術を使おうにも、そちらに意識を向ければすぐに拳撃によって命を刈り取られる。
それ故に、橙は攻撃も逃走も許されずただ防御と回避だけに追い込まれていた。
いずれその均衡も終わりを告げ結末が訪れると判っていながらも、それ以外の選択を選ぶ力量はまだ彼女には存在していない。
「――侮った。化け猫風情が」
敵の声が響く。
その声には明らかな怒りと苛立ちが混じっていた。
「遊びすぎた、な」
「!!」
ゆらりと、見えない筈の敵の姿が見えた気がした。
次に放たれる一撃は今までのものとは違う、当たり前のように理解して最大限の警戒を抱き。
「――――!!??」
しかし橙は、致命傷を避ける事ができなかった。
……意識が落ちていく。
打たれた箇所はこめかみ付近、その衝撃は脳を揺さぶり思考を削る。
勝敗は決まった、橙の身体はそのまま前のめりに倒れていき。
ガ、と。
彼女の細い首を、敵が勢いよく掴み上げた。
「がっ、は……」
堕ちかけていた意識が戻る。
苦しい、息ができない、足をばたつかせこの苦しみから逃れようと橙は両腕を首元に伸ばし――何かを掴んだ。
目には見えないがこれは人の腕、細くしなやかな感触はおそらく女性のもの。
「ぁ、が……」
掴んでいる筈の腕は細いのに、締め上げる力はまるで万力のようだ。
名状し難い苦しみが覚醒しかけた橙の意識を再び奪っていく。
「は、ぁ……」
視界が霞む、既に殆ど見えなくなったその目で……橙は漸く、敵の姿を確認できた。
予想通り見えざる敵は女性、しかしその背丈は橙と同じ程度の小柄なものであった。
全身を包む黒い外套から覗く燃えるような赤い髪、橙を掴み上げている両腕を覆う白銀の手甲のようなパーツが目に付いた。
「ぎ、ぃ……」
「……少しは、楽しめた」
「かっ……!?」
少女の両腕が脈打ち、更なる力を持って橙の首を締め上げていく。
だらりと、橙の両腕が少女の腕から離れる。
痙攣を繰り返し、虚ろな目で虚空を見つめる彼女の瞳に、既に光は無かった。
しかしまだ生きている、式神を装着した恩恵か橙の命はまだかろうじて繋がっている。
だが無意味、それに気づかぬ少女ではない。
口元に歪みきった残虐な笑みを浮かべ、赤い髪の少女は握り潰そうと力を込め。
「おい」
地の底から響き渡るような声を聞き。
凄まじい衝撃に襲われ、橙を放すと同時に少女の身体は後方へと吹き飛んでいった。
地面へと落ちていく橙を右腕で抱きかかえる1人の男。
「げほっ、ごほっ、げほっ!!」
激しく咳き込み、どうにか命の灯火を消し去る事を免れた。
橙の生存に彼女を抱きかかえた男はほっと安堵の表情を浮かべ……すぐさま相手を射殺すような視線で、自身が蹴り飛ばした少女を睨みつける。
「…………犬渡、聖哉」
「……」
邪魔をした存在が、前に地底で戦った白狼天狗の男、聖哉だとわかり少女の顔が険しくなる。
自身の邪魔をされたのだ、少女が聖哉に怒りを抱くのは当然ではあったものの、彼女はそれらをすぐに霧散させてしまう。
何故か、などと問う必要などない。
自分を睨む聖哉が、いまだかつて見た事がないような憤怒の色を込めた目で此方を睨んでいるのだ、怒りよりも恐怖が少女の中で膨れ上がるのは当然であった。
「げほっ、ぅ……聖哉、さん?」
「……橙、屋敷に戻れ。コイツは俺がなんとかする」
「えっ……げほっ、そ、そんなの無理ですよ。だって聖哉さんの左足と腕は……」
相も変わらず、聖哉の左足と左腕は無い。
器用なもので彼は片足だけで立っているが、とてもではないが戦闘ができるとは思えなかった。
それは聖哉とて判っている筈だ、それなのに彼は。
「――いけ。橙」
決して反論できぬ迫力で、橙を完全に黙らせてしまった。
「聖哉、さん……」
「早く行け、橙」
橙の身体を降ろす聖哉、自分の足で立った橙はどうすればいいのかわからず視線を泳がせる。
そんな彼女を一瞬だけキッと睨み、ここから消えろと彼女に視線で訴えた。
睨まれ、ビクッと身体を震わせた橙は、迷うように聖哉へと一度視線を向けてから……屋敷へと繋がる路地裏へと走っていった。
「……邪魔をするか、そんな身体で」
すぐに追いかけなければ、頭ではわかっている少女だが、今はそれができない。
少なくとも目の前に居るこの白狼天狗を消さなければ、逆に自分が消されると予感していたから。
肉体は満身創痍の筈だというのに、五体満足で戦ったあの時とはまるで別人のように感じられる。
虚勢を張っていなければ容易く聖哉のプレッシャーに呑み込まれる、それほどの気迫が今の彼からは感じられたのだ。
「無様な姿だ……どけ、犬に用はない」
「…………名前」
「?」
「お前……名前、なんでいうんだ? 訊いた事がなかったから」
「なに、を……」
おかしい、この男は前とは違う。
凄まじい重圧を放っているのに、放たれた声は不気味なほど落ち着いている。
肉体と精神が合致していないようなちぐはぐさだ、それが余計に不気味さを引き立たせていた。
「…………あとり」
答える意味も義理もない、だというのに少女――あとりは自分の名を告げていた。
……彼女は気づかない、それが自分の結末を決める言葉だと。
終わりへの時は、もうすぐそこまで迫っている事を……彼女は気づく筈もなく。
「ああ、もう……いいな」
「さっきから、何を……」
「名前聞いたから――もう、殺していいな」
瞬間、彼は“変わった”。
巻き起こる烈風、漆黒の輝きを見せるそれは生命エネルギーの奔流であった。
目に見える程の力の塊、天狗はおろか大妖怪すら容易く超える容量を、白狼天狗である筈の彼1人が放出している光景は、何かの間違いだと疑いたくなる。
「……そんな、ばかな」
掠れた呟きが、あとりの口から漏れる。
ありえない、これだけの力を放出する事などできるわけがない。
そもそもこれだけの力、犬渡聖哉という白狼天狗が持つ力ではない筈だ。
絶対的な矛盾を前にして、あとりの思考は完全に停止していた。
『おーおー、ビビッちゃってまあ』
「……」
一方の聖哉は、自らが持たぬ筈の力を放出しながら……聞き慣れない筈の聞き慣れた声を聞いていた。
『許せねえよなあ、あの女は』
「……」
『お前の世界を汚そうとした、お前を心配し看病してくれたあの猫ちゃんを無意味に殺そうとしたんだ。
――怒れ、憎め、その感情のままに全てを蹂躙しろ。お前にはそれだけの資格がある!!』
歓喜に満ちた声が、聖哉を変えていく。
立ち上る力は激しさを増し、圧倒的なまでの生命エネルギーは……聖哉の肉体に変貌を齎す。
『里の人間も何人か犠牲になった、外じゃ地獄鴉のお嬢ちゃんが人形みたいに利用されていやがる。
許せないだろ? そう思うんなら我慢する事はない、この力を思うがままに開放しろ!!』
ゴキゴキという不協和音を響かせ――聖哉の身体が再生していく。
お空によって消し飛ばされた腕と足は、前と寸分違わぬ姿で元へと戻った。
その再生スピードは吸血鬼にすら届きかねない、だが変化はそれだけではなかった。
『枷の1つは外れやがった、思う存分暴れてみろ!!』
「…………ウゥゥゥゥゥゥッ」
低い唸り声、獲物を見つけた獣の如し獰猛さを隠そうともしないその声は、対象に死の恐怖を感じさせる。
四つん這いになり、聖哉は両足の筋肉を膨張させていった。
数秒後の爆発に備えたそれを前にして、あとりは逃げる事もできないまま。
「――ガアアッ!!」
獣の雄叫びを上げた聖哉が、地面を踏み砕きながらあとりへと接近し。
既に自身の敗北を当たり前のように悟った彼女の顔面へと、漆黒のオーラが纏った右の拳を叩き込んだ……。