狼王戦記 ~黒き白狼天狗の軌跡~ 作:カオ宮大好き
「ぬおおおおっ!!」
繰り出される拳の乱打。
聖哉と同等程度の巨体からは想像もできない程に速く、想像通りの威力の拳が聖哉を襲う。
絶え間なく続く猛攻に、少しずつ確実に聖哉の守りが崩されていく。
「くっ……!?」
右頬に相手の拳が掠め、それだけで鮮血が舞う。
まともに受ければ拙いが、“千里眼”を発動している聖哉でもゾアの拳を完全に見切る事はできなかった。
反撃など望めない、今行っている守りを止めればすぐに彼の身体には風穴が開く事になる。
「っ……!?」
左頬に衝撃。
ついにゾアの拳が聖哉の身体を捉え、更に追撃が迫る。
体勢を低くして拳を避け、カウンターの要領で右足でゾアの身体を蹴り上げる。
しかしゾアはダメージを追いながらも左の拳で聖哉の頬を殴りつけた。
「うらららああっ!!」
「うっ……!?」
再び、状況は振出しに戻る。
好き勝手に攻撃を許し、防戦一方に陥る聖哉。
まるで閃光のような速度、それでも聖哉はゾアの猛攻を耐え凌ぐ。
“千里眼”による先見の目、黒いオーラによる強化、自身が出せる最大限の手を使って彼は戦いを継続していた。
――だが、それもいつまで保つか。
ゾアの力は想像以上のものだと最初の一撃で理解し、今もこうしてただ攻撃を許すばかり。
先程から加減などせずに全開で戦っている、それでもこのような状況に立たされていた。
〈おーおー、苦戦しちまってまあ……オレの力を少しは上手く使えるようになったが、まだまだだな〉
小馬鹿にしてくるヴァンの声にも、反応する余裕がない。
とにかく今は防戦に徹し、相手の隙を見つけるしかないのだ。
「ぬううんっ!!」
「がっ!?」
ミシ、という骨が軋む音が響く。
ゾアの右の拳がまともに聖哉の胸部を打ち、彼の身体を大きく後方に吹き飛ばす。
肺から空気が吐き出され呼吸ができないながらも、聖哉はどうにか体勢を立て直した。
「先輩!!」
「……はぁ、はぁ……」
息が苦しい、肺にダメージが入ったのか呼吸をするだけで痛みが走る。
対するゾアは息一つ乱さず、本当に楽しいと言わんばかりの笑みを浮かべていた。
「…………フフ」
「……?」
「自分の予想が外れるというのは、楽しいものだな」
「何を……」
「オレはこの魔界ではそれなりに名が通っていてな、だからこそオレを倒そうとする輩がよく現れる。
数十年、いや数百年と戦い続け……その殆どを、この拳だけで叩き潰してきたのだ」
「……」
「だがお前はオレの拳に耐えている、そんなヤツに出会えたのは……一体どれくらい振りだろうな」
不敵な、しかしある意味では純粋な笑みを見せるゾア。
……改めて聖哉は思う、目の前のこの男は生粋の戦士なのだと。
「――かあああっ!!」
「っ」
「確かめさせてもらうぞ聖哉、お前がどこまでいけるのかを!!」
そう言って、ゾアは両手を天に掲げ唸り声を上げていく。
一体何をするつもりなのか、聖哉がそう思った瞬間――雲を吹き飛ばしながら、何かがゾアの前に突き刺さる。
それは、鉄塊だと錯覚してしまう程の分厚い刀身を持つ、剣であった。
赤い刀身は絶えず熱を放ち、突き刺さった地面を少しずつ
「
剣を抜き取り、地を蹴ってゾアが聖哉に迫る。
両手で持った剣を右上段に構え、肉薄してくるゾアに聖哉はすぐさまオーラで生成した剣を両手に生み出した。
〈バカ野郎!!〉
珍しいヴァンの焦りが含まれた声が頭に響く。
振り下ろされるゾアの剣、それを両手で持った剣を交差させて受け止めようとして。
「っ、ぐぁぁ……っ!?」
あっさりと、オーラの剣は炎魔刀の一撃によって砕かれ。
速度を落とす事なく、斬撃が聖哉の身体を薙ぎ払った。
「先輩!!」
「ぐ、う、ああぁぁ……」
燃えている、斬られた箇所がじゅうじゅうと音を立て焼けていた。
間一髪、上体を逸らす事で致命傷を避けたもののダメージは決して小さなものではない。
痛みと熱で意識が断裂しかかるが、歯を食いしばってどうにか右膝を突いて地面に倒れるのを防ぐ。
「器用なヤツだ、だがさすがに受けきれなかったようだな」
「はぁ、はぁ……」
「だというのにその闘気に満ちた目、まだ戦う意志があるのはたいしたものだが……お前の力では、オレの剣は受けられん」
「く、そ……」
悔しいが、ゾアの言っている事は正しかった。
先程オーラで生成した剣が簡単に砕かれたのだ、つまりこの力だけではあの剣には対抗できない。
……武器がいる、強力な武器が。
埋められぬ実力差を覆せるような、強い武器が無ければこの状況を打破する事はできない。
「次の一撃で決着を着けるぞ!!」
「くっ……!?」
「――先輩、これを!!」
やられる、そう思った瞬間――椛の声が耳に響いた。
見ると彼女は聖哉に向かって何かを投げ放ち、反射的に彼はそれを左手で掴み取った。
彼女が投げたもの、それは美しい黒塗りの鞘に収められた刀であった。
「これは……まさか」
ある記憶が脳裏に呼び起され、聖哉は体の痛みも忘れ右手で鞘から刀を抜き放った。
同時に視界に飛び込んでくるのは、まるで濡れているかのような霞仕上げの美しい白銀の刀身。
長さは柄も合わせておよそ四尺ほど、平均よりも長いがまるで重さも感じられず手に吸い付くかのように馴染んでいる。
(間違いない、これは……)
かつて、まだ自分が今よりも未熟で若かった時。
初めて天魔と会話を果たし、その彼女が腰に差していた刀だ。
遥か昔に天狗一、否、妖怪一と謳われた名工が己の魂を懸けて完成させた名刀。
――銘は、“妖刀・風王”。
本来ならば天魔を名乗る事が許された天狗しか持つ事が許されぬ筈の剣を握りしめているという事実に、聖哉は驚きを隠せなかった。
「天魔様から譲り受けました、それを使ってください!!」
「……俺が、この剣を?」
「面白い、なまくらではない事を祈ろうか!!」
ゾアが迫る。
反応が遅れ、聖哉は慌てて左手に持つ鞘を投げ捨て剣を両手で構えた。
「ぬううっ!?」
「うわっ!?」
刀身がぶつかり合う、同時に――風王の刀身から凄まじい風が発生した。
小さな台風とも呼べるその風は、踏み込んでいたゾアの巨体を大きく吹き飛ばす。
「……」
なんという凄まじい風だったのか、一瞬とはいえそのパワーは天魔の風に匹敵していた。
「……主人の危機に、剣が応えたか」
「えっ?」
「真の武器には意思が宿っている、刀自身の意思が主人と認めたお前の助けになろうと自らの力を開放したのだ」
「主人? 俺が、この剣の?」
「真の武器に宿る意思は清流の如し澄み切ったモノ、お前の純粋で強大な闘志に惹かれ力を貸したのだ。――何の不思議もあるまい?」
楽しげに笑みを作り、ゾアはそう言った。
だがその言葉に聖哉は驚く事しかできず、同時に信じる事ができなかった。
この剣が、握ったばかりの自分を主人と認め力を貸すなど本当にありえるのか。
天魔と呼べるだけの力を持つ天狗にしか扱えず、力を発揮できない筈の剣が応えてくれるなど……信じられる筈もない。
「言った筈だ。お前はお前自身の力を理解していないと、その剣はお前の魂を感じ取りお前ならば自身を使いこなせると判断した。――全く、次で終わらせるのが惜しくなってしまったわっ!!」
ゾアの身体から、強大なエネルギーが吹き荒れ始める。
それは炎、ただしそれは地上の炎ではなく――毒々しい濃い紫色の、魔界の炎。
「やはりオレの眼は曇ってなどいなかった、お前の力に敬意を称し……オレの最強剣で決着を着けようぞ!!」
「っ」
「それこそがお前に対する最大限の礼儀と知れ、聖哉!!」
吹き荒れる炎が、炎魔刀の刀身に集まっていく。
それだけで理解できる、次に放たれる一撃はゾアの言う通りまさしく最強の一手だと。
――ならば、こちらも最大の一手で勝負するのが礼儀!!
「――うおおおおおっ!!」
「きゃっ!?」
吹き荒れる烈風。
聖哉の闘気と叫びに応えるかのように、風王の刀身から荒れ狂う風の塊。
秒を待たずに臨界まで達したそれは周囲の岩肌を削り、砕き、尚も勢いを増していく。
「フフッ……いいぞ聖哉、それでこそだっ!!」
歓喜に震えるゾアの剣にも、もはや近づく事すらできぬ熱量の炎が込められていた。
炎の剣と風の刀、両者の力はただ主の命を待ち力を放ち続ける。
「まだだっ!!」
しかし。
限界を超えたその先へ、聖哉は向かおうと風王に黒いオーラを纏わせていった。
烈風と絡み合ったそれは漆黒の風と化し、その凄まじさに椛だけでなくゾアもおもわず魅入ってしまった。
圧倒する力は禍々しくも美しく、他を圧倒する最強の剣を生み出している。
〈やるじゃねえか。楽しそうな喧嘩だったから途中で代わろうかと思ったが気が変わった、お前のその力……見せてみろよっ!!〉
(言われずとも!!)
睨み合う聖哉とゾア。
互いの距離はおよそ七メートル、どちらも一息で踏み込める距離だ。
ゾアは右上段に、聖哉は真横に剣を構えそして。
「――――勝負!!」
まったくの同時に、両者は力強く地を蹴った……!
「受けよ聖哉、我が最強剣を!!」
先手はゾア、彼は右上段に構えた炎魔刀に己の全ての力を込め。
「――
一刀の元に斬り伏せようと、振り下ろす!!
「っっっ」
迫る炎の剣。
避ける事などできない、掠りもすればそれだけで肉体を消し飛ばされる。
……カウンター気味の攻撃で決着を着けようとした思惑が、見事に外れてしまった。
なので聖哉は、刀身を僅かに下向きにする。
スローモーションのように、剣が眼前に迫ってきている。
一秒も待たずにこの一撃は聖哉の身体を両断し、その熱で骨すら残さずに燃やし尽くすだろう。
――尤も、それは。
「風王――」
その一撃が、まともに命中すればの話である。
「ま、まさかっ!?」
ゾアの表情が驚愕に変わる。
聖哉の目は彼ではなく、自身に迫る炎魔刀に向けられていた。
「――天空斬!!」
漆黒の風に包まれた剣が、炎魔刀に向かって振り放たれる……!
「くぅ……っ!!」
衝撃が、周囲のものを吹き飛ばしていく。
地面を踏みぬく勢いで両足に力を込め、椛はどうにかそれに耐え続けた。
勝負の行方を見届けなければ、その一心でバラバラになりそうな衝撃にも耐え……。
「っ、えっ……!?」
自分の真横を、何か大きなものが凄まじい速度で通り過ぎた。
それと同時に響く爆音、背後の岩山が崩れ落ちる音だと認識しながら、椛は後ろへと振り向いた。
舞い散る岩の破片と、瓦礫の山と化している岩山。
「……先輩!!」
それでわかった、真横を通り過ぎた存在はゾアとのぶつかり合いで吹き飛ばされた聖哉であり、そのまま彼の身体は岩山の中へと沈んでいったという事が。
……聖哉が出てくる気配はない、呼びかけても返答が返ってくる事はなかった。
「――オレの勝ちだな」
「っ」
正面へと向き直る、そこには不動のままのゾアの姿があった。
憎しみを込めた目で睨みつつ、彼女は背中の太刀へと手を伸ばすが。
「いや、今回は……引き分けか」
「えっ?」
ゾアの呟きを耳に入れた瞬間。
彼の身体に亀裂が走り、視界が赤一色に染まる程の血がゾアから噴き出し始めた。
「ぐ、おぉ……そうでなくては、な……」
口元に笑みを見せつつも、立っていられないのか片膝を突くゾア。
凄まじいまでのダメージだ、並の妖怪ならば既に死んでいる。
「……あの瞬間、ヤツは攻撃の目標をオレではなくオレの技そのものに変えた」
「わ、技そのもの……?」
「躱して反撃する事ができぬと一瞬で悟り、あえて己の技とぶつけ合う事によって相殺させたのだ。
いや、相殺ではない……ヤツのパワーはオレの炎魔剛覇斬を上を行き、こうしてオレの肉体にここまでのダメージを与えた」
それを考えると、今の攻防は自らの敗北だとゾアは語る。
だというのに、痛みに耐えながらも彼は口元の笑みを絶やさない。
「これだけの相手との戦いを一度で終わらせるのは、惜しいな」
「……随分と余裕を見せているな」
「そうではないさ、ヤツとて無傷というわけではない。勝負は預けるという事さ」
そう言って、ゾアは傷を押さえながらゆっくりと飛翔する。
「ヤツに伝えておいてくれ。――お前とはまたいずれ戦う宿命にあると」
「……」
「フッ……本当にヤツは、良いパートナーに恵まれているな」
ゾアの姿が小さくなっていく。
しかし椛はそれには構わず、すぐに彼を救出しようと瓦礫の山へと向かっていったのだった……。
◆
一方、白蓮達の元へと向かった一輪達であったが。
ゾアの言う通りの方角に進み、彼女達は確かに白蓮達と再会する事が出来た。
およそ千年、一度たりともその姿を忘れた事はない。
しかし、彼女達は白蓮を前にしてもその場から動けないばかりか声を出す事もできなくなってしまった。
「一輪、皆さん!!」
星が一輪達の元へと駆け寄ってくる。
見た限りでは怪我もなく、しかしその表情は喜びの他に明らかな困惑の色が見えていた。
当たり前だ、何よりも一輪達も目の前の光景を見て同じ顔になっている。
「……星、これってどういう事なの?」
ぬえが問いかけるが、星は何も言わず黙って視線をある方向へと向ける。
そこに広がる光景は……やはり、何度見直しても理解が及ばぬものであった。
「う、うぅ……」
「……」
「ね、姉さん……どうして……?」
地面に倒れ、苦しそうに息を吐きながら白蓮を見つめる命蓮。
彼の身体には幾重もの傷が刻まれ、大きなダメージを負っているというのが判る。
それだけでも不可解だというのに、何より彼にそれだけの傷を負わせたのが。
「どうしてだ姉さん……どうして、僕に攻撃なんか……」
彼の姉であり、彼が助けようとしていた聖白蓮なのか、理解できない。
困惑に満ちた表情を見せる彼を見下ろす彼女の目には、確かな哀れみと怒りが渦巻いている。
「僕は姉さんを助けようとしたんだよ? それなのに、どうしてこんな……」
「……まだ判らないのですか? 貴方は星達を……私の家族を傷つけたのですよ?」
「家族……だって? 何を言うんだ姉さん、姉さんの家族は僕だけだ……弟である、僕だけじゃないか!?」
「いいえ、貴方は命蓮ではないわ。今の貴方はかつての命蓮の後悔と未練が現世に留まり、そのまま歪んでしまったモノに過ぎない。それは貴方自身も判っている筈」
鈴のような澄み切った声で、白蓮はただ淡々と事実を話す。
そう、彼は聖命蓮ではない。姉であり彼の最期をこの目で看取った白蓮だからこそそれが強く判るのだ。
「命蓮は死んだのよ。私の目の前で……最期まで自分の事より私の幸せを願ったまま」
「……」
「元の貴方は確かに命蓮から生まれたモノかもしれない、けれど……長い年月の果てに歪み切った今の貴方は、私の知っている命蓮ではないのよ」
「…………違う、違う違う違う違う!!」
認めたくないと首を激しく横に振りながら、命蓮は起き上がった。
「僕は聖命蓮、聖白蓮の弟であり唯一の家族だ!! この力も、この想いも、聖命蓮のモノだ!!」
「……」
「姉さんを幸せにする為に僕はここにやってきたんだ、人と妖怪の共存などという決して叶わぬ夢の為に自らを犠牲にする姉さんを、幸せにするのが僕の願いなんだ!!」
「叶わぬ夢……貴方は、本気でそう思っているの?」
「当たり前だよ姉さん!! 姉さんこそ何故その夢を今も追い求めているんだ、千年前に人間達に封印されたというのに……そんな世界など、存在しないと思い知らされたのに何故!!」
「――私はまだ、その夢を諦めていないわ」
その言葉は、強い決意が乗せられた言葉であった。
一切の曇りもなく、迷いもなく、聖白蓮という女性は真っ直ぐに言い放つ。
たとえその夢を追い求めた果てに封印されたとしても、いつかはきっと……夢は叶うと信じ続けていた。
「……どうして」
白蓮のその姿を目の当たりにして、命蓮は言葉を失った。
どうしてどうしてと、壊れた機械のように同じ問いかけを繰り返す事しかできなくなってしまった。
「私一人では叶えられない、でもね命蓮……私には私と同じ志を持つ仲間が、家族が居てくれるのよ」
言いながら、白蓮は一輪達へと視線を向けた。
「こんな私の為に、魔界まで来てくれた。
私を慕い私を助けてくれるみんなが居てくれる、だからこそ私は夢を諦めずに前を向いていられるの」
だからこそ、白蓮には許せなかった。
星達を傷つけ、酷い目に遭わせた目の前の存在を。
たとえ元が最愛の弟から生まれたものであったとしても、白蓮にとって目の前の青年は聖命蓮ではない。
……残酷な事をしているというのは、理解している。
今の彼がどう歪んでいるにせよ、自分を救おうとしているその心は純粋であり本物であるから。
それを踏み躙っている、蔑ろにしてしまっているというのは……正直、白蓮も辛かった。
「また裏切られるだけだ、人と妖怪は決して交わらない水と油と同じ……太古の時代から決して変わらない事実じゃないか!!」
「そうかもしれないわ、でも私は諦めたくないのよ……」
「そんなのおかしいよ……幸せにならないといけない姉さんが、自らを犠牲にするなんておかしいじゃないか!!」
「…………やっぱり、貴方は命蓮ではないわ」
「な、何を……」
「私の知っている命蓮はそんな事言わない、たとえ私がどれだけ無茶なことを言っても苦言は呈するけど否定する事はなかったわ」
「そ、そんな……僕はただ姉さんの幸せを……」
「さようなら、命蓮」
それが、決定的となった。
決別を意味する言葉を白蓮から放たれ、命蓮の思考が停止する。
まるで抜け殻となった彼に白蓮はそれ以上何も言葉を掛ける事はせず、黙って彼に背を向けた。
「――行きましょう」
「えっ、で、でも聖……」
「いいのです。――行きましょう」
「甘いですわね。私としてはここで始末しておきたいのだけれど」
そう言い放つのは、先程まで沈黙していた紫であった。
あの男は幻想郷に災いをもたらした、賢者として見過ごす事はできない。
「貴女は?」
「八雲紫。古代から生きる者ならば知っているでしょう?」
「貴女があの……ですが紫さん、ここはどうか見逃してはいただけませんか?」
「それが甘いというのです。あなたとてあの男を生かしておくのは危険だと思っているのではありませんか?」
「……」
白蓮は答えない、しかし紫は彼女の答えなど求めていなかった。
彼の想いなど興味は無いし同情などしてやらない、あの男のせいで幻想郷の地に傷跡が刻まれたのだから。
だから紫は容赦も躊躇いもなく、男に向かって右手に持つ扇子から妖力弾を放つ。
弾幕ごっこの時とは違う、破壊力と殺傷力に特化した他者の命を奪うための攻撃。
一発でも家屋を消し飛ばすそれを八発、全てが迷う事無く命蓮の身体を釣瓶打ちにしようとして。
「なっ……」
命中した、そう思った瞬間。
突如として、何の前触れもなく命蓮の身体が消え去ってしまった。
地面に当たった妖力弾が爆発を引き起こし、大地を砕く。
(逃げた、でも……)
周囲の気配を探る紫だが、命蓮の法力は感じられない。
何か法術を用いて逃げたのならば力の残滓が残る筈だが、それも感じられない。
つまり彼は何の力も使わずにこの場から逃げたという事になるが、そんな芸当ができるとは思えなかった。
「き、消えた……?」
「逃げたの……?」
「……いいえ、ですが今はここから離れた方がいいかもしれませんわね」
「私も紫さんの意見に賛成です。みんな、すぐに聖輦船へ乗って」
白蓮の言葉に、釈然としないながらも全員が聖輦船へと乗り込んだ。
そして白蓮は己の法力を開放し、聖輦船が浮上を始める。
聖輦船の速度は速く、あっという間に先程までの場所が見えなくなってしまった。
「……」
緊張の糸が緩んだのか、白蓮の周りに涙目となった星達が集まっている。
無理もない、何せ千年以上離れ離れになっていたのだ、こうして無事に再会を果たしたのだから泣き喚かないだけマシというものだ。
そんな光景を離れた場所から見つめつつ、紫の思考は別の事を考えていた。
(命蓮に逃げる意思は感じられなかった、だとすると第三者が彼を逃がした? それも力の残滓を感じさせないように?)
だとすると、その第三者は凄まじい力の持ち主だ。
大妖怪である八雲紫の感知能力からも逃れ、命蓮を逃がすなど……それこそ神の一柱ですら困難だ。
かといって彼を助けた理由も検討が付かない、思考を巡らせ続けるが判ったのは『判らない』という答えだけ。
なので紫は思考を放棄し、そっとため息を吐き出した。
とりあえず今回の事は後回しにするべきだ、幻想郷に戻ってやるべき事があるのだから。
(……今はただ再会を喜びなさい聖白蓮、あなたには幻想郷に戻り今回の責任を背負ってもらわなければならないのだから)
背中を船に預け、紫は座り込む。
まだ力が完全に戻っていないのか、目を閉じると予想以上の消耗を感じ意識が淀んでいき。
彼女は静かに、疲れを癒すために眠りの世界へと旅立っていった……。