僕は訊かなくていいことを問いかけてしまった。
「ありふれた言葉って、なに?」
※愛里寿は19歳の設定です。
そのリゾート地は、日本のようには思えなかった。
ビーチ沿いに幾つものパームツリーが立ち並び、砂は輝くように白い。
何よりも、人っ子一人いない。
そう。
ここはプライベート・ビーチなのだ。
日本を代表する戦車道の名門、島田家の。
「あら、祐二くん。そんなところにいたの?」
後ろから、艶めかしさを伴った女の声が聞こえた。
振り向くと、僕の恋人がいた。
島田愛里寿。
19歳。
美しく聡明な女性だ。
そのうえ、戦車道の腕前は超一流ときている。
非の打ち所がない。
そんな彼女が、酔いざめのヌードをバスタオル一枚で隠し、はにかむように微笑んでいる。
僕は頬にほてりを感じた。
つい数時間前、彼女の体と交わっていたことを思い出したのだ。
はっきり言って、さえない風体の僕のような男が、こんな破格の女性と付き合っているのには、きっかけがあった。
ボコられ熊のボコ。
かなりマイナーなキャラクターだが、僕と彼女が共通して大好きなキャラクターだ。
僕たちは、数年前、このボコを愛する会のオフ会で出会い、恋に落ちた。
「ね。どうしたの、ぼんやりとして?」
「あぁ、少し酔いすぎたみたいでさ。夜風に当たりたかったんだ」
「ふふふ。今日の午前中は大変だったものね。気を使いすぎたから、お酒をたくさん飲みたくなったんじゃない?」
「かもしれないね。その……君のお母さんは少し、おっかないから」
「そうね」
愛里寿が優しく微笑む。
「でも、よかったわ。お母様も、私たちの仲を認めてくれて」
「うん。一安心だよ。あ……そうだ」
「なぁに?」
「これ。面白いものを見つけたんだけど」
僕は短パンのポケットから、一枚の作文用紙を取り出す。
それは丁寧に折りたたまれた、古い作文用紙だ。
「あ、それって」
「さっき、机の引き出しから出て来たんだ」
「やだ。そんなの読まないでよ」
「いいじゃないか。むしろ感心したよ。小さいころからすごく賢かったんだね」
「そんなわけじゃ……」
「これを小学四年生が書いたんだ。賢くないわけがない」
僕は、恥ずかしがる愛里寿が可愛くて、声に出して朗読する。
こんな詩だ。
ありふれた言葉を返してください
あの単純でいとおしい言葉を
私の口は
失ってしまいました
ただのありふれた4文字を
井戸を掘り
深くうずめた
感情は
私の心で死んでいます
返してください
ありふれたあの言葉を
ありふれた言葉を
返して下さい
この世界が失った
ただの言葉を
私たちのもとに返してください
「や、やだ……」
「こりゃ褒められるわけだよ。子供が書くにしては、意味が深そうだ。当時の教師は驚いただろうな。小さな可愛い女の子が、急に文学を書いてくるんだから」
「もうっ。この部屋に泊めるんだったら、ちゃんと点検しておくべきだったわ……」
僕たちが今夜を過ごしている、この別荘は、愛里寿が小さいころによく泊まりに来た別荘らしい。
それで、子供のころの作文が机の中にたまたま残っていたというわけだ。
「ね。この詩って、どういう意味なの?」
「教えてほしい?」
「うん」
「それはね、呪いの言葉よ」
「え?」
予想外の単語が出てきた。
「呪い?」
「そう。それは、私の心を刻んだ、呪詛の詩」
「ど、どういうこと?」
「私ね、子供の頃。人を殺したの」
「え?」
夜風が吹いた。
「今と違って、子供の頃はおバカだったのよ。家元の娘だ、私はすごいんだって調子に乗って。お友達が遊びに来たときにね、一人で操縦できるよって言って、戦車を動かして見せたの」
「そ、それで?」
「それだけ。操作ミスで、その子を轢いちゃった。私、びっくりしたわ。戦車道で人は死なないって教えられてたんだもの。ほんとおバカよね。戦車に乗ってる人は死なないけど、外に立ってる生身の人間は、轢かれたら死ぬわ」
「わ、笑えない冗談だね」
「冗談だと思うの?」
「だって、そんなことがあったら大問題だよ」
「お母様が、握りつぶしたの」
「え?」
「だって島田家よ。できないことはないわ」
愛里寿が怪しく笑う。
「ちょうどそのときは、夏休みだった。夏休み明けに試験があるから、そっちに集中なさいって。お母様ったら、私の友達の遺体を見て、そんなこと言うのよ。呆れちゃったし、なんだか感覚がマヒしちゃった」
僕の脳裏に、午前中に挨拶をした、愛里寿の母親の瞳が映る。
「それまでは私ね、お母様のことが大好きだったの。いつも私のことを褒めてくれて、頭を撫でてくれて。優しい人だって思ってた。でもね、そのとき気が付いたの。あ。こいつは嘘つきだって」
「嘘つき?」
「うん。私に対する愛情なんて嘘。あの人が追い求めているのは島田家という血筋が残す栄誉、それだけ。だから、私がいい成績を残しているうちは褒めてくれる。私が友達をひき殺しちゃったら、それが夏休み明けの試験に影響を与えるなら、島田家の名誉を傷つけるなら、その事実を握りつぶす」
ぶしゅうっ。
そんな擬音をつぶやいて、愛里寿が目の前で、拳を握った。
見えない何かを握りつぶすように。
「その日以来、私は、言葉を失っちゃったのよ。愛してるって言葉を。私は今日まで一度も、他人に愛してるって言ったことがないわ。愛してるなんて、安っぽい言葉でしょ。ドラマにも歌にもあふれてる。けれども、私はそのありふれた言葉が言えないの。そのことを書いた呪いの詩なのよ。あなたの今手に持っているその紙は」
僕は気味悪くなって、握っている作文用紙を落としそうになった。
僕は首を振り、震える声を上げる。
「嘘だよ。そんなの。だって君はついさっき、ベッドで僕と愛を交わしたじゃないか。そのとき何度も……」
「愛してるって、言った?」
「いや、その……」
「私は、気持ちいいって言っただけじゃないかしら」
「そんな……」
思い出そうとすると、思い出せなかった。
あの時、僕たちは熱く交わりながら、どのような会話をしただろう。
こんなありふれたことが、確かに思い出せない。
「もう一つ、教えてあげよっか」
戸惑う僕に、愛里寿が微笑みかける。
「ボコのこと」
「ボコ?」
「うん。私が、ボコを好きだなんて、大嘘」
「まさか、そんな……」
「本当よ。だって私は、なにも愛せないんだもの。あのね、ボコはね、本当に好きだったのは、その友達なの」
「戦車にすりつぶされたっていう?」
「そうよ。そのかわいそうな私の友達。コンクリートとキャタピラの間に挟まれてぐちゃぐちゃになっちゃった友達。その子が大好きだったのが、ボコ。なんだか、あのボコを見ているとね、その子のことを思い出しちゃうの。こう、包帯背負った熊のぬいぐるみがね。今にもその子自身に変身しそう。『愛里寿ちゃん、痛い、痛いよぉ』って」
愛里寿のつぶらな瞳が僕を見つめる。
その瞳には、まるで表情がないように見えた。
「あの日もね、その子。ボコのぬいぐるみ持って遊びに来ていたんだ。で、ここで死んじゃったから、ぬいぐるみは置いたまま。あの頃は、それを見るごとに私、気が狂いそうになっちゃった。だからね、埋めたの」
愛里寿が、海岸のそばのパームツリーを指さした。
「あの木の根元に。あの子の持っていた、ボコのぬいぐるみ。深く深く埋めたつもりだったけど、子供の腕力だから。意外に簡単に掘り起こせちゃうかも」
そして、ずいと僕に一歩にじり寄り、耳元で囁く。
「ね。せっかくだから、掘り起こしてみる?」
「あ、いや、その……」
「だって、その作文も見つかっちゃったんだし。もっと私のこと、知ってほしいから」
僕は、言葉が出てこなかった。
うつろな瞳で、海岸のパームツリーをにらむ。
僕は……。
「ふ、ふふふ。祐二君ったら、おかしい」
え?
唐突に、愛里寿が笑った?
「冗談。冗談よ。冗談に決まってるでしょ? そんなこと、あり得るわけないじゃない」
彼女は、かわいらしい声で、しかし、とめどなく笑う。
「ほんとおかしい。もしも私が愛することを失ったなら、どうやってあなたと恋をするの? それに、ボコのこともちゃんと大好きよ?」
僕はほっと胸をなでおろした。
そうか。
そうだよな。
常識的に考えて、そんなこと、あり得るわけがないんだ。
彼女なりの、ちょっときついジョークだったのか。
「ね、ベッドに戻ろ? 夜風が寒いわ」
「そうだね」
僕は微笑んで、愛里寿の肩に触れた。
その手触りは、絹のように滑らかで、そして温かい。
血の通った、生命の熱さだ。
二人で再びベッドに戻り、緩やかに抱き合う。
今度は交わりはせず、肌を触れ合わせあうだけだった。
「ねぇ愛里寿」
「なぁに?」
「それじゃ、あの作文のありふれた言葉ってのは、何を指していたの?」
「秘密」
僕は目を閉じた。
暗闇の中、ありふれた言葉が行き場を失い、ドロドロに溶けて地面に吸い込まれた。