「――――ッ! 」
信じられない程の拳速。凄まじいまでの拳圧。自分の遥か上を行く技量。
ビスケの本気は知っていたつもりだった。この姿の彼女とやりあうのだって初めてではない。
だったら後は発の差、戦闘用に作った自分の念と、それ以外のために作ったビスケの念。それが勝敗を分けると思っていた。何とか勝てると思っていた。
……甘かった。まるで認識が足りなかった。
「どうしたのよ、動きが鈍ってきてるわ」
堅の上からの一撃。全力で出しているにも拘らず、それはいとも容易くガードを抜ける。衝撃は全身へと響く。頭が揺れた。
それでも前へと出る。捻った体を勢いに変え、発――具現化した巨大な拳がビスケを貫く。
吹っ飛んだ彼女に追撃をかけるべく、自分の物を上回る大きな具足を作り出す。
コンクリートの床を陥没させ、限界を超える速度で前へ。同時に拳を腰に当て、可能な限りのオーラを貯める。
壁にビスケが打ち付けられ、イナギの間合いに入る――肩から具現化した腕が伸び、自身の5倍以上の大きさの拳がビスケに叩き込まれた。
……直後イナギの耳に届いた、まるで諭すような声。
「放つのはいいけど、戻しが遅い。それにまだまだ強度が足りない。もうちょっと経験つまないとこの大きさは無理みたいね? 」
「クッ! 」
咄嗟に伸びた「腕」を戻そうとして、激痛。
具現化した拳が無残にも潰され――瞬間、爆発。
もうもうと破壊されたコンクリートによる噴煙が立ち昇る中、まるで潰されたかのような激痛が襲いくるその右拳を無意識に庇いながら、俺はニヤリと笑みを漏らす。
「不用意に潰すからだ。ま、これで」
「これで、なんだい? 」
耳元から聞こえた声に振り向く――前に後頭部に衝撃。撒き戻されたビデオテープのように、同じ軌跡を描いて、同じ場所に叩きつけられる。
警戒をしていたにも拘らず、まったく捉えられなかった。
「さて、じゃあお返しに一発いっときましょうか」
その声を知覚したのと同時に、迫る拳。
考えるよりも先に、体は動いていた。咄嗟に死ぬ気で鎧にオーラを貯め、かつありったけのオーラを込めて堅を出し、同時に頭部を庇うように両腕を前に出して――
「死ぬんじゃないよ」
――その上から、凶悪な一撃が叩き込まれた。
だだっ広い、本当に何もない部屋である。
上には眩しくない程度の照明が部屋全体を等しく照らせるようにと配慮して配置されており、室内には観客はおろかそもそも客席といったものが存在していない。
周囲の壁はコンクリートが剥き出しで灰色一色に染まっており、それは天井や床下も同じだった。
壁紙など張られておらず、所々壊れているのが唯一の模様といえばそうである。ステージやロープなどない。観衆すらいない。ここはまさしく決闘場だった。
その部屋の中央で、2人の人間が対峙している。
片方は仁王立ちになっていて、もう片方は荒い息を吐き出しながら地面に座り込んでいた。
「さて、これで最終試験は終了だわさ。一応及第点を与えられる出来具合さね」
「……さよですか」
本当に疲れたと誇示するような、それでいて安堵の響きを含み、その上少しだけ得意げな雰囲気を纏った溜息が吐き出される。
その動作を行った青年は、その顔にまるで少年のような笑みを微かに浮かべている。
その目には、これ以上ないというくらいの喜びを孕んだ光が宿っていた。
かささぎの梯
第三話 『いい日旅立ち』
「発」の開発からちょうど3ヶ月が経過した今日。
殆ど整備がされておらず、複数の山の縁に沿っての移動ため車で約3時間の道程。それをショートカットに次ぐショートカットによりたった半分の時間でやってきたのは、勝利の女神の名を関するショッピングモール「アテナ」だった。
世界的に有名な企業が複数出資して建設されたそのモールだが、ただ大きいだけではない。一般でないお客様のニーズにも対応できるようにと建てられたその建物には、ちょっとしたお遊びからかなり危険なものまで何十もの秘密が存在する。
そしてイナギとビスケが使用した部屋もその1つ。何が起きようとも見ざる聞かざる、その上有名な企業が出資している施設だけあり公的権力も手出しが出来ない。多少血生臭い噂が流れる、コンクリートで塗り固められた使用用途自由の巨大な一室であった。
――そこを出てから15分。ショッピングモール「アテナ」の一角、衣料品販売を主とする店の中にイナギの姿があった。
その理由は言わずもがな、ビスケにより廃品回収確定な程度にまでボロボロにされた服の代わりを購入するためである。
「……ありがとうございました」
カードで支払いを済ませたイナギにかけられる店員数名の若干警戒するような声。別に買い物に時間をかける性質ではないけれど、今日のそれはいつもに輪を掛けて短い。
気だるげな様子で南国風に統一された店を出たイナギに、その原因から声が掛かった。
「早かったわね……ま、あと5分遅れてたら無理やり引きずっていったけど」
「だろうな。――そして、だからだよ」
――その原因も言わずもがな、やっぱりビスケであった。
早く行くわよついてきなさいと言わんばかりにフリルをあしらった少女趣味なスカートを翻して歩を進めるビスケに、「アテナ」の文字が入った袋を片手にやれやれと肩を竦めながら後に続くイナギ。
その様子は、どこからどう見ても仲のよい兄弟か幼馴染である。
「さて、と。とりあえずホテルかどっか行かなきゃね」
「あぁ。まずはシャワーだな。兎に角汗を流したい」
例の部屋にもシャワー室が設置されているにはされていたのだが、しかしそこからどうにも嫌なオーラが感じられて結局使用を避けた2人だった。加えて何となく、微かに血特有の生臭さがした気がしないでもないが、真相は分からないし分かろうとも思わない。見ざる聞かざるはお互いに、である。
「それに、長時間こんな格好でいるのは勘弁願いたいな」
そう小さく呟いたイナギの出で立ちはかなり酷いものだった。衣服は勿論、イナギ自身もボロボロである。まるで「自分危ない事してきました」と大声で叫んでいるような物であり、周囲の人たちもそれを察して自発的に道を譲っている。
今はまだいいかもしれないが、あまり長い間この状態でうろついていると職務質問される可能性が高い。無闇にライセンスを振りかざすような事態はあまりよろしくない。
「そうねぇ、下手すれば捕まるものね。私はともかく、アンタは」
「……というかビスケの服は何で破れてないんだ? 」
「特注よ、特注。結構な負荷に耐えられる素材と造りをしてるのよさ」
「なるほど。ま、そうしなきゃ着替え持って歩かなきゃならなくなるしな。妥当な判断か」
「――もしかして、もしかしなくとも喧嘩売ってる? 」
「いやいや、そんなことはないが。それとも心当たりでもあるのか? 」
何となく怒ったら負けな気になり、グッと返答に詰まるビスケ。それを見てニヤリと口元を歪めるイナギ。分水嶺ギリギリの会話だが、まぁいつもの事である。
「――フン。いいわ、覚えてなさい」
そしてビスケが矛を収めるのもいつもの事であった。ちなみにイナギが見極めをミスって殴り合いになる事との比は9:1。イナギが少なくとも月3回はボコられる計算になる。
「……それにしてもあんたの能力だけどさ、どうしてなかなかいいじゃないのよさ。まさか具現化系能力者と無手のガチンコ勝負でそこそこ拮抗するとは思わなかったわよ」
厳密に言えばイナギは「鎧」を装着していたような物なので無手という訳ではないのだが、まぁそこはそれ。
ビスケは己が弟子の成長具合にかなり満足したようで朗らかに笑っているが、それを聞くイナギの顔は喜ぶどころかむしろ冴えない物だった。
「……終始ボコボコにされていた記憶しかないんだが」
「終始って程じゃなかったと思うけど。具腕が爆発した時は正直どうしようかと思ったわよ」
「……それだって今回出す気はなかったんだけどな。何よりも隠さなきゃならない秘密を丸裸にされた気分だ」
言葉尻は軽いが、しかしイナギの内心はかなりブルーである。ビスケのような戦闘に直接関係ない能力なら兎も角、戦闘用の能力はどれほど隠そうとしても過ぎるという事はない。その漏洩はイコール戦闘での死に繋がるのだから。
最もそれは念だけでなく戦闘者の情報全てについて言える事だ。ただ念は基本的に戦闘者が何よりも頼りにするものであり、つまるところ漏洩が致命的であるという傾向が何よりも顕著であるというだけで。
……戦闘行為に及んで、勝てなかった事が何よりの敗北――。
試験の内容を思い出して、イナギはムスッと黙り込んだ。
「そりゃ仕方がないわよ。念はもちろん、心源流拳法にしたって私の方が何倍も先輩なのよ? 何十年という年月の積み重ねのさらに上に行きたいなら、それ以上の年月か、それ以上の修練か、それ以上の才能が必要よ。――幸い、念に関してのアンタの才能はなかなかの物。たった2年でここまで来たんだもの、誇っていいわよ」
「誇張でなく、本当に立っていただけなのにか? 」
まだまだだと首を振るイナギを、ビスケは黙って横目に見ていた。
確かに、イナギの念の才能は“なかなか”。セラード家の血を引くだけあり、10万人に1人という才能を持っている。……が、その程度の才能の持ち主ならハンターを探せばそこそこ居る。
――むしろ注目すべきなのは、武の才能。
彼が生まれつき有するそれは尋常でない。それこそ何千万人に1人というような……そう、言ってしまえば“天賦の才”を与えられているのだ。
己に成し得ない事を気に病み過ぎるという一見悪しき性質も、ここではプラスに働いた。何故なら練習をすればするだけ結果がついてくるのだから。例えその時に成し得なくても、直ぐに限界の上限が上がる。留まる事を知らない、先が見えないほどの、可能性。
ビスケとて武の才がないわけではない。どころか、かなりの物を持っている。そこに加え長年の修練。ある意味彼女は、常人には到達不可能な一種の極地にまで辿りついていると言っていい。
だが、イナギのそれはレベルが違った。
ビスケをして嫉妬を覚えさせ、畏怖を感じさせることすらあったイナギの武の才――。
「……まぁいい。目標は、5年以内だな」
「――抜いてみなさいよ。軽く返り討ちにしてあげるわ」
――ビスケは笑う、ひどく陽気に。
5年あれば、現在16であるイナギの肉体も完全になる。今はまだビスケに届かない技術も、センスも、胆力も、何もかもが見違える程成長するだろう。念を使わない純粋な格闘なら、下手をすると本当に5年で負けるかもしれない。
――面白くて、楽しくて。そして、何より嬉しいのだ。
ビスケが辿りついてしまったある境地の、さらにその上を見られるかもしれないという事実が。その境地に辿りつく傑物を育てたという、何よりも誇らしいその愉悦が。
「――あぁ、それにしても楽しかったわよさ、卒業試験」
「……俺は楽しくなかったが」
「ちなみに私は嬉しくすらあったわよ? 」
――アンタの為りうるであろう将来の姿、その片鱗を感じる事が出来て。
……そうですか。そんな万感
▽▲
近くて、安くて、ある意味美味いと三拍子が揃ってる。そんな良く分からないビスケの主張により、シャワーを存在意義が9割方ニャンニャンという宿泊施設で浴びる事になったが、そこはそれ16と55(の外見は10代前半)。
特に問題が起こる筈もなく交互にシャワーを浴びてすっきりした2人は、「アテナ」の一角にあるとある飲食店の中にいた。時間と、そして何よりおなか具合が主張した結果である。ちなみにビスケは腐るほど持っていて、対照的に腐るものすらないイナギはしかしビスケに無利子無期限で借用する話が既に付いているので、懐事情は蚊帳の外だ。
「すいませーん、追加でカルボナーラ1つ……」
「カルボナーラは2人前で――ついでに海の幸リゾットとアンチョビピザも頼む」
話は変わるが、動くという行為はエネルギーを消費する。それはその動きが激しければ激しいほど増えていくものであり、闘いという行為は最たるものだろう。そしてそれが真剣さを伴うものであれば尚の事。
「あとは……オニオンスープと、フランスパンを3人前」
「はぁ……それでは確認させていただきます」
「いや、別にいいから早く持ってきてくれ」
「……はぁ」
――で、何がいいたいかといえば。
現在、2人は鬼のように腹が減っていた。だから、鬼のように食事をしていた。
その鬼気迫る様子は、お昼時という事で店内にいた客が粗方帰ってしまい店にプチ閑古鳥が鳴き始める程。かといって2人客としては異様な程、具体的には4人がけのテーブル2つに所狭しと並べられているくらい注文するので追い出すことも出来やしない。ある意味最高に性質の悪い客であった。
「……追加でこの白身魚のワイン蒸しを1人前頼む」
「えーと、あの……」
「――なんだ? 」
「いえ、そのぉ……胃薬、買ってきましょうか? 」
「いや、大丈夫だ」
「……はぁ」
「あ、ついでにソーセージの盛り合わせを3つお願い」
「……了解しましたー」
もう店員涙目。そして店の奥で調理している料理人3名も別の意味で涙目。
いくらそう大きくないとはいえ、たった2人で厨房を長時間てんやわんやさせ続けるのは如何なものか。いくらそう大きくないとはいえ、書入れ時に2人しか居ないにも関わらず売り上げが普段の半分近くあるのも如何なものなのかっ!
「注文お願いしていいですかー? 」
「……はいどうぞー」
そしてその店員は、「あぁ、こういう人たちがバイキングや制限時間内に食べ切れたら無料とかいう店を潰すんだろうなぁ」などと投げやりに考えて居たりした。
▽▲
「――あー、しっかり食べたわね。満腹だわさ」
「確かに少し苦しいな。食べ過ぎたか」
30分後。頼んだ品をきっちり片付けた2人は、何故かサービスされたアイスコーヒー片手に寛いでいた。ちなみに店内には少しづつ客が戻りつつあったりする。時間の流れもどこか緩やかだ。
「――そうそう、そういえばそろそろハンター試験が近づいてきてるわさ。もう申し込みは済ませたの? 」
「いや、まだだ」
「なんでよ? 」
「……ライラから追い出された方法が正規のものじゃなかったからな。脱出した時点で行方不明扱いになってるだろうし、それは今も変わってない。そして多分後数年で死亡判定……今後の事を考えると、“イナギ=セラード”は死んでた方がやりやすいからな」
死亡判定されても、真実本人が名乗り出れば判定後でも解除されるだろうしなどと話すイナギに、ビスケはジトッとした目を向けた。
「確かにそっちの方がやりやすいかもしれないし、死亡判定解除も可能だろうけど。……ハンターライセンス取得に、身分証明は別に必要ないわよ」
「――は? 」
「だから、ライセンス取得に身分証明は必要ないのよ。というか取得しさえすれば、ハンターライセンスが最高の身分証明になるし」
「……何か間違ってないか、それ」
「無理を通せば道理が引っ込むのよ」
ちなみに、無理を通し続けてきたのは過去のハンター達であったりする。
――ハンターライセンスというのは、真に奇異なものである。例え死人であろうと……つまり偽名であろうとも社会的に存在しない事になっていても、登録されさえすればそれが公的な存在であると認知されるのだ。
かといってどういうわけか同一人物が再びライセンスを取得する事は出来ないし、さらにそのライセンスカードを他人が使用するのも不可能であるらしい。本当に訳わかんねぇ。
「ちなみに申し込みはハンター試験応募カードか、電脳ネットで簡単に出来るわよ。ま、前者の場合郵送してくるのを受け取るのに住所の記名が必要だけど、後者ならそれすら必要なし」
「……どれだけ無理を通せばそんなに道理が引っ込むんだ」
「一杯よ、物凄くね」
何だか、物凄く疲れた気がしたイナギだった。きっといろいろと間違ってると思う、ハンターライセンスは。
……や、だからこそ取れた時の甘みが大きいんだから問題ないか。問題ないな。問題ない。
「ま、これで問題は解決したわね。それじゃあ近くのネットカフェでも行って、さっさと登録を」
「いや、まだ聞きたい事がある」
「……何よ」
何か予感があるのか、ビスケは物凄く嫌そうな顔をする。そしてその予感は当たっていた。
「ふと思ったんだが、行方不明扱いになってる戸籍の権利って手に入れられないか? 」
「出来るか出来ないかで言ったら答えはイエスだけど……やんないわよ」
機先を制される形になったイナギは、言葉に少し詰まった後ゆっくりと話し始めた。
「ハンターライセンスって、2度取ることは出来ないんだよな? 例え名前を変えたとしても」
「まず不可能ね。ハンター協会を騙しきる事が出来る人なんて存在しないでしょうから」
ハンター協会自体がその不正を黙認した場合は別だけど、とビスケは小さく付け加える。
「俺は、そのライセンスの登録を本名で行いたい。一生使用するかもしれない身分証名称が偽名なんてのは、正直勘弁願いたい。幸い、ハンターライセンスは俺みたいな行方不明扱いの人間でも取れるみたいだしな」
「……アンタ自身とは別の戸籍の方は手に入れたとしてどうすんのよ。言っとくけどその戸籍の顔をアンタの物に替えるのは……不可能じゃないけど、無茶苦茶高くつくわよ」
戸籍などに記載されている身体情報の大幅な変更を行う場合、DNA判定を含めた生体データの確認が必須である。そしてDNAを誤魔化すのはどんな人物であれ不可能であり、かといって国際人民データ機構のデータを書き換えるのも不可能(それらすら可能な念能力者がいるかもしれないが、それは度外視する)。
そのため変更しようとした場合、まず協力者(戸籍主)Aを望む顔へと整形させ、それを国際人民データ機構に認知させた上で入れ替わるという過程が必要となる。その上情報変更者は定期的にその確認を余儀なくされるのだ。正直それを成そうと思ったら、並大抵の労力じゃ無理だ。
しかし、イナギはその言葉に首を振った。
「そうじゃない。俺が欲しいのは、例えばパスポートを使用したり物品売買を行うといった一般的な状況で使える“イナギ=セラード”以外の身分だ。そして変わるのは戸籍ではなく、むしろ俺の方」
「アンタ、もしかして……」
「そう、外見を変化させる能力を持ってるんだよ」
結果的に能力を自らばらす事になってしまったが、仕方があるまい。今のイナギにこの手の相談で頼れるのはビスケしかいないのだから。……それに、心のどこかに「ビスケなら」という甘い囁きがないといえば嘘になる。
――その時点でもはや今更か。多分、念能力を使用した闘いで、イナギは一生ビスケに勝つ事など出来ないだろうから。
ふと心の中に生まれた、苦くて同時に甘い考え。しかし表に出す事は許容しない。
「――変わるのは、俺の方だ」
「……一応聞くけど、外見変えられるなら何でもう1度ハンターライセンスをとろうとしないの? 」
「その答えは、さっきビスケが言った通りだな」
――ハンター協会を騙しきる人なんて存在しない。そういう事だ。
「……分かったわよ。取ってあげるわ、その戸籍。で、何か要望はあるの? 」
「背は絶対に俺より高く。後、可能な限りで構わないがその人物の情報が欲しい」
「情報? 」
「あぁ。趣味思考から立ち振る舞い、癖や性癖に到るまで。写真や映像、体の一部なんかもあればいい。何でもいいから、出来る限り多くの物を。……あ、あと犯罪者は止めてくれ」
対象への理解が深ければ深い程、対象をイナギが受け入れていればいる程、誤差が少なくなり消費オーラ量が減少する。現在イナギが欲しているのは長時間変化する“もう1人の自分”とでも言うべき存在なので、情報がどれだけあろうとも多過ぎるという事はなかった。
「任されたわ。どんなに長くても2週間以内で揃うわよ」
「よろしく頼む。――どうしたんだ、そんなにニヤニヤして」
「いや、それよりも聞きたい事があるんだけどさぁ……」
言葉と共に体勢を逸らして背もたれに体を預け、大げさな動作で足と手を組む。その姿はどこのマフィアだと思わず言いたくなるくらいで、見下すような視線が似合う事似合う事。本物でもこうはいくまいというような雰囲気を醸し出している。
……惜しむべきは、それを行っているのが可愛らしいドレスに身を包んだ見た目少女である点か。体面しているイナギは兎も角、傍から見ると遊んでいる可愛らしい少女にしか見えない。
「何よりも肝心な事なんだけど、さ。……アレはどうすんのよ? 」
「晩飯か。久しぶりに肉料理でもどうかな? 」
「違うわよ! その無駄に爽やかそうな笑顔もいらない! 金よ! 戸籍を手に入れるための金の話よッ!! 」
そしてそれも即行で崩れた。イナギから見ても可愛らしい少女にしか見えない。……もっとも、見た目だけであるのだが。
「……まったく、口を開けば金金金と。世の中には金で買えない物もあるというのに」
「生憎戸籍は金で買える物なの!金はどうすんのよ!? 」
「弟子の門出を祝っての餞別とか? 」
「――ふざけんじゃないわよ! 」
ガタッと音をたてて身を乗り出すビスケ。店内の視線が集まるが、特に気にした様子はない。店員の「はやく出てけ」な視線については気づいてすらいない。
「チッ、心が狭い師匠だ。……というわけで、出世払いで1つよろしく頼む」
「誰の心が狭いよ、誰の! 」
「……」
「無言で指し示すなぁっ! 」
フルマラソン出場者みたいに息を荒げるビスケ。相変わらず店内の視線が以下略。店員の「頼むからでてってください」な視線も以下略。
「……兎に角、貸しに追加って事でいいのね? 」
その後ビスケはテーブルに突っ伏して何かを押さえ込むように全身を震わせていたが、ものの数十秒で立ち直る。そしてやっぱりこれもごくごくありふれた日常の一場面なのであった。
「うむ、よろしく頼む」
「なんか偉そうでむかつくわね。――つーか耳そろえて絶対に返しなさいよ」
「任せろ。貨幣価値が下がった時を見計らったり、等価ではない交換で返す気はある」
「普通に返せぇぇええええ!! 」
狭い店内でいきなり始まった殴り合い。室内の備品や人物にまったく触れていない辺りからレベルの高さがうかがえるが、正直無駄すぎる技術の冴えである。
なんかこう、もういろんな意味でダメダメだった。このちっこいのがハンターだと言っても、絶対に誰も信じねぇ。
――お天道様が少し下がり始めたこの時刻。
「アテナ」の一角に、少年と少女が互いを罵り合う、しかしどこか楽しげな声が響き渡っていた。
▽▲
その後、イナギは近くのネットカフェでハンター試験の応募を済ませた。試験会場は「エルベガ」。ヨルビアン大陸の北方、海岸から少し離れた内地に広がる砂漠地帯の真ん中に建設された、ギャンブル都市だった。
ビスケに頼んだ戸籍はきっかり2週間で届いた。名前は「キミト=リッチマン」。身長は今のイナギより10センチほど高い177センチ。犯罪暦など経歴に気に入らない部分も特に無く、変化するのに大よそこれ以上ないと思える条件を満たしていた。
ビスケによる厳しい修行は相変わらず続いていた。しかしその合間に試験の準備や、修行場所を引き払う用意、それにビスケ主催による「ハンター試験徹底合格講座」なる座談会が行われ、やはりいつもとは違うそんな毎日。ふとした事で何気なく感じる寂寥感を気のせいだと切って捨てる、そんな日々。
――光陰はまさに矢の如し。まるで嘘みたいな速さで時間が過ぎていく。
そうして今は既に十二月の後半。ハンター試験の出発前夜。
イナギとビスケは街で買って来た高い酒を開け、2人でハンター試験合格の壮行会の名を借りた酒盛りをしていた。
――話は陽気に、酒は滑らかに、笑い声は朗らかに、酒盛りは続く。
ビスケのハンター試験徹底合格講座最終講義・「ビスケの一口アドバイス総集編」(第2項が「とりあえずぶっとばせ」な時点で真剣に聞くのをやめた。第1項「念能力をみだりに使うな」を聞いた時にまじめな話かと思い姿勢を正した純情を返して欲しい)や、ナビゲーターの場所を教えてくれと願うイナギの懇願などハンター試験に関係のある物から、逆にまったく関係のない馬鹿話まで。
――四方山話は尽きることなく、積もる話に飽きることなく。
この数ヶ月で分かった事だが、楽しい時が過ぎていく速度はとてつもなく早い。当然この酒盛りも例外に漏れず、ふと気が付いた時には既にお開きの時間であった。
そろそろ片付けなきゃならない。ビスケにその旨を告げてからイナギはゆっくりと立ち上がり、周囲に散乱している酒の空き瓶やつまみの包装紙などを次々とゴミ袋に放り込んでいく。
――周囲は闇。拓くは炎。遠くには月と星。聞こえるは木々の囁き。
「――ねぇ」
1人静かに飲んでいたビスケの声が、後ろからイナギの耳へと入る。手を止めずに、声だけで尋ね返した。
「どうした? 」
「私の指導、少しはためになった? 」
「――らしくないな」
「……分かってはいるんだけどね。けど、アンタはアラマ師匠の忘れ形見。師匠に恩を返せなかった私は、彼の最期の頼みを聞く事でしか――アンタに修行をつける事でしか、恩を返せないのよ」
無言のイナギをよそに、ビスケは続ける。
「だから、聞きたいのよ。私の指導が役に立ったのか。……私がアラマ師匠の恩に、私が報えたのかどうか」
「……報えてる、間違いなくな。――だけど、アラマ爺が死んでいると決め付けるのは嘘だろう? 考えても見ろ、あの元気溌剌な爺さんがそう簡単にくたばる筈ないさ」
「――簡単にはくたばらないでしょうね」
「だったら、生きていると思って動けばいい。死体が眼の前に出てきて、それが確実にあの爺のものだと分かるまではな」
それもそうねと、ビスケは苦い笑みを浮かべる。
「もっとも、俺は眼の前に死体があったって死んでいるとは認めないがな。あの爺さんのことだ、死を超越して立って不思議じゃない。そうだろ? 」
イナギが振り向くと何故かビスケは驚いていた。一拍置いて唐突に笑い出す彼女。
それがどこか楽しくて、気がついたらイナギも一緒になって笑っていた。
深夜、月光と眼の前の焚き火だけが唯一の光源である暗闇の中。
響き渡るのはパチパチと木が爆ぜる音でもなく、梟の鳴き声でもなく、虫たちの合唱でもなく、木々のざわめきでもなく……。
静けさとは程遠い笑い声が、辺り一面を包み込んでいた。
▽▲
――心は、ひどく冷静だった。
2年前のあの日。イナギから話を聞いて直ぐに、私は優秀なハンターを雇ってライラ現地を調査をさせた。
これは既にイナギにも伝えたが、彼の故郷を壊滅させたのはあの幻影旅団であるらしい。
全員が強力な念の使い手である、危険度A級の盗賊集団。
確かにイナギは念をかけられている為、何れ彼らと雌雄を決する必要がある。
しかしそれは10年以上先。今すぐどうこうと言う話ではない。
大事なのは、調査の続き。
『心源流師範代のアラマは、旅団と交戦して亡くなっている可能性が非常に高い』
イナギに伝えていないその報告の最後は、そう纏められていた。
あの師匠のことだから、ぶつくさ言いながらも身近な誰かを守ろうとした筈。そして幻影旅団は、その片手間に対処できるレベルではない。
加えて年齢。老いには勝てなかった、そういう事なのだろう。
――それを知って、今、私はこうして笑っていた。
私が就いているのはとても難儀な職業だ。親しい者の死など珍しい事でもない。
だからだろうか。死の事実を眼前に突きつけられた私は、驚くほど素直にそれを受け入れた。
――同時に、知りたくなった。
今眼の前で笑っている弟子が、ハンターとして経験を積み、死に触れ、慣れて。大切な人の死を知らされたら、どのような反応を示すのか知りたくなったのだ。
ハンターとは、とても難儀な職業だ。
そしてその仕事を続けている私自身も、相当難儀な人間なのだろう。
人の死すら“知りたい”“掴みたい”というハントの対象にしてしまうのだから。
だから、今、私はこうして笑っていた。
静けさとは程遠い笑い声が、辺り一体を包み込んでいた。
▽▲
荷物はとても少なかった。
必要最低限の衣服とサバイバル用七つ道具。財布とそこそこの額のお金。そして暇つぶし用の本を数冊。それらを皮製のボストンバッグに突っ込めば準備完了だ。
「ん、一応念を押しとくけど、非念能力者に対して無闇矢鱈と念使わないようにね」
「精孔開いたら困るもんな。分かったよ、気をつける」
そのうむと頷いたビスケに対し、イナギは心の中で頭を下げる。
エルベガ行きの航空券を含めた会場までの移動費は勿論、試験の準備をするための金も貸してくれた。戸籍の事といい、修行をつけてくれたことといい、最後の最後まで本当に世話になりっぱなしだ。
ビスケに向けていた顔を上げ、グルリと周囲を見渡す。
思えば、この場所とも2年の付き合いだった。今振り返るとほんの刹那の事のように思えるが、これだけ長い間住んでいればこの場所や周囲の自然に愛着も沸く。日々の糧を恵み寝床を与えてくれたこの土地にも、イナギは心の中で礼を言った。
「とりあえず、どこへ行くかは決まってるんだっけ? 」
「あぁ。まずは近くの空港へ行ってエルベガに飛ぶ。後は野となれ山となれだ」
当然といえば当然なのだが、結局ナビゲーターは教えてもらえなかった。いや、何十年も前の事だからナビゲーター亡くなったと考えているのか、それとも単純に忘れてしまったのかもしれない。
――最後に辺りを一瞥し、グルリと体の向きを変える。
そのまま後ろへ片手を軽く挙げて、一言。
「さて、行ってきますか」
「うむ、行って来い」
腰を手に当て胸を張り。仁王立ちのビスケにそんな言葉で見送られて、イナギはゆっくりと歩を進める。
果たして走らなかったのは、単に日程的に幾分か余裕があったからなのか。それとも心の奥底でこの楽しかった日々に後ろ髪を引かれる思いがあったからなのか。
――けどそれでもいい。懐かしいと思ったなら、またここにくるとしよう。
結局イナギは後ろを振り返らずに、けれど1歩1歩確かめるようにして、その場所が見えなくなるまでゆっくりと歩いていった。