茜から群青、そうしてかの深淵より幾らかは淡く正常な夜闇の黒へ。暮れゆく世界とは逆行するかの如く、大穴を取り巻く
表の繁華な通りなどは、それこそ今こそ書き入れ時。客引きの威勢の良い売り文句、酔っ払い共の歓声に嬌声。
喧しくも力に溢れた夜の風情が視界を占めた。
酒精の香る猥雑な空気は忌避せざるところだが。連れ合いはこんな夜景に似つかわしくない幼い少年である。
半日かけて買い集めた大荷物を背負って、帰り路を急ぎ歩く。
「疲れたか、ジルオ」
「ん、平気」
ふとその時、傍らでくぐもった音が鳴った。小動物の唸りのような。
「……」
見やった先では、少年が腹を隠して顔を赤くしている。音の出所はどうやらその小さな胃袋だった。
「半日歩き通しだったからな。とっくのとうに夕飯時だ……どうする、どこか寄って行くか?」
「え! い、いいの? あ、でもオレ、お金ないし……」
「なにをつまらねぇことを。おめぇさんのお蔭でこうして万端支度も整えられたんだぜ。ならばこいつぁ当然の見返りってぇもんだ」
「そう、なのかな……」
「そうとも」
なおも躊躇いがちな少年に、心中に和みなど覚えてこの顔は微笑んでいた。
「ふっ、飯くれぇ奢らせてくれよ」
「……うん、わかった」
背嚢一杯に収められた各種装備。幼子の助言が無ければ、己の頭ではそもそも思い付きさえしなかったろう物品は数多い。
少年が己の軽率さを叱りたくなるのも道理だ。
「そらそら、ジルオは何が食いたい。遠慮せず言いな。こんな
貧民窟の
この金の出所は、そうした真っ当な仕事の成果ではなかった。
今は腰に佩いてあるそれ。
公私を問わず鎮護を求める声がある。罷り間違い大穴より外界へ登って来た獣を狩ることもあれば────地上に在って人の皮を被った獣を狩ることも屡々ある。人買、麻薬、強盗、詐欺師、殺し屋、時にはそれら全てを複合的に扱い売り買う奴輩。人を、弱者を食い物にする悪党数多。
彼奴らを潰すことで得られる報酬は微々たるものだった。悪党の討滅を願うのは、往々にしてそれらに虐げられてきた弱い者達なのだから。
潰して、潰して、潰して、潰した。塵のように湧いて出るそれが積もり積み重なり、結果として小山くらいになった。
それだけの話だ。
「……昼間も思ったけど、ラーミナってどうやって稼いでるの?」
「そりゃあ無論のこと、日々齷齪ひいこら働いて質素倹約奮闘の賜物というやつで」
「…………」
「くくく、微塵も信用ならねぇって面だな」
「どうせオレがガキだからって教えてくれないんだろ。いいよ、もう」
「おいおい」
むくれっ面がそっぽを向く。
子供が知る必要などない、と勝手自儘に判じたことは実際まったく図星であった。見透かされている。本当に聡いのだ、この坊は。
さても、一日付き合わせておいて最後にご機嫌損ねましたでは実に片手落ちである。
どう気を引いたものか、幼子の形の良い後ろ頭を見ながらそう考えあぐねた。
「よぅしジルオ。飯だけなんてケチくせぇこたぁ言わねぇ。この際だ、おめぇさんの欲しい物してぇ事行きてぇ処諸々、あるならなんでも言ってみな。このラーミナ恩に報いるに骨折りは惜しまん……どうした?」
己の芝居調子の駄弁を聞いてか聞かずか、ジルオは通りの向こうを見詰めたまま動かなかった。
視線の先には一軒の酒屋。崖に面した建屋はやけに縦に長く、どうやら壁伝いに大穴へ
玄関口は壁を取り去られ、荷馬車でも潜れそうな軒下から開放された店内を覗くことができた。とはいえ店内も、あるいは通りにまで侵出した屋外席であっても、酔いどれ客の乱痴気騒ぎは変わらない。
酒宴に沸く飲み屋通り。そこに建ち並ぶ多くの店の中でもそこは一際の賑わいを放っていた。
金属細工の吊り看板は、トコシエコウの花弁を象っているのだろう。公用語で書かれたその店名を己は思わず声に出して読み上げていた。
「『滑落亭』?」
「うん!」
勢いよく銀髪が翻る。振り向いたジルオの両目は、軒先で街路を照らす石灯よりなお一層眩く、それはそれは輝いていた。
両手をばたつかせて、堰を切ったように少年は喋りだした。
「探窟家御用達の
「探窟家共の吹き溜まりって訳だ。にしちゃあ随分と、なんだ、験の悪ぃ名前じゃあねぇか?」
これから大穴を降ってくれようという者に滑落とは。
「あえて縁起の悪い名前のここで不運を落として、これから向かう探窟では幸運を得られるようにっていう意図がある……らしい」
「ほーん、厄落としってやつか」
今にも駆け出しそうな様子で、少年はうずうずと店先を見詰めた。
他はいいのか、と尋ねたところで無駄であろう。
「酒の当てで飯になるかねぇ」
「大丈夫! この店は探窟家が食いたいものはなんだって作ってくれる! あっ」
「お、今度はどうした」
「……ここ探窟家じゃないと入れないんだ」
打って変わって意気消沈した面持ちの少年が、この世の終わりのような声を漏らした。
店内に目を
「んー、普通の客ばかりのように見えるが」
「あそこは表の席。観光客とか、探窟家じゃないオースの住人向けの席だ。もっと奥の、下の階の席に通されるのは笛持ちの探窟家だけで……」
そんな再確認が済んだことでジルオはさらに深々と
骨折りどうこうと言うた矢先だ。吐いた唾を飲む訳にもいくまい。
懐を探り、それを取り出した。光沢の失せた黒、表面に刻まれた細かな傷はかの老爺の百戦錬磨の証左。
ウィローの黒笛である。
「! それ」
「さてお立合い、これを己が首に掛けたならばあら不思議。黒笛探窟家一丁上がりと」
等級の詐称は間違いなく、
とはいえ、ルール違反ではある。
傍らの幼子にはどうか真似をしないでもらいたいものだ。
ジルオに片目を瞑って笑みを送る。
「今回だけだぜ?」
「うん! えへへっ」
夜天の下、日の出と見紛う笑顔が煌めく。
ひしと、小さな手が己のそれに繋がれる。早く早くと力強く、駆け出した少年に引かれ、滑落亭の敷居を跨いだ。