甘く苦い香りが鼻腔を満たし、喉を抜け舌に滲む。
岩場を幾重も踏み越えた先。四層上部へ昇った穴の周縁奥地に、その温泉を見付けた。
アビスの深層は海中に及ぶ。おそらくは海底火山が近しいゆえに湧いて出たのだろう。
地底湖の様相で、小さな岩屋に張った湯殿。朦々と湯気が立ち込める中、女はその場で躊躇なく装備と装束を脱ぎ捨てた。
異様に白い肌だった。血色を持たぬ石膏人形のような灰白色。日光を浴びず、奈落に蔓延る力場の光を浴び続けたなら、人はこのように変ずるのか。
肢体、と呼ばわれるものがそこにある。黒い傷の色味が沈着した長い腕、長い脚は、さながら極限に圧縮された鋼糸の束。贅肉とは無縁の純然たる筋骨が、楔という遺物を喰らい完成した。その膂力は既に目の当たりにした通り。
背筋含め、細く絞り込まれた胴回りには無数の傷が散見した。闘争の軌跡。かの者の戦歴。爪痕があり、噛み痕があり、刀傷、銃創、火傷。それは数限りなく。
かの歩みし道の苛烈さを物語る。奈落の闇深き死中に活を見出し、かの者は今ここに生きていた。
「なにをじろじろ見てるんだい。フッ、それとも女の裸がそんなに珍しいのかい」
「まあな」
間違いなく、世にも物珍しい女体だ。未だ嘗て見たことはない。百戦錬磨の戦士の肉鎧を纏った
オーゼンは湯に足を踏み入れ、胸辺りまで身体を浸けた。右肩を直に浸すような真似をすれば湯から引き摺り出してくれようとも思ったが、杞憂だったか。
「あまり深みに入るな。湯治といっても傷に障っては意味がねぇ」
「本当に小うるさいねぇ。あんたは粛々と見張り番やってな。そうすりゃ、覗き見くらい大目に見てやるさ」
仰け反った女の逆しまの笑みが、にたりとこびり付いて来る。
こやつと四層で過ごして早三日になるが、近頃こちらをおちょくるような言動が増えている。親しみだの馴れだのというより、新しい玩具を手酷く粗雑に扱う悪童のような有様で。
「
「ハッ、この
「……そうでもねぇと思うが」
戦場刀の如き偉姿。どれほどの血と泥と傷に塗れようとも、その在り方の本質は揺るがぬ。
その美しさは、不動のものだ。
「…………」
「ん」
瞬間、羽音が迫る。
それは掌大の、蚊を巨大化させたような蟲だった。
腰から抜き打ち気味に斬り上げ、羽虫を縦に両断する。それは草地に堕ち、這い寄って来た蜥蜴の餌になった。
時折こうして、血の臭いを嗅ぎ付けた吸血昆虫が岩屋に集って来る。湯浴みにわざわざ同行させられる己は体の良い蚊帳か、蚊取り線香という訳だ。
血振るいを済ませ、刀身を肩に担いでその辺りの岩に腰を下ろす。
厄介な蟲が漂ってはいないかと宙に視線を這わせていると、頬に刺さる視線に気付く。
またぞろ平淡な眼差しの女を見返す。
「なんだ? ぶっ……!?」
その両手の隙間から湯が鉄砲のように放出され、それは狙い過たず己の顔面を打った。
「…………」
「おい、こら、なんっ」
握力が並外れている所為か、水圧の威力に上体が仰け反る。岩から転げ落ちるのだけはなんとか踏み止まるが、その場に留まり続けることは如何ともし難い。
こちらの有り様もこちらの抗議の声も知らぬ存ぜぬと、女は無言で水鉄砲を連発した。
どうでもよいが、これなら羽虫くらい自分で撃ち殺せるだろうに。
丁寧に皮を剥ぎ、血抜きをしたタケグマの肉は、獣臭さはあるもののなかなか
芯までしっかりと火を通した赤身肉のこの噛み応えよ。脂身は少なく、それでいて澄んだ肉汁は純粋な旨味が豊富だ。今はトコシエコウを使っているが、他の香草や香味野菜で調理すればさらに良い味が出るだろう。
奪った荷物にはチーズや大麦といった食材も幾らかあった。
タケグマの骨、トコシエコウの実と葉、自生していたタロイモ等を煮込み、簡易な出汁を取る。
そこにキノコの一種であるギントコを房から千切り入れ、火が通ったらさらに麦を入れ三分粥程度に煮込む。最後にチーズを溶かし込めば、チーズ仕立ての麦粥の出来上りである。
匙で掬えばチーズと麦がとろみ、タロイモのデンプン質によってなお粘る。
吹き冷ましながら熱い粥を頬張る。
「んむ」
ろくな香味野菜がない為に出汁の主張が少々弱い。チーズの塩味と酸味は効いているが、主な調味料が藻塩だけではやはりこの程度が限度か。
こりこりとしたキノコの食感はまあ悪くない。
「独り身の男が料理に凝り出したら、プッ、いよいよという感じだねぇ。クククッ」
「
「やだね」
オーゼンはタケグマの心臓の素焼きを素手で齧り、粥を匙も使わずに啜った。行儀も何もあったものではない。
この女とジルオは決して同じ食卓には並べまいと、妙な使命感を覚えた。
食欲はもとより旺盛だったが、両腕を苦も無く使っているところを見るに身体は復調している様子。
「そろそろ動けるな」
「おやそうかい。私はもう少しここでゆっくりしていっても構わないけどねぇ。存外に便利な召使いがいることだし。フフフフフ」
「よしわかった不動の。お前さんは思う存分野宿しておれ。俺ぁ先に帰ぇる」
「フンッ、冗談の通じない男だ。つまらないねぇ。あぁつまらない」
肉食獣よろしく女が肉を噛み千切る。そうして黒く獰猛な笑みを浮かべ、その手にした骨を手折った。
「湯治遊山にもそろそろ飽きてきた。珍しく
「……」
「来るのかい?」
オーゼンは有体に、戦列に加わるか、と問うている。
己は探窟家ではない。探窟家、延いてはそれを擁する国家間の揉め事に首を突っ込む義理は、無いと言えば無いのだ。部外者が嘴を挿むな、とこの女が苦言を呈すれば引き下がる心積もりではあった。
しかし、女が提示したのは選択肢であった。お前はやるか、それともやらぬか。
答えなど。
「根を絶たねば毒草は枯れぬ。巣を絶やさねば毒蟲は依然蔓延る。己としちゃ、あの坊の安全が買えりゃそれでよかったが……こやつ等は一度ならず二度までもジルオを狙い、襲った」
「では?」
「首魁を斬る」
もはや容赦せん。その余地を敵方は自らの手で潰したのだ。
眼前の、くゆる焚火の向こうで人の悪い笑みが一層深まるのが見えた。見えぬふりをしておく。
「となると、ライザ、あの喧しい娘を呼び付けないとね。除け者にされたーだの臍を曲げるだけならまだいいが、腹癒せに一人で乗り込んで国一つ滅ぼしちまいそうだよ」
「……冗談じゃねぇぞ」
「冗談じゃないのさ」
笑みを引っ込めた真顔のオーゼンに、返す言葉はなかった。
「協力する気があるんなら一つ、教えておく」
「ん?」
オーゼンは懐から取り出したそれをこちらへ放った。
受け取ったそれは実に奇怪な形をした器物だった。幾つもの球根を備えた植物の苗のような、しかし材質さえ定かならない物体。十中八九、この大穴由来のものだろう。
「一級遺物『
「奴らがそれを使い、あの異形共を操っていたということか」
「
「何者だ」
己の顔は、果たして今どのような形に歪んでいるのか。人を人ならぬモノに変え、死兵として使い潰すが如きあの所業。あの肉色の地獄を差し向けた張本人を思い、何を思う。
腹の底に黒く溜まる。廻る。嫌悪とは似て非なる激情が。
オーゼンは笑った。それはそれは愉快そうに、己の顔を見て笑った。
「黎明卿“新しきボンドルド”」