黒く、暗い夜空だった。澄みきり、身を切るまでに鋭い夜気が、闇をこうも濃密にする。この寒気がそうさせる。
しんしんと暗雲から降ってくる。牡丹の花にも似た丸みで、雪が。
白い雪が真黒の空より、時に宙の只中で遊泳を楽しむかのようにゆっくりと降りてくる。
何の気なしに地を踏み締めれば、積雪はくぐもった悲鳴を上げた。足首が埋まるほどの厚み。オースではなかなかお目にかかれない景色だった。
貧民の分際ゆえ風雅の心得など碌々持ち合わせぬが、この白墨画の如くに雪化粧された世界には素朴な感動を覚えた。
山間に位置する寂れた街。あるいはオースに比べればそれは街と呼ぶことすら躊躇われる寂れた村落だ。極北のセレニ国内においては数ある開拓村の一つ。
天に突き立つ岳を望む。夜空を背に純白を纏う偉容は美しかった。
雪は俗世の野暮な音を食らう。純粋な静寂に支配された空間は実に────
『今
耳孔に直接それは響いた。耳に差し入れた通信器械から。
相変わらず仄暗く底意地の捻くれた声音だ。声それ自体は美声の類であることがより一層陰険さに拍車を掛けている。
そうして己自身の言い様に嘲笑していれば世話もない。
信じてる。あの女らしい皮肉であった。
呆れる間もなくその刹那、それが恐るべき速度で飛来する。風を引き裂き、破壊的な衝撃波を拡散させながらに、それは空間を貫通する。
それは目前に建つ洋館へ────着弾した。
五階建ての母屋を挟むようにして尖塔が聳える、もはや城と表すべき風格の館。その屋根に、外壁に、塔の
小刻みに三拍。激しく突き刺さり、轟き爆散する。煉瓦や硝子が飛散し、瓦解する。
雅やかな静寂は敢えなく蹴散らされた。
「……」
それは巨大な鉄の柱だった。
杭と呼ぶには長過ぎる。
槍と呼ぶには太過ぎる。
砲弾と呼ぶには不細工に過ぎる。
全長3メートル、幅30センチ、H型断面鋼材、つまるところ建造物の基礎鉄骨だ。
入手は容易であった。今なお此処彼処で鉱石採掘工事が実施されるこの国では建材を取り扱う業者は合法非合法問わず掃いて捨てるほどある。金に糸目を付けないなら尚の事。
なによりも幸いなのは、運搬の手段を考える必要がなかったことだろう。
オーゼンが、買い取った大量の鋼材全てを所定の位置まで運び込むのに半日と掛からなかった。あれはまるでそう、菜箸でも掴むような軽々しさであった。
過大な重量物を投擲し、敵陣へぶつける。
斯くも単純な行為が脅威の破壊を
まさしく人間兵器。
また三本、鉄骨が館を射抜く。その内の一本は現実に壁を貫通し、反対の壁を抜けて前庭に刺さった。己が今、待機している場所である。
「馬鹿野郎! もっと山なりに投げねぇか!」
『なにか善からぬことを考えてそうだったんでねぇ、つい』
なんだその唐突な読心術の開眼は。
貫徹しなかったにせよ、鉄骨の直撃を食らった洋館内部は上を下への大混乱といったところ。
「……あの娘、中に居てこれを躱せるのか」
『あれの勘は深界の獣並だ。目を瞑ってたって当たりゃしないよ』
『失敬な!』
漆黒の夜空に突如、明けの色が差す。緋の火色。
爆炎が断続的に大気を叩く。洋館一階の端から端へ、硝子窓を吹き飛ばしながらそれは建物内部を横断した。
紛れもなく『
『うら若い乙女を捕まえて獣扱いとは心外極まる』
一階から今度は縦に爆轟が上昇する。二階、三階、四階、五階。移動する災害はどうやら床と天井をぶち抜いている。
『一体私の何処が獣だというのか!』
「なんだ、無いなら無いと素直に言やぁいいものを。今度、姿見を買うてやる」
『プッ! ククククククッ、そりゃあいい。ついでに化粧台の一つも強請って部屋に置いたらどうだい。お前さんだっていい加減いい歳なんだからさァ』
『…………』
地響きがする。揺れているのは大地ではなく、そこに基礎を埋めた建造物、眼前の洋館そのものが震えていた。
天を突く尖塔が爆ぜる。花弁を開かせるように屋根が発破する。
欠損した塔の頂から、金髪が夜空に踊った。瀑布の如く豊かな巻き髪。雪よりも強く煌めく黄金。
鶴嘴を振り上げて少女のような女は叫ぶ。
「ラーミナァ!! オーゼンン!! こんの口さがない年寄り共! 喧嘩がしたいなら初めからそう言え! まとめて相手になってやる!」
その時、強烈な光条が空に伸びる。一つ二つ三つとそれは数を増し、暫時夜空を彷徨った末に一点を示す。煙を上げる尖塔に佇む人影。探照灯がライザを捕捉した。
あれだけ目立つ場所で大見得切っておれば然もありなん、ではあるが。
「……由緒正しい山岳信仰の宗教寺院。そう聞いていたがな。随分と気の利いたものを誂えてやがる」
『由緒だけは正しい。いや、古いだけさね。実態は武装した坊主共の群、僧兵というやつさ。どうやらたっぷりの
雪原をくぐもった足音が轍を刻む。建物の外に白いローブを纏った者達が現れた。その手には、黒い金属器械……小銃が握られている。
火器で武装した僧侶共。臍で茶が沸きそうだ。
さても動く。
集団の死角に早駆けで回り込む。
「ライザ、お前さんは表でもう一暴れだ。己は予定通り裏へ回る」
『……むぅ、しょうがないな。憂さ晴らしはこいつらで済ませるさ。ただし! 祝杯はラーミナ、お前の奢りだ』
「貧乏人の寒い懐に無理を言うな」
『姿見、買ってくれるんだろ? そのついでさ。文句はあるまい』
口は災いの元である。
腹立ち紛れに、懐から引き抜いた短刀を擲つ。二投、三投、それらは探照灯の光源を貫き、破壊した。
「良いアシストだ!」
晴れやかに声を上げ、女が跳ぶ。宙に踏み出すや、鶴嘴を逆手に持ち返る。
背後の壁面にその切先を突き入れ、斬り裂きながら落ちる。落下速度を制御し、それでも凄まじい勢いで地表に降り立った。
とはいえそこは紛れもない死地。武装した兵隊の包囲下に相違ない。
しかしそれでもこの娘は、それを覆してしまうのだろう。
「さあ、貴様ら全員根絶やしだ」
殲滅卿の名にし負う、あれはまこと鬼神の如き女だった。
破裂音のような銃声。跳弾が雪を、流れ弾が石壁を削り、窓硝子を粉砕する。修理代は高く付きそうだと、内心他人事に貧乏性を弄ぶ。
アッハハハハハハハハハハ!!
無邪気な笑声であった。
銃火器の包囲に、弾幕をものともせず吶喊する狂った女が発しているとは思えぬ。
外壁の上に駆け登り、館を大回りに巡る。
素直に裏口を見に行くのも間抜けだ。
この手の輩は、おそらくこうした非常時に対する備えを怠りはすまい。
館の裏手は林だった。葉を落とした枯木の合間を縫って、それを探す。
「お」
折よく、それは自ら存在を主張してくれた。
地面が真四角に持ち上がる。蝶番が金切り声を上げ、木製の蓋が開こうとしていた。
地下通路。秘密の出口。実に浪漫に溢れた一品だ。
中から白いローブ姿が四人、それに
此度の本命である。
制空権はオーゼンの無体な仕儀で既に失われた。本拠地はライザの暴挙で燃え滓の穴だらけ。
となれば逃げるしかあるまい。それも地上ないし地下を地虫のように慎ましく。
当たりだ。
「冷える時分にご苦労だな」
「!?」
こちらの気安い声に、彼らの反応は劇的であった。
闇夜に緋色の花が瞬く。躊躇なく発砲してきた。
しかしやんぬるかな、真っ正直に声のした方角を向いている。
その横面を殴り飛ばした。
直近、幾分反応の鈍い傍らの白衣姿、その眉間を柄頭で衝く。上体を跳ね、仰け反るようにそれは倒れ動かなくなった。
さらに転身。回転による運動力、体重移動力を踵に乗せ、さらに一人。その蟀谷を蹴り抜く。
金属音。背後である。
銃口がこちらの背に差し向けられている。背筋から項へと震撼する警告。紫電の如き危機感に衝き動かされ、抜刀。
振り向き様、小銃に斬り込む。
刃は、その鉄器へと食い入る。左下方から右上方、斜めに斬線が走る。銃身が破断する。
「は?」
あんぐりと口を開けた間抜け面に拳を叩き込む。
近く枯木の幹に背中をぶつけ、男はずるずると地面に座り込んだ。
昏倒を見て取って、ただ一人立ち尽くす男に向き合う。
でっぷりと太った壮年、いや老年であろうか。この寒空の下にあって血色は悪くない。脂ぎって精気漲る。食っている物が良いのだろう。
「おのれが司教とやらか」
「き、貴様、貴様らは、まさか、オースの」
「こちらの素性はとうに承知と。いや話が早ぇや。そうよ、そのオースくんだりからわざわざ、白笛様がお為りになったのよ」
「ひっ、ひぃぃいい!!?」
脂身は全身を震わせてその場に尻餅をついた。
これが数多の信徒を抱える大宗教の祖とは、まったくお笑い種だ。それに加えて、悪辣に練られた陰謀の黒幕と来た。
「まあ、これも首魁の習い。諦めて縛に着きな」
「た、頼む! 助け、見逃してくれ! わしは、そうわしは今回の件、最後まで荒事は避けようと進言してきたのだ! そ、それを部下の、急進派の連中が勝手に! わしは鳩派だ! 常々オースの探窟家組合とは話し合いでの解決を願っていた!」
「へいへい、その辺りの経緯はその組合のお偉方とナシつけて」
「わしはただ子供を拐うよう指示しただけだ!」
「────」
男を見下ろす。汗みずくで脂ぎった顔に愛想笑いが吹き出物のように表れる。
こちらの沈黙に、まさか交渉の余地なるものを嗅ぎ取ったのだろうか。
「血を見ないで済む最善の方法だった! いや、さ、最善を目指したんだ。そちらの、高名な白笛、殲滅卿との交渉の席を我々は求めていた。歴史的に見ても、中世の頃から貴人を人質とする対話はあったことだ! その御子にはそれこそ貴人としてこちらに招待する準備が」
「おのれの指示だった、と。そう言うのだな」
「そうだ! そうだとも! わしの差配で、平和裏の」
一陣、風切りに鳴り響く。
しかして斬擊は二合。音を置き去って、刃は真実閃いた。
「は、へ?」
白い僧衣、その袖口から、血花が咲いた。
両の手首から吹き出た血の紅が、雪原を染める。目にも痛ましい鮮烈な色。
善人も悪人も、血は平等に赤いのだ。
「あ、ぎゃひぃいいいいい!!」
「手首の腱を斬った。もはや筆すらも握れまい」
「ひぎぃああっ、あぐぁ、ど、どうじて……なんで、ごんな……!?」
「てめぇを生かす理由が消えた」
「は、はひゅ、たす、たすけ、ゆるじで」
上段に執った刀を真っ直ぐ、脳天に振り落とす。
唐竹割り。脳幹まで両断してくれる。
「ラーミナ!」
ぴたり。
制止の
超音境の打ち込みなれば、切っ先は真空を生み、触れずしてその額の薄皮を裂く。
男は白目を剥き、泡を吹いて失神した。
その無様を見限り振り返る。
黄金の光、煌めく雌獅子たるライザ。
そしてその背後で闇夜のような長身痩躯のオーゼン。こちらは実に人の悪い笑みが暗黒に浮かんでいた。
ライザはまるで花を愛でる乙女のような貌をして言った。
「老獪ぶってる癖に殺気は刃のように容赦がないな」
「……」
「まったく、お前にそこまで想われたら私の怒る余地がないじゃないか。ジルオめ、モテモテだな!」
娘の惚けた言い様に力が抜けた。
ゆっくりと気息を吐き、残心を解く。
傍に立った娘子は、己を見上げて、やはり華やぐように笑い。
「ありがとう」
つい今しがた人を斬った男に、この娘はなんて顔をするのだ。いやこの娘とても同じ。つい先刻まで血霞を撒き散らすような闘争に身を置いていたのだ。
異常なのは己か。それともこの女か。
どちらも武人。武力を揮いて思い、願いを成就させんと欲する業の
婆娑羅だの狂いだのと、もとより詰れた立場ではなかった。
「礼なぞされる筋合いじゃねぇよ」
「素直じゃないなぁ。んー? そんなにジルオが気に入ったのか? 私の弟子が。私の! 弟子が!」
「この娘、やにわに鬱陶しいぞ」
「いつもだよ」
オーゼンは知らぬ存ぜぬと爪先で雪を弄くった。
ぱん、柏手一打。ライザは叫んだ。
「仕事は片付いた! なら祝杯だ! 酒場に繰り出すぞー!」
「阿呆抜かせ。もう夜明けだ」
枯木の向こう。
白み始めた空の果て。気付けば朝陽が顔を覗かせている。
「知らん。夜だろうが朝だろうが酒は飲める。そして夜だろうが朝だろうが酒は旨い!」
「そいつぁ師弟水入らずで確かめな。俺ぁ宿に戻って寝るんだよ」
踵を返そうとした己の肩を、万力も斯くやの握力で掴む。言わずもがな、黒衣の女が影のように己を縫い止めている。
「逃がさないよ」
「く、お、この、放しやがれ!」
「もう放さない。死ぬ時は一緒だよ」
「微塵の色気もねぇ! ちったぁ情感込めやがれってんだよ!」
諦観の色濃いオーゼンの様が輪を掛けて不吉だった。ろくでもない始末になること請け合いとばかり。
結局そこから一両日。蟒蛇女にしこたま飲まされる仕儀と相成った。
少なくとも、表向きには。