刹那、音の絶えた世界に在った。
それは無論のこと現実の仕儀ではなく、己が自失していたゆえの空想。勘違いだ。意識がほんの数秒暗転した。
要は、微睡んでいたらしい。
「……」
卓や床に転がる夥しい量の空の酒瓶。到底数える気にはならなかった。浴びるほど飲む、などとよく言ったもの。ライザめは事実本当に樽のエールを頭から被っていた。イカれてやがる。
当人は心底愉快そうに笑っていたが。
斯くも躁に振り切れた女は今、稀なる静けさで寝息を立てている。
途中あまりにも喧しく大騒ぎする女に閉口し、気心知れた者を宥め役にわざわざ宿から呼び立てたのだ。此度の報復戦というか御礼参りというか、その事後処理の為に同行した探窟隊。ライザ麾下の(この女この有り様だが歴とした一隊の長である)月笛の若い男で、青瓢箪な風貌の、名前は、さて何だったか。
「むにゃむにゃ……もういっぱぁい! へへへ……」
「ギブ……ギブ、だから……ライザ」
間抜けな寝言と必死な寝言。壁際のソファーに目をやる。
眠るライザ。そしてそのライザに裸絞めを食らわされる青年。気絶しているのか眠っているのか定かではないが、大任を確と全うする若いのに敬意を込めて合掌する。
「んぅ……」
むずがるような声、それはすぐ傍らに。自身も腰を下ろす長椅子にはもう一人。小さな体をさらに小さく丸めて、ジルオが眠っていた。
鍔が折り返された白い帽子、襟の広い白い上衣に青いリボン、曰く“要”であるらしい妙に丈の短い半ズボン。
なまじこの坊は何を着ても似合ってしまうゆえ、下手人もすっかり調子づく。
白銀の髪を撫でる。細く、柔らかな、仔猫のような毛並だった。
寝顔が微かに綻んだように見えた。良い夢でも見ているのか。そうならいい。安寧であってくれるなら。
「……らー……な……」
「ふ」
あどけないこの姿が。
どうやら己にとってこの上ない幸い、であるらしかった。
「なぁににやけてるんだい。大の男が、子供の寝顔を眺めながらさァ」
「てめぇじゃあるめぇし。邪なことを抜かすんじゃねぇよ」
「ククク、それはそれは失礼を」
欠片もそんな心持ちはあるまいに。
逆月のような笑みの女が、頬杖を突いて己を、傍らの童を眺めている。
「てめぇ早々に狸寝入りこきやがったな」
「当然さ。あんなのとまともに付き合ってたら肝の臓がいくらあっても足りゃしない。放っときゃ勝手に鱈腹飲んでああして静かになる」
「カッカッ! あんなのたぁ、ひでぇ言い様だな。おのれの弟子であろうが」
「探窟のね。行儀作法が習いたきゃとっとと他所へ行けって話さ。何処ぞの金持ちの家でメイドでも、王宮で侍女勤めでも。フッ、当人が望むなら伝手くらい繋げてやるけどねぇ」
「やめろやめろ」
あんな雌獅子を放り込んだが最後王宮とやらが粉になって無くなるわ。
くつくつと女の仄暗い笑声が静まり返った酒場に響く。店主も給仕もとうに帰った。今宵、というか先夜から、場所と酒と食糧を体よく掠め取ったようなものだ。無論金は払ったが、無調法には違いない。
手近な酒瓶を手に取り、揺する。有り難いことに耳良い水音がした。
盃を探そうとしたところ、隣席から二つ。卓上を滑ってグラスが寄越された。
「本当に行儀が成ってねぇな」
「フフフ」
底が分厚くどっしりとしたロックグラスだが、氷などという気の利いたものは既に溶けて尽きた。
手酌で一杯注ぎ入れ、卓上を滑走させる
女は礼も言わずそれを受け取り、嘗めるように酒精を含む。舌の根でじっくりと味わうような、先刻のライザとは真逆の嗜み様で。
品格というなら、まさに。この女の姿こそ、世に言うそれなのだろう。
言動は何処までも度し難いが。
「なにさ」
「いいや」
己の面相ははて、今どのような形をしているだろうか。笑みなど浮かべていやしまいか。
ひどく、懐かしい。何をか懐かしむ。来たこともない国の初めて軒を潜る酒場で、一体何を。
こんな上等な酒ではなかった。密造された安酒を、小汚ない
老爺と酌み交わした日々を。
どうしてか思い出す。
対する女が探窟家であるからか。わからない。
ただ、良い酒だった。良い香りの、良い心持ちの、この束の間。
「旨い酒だと思うてな」
「……ふぅん」
「なんせほれ、こんな別嬪と御相伴だ」
「はっ倒すよ」
実際、卓の下で女の蹴り足が己の脛を狙った。寸でのところを躱したが、当たれば悲惨なことになっていたろう。
照れ隠しで骨を砕かれては堪らない。
「ん」
「あ?」
「ん!」
グラスをずずいと押し出してくる。注げ、との仰せだ。
瓶を傾け、半ばほどまで満たす。
女はそれを水でも呷るように飲み干した。
「そら」
「? なんだ」
卓の下からオーゼンは革袋を取り上げ、無造作に放って寄越した。
両腕一抱えはある大きさ。そのわりに軽い。
中身を検める。それは、札束だった。オース、いやベオルスカの紙幣である。
「なんだこりゃ」
「組合からの報酬だよ。今回の一件、事が厄介な方へ転ぶ前に片が付いたからね。しかもそれをやったのが白笛でもなく、オースの探窟家でもなきゃ、まして市民権も持ってない貧民出のガキときた。だが組合としちゃそれだと体裁が悪い。面子も立たない。だからこれは、口止め料兼袖の下、そして囲い込みの打診さ」
「囲う? 己をか」
「腕っ節がここまで立つなら使い途はいくらでもある。とでも、考えたのだろうね」
「はっ」
失笑を禁じ得ない。
跳ねっ返りの無頼を金で雇い入れ、体よく使おうという。
「気に入らないのかい」
「というより興味がねぇのよ」
「私に突き返すんじゃないよ面倒臭い。要らないなら自分で処理しな。暖炉の焚き付けくらいにはなるだろ」
袋の中で札束が束成す様を見下ろす。確かによく燃えるだろうが、他人に行儀云々を説いた手前もある。
どうしたものか。
後ろ暗い銭でなし。ジルオにそっくりやってしまうか。逆に困らせてしまうだけか。
己の思案面をニヤニヤと見詰める視線には気付いている。
人の悪い女を睨み返した時、ふと思い至った。
「お前さんからは何かねぇのか。えぇ?」
「なんだい突然」
「突然なものかよ。お前さんが奈落で往生しかけているところを助けてやったじゃあねぇか。忘れたとは言わせねぇぜ」
「ふんっ、恩着せがましい」
「へっ、お仕着せ上等よ。そらどうなんでぃ不動卿。天下の白笛御大は、借りを返さず踏み倒すような小器だってぇのかい?」
我ながら調子良くはったりが吐けたもの。
別段、この女には己に礼を尽くす義理などないのだ。
偶さか共闘し、互いに命を拾い合った。貸し借りというなら既にチャラだ。
多少の困り顔か悪態でも引き出せればそれでよかった。
オーゼンは、しかしちらとも表情を変えず、いや心なしか
「……だから、飼ってやると言ったろ」
「あん?」
「…………お前さんからしてみりゃ、大した値打ちもないんだろうね。アビスに心をやっちまった狂い共と席を並べるなんざ」
平淡な声音は先程と何の差異も感じられない。女は平静だ。
その筈なのだが、妙なものが見える。殊勝の二字を足蹴にして笑うような女が、自嘲など浮かべて。
「そんなに嫌いかい、探窟家が」
「……さてな。己自身にしてから今一つ判然としやがらねぇ。だが」
気に入らぬ。その一念に変わりはない。今もなお。
だが、関わり、現実に目の当たりにしたものは、己の想像を超えていた。その辺りで寝息を立てている娘がそうだ。そして今、隣り合うこの者がそうだった。
「お前さんと踏む鉄火場は嫌いじゃあねぇよ」
「……」
女の平淡な眼差しに、口の端を歪めて笑みを返した。