突如、屋根から女が降ってきた。
ぐるぐると天然の癖で巻かれた金糸の髪が、冴えた夜気の中で星屑めいて輝く。
瀑布のような髪の下、両瞳は烈日の如く眩い意志の光を放つ。
さながら火炎か紫電のそれ。触れるも容易ならぬ存在の激しさ。激しいまでの、美貌。
が、そんな煌びやかな外見とは裏腹に、娘は己が尻を擦りながら軒下をぴょんぴょこ跳び跳ねていた。その瞳が光って見えたのは痛みで滲んだ涙だった。
奇態である。
「くひぃっ、び、尾骶骨を的確に……!」
「なにをしとるんだお前さん」
なにやら訊くのも憚られたが、無視する訳にも行かぬ。
尻を擦りながら前屈みでライザが近寄ってくる。
「お前がまた面白そうなことをやってる気配を感じてな。こうして馳せ参じたのさ」
「今のお前さんの方がよっぽど面白可笑しいんじゃあねぇか」
「うるさいな。うぅまだひりひりする……あとでトーカに軟膏塗ってもらおう」
一切の躊躇なく尻を露にする娘と、それを面前にして真っ赤になって目を回す青年の顔が目に浮かぶ。
「オーゼン! この癇癪玉め! 照れ隠しで暴力なんてのは少女の所業だ! 五十年遅いぞ!」
「また蹴られたいのかい」
黒衣が降り立つ。夜天の闇がそのまま人の形を取ったかの漆黒。
すっかり見馴れた長身であるがやはり未だ驚嘆は禁じ得ない。なんせ雨樋に頭が届きそうなのだ。
「揃いも揃って何しに来た」
「酔狂を拗らせた男を笑いにさ」
「交ざりに来たに決まってるだろ。二日と空けずに兇気の香る祭が始まったんだ。見過ごせようか? 否、否、否!」
平素通りの皮肉を垂れるオーゼンと物騒な躁気を垂れ流すライザ。相反するような風情であるがその実、こやつらの仕様は大して変わらぬ。
同じほどに戦を好む。
「し、し、白笛」
「白笛だ」
「癖毛の金髪に、白い羽付きのヘルム……せ、殲滅卿だ。殲滅の、ライザだ」
「黒衣の巨躯。まさか、不動卿か!?」
「嘘だろ」
「もう出立したんじゃなかったのか!?」
「じょ、冗談じゃねぇ! まだセレニに居残ってたなんて聞いてねぇぞ!?」
悠々駄弁に興じるこちらに、襲い掛かるでもなく見を決め込んでいた敵さん方が俄にざわつき始めた。
他人事に、然もありなんなどと得心する。
ここに居わすは世界にその名を轟かせる大英雄、奈落を極めし超人、深淵の闇に輝く恒星。
呼ばわる偉名数知れず、しかし呼ぶべき異名は一つ。
白笛。
知らぬ者はなく、並ぶ者もない。この世界における至高の称号であった。
加えて此度、あちらには事情がある。元の雇い主諸共に、白笛を現在進行形で敵に回しているというなかなか窮まった痛点を抱えている。
なればこそこの略奪であり、これが済んだ暁には速やかな夜逃げが敢行される予定だったのではあるまいか。
どうやらそれは確実に不可能になった。その厳然の絶望を二つ、眼前に望む心地とは如何なるものか。多少の憐れみが湧かぬでもない。
「ひのふのみの……うむ、五十人は残ってるな。いや結構結構。気を利かせてもらってすまないなラーミナ。これなら、まだ遊べる」
「た、助けてください!」
獲物、ないし殴る的を指折り数える娘の様子に、堪らずと男が叫ぶ。武器を捨て、その場に跪いて頭まで垂れる。
そして我も我もと追従する者は多かった。
「俺たち、ただの下っ端なんだ」
「命令されてその、仕方なく」
「あんたらに歯向かう気なんてこれっぽっちもない」
「奪った金は全部返す! ほら、この通り」
じゃらじゃらと此処彼処で金品が投げ出されていく。
むくつけき男共に平伏され、娘は暫時沈黙していた。
戸惑い。あるいは、あっさりと服従を示すその様に興が殺がれたのか。
またぞろ我が儘をぶち上げやしまいかと、娘の顔色を覗き。
己は言葉を失くす。
そこに宿った、意表外の色に。
「別に返さなくたっていいんだぞ」
娘は、微笑んでいた。それはまるで友人に向けるような気さくな笑顔で。
「どうせ今から奪い取るんだ。この場の全員から、
宣言は単純にして明快。誤解の余地はない。
しかし、男達にその言葉を理解した様子はなかった。
性懲りもなく、いや当然の必死さで無頼の一人が言った。縋るように。
「み、見逃してくれ」
「どうして?」
「どっ……へ?」
「どうして私がお前達を見逃すんだ?」
それはもはや幼児が口にする疑問だ。大人が回答に窮する純粋で、無垢に過ぎるそれ。
幼子のような笑みのまま、女は小首を傾げる。
「鉄火を以て奪いに来たのだろう。欲しいものを
両手を広げ高らかに少女が謳う。それは一つの理念。
闘争の真実。
「逃げる奴はその背中を打つ。土下座してる奴はその頭を踏み潰す。抵抗しろ。しないならそれでも構わん。痛い思いをするだけだ。下手を打っても、なぁに死ぬだけだ。フフフハハハハハハッ! さあ────」
華やぐ。可憐に、咲き誇る百合の花弁めいて。
「武器を取れ。死にたくないのなら」
親しげな最後通牒を受けて、遂に男達の無理解は破裂した。
死の恐怖。至上の原動力を得て、死に物狂いで立ち上がる。
そうして生まれる。阿鼻叫喚が。
「あはッ! そう来なくては!」
暴徒と化した者共を前にして、しかし、やはり、この娘は。ライザは笑った。無邪気に笑い、吶喊する。
「おい! ライザ!」
小さな背中が向かっていく。
それを追い掛けようとしたところを、肩を掴まれ制された。
万力に匹敵し、あるいは凌ぐ握力。相当に加減されてはいたが、己の足をその場に縫い止めるだけの膂力が確実に込められた掌。
振り仰いだオーゼンの顔を睨む。
そんなもの何処吹く風と、女は笑みを深めるばかり。
「ライザを止める気なら無駄だよ。なにより無意味だ」
「猛虎が虐殺をやらかそうってんだ。てめぇ様こそ悠長に構えてる場合かよ」
「クフフ、あの娘が本気で殺したくなるくらい昂る相手は、ここには二人しかいないよ」
「……」
残念ながら、そこに諧謔の響きはなかった。
そしてどうやらその相手役の頭数にこの身も含まれている。それこそ冗談ではない。
男達の野太い悲鳴が通りに響く。
五十人を超える残存敵、果たして何分持つのやら。
「わからないねぇ。ライザのこれと、先刻まであんたがやってたことと、なにか違うのかい?」
「虎にじゃれ付かれた人間は無事では済まん。あの娘に手加減なんて器用な真似ができるかい」
「ククク、これはこれは。まるで自分は違う、とでも言いたげだ」
「あぁ?」
皮肉と嫌味に悪態少々を添えた毒を舌から差し出して、黒衣の女は黒々笑う。
「そろそろ気付いたらどうだい。あんたも私らも、度し難い
有り難くもねぇ。それは実に悪辣な親愛の表明だった。
その時、不意に、けたたましい音が耳孔を叩く。
路面を削る車輪。瓦斯の臭い。咆哮を上げる
通りの向こう。大路に続く闇市の果てに、“それ”は駆け込んできた。