ごめんね、訳わかんなくてごめんね
暦は廻る。気付けば、その地で厳冬の嘶きが聞こえ始めた頃。
その文は届いた。
生白い廊下、生白い扉。清潔への拘りも過ぎれば目に毒だ。
改築されたらしい療養院の病的な白さは、医者と無縁の武骨者には異質に映る。
国の医療に金が巡り始めたのだろう。血の巡りが増した肉や皮が旺盛に代謝するように。
病室の戸を叩く。控えめな返事を聞き取って、引き戸を滑らせた。
寝台に横たわる女が一人。そして、その傍らにひどく小振りな寝台がもう一つ。それには柵が設けられている。
女は己の姿を見て取って破顔した。
「ラーミナ」
「すまねぇな。間に合わなんだか……」
「んなぁ、謝らないでよ。むしろこんなに早く来てくれるなんてびっくりだ」
近くにあった丸椅子を引き寄せ、寝台の傍に座る。
ムタの顔は、多少疲労の色が残るものの、実に晴れやかだ。血色もいい。
「よく、頑張ったな」
「んへへ、頑張りました」
小振りな寝台、小児用ベッドを覗く。赤々と無垢な寝顔がそこにある。
「抱っこしてみる?」
「んん? 己がか? いやぁそりゃちょいと勘弁だぜ。うっかり潰しちまいそうだ」
「ふふっ、なんでさ。ほらぁ怖がらなくても大丈夫だから」
「お、おう」
ジルオよりも小さく、ひどく熱い。純粋に過ぎる生命の塊。
両腕に抱いた重みに、無頼漢は畏れ戦き、同時に惑う。この手は本来、こんなものに触れてよいものではないのだ。
だのに。
むずがるでもなく、赤子はすやすやと腕の中で眠り続けた。
「名前は決めたのか」
「うん」
ムタは慈母の貌で微笑み、赤子の頭を撫でながら。
「ナナチ、この子はナナチだよ」
「また、行くのかい」
「なんだって」
頭頂部、分厚く鎧われたタチカナタの甲殻において、最高の硬度を誇る額を拳でぶち貫いたオーゼンが、まるで今思い出したとばかりに呟く。
「ッッ! ……セレニにだ」
巨大なテッポウエビだった。体長は優に4、5メートルを超える。腹這いに身を起こした姿勢であっても、あのオーゼンが見上げるほどだ。
「まあな。明後日には発つ」
厄介なのは、その両の爪。その爪は閉じる瞬間、衝撃波と高温を発する。圧力差を利用した気泡の消滅による空洞現象とそれに伴う水分子の電解がどうのこうの。
「足繫く、ご苦労なこったねぇ」
「そうでもねぇさ。もとより暇を持て余す身だ」
「子供が可愛いくって仕方ない、ってかい。フッ」
「まあ、それが無ぇと言やぁ嘘になる。生まれた頃から寝顔を拝んでりゃ情も湧く。それが他人様の子でもな」
「……」
頭の痛くなる理屈に興味はない。知るべき要は、その強烈な熱波が生き物をずたずたにして殺せるということ。
もう一匹、まさに今その伝家の宝刀を抜かんとする巨大エビに踏み込む。打ち下ろし、返す刀斬り上げ、その両腕を落とす。
出所の知れぬ悲鳴を上げる甲殻類に、上段から止めを呉れた。
「…………」
悲鳴は続く。女が振るう黒い手甲の拳がまた二匹、さらに三匹と、甲殻を砕く。巨大なタチカナタの群を蹂躙する。
「本当に違うのかい」
「何がだ」
「お前さんがどこで種を撒こうが欠片も興味はないよ」
「だから何の話だ」
「ばぁか」
「あぁ?」
振り返った黒い背中は、一匹のタチカナタを壁面に叩き付け、粘つく染みに変えた。
蜘蛛の巣状に亀裂が走り、岩肌が震撼する。
洞穴が丸ごと倒壊したのはその直後だった。
分厚い雪に覆われたセレニの地、一昨昨年より僅かに、一昨年よりもさらに少し、昨年よりは幾分活気が盛り始めた街。
治安は、まあ悪からず。少なくとも、嘗て無頼共の傍若無人に晒されたスラムの姿ではなく、真っ当な人の住まう場所に変わった。
国家統治者の首が何本か挿げ代わり、連盟の手入れと、ベオルスカ政府による支援──傀儡回しが効いたようだ。
貧しいには違いあるまいが、仕事があり、働いただけ賃金が支払われる。以前国庫を逼迫させた採鉱事業は大幅な見直しが図られ、様々な改定に加え、他国の
セレニは今や、資源輸出国として過去にない安定を見た。国内餓死者数はここ十年来初めて減少傾向にある。
生命線たる採鉱事業の成功。もっと早くにこういった措置に踏み切っていればよかったのだと、政府の対応の遅さを詰る声も多い。もっと早く、専門技術者を……探窟家をオースより借り受けていれば、と。
「……」
療養院の階段を登る。
鼻腔を満たす消毒液の臭気とは別に、臭いを覚える。ひどく生臭い。潤ったのはセレニか、それともベオルスカか。
結局、『六年前』の一件は、白笛による埒外の暴威に
宿主たるセレニを寄生虫たるベオルスカは丁重に生かし続けた。
……だがそう見下げたものではない。現実に、その功利が少なくない民草を貧困と死病から救い上げた。
あの娘らもまた、その一つ。
病室の戸を叩く。控えめな返事を聞き取って、引き戸を滑らせた。
寝台に横たわる女が、こちらを見て嬉しげに微笑んだ。
「ラーミナ、来てくれたんだ」
「……」
「ああ」
「ほらぁナナチ。ちゃんと挨拶」
「……よう」
「おう、また背が伸びたか」
灰色の髪の童は、寝台の母に向かうばかりでこちらを見ようとはしなかった。
その頭に触れる。弾けるように、童は己の手を跳ね退けた。
「っ!」
「ナナチ!」
ムタの叱る声に、身を固くしたのも一瞬のこと、童は駆け足に病室から出て行った。
「もぅ、あの子ったら……」
「すまんすまん。嫌われてるってのに、軽々しい真似しちまった」
「ちぃがぁうよ。あれは照れてるだけ。ホントはラーミナが来てくれて嬉しいんだよ」
「だといいが……体の調子はどうだ?」
「んなぁ、一進一退ってとこ。やっぱり遺伝かな? ウチの母さんも同じ病気だったし」
一月前よりも確実にやつれた顔で、女は笑う。朗らかに、笑うのだ。
「覚悟はできてるよ」
「……」
「心配なのはあの子のことだけ。ナナチのこと。でもそれも、ラーミナがいてくれる。だから不思議とね、ウチ怖くないんだ。病気も、死ぬことも」
小枝のように細った腕、指が、己の節くれ立った手を握る。壊れ物をそうするように握り返す。
「だから、ね。ラーミナ、あの子の、ナナチのこと……」
「いや、駄目だ」
「えっ」
「任されてはやれん。あの子はお前さんの子だ。俺は幾らか些末な手伝いはしてやれる。だが、育ててやれるのはお前さんだけだ。あの子の親であるお前さんだけだ」
「……」
「遺言など訊かんぞ」
手を握り、もう片手で灰色の髪を撫でる。
眩そうにこちらを見上げる目に、笑みを返す。
「そう簡単には死なせねぇ。そうさな、ナナチが独り立ちするまでは頑張ってもらう」
「……んなぁ、厳しいなぁ。ラーミナは」
病室を後に、療養院の廊下をやや急ぎ歩く。
そんな己の背後に小振りな足音が追い縋った。灰色髪の下、黄金の瞳が睨め上げてくる。
「おい! どこいくんだよ!?」
「オースへ戻る」
「っ、き、来たばっかじゃねぇか! も、もう少し、母さんの傍について」
「急ぎの用事ができちまった。これから先も見舞いには来るがあまり長居はしてやれん。すまねぇな」
「ッ! ふざっけんな! 母さんも……母さんは、あんたのことずっと待ってんだぞ!?」
「そうだな……その為にも、行かねばならん」
踵を返す。残された時間は少ない。極めて少ない。
「待て! 待ってよぉ……! くそっ! 糞野郎!! 糞親父ッ!! まって……ッッ、んなぁぁあああああ!!!」
背中を叩く幼子の泣き声。己の不明と不甲斐なさを詰る。それでいい。それで正しい。
いつか、お前の母御と共に、それを笑ってくれたなら。
「なーんて、あの時はホントすごかったねーナナチー?」
「んなぁ……う、うっせぇよ」
窓から差す日の光は、春の冴えと暖かな陽気。暖炉を焚かずとも過ごせる日和は、このセレニでは得難いものだ。
街の目抜き通りからも程近い小さな家屋。手狭と言えばそれまでだが、親子二人でならそう不自由はなかろう。ムタがここを選んだ理由はパン屋が近く焼き立てが食えるからだそうだ。
「あの時は、その、この糞親父がろくに説明しやがらねぇから……」
結局、地上の医療で及ばぬものを駆逐する為に、己が頼ったのは奈落の神秘だった。
病を治す遺物は、実際のところ数多く存在するが、特定の病原を生体に都合よく絶つことのできる遺物をアビスに対して無知蒙昧を自称する己が見付け出すことなど不可能だった。
────オーゼン、あの女にはほとほとでかい借りができた。
「療養院中に響くくらい泣きじゃくってさ、医者先生とか看護婦さんとかに物投げて当たるし、退院の目途が立った最後の方はホンっト居辛かったんなぁ」
「うぅ……!」
窓辺の卓に座ったナナチは、卓面に額が付くほど身を縮めた。
ムタはころころと羞恥する我が子を笑う。
つられて笑った己の様をナナチは目敏く捉え、きっと睨みを呉れた。
「わ、笑うなよぉ……!」
「くく、すまん」
「っっ! あぁもぉ!」
ナナチは席を立ち、部屋の隅に置いた背嚢を背負った。
「もう行くの?」
「んなぁ、船の時間。港までそこそこ歩くし」
「……そっか」
ムタは微かに吐息して、同じく席を立つ。
ナナチが探窟家になりたいと打ち明けたのは、ムタが退院してすぐのこと。
ベルチェロ孤児院は親無し子の為の家としてだけでなく、探窟家を養成する為の教練所として門戸を開いている。
今日、ナナチはオースへ旅立つ。親元を離れ、夢を追う。
奈落の夢を。
「……」
「忘れ物ない?」
「ねぇよ。何べんも確認したって」
「ナナチ」
ムタは膝を付いて、その矮躯を抱き寄せた。
「いってらっしゃい」
「っ……いってきます、お母さん」
港への道すがら、ちくちくと頬を刺す視線。
隣を歩く童が、時折こちらを盗み見ていることには気付いていた。
「荷物が重いか」
「っ、べつに、こんなもん大したことねぇよ」
「そうかい」
「……」
視線は己の横顔、肩、そして左手に注がれる。
それはなにやらひどく、物欲しげな気色で。
「手、繋ぐか?」
「いっ、や、な、なんでだよ」
「嫌か?」
「いや……や、じゃ、ねぇけど」
立ち止まり、左手を差し伸べる。往来の中で暫時、ナナチは自身の手とこちらのそれを見比べていた。
そうして、おずおずと小さな手が重なった。
「……なぁ」
「ん?」
無言のまま歩き続け、不意にナナチが口を開いた。
「あんた……ホントに、オイラの父親じゃないのか」
「ムタに聞いたのか?」
「うん……」
「まあ、そうだな。血は繋がってねぇな。そいつは確かだ」
「……そうかよ」
「だが」
立ち止まり、再びナナチを見る。不思議そうに丸くなった黄金の瞳を。
「お前さんが己をどう呼ぶかはお前さんの自由だ。そしてお前さんがどう呼んでくれようが……俺ぁ嬉しいぜ。ナナチ」
「……うん」
童は口をもごもごとさせて、喉の奥になにやら蟠らせている。
ひどく、気力を絞って、顔を赤くしながら。
「と……とっ……」
「……」
「……糞親父」
「くっ、はははははっ! おう!」