手摺を乗り越え、水路を跨ぎ、石組みの塀に登りその上を駆ける。
アビスの外周に沿って進むこと暫し。東区に入った途端に祭の喧騒も随分と遠くなった。久方ぶりの静寂に肌身から安堵する。
路地を抜けた先はせり出た露台。それもスラムの奥深くにあったあの粗末な木台とは違う。石造りの堅固な展望台だ。
この種の場所がオースには数多く設けられている。目的は勿論、あの
トコシエコウの花弁が舞う。悲しいかな、暗闇に白雪のようなそれはよく映えた。
「……不屈の花か」
「そうとも。私の大好きな花だ」
だらり、と頭上からロープが垂れ下がってきた。そして次の瞬間には軽やかに彼女が滑り降りてくる。
勢い着地したことで、豊かな金糸の髪が宙を踊る。白羽を飾ったヘルメットを人差し指で押し上げると、その下から勝気な瞳が現れた。
殲滅卿、なんとも物騒な二つ名を持つ
「ライザだ」
「?」
「前に会った時は名乗らず仕舞いだったろう? 君、用が済んだらさっさと帰ってしまったからな」
「んん、そうであったかな」
「そうであったとも! だからこれでようやく初めまして、だ」
そう言って娘は右手を差し出してくる。快活な笑みが眩しくさえあった。
こちらもまた手を出すと、待ち兼ねたとばかりがっしりと握られた。小さな手だった。しかし華奢だなどという印象は微塵も湧かぬ。力強く、芯から熱を伝えてくる。
ともすると気圧されかねない覇気。思わず笑いがこぼれた。
「ラーミナだ」
「よろしくラーミナ。そしてありがとう。ジルオが世話になった」
「さて、世話なんぞ焼いたかねぇ。俺ぁただ小蟲を何匹か払っただけよ」
「ふふふ、小蟲っ! 小蟲ときたか」
何が琴線に触れたやら、娘は身を捩るようにして笑った。
「くふふっ。ジルオから聞いた通り、今時変わった奴だな」
「お前さんほどじゃあねぇや」
「ほっほー、言ってくれるじゃないか」
他愛ない軽口を一頻り笑い合い、笑い終わったところでふと気付く。未だ握られたままの己が手に。
指を開き、軽く引き寄せてみる。ぐ、と娘が今一度力を込めたのが分かった。
今度はもう少しばかり強く引く。結果は同様。しかし、明白になった事実もある。
物問いに視線を上げるや、にこやかな笑顔がそこにあった。
「
「放せばまた逃げるだろう、君」
「塒へ
「ということは暇なんだな。丁度いい! 今夜はオーゼンと飲み明かす予定だ。君も付き合ってくれるだろう?」
決定事項だとでも言わんばかりの口振りだった。
さらに、握るだけであった手は、言い終わるを待たず腕に絡みーーどころか固められていた。捕縛術特有の腕絡めというやつだった。
「飲みの誘いに
「ふははは、ここにいるぞ」
どうしてか自信満々に娘はのたまう。
脱力し、絡んだ腕に隙を作る――といったこちらの意図を素早く察知した娘が、逃すものかと一歩体を詰め寄ってそれを阻んだ。
技量の無駄遣いとはこのことであろう。
「えぇい放さんか」
「逃げないと約束するなら放してやるさ」
「強引な」
「よく言われる」
口の端を吊り上げて悪戯小僧のような笑みを浮かべる。まったく食えない女子だ。
とはいえこのまま押合い引合いしていたところで埒が明かぬ。どうしたものか、腹の内でそのように一人ごちていた――その時。
それは、己が元来た道の奥から。
「……」
「ん?」
立ち昇った気配。それに次ぎ、ゆっくりとした足音が響いた。石造りの地面を打つ硬質な靴音は、徐々に大きくより明確になっていく。
音の反響から対象との距離は凡そ掴むことができる。故に今、足音の主は展望台と道の丁度境に立っている筈だ。しかして、実態は奇妙。己の目には、道の奥に相も変わらず闇が広がっているようにしか見えない。
……否。
闇。小路の暗がりと思われたその、黒。
不意に、実体など持たぬ筈の暗闇が蠢いたのだ。
暗闇と見紛うほどの黒衣。それがゆっくりと陰の中より這い出てくる。
「やあ、オーゼン」
ライザが言った。考えるまでもなく、それこそかの黒い異装の名。
白昼に現れたるは不動卿オーゼン。しかしその装束の暗さなどすぐにどうでもよくなった。
六尺、いや七尺を優に凌ぐ身の丈。偉丈夫という言葉がこれ程まで似合う者などそうは居るまい。
各部に装甲を施した外套、肩口を隠すほどに鍔の広い笠。一度目にすれば見間違うことはないその姿。つい先程、深淵より帰還し大桟橋に降り立った不動卿その人である。
やや距離を隔てて不動卿は足を止めた。
「見ろ、ラーミナを捕まえたぞ。今晩は三人で飲み比べだ」
無邪気にライザははしゃいだ。まるで珍獣でも捕まえたような言い回しだ。
不動卿はといえば、特に何の応えもない。
笠の下、容の見えぬ顔がこちらを見ていた。そして視線の行方はライザではない。
「……」
明らかにその目は己の姿を射抜いている。無言の中に微かな感情が見え隠れしている。読心術など持たぬ己にそれを読み解くことはできない。しかし、それが正か負か、好か悪か程度なら多少の感受性を働かせれば誰しも感じ取れよう。
良解は得られず、滲むは悪意。
理由は定かではない。どうしてか
「はじめまして、私はオーゼン。しがない探窟家さ」
「これはこれは。無事の御帰還、お祝い申し上げる。白笛殿」
ねっとりと絡み付くような声音だった。意図してか、それともかの者の悪意がそうさせているのか。
努めて慇懃に祝言を口にすると、オーゼンは一層笑みを濃くした。
笠の下から暗い色の目が、己の身を頭から爪先まで睨め回す。吟味、いやまるきり品定めの様相で。
新しい玩具の具合を検めるように。
「ライザから聞いたよ。相当
「はて、なんのことやら。己はただの貧民のガキだよ」
「オーゼン、信じるな。こいつは武装した殺し屋を一息に三人斬り捨てる奴だ」
傍らの女を睨む。
それはもう無邪気な、嬉々とした笑顔がこちらを見返した。
「ふふふふ、それはそれは。大したもんだ。ふふ、ふふふ。そうでなくちゃ……遊び甲斐がない」
「……」
「ん? なんだオーゼン。やる気か?」
ライザの言葉は、至極端的にこの場の状況を、気色を言い当てていた。
つまるところそうなのだろう。不動卿、名高き白笛オーゼンがこの場に現れた目的は一つ。何故そのような腹積もりに至ったかは皆目解らんが。
彼方は我方との立ち合い、闘争を所望とのこと。
とはいえもう二、三は探り合いの会話を愉しむつもりだったのだろう。オーゼンは溜息を吐き、肩を竦めて見せた。
「本当に風情のない娘だね、まったく」
「ふふん、なんせ師匠が師匠だからな」
「なんだ。お前さんら、師弟の間柄か」
「そうとも」
僅か、誇るようにライザは頷く。
なるほど、ならばあの時、桟橋で観衆が沸き立ったのも道理。
不意に、ライザが離れる。諦めて解放してくれた、などという訳では決してあるまい。
「私も興味があるぞ。ラーミナ、お前がどれくらい強いのか」
「
「おいおい、あんな雑魚と一緒にしない方がいい。オーゼンは――――」
ライザが、その軽口を言い終わるを待たず。
いや、会話の緩急、その不意を突いたのだ。
黒の偉丈夫が動いていた。笠の巨大な鍔が、接近と共にさらに拡大する。視線を遮るのにこれほど絶好なものもない。彼方が果たしてどのような構えを取っているのか、此方からは皆目分からないのだ。
退がることは出来ぬ。展望台の手摺を背にしている今、退路は無い。身投げして生涯を終えたいというならいざ知らず。
ならば路は一つ。
進む。
「!」
「おぉ!」
ぬ、と。笠の下から放たれる一撃。黒く長い、それは脚だった。
破城槌の如き勢力の乗ったオーゼンの前蹴りを跳び越える。
前進しながら、膝頭に手を付いて反動を利し――――
「っ!?」
触れた手、そして身体が弾かれた。
その蹴り脚の、あまりの威力によって。
企図の通りオーゼンの頭上を越えて回避は叶ったが、想定以上の飛距離を稼いで石畳に降り立つ。
「ははは! 気を付けろラーミナ。オーゼンの蹴りは運が悪いと内臓が
「どんな馬鹿力だぃ」
「怪力乱神と言っておくれな。そっちの方が通りがいい」
にたりと、逆月のような笑みが笠の陰に浮かぶ。こちらの驚きようが嬉しくて堪らぬとばかり。
「ちなみにオーゼンの性格は度し難くひねくれている。あんまり喜ばせると酷いことをするぞ」
「あんたも蹴られたいのかい」
踏み込みが石畳を砕く。回し蹴りが空を薙いだ。
頭上に躱した長い脚が鞭のように
足技は留まることを知らず、次は踵落としが降ってくる。
跳び下がった。見やれば元居た石の床が蜘蛛の巣状に円を描き、粉砕された。
「すばしっこいね。鼠の真似かい? ふふふ」
「そうよ鼠よ。たかが仔鼠一匹、見逃してくれても罰は当たらねぇぜ」
無造作に拳が降り下された。
さらに跳び、遠ざかる。
砕けた石床がただの礫に変わる。
「そうもいかない。私は鼠だろうと兎だろうと狩りは手を抜かない主義なのさ」
その黒い手が石畳の一枚を掴んだ。
文字通り、岩の塊であるそれをオーゼンは事も無げにこちらへ擲った。
横っ飛びに擦れ違う。背後で手摺が弾けて飛んだ音を聞いた。
その間にも、黒の偉丈夫は詰め寄っている。
大きな掌が我が身を捕えんと掴みかかってくる。空間を圧搾せんばかりの握力で突き出される手、指。
頭と言わず、肩、腕、足、噛み付く蛇の如き敏速さ。突きの嵐。
その指先が、遂に外套の裾を摘み取った。指二本。ただそれだけ。だが何が不足であろうか。その膂力あらば己が矮躯など軽石同然。
「捕まえた」
飛び切りの、満面の、悪辣なる笑みが眼前を埋め尽くす。
ライザの言葉通りとは恐れ入った。それは実に、なんとも、度し難い凶悪さよ。
引き回され、摺り潰され、袋にされる――――その前に。
抜き打ち。一閃にて外套を斬り裂いた。
「!」
「はっはっは!」
さっさと跳び退がり、間合を去る。
ライザは愉快そうに手を叩いた。
一方で襤褸布だけを掴まされたオーゼンはといえば、打って変わって実に不満げな無表情に戻る。
「流石だラーミナ。本気のオーゼンから逃げ切ったぞ」
「本気なもんかい。遊びと言っただろう」
「嘘だなオーゼン。あの一瞬、ちょっとマジになったろう? さあここからだ! 気を付けろ。剣を抜いたラーミナはもっと凄いぞ。ふふふっ」
「……」
正眼に置いた切先の向こう。黒笠の姿を捉える。
その無表情に、今一度色を見た。それは、先達て見て取ったものと同じ。
憎しという、悪意。
ライザの上機嫌な様を受けてオーゼンが胸を悪くする。
「……あぁ」
これはつまり、なんだ。
己はどうやらとんだ親馬鹿に付き合わされていると。
手塩にかけて育てた弟子が、何やらどこの馬の骨とも分からぬ剣術使いにご執心であると……目の前の御師匠様からはそのように見えている、らしい。
溢しかけた溜息をぐっと飲み下し、剣先を下げる。
「おいおいラーミナ。まだこれからだろう」
「これからもどれからもありゃしねぇ。痴話喧嘩はそっちで片付けな」
「……知った風な口を利くじゃないのさ」
「知らねぇな」
人と人との絆の有様など、それこそ他人が嘴を挿むことではない。
「知らねぇから、俺ぁもう
「えぇ~! つまんない~!」
「ガキみてぇこと言うんじゃねぇや」
不平を吐きながらわちゃわちゃ絡み付こうとするライザを躱す。また捕まっては堪ったものではない。
「なら一杯くらい付き合え! オーゼンの土産話を肴にさ」
「そんなもなぁ探窟家同士で楽しむがいい。己が混ざったところで詮無かろうが」
「それなら丁度いい。お前も探窟家になれ! ラーミナ。そうだジルオと一緒に私の弟子になるか? きっと楽しいぞ。ああ、絶対に楽しいに決まってる」
屈託なく、そして一片の疑いもそこにはなく。ライザは勇ましく笑った。
この娘の言葉にはいつ何時とて嘘がない。いつ何時とて心からの言葉だけを口にした。
故に、この誘いもまた、彼女の心からの望みなのだろう。
「御免だ。他を当たりな」
刃を包み、背負う。
白笛という英傑達に背を向けて、家路を行く。
「あぁんまた逃げられた。なかなか気難しい奴だ」
「あれで勧誘のつもりだったのかい」
もう背中も見えなくなった。襤褸布を纏ったガキは、その姿に相応しい場所に帰って行った。
けれどライザは、手摺に頬杖を突いたまま。いつまでもあの去って行った背中を追っている。その輝く瞳を見れば分かる。分かるのだ。
この瞳が宿すのは純性の憧れだけだ。アビスという無限の虚のその奥さえも見通してしまいそうなほど、鋭く、眩く、強い。
変わらない。鼻垂れの赤笛だった頃から、殲滅の姫君と謳われる白笛の今に至ってなお。
この瞳の輝きは、微塵も失われることはなかった。
だのに。
「あんな薄汚いガキの何がそんなに気に入ったんだい」
「わからないか?」
当然の問いに、しかし問いを返された。それこそ、わかっていて当然だと言わんばかりに。
ライザは微笑んで、また遠くを望む。その瞳はアビスではなく、岸壁街を向いている。
「あいつは面白い。あいつと冒険するアビスはきっともっとずっと面白い! そう思うんだ。なあ、オーゼンもそう思わなかったか?」
「………………知らないよ」