深淵の剣   作:足洗

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9話 ソコで待つ

 そうしてその背中は薄汚れた暖簾を潜って行った。口では文句を言いながら、しかしあれが人の頼みを無下にするのを見たことなど終ぞない。

 奇妙な男だ。

 

「……」

 

 ふと思う。かの少年の異常に気付いたのは、果たしていつからであろうか。

 そう。あの背中。その大きさ、厚みをどうしてか見違えたこと。

 五歳かそこらの小さな身丈が、三月と経たず十歳前後のそれになり……出会ってから半年と少し、今やかの少年だったモノは青年に、早すぎる成長を遂げようとしている。

 

 岸壁街の最奥、アビスの虚の縁で横たわる幼児を拾った。満足な衣服すら身に帯びず、汚れた襤褸布に包まる様はただの捨て子にしか見えなかった。しかし、ただ一つ異質な――一振りの抜き身の剣を幼子は抱いていた。

 何故、そんな得体の知れない子供を引き取ってしまったのだろう。気紛れ、気の迷い、それとも今更に孤独が恐ろしくなったのか。それら諸々の所感は少なからず胸の内にあった。真っ当ではないにせよ、理由として不足はない筈だ。しかし一番の理由は、もっと下らない。善意や憐憫でさえない。

 探窟家としての己。その自己に根付き、もはや切っても切れないもの。好奇心。未知、異なるモノへの強烈な求心。

 憧れの呪い。それに類する感情だった。

 度し難い、そう思う。壊れた身体はガラクタ同然、息子を死なせ妻を亡くしてなお、この期に及んでまだ、自分は。

 アビスの闇に魅せられている。その香を少年から嗅ぎ取り、手を伸ばしていた。

 救い難い、枯れた心に唯一僅かな(みず)を含んだ自己嫌悪。十年前からずっと価値無き自罰の日々は続いている。

 そのようにして生涯を終えるのだと、苦しみながら死ぬことが義務だとさえ信じていた。

 その筈だった。だのに。

 

「……」

 

 幼な子との奇妙な共同生活は、己の想像とは随分かけ離れたものだった。

 かけ離れて、穏やかな。

 親子というには、あれには子供らしさが足りない。そして自分とて、今更親を称する分際にない。

 だからそう、あれはまるで()()()()友人のような。軽口を叩き合い、時に節介を焼きに来る。不意に、(ちか)しい友人を得たような。

 それは安堵だった。この上ない安堵。

 妻子を亡くした時諦めた、終わりなき孤独に対する恐怖。それが薄れ、解れ、今や霞のように消え掛かっている。

 奴はきっと、死に水を取ってくれるだろう。迷いなくそう思える。そんな、分不相応な安堵を噛み締めて。

 憧れに耽溺して、家族を見殺した自分が。

 こんな自分が。

 

「…………ぐ」

 

 胸を押さえる。苦しい。胸骨の奥、心臓が握り潰されるような痛みを必死に耐える。耐えて、甘受する。

 これが報いなのだ。相応しい末路なのだ。

 

「……いや」

 

 暖かな床で往生することすら自分には過ぎている。贅沢に過ぎる。

 この老木が死すべきはここではない。死すべき場所など、一つきりなのだ。

 

「……」

 

 身動ぎ一つで軋むガラクタのような体で床を抜け出し、床を這う。

 それだけで息は絶え絶えになり、心臓は死期の早着を割れ鐘のようにがなり立てた。

 それでも這い、進む。

 扉近くに立て掛けてあった木杖に縋り、膝立ちに歩く。牛歩よりなお遅々として、地虫同然に歩く。

 相応しい死に場所に行くのだ。

 行かねば、ならないのだ。

 

「……」

 

 ふ、と。思い立つものがある。

 下らぬ感傷だ。そんなものに何の意味が、価値があろうか。だが。

 それもまた義務、なのかもしれない。無責任に命を放る者が最期にできる唯一の、なけなしの。

 紙はあった。筆は烏の羽、インクは炭を水に溶かして。

 

「……ラーミナ」

 

 お前に遺せるものなんざ、これくらいだよ――――

 

 

 

 

 

 

 

 いつもの入り組んだ道なき道を進んで登り、降ってまた登る。

 そうして荒ら住まいの暖簾を潜った。

 

(けえ)ったぜ……爺さん?」

 

 灯りも点らぬ室内は、夕陽の名残も覗けぬ暗闇。

 ただ窓越しに見える茜雲だけが、ほんの僅かな光源だった。

 窓辺のベッドは無人。そこに横たわっている筈の老爺の姿はない。

 

「……」

 

 床に触れる。ほんの僅かだが温もりが残っていた。ここを出てそう時は過ぎていない。行き違ったか。

 何者かが老爺を誘拐(かどわか)したならば、室内には相応の気配が残る。如何にしても残る。それが無い、ということは老人は自らの意思でここを発ったのだ。

 碌々立ち上がることもままならぬ足で、一体何処へ。

 その時、目の端を過るものがあった。

 

「!」

 

 食卓の上に半紙がある。手に取って検めればそれは置手紙で。

 それは――

 

「……ちぃっ!」

 

 荒ら屋を飛び出す。

 足取りに迷いはない。向かうべき場所はすぐに知れた。

 あそこ以外にありはしない。老いたりとはいえ、骨の髄からあの男は探窟家だ。未練、無念、憧れ――死病か呪いのようにそれらは奴の性根を染め上げていた。今際の際ですら拭うこと能わず。

 探窟家の死に場所など他にはない。そう、たった一つ。たった一つなのだ。

 

 

 暗がりの岸壁街を駆ける。道々はおろか空を圧し隠す歪な家々にすら人の気配は薄い。

 帰還祭は日暮れ刻の今こそが佳境。表も裏もなく、今こそオースは祝賀に沸いている。アビスの雲霞の如き未知がまた一つ晴れ、あるいはまた一つ大いなる未知が湯水の如くに湧いたのだろう。

 奥へ、さらに深みへ。

 無間の大穴、アビス。

 憧れは、止まらない。止められはしない。何をしても。如何にしても。

 死すらも、慮外へ打ち捨てる。

 

「糞喰らえだ……!」

 

 微かに、歓声が岸壁の合間を木霊する。

 夥しい人々の言祝ぎが聞こえる。

 それら全てに背を向けて行く。暗闇を突き進み、さらに闇の奥へ。大穴を望む露台、アビスの口端へ。

 

 

 

 

 岸壁街の最果て。虚の間際。深淵の縁。

 そこに、ソレはあった。

 露台の端、手摺すらない粗末な板床の絶えたその場所に、襤褸切れのように打ち捨てられている。

 襤褸を纏った老爺が、事切れていた。

 少し離れたところに木杖が転がっている。所々に捲れ上がった材木に足を取られ、取り落としたのだろう。本当は身を投げるつもりだったのだろう。為に、それは叶わなかった。

 枯木のように細った右手だけが、露台の縁からだらりと穴に垂れている。最後の、最期に残された力で、乞い求めたのが。

 

「……馬鹿野郎が」

 

 老爺の傍に腰を下ろし、眼下の闇を見る。

 こんなものを求めて、苦痛に蝕まれた体を引き摺り、なけなしの命を使い潰して、こんな場所で。

 そうまでしてこんな虚穴に喰われたかったのか。この中に、逝きたかったのか。

 何故だ。どうしてだ、ウィロー……。

 

 ――――無念だよ

「…………そうか」

 

 問いは、呆気なく氷解した。

 己は知っていた。老人が抱える懊悩、無念を、直に、確とこの耳で聞いたではないか。

 この男が最期の最期に乞い求めたのは、アビスではない。探窟家としての夢でも、矜持でもない。

 ただ、ただ。

 

「息子の傍に、行きたかったんだな……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ラーミナへ

 

 お前に遺せるものはこれくらいしかなかった

 老いぼれの戯言と思ってくれ

 

 ありがとう

 何もない、ただ死ぬだけだった俺をお前が救った

 

 すまない

 最後まで迷惑をかける

 ただ、それでも、俺はあの子の所へ行かなければならん

 一緒には、死んでやれなかった

 だからせめて、同じ場所で死にたい

 アビスの底で一緒に眠ってやりたい

 

 すまない

 随分長く死人の我が儘に付き合わせちまった

 碌な恩返しもできなかった

 

 ベッドの下の探窟装備はお前の好きにするといい

 売って金にするもお前の自由だ

 

 こんなことを言う資格がないことはわかってる

 だが

 

 どうか、息災でいてくれ

 

 

 

 

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