ここからはなのはの事故後です。
赤星と今回出てくる巫女さんの関係は、完全にオリジナルなものです。ご容赦ください。
降り出した雨は止むことなく地面を叩く。整備された公園の床を濡らし続ける。月を覆い隠す黒い雲のせいで、そばの海も真っ黒だった。
「……はあ……はあ……」
海鳴臨海公園の一部は緑化されており、外部からは中が窺えない程度に広い森がある。そろそろ早朝という時間帯だが、冬のこの時期、太陽が出るにはまだもう少しかかることだろう。仮に出てきたところで、この分厚い雲では薄暗くて気が滅入るような朝にしかならない。
「……はあ……はあ……っ……!」
普段は人も多いこの公園も、この時間帯、この寒さ、そしてこの鬱陶しい雨の冷たさのせいで、人の気配などまったくない。まるで世界が自分1人しかいないような錯覚さえ抱きそうな静寂。そして打ち付ける雨は『彼女』に降りかかった出来事に泣いているようでもあり、そして、自分を責めているかのようで。
――かつてこの場で、希望を見た。
なぜここにいるのかはわからない。正直、ここまでどうやって来たのか、記憶もない。ただ気付けば、ここにいた。
あの日。ジュエルシードを追跡し、封印に回っていたとき。重傷を負ったユーノが、助けられた場所に。
高町なのはという少女に救われ、太陽のような眩しい笑顔に希望をもらった場所に。
「…………」
自分が『依存』していることを、理解していた。けれど今ほど、それを痛感したことはない。
無意識のうちに、ここに来ていた。それが何よりの証明。
――今この場で、絶望を知った。
血まみれで運ばれてきたなのはは、既に意識もなく、そのまま緊急手術に入った。執刀医はもちろんシャマルだ。応急処置が良かったこともあり、何とか一命は取り留めた。
だが、魔導師としては、終わりかもしれない。それどころか歩くことさえ困難となるかもしれない。
生きていてくれただけでもいい。そう思う心もある。
けれど。魔力を失い。歩くことさえままならなくなって。それは本当にいいことなのだろうか。
ユーノは知っている。
魔法を使えることでなのはは無力だった過去を振り払うことができたのだと。魔法が、なのはにとって単なる戦うための手段や空を飛ぶためだけのものではなく、なのはの心を支えるものであったということを。
それはある意味で、命よりも大切だったと言える。それを失って、果たしてなのはは以前のように在れるのだろうか。諦めないでくれと言うのは簡単だ。不屈こそがなのはの代名詞。だがユーノが言ったところで、それは押し付けにしかならないだろう。
1人の少女の未来を奪い、死にかけたという壮絶な経験をさせたことへの責任。罪悪感。この上でなのはの笑顔がなくなれば、ユーノ自身が耐えきれないから。
「……っ!」
踵を返し、ユーノは再び歩き出した。やがてその足は駆け足となり、全力疾走へ。
どこへ向かっているのかなんてわからない。知る由もない。ただただ走る。
あの場所にいられなかった。醜い自分をこの上なく知らされるから。この期に及んで、まだなのはに縋ろうとしている自分自身の浅ましさに。最低さに。愚かさに。
走って走って、走り続けて。それでもユーノは追い立てられるかのような感覚を抱く。
この街は、海鳴とその周辺は、あまりに思い出があり過ぎて。どこへ行ってもなのはのことが過ぎる。なのはだけではない。フェイトやはやて、アリサにすずか。クロノにリンディ、高町家の面々。彼らが住む所だからこそ、どこへ行こうと彼らの影がユーノを追い立てた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……!」
体力などとうに限界だった。どれだけ空気を吸い込んでも肺が足りないと訴えている。足はすでに痛みだしていて。
それでもただただ走り続けた。
『……なのは……ごめんね……ごめんね……! もっと早く、もっと早く、なのはを止めていたら……!』
現実を認められず、泣いているフェイト。
『……ちょう待ってや……嘘やろ?……さっきまで一緒に笑っとったやん……やっと、やっと、なのはちゃんらしい笑顔、見せてくれとったやんか……』
愕然として座り込むはやて。
『ごめん……ごめん、はやて、なのは……アタシがそばにいながら……守れなかった……アタシのせいだ……!』
守れなかったと握り締めた拳や強く噛み締めた唇から血を流して嘆くヴィータ。
『…………くそっ…………!』
危惧していたからこそ、予想できた最悪の事態。現実に成ってしまった『こんなはずじゃなかった』ことに、身を震わせるクロノ。
『なのは……! 士郎さん、どうしてなのはが、私たちの子が……!』
『…………』
涙なんておよそ見せたことなどないのに口元を抑えて士郎に弱々しく寄りかかる桃子と、いつも飄々としていたのが嘘のように恐ろしいほどの冷たい目をしていた士郎。
彼ら全員の姿が、言葉が、ユーノの心を追い立て、責め立て、突き立てる。
それらすべて、勝手なユーノの被害妄想に過ぎない。そんな彼らから逃げているからこそ、しかもこの上なのはに『依存』していることを自覚しているユーノだからこそ、負の連鎖でどんどんと度を増して苛むのだ。
頭を押さえ、怯える子供そのままに、ユーノはこの街そのものから逃げるように山手の方へ向かっていた。道の先にあった石段をそのまま登り始める。もういい加減にしろとばかりに足が悲鳴を上げる。力の抜けた足が石段に打ち付けられるが、すでに感覚もない。そんなことよりも精神的に追われる恐怖が勝った。精神が肉体を凌駕するというやつだろうか。本能的な恐怖が肉体的な痛みも苦しみも無視してただ走らせるのみ。
「が……は……あ……はっ、はっ、う……げほっ、ごほごほっ……!」
が、それも石段を登りきったところまで。ユーノは石段の先、八束神社の入り口たる鳥居の下で思い切り倒れ込んだ。すでに衣服は雨でずぶ濡れで、石畳の床に溜まった雨水も吸い込めないほどだった。それでもユーノの全身に雨は変わらず降り注ぐ。激しく咳き込み、そして咳き込むたびに酸素が足りない苦しみに苛まれる。
「うっ……!?」
喉の奥から込み上がってきたものがぶちまけられる。幸い、ほとんど胃に物が残っていなかったか、吐瀉物は胃液らしいものばかりで、すぐに雨に洗い流されていく。残るのは、口の中に残る胃液の酸っぱさと気持ちの悪さ。
「げほっ……はあ、はあ、はあ、はあ……!」
視界がぼやける。体が熱い。
だと言うのに、未だに消えることはない、フェイトやはやてたちの姿。そして、一瞬だけ見た、血まみれのなのは。
「……ごめん、フェイト。ごめん、はやて。ごめん、ヴィータ。ごめん、クロノ。ごめんなさい、士郎さん。ごめんなさい、桃子さん……!」
シグナムにも、シャマルにも、ザフィーラにも。アルフにも、アリサにも、すずかにも。
「ごめんなさい、恭也さん……ごめんなさい、勇吾さん……ごめんなさい。ごめんなさい……!」
譫言のようにただ繰り返す。
懺悔の言葉だ。そんなことをするのも、もう体が全く動かない中、ぼやける視界で目だけを動かして、何とか自身の真上に見えたのが鳥居であり、ここが神社とこの世界で呼ばれる宗教施設だと判断できたからか。
神に縋る。追い詰められて追い込んで、ユーノはこの世界の神でも何でもいいから、ただ願った。
「……お願いします……なのはから、魔法を取らないであげて……なのはの足を、動くようにしてあげて……僕はどうなってもいい。魔力でも足でも命でもいい。僕に払えるものは何でも払います。だから……なのはを…………」
雨で冷え切り、酷使して限界を迎えていた体。それを何とか支えていた精神も、そこでとうとう事切れた。
それでもなお、「なのは……ごめんね」と口にできただけ、大したものかもしれない。
再び静寂が神社を包む。雨の音と、かろうじて鳥居の下で倒れ込むユーノの微かな息遣いのみ――
「ねえ、久遠。さすがにこの雨なんだから掃除は……!」
「……違う」
「ちょっと、久遠!? 玄関先でいきなりその姿になっちゃダメ! 誰かに見られたらどうするの!」
「早く。誰か、いる」
「誰かって、こんな早朝の大雨の中で……」
「いる。あそこ」
「え?……て、ちょ、ちょっと君!? 大丈夫!?」
にわかに騒がしくなる境内。神社の少し奥まったところにある神主たちの住居。そこから出てきた巫女姿の2人。犬のような耳と、犬などより太く大きな尻尾がある、10にも満たないような少女が、小柄な女性を引っ張っていて。少女の方が鳥居の方を指さすと、そちらを見た女性もややあって気づく。すぐにユーノの下へ駆け寄り、持っていた傘を気休めだろうけれどユーノの上に持ってきて雨を防ぐ。そして苦しそうに小刻みな息を繰り返し、唇は紫色、顔は真っ青という、誰が見てもまずい状態に、反射的に額に手を持っていって。
「――ひどい熱。久遠、すぐにお湯を用意して! 身体を温めないと!」
「いいけど。那美が、運ぶ?」
「そうよ。早く!」
「……那美、転ばない?」
「はうっ……」
実は駆け寄る際にも蹴躓いていた女性は、鋭い指摘をしてくれる長年の付き合いとなる相棒の少女に僅かにびくついた。確かに、運んでいる最中に転んだら運ばれる側も溜まったものではない。まして高熱の身。トドメになりかねない。
女性は顔を振って周囲を確かめ、誰もいないことを確認してから、少女に大きくなってもいいよと頷く。すると「うん」と返事をした少女の身体が光り、次の瞬間には長身の女性へと体が変化した。獣耳はそのままに、しかし尻尾の数が一気に増えている。
「私の部屋に運んで体を拭いておいてあげて。お湯を持って行くから」
「わかった」
獣耳の女性はユーノを軽く抱え上げ、先に走り出す。残ったもう1人の女性はその背中を見ていたが、ややあって傘を拾いつつ首を傾げる。
「あの子……どこかで見たような」
そんなに昔でもない。最近というわけでもないけれど。
金髪の男の子だ。家が家なので海外の宗教組織とも付き合いはあるが、あんな金髪の男の子はいない。仕事とは別に友人や先輩後輩としての付き合いのある外国人もいるけれど、あんな小さい子はいない。
ならどこで見たことがあっただろうかと考えて。
「あ」
ふと思い出す。
先輩から見せてもらった携帯の写真だ。懇意にしている先輩たち。まあ、そのうちの1人は、いわゆる彼氏というやつだが。その2人から見せてもらったことがある写真の中に、あの男の子が映ってはいなかったか。
――『見ろよ、那美さん。この朴念仁の恥ずかしがってる顔! レアだぜレア!』
――『これ見よがしに見せるな、赤星! お前という奴は!』
――『ふふ。高町先輩、本当に写真が苦手なんですね。それで、この2人の男の子はどなたなんですか?』
――『なのはの友人でして』
――『ああ、なのはちゃんの』
――『こっちの黒髪の方がクロノくんって子で、金髪の方がユーノくん。どっちもいい子なんだけど、高町のコピーかってくらいに生真面目でなあ』
――『いいではないか。真面目で』
――『否定はしないけどな。お前の場合は真面目の前にクソって言葉が付くんだ。そんなつまらないことになる前に止めてやるのが年長者の務めさ』
――『ダメですよ、赤星先輩。そんな汚い言葉使ったら……て、高町先輩落ち着いて! 糸とか針とか出さないでください! 神社で何するつもりなんですか!』
――『いえ。神前でもありますので、汚物の掃除をと』
――『血みどろになるじゃないですか! 余計ダメですよ!』
――『那美さん那美さん。高町の冗談だから。こいつの冗談はわかりにくいけど。クソ真面目だから冗談として受け取ってもらえないけど』
なのはの友人ということだから、高町家に連絡した方がいいかもしれない。生憎と高町の方の先輩は別の女性の先輩と共に半年ほど前に海外へ行ってしまっているけれど、高町の先輩の義妹である美由希とは親友同士だ。美由希に連絡をすれば問題ないだろう。
「でもどうしてこんな時間にずぶ濡れで……」
なぜ、謝っていたのだろうか。
額に触れて熱を測っていた時に、微かながら聞こえたのは謝罪の言葉に間違いない。雨で濡れて判別がつかなかったけれど、彼は泣いていたのではないだろうか。
八束神社の巫女である神咲那美は、こちらまで悲しくなるくらいのユーノの様子に胸を痛めながらも、今は彼を介抱しなければならないことに思い至り、お湯を用意するべく、駆けだすのだった。
手に持っていた書類は今やぐしゃぐしゃにされていた。
「くそ……!」
なのはが堕ちてから1週間。命を取り留め、そしてリンカーコアの機能低下による魔導師生命の断絶と、足が不随となるかもしれぬという、2つの絶望的な可能性を提示されたのが3日前。
その間、何度この悔恨の言葉を口にしたろうか。
「……くそっ!」
馬鹿のようだとクロノ自身が思う。それ以外にも、下品だとか汚いだとか、そういう倫理的な理由を排すればいくらでも知っている罵倒や侮蔑の言葉。だがどれを言ったところで、結局のところ、この誰に向けているのかわからない悔恨の念に帰結するのだ。
ああしていれば。こうしていれば。
そんな意味のない『もしも』を考えてしまう。『こんなはずではなかった』と叫びそうになる。
失った過去は戻らない。そうプレシアに言ったことは覚えている。その言葉が、痛烈にクロノ自身へと投げ返されてきたようで。
「何のために……何のために僕は、今日まで……!」
父が死に、母が悲しみ、周囲の多くの人が嘆いていた。今でもその時のことを覚えている。幼い当時の記憶などほとんどない中で、ただただ、その記憶だけは鮮明で。
その記憶こそが、クロノの原動力だったと言える。あんな光景を2度と見たくないからこそ、誰にもあんな思いをしてほしくないからこそ、クロノは『あんな悲しい思いをさせる理不尽を許さない』と誓った。誰でもない、自分自身に。
だが。
また。
起きてしまった。
それも、やろうと思えばクロノ自身の手で防げたかもしれないのに。
「くそっ!」
丸めた書類を床に叩き付ける。これがガラスだったら思い切り割れてくれたろう。大きな音を立てて、バラバラに砕けて。そうすれば、心に渦巻くドス黒いものも少しは発散できた。だが紙の書類は結局軽い音を立てて床を刎ねた挙句、カサカサと少し転がるのみ。それが腹立たしくて、思い通りにならない苛立たしさを助長する。踏み潰してやろうかと一瞬思うが、当初ユーノと共に仲間たちを励まし、怒りに飲まれてはいけないと説き、なのはが起きることを信じようと諭し、彼女たちに寄り添い続けたからこそ、その自分がここで怒りのままに行動してはならないと、かろうじて残った理性が押し留めた。踏み出そうとした足をその場に縫い付けるようにして、クロノは長椅子に乱暴に座り込む。
が、その理性を、黒い感情が、本能の中にある獣が、押し潰そうとする。
仲間がこんなことになったのに。お前がもっと動かないからこんなことになったのに。いつまでも迷っているからこんなことになったのに。こんな時まで、お前は理性なんて保っていられるのか。冷酷だな。冷徹だな。人間として最低だな。
物事を客観的に見て判断するのは、執務官として必要な能力。それゆえに、クロノ自身を第3者の視点から見る『クロノ・ハラオウン』がいる。『クロノ』は、クロノを激しく糾弾していた。
かつて。
クロノも多くの失敗や挫折を経験してきた。
そのたびに、この『クロノ』はクロノを厳しく追及して。だからこそクロノは『クロノ』と戦い、ただただ『クロノ』に負けぬよう、師たるグレアムから教えられた冷静を維持しようとして、結果として周囲から冷たい機械のようだと揶揄されていた。感情を、とにかく押し殺したのだ。感情のままに動いてもまた同じことをしてしまうだけ。『こんなはずじゃないこと』を防げない。だから冷静たれ。常に冷静に、次の一手を、最善の手を考えろ。
グレアムは決して冷酷や冷徹になれと言っていたわけではない。それも時に必要なれど、感情を殺せとまでは言っていない。だから当初はクロノもなのはのように、助けたいから動いた。けれど現実は非情で。その行動が仇になったこともあれば、その時は最善のつもりでも後から最悪の手だったと思い知らされたこともある。だから最善を求めた。何が最善かを考え、被害を最低限にするべく動くようになった。けれど感情は訴えるのだ。今助けずしてどうするのかと。助けたいと。その鬩ぎ合いが、結果としてクロノを冷たい機械のようにしてしまった。
そんなクロノにとって大きな転機となったのが、高町なのはとの出会いだった。
助けたいから助ける。違反しようと、それを理解していようと、今助けないでどうするのかと。
手を差し伸べ、そして実際に、ユーノを、フェイトを、はやてを、ヴォルケンリッターを、リインフォースを、助けた。
クロノにとって。なのはの存在はまさに凍った心を溶かすような太陽だった。
そんな存在を叩き落とされた。クロノにとって、それは絶対に許してはならないこと。なのに冷静に自分を抑えるようとする理性を、本能は、感情は糾弾する。
自分が抑えられないとはまさに今のような状態を言うのだろう。クロノは拳を握りしめ、もう片方の手で頭を押さえ、髪をぐしゃりと掴んだ。
「ポイ捨ては感心しないな」
すでに今日も遅い。医療部の待合スペースには誰もいない。受付に宿直の事務員や看護師が見える程度だ。そんな彼らもクロノの様子に声をかけず、待機室の方へと下がっていた。仮に声をかけられたところで、怒鳴りはしないものの、邪険にしてしまっただろう。
が、正面からかけられた声に対しては例外だった。
目を開くと、転がって放置されたままだった丸めた書類を拾う手が視界の端に映った。
「……恭也さん」
「ああ」
顔を上げれば、なのはの兄である恭也がいた。
疲れている。元気がない。
すぐにわかった。
だから、驚いた。
この人は、感情をあまり表に出さない。いつもそこにいて自然な存在感を発している。一度大事な話をするとき、精神を引き締めたとき、その存在感は威風堂々としたものへと変わる。目を離させない、離すなどできようはずもない、圧倒的なものへと。
なのに、今目の前にいる人は、やや疲れた目つきをしていて、無表情にも力がなかった。声をかけられるまでまったく気づきもしなかった。別に気配を隠していたわけでもないだろうに。そのくらい、存在感さえ乏しい。
「隣、いいだろうか?」と続けて声をかけてきた恭也に、クロノは我に返って了承の意を返す。
「……ふう……」
「…………」
こんな、疲労とわかる溜息を聞くのも、クロノは初めてだった。
当然だろうとすぐに自分に言い聞かせる。
なのはが大好きだと言う恭也。なのはが憧れ、目指す背中。それはつまり、なのはがそれだけ自分を大切にしてくれる人だと認識しているからだ。
そんな妹が生死を彷徨う大怪我をし、魔法を含め、未来の希望を失うかもしれない。なのは自身の体調管理の怠りもあったとは言え、何者かの手によってトドメは為された。嚇灼たる憤怒、当たるに当たれない苛立ち、そしてなのはを止められなかった自身への腹立たしさ……クロノと同じものを抱いて当然であろう。まして恭也はなのはの家族であり兄。その感情はクロノの非ではあるまい。むしろ誰よりも怒り、悲しみ、悔いているかもしれない。
だとしたら。
クロノはふと気になった。
この人は、どうやって、その感情を抑えているのだろう。
横にいてもらうだけで、どこか安心してしまう、そんな雰囲気をこの状況でも纏っていながら、けれど人らしい感情を持っていないわけでもないのに、負の感情を抑えて周囲に気を回せるのだろう。
冷たいなどとは思わない。冷たい人間がそばにいて安心できるわけがない。自分なら冷たくなってしまうのに、この人はどうして冷たくないのだろうと。
「ごみはきちんとゴミ箱にな」
「……ああ、はい」
そこで何だか間抜けた、しかし常識的なことを言われ、クロノは素直にそれを受け取ってしまった。
怒りの原因でもある、その書類を。
「……申し訳ありません」
だからこそ、クロノは謝った。謝らないわけにはいかなかった。
「もう何度も言ったはずだ。お前たちの責任ではないと」
なのは自身の体調管理の怠り。時空管理局の無理を押した運用。そしてクロノや恭也たちにも責任があるとすれば、それはなのはを止めきれなかったことであり、そしてそれは誰か1人に押し付けるものではなく、全員が平等に背負うべきもの。
それは恭也だけでなく、士郎や桃子、美由希の意思でもあった。美由希は少しだけ魔法に出会わなければ、といったことを言いかけたがすぐに口を引き結んだ。フェイトやはやて――なのはが魔法を知ったからこそ助けられた存在を前に、それは言ってはならないと思い留まったのだろう。
「ユーノもそうだ。なのはが助けなければ、ユーノは死んでいたかもしれん」
「それでも……あの馬鹿は自分を責めます。以前から、そういう気配はありましたし」
「『自分自身に助ける力があって、そして助けを求める人が目の前にいるのなら、その時は迷ってはいけない』」
「……それは?」
「父さんの言葉だ。なのはもそう言われて育てられた。俺も美由希も、小さな頃にな」
「士郎さんの……御神流の『護る』に通じる考えですね」
「ああ。だから俺も美由希もそれが正しいと思っているし、なのはもそうなのだろう。だから、なのはがユーノを助けたと知ったとき、俺も美由希も、父さんも母さんも、それを立派だと褒めたし、誇りにも思った」
士郎も桃子も恭也も美由希も、ユーノを責めなどしない。確かに魔法とのきっかけはユーノにあるけれど、ユーノを責める筋合いは彼らにはない。なのはがユーノを助けたのは、そもそも彼らからの教えにあるのだから。そしてだからこそ、なのははそれからも助けるためにと無理を通してきたのだから。
「と、それは一旦置いておこう。ユーノだが、見つかったぞ」
「本当ですか!?」
どうでもいいことではない、大事な話だ。だがそれより、今は伝えなければならないことがあって、恭也は話を変えた。
行方不明になっていたユーノのことだ。
当初、なのはの下に皆が集まった時はユーノもいて、愕然としながらも他人第一のユーノはクロノと共にいち早く我に返り、フェイトやはやてたちを元気づけようとしていた。だがなのはが一命を取り留めたはいいものの、魔導師としては終わりかもしれない、足も動かなくなるかもしれないという話を聞いた直後、気づけばいなくなっていたのだ。クロノたちも気づけないほどに傷心の体だったということだが、ユーノも限界だったのだろう。元より『依存』していたユーノだ。恐ろしくなったのかもしれない。
嫌われることを恐れるからこそ、皆の糾弾に晒されると思って。
それから実に3日。無許可の次元転移で第97管理外世界の地球に跳んだことはわかったが、そこから足取りが掴めなかった。現地も当時は深夜から早朝、さらに天候が崩れていて目撃者がおらず、さらにユーノは日本の人間ではないから警察にも下手に頼れない。恭也の知り合いが警察にいるので、何とかその辺の追及はされずにすんだが、それゆえに割ける人数も少なかった。
「家に一度戻った際、ヤケに赤星から何度も留守番電話が入っていてな」
「赤星さん、ですか?」
「ああ。どうやら俺たちの後輩の家に保護してもらっていたらしい」
「そうですか……」
今日も服などを取りに戻っただけで、すぐに時空管理局に戻らなければならなかったため、簡単に電話でユーノのことを聞いただけだ。ひどい高熱で肺炎を起こしかけていたらしく、どこをどうして来たのか、体中擦り傷や打ち身だらけ。とりあえず病院に運ぼうとも思ったようだが、先に士郎の方から警察に連絡していたので、高町家の知り合いの警察官が病院にも手を回していて、そしてこれまた知り合いの医師が対応して、直接神社の方へ来てくれたようで。
「今は熱も引いたようだが、衰弱が激しいようでな」
「なのはのこともありますけど、あいつは無限書庫で無茶を重ねていましたから、それもあると思います」
「そうか……」
1週間前、なのはが堕ちる直前にユーノから連絡が来て、そしてなのはと話すことができた。あの時のことを思い出すと、確かに恭也はユーノの声に力がないように感じていた。疲れを隠そうとしていると察したが、やはりそうだったのだろう。
「ユーノのことは、もうしばらくお任せしても?」
「構わない。赤星も気にしていたし、面倒は見ると言ってくれた」
ユーノと勇吾が話したことはクロノもユーノから聞いているし、恭也も勇吾との連絡で知った。お膳立てをしたからであるわけだが、恭也が思った以上に勇吾はユーノを気にかけてくれているらしい。事情を知りたそうにしていたが、なのはが事故に遭ったとだけ今は伝えてある。勇吾も今はそれ以上聞くことはなく、なのはの心配もしてくれた。気を回せる親友に、恭也も感謝するばかりだ。
「本当に、ご面倒をお掛けします」
「気にするな」
「……申し訳ありません」
「それは何に対する謝罪だ?」
クロノもユーノも謝ることが多い。それに対して苦言を呈したことがあるが、恭也はこの癖は2人してなかなか抜けそうにないなと、少しばかり途方に暮れる。
そこでクロノは丸めてしまった書類を開いていく。ミッドチルダの言葉は英語に近いものがあるが、恭也にはやはり読めない。何が書かれているかはわからないが、それを起因とする謝罪であろうことは察した。
「……この事件。担当することが、できませんでした」
「……そうか」
なのはの事件。正体不明の戦闘機械との遭遇戦。
すでに回収された戦闘機械の残骸の調査は始まっており、AMF――〝アンチマギリンクフィールド〟と呼ばれる、高位の防御魔法が通常装備された機体であることが判明していた。単に相手の魔法を防ぐ〝ラウンドシールド〟などとは異なり、魔力の結合を阻害することで魔法を減衰・無効化するというもの。複雑な術式で、相手の魔法に合わせて調整する必要があり、現在ではほとんど使い手はいない。
新たな脅威として早くも認識されており、クロノはこの脅威が次元世界中の犯罪集団やいくつかの国家が導入を図っているという情報も手に入れていた。
なのはは、戦闘機械のデモンストレーションに利用された。
AAAクラスの魔導師を撃破した。
なのはの体調が万全ではなかったことも要因だが、そんなことは関係ない。ただAAAクラスの魔導師を撃破したという事実が注目されている。
そして。
この戦闘機械のデモンストレーションをした者が。
件の、ジェイル・スカリエッティであったとなれば。
当然に、クロノは次の日には執務官として担当する旨を申し出た。
だが、返ってきたのは、許可できないという文言。
――『貴官は激しい私情を抱いているのが明白であり、冷静さを欠いている。当該事件の担当としては不適当と判断するものである』
もっともな回答としか言いようがない。確かに今のクロノは私情で動いているのだから。
加えて、これまでクロノが独自にジェイルの調査をしていて、その報告を誤魔化してきていたのもまずかった。ジェイルの調査については、専任の執務官たちに必ず許可をもらい、報告を逐一あげなければならない。だがクロノは時空管理局がジェイルと繋がりを持っているという疑念を持っていたため、『ジェイルの調査ではなく、違法研究開発全般について調べているだけだから、逐一の報告は不要ではないか』として、報告を故意に遅らせたり省いたりしていた。これがここに来て悪影響を与えてしまったわけだ。
「ですが、お約束は必ず守ります」
そしてクロノは、恭也を始め、高町家の面々に目の前で伝えていた。
首謀者は、必ず捕らえると。
その約束を、担当になれなかったからといって諦めるつもりはない。諦めるわけにはいかなかった。
――『戦えば勝つ。それが御神流だ。それはつまり、逃げないこと、諦めないことだ。逃げてしまえば、諦めてしまえば、絶対に勝つことはできないからな』
今横にいる、密かに兄のように慕っているこの人に、『諦めないこと』の大切さを教えられたことがあるから。この人に、失望されたくないという意地があるのだ。
「どうするつもりだ?」
「独自に追います」
「命令や服務規程への違反ではないのか?」
「……やりようは、いくらでもありますよ」
法を知るからこそ。法の抜け道を知っているとも言える。
先日のユーノとの会話でも、ユーノに言われたことだ。
――『労働法違反ギリギリのところで人をこき使う黒い悪魔。法を知っている分、タチが悪いよね』
まったくを以って、法に携わる者に対しての痛烈な皮肉だ。だがその皮肉を、他でもない法務官でもある執務官が実行しようというのだ。恭也が懸念するのも当然のことであろう。
「なのはのためを思ってくれることには、俺としても感謝している。だがお前の立場を危うくさせてまで俺たちはお前に強要などしたくはない」
「こう言ってはなんですが、別になのはのためだけではないんです」
ジェイルについては、元々なのはと言うよりフェイトのためというのがあったのだから。そこに今回の一件で、なのはのためにもなる。それだけのことだった。
「それに……これは、僕個人の問題でもあります。これ以上……後悔したく、ないんです」
「…………」
迷ってきた。上に目指すのか、現場に残るのか。色々と理由を付けて。そうして結局、この2年で何ができたのかをこの1週間で考えさせられて。
何も、為せていないことに、否が応にも気づかされた。
無限書庫のことも。魔法至上主義や後方軽視、情報軽視の風潮も。なのは・フェイト・はやてたちに対する扱いも。ユーノとフェイトの『依存』についても。
何も、変わっていない。改善できていない。
――『1人で全部するんは無理やで』
クロノの脳裏に、はやての言葉が蘇る。
わかっている。1人で立ち向かうには、どれもあまりにも大きくて難しすぎる問題ばかりだ。だからいずれ現場はなのは・フェイト・はやてたちに任せることになるだろうと、次元航行隊の提督への勧誘を受けようかとおぼろげながら将来を思い描いた際に考えた。
けれどその前に。フェイトのことがあるし、無限書庫のこともある。今解決しなければならない問題があって、それを放り出していくのは気が引けた。いろんな妨害や、予想外のことが重なったとは言え、結局のところ何1つとして解決できていない。それどころか、ほとんど前進していない。
それに気づいたとき、はやての言葉から、もう1つの意味に思い至った。
1人で全部するのは無理。
1人では無理だから誰かを頼れという以外に、もう1つ。
全部しようと思うからダメなのだと。
そんな意味にも聞こえないだろうか。
はやてはもちろん、前者の意味で言ったのだろう。だがクロノは後者の意味に気づいた。
そう、1つずつ。1つずつなら、できないことはないはず。
「今日、フェイトの執務官試験があったんです」
「聞いている……こう言ってはフェイトに申し訳ないが、正直、ダメだろうと」
「そうですね。僕から見てもダメです。今のフェイトに、執務官試験を通過できるわけがありません」
執務官試験は1日では終わらない。筆記に面接に実地にと、これらを1日で行うのは無理な話だ。今日は1日目で筆記試験があった。だが執務官試験に向かうフェイトを送り出したとき、クロノもリンディもアルフも無理だろうと、口には出さないがほとんど確信していた。アルフが試験場までついて行ったが、心ここに在らずな状態。そんな状態で合格できるほど、執務官試験は甘くない。
「執務官試験は半年に一度行われます。少なくとも、半年の猶予ができたことになります」
フェイトが失格になることを前提とした物言い。兄としてひどい話であることはクロノ自身理解しているが、元々フェイトが執務官試験をこれほど早期に受けることは想定外で、良くは思っていなかっただけに、正直なところ安心したところもある。
だからこの半年の猶予を、最大限に活かさなければならない。
「フェイトのことは一旦置いておくということだな?」
「はい」
「無限書庫のことはどうするつもりだ? ユーノと約束したのではないのか?」
「……あの馬鹿にはなのはのそばにいてほしいと思っています。なのははあいつを特に信頼していますから」
無限書庫の再編も後回し。ユーノや無限書庫の司書たちには悪いが、どのみち今のユーノの状態も問題だ。おそらく司書たちにしても、ユーノを一時的に無限書庫から離すことに反対はしないだろう。そしてユーノがいなければ無限書庫の再編など不可能だ。2人でかかってダメだったのだから、クロノ1人で進められることではない。
それに無理を重ねてきたユーノにはちょうどいい休息になる。なのははユーノと深い信頼関係で結ばれているし、ユーノがそばにいればなのはにとってもいい影響を及ぼす。そうクロノは期待していた。
「この事件を追うことで、ジェイルにも辿り着ける可能性はあります。そうすれば、フェイトの問題はさらに猶予ができます。先送りでしかありませんが……僕ではこんな大きな問題をまとめて処理することは不可能ですから」
取捨選択するしかない。全てに手を出して何1つとして進めることが出来なかったのだから。それを反省するなら、取捨選択を厳格に行い、1つ1つ進めるべきだ。
「お前は、なのはのそばにはいてはくれないのか?」
「……できる限り、顔を見せるようにしますよ」
ユーノとも約束したことだから、可能な限り顔は見せよう。
クロノは視線を恭也とは逆の方に向けながら答えた。俯かせた顔は、恭也からは見えないだろう。そう思っていたからか、クロノの顔は、若干強張っていた。それは『拒否』を示すものだから、見せたくなかった。
「ならばなぜ、今日は会いに来なかったんだ?」
「…………」
「なのはが目を覚ました。真っ先に来てくれたフェイトやはやてとほぼ同時に来てくれていただろう?」
「……本当に、恭也さんは誤魔化せませんね」
だが、恭也にそんな小細工は通用しない。
恭也は気付いていた。クロノが来ていたことに。病室で、フェイトとはやてが目覚めたなのはに泣きながらも手を握り締めて喜んでいるのを微笑ましく見守りながら、病室の外にクロノの気配があることに。
結局クロノは入ってこなかった。ユーノは行方不明だったが、海鳴で見つかったことをフェイトとはやてには伝えており、衰弱しているから来られないのは2人も納得した。だがクロノが来ないことには若干怒っていた。彼女たちはすぐ近くにクロノがいることに気づいていない。そして今日は目覚めたばかりでなのはもまだとても本調子ではないから、今日のところはすぐに引き上げて行ったが、その後もクロノの気配はずっとこの待合スペースにあった。
「その書類が理由ではないのだろう? それが理由なら、最初からここに来ないはずだ」
「……見たくなかったんですよ」
「……何をだ?」
「わかっておられるんじゃないですか? 恭也さんなら」
「…………」
別に恭也を試そうというわけではない。ただ自分のことをここまで察している恭也だから、自分がどうして見舞いに来ておきながら病室に入らなかったのか、それもわかるだろうと思ったのだ。それに、なのはのことなら恭也に聞け、というのが仲間内での認識である。
「なのはの『笑顔』か?」
「やっぱり、わかっておられましたか」
出ていたのだ。
また。
あの『笑顔』が。
それは偶然だった。フェイトとはやてはなのはの事を聞いて一目散に病室を目指し、そして駆け込んだのだろう。扉は少し開いたままだった。だから見えたのだ、なのはの顔が。
「ユーノから聞いています。事故があったその日、恭也さんとなのはが話したと。無礼を承知でお聞きします。なのはは、何と言っていましたか?」
「……わかっているのだろう? お前なら」
先ほどのクロノの言葉をそのまま返すかのような恭也の返答。この時点でクロノの推測は確信に変わったと言ってもいい。
「プレッシャー、ですか?」
「一言で言えば、そういうことになる」
「そうですか……やはり、そうでしたか」
なのはは、求められれば応える。
助けを求める人は大勢いる。時空管理局は人手不足で、才能ある人材を求める。慢性的な人手不足は、先天的な資質が物を言う魔導師のため、後天的に増やすことができず、ゆえに魔導師の数が限られることで絶対数の不足という問題を解消できない。それでも質量兵器を禁じて魔法を唯一の武力行使の手段とするがために、増やすに増やせないことも相まって、魔導師個人に負荷がかかってしまう構図になっている。要するに、魔導師に無理を強いる運用ということだ。特に才能ある魔導師はそれが顕著だ。まだ幼いという年齢の子供でさえ、才能がずば抜けていれば確保し、3ヶ月程度の即席コースで知識や技術を詰め込み、戦場へと送り込む。
けれどなのはは、求められているから。無茶を通し、無理を押した。
才能豊かで、優しくて、太陽のような笑顔の持ち主だから、逆にそれも災いした。戦場では希望の星として扱われ、時空管理局も次代を担う若きエースとして広報し、前線の士気の盛り上げを図った。
だからなのはは、笑顔で居続けた。希望を齎すために。安心してもらうために。それが、求められているから。
そんななのはでも、すべてを成功というわけにはいかない。現実は非情なのだ。10を救えても、1を救えないこともある。逆に1を助けられても、10を助けられないこととてある。だが数の問題ではなく、なのはにとっては救えなかった、助けられなかったと事実は重くのしかかる。
――クロノも、同じ経験をしてきたから、わかるのだ。
クロノはそれに対し、感情を押し殺した。現実の重さを受け止めようとして、助けたいから助けるなんて楽観的なものであって、それが最善とは限らないのだと自分に言い聞かせた。それが、フェイトがジュエルシードを故意に発動させるという無茶を犯したあの時、自滅を待つのが自分たちの被害も少なくていいという、実に冷静で、けれど人としては非常に冷たい判断さえよしとする機械のような冷たさを持つに至った。
なのはは、そうはならなかった。現実を受け入れられなかった。自分の力が足りないのだと判断し、より力を付けることに躍起になった。
現実を受け止めたか、そうでないかの差。
共通するのは、どちらも感情を押し殺した点か。
その結果、クロノは機械のような冷たさを持つに至った。対してなのはは、何の感情も感じさせないような『のっぺりとした無表情』を見せるようになった。
また、クロノは笑わなくなった。なのはは、太陽のような、周囲を明るくさせる笑顔とはまるで違う、中身のない『笑顔』という仮面を張り付けた。
「恭也さんも、ご経験されたことがあったんですよね?」
「ああ……俺の場合は、周囲のプレッシャーではなく、単に自分で勝手に思い詰めただけだがな」
「変わりませんよ。僕もなのはも、自分で自分に重荷を課しただけですから」
恭也も同じだ。なのはが生まれて間もない頃、父の士郎が重傷を負い、生死を彷徨っていた。恭也は家族を守らなければならないと、一心に剣を振った。御神の剣は、世の中の暗部に通じるものだ。当然、多くの恨みを買っている。それを幼いながらも理解していた当時の恭也は、だからこそ力を付けなければならないと強く自分に求めた。そうして家族の心配にも気づかずに無理を重ねた挙句、まさに今回のなのはと同じように普段なら回避できた事故を回避できずに怪我を負い、膝を壊した。その膝はとある医師との出会いにより完治へと向かっているが、まだ爆弾は完全にはなくなっていない。
「どこまでも、恭也さんの妹ですね、なのはは」
「こんなところまで俺と同じでなくてもいいだろうにな……」
なのはが自分の背中を追っていることを、恭也は気付いていた。気づかないわけがないのだ。なのはが恭也のことならわかるように、恭也もなのはのことならわかる。2人は、それだけ仲のいい、そして何でも話し合えるような兄妹だったのだから。
だからクロノの苦笑に、恭也も椅子にもたれて天井を見上げながら小さな笑みを浮かべるしかない。
「お前はなのはの『笑顔』を見たから入ってこなかったということだが」
「はい」
「あの『笑顔』や『無表情』を取り除こうというのか?」
「直接取り除くのは、フェイトやはやてたち、そして恭也さんたちご家族です。まあ、あとはあのフェレットもどきもですかね。僕は間接的なやり方になります」
「……そのジェイル・スカリエッティだったか。そいつを捕らえ、そして管理局の体制や蔓延する風潮を変えると?」
「はい。そうでなければ、なのははいつまで経っても同じ苦しみを与えられかねません」
役割分担をする。それがクロノの考えだ。
現状、仲間内でジェイルを追えるだけの権限を持つのはクロノだけだ。だがなのはのそばにいるのは、仲間たちなら誰でもできる。もちろんクロノも可能な限りなのはに会いに行くつもりだが、今のクロノが行っても、あまりいいことにはならないとクロノ自身が思っていた。
「なぜだ?」
「……今の僕では、なのはに何を言ってしまうか、わからないんですよ」
「…………」
「さっきもそうでした。なのはのあの『笑顔』を見たとき、口をついて出てきそうになった……今のなのはには酷なことを」
なのはに対して向けるものではないのに。この怒りは時空管理局の体制や風潮に対してのものであるのに。なのになのはに対して八つ当たりをしてしまいそうになる。
いや、すでにしてしまっているのだ。
前回の模擬戦。あのとき、なのはが見せる態度に、クロノはえげつない戦法を取った。明らかにやり過ぎだ。あんなものは教導ではない。単に力ごなしで当てつけただけ。
「申し訳ありません」
「もう謝るな。何度も言っているが、お前もユーノも変に謝り癖がついている。お前がまったく悪くないとは言えないが、決めたことを謝るな」
「……ありがとうございます」
「それでいい」
背中を軽く叩く恭也に、クロノは本当に珍しいスキンシップに、少しだけ救われた気分になった。
ややあって、立ち上がる。落ち込んでいたのが僅かながらも晴れた気がする。本当に、この人はそばにいるだけで支えてくれる存在であることを実感するばかりだ。なのはが目標とするのも納得せずにはいられない。
「今日は、帰ります」
「わかった。明日はどうする?」
「……そんなに時間は取れないと思いますが、必ず来ます。次は会いますよ」
なのはには会いに行けなくてもすまないとだけ伝えておいてほしいとクロノは頼んだ。恭也は1つ頷いて返す。頭を下げ、クロノは踵を返した。
「――クロノ」
医療部を出て行こうとする直前、再び声がかかった。開いたままの扉の前で、クロノは振り向くことはないままに立ち止まる。
「確かに俺は、諦めないことが御神に必要な気概だと言った。御神でなくても、諦めないことは大事なことだろう」
「僕もそう思います」
「その上で、先ほども少し話に出た、俺が無理無茶を重ねた件を思い出してくれ。あのとき、俺は家族が心配してくれていることに気づかなかった。いや、気づかないフリをしていたと言った方がいいかもしれん」
「…………」
「御神の奥義の1つに、『閃』というものがある。それが当時の俺の目指す境地だった。だが俺はそれに辿り着けず、先に美由希の方が辿り着いた。なぜ美由希の方が、と考えて、俺なりに出した答えがある。そして今は、俺も『閃』の境地に至ることが出来た。俺なりの答えは、間違っていないのだと思っている」
「是非、お聞きしたいですね」
「お前にも、考えてもらいたい」
「…………」
「こんなときに、余計なことをと思うだろうがな。今のお前には、どうか考えてほしい」
「……時間が、かかると思います」
「当然だ。すぐに出る答えでもないだろう。じっくり考えてみてくれ」
「……わかりました。ありがとうございます。それでは、失礼します」
「ああ」
今度こそ出ていく。扉が閉まってもしばしクロノはその場に立ち止まっていた。
恭也に言われたことが無駄になったことはない。だからクロノは頭の中で恭也の言葉を幾度も反芻する。
わからない。今はまだ、やっぱりわからない。このタイミングで言うのだから、今の自分の状態が、言わねばならないと恭也に思わせたということだろう。
無理を押すことへの警告なのか。はやての言葉を別の解釈で捉えたことへの非難なのか。なのはに対する態度への助言なのか。
わからない。
「……守る、か」
難しい。何かを守ることとは、本当に難しいことだ。
クロノは前を見る。広大な時空管理局の通路。医療部からはいくつもの通路が伸びている。その先はずっと奥まで続いている。行き止まりは見えない。まるでこの問いを示すかのようにも見える。
「とにかく、今は進むしかないな」
クロノは一歩を踏み出す。今はただ、前へ進むことが大事だと思うから。