真冬のこの時期、日が昇るのは遅い。夏ならすでに日が昇っている時間だが、今はまだ薄暗い。それでも毎日起きているだけあってフェイトはすでに起きている。布団の中に入ったまま、まだ少しぼうっとした頭で天井を見上げていた。幾度が深く深呼吸をすると、すっかり冷えた部屋の空気のおかげで急速に意識が覚醒していく。
「…………」
フェイトは腕を布団から出し、そのまま顔の前へ。目を閉じる。
自分のリンカーコアを感じる。リンカーコアは臓器のようにここにあると決まっているわけではない。シャマルが闇の書の蒐集の際にいつも心臓付近を狙っていたが、別にそこにあるというわけではない。体のどこにでもあって、どこにもない。魔力の流れの中で意識すればいつでも構成できるし、散らすこともできる。シャマルは他人のそれも固定化させて取り出すことができるだけ。
普段は特に意識しないのだが、魔法というものを『理解』するには、こういうところから『意識』し、『認識』することが大事らしい。
感じる。自分の魔力の鼓動。自身の中にある魔力の塊。そこに手を伸ばすようにイメージ。すると応えるようにそれは光のように輝きだし、目を閉じているのに眩い黄金の光で視界が染まった。
目を開く。すると同時に、手の前に黄金の魔法陣が浮かぶ。
「共通定義、起動。第四法則、固定。防衛プログラム、一番から四番、順次展開」
呪文のように呟く。魔法陣がゆっくりと丸く。そして魔法陣の中で形作られる2つの三角形が、ゆっくりと、重なっていき……六芒星を形作った。そして今度はその周囲を一筋の黄金の光が宙を走り、文字を刻んでいく。手で書くよりは速いが、速記に比べれば遅い。
これが実戦ならあまりに遅く、敵の攻撃ですでに体を撃ち抜かれていることだろう。
だがこれでいいのだ。今はとにかく『理解』することが大事だから。頭で『理解』し、体に覚えさせる。刻み込む。
「対物遮断術式、スタンバイ、レディ」
ここまでは実に順調。魔法陣もほぼ完成。このまま発動させてもいい。学校ならそれで100点をもらえるだろう。
ただここからがチャレンジだ。ここからは時間との勝負。遅すぎるとエラーが発生してしまうし、かと言って焦って順序を間違えると、本来の性能より弱くなってしまう。
一息吸う。ゆっくりと息を吸い、肺を満たす。そして一度息を止め。
「――対魔防御プログラム強制停止。特殊防御プログラム、防衛プログラムの2番・4番と置換。例外処理のプログラムを追加……!」
早口で。一気に。
魔法陣に書き込まれた術式の一部が変わっていく。それによってエラーが生じ、魔法陣全体が揺れる。けれどすぐに別の術式が書き込まれ、そのエラーは解除。その繰り返し。
――『そうそう、その調子だよ、フェイト』
『彼』が使っている特殊プログラム。彼が独自に編み込んだ、強化プログラムだ。魔力は本来必要な分より少なく済むのに、堅牢さは跳ね上がる。魔力量が平均でしかない『彼』が、強い相手の攻撃を防ぐために、試行錯誤の末に編み出したもの。扱いは難しいが、物にすることができれば魔力が節約できる上、心強い盾になる。
「オールシークエンス、コンプリート。スタンバイ、レディ――セットアップ! 〝プロテクション〟!」
発動する魔法。光り輝く黄金の魔法陣が、その場に固着するように燦然と盾として広がる。薄暗い部屋が眩しいくらいの光に包まれる。けれど決して目を背けるような光ではない。目を痛ませるようなものではなく、どこか優しい、安心させてくれる温かさを持っている。別に魔法陣に温度があるわけではない。ただそのようにフェイトが勝手に思うだけの話で。
「どうかな、バルディッシュ?」
無口なままの、ベットの枕元が定位置の相棒に声をかける。
『It's 90 points』
「やっぱり、置換のところ?」
『Yes.
「うう……やっぱりここから先に進めない」
『Don't mind, sir.
確かにバルディッシュの言う通り、『
「もう1回」
『
何度か同じことを繰り返す。少しずつ早くしながら。やはり同じところで上手くいかないが、以前は間に合わずに崩れてしまったり、おかしなことになって支えきれずに暴走しかけたりと散々だったので、起きたばかりの頭でここまでできれば慣れてきたのだと言えるだろう。模擬戦の際、ここ最近防御が堅くなってないかと指摘されることも増えた。成果は確実に出ているということ。それに、実際の戦闘時にはこのフェイトの苦手なところをピンポイントでバルディッシュがサポートしてくれる。おかげで問題なく発動できるし、性能もほぼ100%発揮させることができるのだ。もちろん、目標はバルディッシュの支援なく完璧に発動させること。
さらに途中から対物防御プログラムではなく、対魔防御プログラムに変えて実践。そうするだけで対物理防御用の『プロテクション』から対魔法防御用の『ラウンドシールド』に変えることができるとフェイトは半年ほど前に知った。ユーノにそれを伝えたところ、「よく気付いたね、フェイト」と少し驚きながら褒めてくれた。ユーノ曰く、2つの魔法は防御プログラム以外がほぼ共通した術式や理論、公式や定義を使用しており、非常に似通っているらしい。そこに気づけば、いちいち最初から組み直さなくても、使用している最中でも魔法を変換することができる。最初から組み直すよりも早く対応できるため、ユーノもこの2つの防御魔法は徹底して鍛えたらしい。実際、ユーノは『デュアルドライブ』で2つを瞬時に同時展開させ、しかも展開させながら右手の『プロテクション』と左手の『ラウンドシールド』をお手玉でもするかのように、いとも簡単に変換して入れ替えて見せるという器用な真似まで披露してくれたもので。こっちはまだデバイスなしだと時間がかかるし、『デュアルドライブ』は全然うまくいかないし、その中で気づくことができたのに、それを嘲笑うかのような見事な芸当。もちろんユーノに悪気なんてないのはわかっているが、何となく納得がいかなくて。とりあえず拗ねたフリをしてユーノを慌てさせて鬱憤晴らしをしたものだ。
そして何より練習するべきは……。
「――〝バインドブレイク〟」
バルディッシュが用意してくれた、手首に嵌められた『リングバインド』を破壊する。バルディッシュの支援は一切なし。発動までおおよそ2秒。なかなか2秒を切らないのだが、少なくとも3秒以上かかることはなくなった。ユーノやクロノの、これまた特殊プログラムで編まれたバインドの場合だと倍以上かかるし、途中で彼らは術式を修復させるわ、さらに対抗プログラムを追加してくれるわで、なかなか外せない。ただ、教本で学んだ程度でしかない、魔法を真の意味で『理解』していない魔導師が相手ならば、まず2秒で破れるということになる。
「ユーノの術式、やっぱりすごい……慣れるまでが大変だったけど」
『Me, too』
いつか、ユーノがフェイトより先にバルディッシュに教えていた、ユーノ独自の解除術式。実はユーノに内緒でバルディッシュに無理を言って教えてもらっていた。バルディッシュはかなり渋っていたが。以前ならもっと簡単に教えてくれたろうに、バルディッシュにとって、例えフェイトの命令でも躊躇うくらいにユーノの優先順位がかなり上がっている証拠ということだろうか。それはそれで何だか嬉しいフェイトである。
知ってからも、しばらくはユーノの意向に従って教本通りの術式をしっかり使いこなせるようにして。残念ながらまだユーノから正式に使用の許可はもらっていないけれど、黙って時折練習していた。いきなり使いこなしてびっくりさせてみたいなと、そんな悪戯心が働いたのだ。
――その前に、ユーノとこんな状態になってしまって。
「……ユーノ、怒るかな?」
『…………』
無口なバルディッシュは余計に口を噤んでしまう。彼でさえわからないのだろう。不安に思っているのかもしれない。主従揃って似た者同士であった。
――『僕に構わないでよ!』
思い出すだけでひどく胸が痛む。冷たい手の感触が蘇ってくる。振り払われたつらさが心を抉る。
はやてと共にユーノに会ったが、あれ以来、ユーノとは会っていない。言葉も交わしていない。無限書庫には行くのだが、そこが限界。ユーノが無理をしていないか、それだけを司書に聞いて。受け取ってもらえるかわからないけれど、差し入れだけを渡して、それで帰る。
友人を失う。それがフェイトにはとても怖い。それも相手はユーノだ。自分が『依存』していた相手。『依存』を抜け出すためとは言え、失わなければならないのは悲しすぎる。こんな解決法は認めたくない。例えこれが最善の解決法だと言われようとも。
「ユーノの術式って複雑なんだけど、ちゃんと順を追って理解すれば、一本道みたいにわかりやすいよね」
『Yes』
徹底して無駄を省き、魔力の使用量を抑え、それでいて性能を底上げする。その魔法の欠点を直し、長所を一層引き延ばす。まるで教師が生徒の長所を伸ばしていくような、そんな優しさを感じる術式。同じ魔法なのに、フェイトはユーノの術式を使うとその魔法が喜んでいるようにさえ感じた。自分の力を最大限にまで引き上げてくれたことを、その魔法が喜んでいるのだ。
しかもバルディッシュに教えていたユーノのオリジナル術式は、バルディッシュによるとわずかにユーノが発動するものと異なる点があるらしい。
「……私が苦手なところ、言ってもないのに気付いたんだね、ユーノ」
『バインドブレイク』に使用されている術式の中で、フェイトがよく計算に躓く箇所。それを修正してくれる自動プログラムが組み込まれていたのだ。フェイトが躓くパターンをあらかじめ登録し、それに適応した修正が走るようになっている。他の人が、例えばなのはやはやてが同じ術式を使っても意味を為さないプログラム。むしろ彼女たちにとっては余計な処理になってしまうだろう。
フェイトのことを見て、理解して、編まれたプログラム。フェイトのためのプログラム。
なのはにしか効果がないくらいに調整された、なのはのための『ラウンドガーダー・エクステンド』と同じ。
フェイトを支えるために調整された、フェイトのための『バインドブレイク』。
「…………」
羨ましかった。それはあの日、寝ているなのはを優しい顔で見ていたユーノを見たときにも、なのはのための魔法をユーノが編んだと知ったときも感じた。この2年、なのはよりもユーノと共有した時間は多いのに、それでもユーノとなのははお互いが特別な存在で。微笑ましくて、応援してあげたくもあって。
でも同時に、どこか寂しくて。
今は私の方が長い時間一緒にいるのに――そんな、何とも言えない寂寥感。嫉妬。
でもこの術式を知ったとき、フェイトはそれがなくなり、代わりに湧き上がる嬉しさに高揚した。
ユーノは自分のことを理解してくれている。自分のためだけの魔法を編んでくれた。嬉しいし、ちょっとした優越感さえ抱いて。
ユーノとの距離が離れてしまった今、とてもつらくて苦しい。ユーノは自分を嫌いになったのかもしれないと思うと、とても悲しいし寂しい。
それでも、フェイトはユーノとのことをもうダメだと諦めたくはなかった。この術式のことを思い出すたび、諦められないのだ。これだけのことをしてくれたユーノが、何の理由もなしに自分を遠ざけようとはしないと。何か理由があると、そう信じたい。それがどれほどの理由であろうと、『その程度』で自分たちの絆は壊れないと信じたい。クロノがユーノと『その程度』の関係だとは思っていないように。
だからフェイトは、こうして魔法の練習を続けている。今のフェイトにとって、このユーノが教えてくれた魔法を練習し続けることが、ユーノとまだ繋がっているのだと信じ続けるための方法でもあった。これも『依存』なのかもしれない。そうだとしても、やめられなかった。やめてしまえば、それこそユーノとの絆を失ってしまう気がして。諦めてしまえば、もう二度とユーノと笑い合うことができない気がして。
「はあ……ん?」
無意識のうちに漏れる溜息をついていたとき、部屋の外から誰かの気配。家族を気遣っているのだろう、足音はほとんど立てていない。けれど早朝のまだ寝静まっている時間だ。多少の音でもよく響くもので、フェイトの耳は逃さなかった。起き上がり、寒い部屋に少し体を震わせつつ、フェイトは自室の扉を開けて廊下に顔を出す。右を見て、左を見て。玄関の先に、最近本当に急に背が伸び始めた義兄の背中を捉えた。
「クロノ?」
「――ああ、フェイト。すまない、起こしてしまったか?」
「ううん。いつもこの時間には起きてるから。おはよう」
「おはよう」
靴を取り上げて、クロノはフェイトと向き合った。別にそれだけと言えばそれだけなのだが……フェイトは違和感を覚えた。どこに違和感を、と言われればフェイトにもよくわからない。
元々無愛想なところもあるクロノだ。昔よりはよほど感情を表に出すようにはなったが、ここ最近のクロノは厳しい表情が多い。何となく声もかけづらく、近寄り難かった。喧嘩みたいなことになっていたから尚更に。
喧嘩をしていても、クロノはフェイトを突き放し続けているわけではない。彼なりにフェイトを気遣って話しかけようとしてくれていることはフェイトも当然わかっていた。義理とは言え、2年間兄妹をしてきたのだ。わかってくるものだってある。
強いてあげるとしたら、纏っている空気だろうか。まるでこれから戦いに赴くかのような、ピリピリしたものを感じるのだ。勝ち負けとしての戦いであれど、戦うことが得意なフェイトだからこそ、殺気や闘気には敏感になる。
「出かけるの?」
「……ああ」
「今日、お休みもらってたはずじゃ……?」
「急な仕事でな」
クロノは制服を着てはいるが、だいたいバリアジャケットを展開している。フェイトは見たことがあるが、なのはにはやては実はクロノの制服姿ををほとんど見たことがない。
執務官は多忙ゆえ、こうして早朝でも深夜でも呼び出されることはある。スクランブルでも入ったのだろうかとフェイトは思ったが、それにしては急いでいる様子もない。
「……無理、しないでね?」
「ありがとう」
今度こそ、フェイトはこれ以上ない不安に駆られることになった。
クロノの微笑を見て。
クロノには申し訳ないが、違和感しかない。
喧嘩のようなことになって、クロノが浮かべる笑顔はぎこちないものだった。無理に浮かべているわけではないだろうが、緊張して強張っているのだ。なのに今の笑みにはそれがない。
フェイトはもう気にしていないが、明確に仲直りをしたわけではないから、クロノとはぎこちないまま。このままではいけないと思うが、ここ最近のクロノの様子にとてもそんな話をすることはできずにいた。
「あ、あの、クロノ」
「どうした?」
「えっと……」
とにかく不安になったフェイトは反射的にクロノの袖を掴んでいた。クロノもさすがに驚いたのか笑みを消したものの、フェイトを落ち着かせようとフェイトの頭を撫でる。その手は本当に優しくて。
だからこそ、今この時ばかりは、言い知れない恐れを感じた。まるでユーノに拒絶されたときのような、失ってしまうのではないかという恐れを。だからクロノの袖を掴む手を放せないまま。
「その、相談したいことがあるんだ」
「相談? 構わないが……」
「……ユーノのことで」
「……そうか」
ユーノの名前に、クロノの顔が少し強張った。いつものような、悪友の名前に不機嫌になるというわけでもなく、まるで痛みを我慢しているような。
さらに不安を煽られる。おかしい。この反応はおかしいと。
2人は言い合いこそするが、本気で嫌っているわけでもなんでもなく、本心は信頼し合っていることなど、仲間の誰もがわかっていた。またやってる、とその言い合いを微笑ましく、ちょっと呆れつつ、遠巻きに見ていたくらいなのに。クロノの反応は、まるで今のフェイトとユーノのようではないか。
「帰ってきてからでいいよ。今日、いつ頃帰ってこれそうかな? どんなに遅くなってもいいから」
「……すまない。ちょっとわからない」
なぜこうも言葉の1つ1つに不安が増すのか。フェイトにはわからない。手は離さない、離せないままに、フェイトは言葉を紡ぐ。
「今なら別に大丈夫だから、今聞くが?」
「あのね、その……ちょっと来て」
問題のものはフェイトの部屋にある。取ってこようと思ったが、かといってこの手を離したくもない。だからフェイトはクロノを少し強引に引っ張って自室へと入れる。
兄妹とは言ってもフェイトも年頃の少女だ。クロノも当然、勝手にフェイトの部屋に入ることはないし、こうしてフェイトが入室を許しても、むしろフェイトの方から誘い入れても躊躇するくらいである。居心地悪そうにするクロノに、フェイトはクロノを掴んだまま、もう片方の手で見せたいものであるソレを机の中から取り出す。
「これなんだけど」
「これは?」
ちょっとグシャグシャになりかけた紙。クロノが怪訝な表情を浮かべる。
それはユーノに拒絶される直前、ユーノの机で見つけた資料の1つ。つい持って来てしまった1枚だった。
クロノもすぐに張り付けられている画像がジュエルシードであることに気づいたのだろう。その書類を読み始めた。
「ユーノの机の上にあったんだ。その、ちょっと今、ユーノとは話しづらくて……でも、何だかこれがすごく気になって」
「……確かに。今更ジュエルシードを調べているのは変な話だな。これ1枚だけか?」
「ううん。つい持ってきちゃったのがそれだけで、机にもっとたくさんあった」
「まだ時間はあるから、本局に行ったら少し調べておこう。だからフェイト、心配しなくていい」
手を離さないフェイトが心配していることを察し、クロノは書類を預かってポケットに入れつつ、フェイトに暗黙のうちに離してくれないかと訴えた。
「ユーノのことだ。また無理をしているんだろう? 僕も気にはしている。人の妹をここまで不安にさせるんだ。痛い目の1つも見せてやりたいところだな」
聞きようによってはいつも通りの悪態とも取れるのだが、どうにも力がない。フェレットもどき、という言葉も出てこない。
もう何もかもがおかしく見えてしまう。だからフェイトはその手を離せずにいる。
無言のフェイトに、クロノも参ってしまったのか、視線を天井に向けながら頭をかく。そしてもう一度フェイトを見下ろして、また小さく笑った。
「意外と甘えん坊だったんだな、フェイトは」
「え?」
まったく脈絡のない言葉に、フェイトはわけが分からずクロノを見上げた。
「いや、この前は愚痴のようなものを聞いたが、こうして駄々をこねられたことはなかったからな」
袖を掴むフェイトの手へとクロノは視線でフェイトを誘導する。フェイトはそれに気づいて手をピクリと反応させるが、それでも離しはせず、顔を少し赤く染めた。駄々をこねているわけではなく、ただ不安で心配だから。内心でそう言い訳をするが、それが駄々をこねているのだと自分でも思わないでもなくて。
駄々をこねる。
フェイトは遠慮する性格だ。リンディやクロノと家族になっても、遠慮する性格はそのまま。自分の意見を言うようにはなったが、クロノはフェイトが駄々をこねてきたり我儘を言ってきたりと、そんな記憶はない。フェイトとしてはもしかしたらそのつもりだったこともあるかもしれないけれど、少なくともクロノはそういうふうに受け取ったことがない。
だから少し、嬉しい。兄として、妹に駄々をこねられるというのは。
「恭也さんがなのはに甘い理由、何となくだがわかったような気がするよ。確かに、これは甘えさせたくなるな」
おまけに拒絶し難い。そう付け加えながらクロノは今一度フェイトの頭を撫でた。フェイトは恥ずかしいあまり空いている手でクロノの手を掴もうとするが、何となくなのはが恭也に同じようにされて恥ずかしがりながらも喜んでいたことを思い出すと、ここでやめてと言ってしまうことが非常にもったいない気がしてできなかった。
(ユーノの言った通りだ)
思い出したのだ。ユーノの言葉を。
――『フェイトはちゃんと自分の道を進んでる。ただフェイトは自己主張をあまりしないからね。そこさえ直せばいいんだよ』
――『……そうかな?』
――『たぶん、もっと我儘になれって。少しくらいなったところで、誰も怒りはしないって、そう言いたかったんだと思うよ、クロノは』
駄々をこねる。それは我儘な行為。それはどうだろうと思ってできなかった。
けれど。
――『大丈夫』
その言葉があって。温かさがあって。だからできたのかもしれない。駄々をこねられたのかもしれない。
実際、喧嘩のようなことになっていたのに、クロノは怒るようなことはなくて。我儘を、受け入れてくれて。
「あのときはすまなかった。フェイト」
「ううん、いいんだ。私こそごめんね」
そして。今度こそ。あれだけなかなかできなかった仲直りが、嘘のように簡単にできた。
「私ね、やっとわかったんだ。ううん、目を背けていただけで本当はわかってたんだけど。『依存』してるって」
「……そうか」
「うん。クロノにも、なのはにも、はやてにも、アルフにも、リンディ義母さんにも、シグナムにも、ヴィータにも、シャマルにも、ザフィーラにも。そして、ユーノにも」
「……最後の奴は気にする必要などないがな」
「もう、クロノ。こんなときまでユーノにはひどいんだから」
「気にするな。で、ユーノと何かあったのか?」
「……わからないんだ。ユーノの嫌なことをしちゃったのかもしれない。でもそれが何なのかわからなくて」
「なら聞けばいい」
「……それが難しいんだよ?」
「フェレットもどきに気負う必要はないさ。むしろ思い切り言ってやればいい。ぶつかっていけばいい」
「……そのくらいで、ユーノとの関係は壊れないから?」
「まあな」
実はこの時、クロノが内心で、決定的な分裂をしてしまうほどのこと、例えば大事な約束を違えるような裏切り行為でも働いたのなら話は別だが、と思っていたことなどフェイトは知る由もない。
フェイトはフェイトで、『依存』していることを認めて他者に告白できたことを実感しつつも、同時に、これではユーノの代わりにクロノに『依存』しているだけではないかと悩む。相談し、大丈夫と太鼓判を押してもらわないと前に進めない。自分を全面に出していく勇気がない。クロノはそういうところを諌めていたのに、これじゃ全然進歩がない。弱さを認めただけで、克服ができていない。
第三者が見たら、ある意味で似た者兄妹である。
そして似た者兄妹だからこそ、クロノは詳しいことはわからないまでも、自分がフェイトに言えることは何なのかを察することができた。
「フェイト」
「なに?」
ユーノとの間で何があったのか、クロノにはわからない。言えるのならフェイトも言っているが、言わないのならそれは言いづらいということ。無理に聞き出そうとは思わない。
「あのときは言葉が足りなかった。責めてばかりで、肝心なことを言えていなかった。そこは僕の悪かったところだ。僕が結局何を言いたかったのかというとだな……」
だから、ただ1つ。
「自分をもう少し信じてやれってことだ」
他でもないフェイトが、フェイト・テスタロッサ・ハラオウンを信じてやってほしい。
「自分を信じてやれないから、誰かに承認してほしい。自分の考えを信じてやれないから、強く出られない。フェイトの弱さはそこにある」
「……前の私は、自分を信じてたわけじゃないよ?」
クロノはフェイトを諌めたとき、P・T事件の頃のフェイトを引き合いに出していた。当時のフェイトは、自分を押し通す強さを持っていたと、クロノは指摘したのだ。ただ、自分で思い出してみても、当時の自分が自分自身を信じて行動していたとはフェイトにはやっぱり思えない。あれは自分で勝手に思い詰めて、その果てに暴走していただけだとしか。
「そんなことはないさ」
けれどクロノはフェイトの言葉をあっさりと否定した。
クロノにとって、あの頃のフェイトは見ていてつらかった。暴走していたと言われれば確かにそう見えるし、実際暴走していたのだろう。ただ、単なる暴走で終わらせてほしくはない。
むしろフェイトのその考え方こそが、何より卑下している。
「母の愛を信じていた」
「あ……」
「縋っていたとも言えるだろうけれど、誰に何を言われても、フェイトは最後まで信じていただろう?」
「……うん」
だから立ち上がれた。もう一度、プレシアの前に立つことができた。思いの丈をぶつけることができた。
残念ながらプレシアは最後までフェイトに応えはしなかったけれど。それでもフェイトが最後の最後までプレシアの愛を信じていたことに変わりはない。
「母を信じていた自分を否定しなかった。押し通そうとした。そして今だって君は『テスタロッサ』の姓を大事に残している。あれだけ言われてもなお、母を信じている」
「……クロノは知らないだろうけど、本当に、優しい人だったんだよ?」
「やれやれ。僕から言わせれば、あれだけ言われてそれでも彼女の愛を信じることをやめないのは、正直お人好しだと思わないでもないんだが」
「ひどいよ、クロノ」
クロノを睨み上げるフェイトだが、クロノは少し強めにフェイトの頭を撫でつけることで躱す。
「母を信じ続けている。それを変えようとしないのは、誰が何と言おうとそれは間違っていないと思っているからだ。母を信じる自分を信じているからだ」
「…………」
ちゃんと自分を信じてやっている。そう、最初からフェイトはできているのだ。
なのにフェイトは他のことではそれがなかなかできなかった。
P・T事件まで、フェイトはプレシア・リニス・アルフ以外との交流がなかったことが大きいのだろう。友達になる術を知らなかったし、そもそも友達というものさえ知らない始末。アルフは友達というより家族だし、ずっと一緒にいるという契約もあり、特殊な関係だ。魔法を使わず、人の輪を広げていく方法を知らなかった。なのはと友達になることで人の輪はぐっと広がったが、1人ではまだまだ不安だろう。なのはやはやて、クロノにユーノたちがいたことで『依存』してしまったが、考えてみればそこまでおかしいことでもない。誰だって最初は依存している。多くは親に。そこから1人で友達を作る術を知り、身に付け、そして1人でできるようになる。それが成長というもの。フェイトは特殊な生まれ、特殊な環境にいたからそれが遅かっただけで、依存しながらも1人でもできるようになっていった。ただ、いつまで経っても本当の意味で1人でできなかった。もう1人でもできるのに、なかなか1人ではしようとしなかった。そこが『依存』であり、弱さだっただけ。
自分を信じることそのものは、すでにできている。だからここでもう少し。もう少し強く、もう一歩でもいいから、さらに信じてやってほしい。成長した自分を。
「これだけ覚えておいてくれ、フェイト」
「うん」
「僕も母さんもアルフも、そしてなのはもはやてもヴォルケンリッターたちも。あとはまあ、フェレットもどきも入れてやろう。僕たちの誰もが、フェイトを信じている」
「――――」
「だからフェイトも信じてやれ。みんなに信じてもらえている自分自身を」
フェイトならきっと、我儘を言っても、悪いことはしない。フェイトがそうするからには、きっと相応の理由がある。
みな、そのようにフェイトを信じているから。
「もしそれで間違ってしまったのなら、そのときはみんながフェイトを止めるだろうし、僕が怒ってやるさ」
「喧嘩したときみたいに?」
「そうだな。喧嘩をしたいわけではないが、兄として言うべきことは言おう」
「嫌いって、言っちゃうかもしれないよ?」
「……あまり言われたくはないが、まあ、それでも僕は兄だからな」
恭也もなのはからよく『お兄ちゃんなんて嫌い!』と言われている。なのはをからかって楽しんでいる恭也も悪いから自業自得ではあるが、それでも喧嘩はよくしていて、その度になのはに言われて落ち込んでいる恭也を見る。見た目には落ち込んでいるように見えないのだが、恭也と知り合っていく中でクロノはそれを感じ取れるようになってきていた。
恭也の気持ちが本当によく分かった気がするクロノである。大事な妹から嫌い宣言されるのは、確かに堪える。
「そこは前も言った通りだ。フェレットもどきと『その程度』であるつもりはない。フェレットもどきとでさえそうなんだから、妹であるフェイトとの関係も『その程度』で壊れるとは思っていない」
「……うん。私もそう思ってるよ」
「そうか」
素っ気ない返答だったが、クロノは明らかに照れていた。頬を指でかいて明後日の方角を見ているあたりがわかりやすい。そんなクロノを見て、フェイトはちょっと悪戯を思いつく。クロノ自身、悪かったところがあると認めているのだ。ならば妹からのちょっとした仕返しがあっても文句は言えまい。
「ありがとう、『お兄ちゃん』」
「っ!?」
なのはがいつも恭也を呼ぶときの言葉。ユーノにけしかけられてフェイトが必要以上にそう呼んでいたこともある。その度にクロノは顔を赤くして逃げていたが、やはりまだこの呼び方には慣れていないらしい。クロノの顔が一気に赤く染まった。
「フェイト、頼む。その呼び方は本当に勘弁してくれ」
「どうして?」
「……恥ずかしいからだと言ったろう?」
「でもお兄ちゃんはお兄ちゃんだし」
「……兄をからかって遊ぶとはいい度胸だ、フェイト」
「あ、い、痛い! 痛いよ、クロノ!」
撫でるのではなく、拳で少々強めにフェイトの頭をグリグリと押さえつけるクロノである。掴んでいた手を反射的に離し、フェイトは両手でクロノの手を半ば必死で払い除け、涙が浮かんだ目でクロノを睨んだ。涙目かつ上目遣いというコンボにクロノも少したじろぎはするが、そこは鍛え上げた精神力で耐える。
そんなクロノを睨みつつも、フェイトは心から感謝する。
――『フェイトはちゃんと自分の道を進んでる。ただフェイトは自己主張をあまりしないからね。そこさえ直せばいいんだよ』
――『自分を信じてやれないから、誰かに承認してほしい。自分の考えを信じてやれないから、強く出られない。フェイトの弱さはそこにある』
ユーノにも、クロノにも。
――『たぶん、もっと我儘になれって。少しくらいなったところで、誰も怒りはしないって、そう言いたかったんだと思うよ、クロノは』
――『僕たちの誰もが、フェイトを信じている。だからフェイトも信じてやれ。みんなに信じてもらえている自分自身を』
2人は、言葉こそ違うけれど、同じことを言っているのだ。
フェイトの弱さがどこにあるのか。そして、もっとこうしたっていいんだと。
感謝すると共に、本当にクロノとユーノは気が合うのだなと感心してしまう。フェイトもなのはとかなり通じ合えている自信があるが、クロノとユーノのこの示し合わせたかのような繋がりには勝てない気がする。
気が済んだのか、クロノはフェイトを解放すると、本当に満足したように、まるで閊えていたものが取り除けたような、本当に穏やかな顔で笑った。あまりにも珍しいクロノの顔に、フェイトは驚く。
「……ねえ、クロノ。何かあったの?」
「ん? そうだな……気がかりだったことが1つなくなった」
「もしかして、私とのこと?」
「ああ」
ユーノのこと、なのはのこと、はやてのこと。言っていけばきりがない。
これから自分が向かう場所、そこで起こるであろうリスクを考えれば、できることなら気がかりだったことはすべて無くしておきたかった。
無論、不可能なことくらいわかっている。時間をかければ可能であろうとも、一朝一夕でできることではない。そんな好都合なことはそうそう起こらないのが、このままならない現実というものなのだから。なのに、1つだけとは言え無くなった。それだけでも充分過ぎる。
「クロノ――」
「悪いんだが、さすがにそろそろ行かないといけなくてね」
本当に、どこに行くつもりなのか。そう問おうとしたフェイトの言葉を遮って、クロノは踵を返した。フェイトが伸ばした手は、あと少しというところで届かなくて。
「フェイト。ユーノやなのは、はやてたちのこと、頼んだぞ」
「クロノ……!」
行かせてはいけない。そう思うも、クロノの背中は止められなくて。伸ばした手はそのままに固まってしまうフェイトを残し、その背中は扉の先に消えてしまうのだった。
またか。
呆れをふんだんに含んだ溜息と共に、彼女は肩を落とした。
「人手不足人手不足と不満を零しておきながらこれですか……」
1枚の書類。もう幾度同じ書類に目を通してきたことか。
――『特務隊編成報告』
常設部隊とは異なり、臨時に編成することが許されている非常設部隊である特務隊。その編成の事後報告書であった。報告元は本局武装隊の第5航空師団。師団司令部直下に編成したらしい。編成理由は特定のテロ組織に即応するための専任部隊を作るため。『特定のテロ組織』とは、彼女もよく知る一大テロ組織『暁の鷹』だ。
わからないでもない。確かに『暁の鷹』に対する即応力は求められている。いや、『暁の鷹』相手に限らず、本局・地上本部ともに反応が鈍すぎる。動いたときにはもう終わっていたなんてこともまったく珍しくない。専属で当たる部隊を作ることは、即応性という観点で間違ってはいない。
とは言え、問題もある。人手不足の中で特定の事件や相手に専属で当たる部隊を作れば、それだけ他の事案に対処できる人手が減る。それに徒に部隊を乱立させれば指揮系統がややこしくなるし、1つの事案でも特務内容が重複してしまうことがあり、そうなると複数の特務隊が現場で鉢合わせし、その場合どちらに優先権や指揮命令権があるのかという問題も発生する。
さらに問題はこれだけではない。
彼女は脇の方によけていた書類を取る。
――『特務隊編成報告』
ほとんど同じ内容。『暁の鷹』に対する専属の特務隊の編成報告書だ。違うのは報告元がミッドチルダ地上本部の陸上警備隊であること。
要するに、本局と地上本部がそれぞれに『暁の鷹』に対する部隊を新設したわけだ。これが現場で鉢合わせしたら、『海』と『陸』の仲の悪さが災いすることは目に見えている。現場でくだらない主導権争いや手柄争いを繰り広げることも。結果、余計な犠牲が出ることも。
こんなことをしているから人手不足に拍車をかける。どうしてこんな単純なことがわからないのか。そう言って突き返してやりたい。
本来なら特務隊の設置は最高評議会か統合幕僚監部しか認可できない。管理局法第56条にもそう明記されている。ところが2枚の書類にはそれぞれ本局の局長と地上本部の本部長の印がしっかり押されている。最高評議会の決議により、特例で本局と地上本部の長も認可できるように臨時に認められているからだ。
「どうして今、『暁の鷹』にこんな戦力を割く必要があるというのかしら」
もちろん『暁の鷹』に対する対応は本局でも地上本部でも統合幕僚監部でも優先度が高く設定されている。情報部が常に目を光らせる相手であるし、常設部隊も『暁の鷹』の情報をキャッチしたり事件が起きたりすれば、優先的に動くことになる。きちんとそのための対応も策定しており、複数部隊が集結した場合に誰が指揮を執るか、どのように対応するか、指揮系統や根幹となる対応法をまとめ、それに合わせて訓練も行っているのに。
こんな部隊を唐突に作って、それが余計な混乱を招きかねないということを、なぜ理解できないのか。部隊さえ作っておけばいいわけではないというのに。創設し、訓練し、連携し、無駄を省き、問題を抽出し、そして1つ1つ解決しながら有事に備え、実際に対処する。そこまでできて『運用』だ。関係各部署としっかり調整してから作らなければ、すでに策定してある対策法にさえ影響を及ぼすというのに。
本局と地上本部が持つ部隊の連携の悪さや編成の無駄をなくし、統合的な部隊の運用・適切な配備・効率化などを図るための統合幕僚監部。それが本局と地上本部の迷走をまとめられず、各々が勝手に動いてしまい、できるのは後始末だけ。やろうとしても本来の権限を奪われ、もはやあってもなくてもどうでもいい部署と化している。そんな部署の長なんて、まさしく『お飾り』そのものではないか。
「『伝説の3提督』ね……なんて皮肉」
ここに今いるのは、ただのお飾りの老婆1人。卑下しているのではない。ただ事実を事実のままに述べているだけ。
「そんなに私たちが邪魔なのかしらね、最高評議会の方々は」
背もたれに体を預け、両手を足の上で組みながら、彼女は力なく頭をもたげて目を閉じた。その姿はとても『伝説』と謳われた者のそれではない。ただ1人の老提督に過ぎなかった。人前ではこんな情けない姿は見せられない。自身が周囲にどう思われているか、どう見られているか、それを理解しているからこそ。けれど今は1人。秘書官が部屋の入口前にあるエントランスにいるが、統合幕僚長の部屋には秘書官と言えども許可なしには入れない。見られることはないのだからと、彼女は体を弛緩させ、流れる時間にただ身を任せていた。
と、そこへ備え付けの通信機がコールを鳴らす。やや億劫に感じながらも、彼女は身を起こし、半ば染みついた癖でそれまでの気の抜けた表情を一蹴し、引き締まった表情を浮かべてコールに応じた。
『クローベル統合幕僚長。フィリス法務顧問とキール栄誉元帥より通信が入っております』
「わかりました。繋いでもらえるかしら?」
『承知いたしました』
若い女性の秘書官が映っていた空間モニターが閉じ、一拍置いて2つのモニターが開く。いつもの面子だ。
『すまぬのう、クローベル。少々遅うなった』
「構いませんよ。関係各所への調整に手間取ったのでしょう?」
『さすがにわかるか』
疲れた顔をしている2人に、もはや半世紀以上を共にした戦友の苦労を感じ、互いに苦笑いを浮かべ合う。
『本局の武装隊同士ならいいんじゃが、地上の陸上警備隊まで絡んできとるからの。『暁の鷹』への本局の対応と地上の対応が異なるせいで、鉢合わせたときの指揮系統など、調整がほんに大変でな。レオーネが仲介してくれなんだら、まだまだかかっとったわ』
『お前はもう少し交渉術というものを身に付けんか、ラルゴ。毎度毎度呼び出される私の身にもなれ。私の今の肩書は武装隊や次元航行隊ではないのだぞ?』
『固いことを言うでないわ。戦友を見捨てる気か』
『その戦友をいいように使っているのはどこのどいつだ、この老いぼれが』
『老いぼれはお前とて同じじゃろうが』
『老害のお前と一緒にするな』
『やかましいわ、愚痴り屋め。一番老いたのはお前じゃろうに』
『主に誰のせいか、わかって言っているのだろうな?』
「……よろしいですか、お2人とも?」
現役の頃は勝手にやってくれと思っていたが、今は気が休まる。この2人の掛け合いはいつも通りであり、昔からまるで変わらない。止めるのは疲れるときもあるが、この『いつも通り』が今は落ち着く。ささくれ立っていた感情が凪いでいくのが、彼女自身自覚できていた。
紳士然としながらも、子供のような言い合いをしていた2人が、我に返ったように咳をしたり居ずまいを正したり。それを待って、彼女――時空管理局統合幕僚長、ミゼット・クローベルは口を開いた。
「特務隊の件、任せてごめんなさいね。本当なら私がするべき仕事だったのですが」
『構わんよ。お前の苦労はわかっているつもりだ』
『そんなことより、どうじゃった、クローベルよ?』
「ええ……」
本来、地上本部は本局の中の地上担当というのが正しい位置付け。陸上警備隊にしても、武装隊の中の地上担当部隊なのだ。それが昨今、地上本部の発言力が増して、まるで本局そのものや武装隊そのものと対等であるかのように振る舞い始めている。
本局と地上本部の部隊の問題となれば、統合幕僚長たるミゼットが対処すべき事案。それを顧問であるレオーネや、あくまで『本局』武装隊の元帥であるラルゴが行うのはあまり適切ではない。それでもミゼットには優先せねばならないことがあったのだ。
「ゼスト・グランガイツに出されていた『秘匿命令』の出所、まず間違いなく最高評議会でしょう」
レオーネとラルゴの顔が引き締まる。老いてなお、現役の頃の鋭い眼力は衰えていない。
ミゼット・クローベル。レオーネ・フィリス。ラルゴ・キール。『伝説の3提督』と称される、時空管理局の重鎮。彼らは揃って、現在の時空管理局の体制や蔓延する魔法至上主義、後方軽視などの風潮に疑問を持っている『異端』だった。
現役時代こそ、混乱する世界に多少の強引さや強権はやむをえないと思っていた。そうでなければ救えないものが多かった。だが現役を退いてから、変わらないどころかますます進む時空管理局の強権ぶりと肥大化に、違和感と危機感を抱くことになる。現役を退くのは早かったと気づいたときにはもう遅い。『伝説の3提督』と称賛され、名誉職という名の閑職に追いやられ、それでも時空管理局を変えようと動けば、何者かの意図を感じる妨害が入り、自らの権限は奪われ、制限され、できることをどんどん削がれていって。ならばと時空管理局内外に同じ考えを持つ者を探し、味方を得て、自らの持つ局員や民心への影響力も利用し、内と外から時空管理局を抑制し、改善を目指そうとした。だがそれでも、なかなか改善は進まなかった。むしろ改善よりも現状の流れが進んでいく方が早い。
歯痒い思いをする中で、この現在の流れを変えようとしない者は誰なのか。それを探し求め、行き着いたのが、皮肉なことに自らの所属する組織、その最高機関。
最高評議会。
基本的に最重要の決定を下し、細かいことや日々の業務、運用には一切口を出さない機関のはずだった。それが実は裏で手を回し、自らに都合がいい者を責任者に選び、時代を動かしている。
彼らを追う中で、いろんな暗い事実を知った。戦闘機人や人造魔導師を始めとした生命操作技術。違法となってからは時空管理局では扱わなくなったそれらに、未だ諦めていない一派がいて。ジェイル・スカリエッティという天才科学者にして違法研究犯罪者の捜査がおかしいくらいに全然進まない状況を見ていて。次第に生命操作技術とジェイルに関わる局員が不可解な異動や降格、最悪の場合は行方不明や死亡ということもあった。さらに内偵を進めていくうちに、相手が気づいたか、監視者が消されたり、協力者が寝返ったりし始め、更に疑惑を強めていくことになり。そして先日、地上本部首都防衛隊のストライカーとして有名なゼスト・グランガイツが、独自に戦闘機人を追っていることを知った。監視と調査の結果、彼が『秘匿命令』を受けているという情報を得ることに成功。
『グランガイツの死はあまりに大きな損失だ。オーバーSランクの魔導師という戦力的にも、騎士道を貫く人柄の意味でも、そしてレジアスを抑えるストッパーとしてもな』
『事実、奴の死からレジアスはさらに剛腕に物事を進めておる。今回もあやつと言い争う羽目になったわ』
「彼らは親友であり戦友。その思いは真実だったのでしょうね。大切な者を失い、暴走してしまうことは私たちの世代であっても変わらない。ギルが片腕であった部下を失ってしまってからのように」
ゼストの死は間もなく公表される。レジアスが自らそれを話すらしい。レジアスは強面のままで言い放っていたが、その苦しみや悲しみは如何ばかりか。レジアスはギル・グレアムを犯罪者だと罵るが、その実は『自分はそうはならない』と意識してのことではないか。ミゼットはそう思えてならない。
『そう言えば、先ほど地上に赴いた際、地上本部長が近く解任されるという話を小耳に挟んだんじゃが、あれは真か?』
「間違いありません。最高評議会も承認されたとのことですよ。すぐに通達があると思いますが」
『承認された、か。わかりやすいトカゲの尻尾切りではないか。自らがそのように動かしておきながら承認しましたとは、厚顔無恥も甚だしい』
『落ち着かんか、レオーネ。お前らしくもない』
『ふん』
3人の中では最も冷静で、いつもまとめ役に回っていたのはレオーネだったというのに、ギル・グレアムが辞めてからというもの、レオーネは若干、こうして感情を露わにすることが多くなった。同じ顧問であり、冷静さを旨とする2人だっただけに、彼の辞職はミゼットやラルゴが思う以上にレオーネを揺り動かしたのかもしれない。
現地上本部長の解任理由は、ミッドチルダ政府の高官との後ろ暗い関係にあったとされている。その関係で地上本部長はゼストたちを動かし、結果としてストライカーたる彼と部下たちを全滅させてしまったと。
ミゼットもレオーネもラルゴも、そんな理由を馬鹿正直に信じるほど愚かではない。
『秘匿命令』を出したのが地上本部長であることはわかっていた。ただ真の出所が地上本部長ではなく、その後ろにいる者と睨んでいたミゼットたちの目を、ミッドチルダ政府がそうなのだと誘導しているのは明らかだった。
ここまで長年裏で動いてきた最高評議会のこと。今更こんなことで誤魔化せるなどと、そんなふうには考えていないだろう。
――『所詮、貴様らには誰も何も動かせはしない』
そんな嘲りの声が、ミゼットには聞こえる。きっとレオーネやラルゴも同じだろう。
次の地上本部長はレジアスの後輩と目されている。そしてレジアスは中将への昇格が以前から見込まれていた。ミゼットたちの予想では、レジアスは首都防衛隊の長官となり、レジアスの後輩が地上本部長となるだろう。レジアスの後輩はレジアスの考えに同調しており、実質的にレジアスが地上本部のトップだ。
そしてレジアスは最高評議会の信頼が厚い。つまり、地上はこれで完全に最高評議会のものだ。
「本局にしてもおそらく局長が最高評議会の傀儡でしょう。頭を押さえておき、そして私たちはお飾りの職。下手に私たちを現場におけば、上層部と現場で争うことになりますからね。現場はいわば彼らの手足。手足を抑えられるよりは、適当な職に就けて飾りにしておいた方がいいということでしょうね」
『つくづく、現役を退いてしもうたのが悔やまれるのう……』
『嘆いていても始まらん。それでクローベル、例の執務官の様子はどうだ?』
「相変わらず動き回っているようです。正直、これ以上はもう危険なのですが……」
まだまだ歳若い、将来も有望な、1人の執務官。
彼のことはギルからもよく聞いており、P・T事件と闇の書事件を解決したこともさることながら、その後の2年間のこともミゼットたちは高く評価していた。
だからこそ、1年前の公開意見陳述会で無限書庫に責任の話が及んだ際、ミゼットたちは裏で立ち回って無限書庫の立場を守ったのだ。
無限書庫の有用性についてはミゼットたちも早い段階から目を付けていた。情報の重要性はミゼットたちも現場を引退してから痛感した。現場にいた当時は情報など当てにできないという考えだったが、そもそも後方を充実させてこなかった自分たちも問題だったのだと。加えて無限書庫を扱える人材がいるとあれば、多方面に持つコネを使うことも惜しくはない。
ただ、その執務官がジェイルを追い始めたことは警戒すべきことだった。最高評議会もどうしたって勘付くだろうし、もしその執務官も最高評議会に取り込まれてしまったり、他の専任の執務官のようにいいように操り人形にされてしまったら、下手な干渉や支援は自分たちがこれまでやってきたことを潰されかねない。
だが、それも杞憂だったのではないか。
ミゼットは、先日の監視者からの報告を聞き、そう思っていた。
「覚悟もある。仲間を思う気持ちも充分。そして時空管理局を正そうとする姿勢も称賛に値します」
『若さゆえの青さもあるがな。いくらなんでも、あの誘いに1人で出向くとは思わなんだぞ』
『はっはっは! わしは好きじゃがな、ああいう馬鹿者は!』
『さすがはグレアムの直弟子というべきか。クライドの小僧の面影もよく出ている』
「とは言え、ここ最近の彼は少し様子がおかしいのです。監視についている彼が言うには、どうも仲間との間で何かあったようで」
『そういうところもギルの奴に似ておるのう。真面目な奴ほど、追い込まれると突拍子もない行動に出かねん』
『甘さは否めんが、能力もあり、向上心もあり、本気で変えるという大志もあり、抗う意志も兼ね備えておる。実際に足掻いてきよったこともある。結果が出ているとは言い難いが、その不屈の魂は見事』
『失うには惜しい人材じゃ。最高評議会との暗い戦いに巻き込むのは気が引けるが、このまま放っておいては奴らに食われかねん』
「それは絶対になりません。彼の周囲の者もまた素晴らしい子ばかり。もうこれ以上、ゼスト・グランガイツのような犠牲を出すわけにはいきません。早いうちに直接接触を――」
と、そこでいきなり3人の間に1つの空間モニターが浮かび、通信に割り込みがあった。盗聴を防止するための秘匿通信中だから勝手に入ることはできない。つまり、秘匿通信に入る権限を持つ者しか。
『これは、お話中失礼しました。緊急につき、何卒ご容赦いただきたい』
「構いませんよ。何があったのです?」
緑色の長髪を持ち、話題に上がっていた執務官と同い年でありながら大人顔負けの長身を持つ少年だった。執務官に付けていた監視者でもある。『伝説の3提督』を相手にしても飄々とした態度を崩さない、なかなか胆力のある彼。しかしそんな彼が目を瞬かせ、若干顔も強張っている。何か良くないことがあったと、ミゼットもレオーネもラルゴもすぐに察した。
『これをご覧ください』
言葉とほぼ同時に送られてくるデータ。ミゼットは脇に開いた空間モニターでそれを表示させる。それは報告書だった。報告者は……『クロノ・ハラオウン』。
「……いけませんね、これは」
読み進めてすぐ、ミゼットは厳しい顔をして呟いた。レオーネもラルゴも同様だ。
『報告したのは……昨日か。ということは、現場に赴くのは今日』
『アコースの倅。お前ともあろう者がどうしてもっと早く知らせなんだ?』
『申し訳ありません。入手に手間取りました』
ミゼットたちの隠し玉であり、監視者であるヴェロッサ・アコースは、優秀な査察官だ。偵察や調査に長けた技能保持者でもある。クロノについているもう1人の監視者とも裏で相手を暴こうとし、逆に暴かれるのを躱しつつ、情報を手に入れてきた。ラルゴが彼を責めるのはお門違いだが、それも彼の能力をよく知り、その高さを認めているからこそだ。
『相手の監視者が本気で動き出したと見ていいかと。これまでにない情報隠蔽工作の跡がありましたので』
「……となると、ここに記された場所や時間が正しいとも限りませんね」
『その通りです』
隠蔽工作をしても見つかることを想定し、その場合の二次策として、情報を書き換えておく。その可能性がある。
そして書き換えていようがいまいが、このようなことをしたということは、確実にクロノに対する何らかの行動を起こすと言っているに等しい。
本来なら、それすらも悟らせないのがプロというものだが、何分と時間がなかったのだろう。何しろ報告書の提出日が昨日とは言っても、ほとんど日が変わる直前だ。もう今日出したと言ってもいいくらいの。だから時間がなかったのだろう。もしかするとそれも見越してクロノはそんな時間に提出したのかもしれない。
「何とか正確な位置と時間を調べられませんか?」
『どうしても時間を要します。手遅れになる可能性が……』
『まず間違いなく戦闘になろう。派遣する戦力を準備せねばなるまい』
『最高評議会が動かせる戦力と言えば第一にやはり管理局の部隊じゃが、さすがにそれはないじゃろうな。いちおうわしの方で調べるが』
時空管理局の部隊が動けば、必ずわかる。ラルゴは武装隊の元帥だし、ミゼットも名目とは言え、時空管理局の本局・地上を問わず、全部隊を統合して運用する部署の長なのだから。
それにクロノが何らかの策を用意していて、生還する可能性だってある。その際に時空管理局の部隊が動いていたとなれば、最高評議会にとって足がつきかねない。さすがにそんな下手は打たないだろう。
だとすれば裏で何らかの勢力に口封じを依頼するか。可能性があるのは、やはりジェイル。となれば、敵は戦闘機人や例の新型の戦闘機械。このクロノの報告書によれば、聖王のゆりかごにも搭載されていたとされる古代ベルカの兵器。ゼスト隊を全滅に追い込んだ者たちかもしれない。幾らクロノでも生還できる可能性は限りなく低い。
こちらが派遣する戦力にしても、時空管理局の部隊を動かすには根拠がいる。その手続が面倒だから初動が遅いわけだが。
『……1つ、僕から提案が』
すると、ヴェロッサが躊躇いがちに口を挟んできた。
『この報告書の提出先は、おそらく、ジェイル・スカリエッティ捜査の専任に指定されているフローリアン・ハルツォク執務官でしょう。彼女以外の執務官は、正直こんな行動を許可などしないでしょうし』
フローリアンが杜撰だとかいい加減だとか、そういう意味ではない。むしろ逆だ。彼女は熱意を以って任務に当たる人物。他の執務官の方が融通が利かないし、上の指示にすべて従ったり顔色を窺ったりする。だからヴェロッサの推測にはミゼットたちも異論はない。
『彼女なら、クロノ・ハラオウン執務官から直接受け取っています。改竄などされていない報告書を』
『なるほどのう。彼女に聞けば早いということじゃな』
「すぐに連絡を」
『私がしよう。法務顧問だからな。法務部とは付き合いも深い』
空間モニターの先で通信を開いたまま、別の通信回線で法務部に連絡を取り始めるレオーネ。それを横目に、ミゼットは派遣する戦力について思案していた。
ミゼットたちに同調して味方してくれる部隊は多い。彼らなら多少の手続きを省略して動いてもくれるだろう。
だが目途をつけて当たってみると、いずれも難しいという回答が返ってくるではないか。
『申し訳ありません。我が隊は現在、臨時の査察を受けておりまして……』
『我々は『暁の鷹』に対処する特務隊に編成されておりますので、おいそれと動くわけには……』
『可能ではありますが、演習のため、現在無人世界に来ておりまして、本局への帰還と再出撃となると、相応の時間がかかります』
下唇を噛み締めながら、ミゼットは申し訳なさそうな彼らに気にするなと言って通信を切る。空間モニターの先で、レオーネもラルゴも聞いていたから、してやられたという表情を浮かべていた。
協力してくれる部隊は多い。多いのだが、今回の相手はジェイルの戦闘機人とAMF装備の戦闘機械である可能性があり、ゼスト隊すら全滅させた相手である。生半可な部隊は派遣できない。そうなると対処できそうな部隊は自ずと限られてくる。AAAランクやSランクの魔導師がいる部隊など、そうそうないのだ。戦技教導隊でも動かせれば一番いいのだが、あそこは影響力も強く、当然ながら最高評議会側もそれを理解しているのか、ミゼットたちが接触するのを妨害しているし、戦技教導隊の投入は本局局長や武装総隊司令部など、他のどの部隊よりも動かすのに手間がいる。統合幕僚長のミゼットや武装隊栄誉元帥のキールと言えどもすぐに動かせる戦力ではなかった。
『ダメだ。ハルツォク執務官に聞いてみたが、覚えがないそうだ』
『覚えがないじゃと!? つい昨日のことであろうに!』
『そう言わんでやってくれ。法務部長に聞いたところ、彼女も連続30時間の勤務だったのだ。執務官の激務、わかっていよう?』
あらゆる部署を跨いで行動できるだけに、あらゆる部署からお呼びがかかるのが執務官だ。人手不足だからと一魔導師として指揮官としてスクランブル任務にも就くし、平時でも裁判や捜査がある。彼らにかかる負担は並大抵ではない。日が変わる時間でも働いているのはクロノだけではなく、すべての執務官が激務の中で任務に当たっている。そう言われればラルゴも文句は言えなかった。
しかしこれで道が途絶えたことになる。
フローリアンの件は仕方がなかろうが、部隊の件は間違いなく仕組まれたものだろう。仮にフローリアンが覚えていたとしても、動かせる部隊がなければ助けはできない。
「……1人だけですが、手配できる魔導師がいます。元戦技教導隊員ですので、腕は確かです」
『ふむ、彼女か。確かに。だが1人ではな……』
『こうなったらわしが出てやろうぞ!』
『こんなときに何の冗談だ、たわけ。つい先日、ぎっくり腰で唸っていた老いぼれが』
『ぐぬ……』
「ですが、そうも言っていられません。私たちも命を張らねばならないでしょう」
ミゼットは懐に忍ばせてある待機状態のデバイスを取り出した。老いたとは言え、元は前線で戦ってきた。あの頃とは比ぶべくもないが、戦えないわけではない。若者だけに戦わせるわけにはいかないのだ。老兵は邪魔になるだけとも思うが、次代を担う優秀な若者が育つまでは守るのが老兵の仕事と心得ている。
『クローベル、お前まで何を……!』
『だそうじゃが、レオーネ? 1人で待っとるか?』
ニヤニヤと笑いながら自らもデバイスを取り出して見せるラルゴを、レオーネは睨みつけた。もちろんラルゴに動じる様子などない。レオーネは椅子に体を預けて頭が痛そうに手をやっていたが、ややあってその手をポケットに突っ込み、そこからやはりデバイスを取り出して。
『……クローベルを矢面に出させて私1人だけ座って待っていられるものか』
『決まったのう。というわけじゃ、クローベル。こっちは覚悟も準備も整っておるぞ』
「ふふ。それでは、参りましょうか。レオーネ、ラルゴ」
理想のために無茶をする、まだまだ青い若者を助けに。
場所がまだ定かではないが、とにかくまずはこの報告書を信じてその場所に行ってみるしかないだろう。3人は立ち上がって歩き出そうとして――
『……お待ちを』
3人の老兵の戦意に言葉を出せなかったヴェロッサが、待ったをかけた。
『ハルツォク執務官への聞き取り、僕が行います』
そして、何かを決意したかのように、ミゼットたちを見据えた。
フローリアンが憶えていないと言っている以上、再度聞き取りをしても意味がない。ミゼットは気持ちは嬉しいけれど、と前置きしてヴェロッサにやんわりと指摘するが、ヴェロッサはゆっくりと頭を振った。
「何か手があるのですか?」
『……ええ、まあ』
何だか頼りない回答が返ってくる。ミゼットたちはそこが気になったけれど、とりあえず置いておいて、その行動が別のある問題を孕んでいることに言及する。
すなわち、ここまで正体を隠し通してきたヴェロッサのことが、相手の監視者にばれるということを。
フローリアンに直接接触し、聞き出すことに成功したとして。憶えていないというフローリアンから聞き出すことに成功したら、そんな手を使った者は確実にマークされるだろう。隠密にとって『知られていない』ことは武器。正体がばれたら、そこからすべてを相手に暴かれてしまうだろう。
ヴェロッサだけの問題ではない。ヴェロッサという隠し玉を知られることは、ミゼットたちにとっても大きな損失だ。
だから選ばなければならない。
クロノを取るか、ヴェロッサを取るか。
しかし、ミゼットたちが迷うことなどありはしない。
「貴方は、いいのかしら?」
『構いませんよ。影に徹するのも窮屈でしたし』
ヴェロッサは肩を竦めて笑う。
クロノを取るか、ヴェロッサを取るか。それは違う。
クロノの命か、ヴェロッサという隠し玉か。それが正しい。
ヴェロッサの能力は捨て難い。けれど命には代えられない。それにミゼットはヴェロッサの能力だけを買っているわけではない。ヴェロッサという人間を信じてそばに置き、協力してもらっているのだ。損失ではあるが、ヴェロッサに命を見捨てて権力争いに注力する自分たちなど見せたくはない。未来ある若者に、老兵として道を示すとしたら、最高評議会のような背中ではなく、誇れる背中を見せて示したい。
「では、任せますよ」
『はい。それともう1つ。戦力の件ですが、クローベル様方はどうかお待ちください」
『わしらでは不足だと言いたいのか?』
「いえいえ、そういうわけではありません。やはりクローベル様、フィリス様、キール様を危険な戦場にお送りするわけにはいきませんよ。貴方がたに何かあったら、僕が姉に怒られてしまいますし。戦力についてもアテがあると言っています」
打算を言うなら、3人を失うと聖王教会として、特に融和派として困る。3人がいなくなったら、本局さえも聖王教会との関係を軽視してしまいそうだからだ。
あとは純粋に、この3人には死んでほしくない。
戦力については、まず1人は確定で、さらにもう2人ほど。この2人ならきっと来てくれるとヴェロッサは思っていた。この3人に加えてミゼットが手配できるという1人を加えて4人。ヴェロッサ本人も含めれば5人だ。
『待て。お前も戦う気か?』
『4人も危険な戦場に呼びつけて僕1人観戦というわけにはいかないでしょう。まあ、あの執務官に貸しを作るのも悪くないと思いますので。この前、彼の『AEGIS』を見せてもらいましたし、今度は僕の『
「……わかりました。呼べる限りの戦力を私たちも手配します。クロノ・ハラオウン執務官を救出し、何とか持ちこたえてくださいな」
『委細承知いたしました。それでは時間が惜しいので、直ちに向かいます』
「お願いしますよ」
恭しく一礼するヴェロッサの空間モニターが消える。それを見送ると、レオーネとラルゴと共に、ミゼットはすぐに動く。
「……さあ、私たちは私たちの役割を全うしましょう」
『よし。わしは人員の手配をする。もちろん最悪の場合はわしらが行く選択肢も残しておくが構わんな?』
『勝手にしろ。私はこれからの計画を練り直す。行くとなったら連絡を寄越せ。クローベル、彼女の方を任せるぞ?』
「はい――レオーネ、ラルゴ」
『ん?』
『何じゃ?』
「この子たちを、失わせるわけにはいきませんよ」
『当然だ。ここまでするのだから、生き残ってもらわねばならん』
『わしらを追い越してさっさと隠居させてくれんとのう、わっはっはっはっは!』
彼らを知る者であれば、そのときの3人は若い頃を髣髴とさせる笑みであったと言うことだろう。不敵な笑みを浮かべる3人を前にしたら、どんな犯罪者とて縮み上がり、勝てなかったものだ。
レオーネとキールも通信を切った後、ミゼットは小さな笑みを浮かべていたが、ややあって通信で秘書を呼び出し、ある所へ通信を繋がせる。
『はい、こちらミッドチルダ第4陸士訓練校です』
「統合幕僚長、ミゼット・クローベルです。ファーン・コラード三佐はいらっしゃるかしら?」
伝説の3提督からの連絡に、通信の先の若い教官らしき男性が飛び上がって敬礼した。穏やかに笑って敬礼を返しつつ、ミゼットは目的の相手が出るまで慌てず焦らず、静かに待つのだった。