リリカルなのは ANOTHER LOCUS   作:ウルフ中隊

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今回の話を作るに当たって、参考にしたことは次の2点でしょうか。
1つに、なのはは溜め込む癖があること。
そしてもう1つは、BLEACHに出てくる名台詞――『憧れとは、理解から最も遠い感情だよ』です。
恭也・美由希・なのはは本当に似た者兄妹なんですよね。まあ、リリなのが原作のとらハ3をベースにしただけかもしれませんが。
なのははとらハでもリリなのでも、恭也の影響を受けている点が多いです。少なくとも私にはそう見えます。なので拙作では少しその影響が濃く出ている感じにしています。

しかし今更ながらに思いますが、なのはの事故なんていう大きなネタを、なぜ時系列表にちょこっと乗せる程度で終わらせて10年後のストライカーズにまで跳んだのか……。
私からしたら、このネタだけで拙作のストーリーまで膨張させることができるというのに! 私如きでさえできるのに、もったいないにも程があろう! それこそなのはたちの心の成長を描く、何よりの機会じゃないか!
……なんて私情を交えつつ、こんなどうでもいい叫びは放っておいて、本編をどうぞ。


LOCUS 14

 

 

 

『みんなの笑顔を守りたい』

 

 

 

 そう思った理由は、至極身近にあった。

 

『おにーちゃん』

『どうした、なのは?』

 

 物心ついたとき、最も身近にいた人。

 本来なら父や母がその立場にあるのだろうけれど、開店したばかりの翠屋をやりくりせねばならず、父も母も忙しくて、その姿を見ていて幼心に我慢しなければならないと悟った。

 だからこそ、その人がそばにいてくれたことが、何より嬉しかった。

 

『おにーちゃん! 聞いて聞いて!』

『おっと。どうした、なのは? 何かいいことがあったか?』

 

 友達ができたとき、先生に褒められたとき、できなかったことができるようになったとき。とにかく教えたくて、いつもその人に飛びついて。

 

『……おにーちゃん』

『なのは、そんな所にいないで入って来ていいぞ』

 

 友達と喧嘩をしてしまったとき、怖い夢を見てしまったとき、1人であることが無性に寂しかったとき。温かさを求めて、一緒にいてほしいとねだって。

 

『おにーちゃん!』

『……すまなかった、なのは』

 

 一緒に寝ていたのにいつの間にかいなくなっていたとき。出かける約束が難しくなってしまったとき。無茶をしないでほしいのに無茶をしていたとき。心底怒って不安なことを伝えたくて。

 

『おに~ちゃん』

『何がそんなに楽しいのかわからないが……まあ、なのはが楽しいのならそれでいい』

 

 縁側で一緒に日向ぼっこをしているとき。一緒に出かけるとき。優しくてかっこいいお兄ちゃんがいていいなあと言われたとき。何でもないことでもその人がいればそれだけで幸せで。

 

『おにーちゃん』

『おにーちゃん!』

『おにーちゃん……!』

 

 嬉しいときも。悲しいときも。楽しいときも。寂しいときも。腹立たしいときも。怖いときも。喜ぶときも。泣くときも。笑うときも。

 いつでも、どんなときでも。その人がいれば安心で。その人がいないと不安で。そして。

 

 

 

『どうした、なのは?』

 

 

 

 無愛想ながらも、求めれば必ず応え、大きな大きな包容力で包み込み――守ってくれた。

 どんなことがあっても、その人がいれば笑顔になれた。

 振り返れば、他の人にはわかりづらいと言われる小さな笑みを浮かべ、必ずそこにいてくれるから。そんな安心と信頼。それがあるから、ただ前に前に進んでいけた。

 幼心にそれは恋だったのだろう。成長と共にそれを自覚した。その人は11も年上だったこともあり、恋仲となった人ができて、淡い恋心は残念ながら実らなかったが、それはそれで少し苦いながらいい思い出となり。恋心は昇華されていき、残るのは妹としてその人を変わらず慕う気持ちと、そして、強い憧憬・羨望だった。

 

 

 

 だからこそ。

 

 どうしようもなく。

 

 この人のようになりたいと願った。

 

 どんなときも守ってくれて、どんなときも頼もしくて、どんなときもかっこよくて。

 

 いつだって自分を笑顔にさせてくれる、その存在、その姿、その背中が、自分の理想そのもので。

 

 

 

 高町なのはにとって、高町恭也という兄は、大好きで、自慢で、誇らしくて、そして――目標だった。

 

 

 

 恭也は剣士だった。御神流という、大昔から連綿と受け継がれてきた古流剣術の剣士。父も姉も、その強さを認めていた。父は恭也のいないところで「あいつはいつか必ず俺を越える」と誇らしげに。姉は「どんなに強くなっても、仮に追い越すことができたとしても、恭ちゃんが私の師匠であることはずっと変わらない」と感慨深げに。

 剣という、人を傷つけ殺すことができるものをなのははあまり好きになれなかったが、恭也が剣を振るう姿は好きだった。いつも静かで寡黙な恭也が、剣を振るっているときは真剣な顔なのだけれど、まるで見た目よりはるかに幼い子供のように、楽しそうだったから。一心に剣を振り、汗を流しながら強くなりたいと望むその姿は、これ以上なく輝いて見えたから。

 無愛想で友人は少ないし、怖がられることもあったが、わかる人にはわかるもので、恭也の周囲には恭也を慕う人がいて。

 その人たちを、恭也は守ってきた。時に剣を振るい、時に身を挺して、戦うだけではなく、そばにいて励まして。そして助けられた彼らが恭也を慕い、恭也のピンチには進んで助けてくれて。

 そんな光景を、幾度も見て。そこにまた、どうしようもなく憧れて。羨ましくて。自分もそうなりたくて。

 

 

 

 けれどなのはには、剣の才能はなかった。

 

 

 

 剣どころか生来の運動音痴。自分でも嫌になるくらいに。

 

「……ずるいよ、おねーちゃん」

 

 美由希が羨ましかった。彼女は知らないだろうが、なのはは美由希に嫉妬していたこともある。美由希も普段はドジが多い。よく転ぶし、料理は下手だし、うっかりも多い。それでも努力し、剣の腕は恭也をして「育て甲斐がある」と言わせたほどで。士郎と桃子はべったりの万年新婚夫婦で、そして恭也と美由希は義理とは言え兄妹で、そして兄弟弟子で、同時に師匠と弟子の関係でもあって。

 

 

 

 なのはは高町家において、どこか疎外感を抱くようになった。

 

 

 

 愛情が感じられないわけではない。恭也のみならず、士郎も桃子も美由希も娘であり妹であるなのはを殊の外可愛がった。それはなのはもわかっている。愛されていると充分感じられる。幸せだと思う。

 それでも、誰も守れない、そんな才能もないという無力感が、剣の才能や料理の才能を持つ両親や兄姉を前にして疎外感を伴い、なのはを苛んだ。

 

「おにーちゃんのようになるなんて、私には無理なのかな……ううん、そんなことない。そんなこと、ないよ……!」

 

 何もしないうちから諦めることはできない。何より恭也が、諦めない姿勢を貫いている。恭也は過去の事故が原因で膝を痛めており、完治はしないとさえ言われていた。それでも剣を振るい続ける姿が、なのはの脳裏に焼き付いている。だから諦めるなんてできない。

 料理を桃子に教わって、苦手な体育も真剣に受けて、勉強も頑張っていい成績を取って。

 けれど何をしていても、恭也のようになりたいという、大きな、大きすぎる理想の前には、成果らしい成果などまるで感じられない。実感が伴わない。

 

 

 

 転機が訪れたのは、まさにそんなときだ。

 

 

 

 魔法。

 

 

 

 降って湧いたチャンス。出会ったユーノ曰く、『本来なら会ってはならないし、会うことなどないはずだった』出会い。

 自分には、魔法の才能があった。それもとてつもなく稀な才能が。

 この事実が、どれほど、なのはを高揚させたか。それを知る者はいまい。わかる者などいまい。だがそれでもいい。ただ、このチャンスをフイにする気は毛頭ない。絶対に物にして見せる。

 

「私も、おにーちゃんみたいになれる! なってみせる!」

 

 ユーノを助け、フェイトを助け。

 クロノと出会い、リンディと出会い。

 なのはは早速成果を出した。それは長い間得ることのできなかったもの。助けられた、助けることができたという、これ以上ない実感は、段々霞んでしまっていた大きな背中を、今一度強く認識させた。

 

「……諦めてなるもんか。おにーちゃんなら絶対に諦めない。だから私も、絶対に諦めないよ!」

 

 ジュエルシードを切欠としたP・T事件から半年以上。続く闇の書事件。

 訓練を積んできていたにもかかわらず、ヴィータに圧倒的な敗北を喫した。が、なのはを諦めさせるには能わず。一度大きく認識できた背中を、ほんの少しでも近づいた気がする大きな存在を、もう一度霞ませてしまうなんて考えられない。そんなのは絶対に嫌だ。

 立ち上がり、フェイトやユーノ、クロノにアルフ、リンディたちと共に立ち向かい。そうしてなのはは、はやてを救い、シグナムを、ヴィータを、シャマルを、ザフィーラを、リインフォースを救った。

 助けた彼らと親友になり、仲間になり、そして今度は助け合って。これこそまさに、目指した光景。恭也と同じ立ち位置に、自分がいる。それはなのはに、この上ない充足感と達成感を与えた。

 

「お願い、おとーさん、おかーさん、おねーちゃん! お願い、おにーちゃんっ!」

 

 時空管理局への入局。なのはは渋る士郎に桃子、美由希、そして恭也に、必死に訴えた。何とか彼らは許してくれたものの、まだ完全に認めてくれたわけではない。

 わかっている。危険な所へ行くのだから、愛情を以って育ててくれる彼らが心配するのは当然だ。むしろ嬉しく思う。

 だからそんな我儘を言った以上、不安にさせてしまっている以上、早く彼らを安心させてあげなければならない。安心させることができるよう、早く、もっと強くなって見せなければならない。

 

「すげえ、これが期待のエースか!」

「そら来たぞ! 俺たちの天使のご登場だ!」

「高町准空尉が来たと知らせなさい! もう大丈夫よ!」

 

 そうこうしていたら、いつの間にか自分は『不屈のエース』などと呼ばれていた。別に称号や名声なんて興味はないが、期待に応えられたことは嬉しいし、自分が頑張ることで誰かの笑顔を守り、鼓舞することができるのなら何より。笑顔を褒められることは恥ずかしかったが、自分の笑顔で誰かが元気になってくれるのなら、それも構うことはなかった。なのはとしては、ただ恭也の背中に少しずつ追いつけているという実感があればそれでいいのだから。

 

 

 

 しかし。

 

 なのはの道は、間もなく順風満帆とはいかなくなった。

 

 

 

「…………」

 

 初めての、任務失敗。

 失敗と言うよりも、到着が遅すぎた。クロノやはやてが常々愚痴っていた、時空管理局の初動の遅さが何よりの原因だった。傷ついた人々。救助活動も虚しく、多くの命が失われた。

 印象に残ったのは、民間人より局員の犠牲が多かったこと。人々を守ろうとした彼らは、援護が遅れても踏み止まっていたのだろう。

 なのはのせいではない。それでも、なのはの目に、頭に、心に、その光景はしっかりと焼きつけられた。

 

「……戦技教導隊。ここなら……!」

 

 なのはは考えた。3日3晩、文字通り寝ずに考え続け、そうして出した答えが、武装隊の最高峰にして時空管理局の『花形』たる、戦技教導隊に入ることだった。

 平時は生き残る術を多くの局員に叩き込み、戦時は最前線で戦う最精鋭。これほどの部隊ともなると、出撃命令が下る機会はなかなかない。だが教導官は、その実力と影響力から、現場においてはある程度の裁量が認められる。執務官ほどではないが、緊急時の指揮命令権や行動の幅が大きい。生憎と執務官はさすがに難しく、フェイトは目指すそうだが、なのはには恭也という目標がいる。恭也は美由希に師範代として教える立場でもあり、美由希の身体が決して壊れないよう、彼女に最適な鍛錬メニューを昔から組んできて、大学でもトレーナーの勉強を行っている。教育者としての才能があるのは間違いなかった。クロノや訓練校のときの教官であったファーン・コラードさえも認めていたほどだし、その姿を見てきたなのはだからこそ、教え導く者としての姿を求めた。人々を守りつつ、同時に局員が生き残れるための力を付ける手伝いができるのが教導官なのだと。

 

「ねえ、クロノくん。最近、おにーちゃんに似てきた?」

「自分ではどうかわからないが、他の誰でもない恭也さんの妹である君から見て似ていると思えるのなら光栄だな」

 

 その過程で気づいたことなのだが、クロノも恭也を目指していた。

 確かに知り合ってからというもの、クロノは恭也に何かと相談していることがあり、恭也も「弟ができたような気分だ」と零していたのをなのはは知っている。

 何となく兄を取られたような気がする嫉妬心。同時に、恭也を尊敬し、目指す背中と捉える者同士という共感。それらに加え、戦技教導隊を目指す上でどうしても必要になる魔法の調整という点で高い能力をクロノが持っていること、不器用なところや反応が恭也に似ていることもあり、なのははクロノを意識するようになった。そのせいか、模擬戦の相手をお願いするのも、クロノが最も多かった。

 なのはにとって、クロノは同じ背中を追う同志であり、同時に互いの腕を高め合う好敵手だった。

 

「……クロノくんって、本当にすごいんだね」

 

 魔法だけではない。リンディやエイミィに聞いたり事件簿を眺めたりしてクロノの過去の経歴を調べたところ、クロノがこれまでにどれほど多くの功績を上げてきたかを知った。小さな事件から難事件まで、クロノのおかげで助かった人はなのはの比ではなかった。

 

「クロノくんの方がおにーちゃんに近い……うん、負けてられない――あ、クロノくん! ちょうどよかった!」

「ん? ああ、なのはか。どうした?」

「お願いがあるんだけど」

「……模擬戦か?」

「うん!」

「構わないが……このところやりすぎじゃないか? 無理をするなよ?」

「大丈夫だよ!」

「本当だろうな? 君にもしものことがあったら恭也さんに申し訳が立たないんだ。頼むぞ?」

「任せて! おにーちゃんの妹なんだから、ちょっとくらいの無理では倒れないよ!」

「何という説得力……わかった。明日なら夕方が空いているから」

「やった! ありがとう、クロノくん!」

「だがその前に。なのは、きちんと恭也さんに組んでもらったメニューはこなしているんだろうな?」

「……やってるよ? あ、痛い! 本の角で小突かないでよ~!」

「わかりやすすぎる。嘘を吐くならそれなりにわかりにくくやるんだね」

 

 クロノが恭也に鍛錬メニューを組んでもらっていることを知ったなのはも、すぐに恭也に頼み込んで自身も組んでもらった。もちろん抑え気味ではあるが、それでもなのはにはこれまでにないほどの量で。基礎的なものが多いため、なのははちょっとだけ魔法を使ってしまったり、魔法の訓練を優先しがちになって疎かになっていたり。

 とは言え、なのはの実力は間違いなく高くなっていく。

 

 

 

 が、基礎を疎かにしていては、いつか打ち止めが来る。

 

 まして無理を押していれば。

 

 

 

「……こんなミスしちゃうなんて、私の馬鹿!」

 

 変調はすぐに訪れた。つまらないミスが多くなり、所属する部隊の長や同僚からも疑念と共に注意されることが増える。なのははそれを実力不足と捉え、更なる鍛錬に打ち込んで。

 真の意味での問題がどこにあるかを捉え損なった結果、なのはは無理を押し、そして無理をした身体は不調を訴え、それでもなのはは構わず。そんな状態で現場に出ても、本調子ではないなのはは結果を出せず、繰り返される芳しくない結果は、やがて救えない、助けられない数を増やし、なのはを追い込んでいく。

 

「なんで……どうして……!」

 

 さらに『不屈のエース』と銘打たれてしまったことで、周囲の抱く『期待』はなのはが上げる成果と共にどんどん膨らんでいき、本調子でも応えにくくなっていたにもかかわらず不調な状態で応えきれるはずもなし。

 

「エースと言っても、こんなものか」

「笑顔を守りたい、ねえ」

「どうしてもっと早く来てくれないんだ! 何が守るだ! 何がエースだ!」

 

 非難や批判、落胆に失望。

 敏いなのはだけに、自身に向けられる感情や視線の正体はわかってしまう。

 『期待』に、応えられなかった。応えきれなかった。守れなかった。笑顔を守りたいと願いながら、その笑顔を逆に失わせてしまった。

 これらの事実は、なのはに重く圧し掛かる。少しずつ追いついていた背中が、また遠く離れていく。

 こうしている間も、仲間たちは少しずつ実績を積み重ねている。意識するクロノは執務官のため、激務のせいで自分より訓練に当てる時間は少ないのに、それでも未だ追いつけず。むしろ引き離されている気さえするほどで。

 

「足りない……まだ足りないんだ……!」

 

 危険と知りながら、ブースト魔法を自分で自分にかけもした。注意され、警告されても。だってそうしなければ応えられない。これ以上、笑顔を失わせてはいけない。

 そう、注意されるのも心配されているからだ。ならば心配させないよう、笑顔でいなければ。笑顔でいることを心がけ、平気を装う。それでどうにか誤魔化すことはできた。

 が、身近な存在は誤魔化しきれない。

 

「なのはちゃんがそんな顔で笑ってるからだよ! どうしてわからないの!?」

「なのは、アンタね……! 私が前に言ったこと、ホントにわかってんの!? そりゃうざいかもしれないけど、それもこれも、アンタがそういう顔してるから心配になるんでしょうが!」

 

 まずはアリサにすずかだった。

 恭也の背中が霞んできた現実を認めたくないと思い、どうすればいいのかと必死に考えていたら、心配した2人に声をかけられた。心配させてはダメだと咄嗟に我に返って笑顔を浮かべるが、どうしてか逆に2人を怒らせたらしい。売り言葉に買い言葉、カッとなったなのはもそれに言い返してしまい、そして2人とはぎくしゃくとしてしまって。

 さらに波及して、庇ってくれていたフェイトとはやてもが喧嘩をしてしまったらしい。自分が親友たちの仲を悪くさせてしまった。そのことに罪悪感を抱くも、現実を認められない気持ちが先行して素直に謝ることもできない。罪悪感がなのはを苛む。クロノとの模擬戦でも思うようにいかず、まるで身になっていない。クロノからも厳しい言葉をかけられ、それまでにないほどの敗北を喫して。

 もはや最後の頼みはユーノだけ。最初のきっかけとなり、そして魔法の師匠であるユーノは、いつもなのはを教え導いてくれるから。

 

――ユーノが自分に対して巻き込んだと罪悪感を抱いていることもわかっていたけれど。

 

 一緒にいて、何度だってそんなことはないよと言い続ければ、いつか彼もわかってくれると信じていた。けれど自分でも感情がおかしなくらい抑えられず、ユーノにさえ変に当たってしまうこともあり、だんだん通じ合えていたはずのユーノの気持ちもわからなくなっていって。

 

「……おにーちゃん……」

 

 助けてほしかった。どうしたらいいのかわからない。いつの間にか、恭也の背中が見えなくなっていた。

 もし近くに恭也がいたら、こうまでなのはもならなかったかもしれない。

 

 

 

 恭也は、高校の頃からの友人であった、すずかの姉の月村忍と恋仲にあった。

 

 そして将来的な結婚を見据え、恭也は半年ほど前に、忍と共にドイツへと旅立って行ったのだ。

 

 がら空きとなった恭也の部屋に入るたび、なのはは胸にぽっかりと穴が開いたような感覚に陥る。

 

 

 

 いつだって、そばにいて、助けてくれた存在――恭也がいないという現実。

 兄妹と言えども、いつかはこうして離れる。覚悟はしていた。していたつもりだった。

 けれどいざその時が来ると、なのはは自分の覚悟とやらがどれだけ『つもり』でしかなかったのかに気付かされた。

 高町なのはとて1人の少女。魔法が使えようが、理想を追い求める大人顔負けの存在だろうが、『不屈のエース』などと言われようが、それらの前に、1人の女の子である。

 だが周囲は、それを認めない。『不屈のエース』であることを求めている。

 

「ねえ、なのは。その、恭也さんと連絡してる?」

「ううん、あんまり。時差もあるし、おにーちゃん、今一番幸せな時だと思うから。邪魔、したくないんだ」

 

 頼れない。頼ってはいけない。『不屈のエース』であるがゆえに。そう在らねば、恭也のようにはなれないのだ。まして恭也もいつまでも妹のなのはばかりを見てはいられない。恭也にとて人生があり、そして多くの人を守り続けてきた恭也は幸せになるべきなのだから。その邪魔をしていいわけがない。よりにもよって妹である自分が、恭也の幸せの邪魔などしたくない。他でもない恭也の幸せを、笑顔を奪うなんて、誰が許そうと自分自身が許せない。

 

『――もしもし?』

 

 なのに。

 その声を聞いた瞬間、そんな我慢は吹き飛んでしまって。

 ユーノが、彼にしては珍しく、少し強引に押し切って繋げてくれた通信。そこから聞こえてくる声に『話したい』『でもいいのかな?』『気づいてほしい』『ダメだよ!』と心がせめぎ合って。

 でもその声は、なのはのそんな葛藤など物ともせずに。

 

『……なのはか?』

 

 いつだって、そうであったように。

 通信越しだろうと関係ない。

 なのはに気づいて、『なのは』と呼んで、なのはを第一に心配してくれるのだ。

 

「あ……う、うん! なのはだよ、おにーちゃん!」

 

 我慢などできず、なのははそばにユーノがいるにもかかわらず、言葉を返していた。

 久しぶりの会話。半年の空白があろうと、そんなものが何の障害になろうか。それを証明するように、兄妹の会話はまるで変わらない。

 

『それで、なのは……最近、生活が乱れているとかーさんから聞いたぞ?』

「はう……そ、それは、その~」

『今度のクリスマスのプレゼントはなしになりそうだな』

「待って待って! なのは、おにーちゃんからのプレゼントが毎年の楽しみなのに! ひどいよおにーちゃん!」

『ふむ。サンタなる好々爺は良い子にしかプレゼントをやらないと言う。なのはももうサンタの正体を知っているわけだが、正体を知るともらえなくなるから代わりに俺がやっているとは言え、俺も良い子にしかやらないというのは賛成だからな』

「良い子にしてます! 良い子にしてるから! だからおにーちゃ~ん!」

『ならばなのは、兄の言うことを聞けるな?』

「うん、ちゃんと聞くよ!」

 

 そして。

 高町なのはという妹を、誰よりもよく知る高町恭也という兄は。

 妹がひた隠しにしていることだろうとも、その核心を難なく突いてくるのである。

 

『では無理をしないように。それだけだ』

 

 今までも、フェイトにはやて、アリサにすずか、ユーノにクロノ、士郎に桃子に美由希と、それこそ仲間たちには言われ続けてきた。その度に反発し、平気を装い、笑顔を浮かべて大丈夫だと訴えて。

 けれど。

 どうしても。

 恭也に、同じことはできなくて。

 

「……無理なんてしてないよ」

『そうか』

「……してないよ?」

『ならばいい――ではなのは、プレゼントは何がいい?』

「…………」

『…………』

「……おにーちゃん」

『なんだ?』

「…………」

『……話しづらいことか?』

 

 いつもそうだ。この兄は無理に聞き出そうとはしない。なのはが話したくないなら無理に聞かない。けれど、優しく包み込んでそばにいてくれる。なのはが話すまで。話さないとしても、なのはが少しでも安心できるように。

 そう。この兄の大きさの前に。包容力の前に。温かさの前に。高町なのはが隠し通せるものなどないのだ。

 空気を呼んでユーノも忍もノエルも席を外してくれて。訪れたたった2人の時間。そうなれば、なのはの口は自然と話し出す。

 

「……おにーちゃん」

『なんだ?』

「……ごめんなさい」

『それは心配させている人たちに言いなさい。俺の妹はそれがきちんとできる子のはずだ』

「……うん」

『さて、時間もできたことだ。散歩でもしながら話すとしよう。サボるのもたまにはいい』

「にゃはは、いけないんだ、おにーちゃん。妹の前なのに」

『なに、なのはが黙っていてくれればいいことだ』

 

 そうしてなのはは、ゆっくりと話し出した。

 

 

 

 

 

 『期待』に応えられないこと。これを重荷ということが今までできなかったけれど、本音を言えば重荷以外の何でもない。恭也の前だからこそ、重荷なのだと、プレッシャーなのだと、なのはははっきりと言うことができた。恭也の前で『不屈のエース』なんて気取っても仕方がないのだ。自分如きが『不屈のエース』なら、今まさに通信の先にいる兄こそ本物のエースオブエースなのだから。

 

『……ふむ』

 

 首肯している恭也の姿が容易に浮かんだ。そこから若干の間隙。その間隙が、なのはには地平線の彼方にも感じるほどだった。自分がどうして恭也に相談できなかったかが唐突に理解できたからだ。

 

――失望されたくない。

 

 周囲は『期待』に応えられないなのはに落胆し、失望した。なのはの周囲から、だんだんと人がいなくなっていく感覚。かつて感じていた、無力感と疎外感。それがまた首をもたげてなのはの心を侵してくる。フェイトやはやて、ユーノにクロノ、アリサにすずかたちはそんなことはなかったが、けれど心が離れていくのを感じて、どうしようもなく怖くなった。

 恭也まで、この人まで、離れていってしまうのではないか。

 

『なのははどうして、そこまでして守ろうとするんだ?』

「…………おにーちゃんみたいに、なりたかった」

 

 やっぱりこの話はやめた方がいいのではないか。情けない姿を見せていたら、これ以上は無理だと、時空管理局から離れなさいと、そう言われそうな気がして。

 でも、できない。恭也を前に、この鋭い目を持つ兄を前にして、そんな小細工など通用しない。

 

「おにーちゃんみたいに、守る人に、守れる人に、なりたかった」

 

 なのはを守ってくれたように。身近な人たちを守っているように。そうして助けた人たちに慕われ、その人たちと助け合いながら生きていく。そうなりたい。

 

『……お前を失望させるようで悪いが、お前の兄はお前が思うほど強くはないし、完璧でもないぞ、なのは』

「そんなことないもん!」

 

 同情などしてほしくない。そういう八つ当たりの気持ちもあるが、何よりも恭也が自分を卑下する姿なんて見たくなかった。目標とする人の背中を、自分如きのために貶めてほしくなかった。

 

「おにーちゃんはいつだって強くて、優しくて、かっこよくて! なのはの自慢で! なのはが大好きな、なのはのおにーちゃんで! だから……だから……!」

『ありがとう、なのは』

「……おにーちゃんの馬鹿」

『そうだな。大事な妹であるお前が目標としてくれている。ならば俺も胸を張るべきだろうな』

 

 そうでなければなのはの夢や目標を汚すことになる。兄としてそれはやってはいけなかったな、と恭也は続けた。

 

『ただな、なのは。今まさにそうだったが、この兄もこうして弱いところがあるんだ』

「…………」

『失望させてしまったか?』

「怒るよ、おにーちゃん」

 

 失望なんて、するはずがない。強い兄がまず見せない弱いところを見せてくれたことが嬉しい。この兄に頼られたようで、むしろ誇らしいくらいなのに。

 と、そう思った瞬間、兄が次に言いたいことがなのはにはわかった。

 

『その言葉、そっくり返すぞ、なのは。これ以上自分を貶めるな。俺の大事な妹が自分自身を貶めている。これほど歯痒いことはない』

「……おにーちゃん」

 

 恭也の声には微かな怒りが籠っていた。抑えようとしているのだろうが、いつもよりその声は低く重い。静かに怒っている証拠だ。顔には出にくい恭也の感情を推し量ることにかけては誰にも負けないつもりであるなのはだからこそ、この怒りに気付かないはずがない。

 失望されると恐れを抱くなど、なんて愚かな。こんなに自分のために怒ってくれる人に対して、なんて失礼な。よくもこれでこの人の妹だなどと言えたものだ。この人が自分を見捨てるなんて、あるはずがないのに。

 

『なあ、なのは』

「うん」

『俺は昔、お前を泣かせてしまったことがある。俺が大怪我をしたときのことだ。憶えているか?』

「……ううん」

 

 小さい頃の話だ。それこそなのはがまだ幼稚園にも入っていない頃。残念ながら記憶になかった。

 恭也が大怪我をする少し前。父である士郎が、ボディーガードの仕事中に重傷を負う事件があった。意識不明で、生死の境を彷徨うほどの。

 

『敏いお前のことだから気づいていると思うが、俺たちが振るう御神の剣は、決して陽の光の当たらないものだ』

「……うん」

 

 御神流。正式名称『永全不動八門一派・御神真刀流・小太刀二刀術』。

 極みに至って完成された御神の剣士ならば、重装備の兵士が100人集まっても倒せるかどうかという、土台信じられないほどの剣術。それはつまり、如何に人を殺傷するかに長けた剣。どんなに護ることを掲げていても、その手法として相手を殺傷するものだ。特に恭也と士郎は分派である『御神不破流』。御神流の裏に在って、それこそ暗殺などを行ってきた流派。

 現在、御神流の使い手は僅かに4人。すなわち、士郎・恭也・美由希、そして美由希の母である美沙斗。たったこれだけ。

 

『俺が幼い頃、御神と不破の家の者は、爆弾テロに遭ってな。俺たち以外、みないなくなってしまった』

「…………」

 

 言葉も出なかった。父方の祖父母や親戚に会ったことはなく、話題も何だか避けていたことに気付いてはいたけれど。士郎も桃子も恭也も美由希もそれは避けるだろう。

 

『だからとーさんが大怪我を負ったとき、俺は思い込んだ。俺が守らなければと。とーさんが戻ってくるまで、俺が家族を守らなければならないと』

 

 当時の恭也の年齢は今のなのはとそう変わらない。小さな少年が、こんな暗い過去を持つ重い剣で、脅威と戦う覚悟を持たねばならなかった。だから恭也は1人剣を振った。朝も昼も夜も。神経を研ぎ澄まし、張り巡らせて。休む暇などない。気を抜いていられるときなどない。マメが潰れようが包帯を巻いて。手の感覚がなくなろうが布で刀を縛り付けて。

 

『そうして俺は、無理が祟って普段なら簡単に避けられる車を避けられず、事故に遭った。命は助かったが、代償は……なのはも知っての通りだ』

「おにーちゃん……」

 

 膝を壊した。

 御神流の剣士にとって、足を痛めることは致命的だ。もちろん手だろうが目だろうが同じことだが、足は重要度が違う。奥義の歩法『神速』は元より、天井や壁すらも利用して走り回るだけに。

 嘆いた。情けないと。御神の剣士として完成することはできなくなった。守るどころか、これでは守られる側だ。

 そして、それ以上に情けなかったことが1つある。

 

『守るべき家族を、悲しませてしまった』

「…………」

『かーさんも美由希も、そしてなのは、お前もだ。あのときほど後悔したことはない。前にも後にもな。特になのは、お前の涙は堪えた』

「え?」

『憶えがないほど小さい頃のなのはだ。まだ状況を理解できるわけでもなかったろう。人の死というものをわかっていたわけでもないだろう。そんなお前が、『おにーちゃんの馬鹿』と叫んで大泣きして縋りついてきてな。一番守らなければならなかったお前をここまで悲しませたことが、膝を壊した現実よりも、御神の剣士として完成することはない事実よりも、何よりもつらかった』

「…………」

 

 真実、だったのだろう。恭也の声は本当に苦々しく、聞いているだけでもつらかった。今でも後悔しているはず。

 だからなのだろう。なのはが物心ついてからというもの、恭也がなのはを殊更気にかけたのは。せめてもの罪滅ぼしであり、そして二度となのはを悲しませはしないという決意の表れだったのだろう。

 この話は、今のなのはにとって、この上なく訴えかけるものがある。あまりにもなのはの状況と似すぎていた。恭也の場合は勝手に自分でプレッシャーを抱え込んだだけで、なのはの場合は周囲が身勝手な期待を向けてくるからという違いはある。ただ、なのはが自分自身にプレッシャーをかけ続けているところもあるわけで。

 

『俺は間違った。致命的な間違いを犯した。お前の兄は、お前が思うほどできた兄ではなかったんだ、なのは』

「……そんなことないもん」

『そう言ってくれるのは嬉しいんだがな』

「例えおにーちゃんが間違っていたとしても! なのはにとってはおにーちゃんは強くて優しくてかっこいいおにーちゃんなの!」

『……そうか。ありがとうな、なのは』

「……うん」

 

 恭也はなのはに失望されても仕方がないとでも思っているのだろう。間違いないとなのはには言い切れる。

 そんなこと、断じてない。

 むしろ感謝しなければならない。こんなに強いと思っていた人でさえ、今の自分と同じ間違いを犯したことがあることを知れたのだ。そして自分が決定的な間違いを犯す前に、それを止めてくれたのだ。なのはには同じ間違いをしてほしくないと。

 

『なのは。お前も俺にとって、優しくて明るく、心から守りたい、自慢の妹だ』

「そうかな? えへへ」

『プレッシャーを与えられるほどお前が期待されていることは誇らしくもある。ただな、慌てなくていいんだ、なのは。さっきも言ったが、たまにはサボるのもいい』

「でも、その間にもたくさんの人が……」

『気持ちはわかる。俺も取りこぼしてしまったものは多い……だがな、なのは。すべての人々を1人で助けるのは無理なんだ。これからも戦いの場に身を置くのならば、これから目を背けてはいけない』

「……はい」

『その上で聞く。それでも、諦められないか?』

「……うん。諦められない。諦めたくないよ」

 

 現実を受け入れられないから足掻いた。けれどもう認めなくてはならない。戦いとはそういうもの。犠牲がない戦いなんてない。何かを犠牲にしているのだ。そこから目を背けていては、ただただ現実に押しやられ、プレッシャーに潰されるだけ。

 ただ、認めた上で諦めろと言っているのではない。認めた先にどうするか、そこからが本題だ。

 そしてもちろん、なのはは諦めたくなどない。その気持ちは変わらない。

 

『なら頼れ。俺でもいいし、フェイトでもはやてでもいい。クロノでもユーノでも、アリサでもすずかでも。誰でもいい。みんなで守ればいい。なのはから見て、この兄は誰にも頼らずに生きているように見えるか?』

「……ううん」

『そうだ。俺にも忍や赤星、神咲さんのように仲間がいる。友人がいる。とーさんやかーさん、美由希に美沙斗さんもいてくれる。そしてなのは、お前がいてくれる』

「うん! 私がいるよ、おにーちゃん!」

『ああ。そしてお前にも俺がいる。それを忘れないでくれ』

「うん……うん!」

 

 そのとき零した笑顔は、意識などせずに浮かべたもの。ただただ嬉しくて、やっぱりおにーちゃんは世界一のおにーちゃんなのだと誇らしくて。

 

 

 

 

 

 そしていつの間にか眠ってしまったなのはは、起きたときにユーノにフェイト、はやての笑顔に迎えられた。何の気兼ねもなく接してくれる彼らと夕食を共にして。こんなに笑ったのはいつぶりだろうかと、美味しいはやてのお弁当に舌鼓を打ちながら、なのははずっと笑顔でいた。ユーノもフェイトもはやても。まるでそれまでのぎこちなさなど嘘のように。そして任務に向かう直前、クロノとも通信で話すことができ、彼にも謝ることができた。彼もまた厳しい態度を謝り、そしてまた模擬戦に付き合うし、魔法も教えると言ってくれた。

 体もぐっと楽だった。多少のだるさはやはりあるけれど、鉛のようには感じない。この訓練が終わったらゆっくり休もう。今日は休んで、明日は自主訓練も取り止めて、久しぶりに母とお菓子作りでもしよう。父と翠屋のお手伝いをするのもいいかもしれない。姉に電話して何でもない会話で盛り上がるのもいい。たまには、サボるのもいい。

 

 

 

 そう、思っていた。

 

 

 

 訓練からの帰り、正体不明の戦闘機械に出くわして。

 それでもいつもより冷静に対応した。ヴィータもいたから、AMFには驚いたけれど、やりようはあった。対AMF訓練をもっとやらなければと思ったし、力押しの砲撃しか手がないという未熟な事実を痛感した。帰ったらクロノにもう一度謝って、きちんと教えてもらい直そう。

 ただ、今ばかりは砲撃を使うしかない。そう思って3発目を放とうとした矢先。

 

「――え?」

 

 体がいきなり硬直した。攣ったような痛みを感じて。

 

「なのは、危ねえ!」

「――っ!」

 

 目の前に迫る一条の光線。激しい痛みは一瞬。意識は刈り取られ……なのはは堕ちた。

 

 

 

 

 

 気づいたとき、自分はベッドの上。ちょっと動くだけで激しい痛みを訴える身体と、涙を流して喜び、そして怒る家族や友人、仲間たちの姿を見て。

 自分が、とんでもないことをやらかしたと、理解した。

 

(情けない……!)

 

 無理無茶無謀を重ねてきた代償は、リンカーコアの機能低下による魔導師生命の危機と、二度と歩けないかもしれないという事実。死ぬかもしれなかったという恐怖よりも、この2つの代償の方がダメージが大きかった。

 そして。

 何よりも。

 

――心配され、諭され、導いてもらっておきながら、その兄を裏切ってしまった。

 

――こうなってほしくはないという兄の願いに、自分は真っ向から反してしまった。

 

 恭也の顔を、見ることができなかった。

 恭也にどんな顔を向ければいいのか。どんな声で『おにーちゃん』と呼べばいいのか。どうやって謝ればいいのか。

 わからない。

 

「……なのは」

「…………」

 

 兄はそばにいてくれた。半年ぶりに会う兄。普段なら喜んで飛びついたろう。

 けれど、それはできない。できるはずがない。

 その声に体はびくつき、手は震え、歯がカチカチと音を鳴らす。

 失望などされない。兄は絶対にそんなことをしない。そう信じる気持ちはある。

 だが今回は前回とは訳が違う。

 兄を裏切った。兄の気持ちを反故にした。兄の言葉をフイにした。兄が自分を思ってくれる心を、踏み躙ってしまった。

 前回は兄の心をまだわかっていないところがあったけれど、もうそれを知っている。言葉の全てを、憶えている。兄の心を、知っている。

 なのに自分は、その兄を、蔑ろにしてしまった。

 つらい。大好きな兄がそばにいることが、つらい。

 初めてだった。兄がいることがつらいなどと思ったことは。怖いなどと思ったことは。

 

「…………」

「…………」

 

 交わす言葉はなく。目は合わず。合わさる手はなく。心は通じず。

 いや、違う。

 言葉を振ってくれた。目を向けてくれた。手を差し伸べてくれた。変わらぬ心を示してくれた。

 ただ、なのはが、それに応えられないだけ。

 

 

 

 自分に、これに応える資格は……ない。

 

 裏切った、自分には。

 

 もうこの人を、『おにーちゃん』と呼べない。

 

 もうこの人の背中を、見ることができない。

 

 もうこの人の背中は、自分には見えない。

 

 

 

「やだよ……」

 

 あの無力感と疎外感。加えて罪悪感に喪失感。脱力感や虚無感。

 夜、誰もいなくなった病室で。

 なのはは、泣いた。

 たった1人で、孤独に。

 

「やだよぅ……こんなの、嘘だよ……」

 

 本当なら縋りつきたかった。大きくて温かい胸に飛び込んで、強くて優しい腕で抱きしめてもらって。昔、怖いことがあれば、寂しいと感じれば、そうしてもらったように。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……!」

 

 できるはずがない。やっていいはずがない。

 恭也を裏切った自分が、そんなことをしていいはずがない。

 きっと恭也はそうしてくれるだろうけれど。それは許されない。

 それはつまらない意地。高町なのはの、つまらなくも唯一残った意地だった。

 泣いて泣いて泣きまくって。それこそ一晩中泣き明かして。

 

「……諦めない……」

 

 そうしてなのはは、1つの答えに行き着いた。

 

「……あきらめない」

 

 裏切った事実は、もう変えられない。

 もはやここに在るのは、ただの残骸だ。高町恭也のようになりたかった高町なのはのなれの果て。

 残骸如きに、もはや高町恭也のいる場所に立つことはできないけれど。

 ただ、せめて、もう裏切らない。もう『期待』を裏切らない。

 もうその高みへ至ることはできなくても、せめて今以上には堕ちない。

 不屈を求められるのなら応えよう。復帰を求められるのなら応えよう。笑顔を求められるのなら応えよう。

 それが、残された高町なのはの残骸である『高町なのは』の、残骸なりの意地。

 

「アキラメナイ」

 

 だから、『高町なのは』は笑って見せる。

 

 

 

「ごめんね」

 

「諦めないよ、私。可能性がある限り」

 

「必ず復帰してみせる。どんなにリハビリが苦しくても」

 

「だって私は、諦めないが口癖の、不屈のエースなんだから!」

 

 

 

 高町なのはは『不屈』のエースだった。どんな戦場でも恐れずに立ち向かい、味方には笑顔で励ましてみなを勇気づける、ストライカーで在らねばならない。目指すは武装隊の最高峰たる戦技教導隊。

 『不屈のエース』だからこそ、今まさに『不屈』であることを求められている。今こそ笑わなければならない。笑って、どんな苦しみにも耐え抜いて、必ず復帰して見せなければならない。

 ただでさえ堕ちてしまった。『期待』に応えることができなかった。これ以上、皆を失望させてはいけない。もう『期待』を裏切ってはいけない。

 だから『高町なのは』は、かつての高町なのはが浮かべていたはずの『笑顔』を浮かべて宣言してみせた。

 

「……そっか。なのははやっぱり変わらないね」

「……ほな、まずは怪我を直さんとな。それからやで!」

「……そうか」

「……なのはが決めたなら、僕は全力でサポートするよ」

 

 そこでなのは――『高町なのは』が、自身の浮かべる『笑顔』について気づくことができれば、その後の展開も違ったのかもしれない。

 けれど『高町なのは』は、原因がまさにその『笑顔』にあるとは思わなかった。

 『高町なのは』は、失望されること、落胆されることを恐れていた。過去の無力だった頃の自分に戻ってしまうことが怖かった。

 だから彼らの反応の鈍さも、そこに原因があると受け取ったのだ。無理をしているのではないかと心配されていると。

 結果として、『高町なのは』は前以上に『笑顔』であるよう心がけた。心配などさせてはいけない。明るく振る舞わなければならない。諦めてはならない。不屈の姿勢を見せ続けねばならないのだと。

 あの日、撃墜される直前に、フェイトにはやて、ユーノと笑い合うことができたときのようにと、そのときが来ることを信じて。

 

 

 

 いや、違う。

 

 もう来ないそのときが来ることを夢見て。

 

 高町なのはの残骸に過ぎない『高町なのは』に、そんなときは来ないのだから。

 

 必死に、必死に。

 

 高町恭也が誇ってくれた、自慢に思ってくれていた高町なのはに戻りたいという願いを、望みを、心を、裏切者の残骸如きが分不相応だと押し殺して。

 

 

 

「……あの、クロノくん? さっきからずっと黙ってるけど、どうしたの? 何だか顔が怖いよ?」

 

 堕ちてからしばらくして。リハビリも始めて。いつもいてくれるヴィータと、変わらずそばにいてくれる恭也、そしてこの日はクロノが見舞いに来てくれていて。

 見舞いに来て挨拶を交わした後、ずっと黙り続けて強張った顔を浮かべていたクロノ。これまでもこうした顔をクロノは浮かべていた。他の友達や仲間がぎこちないながらも笑って応じてくれる中で、ただ1人笑わずに。かつて高町なのはが追っていた背中を今も追い続け、競い合った彼。その彼が羨ましい。もはや残骸如き『高町なのは』に、彼と同じことはできないけれど。

 ただ気になった。仲間の中で唯一こんな顔をする彼が。

 

「……なのは」

「うん」

「君が復帰を目指すのはなぜだ?」

「え?」

「なぜ、こんな苦しいリハビリをしてまで、復帰を目指す? 死にかけるような怪我をして、それでもまだ戦場に立とうとするのはなぜだ?」

「おい、クロノ!」

 

 心が、揺れた。

 それは、『高町なのは』の中に燻る願いを、望みを、心を、突いてくるものだっただけに。

 ヴィータが慌てたようにクロノの腕を掴んだが、クロノは振り払うこともなく、なのはだけを見据えていた。その目が恭也の目と一瞬重なってなのはは戸惑ったが、何とか『笑顔』を浮かべ直して。

 

「私は、諦めないが口癖の、不屈のエースだよ?」

「だからか?」

「うん。復帰しなきゃ。助けを求めている人はいっぱいいる。いつまでもベッドの上で休んでなんていられないよ。頑張って復帰しなきゃいけないんだ」

 

 それが、高町なのはの残骸である『高町なのは』に、唯一残されたものだから。

 

「なのは、もう1つ聞きたい」

「……何かな?」

「おい、クロノ! いい加減にしろよ! なあ恭也、お前も止めてくれよ!」

「…………」

 

 怖かった。核心を突いてくるクロノが。まるで恭也だ。隠し通すことができない相手であった恭也のように、クロノはなのはの心に踏み込んでくる。

 焦るヴィータが取りついても、恭也は助けてくれなかった。厳しい顔をしてなのはとクロノを見据えたまま。

 

「君は、いったい何を諦めないんだ?」

「え……何って、それは……私は、『不屈のエース』だからで……あ、あれ……?」

 

 何を、諦めないのだろうか。

 わからない。

 わからない。

 ワカラナイ。

 

――いいや。わかっている。

 

 けれど、それは。分不相応だから。

 それは、高町恭也が認めてくれた、誇ってくれた、自慢に思ってくれた、高町なのはのものだから。

 

――『みんなの笑顔を守りたい』

 

――強くて優しくてかっこいい、誰よりも憧れた背中を持つ、高町なのはが自慢に思う大好きな兄である高町恭也を見ていた高町なのはの根源。

 

 残骸に過ぎない『高町なのは』には、もはや持てない、純粋で、穢してはならない想い。

 未だ燻るそれは、押し殺しておかねばならないものなのに。目の前の少年は、それを許してくれない。

 やめて。どうして。ひどいよ。お願いだから。やめてよ……クロノくん!

 

――なのは。君は、『みんなの笑顔を守りたい』から、諦めないんだろう?

 

 言葉にせずとも、クロノのその問いは互いの目を通してなのはへと伝わった。念話ではない。そんなものさえ必要ない。

 同じだったから。

 同じ背中を追う、同志であり好敵手だったから。

 だからクロノにはわかったのだろう。『高町なのは』の中で足掻く高町なのはの想いに、気づけたのだろう。

 

 

 

「なのは。今の君に、笑顔を守ることなんてできはしない」

 

 

 

 ああ。

 言われてしまった。

 わかってはいたけれど、それを敢えて言葉にされると、思っていた以上になのはの心はショックを受けた。

 

「少なくとも、僕は今の君といても、笑顔になどなれない」

「――っ!」

「クロノ、てめえええええ!」

 

 ヴィータに殴られ、椅子から転げ落ちるクロノ。さらにヴィータは追撃しようとしたが、恭也に止められる。さすがになのはもクロノを心配したが、次の瞬間、クロノが向けた、まったく変わらない真っ直ぐな視線に、なのはは反射的に目を逸らしてしまう。

 

「君の笑顔は、君のものだ。決して、周囲の誰かの笑顔を守るための道具なんかじゃない」

「…………」

 

 その気持ちは嬉しい。けれど……もう自分は残骸に過ぎないから。だからせめて、残骸にでもできることくらいはさせてほしい。それさえも、ダメなのか。

 

「僕が憧れたのは、心からみんなの笑顔を守りたいと願い、望み、そのために諦めない高町なのはだ。仮面の笑顔を張り付けて、何に対して不屈であるのかも忘れて、ただ周囲の勝手な馬鹿どもの『期待』に応えるためだけの高町なのはは、僕にとっての高町なのはじゃない」

「やめろって言ってんだろが! 今のなのはにどんだけひでえこと言ってるかわかってんのかテメエ! それ以上喋ったら、その舌引っこ抜いて――!」

「高町なのはは!」

 

 寸分違わず、クロノは高町なのはと『高町なのは』を言い当てている。そう、彼の言う通りだ。

 でも、言わないでほしい。それ以上は、言わないでほしい。

 高町なのはも『高町なのは』も押し隠し続けている本音。決して褒められない、負の心。

 暴かないで。

 そう願っても、ヴィータが横合いから怒鳴ろうとも、クロノは止まらず。むしろ他の一切が邪魔だと言わんばかりに、クロノは吠えた。

 

 

 

「高町なのはは、1人の人間だ!」

「――――」

 

 

 

 その言葉は、なのはの心を、震わせる。

 

 

 

「嬉しいときは喜んで! つらいときは悲しんで! 許せないときは怒って! 怖いときは怯えて! いつだって全力全開で! それでいて、ただ誰かの幸せを願って、笑顔で在ってほしいなんて甘すぎる、とことんまでお人好しの、けれど誰よりも優しい子なんだぞ! どいつもこいつも、そんな女の子1人に、いったい何を背負わせた!? 殺されかけて、死にかけて! それでもまだ笑うことを強要する! ふざけるなっ! なのはの笑顔はなのはのものだ! 誰のものでもない! ああ、僕の勝手な憧れなんてどうでもいい! 誰かの勝手な押し付けで高町なのはを決めつけていいわけがない! なのはの笑顔を曇らせていいわけがない! 『不屈のエース』!? 『希望の星』!? 違う! 高町なのはは『高町なのは』だ!」

 

 

 

 高町なのはは、高町なのは。不屈のエースでも、希望の星でもない。そんな余計なフィルターを通さず、高町なのは本人をまっすぐに捉えたクロノの叫び。それは、残骸としての『高町なのは』でさえもない。

 その中で必死に足掻いている、本当の高町なのはに、クロノは手を差し伸べてくれていた。

 

 

 

「高町なのはは――誰よりも眩しくて明るい笑顔で笑う、ただ1人の、女の子なんだ!」

 

 

 

 ダメ。その手を掴んではダメ。それではクロノを穢してしまう。高町恭也という背中を追うクロノを穢してしまう。もう追えなくなった、高町恭也の背中を穢してしまう『高町なのは』なんて、放っておいてくれればいいのに。もう届かない背中を、彼には目指してほしいのに。自分なんて、『高町なのは』なんて、もう道具でいいじゃないか。平和のためでも時空管理局のためでも。それだけでも充分過ぎるのだから。なのにどうして。どうして貴方は、そこまで……残骸如きに過ぎないもののために、どうしてそこまで……!

 

 

 

「高町なのはは、平和のための道具じゃない! 時空管理局の正義の人柱でもない! その笑顔を奪う権利は、誰であろうとありはしない! たった1人の女の子の幸せも笑顔も奪わなければ成り立たないような平和などクソくらえだ! そんな世界なら、そんな組織なら、さっさと滅びてしまえ!」

 

 

 

 涙を、流していた。

 『高町なのは』がではない。その心の中に燻る高町なのはの想いが、心が、震えている。

 伸ばされた手を掴むことさえ忘れてしまうほどの強い想いに、高町なのはが震えている。恐怖ではない。孤独からではない。

 愚直なほどに、ただ真っ直ぐに。

 かつて高町なのはがそうであったように。

 クロノ・ハラオウンは、高町なのはを、見てくれていた。

 彼の目に映る『高町なのは』でさえも、残骸ではなく、高町なのはとして見てくれている。

 嬉しい。嬉しいのだ。

 けれど。でも。

 喜んでいい資格は……ないから。

 

「…………帰って」

 

 溢れそうなソレを必死に堪えて。

 強情で、素直になれない『高町なのは』は、それを抑え込んで。

 

「……帰って。今は……クロノくんの顔、見たくない」

「……そうか」

「――帰ってよ!」

「……わかった」

 

 最後まで謝ることはなく、クロノは踵を返して出て行った。その背中に、ヴィータが許さないと吠えている。そして恭也はなのはを見ていたが、ややあってクロノの後を追うように出て行って。

 

「ちくしょう……何なんだよ、クロノの野郎……!」

 

 ヴィータが恨めしそうに呟いている。拳を震わせて。

 本当に、何だと言うのだろうか。

 クロノも、そして……この溢れそうなものも。

 

 

 

 

 

「なのは」

 

 病室に戻ってきた恭也が、ヴィータに少し2人にしてもらえないかと頼み、渋々ながら出ていくヴィータを見送ってから、ゆっくりとなのはに話しかけた。

 

「…………」

 

 言葉は返せない。『おにーちゃん』と呼ぶことはできない。

 つまらない意地のせいでもある。

 でも今は、それ以上に。

 今にも頬を伝いそうなほどに、ソレが溢れそうだから。口を開けば、顔を上げれば、微動だにすれば、ただそれだけで。

 

「――この馬鹿者」

 

 いきなりだった。

 いきなり、体が引き寄せられ、次の瞬間には温かくて大きい何かに抱え込まれていた。

 何か、なんて本当に馬鹿げた疑問。

 よく知っている。この大きさを。この温かさを。この優しさを。この頼もしさを。いつだって、これらに包まれてきたのだ。

 恭也に、抱きしめられている。

 

「……やめて」

 

 昔からそうだった。

 なのはは強情なところがあって。迷惑をかけてはいけないと、忙しい父や母を見て自制を覚えていたから、それは当然ながら兄や姉にとて同じことで。後になのはの方から恭也に抱きしめてもらいに行っていたが、最初は恭也に対しても自制をしていた。

 そんなとき、いつも恭也の方から、なのはを抱きしめてくれて。

 

「やめてよ……!」

 

 そら見たことか。頬を伝う感触。ずっと我慢していたのに。やめてって言ってるのに。

 

「やめてよ…………おにーちゃん」

 

 呼んでしまうじゃないか。ずっと呼びたかったから。

 この人の前では、自分は隠し通せた試しがないから。頑張って頑張って頑張って、踏ん張って踏ん張って踏ん張って、必死で堪えてきたのに。

 大きくて優しくて温かくて頼りになる、この安らぎに包まれてしまったら。それら一切合財なぞ、簡単に吹き飛ばされてしまうじゃないか。

 

「ようやく、呼んでくれたな、この強情娘め」

「~~~~っ!」

 

 叩く。大きなその胸を。鍛えられた、固い胸だ。母の柔らかさに比べると抱かれ心地はそれほどよくないのだけれど。でも誰より何より、安心できる。いや、待て。安心していてどうする。こんな残骸に成り果てた身で、この人を穢してはならないだろうに。だから叩く。離してと。

 けれど抱きしめる力はより強くなるばかりで。

 

「ダメだよ……離して。離してよ、おにーちゃん……こんな私、放っておいてよ!」

 

 そうでないと、クロノが目指す背中が、穢れてしまうから。残骸如きが穢していい背中ではないのだから。

 すると、抱きしめる力がさらに強くなった。ちょっと痛い。苦しい。

 

「お、おにーちゃん……!」

「言ったはずだぞ、なのは」

「……え?」

「これ以上自分を貶めるなと、そう言ったはずだ。忘れたのか?」

 

 ああ、怒っている。これ以上ないほど、兄が怒っている。高町なのはだろうが『高町なのは』だろうが、今ばかりはわかる。

 

――『その言葉、そっくり返すぞ、なのは。これ以上自分を貶めるな。俺の大事な妹が自分自身を貶めている。これほど歯痒いことはない』

 

 あの日、事故に遭う直前に話したときのことが蘇る。

 

「憶えてるよ……忘れるわけない」

「ならば同じことを言わせるな」

「だって!」

 

 もう一度、恭也の胸を叩く。そして拳を解き、そのまま恭也の服を強く掴んで。

 

「私、おにーちゃんを裏切った! おにーちゃんの気持ちを踏み躙った! おにーちゃんの誠意を仇で返した!」

 

 だから許されるわけがない。許されていいわけがない。こんな温もりを、与えられていいわけがない。

 

 

 

「私は、おにーちゃんに、泥を塗ったんだ!」

 

 

 

 大好きな姿。追い続けた背中。憧れてやまない高町恭也という兄。そんな存在に、高町なのはは応えられず、応えられないどころか裏切ったのだ。なのはには同じ道を辿ってほしくないという想いに、真っ向から泥を塗った。泥を投げつけたのだ。それは絶対に許されることではない。

 

「だから……だから、こんな穢い私なんて、構わないで。もう、これ以上……おにーちゃんを穢したくない」

「馬鹿者が……!」

 

 けれど。恭也が話すことなど絶対にない。

 

「美由希といい、なのはといい、どうしてお前たちは俺をそこまで買い被る! 俺の妹たちは揃いも揃って、どうしてこう無茶ばかりする!」

「え……?」

 

 どうしてそこで、美由希が出てくるのだろうか。なのはにはわからなかった。

 ただ、抱きしめられていて恭也の顔は見えないのだけれど、恭也の声には怒りに混じって悲しみの色があった。もしかして、泣いているのだろうか。この人が、涙を流しているのだろうか。冷血漢だなんて思ったことは一度とてないけれど、なのはは恭也が泣いているところなど見たことがない。もし泣いているのだとしたら、自分が兄を泣かせてしまったのだろうか。

 だとしたら、それはとても悲しい。この人が泣いているのなら、何としてでも助けたい。自分がそうしておいて何を言っているかというものだが。

 

「……膝を壊して完治は無理だと言われていた俺にとって、御神の剣士としての完成はない。だから俺は、美由希を御神の剣士として育てることがせめてもの願いだった」

 

 抱き締めたまま、恭也は教えてくれた。

 身体に無理をさせて膝を壊してしまったからこそ、恭也は美由希にはそんなことをさせないよう、大事に大事に、美由希を育てた。無理をさせず、美由希に一番いい鍛錬メニューを組んで。剣のみならず、専門書を読み漁り、苦手な勉強も美由希のためならばと進んで学んだ。

 美由希は感謝した。そんな兄の、師匠の想いを、美由希がわからないはずがないのだから。

 なのはも思い出す。

 

――『どんなに強くなっても、仮に追い越すことができたとしても、恭ちゃんが私の師匠であることはずっと変わらない』

 

 恭也に向ける、絶対の信頼。

 そんな美由希も、恭也に対して申し訳ないという気持ちを持っていた。いくら膝を壊したと言っても、恭也とて御神の剣士である。完成できないと知っても、恭也が御神の剣士としての頂きを諦められないことなど、美由希には察しがついていた。だから、自分のためだけに恭也を縛り付けておくわけにはいかないと。そう考えた美由希は、1人で自主訓練を始めた。恭也の組んだメニューとは別に、なのはがそうしていたように、無理を押し始めたのだ。オーバーワークで体はボロボロ。手は豆が潰れ、さらにそこから豆ができているほどで、刀を握っていた方が痛くないと言うほどで。何とか医師の下に連れて行って絶対安静だと言われてもなお、恭也の目を盗んで自己鍛錬に明け暮れて。

 

――『私は、守られて、見守られているだけの子供じゃないよ』

 

――『私は平気。壊れたりしないし、自分の身体のこと、ちゃんとわかってる』

 

――『大丈夫だから……もう、ちっちゃな子供扱いしないで!』

 

――『私は、1人で平気だから……恭ちゃんに、もうこれ以上、迷惑かけないから。もう何も、捨てさせないから』

 

 恭也が負った膝の怪我は自分のせいだと、美由希は思い込んだ。自分たちが弱かったから、自分たちを守ろうとして、恭也は無理をして。なのに恭也は諦めきれない思いに蓋をしてまで自分を育てるために時間を使っている。だから無理をしてでも強くなり、恭也の庇護下に甘んじるなと自身に言い聞かせた。

 

「おねーちゃん……」

 

 その記憶はなのはにもあった。詳しいことを当時は教えてもらえなかったけれど、一時期、美由希が1人で何かをしていた時期があった。恭也も士郎も桃子もピリピリしていて。きっと、そのときなのだろう。

 そして今のなのはには美由希の気持ちがよく分かった。

 

「だがそれは思い違いだ」

「思い違い?」

「そうだ。俺は美由希を育てることを重荷に思ったことはないし、むしろ楽しみだった。覚えが悪かったが、一度覚えたことは忘れない。だんだん完成に近づいていく美由希を、期待に応えてくれる美由希を、俺よりも誰よりも強くなっていく美由希を見たかった。楽しかったんだ」

 

 それから美由希は恭也の本心を知り、恭也の言いつけを再び守るようになった。無理をしない範囲で今まで以上に集中し、余計な気兼ねがなくなった分、まるで押さえつけられていたものから解放されたように、急激に成長していく。恭也も士郎も驚くほどに。

 

――『どんなに強くなっても、仮に追い越すことができたとしても、恭ちゃんが私の師匠であることはずっと変わらない』

 

 その信頼の理由を、なのははこの上なく理解できた。

 剣だけではなく。心でも、在り方でも。美由希にとって、恭也は常に追い続ける背中なのだろう。なのはにとってもクロノにとってもそうであるように。

 

「なのは。お前は美由希と違って手間のかからない妹だと思っていたが撤回だ。お前も充分に手間がかかることこの上ない」

「う……」

「俺の背中を追うのは薦められないがな。追うのなら、憧れるだけじゃなく、理解するように努めてくれ」

「理解……?」

「そうだ。美由希にしてもなのはにしても、俺という人間を勘違いしている。美化しすぎだ。本来の俺は、もっと泥臭い、不器用で下手くそな人間だ。挙句の果てには、クロノがきっかけを作ってくれなければ、どうしたらいいのかわからなかったほどのな。本当に、クロノにはどう礼を言っていいものかわからん」

 

 きつい抱擁から解放されて恐る恐る見上げるなのはに、恭也は微笑みかけた。なのはの大好きな、恭也の微笑。

 

「美由希はかろうじて止められたが……なのはは止められなかった。そら、不器用で下手くそそのものだろう?」

「ち、違うよ! これは、私が悪いだけで……!」

「俺のようにならないでほしかった。こんなところまで俺と一緒にならないでほしかった。その意味では、お前は美由希以上の馬鹿者だ」

「うぅ……」

 

 言葉もない。ぐうの音も出ない。そんななのはの頭に、恭也は手を乗せて撫でた。ごつごつとした手。でもなのはにとっては大好きな感触。

 

「美由希もなのはも、俺にとっては大事な妹だ。手のかかる、守りたい存在だ。たったそれだけのことだ。泥を投げつけられたなどと思っていないが、仮にそうだとして、たかが一度投げつけられた程度で兄をやめるほど、俺は軽々しい気持ちでお前の兄をしているつもりはないぞ?」

「……おにー、ちゃん」

 

――どうした、なのは?

 

 いつものように。なのはの呼びかけに応じてくれる。

 憧れは、今でもある。もう目指すことはできないと思い込んだ。嫌われても仕方がないと。今度こそ失望されても仕方がないと。

 ああ、でも。確かに。

 本当に、わかっていなかったのかもしれない。

 この兄の、愛情を。どれだけ自分を大切にしてくれているかということを。

 

「俺はな、なのは。お前には本当に感謝しているんだ」

「え?」

 

 何のことだろうか。なのはは首を傾げる。泥を投げつけても、その背中を穢しても、それでもなお、兄として守ってくれるほどの想い。そんな人に感謝されるほどのことなど、身に覚えがない。

 

「この前の話、憶えているか? 怪我をした俺に、お前が縋りついて『おにーちゃんの馬鹿』と大泣きしてくれたことだ」

「憶えてるけど……」

 

 それのいったいどこに、感謝される要因があるというのだろうか。

 すると恭也は困ったように笑った。それはそうだろう。恭也からすればそれだけのことだったのだ。それを成した本人は無意識で憶えてもいない。自覚もないのだから。

 

「俺は、馬鹿な思い違いをしていた」

 

 美由希となのはが恭也に対して思い違いをしていたように。恭也もまた、当時、美由希やなのはのことをきちんとわかっていなかった。

 家族が、無理無茶無謀を重ねる自分をとにかく心配していた。不安に思ってくれていた。もうやめてと声をかけてもやめず、注意しても強情を張り続けた。

 心配されるのは弱いから。不安に思わせてしまうのは弱いから。注意されるのは弱いから。だから強くならなければならない。

 それは、とんでもない思い違いだ。桃子も美由希もなのはも、恭也の強さだけを見ていたわけではない。恭也という存在がいてくれること自体に意味があり、強いか弱いかなんて二の次なのだ。いや、むしろどっちでも構わない。ただ家族として寄り添い、助け合っていくことこそが大事だったのだ。

 

「それを理解させてくれたのが、かーさんであり、美由希であり、そしてなのは、お前だった」

「…………」

「幼いお前が、俺のために、泣いてくれた。お前を泣かせてしまったことは後悔しているし、つらかったがな。だが同時に、本当に嬉しかったんだ」

「おにーちゃん……!」

「ありがとう、なのは」

「っ!」

 

 今更ながらに気づいた。やはり、恭也は泣いていたのだろう。目が赤い。涙こそ流していないが、恭也は泣いている。

 

「あのとき、俺のために泣いてくれて、本当にありがとうな」

 

 だからなのはも、もう我慢しない。

 

「生きていてくれて、本当によかった」

 

 その胸に、今度は自分から飛び込んだ。

 

「痛かっただろう……つらかっただろう……泣きたかっただろう」

 

 そうすれば、今度は優しく抱きしめてくれて。

 

「よくここまで、この苦しみに耐えたな。本当にお前は強い子だ。俺などより、お前はずっと強い」

 

 それは違うと頭を振る。強いのはおにーちゃん。私はその強さをずっと見てきた。だから憧れて。そう在ろうとしただけ。

 

「もう、我慢しなくていい」

 

 そうだ。この強い人でさえ泣いているのだ。だったら、泣いたっていい。もう……いいんだ。

 

「どこまで行っても、どんなになっても、お前は俺の妹だ。手のかかる、目を離せない、大事な大事な、俺の妹だ」

 

 高町なのはだろうと『高町なのは』だろうと。すべて高町恭也の妹だから。だから。

 

「おにーちゃん……!」

「ああ、どうした、なのは? お前の兄は、ここにいるぞ?」

 

 今はただ、この人の胸で、泣きたい。

 

「おかえり、なのは」

 

 ずっと1人で。『周囲』と戦い、『自分自身』と戦い。疲れ果てて傷ついて。

 ようやく帰ってきた妹を、兄は優しく出迎える。

 その優しさに、なのはは『ただいま、おにーちゃん!』と言いたかったのだけれど。こみ上がってきた涙と嗚咽は、もはや限界で。

 

「――おにーちゃああああああああああああああああああああん!」

 

 今まで呼べなかった分。泣けなかった分。つらかった分。悲しかった分。他の一切合財の分。そのすべてをぶつけるように。

 なのはは、恭也の胸で、孤独に泣いたあの夜以来、初めて涙を流した。

 かつて怪我をした恭也に、幼いなのはが縋りついて大泣きしたときのように……。

 

 

 

 

 

 この日。

 『みんなの笑顔を守りたい』と、兄がいなくなって以来、迷走しながらも1人で戦い続けてきた少女は。

 ようやく、原点を思い出し、兄の下へと、帰ってきたのであった。

 

 

 

 

 

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