時空管理局本局の艦船発着場は昼夜の区別なく艦船が出入りする。時空管理局保有の艦船が増えると共に民間人や業者の船舶も出入りするため、管理世界が増えるとともに発着量は年々増加する一途で、発着施設の整備が間に合っていないのが実情。ゆえに出入りのために本局そばで停止して数時間待たされるなんてこともしばしば。艦船や機体の発着を管制するのは一括して本局武装隊の一隊である本局防衛隊が担う。次元航行隊と本局防衛隊管制隊のいざこざは悩みの種の1つである。
3ヶ月の試験航海を終えて帰投した『アースラ』。運悪く本局目前で1時間ほど待たされ、ようやく艦船発着場に入港した。
「やれやれじゃな」
「お疲れ様でした、エイギル艦長」
副長として初の任務を終えて無事に帰還。クロノも座席に深くもたれて息をついていたが、艦橋後部中央に座すランバート・エイギル中将に対し、最後まで気を抜くなと自分に戒めて立ち上がり敬礼を。老将も疲れているだろうが、退艦準備が済んで艦橋から出ていくアレックスやランディ、エイミィたち1人1人にも敬礼し、最後にクロノにも応じた。
「総評かの?」
「頂けるのであれば」
疲れている老将に今頼みこむつもりはなかった。そこまで気がつかないほど周りが見えないわけではない。
と言うより、気づきの足りなさをこの3ヶ月の間、トコトン絞られたと言うのが正しい。執務官としてのキャリアはあっても、次元航行隊とはやはり違う。艦に乗って見ていたつもりだったが、所詮つもりはつもり。エイミィたちの前で叱られたことも数えきれない。
「精進あるのみ、じゃな」
「……及第点にも達しませんでしたか」
「馬鹿者!」
また怒鳴られてしまった。クロノは老将とは思えない気迫に直立不動になる。
さすがはランバート・エイギル中将。ラルゴ・キール栄誉元帥が『次元航行隊第二艦隊群』司令であった頃、副司令を務め、ラルゴが退いた後は司令を務めた名将である。『伝説の3提督』と呼ばれたラルゴの後釜になったのだから、常にラルゴと比べられただろう。それを見事にプレッシャーに打ち勝って『第二艦隊群』の名を一代で終わらせず、その後の『花形』として地位を不動のものにした経歴を持つ。魔法の資質はまるでなかったが、この魔法至上主義の中で魔導師でないながら中将まで上り詰めた名将を一巡航艦の艦長にするなど、本来ならばあり得ない人事である。
「キール元帥閣下がずいぶん気に入っておるからどんなものかと思うておったが、まだまだ尻の青い子供よの。おぬし、今回の航海で何度艦を沈めた?」
「……12回です」
「そうじゃ。この『アースラ』のクルーは何人おる?」
「124名です」
「延べ合計で?」
「1488名になります」
「加えてL級巡航艦12隻の喪失。どのくらいの損失かわかるか?」
「……辺境の国家のいくつかが破綻するでしょう」
「そうじゃ。これがおぬしが出した犠牲者と損害の数じゃ。及第点をもらえるとでも思うのかの?」
「……申し訳ありません」
はっきりと数を言わされ、クロノはその数に恐ろしくなる。
今までも執務官として最大で大隊クラスを指揮したことはある。死傷者を出してしまったこともある。だがここまでの被害はなかった。
改めて執務官と艦長では責任の重さも率いるものも違うことを痛感する。
「明朝0900時。艦長室に出頭せよ、ハラオウン副長」
「了解いたしました」
「よろしい。退艦を許可する」
「はっ!」
クロノは落ち込んでいる暇すら与えられない。すぐに退艦準備を行い、再度敬礼をしてから艦橋を後にする。帰って今回の航海の失敗を反省して分析しなければ。明日その辺を突かれて答えられなかったら、今度こそ落第を食らいかねない。
「……くそっ」
歯を食いしばりながら、クロノは足早に『アースラ』の通路を歩いていった。
さて、と艦橋に1人残ったランバート・エイギル中将。回線を本局のとある場所に繋ぐ。
『はい、こちら本局武装総隊司令部――これはエイギル中将! お疲れ様であります』
「うむ。キール元帥閣下はおられるかの?」
『直ちにお繋ぎいたします』
顔を知られた身なのでいちいち名乗らずに済む。疲れた身としては言わずとも察してくれる交換手には感謝したい。クロノにもそのくらいはできるようになってほしいものである。
しばらくして画面に目的の人物が表示された。ランバートは立ち上がって敬礼。文句1つ付けようもないほどの敬礼には、その人物への変わらぬ敬意がありありと見て取れる。
『おお、今日が帰投の日であったか』
「は。閣下」
『かったいのう、おぬしは相変わらず。ちいとは気を抜かんか。そんなことではクルーの気が休まらん』
「普段はもうちょっと気を抜いておるのですが、性分ですかな」
『馬鹿もん! おぬしに任せたひよっ子どもがそれで何人泣きを見たと思っておるんじゃ! 性分で済ますでないわ! 精進せい!』
「失礼いたしました、閣下!」
これで誰かが残っていたら、先ほどクロノに怒鳴っていた人物と同じとは思えずに唖然としていたかもしれない。
老将になってもより上の老将には怒鳴られる。ランバートとて最前線からは下がったものの、精進は続く日々である。とは言え、教育係を任された以上、教え子にこんな姿を見られるのはやはり立場というものがある。1人残ったのはそういうことだ。
『まったく生真面目な奴じゃ。おぬしそんな調子でハラオウンの小僧を一人前にできるんじゃろうな?』
それを言われると厳しいランバートである。
言い訳になるから言わないが、ランバートはこれまで後進育成などしたことがない。ずっと現役で張って指揮をし続けていたのだ。後方に下がって若手に教えるというのは、正直なところ合わない。本来ならランバートは最前線を下がるとともに管理局自体から退官するつもりであったのだ。そこをラルゴに引き止められて今に至るというわけで。
「私も歳ですかな。どうにもあの小僧は私に似すぎていて、ついつい私情が入ると申しますか」
『似ておるからおぬしに任せたんじゃがの』
そんなこったろうと思いましたと言いたいところをぐっと耐えるランバートである。
尊敬するラルゴ・キール武装隊栄誉元帥閣下。問題点があるとすれば、何かと自分が前に出ようとすることと、もう1つは人選が下手くそというところである。レオーネ・フィリスはその点完璧だったのだが。『伝説の3提督』と言えどすべてにおいてパーフェクト、とはいかないらしい。
『で、どうじゃった?』
今回の航海中、データは常に秘匿暗号通信で送っているから、今更聞く必要のないことだ。それでも聞いてくるのは、要するにランバート個人の意見を聞きたいということなのは明らかだった。
「まあ、ギリギリ及第点でしょうな」
『ふむ。おぬしがそう言うということは合格か。そうかそうか。結構結構』
「…………」
もう1つ問題点があった。
元帥閣下は人をからかうのがお好きだ。それも真面目な相手を。
ランバートは副司令時代にからかわれまくったことを思い出し、今後も絶対にこんな姿はクルーたち、特にクロノには見せられないと強く思った。
『おぬし、厳しすぎじゃろ』
「このような航海計画を立てた閣下には言われとうございませんな」
分厚い航海計画書を手にして見せるランバートに、通信先のラルゴはニヤリと笑う。黙っているので先を促しているのだろうと受け取り、ランバートは航海計画書を横に置き、データ上でいくつか今回の航海中の訓練を表示させる。
「少なくとも一巡航艦に課す航海計画や訓練ではございますまい」
巡航艦はあくまで警備艦隊所属。艦隊戦など艦船の戦闘能力が物を言う戦闘や、強力な艦船の砲撃支援を必要とするような任務は警備艦隊と対を為す主力艦隊の領分である。
敵砲撃からの回避訓練。魔導師上陸の支援砲撃訓練。巡航艦とて場合によってはそういう事態に遭うことは考えられるだけに訓練自体は行うが、敵が明らかに艦隊を率いていたり、仮想敵国への上陸作戦だの、想定がすでに警備艦隊の範疇ではない。日本で言えば海上保安庁の巡視船で巡洋艦や駆逐艦のような軍艦に対応せよというようなもの。
クロノを強く責めはしたが、決して今回の失敗はクロノ1人のせいではない。アレックスやランディ、エイミィたちクルーの実力不足も大きい。彼らとて『アースラ』の立派なクルー。功績も素晴らしいものがある。しかし彼らはあくまで警備艦隊所属であり、巡航艦のクルーなのだ。
「閣下はあの小僧を『第二艦隊群』の司令官にするおつもりですか?」
『おう、そうじゃ。今のところはまだ候補の1人というところじゃがな』
やはりかとランバートは溜息を吐く。
そう。今回のクロノに課した航海計画は、主力艦隊の長期訓練と同等なのである。しかも『花形』と呼ばれる『第二艦隊群』の精鋭たちに課すレベルと。
だからランバートもそのように対応したまで。警備艦隊や巡航艦レベルの仕込みでいいならこんなハードな訓練など課さないし、あらかじめ問い合わせた。
『現状、上を目指すのであれば、やはり警備艦隊より主力艦隊の方が出世コースに乗せやすいからのう』
「ハラオウン総務統括官は警備艦隊の出なれど出世なされましたが」
『時間がない。彼女は有能じゃが、彼女と同じ年齢になるまで小僧を待つのはわしらが無理じゃ』
「お戯れを。閣下ならば100を越えてもお元気でしょうに」
『やかましいわ、ランバート。生きることはできてもいつまでも局に留まることは不可能じゃ。と言うより、わしらは本来なら隠居すべきなんじゃ。『伝説の3提督』なぞ、本来ならばもはや無用の長物よ』
老兵は死せずという言葉もあるが、老兵がいつまでも留まっていては組織の若返りも刷新もない。ランバートもそこは賛成であった。
第一、いつまでも留まっていてはそれこそ最高評議会の3人と変わらない。『老害』とならないうちに、老兵は死せずとも下がるべきなのである。
『12回か。はっはっは。ようもこんだけ死んだもんじゃ』
「笑いごとではありますまい」
『ほう。そういうおぬしは指揮官としての初航海で何回死んだんじゃったかのう?』
「…………」
『ほれ、何ぞ黙っとるんじゃ? 忘れたと言うならわしが教えてやるぞ? 15回じゃ15回』
「12回です閣下……!」
『お? そうじゃったか?――おおそうか。15回はわしじゃったわ! だっはっはっはっは! いかんいかん、歳かのう?』
何がそこまで面白いのか。心底愉快そうに笑う敬愛する元帥閣下に、ランバートは若い頃のように頭を抱える。
いくら仮想の訓練上での撃沈数や犠牲者数とは言え、その重みを少しでも痛感してくれなければ困る。上官となればなるほど従える兵や武装の質も量も増えるから、1人1人の死にいちいち反応していられなくなるときは必ずやってくるし、兵の死を数字で多い少ないと判断せざるを得ないことも増えるだろう。
だがしかし。自らの指揮命令の下、傷つき死ぬ部下がいるということは、常に忘れないでほしい。
人間は慣れる生き物だから。人の死にも慣れ、数が多いと感覚がマヒしてしまう。恐ろしいという感覚は絶対に忘れないでほしい。
同時に、その重さに抗える強さもまた身に着けてほしい。そうでなければ耐えられない。幾人もそうして辞めていく者の背中を見送ってきただけに、ランバートはこの椅子に座る者としてこの2つは必ず伝えたかった。
『笑いごとではない。そうじゃな、笑って済まして良いことではない。じゃが訓練は訓練。何度死んでもよい。そこから学び這い上がり、次に活かしてくれればのう』
「そうして死ぬ回数を減らしていき、ゼロにできれば良い、ですかな」
『理想はのう』
「そうですな」
伝説の3提督と呼ばれるラルゴや名将と名高いランバートでさえゼロにできたことはない。
『第二艦隊群』の訓練はやはりハードで、あらゆる事態を想定して訓練する。しかしどれほどの事態を想定して訓練しても、実戦では思いもつかない流れになることなど当たり前に起こる。訓練でどれだけいい成果を挙げようと、実戦と訓練は違うのだ。
だからと言って訓練を疎かにすれば、ますます実戦での勝利も生存もない。そのジレンマと戦い抜く根性は必須である。精神論だけでは生きられないが、精神論なしでも生きられない。指揮官として采配の難しいところである。
『さて翻って考えてみて。おぬしはわしの課した以上の訓練に変えよったの。それで12回。おぬしと同じ死亡回数じゃが、見込みはある、ということでよいのじゃな?』
「……当時の私より難易度の高い訓練を課されておきながら私と同じ回数で済んでいるのです。少なくとも当時の私よりかはあると言わざるを得んでしょう」
『ふふふ。はっはっはっはっは! 認めたな、ランバート! ふはははは! そうか! わしの懐刀に認めさせおったか、あの小僧!』
先ほどから愉快なのは自身の記録もランバートの記録さえも抜かして見せたからか。最初の航海で。
からかいはすれど気に入っている相手だからこそであり、人をすぐ好きになるこの老将をランバートが敬愛する理由の1つであった。ランバート自身は疑り深くて人をなかなか信用できない性分だけに。
「閣下。1つお尋ねしてもよろしいでしょうかな?」
『何じゃ?』
「閣下があの小僧を気に入っておられるのはようわかりました。しかし閣下は何を以ってあの小僧をそこまで気に入られたのです?」
ラルゴにレオーネにミゼット。伝説の3提督を気に入らせたクロノ・ハラオウンという少年。彼が何を成したのかは聞いている。ランバートも最高評議会のことを知り、ラルゴたち3提督側につく存在だ。気に入る理由はわからないでもない。見上げた根性、見事な気概、そして見合うだけの成果も上げた。ランバートも他の同朋たちも大したものだと思っている。
だがラルゴの気に入りようはかなりのものだ。彼の副官を長く続けた経験が、ラルゴの気に入りようがこれまでの比ではないと訴えており、ランバートはその理由が知りたい。
するとランバートの問いに、ラルゴはよくぞ聞いてくれたと言わんばかりに頷いた。
『ランバートよ。わしもおぬしも、守るべきものがある』
「はい」
『わしはそのためになら命を賭ける覚悟じゃ。おぬしもそうであろう?』
「如何にも」
『あの小僧もそうじゃ。じゃがの、あの小僧はそれだけでは終わらんかったのよ』
「と申されますと?」
『ミゼットから聞いた言葉なんじゃがの――』
――『守るべき人を守るだけではなく、自分もまた生き残り、その人の下へ帰ること』
クロノが恭也から出されていた問いに返した、クロノなりの答え。
命を賭けて挑み、結果を出しはしたがもう少しで死ぬところだった。間一髪命を拾って生還し、遅くはあったが導き出した答えだ。
「……なるほど」
納得する。ランバート自身、納得させられる一言であった。この歳になって、まさか20にも満たぬ若者に教えられることになろうとは。
そう言えばとふと思い出す。
クロノはランバートから数字を問われ、迷うことなくすぐに弾き出していた。その場で即座に計算して弾き出したと思っていたが、もしあれがあらかじめ出していたのであれば。クロノは最初から犠牲の数も損失も計算した上で反省していたということになる。
加えてクロノの言葉通りなら。クロノは自らが守るべき者の下へ帰れない結果を12回も味わわされ、悔しがったのではないだろうか。
ランバートとて数は自分で出していたことはある。だがその犠牲者の数の中に、自分を入れていただろうか。死んだ部下の数は入れて力不足を嘆くことはあっても、自分を数に入れていただろうか。
ランバートは艦橋出入口の扉へと椅子ごと振り向く。扉が閉まる前に微かに聞こえた悪態。若いなと思っていたのだが……。
「……私の目もまだまだ精進でありますな」
『若い者には負けておれんぞ、ランバート』
「ですな。前途ある若者を駒としてしか見れぬような
『そうじゃ。老兵は静かに下がるべきじゃが、前途ある若者を立派に育てる義務を放って下がるは無責任というものじゃて。ランバートよ、老骨に鞭打ってもうちょいと力を貸してくれい』
「私如きにまだ役に立てることがあるのであれば喜んで。私の経験のすべてをあの小僧に叩き込んでやりましょうぞ。まだまだ愚直すぎますからな。もっと狡猾に、もっとずる賢く、搦め手というものを教え込んでやりませんと。ふっふっふ……!」
『……ランバート。やり過ぎるでないぞ? 潰されても困るのじゃからな?』
「承知しておりますとも。ふふふふふ」
『……いかん。焚きつけすぎたかのう?』
ラルゴ・キール、不覚なり。そんな呟きも耳に入らず、名将ランバート・エイギルは次の訓練を考え始める。その目は現役時代の『第二艦隊群』司令を彷彿とさせるもので。
クロノの今後は、なかなかに厳しいものになりそうだった。
無限書庫の司書室は無限書庫内部にある。今までは総数6名という人数だから充分だったのだが、無限書庫の体勢立て直しが急ピッチで進む中、司書や運営事務員が増員され、現在は総数20名。これはあくまで増員計画の第一段であり、今後も第二第三と控えている。そうなれば現在の司書室では手狭になるため、無限書庫に併設する形で新たな司書室や事務室が作られることになった。
「無限書庫が本局下層にあるのが幸いしたな。今後増設する場合も中央ともなると区画整備などの問題でそうそうできん」
「あまり人が来ることがない下層なので、警戒もしやすくありますしね」
「うむ」
ユーノは新設中の工事状況を見ながら、横の人物と言葉を交わす。
老齢ながら背筋はピンと伸び、見た目にも厳しさが漂うその人物こそ、『伝説の3提督』の1人、レオーネ・フィリス法務顧問相談役である。
時空管理局本局は次元空間内に浮かぶ巨大な建造物。それゆえにスペースが限られている問題を抱えており、建設当初からかなり余裕を持った設計になっていたが、管理する次元世界の増加に伴う人員や部署の増加で手狭になってきている。必要のない部署や人員は削られる中、現時点では不要論が払拭しきれていない無限書庫関連施設の増設は認めさせるのにかなり無理を押した。本局下層という、あまり人が来ず、大した部署もないからこそという事情も多少の助けにはなっただろう。
無理を押せた理由にはもちろんこのレオーネの存在が大きい。以前クロノやヴェロッサと今後について話をしていた時に出た、ユーノが若干ヤケになって言い放ったこと――『いっそ誰でもいいから上層部の人を1人でも連れてきて実際にやってもらえば?』という言葉が実現した形だ。
「しかし無限書庫司書の仕事があそこまで酷なものだったとは……やはり聞くと見る、そして実際にやってみるとではまるで違うな。恥ずかしい限りだ」
「そう言っていただけると報われます」
普通に会話を交わしてはいるが、ユーノの心中はダラダラと汗が出まくりである。なんたって相手は『伝説の3提督』。本来ならば放浪の一族の出でしかないユーノにとっては雲の上の御方である。
確かに上の人間を連れてきてやってみればいいんだとは言った。しかしユーノはここまでのつもりなどなかったのだ。せいぜい態度がひどかった情報部長や無限書庫を敵視する古代遺物管理部機動部隊の部隊長くらいで考えていた。
ヴェロッサはユーノが思っていた以上に優秀で交流関係も豊富だったようだ。幸いと言うべきか災いしたと言うべきか。言葉には気をつけようと思うユーノである。
「教育の方はどうかね?」
「新人については基本的に彼女に」
無限書庫内に戻ったユーノとレオーネは入口付近で浮きながら司書たちに説明をしている女性司書へと視線を向ける。アレニア・グレヴィッチ司書だ。
「僕が来る以前から無限書庫に務めていた彼女ですから。僕も積極的に関わりたいと思ってますので、毎日彼女と教育計画を練っています」
「ふむ。役割分担はしているようだな」
「はい。彼女は教育班のリーダーになってもらっています。それからあちらのフェンサー・フロッガー司書は整理班のリーダーを。そして2人を統括する主任司書にはパナヴィア・アエルマッキ司書を配置しました」
「整理班と言っても、現状は彼だけか」
「新人がいずれ彼の下に着く形になりますね。今のところは僕も整理に回ります」
「ロッキード・マーチン副司書長はどの業務を?」
「依頼への対処を。アエルマッキ主任司書と共に当たってもらっています。半分は僕に回してもらっていますが」
「探索はやはりできそうにないかね?」
「現状ではとても……ただどうしても依頼の中には整理できている分だけでは足りないケースもありますので、その際だけ行っています」
「探索に割く人員がいないのにかね? その場合は事情を伝えて断るか、わかる分だけでよいと通知しているはずだが」
「お言葉ですが、僕たちも情報を司る存在です。受けた以上、中途半端な仕事はできません。失敗すればそこに付け込まれることは経験済みですし。ですから探索せざるを得ないと判断した場合は行います」
「ふむ。その気構えは大変よろしい。しかしそうなると探索に当たる人員は?」
「僕になります」
「……では事務は足りているかね?」
「今のところは。クフィル・ネシェル事務局長が上手くやってくれています」
「依頼が来た場合の対応は事務が優先度や重要度の基準に従って担当司書を決めて割り振る決まりだったな。しかし先ほど彼から君がやっているとも聞いているが?」
「あ、はい。なにぶん基準そのものに問題がありまして。僕が直接当たっています。正直言うとこれが一番大変で、なかなか依頼元に納得いただけなくて説明に時間がかかっていまして。規定業務時間の半分はこれに取られている有様で本当に申し訳ありません」
「…………」
「あの、如何されましたか?」
「
「は、はい」
何だかだんだん眉間による皺が増えていく様子はユーノも気づいていたが、その理由がわからないままに説明を重ねていると。突然、まだまだ慣れない呼び方で呼ばれ、ユーノは厳しい視線を向けてくるレオーネを振り仰ぐ。
「今の説明を聞いている限り、君は書庫のあらゆる業務に携わっているようだが」
「はい。司書長の職を拝命した以上、あらゆる業務に携わることは当然かと思いまして」
当たり前のことを言ったつもりであるユーノ・スクライア司書長。
そう、1ヶ月前、ユーノは無限書庫の実質的な責任者として司書長に就任していた。
無限書庫は本局情報部に所属する一部署であることに変わりはない。書庫長は情報部長という扱いになり、情報部長から一任されて司書長が代行しているという形だ。
「……役割分担しているのではないのかね?」
「今申し上げました通りしています」
「ならば一任できるところはしたまえ」
「それでは皆さんの業務量が増えます。残業状況の改善が進みませんから……」
増員してもらっておいて何らの改善も進みません、では上は納得しない。増員してもらってもすぐに全員が無限書庫で充分に働けるわけではないし、教育という仕事も増えるという事情がある。そこが理解されていない。
加えて、司書の資格や事務員ならばすぐに対応できるだろうという無限書庫への誤った認識が未だ絶てていないことを示している。無限書庫という特殊な環境下における『司書』は、通常の司書では足りないのだ。
無限書庫は空間が複雑に入り組んでおり、空間の概念を理解できる知識が必要だ。結界が絡んでいると思われる以上、結界魔導師であれば尚よし。さらに無限書庫を空間の入り組む迷宮であると捉えれば『情報の埋もれる遺跡』ということである。探索する者には発掘の技術も欲しい。欲を言えば幅広いジャンルに対応できてほしい。何しろ科学・魔法・医療・教育・軍事・政治・経済・歴史などなど、無限書庫に存在する知識はあらゆる分野に亘るのだから。それを探し出して、そこにある情報をまとめるのだから、情報担当官としての面もある。そして魔導書の場合は呪われたものもあり、対応できる魔導師でなければならないし、危険な知識を伝える書物の場合は見れる者も限定せねばならない。
そんな人員を育てようと思えば短期間の司書研究で済むわけがないではないか。
後方の必要性を重視し、無限書庫にも理解が深いはずのレオーネにさえ『想像していたより酷』と言わしめる原因の1つは、まさにそこにある。
とは言えだ。それはそれ、これはこれ。
「私に上がってきた報告書では、効率は上がっているとなっていたが?」
「実際上がっているところは上がっていますから」
「管理職に当たる君は残業申請をする必要がなく、残業手当もつかない。だから問題ないとでも?」
「ええっと、その、何も隠そうとしているわけでは……」
しどろもどろになってしまうユーノ。実際にその通りなので弁解のしようがないのだ。管理職は管理職手当が付く代わりに残業手当は出ない。労務状況の改善は現在の無限書庫の優先度の高い課題。小さくてもある程度の成果は出さなればいけない。やむにやまれぬ対応だったが、今までの状況を考えればそれでもユーノとしては問題はなかったのだ。
「倒れていないから大丈夫などと考えてはいないかね?」
「…………」
実際、倒れてはいない。いないのだが。
いくら次元世界トップクラスの大学を飛び級で卒業した天才児と言えど、『伝説の3提督』の前にはまだまだ子供。小細工の類は通用しないということである。
レオーネの右のこめかみに青筋が立つのを捉え、ユーノは脂汗をかく。
「……はあ」
深い深い溜息1つ。そこに籠もるものは呆れであり情けなさでありと、いろんなものが混じっているようにユーノには思えた。
やはり自分は力不足なのか。頑張っているが、成果を求められるのが社会であり組織。もっと頑張らないととユーノは唇を引き結んでいたのだが。
「……まず着手すべきは意識改革であったか」
呟きにユーノはすぐに思考を巡らせる。意識改革。さてどんな意識の改革を図らねばならないのだろうか。職務への真面目さか、残業が当たり前という意識の改善か。でもこれは改善すべく働きかけているし、少なくとも新人にはそんな意識が根付かないよう、残業は現状のところユーノを含め古参の5人だけに抑えているし。
「スクライア司書長。近く時間は取れるかね?」
「あ、はい。1ヶ月ほど先でしたら」
「直近でどこか空けられんのか?」
「ええっと、それでしたら1週間後に何とかしますので如何でしょう?」
「どう何とかするのかね?」
「……前日のうちに再編計画の練り直しと僕が担当している依頼の片付け、問題基準の改善依頼を担当の古代遺物管理部にお願いして詰め合わせできればと。最後のは何度もお願いしているのですが先方がまったく対応してくれないので無駄に終わりそうですけど」
「君は司書の資格制度提案や禁書の扱いに関する意見、クレーム処理、諸々の最終決済までやっているのではなかったか?」
「あ、資格制度と禁書に関しては昨日のうちにできたので、よろしければ今お見せできます」
「……昨日は予算委員会への出席や人事課との折衝などでほぼ1日丸潰れのはずだが?」
「自宅で少々……」
「機密情報を自宅に持ち帰ってやっているのかね?」
「いえ、頭に叩き込んであるので」
「……君の記憶力と勤労意欲には誠に頭が下がるが、それは自宅で残業しているのと同じではないかね?」
あ、いけない。左のこめかみにも青筋が。
何かまずいことを言っちゃったかとユーノは焦る。時空管理局トップクラスの地位にある方が時間を取れないかと言うのだから、最優先で空けないといけなかっただろうか。しかしレオーネは厳しくも非常に話のわかる人物だから、無限書庫の忙しさにも理解があるはず。
「もうよい」
「え……あの、申し訳――」
「その問題基準の策定者は古代遺物管理部だな? これに関しては今後私が担当する。先方には私から伝えるゆえ、君は意見書だけ作成したまえ」
「……へ?」
意味を理解するのに10秒近くかかった。その間にレオーネは近くにいたクフィルに問題基準について教えてくれと言って資料をもらっていた。
「い、いえ、そんな!」
「気にせんでよい。君の懸念はわかっている。私が出てくると、無限書庫の司書たちが私に告げ口をしたのだと古代遺物管理部が無限書庫に対して変な嫌疑をかけてこないとも限らないということだろう?」
「……その通りです」
「ならばいつまで経っても改善しない状況に私が業を煮やしたということにすればよい。そうすれば私が無限書庫と古代遺物管理部の双方に対して苛立ったということにできる。まあ、君の対応も鈍いという扱いになってはしまうが」
「それは事実でもありますからいいんですけど……フィリス顧問も激務の中でいらっしゃるのに僕の仕事の肩代わりなんて」
「なに、君とそう変わらん」
「変わらないなら相当なはずです!」
「ほう。君は自身の業務量が相当なものという自覚があるのだな?」
「一般的に考えれば多い方かなあと……」
「明らかに多すぎだ、小童!」
「はい、すいません!」
無限書庫に響き渡る一喝に、無限書庫そのものが震えたように感じたのはきっと勘違いではない。ユーノはこんな大物を寄越してくれたヴェロッサと自分の軽はずみな言葉に恨み節を心中で唱えるのであった。
ユーノがレオーネにお叱りを受ける様を苦笑しながら司書たちは見ていた。新人たちはすわ『伝説の3提督』を怒らせたということもあり、完全に委縮している。自分たちのトップが怒られたとあれば部署全体が怒られているように感じても仕方がないだろう。
「これで少しはマシになりますかねえ」
「あの方に任せるのは少々気が引けたがな」
古参の司書たちに役職を与えたのはユーノである。これまで一律して司書でしかなかったため、これまでの功績に感謝してということだ。
副司書長に任命されたロッキードは、同じく事務局長に任命されたクフィルと2人でユーノとレオーネを離れた所から見守っていた。
「地位はもらっても私たちのやっていることは何ら変わっていませんからねえ」
教育班だの整理班だの、表面上は役割分担をしているように見える。しかし実際のところ、教育はアレニアに割く分、アレニアがしなければいけない依頼対応はユーノが引き受けており、彼女の業務量はそれまでとほぼ変わらない。ロッキードもクフィルもやっていることはまったく変わっていない。ただ待遇だけが良くなった。それだけならば古参の司書たちに文句などない。
再編に伴って業務はどうしても増える。依頼を抑えてもらっているとは言え、なくなるわけではないし、ある程度の成果を求められている以上、受けざるを得ないものも多い。
結局のところ、増えた分はすべてユーノがやっているだけ。もちろんロッキードやクフィルたちも無理にでも仕事をユーノから取ろうとしたのだが、役職が付いてしまったせいで上下関係が明らかになり、指揮命令に従わざるを得なくなって奪い難いのだ。
「彼の何でも自分がやらねばという意識を変えんとどうにもならんからな、あの責任感の強さからくる無茶は」
「半年ほど前までに比べれば、だいぶんマシになりましたが」
なのはの撃墜前から何度も倒れていたユーノ。なのはの撃墜から1ヶ月後の暴走まではさらに悪化していたけれど、それからはかなり改善した。
しかし3ヶ月前くらいだろうか。また少しユーノが無茶を押すようになった。ただ以前のように思いつめたような危うさはなく、ただ何かを忘れるように仕事に打ち込んでいるのだ。それとなくフェイトやはやてに確認したところ、なのはとの間で何かあったらしい。そこは年の功で読み取り、わからないでもないと見守るに留めていたのだ。
「こういうときはフェイトさんにお願いするのが一番なんですが……」
「どうにもな」
来る頻度はやや落ちたものの、フェイトは執務官試験の再受験に向けて勉強を再開しており、続けてユーノに教えてもらっている。ところがフェイトはフェイトでユーノに思うところがあるのか、以前より口数が減った。ユーノも変に思っているようだが、同じ女性であるアレニア司書とパナヴィア司書曰く、『今はそっとしておいてあげて』とのこと。そうなるとフェイトにもユーノを説得してくれとは頼みにくいのだ。いちおうフェイトもユーノのことは気にかけているようで、『大丈夫?』『無理はしないでね』と念を押してくれているようだが。
「こっちに一任してくれればいいんですけどね。例の問題基準にしても、割り振りは私たち事務がするべき仕事ですし、諸々の決済についても事務局長の私が最終決済者でいいものも多い。司書長だからと言って何でもかんでも関わればいいものではありません」
「部下に任すのも上司の役目だが……彼の場合、遠慮が過ぎて命令ができんのだろう」
人の上に立った経験が乏しいユーノ。確かにこれまでも実質的に再編の責任者のような立ち位置にあったが、いざ役職がついて人の上に立つと、途端に指示出しに遠慮が出始めた。生来、人に指示を出すなんて苦手なのだろう。
スクライア一族にいた頃にジュエルシード発掘の責任者をしたことがあるそうだが、ジュエルシードが地球に散らばってしまった一件で、責任感の強いユーノは1人回収に向かったくらいだ。責任者として失敗したと思い込んでいることも大きい。何につけても自分が関わり、一任すれば業務の押し付けになってしまわないか、無理をさせてしまうのではないか、指示が間違っていたら申し訳がないなどと考えてしまうのだろう。
だがそれでは困る。
これからますます忙しくなるのだ。今のうちに部下を信じて仕事を回し、あれをやれこれをやれと指揮命令ができるようにならねば、いつまでも経っても無限書庫は回らない。それにその場合、ユーノがいなくなった途端に無限書庫は回らなくなってしまう。
何よりユーノがまた倒れかねない。それはすべての司書が望んでいない。特にロッキードたち古参のメンバーは。
――『……何かね、この業務量は?』
――『司書長の抱える仕事です』
レオーネの抱える仕事は責任の重さも案件のジャンルも幅広い。無限書庫だけの仕事で済んでいるユーノとはわけが違う。
だからと言ってユーノの仕事量は少ないかと言われると、決してそんなことはない。ユーノの能力は闇の書事件以降の2年間で充分証明されている。そのユーノが仕事を溜めるということは余程である。
――『仕事ができ過ぎるというのも考えものだな』
処理できてしまうからこそまだやれると手を伸ばしてしまう。ユーノの能力の高さと責任感や義務感の強さが裏目に出るところである。倒れるほどの無茶はしないようになってくれたのだが、これ以上やれば倒れるという限界点を理解した分、ギリギリまでやろうとしてしまうのでタチが悪い。
「彼に物を教えられるほどの人は限られるからな」
「さすがにフィリス顧問が引き受けてくださるとは思いませんでしたが」
ロッキードたちがお願いしたのは教えることだ。ユーノの天才ぶりからするとすぐにできるようになってしまいそうだが、そうなればあくまで我流のやり方になる。ユーノの我流は当然、今のやり方だ。それを改善し、導ける『師』が必要なのだ。
ただユーノの師となれるほどの者は少ない。レオーネならばいい人物を紹介してくれるのではないかと思って持ちかけたに過ぎなかったのだが。
――『よかろう。この件は私が預かる。私の計画にハラオウンの小僧とスクライアの小童はもはや取り込んでいるのだ。今更潰れてもらっては困る』
有能な人材を逃してたまるものかと目をギラリと光らせたときは、本当に一線を退いた方なのかとロッキードもクフィルも身震いしたものだ。
「マーチン副司書長」
と、その人物から鋭い視線を向けられ、ロッキードも呼ばれていないクフィルも揃って背筋を立てて敬礼する。
「一週間後よりスクライア司書長の管理職研修を行う。とは言え、現状の無限書庫は彼が抜けると動かん。よって無限書庫を研修の場とする。君の業務が増えるが、スクライア司書長の持つ案件のうち、教育に関する業務については君が統括したまえ。報告や相談等は適宜行うように」
「承知いたしました」
「ネシェル事務局長」
「はい」
「依頼に関する苦情処理は事務方で君の責任の下、行いたまえ。トップを出せと言われた場合のみスクライア司書長に通せ。もしその必要がない、理不尽なものと君が判断した場合は君の方で処理して構わん。それと、最終決済業務についても事務方で処理できるものは君を最終決済者として処理していくように。処理に悩むものは私に聞いてくれればよい」
「かしこまりました」
てきぱきと指示命令を出すレオーネに、ロッキードとクフィルはさすがと思いつつさっそく仕事へと戻っていく。レオーネの後ろで申し訳なさそうにユーノが何度も頭を下げているが、2人とも笑って手を振って返した。
「さて、スクライア司書長。今日はもう下がって良い。案内、御苦労であった」
「え!? で、でも……」
「定時を迎えているのだから問題はない。それに今日は彼が帰投する日だろう? 友人の出迎えくらいはしてやれ」
「……お気遣い、ありがとうございます」
「――ああ、それと」
「はい」
「今日はもう戻ってこないように」
「…………はい」
やっぱり戻ってくる気だったのだな、と古参の司書のみならず、新人司書たちも揃って溜息を吐く。
がっくりと肩を落として帰る準備をするユーノを、新人司書たちが相当絞られたのだなと思って同情する中、ロッキードたち古参の司書たちはすべてわかっているがゆえに苦笑を浮かべ合っていた。
その後もレオーネは無限書庫で古参の司書たちにこれまでの労に感謝し、今後とも無限書庫の発展に尽力してほしいと頼み、新人司書にも無限書庫が如何に重要な部署なのかを説いて最初は苦しいと思うが耐えてほしいと伝えた。『伝説の3提督』にそう言われればテンションの上がる新人司書もいたが、さてどの程度残るかなとレオーネは溜息を吐く。半分残れば御の字だろう。教育計画を見ても、ユーノが相当手厚く大事に育てようとしていることは見て取れた。とは言え、優しすぎれば部下に舐められる。その点もユーノに教え込まねばならない。
「ふむ」
自身の執務室へ戻ってきたレオーネはユーノの研修を一通り組んでいく。
ふとそこで思い付いたことがあり、忘れかけていたことを歳だなと思いつつ通信を繋げた。いつもの如く、かけた先で通信に出た担当者が自身に驚き、慌てながら目的の人物へと繋ごうとする。落ちつきが足らんとレオーネが思いつつ待っていると、そう間を置かず、通信モニターが開いて『彼女』が映った。
『お待たせいたしました、フィリス顧問。ファーン・コラードです』
「忙しいところ、すまんな」
『お互い様でございましょう』
ミゼットのように上品に笑うファーン・コラード三等空佐。元戦技教導隊の教導官であるファーンがいるからこそミッドチルダ第4陸士訓練校は志願者が多いこともあり、学長であるファーン自らが実技でも座学でも相手や講師を務めている。学長なのだから訓練校の運営の方が中心になるのだが、それをこなしながら生徒との交流や講師も行う。ファーンの譲れないこだわりらしい。そういうところも好かれる理由なのだろう。
「さっそくで悪いが、仕事の話になる」
『はい』
「君が提出していた訓練計画の見直し案に関してだが」
『やはり無理でしたか?』
「無理というほどでは……いや、誤魔化すのはよそう。君の提案のほとんどは退けられた」
そうですか、とファーンはわかっていたと言いたげに目を閉じた。それでも落胆の色は隠せない。
ファーンが上げていた見直しとは、成績優秀者の短期卒業制度のことであった。要するに、なのはとフェイトがそうであったように、いくら成績が優秀だろうとたった3ヶ月で卒業させるという制度を廃止するよう訴えたのだ。なのはの撃墜ももちろんだが、他にも多くの卒業生が犠牲になっていることから、ファーンは以前からこの制度について強く反対の意思を表明している。
「ただでさえ魔導師が不足しており、この制度をより緩和して早期に前線配置するよう訴える一派もある。連中の反対を押し込めるのは私とミゼット、ラルゴを以ってしても難しくてな」
『お力添えいただけただけでもありがたく思います。お気になさらないでください』
レオーネもファーンも前線の意見がわからないわけではないのだ。
管理世界が増える一方で魔導師の数が足りず、魔導師1人にかかる負担は大きくなるばかり。死傷率が高止まりしており、前線は苦しんでいる。本局と地上の争いもこれに繋がっており、足りないからこそ本局は地上から戦力を引き抜き、地上は本局に対して怒る。
無限書庫の体制立て直しは事前情報の充実によるこれらの改善を期待してのものでもある。ファーンの見直し案についても同じだ。未熟な魔導師を未熟なままに前線に放り出しても死傷者をいたずらに増やすだけであると主張している。
「平和を謳っていながら、まるで戦時そのものよな」
皮肉にも追い込まれている者たちが行うような対応。戦時における訓練が不足している学徒動員や少年兵の動員そのものではないか。
拡張をしばらくの間止めればいいのだが、時空管理局の拡張行動は止まらない。
「ただ、3ヶ月のところを6ヶ月まで伸ばすことは何とか通した」
『まあ、2倍の期間に? それだけでもありがたいことです。またかなりのご無理を通されたのでは?』
「いや、これについては私は然程の根回しはしておらん。ハラオウンの小僧の策に少しばかり乗せてもらっただけだ」
肩を竦めておどけて見せると、察したのかファーンは口に手を添えて悪い御方と言いながら面白そうに肩を揺らした。
クロノがユーノの論文発表を利用して無限書庫の現状を局外に伝えた一件。無限書庫の待遇の悪さ、勤務状況の過酷さを伝えたわけだが、その際にレオーネは無限書庫のみならず、前線の魔導師たちの状況についても取材を回した。メディアに便宜を図りつつ、前線部隊の正直なところをメディアの前で語らせることで世に訴えた。一方で訓練校の実態にもメディアの目を回すことで、ファーンの訴えを知らしめたのである。
ちなみにクロノとユーノも承諾済みである。なのはの件があるので尚更だろう。あの論文はクロノとユーノが思う以上に最大限に使われていたのだ。ユーノとしては不満もあるだろうけれど。
『今後も根気よく訴え続けます。何卒ご支援を賜りますよう』
「よせ。クローベルの隠し手であった君にそこまでさせると私がクローベルの不興を買うではないか」
深々と頭を下げるファーンに、レオーネは手で制しながら眉間に皺を寄せる。
「それともう1つ。もう聞いているやもしれんが、スクライアの小童のことでな」
『ええ、連絡がありました。今日はこちらに来れそうにないと。どのみち今日くらいは休みなさいと言うつもりでしたし、来たところで寝かせるつもりでした』
やはりユーノの疲労については気づいていたようだ。無限書庫にも戻ってくるなと言い置いたことを伝えると、ファーンは一安心したように穏やかに笑った。
「驚いたぞ、あの小童が君に師事していようとは」
『私も受けるか迷いましたが、かなり熱心でありましたし、今後私たちと共に動くということであれば彼自身の身を守る術が必要でしょうから』
ユーノがファーンに魔法の手ほどきを願っていた。
聞いたのはたまたまに過ぎない。ミゼットから面白いことがありましたと、世間話のように聞いただけだ。
しかし今となっては聞いておいてよかったと思う。知っていたからこそ、今日無限書庫に訪れてユーノの話を聞いた際、そのハードワークぶりに物申すことができたのだから。もちろんファーンとの訓練がなかったとしてもあのハードワークぶりには言いたいことが山ほどある。あれだけをこなして、さらにファーンとの訓練などと、レオーネが怒鳴るのも当然というもの。ファーンもユーノの仕事内容を聞き、頭を抱えた。聞いてはいただろうが、ここまでとは思わなかったのだろう。ユーノのことだから過少報告していたことも充分考えられるし。
『まさかそこまでとは……申し訳ありません。今後の訓練を見直します』
「そうしてやってくれ。私も来週から小童の研修を行い、まずあやつの意識を変えることから行うつもりだ」
『フィリス顧問御自らですか? これはまた、ずいぶんお気に入られたようで』
「気に入ったのではない。放っておけば潰れることが目に見えている。我々の計画にあの小童はすでに組み込んだ上で立てているのだ。潰れられては困るだろう」
『それでしたら他にも彼の指導をできる方はいらっしゃるでしょう?』
レオーネは皆忙しいからなと返すだけだが、ファーンはそれを微笑ましく思っていた。
レオーネは現在、懐刀と呼べる存在がいない。
ミゼットにはファーン、ラルゴにはランバートがいるように、レオーネにもかつては懐刀と呼べる者がいた。それが『英雄』ギル・グレアム。しかし2年半前、グレアムは闇の書事件の責任を取って辞職、第97管理外世界へと帰って行ってしまった。レオーネが弱音や落胆した姿を見せることはミゼットやラルゴでさえ稀なことなのだが、そのときのレオーネの失意に暮れる様はそれまでの比ではなかったという。
――そのグレアムに加担していたアシュレイ・ベルニッツ知識顧問官と手を組むのを最も好んでいないのもレオーネである。
『彼をおそばに置かれるのは如何です?』
「優秀であることは疑いようがない。しかしまだまだ。上に立つ者としては失格だ」
働く姿勢は充分。組織に対する忠誠度はお世辞にも高いとは言えないが、それはユーノなりの民間協力者という立場に徹する姿勢があってのこと。気概もある。無限書庫の『司書』にはあまりにも適合した類稀な逸材。半年前のクロノの一件にしても、ユーノの行動力や判断力、決断力から洞察力、適応力も侮れないものがある。ただし同じ時期にやらかした暴走のこともあるので、精神的に不安な点があることは見過ごせない。まだユーノは若い。これから充分更生できるし、人の言葉を素直に聞ける性分でもあるし、いい仲間たちがいるのだから必要以上に心配することはないだろう。
「自分を低く見積もる点は過信するよりはマシだが、程度が過ぎると厄介だ。自分が全てやらねばならないという義務感・責任感の高さもな。要するにあの小童は何かにつけて程度が過ぎるのだ。過ぎたるは及ばざるが如し。適度に仕事を下に振り、任せねば、組織としてもいつまでもトップに頼らねばならぬ脆弱性を抱えてしまう。失敗を恐れていることもわからんではないし、失敗してもらっては困るのは事実なれど、そこを立て直すことができる臨機応変さと問題への対処能力があれば挽回できるところも――」
『ふふ』
「む……いかん、1人で喋りすぎだな。失礼した」
『いえいえ。ふふ、久し振りに饒舌なフィリス顧問を見ることができて喜んでおります』
さすがはミゼット・クローベルの懐刀と言うべきか、反論を封じ込める笑い方はそっくりだ。レオーネは1つ咳払いをして話を変えることにした。
「ところで、君があの小童にしている訓練とはどのような?」
『主に高等技法の手ほどきですわね。と言っても、すでにかなりの高等技法の使い手なのですが』
最高難度に位置づけられる【
正直、1つ1つについてはもう慣れの問題になっているので反復を重ねるのみであり、教えるというほどのことはないというのがファーンの見立てだ。
『高速移動と高速機動の魔法も私が教えるよりよい師がいるようですので、そちらもその師に任せております』
「君より優れた師というのが気になるが」
『ふふ。これにつきましてはご心配なさらず。あの子なら問題ありません』
思惑ありげに言うファーンに、レオーネも深く追求するのはやめる。昔のレオーネならそうしていただろうけれど、女性が敢えて口にしないことを深く追求するとロクでもない目に遭うと学習しているのだ。
『あとは転移魔法でしょうか。元々使えるようですが、私の転移魔法による戦い方を見様見真似で模倣された時は少々ムキになってしまいましたが』
そういう生徒がいることも珍しくないのだろう。ファーンは楽しそうに新たな生徒のことを語る。教え子のことになるとファーンは本当に楽しそうに語り、ともすれば教え子全員のことを覚えているのではないかと思えるほどだ。レオーネは敢えてそれを止めず、ファーンの話に適度に頷きを入れつつ聞き入った。
「君をムキにさせるほどとはな。あの小童、戦いなど好まぬタチに見えるが」
『実際、好まないのでしょうね。攻撃魔法は一切身に着けておりませんし、その気もないようです。あくまで守る戦いにこだわっています』
「いかに守る戦いでも受け身に過ぎるのは問題だが」
『そうでもありません。あの子も勝ちにこだわるところがありますよ』
フェイトとの戦いで負けたのが悔しかったのか、ユーノはファーン相手でも攻撃的になることがある。別にヤケを起こしたわけでもなく、我武者羅にという面が強いが。
「ただ小童の場合はどうしても決定打に欠ける」
『そうですね。バリアもしくはバインドのバーストによる衝撃だけが攻撃手段です。【ユニークドライブ】による『アレスターチェーン』とて、突き詰めればこの手段を強化したものでしかありませんから』
「バーストも大した威力にはならないだろう?」
『そうでもありません。彼は魔法制御に長けております。威力を増大させていますし、『ベルニッツの法則』を利用して増強された衝撃力はまともに食らえば私でも危うい』
「自らの策に取り込んで一撃必殺の魔法で一気に沈める。そういう戦いか?」
『それが基本になるかと。もう1つは、私に教えを乞う本命の理由でもありましょう、私のカウンター戦術。一撃必殺のバーストか、相手を無力化することで戦意を喪失させるか。その2本柱というところでしょう』
「カウンター戦術か。またある意味で捨て身の戦法を……」
カウンター戦術に必要なことは大きく4つ。
1つに、相手の魔法を『理解』できるだけの知識量。これがないと相手の魔法の弱点を突くことも解析することもできない。
2つに、相手の魔法を『理解』した上で、効果的な妨害手段を選択し、必要に応じて妨害プログラムを調整する技能。妨害手段を習得していなければならないし、調整能力も必要になる。
3つに、相手の魔法を探るための探査魔法。精度が高ければ高いほど相手の魔法を深くまで見に行ける。
4つに、相手の術式に妨害プログラムを打ちこむ魔法か、相手の魔法を無効化させる魔法。これは『ストラグルバインド』になるだろう。
ただ、レオーネもファーンももう1つ、条件を追加する。これはカウンターによる戦闘を行う上では絶対に必要になるからだ。
――『常に冷静でいられること』
相手のどんな攻撃に対してでも、慌てずに冷静に対応せねばならない。相手の魔法の組み立てから発動までの僅かな間に。しかも現在は誰もがデバイスを持っていて、デバイスがその処理のほとんどを肩代わりする。その時間はますます短くなっているのだ。カウンター戦術を誰も覚えようとしないのはそのためでもある。
相手の方が圧倒的に実力が上の場合もある。1対1ならまだしも対多数の場合もあれば傷ついた仲間を守って戦わねばならない場合もあるだろう。どんな場合でも冷静にいられるか、これはユーノにとってかなり大きな問題になる。
精神的に弱いままでは無理だからだ。ある種の冷徹さを身につける必要がある。優しい性格のユーノにそれができるかどうか。しかし身に付けねば揺れやすい心のままであり、そうなればどうしても相手に先手を許すカウンター戦術は危険なのだ。
「君は常に生徒に言い聞かせていたな」
――『心が熱くなるのはいいけれど、頭は冷やしておくこと。心が熱くなればなるほど、頭は冷やしておきなさい』
矛盾しているようだが、それができなければ戦場では我を失った者から死んでいく。カウンターという戦い方だけの問題でもない。戦いに際して誰もが身につけるべき心構えなのだ。カウンターにおいては殊更それが求められるというだけで。
「できそうかね?」
『現状は技術よりもそうした精神力の強化が訓練のメインです。その意味でもフィリス顧問の研修には期待しております。彼の自己意識の改善が精神力の強化にも繋がりますので』
「変にプレッシャーをかけるな。私は君と違ってそういう精神面でのバックアップは苦手だ。そういうのはクローベルかラルゴの馬鹿者に頼んでくれ」
『生憎とクローベル統合幕僚長はお忙しいですし、キール栄誉元帥はハラオウン三佐を育てるのに傾注されておりますので。何でも彼の育成のためにわざわざエイギル中将を引き止めたとか』
「ラルゴはともかくクローベル同様私も忙しいのだが?」
『忙しい中でどうでもいい者のために時間を割くフィリス顧問でもないでしょう。自らのお時間を割いてでもあの子の育成に賭ける。それだけの価値があるとお認めになっておられるからでは? ご自分で先ほど仰っておられましたでしょう? 我々の計画にすでに組み込んでいる。今更潰れられたら困ると』
「……深読みのしすぎだ、コラード三佐」
『失礼いたしました』
ふふ、と小さく笑うファーンに隠す気もない様子を察し、分が悪いと悟ったレオーネは通信を切ることにするのであった。
艦橋で今後の自身の育成計画をランバートがラルゴでさえ引くようないい顔で練っているなどとは露知らず、クロノは頭の中で今回の自分の失敗を振りかえるため、もうボロボロになった航海計画書を読み直しながら通路を歩いていた。メモ書きの走っていないページなどなく、あまりに眠くて途中で寝てしまったためか何枚かは読めない字があることも。
「副長、顔が怖いっすよ!」
「む? あ、ああ、すまない」
「お疲れさんです」
「お疲れ。拙い指揮でエンジンに無理をさせた。疲れているだろうが整備を頼む」
「はは、あれくらいで
「もっともだ」
途中で各部署を回り、残っていたクルーたちに声をかけることを忘れない。指揮官としてクルーとのコミュニケーションはきっちり取ること。これはリンディからよくよく言われていたことである。
「あら副長」
「まだ残っていたのか? 片付けはもう明日にしていいぞ?」
「食糧はそういうわけにもいきませんよ」
「そうか……手伝おうか?」
「いいですよ。最後まで艦長に絞られたんでしょう? 今日は早く帰ってご家族とゆっくりしてくださいよ」
「ありがとう」
「それと! 忙しいのはわかりますけど、きちんと食事は摂ってくださいよ? 全然食堂に顔出さないんですから」
「すまない……気づけば時間が過ぎていることが多くてな」
「リンディ元艦長なんかイの一番に来るくらいだったのに」
「それはそれでどうかと思うが」
「あの方、砂糖控えてくれてます? 体に悪いってのもありますけど、あれは料理人泣かせなんですから……」
「それについては本当に申し訳ない……!」
今では向こうから声をかけてくれる。気安過ぎるのが少々気にはなるが、これが『アースラ』流と言われればその通りだし、気にしなければいいだけだと思うようにしている。
全部署を回り、残っていたクルーに声をかけて。クロノはようやく『アースラ』を降りるため、タラップへと足をかけて――
「あ、クロノくん!」
3ヶ月前に見送ってくれた声に、出迎えられる。
今回はなのはと恭也、ヴェロッサだけではなく、フェイトにはやて、シグナムたちヴォルケンリッターにユーノ、リンディとアルフもいた。『アースラ組』勢揃いである。
「…………」
帰ってきたのか、と感慨に耽る。任務が終わったという感覚だけだったのだが、ようやく帰ってきたのだという実感が出てきた。
手を振るなのはたちに小さく振り返しつつ、クロノはタラップを降りていく。エイミィがいるからもうすぐ降りてくるよと教えていたのだろうか。ユーノだけ膝に手をついて肩を上下させているので、慌てて来たというところか。お前は別に来なくてもいいのに、なんて嫌みも今は封印して感謝しておいてやろうと、クロノにしては寛大な気持ちを抱いていると。
「クロノ、ちょっとそこでストップ!」
「ん?」
アルフに制止され、クロノは眉を顰めて怪訝に思いながらも言う通りに。皆の前、10メートルほどの距離を開けて立ち止まる。さて何だろうかと思っていると、何やら皆が面白そうに笑っているのに気がついた。変なことをされそうな気配はない。その辺の危機察知能力は衰えていない。
「いけそうか、なのは?」
「う、うん」
車椅子を引いているヴィータに声をかけられたなのはが、胸の前でぐっと両手を握りしめる。その姿を皆が微笑ましく見ていた。
なのはとはほぼ毎日メールでやり取りをしていた。一週間に数度は直接通信で話もした。他愛ない内容であったが、日々怒られ、指摘を受け、自らの力不足に唸っていた中、正直なところかなりの癒しになっていた。そのお礼もしたいところだったので丁度いい。
なのはが何をするのかはわからないが、その後でお礼をしようと思いつつクロノはどことなく頬の赤いなのはを待った。
「クロノくん、よう見といたってや!」
何をだ、と言おうとして。
次の瞬間、クロノは目が釘付けになった。
「……ん、しょ……!」
なのはが。
「わ、と……!」
1人で。
「あう……うう……!」
その足で。
「……とと……」
立ち上がったのだ。
「……なのは。君……」
3ヶ月前はとても立ち上がるどころではないのに。両側から支えられてようやくだったというのに。まして一切の支えなく自分の足で立ち続けることなどできはしなかったのに。
「よいしょ……と……」
まだ体はフラフラと揺れている。つんのめるように足も前へ出たり後ろに引けたり。
それでもなのはは、確かに今、『立っている』と言える。
そして。さらになのははクロノを驚かせる。
その足を前へ。ズリズリと靴を地面に擦りつけつつではあるけれど。
一歩、また一歩と。
前へ。前へ。
少しずつ。でも確実に。
『歩いて』見せた。
「――――」
言葉もないとはこのこと。
わずか半年前、生死の境を彷徨い、もう一生歩けないかもしれないと言われながら。
そんな大した怪我ではなかったのだとは思わない。
仮にそうだとしても、足が動かなかったのは事実。その事実に打ちひしがれる者は何人といる。大の大人でもそうなのだ。そんな軽いことを言えるのは、『歩く』という行為を当たり前にしか思っていない者だけ。当たり前のことができなくなることの喪失感、もう治らないのではないかという恐怖心、やってもやっても言うことを聞いてくれない足への絶望感。なった者にしかわからないそれらを経験し、乗り越えたなのはに、この場の誰がそんなことを思うものか。
言葉もないのはクロノだけではない。フェイトやはやてたちも涙を浮かべている。もう知っていたはずだが、やはり何度見てもこの光景は感極まってしまうのだろう。懸命に歩くなのはの背中を、彼らは見守っていた。
「えへへ。クロノ、くん……」
「……ああ」
頑張れ。
その言葉を敢えて飲み込む。言われずともなのはは頑張っている。心の奥底から湧き上がるものが今にも目から零れそうだ。クロノを以ってしても抑えるのが精一杯。
卑怯なものだ。こんなサプライズあっていいのか。クロノはそう言いたくて仕方がない。
あの日、なのはの病室でひどいことを言ってしまったことは、今でもクロノの中でなのはへの申し訳なさとして存在する。なのにその自分を驚かせるために必死に歩行訓練をしてきたのだろう。
明日までに考えなければならないことは多い。反省もしなければならない。今後も大変なんてものじゃすまないだろう。
けれどこのとき、それら一切合財がどうでもいい。ただ目の前の少女の芳心にどう応えればいいのか、それだけしか頭にない。
カバンから手を離し、クロノはゆっくりと手を差し出す。なのはは流れてきた汗にも構わずに嬉しそうに笑い、その手を掴もうと手を伸ばして。
「――わっ!?」
「!」
限界だったか、なのはの足が崩れた。
フェイトもヴィータも恭也も誰もが動き出そうとしたが、その誰よりも早くクロノが飛び出していた。何とか間に合い、なのはを抱え込む。膝なども打っていないようだった。
「残念……クロノくんの所まで行けなかったな」
まだまだ体の負担が大きいのだろう。なのはの息は荒い。
「……相変わらず無茶をするな、君は」
「うう……久しぶりなのにお説教はないと思うのです」
そんなつもりはもちろんクロノにもない。ないのだけれど。生来のこの性格はどうしようもないらしい。
途端、見ていたアースラのクルーたちが歓声を上げた。3ヶ月前のように、しかし今度はそれ以上の喜びと祝福を以って。乗り合わせていた武装隊の面々もちょっとした魔法を使って花火の真似事をさせて。拍手が次々に起こり、『アースラ』の甲板から顔を出したクルーに、艦橋からも見えていたのか甲板に出てきたランバートまでもが手を叩いていた。みな、なのはのことを知っているから。どれだけ彼女が頑張ったのかも想像できるから。
「……頑張ったんだな」
「……うん。頑張ったよ。クロノくんもきつかったんだよね? 平然と振る舞ってたけど、私にはわかったよ。きついんだなって」
「そうか。情けない姿を見せたくはなかったんだが」
「ううん、情けなくなんてないよ。クロノくんも必死で頑張ってるんだって思えたから、私も頑張れたんだもん。お兄ちゃんも認めてたよ。あいつは頑張っているって」
「この上なく光栄だ。だが……なのはの頑張りには負けた」
「ふふ。やった。クロノくんに勝った」
「……最高の出迎えだ。ありがとう」
「あ……うん!」
いつの間にかなのはを胸に抱きしめるクロノと、恥ずかしいながらも喜んで抱き返すなのは。頭を撫でられるのは何だかちょっと子供扱いと言うか、やっぱりまだそういう対象として見られてないなあと残念に思うなのはだが、嬉しいと心が弾むのも事実。されるがまま、今は全身で好きな人の温かさを堪能することにする。それこそが頑張った自分へのご褒美だと言わんばかりに。
「あの~」
とは言えだ。
さすがにいつまでもそうされていては、見ている側としては居た堪れなくなるわけで。
代表してエイミィが声をかける。それもまた3ヶ月前の再現のようだった。
「いい雰囲気のところ、大変申し訳ないのですが」
「む?」「ふぇ?」
いいところで邪魔をするなとは思っていないが、そういう目になっていたのだろうか。クロノが視線を向けるとエイミィが3ヶ月前とは違って非常に申し訳なさそうにする。
「いつまでもここでそうやってるわけにもいかないんで……場所だけでも移動しません?」
「なっ!?」
「はにゃ!?」
2人して体を離す。が、なのははまだまだ立つのに苦労する身だ。フラリと揺れる体はそのまま再びクロノの胸へ。
「あ~。もうちょっとということであれば……」
「ち、違います! 今のはそういうことじゃなくて!」
「誤解するな、エイミィ! 君たちも! その生暖かい目はやめてくれ! おいフェレットもどき、いかがわしいモノを見る目をやめろ!」
「ちょうどいいからって僕を引き合いに出すなよ、この破廉恥」
「誰が破廉恥だ! 邪な気持ちは毛頭ない! くっ、恭也さん!」
「……まあ、なのはを悲しませるよりかはいい。今回は大目に見よう。だが今後は時と場所を選ぶようにな」
「そういうことじゃありません! な、なのは。すまないが一旦……その、立てるか?」
「え、えっと……う、嬉しくて腰が抜けちゃいまして……」
「…………」
囃し立てられる中、まさかなのはを置いて1人逃げるわけにもいくまい。周囲の目もさあどうするんだと迫る。勝手なことを、とクロノは恨みがましく思うが、とりあえず今はなのはを車椅子に戻すことが先決だ。
「え? え? はにゃああああ!?」
なのはの背中と膝の裏に腕を回して抱え上げる。所謂『お姫様抱っこ』というやつだ。
周囲が一層やかましくなり、祝福からからかいへと色を変えてお祭り騒ぎの様相を呈してきた
「あ、あの! クロノくん!?」
「……我慢してくれ……」
ああ、無心になろうとしてる。
察したなのははクロノの無表情を見上げつつ、大人しくされるがままに。
仕方なく。そう、仕方なく。クロノにとっては所詮その程度なのだろうけれど。なのはにとってはこれは予想外の役得以外の何物でもなくて。
「クロノくん」
「ん?」
「おかえりなさい」
「……ああ。ただいま、なのは」
万感の思いと共になのはは言いたかった一言をかける。
クロノの首に腕を回す勇気まではさすがになかったけれど。
代わりにその手は、クロノの服の胸元を、しっかりと握りしめるのであった。