「はやてちゃん!」
なのはが恭也に車椅子を押されて飛び込んだ先は時空管理局本局の医務局にある病室の一室。静かにしなければならないことはわかっているが、いてもたってもいられなかった。
「あちゃ~、来てくれるんやろなあとは思てたけど、やっぱ来てもうたか~」
勢い良く開かれた扉にもはやてが驚いた様子はない。頬を指でかきながら気まずそうに苦笑いを浮かべている。その頭には包帯。右の頬にもガーゼ。露出している左腕の前腕にはギプスが。
「笑ってる場合じゃねえよ、はやて!」
「ヴィータの言う通り、さすがに不謹慎かと。主はやて」
すでに来ていたヴィータ、そしてシグナムが窘めると、素直にはやては謝った。
とは言え、はやてにしてみれば本当に処置が大層なのだ。頭の怪我は単に飛んできた小さな破片が当たっただけだし、頬も倒れた時に擦りむいただけ。腕だってひびがちょっと入ったのみ。なのに守護騎士たちに続いてなのはに恭也と、まるで死に瀕したかのように飛び込んでくるのだ。いったいどのようにシャマルが伝えたのかと気になってしまう。
「怪我の重さの問題ではありませんよ」
シャマルの穏やかながら厳しい顔をしての非難に、はやてはわかっていると気まずい顔をしながら応えた。
わかっているのだ、皆の言いたいことは。
なのはの大怪我。続いてクロノ。ユーノの暴走も無関係ではない。命がかかった事故があり事件があり、仲間の誰もが大切な仲間を失うかもしれない経験を重ねてきた。ちょっとした事故であっても誰もが敏感に反応してしまうだろう。笑って済ませることはできない問題だった。
「高町なのは、高町恭也。主はやてを窘めた私が言うのも何だが、あまり主はやてを責めないでくれ。今回の怪我は決して主はやてがすべての原因というわけではないのだ」
「むしろ責められるべきは俺だろう。盾の守護獣として主を守れなかったのだ……」
「ザフィーラは最前衛として立っとったんやからしゃあない。おかげで他の武装隊員の人らは一切怪我もなかったんや。これでええねん」
シグナムが庇うように言うと、人型を取ったザフィーラもひどく思い詰めたように拳を握り締めた。まるで腹を切りそうな落ち込み具合にはやてがすぐにフォローの手を入れる。
「何がいいんだよ! 全然良くねえよ!」
しかしヴィータは黙っていない。
「その武装隊員の奴らが原因じゃねえか! あいつらがはやての援護を怠るからはやてが怪我を――!」
「ヴィータ!」
そのヴィータを止めたのは、他の誰でもないはやて。有無を言わせぬ睨みを利かせ、ヴィータでさえも続く言葉を飲み込むほどの威勢で。慕われることで従える優しい『主』というよりも、ここ最近はやてが身に付けつつある騎士を従える『王』としての在り方が前面に現れている。
「それ以上は言うたらアカン」
「っ……けど!」
「ヴィータ」
「…………」
ヴィータは顔を逸らして黙りこんだ。納得はしていないのだろう。唇は悔しそうに真一文字に引き結ばれ、眉も苦々しげに歪んだまま。
「ありがとな、ヴィータ」
ヴィータがそんな顔をするのはどこまでもはやてを大事に思ってのこと。わかるだけにはやては『主』としての顔に戻って声をかける。ヴィータの顔は変わらなかったけれど。
「ザフィーラもホンマに気にせんでええんよ。フロントアタッカーに着くように指示したんは私なんやし」
「ザフィーラさんをフロントアタッカーに?」
はやてが怪我をした理由を知らないなのはが首を傾げる。シャマルやヴィータの様子にシグナムの先ほどの言葉からも、何とはなしに
ザフィーラはアルフと同じくサポート型でありつつ、無手での接近格闘戦を得意とする。フロントアタッカーはその名の通り最前衛として戦うポジションで、生存能力の高さが問われる立場である。その点で言えば、盾の守護獣として防御力の高いザフィーラは決してフロントアタッカーに合わないわけではない。だが同時に、盾の守護獣であれば当然の如く護るべきことに重点を置くものであり、今回ならばはやての盾にならねばならない。するとフルバックに当たるはやての盾で在らねばならないのにフロントアタッカーに置くのは間違っていると言わざるを得ない。ザフィーラが己の盾としての在り方と格闘戦を得意とする攻防両面を活かそうとすれば、自ずとガードウィングこそが最適のポジションなのだ。
「今回の相手は中距離から遠距離戦を得意とする典型的なミッドチルダ式の魔導師やったんよ。撃ち合いが続いて埒が明かんくてな~、相手の懐に飛び込んでいくしかないなて考えてん」
「だからザフィーラさんを最前衛にして突撃したということか?」
「せや」
武装隊員を最前衛にする手ももちろんある。しかし危険な役割を命令することがはやてにはできなかった。自身が安全な位置にいて、他人を危険なところに送り出すことはできなかったのだ。
――罪を贖うべき立場だから。
はやてが夜天の王であることはすでに知られていること。ゆえに、はやてに向かう冷たい視線や心無い風聞が飛び交うことは日常茶飯事だ。はやてと任務を共にすることに忌避し、時には明確に拒否する武装隊員も多い。別にはやてに限った話ではない。時空管理局内外で『元犯罪者』と行動を共にすることを拒絶する者は珍しくなかった。
奉仕や貢献を通しての更生の一環であると時空管理局がどんなに謳ったところで、それが『綺麗事』であることは暗黙の常識。貴重な戦力として罪を軽減されて体よく使われる面があることは誰の目にも明らかだ。まして使い手が皆無の貴重な融合デバイスの使い手であり、ロストロギアに位置づけられる夜天の魔導書の持ち主。時空管理局が咽喉から手が出るほど欲する人材であろう。
世間では魔法至上主義が当たり前に通っていて、魔法の才能があれば罪を軽減されることが多いのは否定できない事実である。フェイトもはやてもある意味でその風潮によって罪をなくし、もしくは軽減されている面があるのだ。
これを批判する声はいつの時代も存在するもので、犯罪者の重罰化、そして時空管理局での任務従事による罪の軽減を廃止せよといった動きも根強い。彼らのような勢力にとって、『闇の書の主』たるはやては『元犯罪者』として格好の標的になるという寸法である。
「突撃はザフィーラとガードウィングの人。センターガードの人と私は後方から援護、という形やったんやけどな」
「俺たちが突撃する隙をついて敵の射撃は主はやてたちに集中したのだ」
「いや~、なのはちゃんやクロノくんほどやないけど、かなり正確な射撃でなあ……ちょいとばかし焦ったわ」
「ザフィーラは突撃を中断して戻ろうとは考えなかったのか?」
「もちろんそのつもりだったのだが……」
「必要ないと判断したんは私なんや、恭也さん。ザフィーラを責めたらんといて」
焦ったとは言え、中~遠距離攻撃を得意とする相手とわかっていてザフィーラたち前衛を無策で突撃させるほどはやても抜けてはいない。当然、盾がいなくなった自分たちに攻撃が来ることも想定していた。
「耐えきる自信はあったんよ。仮にもユーノくんに魔力運用の訓練してもろてたんやしな。いざとなったら魔力量頼みって手もあるわけやし」
はやての魔力量はなのはやフェイトすら凌駕する。最悪、その魔力を強引に注ぎ込んで力任せに耐えきることだってできただろう。
だがそれが、ミスを誘った。
「……センターガードの人がな、前に出てもうて」
「フルバックを守るべきセンターガードが前に出たの?」
なのはが眉を顰める。
その必要はないはずだった。敵の火力をはやてとセンターガードの2人が引きつけていたら、ザフィーラとガードウィングの2人は充分突破できただろう。なのにセンターガードの武装隊員は何を思ってか前に出たのだ。はやてをその場に置いて。
「私の魔力量なら1人でも耐えきれるて思たんとちゃうかな」
「……おそらく、そういうことではないだろう」
「どういうことだ、高町恭也?」
「恐れたのさ、その魔力量に」
口元に手を当てて呟いた恭也へのシグナムの問いに答えたのは、扉を開けて入ってきたクロノだった。後ろにユーノとヴェロッサを連れたクロノは、厳しい表情のままでまずははやての容体を確かめ、はやてが大丈夫であることを伝えると少しは安堵したように一息。次にユーノと目を合わせ、頷いて見せた。
「知っての通り、はやての魔力量は膨大だ。反して、はやて自身の魔力運用はまだまだ拙い面があることは否めない」
「はやてを馬鹿にすんな」
「ヴィータ。ええんよ、事実なんやから」
「言い方が悪かった。謝る」
厳しい良い方であったのはクロノもわかっていたので、きちんとヴィータには頭を下げる。
はやての魔力運用能力は決して低いわけではない。ユーノの訓練でかなり上達しているし、以前ほど訓練に付き合える時間や回数はなくなってしまったものの、クロノもアドバイスや訓練相手を務めることを惜しんではいない。はやても覚えはいいし、安定性で言えばなのはやフェイト以上の才能がある。
ただはやての場合、持ちうる魔力量が膨大なので、普通ならば充分な魔力運用能力でも不足していると判断されてしまう。使う魔法の威力が総じて高く、『広域』の魔法適性によって有効範囲などが広がってしまうため、難易度が上がってしまうということも無関係ではない。
「はやての強大な魔力が暴走する危険性。実際に暴走こそ起こしたことはないが、闇の書事件の一件は今だ尾を引いている。何百年と放浪して事件を起こしていたことを『暴走していた時期』と見做せば、事件からわずか2年3年では暴走しないなんて誰も思えないだろう」
「ストレージデバイスが壊れたところを実際に見られたことがあるのも痛いね」
今回センターガードを務めた件の武装隊員がはやてのそばを離れたのも、はやてがより魔力を使う気配を見せたから。背中からのフレンドリーファイアや自爆を恐れ、前衛援護を言い訳にしたのだ。ガードウィングを務めていた武装隊員にしても、はやてからの火砲支援にはまったく期待していなかったらしい。むしろ自分諸共に爆撃でもされるのではないかと戦々恐々としていたようだ。
「やっぱり専用のデバイスがないと完全な制御は困難ということかしら」
「ああ。管制人格は急務だが目途が立たない以上、せめてストレージデバイスだけでも早く完成させないとな」
はやて個人の信用が低いこともさることながら、問題を解決するためにはやての魔力運用能力の向上努力だけでは限界がある。融合デバイスである以上、管制人格の存在はやはり必要だし、ものがものなだけに補助用のストレージデバイスも欠かせない。
現在、夜天の魔導書に管制人格はいない。リインフォースの遺志を継ぐ後継となる管制人格を開発中だが難航を極め、進捗は遅々として進まない。ストレージデバイスとなる杖も試作型の仮のものでしかなく、すでに4本の試作型が過剰な負荷に耐えられずに壊れていた。
「進捗は技術部のマリーにも聞いている。ユーノ、無限書庫の調査はどうなっている?」
「ごめん。定時報告の通り、あまり進んでいないんだ」
「謝らんといてや、ユーノくんも。ただでさえ無限書庫の改革で忙しい中で無理聞いてもろてんねん。調べてくれとるだけでも感謝感謝や」
ユーノを以ってしても融合デバイスや管制人格についての無限書庫調査は進まない。その事実だけでも如何に情報がないということがわかる。
古代ベルカの技術だけに情報は少ない。いつ、どこで、誰が、どのように。それら一切合財の情報が不足しているため、検索する範囲が広くなってしまうのだ。闇の書そのものに対する資料は見つかっても、すでに暴走していた頃の資料が多く、正常だった時期の記録はほとんど残っていない。融合デバイスに関する資料に至っては闇の中を手探りで探すような状況だ。
「ただね。いくつか興味深い資料は見つかってるんだよ」
「本当かよ!? だったら早く教えてくれよ、ユーノ!」
ユーノが隠し立てするとはヴィータも思っていないが、はやての落胆や苦労をずっと見てきただけにどうにかしたい気持ちが態度に現れてしまうのだろう。ユーノも怒ることはなく、むしろ申し訳なく眉尻を下げるばかり。
「本当にごめん。言おうかどうか迷ってたんだ」
「正確に言え、ユーノ。言っていいものかどうかわからなかったと」
「何だよ? 何が問題だってんだよ?」
「落ち着け、ヴィータ」
シグナムが将としてヴィータを宥め、クロノとユーノに謝る。シグナムとて気にはなるのだろう。知りたいと顔に書かれているのは明らかだった。だがシグナムは察しがついているのだ。眉根を寄せて2人を見据えて問う。
「思うに、聖王教会、ひいてはベルカとの関係か?」
シグナムの問いかけに、クロノもユーノも頷いて返す。
「融合デバイスはベルカの技術だからな。ハラオウンとスクライアが情報開示を躊躇うのは道理だ」
「しかも夜天の魔導書は元が研究用とは言え、今となっては戦闘に転用することも可能な魔導書。技術的にも軍事的にもベルカが神経を尖らせるものでしょうしね」
現在のベルカはミッドチルダに自治領を与えられたに留まるとは言え、聖王教と聖王教会の影響力は強く、非常に強力な発言権を持つ。闇の書事件で上手く立ち回ることができず、さらには聖遺物盗難事件によって信用を失い、聖王教信者の離反も決して少なくはなかったが、それでも今以って聖王教会は次元世界最大の宗教組織であり、ベルカの威信は揺らぎつつも巨大なものであることに変わりはない。
時空管理局は聖遺物盗難事件で強く出られない聖王教会に対し、それまで聖王教会が明かさなかったカートリッジシステムの採用と量産を許可させた。さらには無限書庫が聖王教会でさえ知らないベルカの情報を持っていると目される以上、情報面でも影響力を失いつつある。聖王教会としてはこれ以上の政治的・技術的・軍事的・情報的優位性を奪われたくはなかろう。実際、融合デバイスの解析とその成果を以って量産する計画を立てる時空管理局に対し、聖王教会は強く反発している。特に強硬派が。
「3提督からも無限書庫で見つけたベルカの情報については慎重な扱いを求められていてな」
「3提督は聖王教会やベルカ自治政府の融和派や穏健派と友好的な関係を築いているからね。下手に事を荒立てるわけにはいかないんだ」
ただでさえレジアス・ゲイズらの台頭により、地上本部が聖王教会との関係を改善する気がないどころか嫌悪すら抱く姿勢がより顕著になっている。せめて本局は聖王教会との友好関係を維持したいと気を揉んでいるところ、本局所属の次元航行隊や無限書庫に属するクロノやユーノがはやてに情報を渡してしまうことはできなかった。2人揃って三佐や司書長という影響力を持つ立場になってしまっているということもある。
「局の上層部には聖王教会に構わずに計画を進めようとする勢力もある。しかし僕たちとしては何とか事を荒立てないようにしなければならない」
「私かてそこは同意する。私らのためだけに管理局と聖王教会の関係が悪うなるんは御免や。第一、それやと私の夢にも反してまうし」
「とは言え、スクライアが見つけた情報を諦めるとはいうのは些か私には受け入れ難い……」
「クロノくん、ユーノくん。どうにかできないのかな?」
他力本願なことは自覚しながらも、なのははクロノとユーノを見上げた。もちろん2人ともその視線を無碍にすることはない。
「なるほど。道理で今日は僕がついていくのに嫌そうな顔をしなかったわけだ」
そこでようやく今まで一言も言葉を発しなかったヴェロッサが口を開いた。皮肉を込めた口調に、いい顔をする者はいない。クロノとユーノ以外はどうしてこの男がいるのだと言いたげだ。
「察しがついているようで何よりだ」
「話が早くて助かります」
クロノとユーノはと言えば、皮肉に対して他の者たちほど感情を露わにすることはなかった。かと言っていい顔をしていないのは変わらないけれど。
「僕に何をさせる気だい?」
ヴェロッサは敢えてそう問いかけた。口元は笑っているが、目は睨むかのようにクロノとユーノを見据えている。
「アコース査察官。貴方はベルカの人間。しかもカリム・グラシア理事官の義弟だそうですね」
「アウェーであるミッド側でも顔が広いが、ホームであるベルカ側となれば尚更だろう。それを見越して頼みがある」
「……まあ、聞くだけ聞こうじゃないか」
ヴェロッサの立場を利用したいという意図を隠しもしないクロノとユーノに、ヴェロッサは半ば呆れつつも聞く姿勢は崩さなかった。下手な言い回しで意図を隠そうとしたところで、ヴェロッサの渉外力は2人よりも上であり、不信を買うだけだと2人共に思ってのことである。実際、そうされていたらヴェロッサはやんわりと断るつもりだったこともあり、肩透かしを食らった形である。だからこそ話を続けているのだった。
「聖王教会との交渉の場を設けてほしい。取次を貴官にお願いしたい」
クロノの依頼に、ふむ、とヴェロッサは首肯する。
(聖王教会に許可するよう働きかけろと言われるかと思ったんだけど。さすがに僕が断ると察したかな?)
またもヴェロッサの断る理由を上手く避けてきた。クロノの渉外力も決して低くはないということか。ヴェロッサはならばともう少し駆け引きを続けることにする。
「〝許可をもらってこい〟じゃなかったことはとりあえず認めようか。でもね――」
「もちろん、僕たち2人でなんて言いませんよ」
ヴェロッサは『他力本願は感心しない』と続けようとしたのだが、ユーノがそれを見越したように遮った。そしてすっとクロノと共に身を引き、はやてへと視線を向ける。するとはやてもその意味を察したらしく、ベッドからザフィーラの手を借りて降り、ヴェロッサの前にまで来たかと思えば、そのままの勢いで頭を下げた。直角に。
「私のことですさかい、もちろん私が行かせてもらいます。せやからどうか、お願いできませんやろか?」
「我らからも、この通りだ」
はやてだけに頭を下げさせるつもりはシグナムたちにももちろんない。はやての後ろに並び、次々に頭を下げる。面白くなさそうなヴィータさえも。
「…………」
困ったのはヴェロッサだった。駆け引きを続ける気が削がれてしまったのだから。ましてはやてと一緒になのはまで横に並んで頭を下げる始末。
せめてもの抵抗としてクロノとユーノを睨む。クロノはふんと目を瞑って視線をやり過ごし、ユーノは苦笑い。この場で駆け引きというものを理解している2人は、こうでもせねばヴェロッサとの駆け引きで勝てないとわかっているのだ。使えるものは使う。存外にずる賢い手に出たものだとヴェロッサは目を細める。気を害したところでもっともなのだろうけれど、変に駆け引きを続けようとした引け目がヴェロッサにもある。
引き際か。
ヴェロッサはこれ以上続けても見苦しいだけだと溜息をつき、それでわざとらしいまでに明るく振る舞った。
「紳士かどうか不確かな腹黒のお2人さんはともかく、他の紳士淑女たちに頭まで下げられたら断れないね。取り次ぐくらいはしようじゃないか!」
「なら最初からそうしろ」
「やめなよ、クロノ」
余計なツッコミを入れる腹黒に、もう1人の腹黒がやんわりと止める。
(やれやれ。1人で駄目なら2人で来るか。本当にこの2人は仲がいいねえ)
普段は『フェレットもどき』だの『真っ黒クロスケ』だのとくだらない言い合いをしているくせに、共闘しだすと途端に厄介になる。これほど見た目と内実が違うというのもろくでもない。
「ありがとうございます!」
ヴェロッサがやれやれと肩を竦めていると、頭を上げたはやてが本当に嬉しそうな表情で見上げてきていた。その笑顔には感謝しかない。ヴェロッサの意地の悪い駆け引きのこともまったく気にしていないようだ。これがなのはやフェイトだったらヴェロッサもお安い御用さと軽く笑って返せたかもしれない。
しかしヴェロッサの顔は、正反対の顰めっ面になっていた。
そんな顔を向けられたはやては、怪訝に思いつつも手を差し出した。普段から冷たい視線や心無い言葉を向けられるはやてにとって、そういう顔をされたところでいちいち揺らぎはしない。まったく気にならないわけではないが、気にしていたら身が持たないがゆえの開き直りだ。そのくらいの処世術を身に付けなければ、時空管理局でやっていくことなどできはしないのだ。
それにヴェロッサとはすでに顔見知りであるが、言葉を交わしたことはまったくない。いつもクロノやユーノと共にいるのに。世話になる身でそれは少し失礼だと思っての行動だった。
「……僕ができるのは話を持っていくだけさ。交渉の場を設けるかどうかは姉や教会上層部が決めることだ。礼を言われるほどのことじゃない」
しかしヴェロッサは握手を求める手に気付かなかったように踵を返した。無視されたわけではなく、握手を求める手に気付かなかっただけではないかとも受け取れるタイミング。
「……それでも、ありがとうございます」
「それじゃ」
背中にかけた再度の御礼に返ってきた言葉は、まるでもうこの場にいたくないというかのようで。はやては去っていく背中を扉が閉まるまでただじっと見詰めていた。
「――気高きベルカの騎士として、恥と知りたまえ」
人を呪わば穴二つ。地球の格言を知っていたら、ヴェロッサは今まさにこういうことかと思うだろう。執務机に座る人物は背もたれに身を預けつつ、鋭い目を向けてきていた。
時空管理局知識顧問官、アシュレイ・ベルニッツ。
ベルカ人でありながら時空管理局の重職に身を置き、ミッドチルダにもベルカにも中立を維持しながら影響力も失わずに世界に貢献する大人物だ。
「私情に囚われてベルカとミッドの間に余計な諍いの種を撒くものではない。ベルカにとって何の利にもならん。違うかね?」
「……いえ。その通りです」
座っているアシュレイに対して立っているヴェロッサ。当然、ヴェロッサの方が見下ろす形になる。なのに圧倒的に上から指弾されている気分だった。
「ヴェロッサ・アコース査察官。貴官はベルカの騎士であり、高潔なるアコース侯爵家の血を継ぐ者。騎士として、査察官という立場にある者として、そしてベルカに連なる身としての意識が足りておらん。猛省したまえ」
強い言葉こそ使われているが、怒鳴られているわけではない。それでもヴェロッサは反射的に頭を下げてしまうほどの威厳があった。ぐうの音も出ない正論というだけではなく、仮に正論ではなかったとしても一切の反論を封じられてしまうだろう。それほどであった。
「何より、貴官の『父』たるグラシア公爵閣下や『姉』たるグラシア理事官にも要らぬ手間をかけさせることにもなりかねん。大恩ある方々であり、得難き家族であろう? そのことにもう少しの思案を巡らせたまえ。さすればベルカの騎士たる貴官だ、自らの私情を抑えるくらいは容易かろう」
「そのお心遣いに感謝いたします」
そこでふっと小さく笑みを浮かべたアシュレイは、立ち上がって机を回り込み、頭を下げたままのヴェロッサの肩を軽く叩いた。
かけたまえとソファーにヴェロッサを誘導し、アシュレイは秘書に紅茶を出すよう連絡してから自身も対面に座す。しばらくして紅茶が運ばれてきて、2人して静かに一口。
「これは……ベルカ産ですか。よい茶葉ですね」
「ほう、わかるかね?」
「舌には多少の自信がありまして」
「ふふ、そうかね」
機嫌を良くしたようにアシュレイは紅茶にもう一度口を付けた。中立を厳格に守り通すアシュレイも、味覚は完全にベルカに向いているらしい。以前も持ってくるのならばベルカ産のものと要望されていたし、この人もベルカを愛していることは変わらないのだなとヴェロッサは親近感を抱いた。
ヴェロッサは過去に糾弾されたことがある。父のアコース侯爵はベルカと聖王教会が誇る教会騎士団
そこを助けたのが、家同士が親しかったグラシア公爵だ。彼が庇ってくれなければ家も名前も失くしてしまっただろう。そしてヴェロッサが持つレアスキル『思考捜査』にも嫌悪を抱かず、むしろ力の使い方を教えてくれた。
このような過去を持つヴェロッサにとって、グラシア公爵やカリム、シャッハを除けばベルカは親近感を抱く対象ではない。他でもないベルカがヴェロッサを遠ざけたと言ってもいいのだから。にもかかわらずベルカの人間、しかもヴェロッサやアコース侯爵を糾弾したベルカの強硬派たちとの繋がりがあるアシュレイに親近感を抱くのは、アシュレイもまたベルカに距離を置く人間だからだ。
最初は強硬派と繋がりがある人間ということで警戒していたが、カリムが理事官になるに当たって支援してくれたし、その後も何かと世話になっている。ミッドにもベルカにも寄らない中立性を維持するためには、当然ながらベルカからの批判も浴びていよう。昔から家同士の付き合いがあったからやむなく強硬派に属しているが、実際のところは距離を置いている以上、強硬派からの難癖も多かろうに。それでも対立する穏健派や融和派のグラシア公爵側であるカリムやヴェロッサへも支援の手は欠かさない。そんな泰然としたアシュレイ・ベルニッツの在り様には、何らかの『信念』が感じられ、ヴェロッサにとって尊敬に値するものであった。
「姉への面会、取り次いでもよいものでしょうか?」
「利害という点だけで見るなら、一概によいとは言えぬな」
カップをソーサーに置いて、アシュレイは話に一呼吸置いて。
「現在のベルカは、確かに政治・経済・軍事・技術・情報とあらゆる面でミッドや時空管理局に先を越されている。カートリッジシステムの技術情報開示、そして時空管理局での採用と量産はベルカにとって苦渋の決断であったと言えよう」
「はい。この上、融合デバイスの技術情報開示、さらには量産など許してしまうことは、ベルカにとって致命的ではないかと」
「しかし貴殿の姉、グラシア理事官はそれを許してしまいかねないと貴官は懸念しているのか?」
無言のまま、ヴェロッサは頷いて返す。
本来、この話は取り次ぐ先であるカリムに一番に持って行くべきものである。なのにヴェロッサが先にアシュレイに相談に来たのは、これが理由であった。
「姉は元々、彼らアースラ組に対して好意的ですから」
「加えて人情家であったな。ベルカを心底からは愛することができない過去を持つ貴殿が慕うほどに」
クロノやユーノ、なのはにフェイトにはやてたち。彼らに対して好意的なのは、1つに前理事官のミヒャエル・ハイメロートが正反対に非常に厳しい態度で当たってきたからというもの。太陽と北風の話とは少し違うが、ベルカにも似たような物語があり、硬軟織り交ぜた柔軟性が大事だと説いている。
2つに、カリムがミヒャエルのように善悪構わずベルカの利益になるのならというほどの強硬意識を良しとしない性格であること。
3つに、ベルカの融和派であるグラシア公爵の意思に従うとともに、彼女自身が3提督との友好関係の維持が必要と考えていること。3提督と協力関係にあり、3提督の信頼もすでに高くなっているクロノやユーノとの関係を構築したいと考えるのは理に適っている。
4つに、無限書庫との関係改善は急務だから。無限書庫は3提督が期待しているので、3提督との関係を維持する以上、無限書庫潰しは悪手に他ならない。無限書庫との関係を強化し、ある程度の影響力を持てる立場になっておく必要がある。その意味でもクロノとユーノとの友好関係は得ておきたい。地上本部のレジアス・ゲイズが無限書庫に目を付けているという情報もある。レジアスに影響力を持たれたらベルカや聖王教会を嫌う彼のこと、カリムやヴェロッサたちは爪弾きにされることは目に見えている。
と、いろいろと理由はある。ただそれ以上に、カリム自身が人を疑ったり嫌ったりすることを好まない人柄であるということがある。お人好しというわけではないが、本来が善人で優しい女性。だからヴェロッサがカリムがやりにくいであろう裏の方面での根回しなどをすると決めたのだ。
ヴェロッサがクロノやユーノに先に接触しているのは、カリムに会わせていい人物かどうかを見極めるという意味もある。実際に会って、この半年を共にして、結論としてカリムに会わせても問題はないと思っている。
問題はないが……別の問題がある。性質の違う問題が。
「クロノ・ハラオウン、ユーノ・スクライア。他にも高町なのはにフェイト・テスタロッサ・ハラオウン、高町恭也。彼らは総じて好人物と言ってもいいでしょう。およそ姉に害が及ぶような人物とは思えません」
「建前は、だろう? 構わんよ、本音で言いたまえ」
「……最初の2人については腹黒な部分があるので微妙です」
「ふはは、そうかね」
面白そうに「そういう相手は意外と貴重な存在だったということもあるのだよ」とアシュレイが続けると、ヴェロッサは嫌そうな表情をより顕わにする。ヴェロッサがそこまで感情を表に出すのは非常に珍しい。普段から大袈裟な感情表現をするヴェロッサなのでそうは見えないだろうが、あれらはほとんど演技に過ぎない。ヴェロッサが本当の感情を表に出す相手は非常に限られているのだ。現状ではグラシア公爵とカリム、そしてシャッハ。そこにアシュレイがこうして入りつつあることを、ヴェロッサは自覚し始めていた。
「ハラオウン三佐はキール栄誉元帥の懐刀であるランバート・エイギル中将に直接の手解きを受けている。スクライア司書長に至ってはフィリス法務顧問相談役本人が研修の講師を務めているそうではないか。2人の腹黒さは背後の人物たちによる教育の結果かもしれんな」
「いえ、あれは2人の元々の性格ですよ。絶対に」
ヴェロッサが紅茶を飲みつつ断言すると、アシュレイは愉快と言わんばかりに肩を揺らした。
からかわれている。察したヴェロッサは話を変えるべく、核心となる人物の名前を出す。
「しかし八神はやてと守護騎士たち。彼らは姉に会わせるべきではないと考えてしまいます」
向けられた笑顔を思い出すと、ソーサーにカップを置くのが少し乱暴になってしまった。
「彼女のことは私もよく知っている。嫌悪を抱くような人物とはとても言えぬが?」
「人柄は……問題ないとは思います」
言い難そうにしながらも、ヴェロッサもそこは認めた。先ほどはそれさえも認められなかったので、アシュレイはヴェロッサが私情を少しなりとも制御できるようになったかと満足したか口を挟まず。
「ですが彼女は……闇の書の主です」
「…………」
組んだ両手に力が籠もる。心に強い感情が湧き上がる。決して良いとは言えない類の。
「八神はやては闇の書を遠ざけることなく受け入れた。これは問題です」
はやてはなのはやフェイトと比べると、歳のわりにかなり考えが大人だ。冷静を通り越して冷酷な判断を下すことも、近い将来にはできてしまうだろう。幼い頃から辛い現実を味わってきて、今も敵視や蔑視を受けている身。自ずとある種の冷たさが身に付いてしまうのだろう。
それでも八神はやては優しい少女だ。口にはしないがヴェロッサも認めざるを得ない。
しかし、だからと言って。
闇の書を受け入れ、あろうことか守護騎士たちを家族と呼び、闇の書の過去を背負ったことは認め難い。
その1つこそが、八神はやての良いところをすべて台無しにしていると言ってもいい。良いところがまるで作られた仮面や演技の類ではないかと思わせる。
「それでも姉は善人ですから……」
「如何に善人とは言え、グラシア理事官とて己の立場を弁えていよう。可哀想だの立派だの、そんな私的な感情で大局を見失うような愚か者なのかね?」
「そんなことはありません! ありませんが……」
カリムとて20にも満たぬ歳で理事官を務めている身だ。決して親の七光りで形だけ理事官になりましたなんてことはない。任されるだけの才覚も器量も持っている。なるべくしてなったというべき大器ある姉だとヴェロッサは疑っていない。身内としての贔屓目もあるだろうが、ヴェロッサの査察官としての目も同じ判断を下している。だからヴェロッサが懸念するのはアシュレイが言うようなことではなく。
「グラシア理事官とて見極めた上で判断を下すだろう。貴官が真に懸念するのは、グラシア理事官が八神はやてを認めてしまった場合に、グラシア理事官がどういう状況に追い込まれるかということか?」
「……その通りです」
――このとき、ヴェロッサは『嘘』を吐いた。
カリムの身を案じているというのは決して間違いではない。しかしそれ以上に、ヴェロッサ自身が個人的にはやてを認められないという感情が強い。だからカリムにも会わせたくない。
自覚はある。ただ嘘を嘘と認められない部分が強く、自分のその感情は間違っていないと思っている意固地な部分があるのも事実だった。
――アシュレイ・ベルニッツはこのとき、『嘘』を嘘と見抜いていた。
指摘することはなく、その口元には僅かに笑みが浮かんでおり、ヴェロッサは気まずさから俯いていたから気づかなかったが、気づいていたら間違いなくその笑みに見下されているようだと感じたことだろう。
だがそれも、あくまで気づいていたらの話。
「ふむ。君の懸念はもっともだ」
アシュレイはまるで素知らぬ口調で話を続けた。
実際、カリムがはやてを認めて支援を始めた場合、カリムは間違いなく批判を浴びるだろう。特にベルカの強硬派に。強硬派筆頭のヴァルデマー・ラルド卿は絶対に許さないはず。あの男がカリムに対してどのような嫌がらせや妨害工作を行ってくるか……その懸念は確かに懸念として抱くに足るものであった。
「しかし八神はやてとの接触はグラシア理事官本人が望んでいるのではなかったかね?」
「それはそうなのですが……」
「グラシア理事官が理事官に就任しておよそ半年。ハラオウン三佐とスクライア司書長が八神はやてを庇っているため面会は実現していないわけだが、彼らの方から面会を依頼してきたということは、会ってもよいと思われる程度には信用を得たと見るべきだろう」
クロノとユーノは、はやてに対する高圧的で身勝手な勧誘に加え、前理事官のミヒャエルに無限書庫体制構築に関してかなりの妨害工作を受けたためか、ベルカ自治政府や聖王教会に対してはかなり懐疑的だ。敵対的とまではいかないだけでもマシかもしれないが。カリムは就任前からクロノやユーノ、はやてとの接触を希望しており、かなりの譲歩を見せて友好的な態度を示し続けている。もちろん、だからと言って融合デバイスの情報を開示したり、無条件で協力したりと、下手に出るようなことはしていないけれど。
一方のクロノとユーノも同じこと。はやての融合デバイスの問題を解決するには、どうしてもベルカの協力が必要。とは言え、はやて1人のために時空管理局と聖王教会の関係を無視して話を進めることはできないし、聖王教会に下手に出るわけにもいかない。
両者ともに、あくまで対等に。ただ対等の関係を維持するには何も敵対する必要はない。半年に亘って根気強くそう示し続けた結果、クロノとユーノはカリムにある程度の信を置いたのだろう。
「これは八神はやてと融合デバイスだけの問題ではない。時空管理局と聖王教会の今後の関係にも影響を及ぼそう。そういうレベルの話だ」
カリムは聖王教会の重鎮であるグラシア公爵の実の娘。クロノとユーノの背後には時空管理局が誇る『伝説の3提督』。
これだけでも事が個人的な話で終わらないのは確実。
加えて『最後の夜天の主』にして『現状確認されている唯一の融合デバイスの使い手』である八神はやて、そして『ロストロギア級の融合デバイス』たる『夜天の魔導書』まで関わってくるとなれば、もはや時空管理局と聖王教会という二大勢力の今後の関係にも繋がってくるのである。
ヴェロッサ個人の感情でどうこうを言えるレベルではないのだ。
「面会を拒絶するという選択肢もあるにはある。だがそれではこれまでのグラシア理事官の努力は何の意味もなくなろうし、彼女の方針にも反しよう」
「しかしそれならば非公式のような形で会うことはないのでは? 公式に互いの代表として会う形を整えるべきではないでしょうか? 姉だけではなく、複数の関係者同士で会うべきでは?」
「得策ではないな。公式の場を設ければ、聖王教会からは当然に強硬派も代表を送りこむだろう。時空管理局側も聖王教会との友好を望まぬ者が出てくる。そうなれば何も決まらんよ。最悪、局と教会の関係がその場で潰れる可能性さえある」
「……仰る通りです」
それほどまでに現在の時空管理局と聖王教会の関係は微妙なものになりつつある。本局に聖王教会との連携と融和を望む勢力がまだいるから保たれているが、地上本部はレジアスの台頭により急速に関係は悪化しているのだ。本局とて一枚岩ではない。聖王教会の影響力を削ぎ落とそうとする輩は確実に存在している。
「非公式の方が何かと都合も良かろう。ここで決まったことはあくまで参加者の間で合意が成ったというだけで互いの組織の総意ではないと言えようし、決まったとしても此度参加する者たちは局や教会の意向を決定できるほどの立場ではない。決めてきたことを持ち帰って組織の意向を伺わねばならん。裁量権を委ねられていたら話は別だが」
「ベルニッツ様は両者の接触に賛成されるということですか?」
「そうだな。ベルカにミッド。聖王教会と時空管理局。中立的に考えても、両者の結びつきはあった方がいいだろう。無論、あくまで対等が条件だ。互いにな」
ヴェロッサが若干の落胆を示すように項垂れる。膝の間で組まれた両手には力が籠められ、何かを押し殺しているかのようだった。
ヴェロッサとてこの面会が聖王教会やベルカにとって利に繋がる部分が多いことは理解している。
融合デバイスに関する技術や情報は聖王教会とてほとんど有していない。あったら当に聖王教会が実用化しているだろう。
要するに、融合デバイスの技術や情報における優位性など、聖王教会もベルカもまったく持ち合わせていないのだ。
むしろはやてと夜天の魔導書を手元に置いている時空管理局は日々の分析で遅々とはしていてもいつかは解析してしまうだろう。無限書庫とて時間はかかれど情報は必ず見つかるだろう。聖王教会の権威や影響力が回復する見込みがなく、このまま減衰していけば、時空管理局にとって聖王教会は必ずしも友好を維持するために気を遣う相手ではなくなってしまう。そうなればどんなに聖王教会が融合デバイスの量産に反発しようと、時空管理局は気にせず進めてしまうことになりかねない。
「ベルカと聖王教会にとって今が絶好の機会とも言える。今はまだ聖王教会とベルカも影響力を持ち、時空管理局にとって無視できない勢力。だからこそ友好関係の維持に3提督を始めとした本局は気を遣っており、ハラオウン三佐とスクライア司書長もまた然り」
しかしこのまま影響力が下がり続ければ、反対にますます肥大化する時空管理局は聖王教会の意向をいちいち気に留めることはなくなるだろう。『無視できない勢力』から『所詮は規模が大きめの一勢力』へと格が落とされてしまう。
「時空管理局にとっても、肥大化する局を止めることができるストッパーがいるからこそ、まだ完全な独裁状態には陥っていない」
3提督や聖王教会、ミッドチルダ政府や他の有力な勢力。彼らがいるからこそ、最高評議会の独裁状態を阻止することができている。だがそれでも最高評議会の圧力は年々強まっている。均衡を保っていた3提督さえも押され気味で、それゆえに聖王教会の融和派との友好関係は維持したいのだ。
「両者にとってこれは極めて重要な会合の機会。これが実現するかしないか、その如何で今後の動きは大きく変わる。私はそう見ている。貴官はどうかね、ヴェロッサ・アコース査察官?」
これで私情を優先して大局を見誤るようならば話にならないが、とアシュレイは口には出さないまま答えを待つ。
「…………同意します」
長い間を要したものの、ヴェロッサはアシュレイの試しをパスする答えを返すことができた。アシュレイはゆっくりと頷き、「賢明な判断だ」と認める。
「グラシア理事官へは私から話を通しても良いが?」
「いえ、そこまでお手を煩わせるわけには参りません。姉には私から話を通します」
「そうか」
アシュレイは肩肘が張ったままのヴェロッサに一息つくように声をかけ、自らも紅茶の残りに口を付けた。ヴェロッサも紅茶を口にする姿を見つつ、アシュレイは多少のフォローは入れることにする。
「……君の葛藤。私もわからないわけではない」
ヴェロッサが自らを見てくる気配を感じつつ、アシュレイは目を閉じて背もたれに身体を預けた。
「君の父、アコース侯爵は立派な騎士だった」
「…………」
「もう10年以上前になるか。前回の闇の書事件、そのさらに前の闇の書事件において、聖王教会は時空管理局よりも早く闇の書とその主の位置を割り出した。そして時空管理局より先に闇の書を回収すべく騎士団に出撃を命じた。白羽の矢が立ったのがアコース侯爵でな」
「存じております」
聖王教会やベルカ自治政府として、今も昔もベルカの遺産の回収は優先度が高い。遺産の中にはロストロギアも多く、当時のベルカの高度な技術が使われているものも少なくない。詰まるところ、時空管理局やミッドチルダを始めとした世界には渡したくないものがあるということ。
闇の書――夜天の魔導書はその最たるものである。
聖王教会も大きな組織であるが、肥大化を続ける時空管理局よりはまだマシで、初動は早かった。加えて時空管理局やミッドチルダを始めとした現在の次元世界に蔓延する情報軽視の姿勢はベルカには及んでおらず、情報戦能力も高い。おかげで闇の書とその主を先に見つけたのは聖王教会だった。
「しかしアコース侯爵は回収に失敗。遺体すら今を以って未回収だ。第4部隊も大きな損害を受けてしまった」
「……息子としてお詫びを――」
「いや、すまなんだ。責めているのではない。詫びなど不要だ」
闇の書は結局取り逃がし、一度はグレアムたち時空管理局側が回収に成功してしまった。ラルド卿を始めとした強硬派はアコース侯爵を糾弾し、責任をアコース侯爵家に取らせようとした。
アコース侯爵に何の罪もないとは言わない。しかしアコース侯爵だけを責めるのは間違っているとアシュレイは続けた。
教会騎士団は精鋭揃い。時空管理局戦技教導隊と並ぶ実力を有している。第4部隊一隊だけでもアースラ組に引けを取ることはないだろう。魔導師としての才能ならばアースラ組は群を抜いているが、なにぶん質の高い訓練を積み、数多の実戦を潜り抜けてきた騎士団とは経験値が違いすぎる。
ではアコース侯爵たち第4部隊とアースラ組。闇の書に敗れた者と勝った者。その勝敗を分けたものは何なのか。
情報だ。
時空管理局には無限書庫があった。と言っても、当時も今も『物置』『情報の墓場』のような状態だったので、無限書庫があるからアースラ組は勝てたのかと問われれば正解とは言えない。
「無限書庫とユーノ・スクライア。この2つの要素が運命を分けた」
聖王教会もベルカ自治政府も、融合デバイスの情報はほとんど持っていなかった。はやての事件のときも情報を出し渋ったと言うより、単に知っていることなどほとんどなかったというのが正しい。当然、封印方法も取り込まれた主を取り戻す方法も、ましてや管制人格と闇の書の闇を切り離す方法も、何も知らなかったのだ。
そんな事前情報が碌に無い状態で、アコース侯爵たちは戦わねばならなかった。
対してアースラ組には無限書庫という情報源と、その情報源を活かすことができるユーノの存在があった。これらがあったからこそ、なのはたちははやてを取り戻し、リインフォースを解き放ち、闇の書の闇に勝利できたのだ。何かとなのはたちを持ち上げてばかりの時空管理局や次元世界だが、こうした後方の活躍に目を向けないのはアシュレイをして『愚か』と言わしめた。
「アコース侯爵は、君の父は、情報がない中で勇敢に闇の書に立ち向かった。君はそんな父を誇るべきだ」
「……ありがとうございます」
唇を引き結びながら、ヴェロッサは頭を下げる。父を称えてくれる人がカリムにシャッハ、グラシア公爵以外にもいることが、ヴェロッサには嬉しかった。
「その父を奪った闇の書に憎悪や怨恨の念を抱くことを、私は間違っているとは思わん。良いものとはさすがに言えぬがな」
アシュレイは苦笑と共に言葉を濁した。ヴェロッサもその点については同意する。どうしたって憎悪や怨恨にいいイメージなど持たれない。自分自身、持っていても複雑に感じるのだから。だからこそ葛藤すると言ってもいいだろう。
「私が先ほど君を窘めたのは、憎悪や怨恨の念を持っていることにではない」
「承知しております。憎悪も怨恨も、向けるべきは『闇の書』であって『八神はやて』ではない、ということですね」
「左様」
はやてはむしろ被害者。彼女とて闇の書に対して憎悪や怨恨を抱いたところで何の不思議もない身であろう。
「ベルニッツ様。ベルカの騎士として恥と承知の上でお尋ねしたいことがあります」
「何かね?」
「八神はやては闇の書の主となり、闇の書や守護騎士たちを家族と呼んでいます。そして時空管理局が彼らに与えた罰は、闇の書が犯した罪に対してあまりにも軽い。こんなことが認められていいのでしょうか?」
はやてたちのときの闇の書事件でも犠牲者は出ている。死者こそ出てはいないが、多くの武装隊員が負傷し、魔力を奪われた。リンカーコアから魔力を奪うというのは本来危険な行為だ。中にはリンカーコアの機能が低下して武装隊員を辞めざるを得ない者もいた。戦いの場に身を置くのだから覚悟の上であって然るべきなのが武装隊員というものだが、だからと言って納得できるものでもない。はやてや守護騎士、闇の書を憎む者は決して少なくないはずなのだ。ヴェロッサの問いは、被害者や遺族たちの誰もが抱く当然の想いであろう。
「…………」
さしものアシュレイもすぐには返答しなかった。
――できなかったのではなく、できないように見せるためのものでしかないが。
ヴェロッサはじっと答えを待っていた。グラシア公爵にもカリムにもシャッハにもしたことがない問い。言いづらくて言えないまま今日まで心に押し留めていた疑問。初めてその思いを向けた相手がどういう答えを返してくれるのか……ヴェロッサは期待や緊張を否が応にも抱いてしまう。
「……申し訳ないが、君が望む回答を私は持ち合わせていない」
「……そう、ですか」
だから、アシュレイの心苦しそうな声で示された回答に落胆をどうしても抱いてしまうのは、仕方のないことなのだ。
「今は、な」
「今は?」
だがアシュレイの回答には続きがあった。項垂れた顔を持ち上げて、ヴェロッサはその意味を問う。
「前回、私はグレアムに秘密裏に協力し、封印するためのデバイス『デュランダル』を作製した。それは知っているかね?」
「はい」
「私も闇の書に対してはある種の執念がある。故にこその協力体制だった。私からすれば、その前の闇の書事件同様に魔力蒐集行動に出た闇の書と守護騎士どもは『悪』だったからだ」
また同じ悲劇を起こさせはしない。グレアムのその執念を自分もまた抱いたのだと、アシュレイは語った。まさか主であるはやてが何も知らず、守護騎士が独断ではやてを助けようとして蒐集をしていたなどと知らなかった。プログラムでしかないはずの守護騎士がそんな行動に出るなどとは到底考えてもいなかったのだと。
「だが実際のところ、八神はやては先代の闇の書の主とはまるで違う人物。グレアムも私も彼女の人柄を知って、真実を知って、最後まで鬼にはなれなかった」
「理解できます。理解できますが……!」
「だから私は、今は見守るに留めようと思って今日まで過ごしてきた」
「では、八神はやてが不穏な行動を見せでもしたら如何なされるのですか?」
「――是非に及ばず」
「!」
身が竦むとはまさにこういうことを言うのだろう。その瞬間、ヴェロッサは怖気すら感じて身の毛がよだつ思いだった。
それほどに。それほどまでに。
アシュレイが僅かに開いた瞳に映す意思は『絶対』だった。
いったいアシュレイがその心に宿す執念とは何なのか、ヴェロッサは問いたくなった。が、やめた。興味本位で聞いていいことではないと本能が訴えていたから。
「グレアムがよく言っていた。『信頼を裏切らぬこと』とな。八神はやてがそうした行動に出たその時こそ、私は今度こそ躊躇うことはないだろう」
「……軽々しく申し上げていいことではないと理解していますが。それでも敢えて申し上げます」
「言ってみたまえ」
「ベルニッツ様のお考えに、全面的に同意いたします」
このとき。
ヴェロッサが『思考捜査』でアシュレイの思念を読んでいたら。
ヴェロッサは即座に撤回したかもしれない。
顔には表さない心の奥底で。アシュレイ・ベルニッツは、冷酷な笑みを浮かべていたのだから。
「アコース査察官。あくまで八神はやてがそうした行動に出たときの話だ。それまでは寛容の心を忘れてはならない。理解しているかね?」
「もちろんです」
「ならばよい。私も賛同してくれる得難き同志を得て心強い限りだ」
「光栄です」
「闇の書の暴走は、もう二度と許してはならない」
「はい」
差し出されたアシュレイの手を、ここに来た時の思い込んだ顔とはまるで正反対の活き活きとした表情を浮かべながら、ヴェロッサはその手を固く握り返した。
「ベルニッツ様」
ヴェロッサが出て行った後、その背中を見送っていたアシュレイ。唐突に背後からかけられた声に、しかしまるで驚くこともなく振り返る。
「どうかしたかね、ハルツォク」
すると部屋の片隅に長髪を後頭部で丸く結わえている理知的な女性がいた。さらにもう1人、まったく同じ髪型ながら白銀という色違いの髪を持つ女性も。最初からそこにいたとでも言うかの如く、当たり前に彼女たちはそこにいた。双子と見紛う外見をした彼女たちは、アシュレイから声をかけられるとゆっくりとソファーの方に歩いてくる。黒髪の女性は時空管理局執務官の黒服に身を包む『フローリアン・ハルツォク』であり、白銀の髪を持つ方は彼女の補佐官である。
「その物騒なものを仕舞いたまえ」
視線を落とせば、2人揃って手にはコンバットナイフが。これまた黒と白。アシュレイが苦笑と共に指摘するとようやく気づいたようにコンバットナイフ型のデバイスを待機状態の腕輪に戻した。
「さすがに迂闊と言わざるを得ないのではありませんか?」
「君の指摘はもっともだ。謝罪しよう」
考えた上での握手だったのだが、敢えてアシュレイは謝っておいた。
執務官を務めているだけあり、外見からも理知的に見えるフローリアン・ハルツォク。その実、彼女が内に秘める祖国への忠誠心は純粋に強い。加えて完璧主義者であり、ゆえに執務官としての仮面を演じるにしても一流の女優の如くまるで違和感がない。執務官にしても裏取引などをしてなったわけではなく、きちんと執務官試験をパスしてなっている。自らが『グレイバック』と疑われる要素を完璧に排してきたのだ。だからクロノやユーノ、3提督を含め、彼女がそうなのだと見破った者は未だかつてない。
そんな彼女の完璧を崩しかねないのが、他でもないヴェロッサ。
半年前のクロノが賭けに出て重傷を負いながらも成果を出した事件。あのとき、ヴェロッサに『思考捜査』をされたことで、フローリアンは自らが『グレイバック』だとバレてしまうリスクを背負ってしまった。
今のところ、ヴェロッサはあくまでクロノに関する記憶だけを捜査したようなので、フローリアンの真の顔にまで及んでいない。半年間アシュレイもそれとなく会話の中で探りを入れてみたものの、ヴェロッサが『グレイバック』に気付いた様子はなかった。
だがフローリアンにすればこれ以上ない大失態だったのだ。以来、フローリアンはヴェロッサを殊の外警戒している。隙あらば殺しかねないほどに。
「握手した途端、捜査されかねません。あのような行為はお控えください」
「自重しよう。ただ言い訳するわけではないが、ある程度確度があってのことだったのだ」
賭けではあったが、と心中でのみ付け加えるアシュレイに、フローリアンは疑念の目を崩さない。完璧主義は心強くはあるが一度崩れると厄介だなと分析しつつ、アシュレイは自らの根拠に自信を持たせつつ説く。
「半年かかりはしたが、カリム・グラシアとヴェロッサ・アコースの信頼を得ることには成功したと思っている」
「そのぶん強硬派のラルド公爵はずいぶんとベルニッツ様を罵っているようですが」
「放っておきたまえ。あれこそただの駒。ちょうどいい風除けに過ぎん。騒ぐだけ騒いでおけばよい。所詮あれには何もできはせん」
「ハイメロート様とシュナイダー様は愚痴を言っておられましたよ? あの馬鹿を抑えるのが疲れるからあまり怒らせるなと」
「それはすまないと思うが、まあ忍耐願おうか」
ラルド卿が暴れるのに対して溜息を吐きながら抑えるバスティアンと、額に青筋を浮かべながら鬱陶しそうにしているミヒャエルを想像して、アシュレイは気苦労をかける同志たちに何か贈ってやろうと決めた。
「カリム・グラシアは私を3提督たちの仲間として迎え入れるよう推薦してくれるようでね。ヴェロッサ・アコースはこの通り、姉よりも先に私に相談を持ってくるようにもなった」
「何かと便宜を図ってやりましたからね」
「別に彼らのためだけにやったわけではないがね。我々にとっても都合が良かったに過ぎない」
無限書庫の強硬な排除が不可能なら、無限書庫に恩を売って信用を得ることで影響力を持てばいい。あそこに埋もれている情報には『グレイバック』にとっても価値のあるものとてあろう。都合の悪い資料は機密指定にして誰もが目にできないようにしてしまうもよし、封印処理を施すようにしてしまうもよし。やりようはいくらでもある。ただそのためにはクロノやユーノの信用を得る必要があり、ひいては3提督との関係も強化しておかねばならない。カリムやヴェロッサへの力添えはそこに繋がるのだ。
「とは言え、3提督とのパイプは難しいだろうな」
「やはり前回の闇の書事件でギル・グレアムに協力していたことが尾を引いておりますか?」
「うむ。3提督の1人、レオーネ・フィリスにとってギル・グレアムは懐刀だったからな。ギル・グレアムが職を辞したことで奴は片腕を失った。協力していた私に信を置けぬのは道理だろう」
ただ3提督との関係は一定の距離を置きつつでよいとアシュレイは考えていた。何しろ最高評議会との繋がりがあるのだ。あまり近すぎるとバレかねない。近すぎず遠すぎず、信用し過ぎず、かと言って過剰に疑われることもない、そんな距離があった方がいい。
「それにしてもベルニッツ様」
「何かね?」
「あの若造に八神はやてへの憎悪や怨恨の念を持たせ、上手く八神はやてを罠にかける手もありましたでしょうに。せっかく煽っておられましたのに、わざわざ八神はやてに対して寛容に接しろなどと最後に諭すというのは、いったいどのような意図があってのことなのですか?」
「意図も何も、君の言った通りの手を考えている」
「ではなぜ諭すのです?」
「より完璧を求めてのことだ」
顔には示さずとも、そのとき確かにフローリアンが反応したことを、アシュレイは長年の経験から感じ取った。完璧主義者のフローリアンにとって、『完璧』であることは興味関心を引くものなのだ。ゆえにアシュレイの発言も無論そのように意図してのこと。
「ヴェロッサ・アコースは八神はやてに対する嫌悪や怒りを抱えている」
夜天の魔導書を『闇の書』と呼び、はやてのことを『闇の書の主』と口にした。そのことからも明らかだ。
だがアシュレイは、ヴェロッサのはやてに対する個人的なマイナス感情が、親を殺されたという復讐心や、自らが不遇な過去を経験した原因だという怨恨からくるものではないと感じていた。まったくないとは言わないけれど。
「あれもベルカの騎士だ。グラシア公爵とカリム・グラシアという家族を得たことが大きいのだろうな。シャッハ・ヌエラという教育役もよかったのだろう。ヴェロッサ・アコースは他者を恨み憎むことに対して潔くないという騎士道精神が根付いているし、自らを厳しく律しなければならないという意思もある」
飄々とはしているものの新たに得た家族や教育役によって与えられたものは、確実にヴェロッサの中に根を張っていた。
優しいだけではなく、時には厳しく叱られることもあったのだろう。グラシア公爵家に匿われ、我が子同然に育てられたことで、ヴェロッサは捻じ曲がることなく育った。『思考捜査』の力も正しく使うことを教えられ、力に飲まれることなく、かと言って驕ることもなく。上手く共存する術を手にしたと言える。
査察官になったことにしても、グラシア公爵やカリムにシャッハを支えたい、恩返しがしたいという念があってのことだろうし、『猟兵戦舞』という戦い方を身に付けたのも『
ただそんなヴェロッサもまだ過去を完全に拭い去れたわけではないのだろう。そのことに気付いていたのか、それともクロノやユーノ、はやてたちを見て気づかされてしまったのか。それはわからないが、気づいていることは間違いないとアシュレイは見ていた。
「あれを今何より苛んでいるのは、八神はやてに対する感情と自らの騎士道精神との葛藤だ」
「葛藤、ですか?」
「己が未熟と八神はやての潔さ、その差に苛立っているに過ぎない。ああ、もっと言えば、クロノ・ハラオウンとユーノ・スクライアに対する感情も絡んでいるだろうな」
「……なるほど。ハラオウン三佐は父親を闇の書に殺されていましたね。スクライア司書長は両親のいない孤児で、自らの家族代わりであるスクライア一族からも距離を置いている。両者ともに若造の理解者になれるところを持った立場」
「そうだ。にもかかわらず、彼らは八神はやてを率先して守っている。彼らへの煮え切らぬ態度はその辺に理由がありそうだな」
2人に対する『微妙』という言葉から、アシュレイはそこまで推察していた。ヴェロッサはそこまで意図していたわけではないかもしれないが、ヴェロッサ自身が気づいていない葛藤も、アシュレイほど時を重ねた存在からすれば思考捜査など用いなくとも読み解くことは容易い。
所詮は青い。まだまだ若い。若気の至りとはこのことであろう。
「であれば尚のこと、その辺を併せて突いてやればよろしかったのでは?」
「いや、今はこれ以上突くと藪蛇だ。あれも査察官だからな。下手に煽り過ぎれば不審を抱きかねん」
「確かに。性急すぎましたか」
「君の懸念はもっともだ。今すぐにでも消したいだろうが、使い方さえ間違わなければあの姉弟は役に立つ。少しずつでよい。私に誘導されて敵視するのではなく、ヴェロッサ・アコースが自らの判断で八神はやてを敵視するという形を整えたい。そうすれば誘導されているのではないかという疑念を抱きづらくなるからな」
「とすると、やるべきことはアコース査察官がそのような判断を下すように周囲の状況を操作することですか」
「左様。手っ取り早いのは八神はやてだろうな。現状、あの娘が一番ヴェロッサ・アコースの感情を刺激しやすい。良くも悪くもな」
「上手く逆撫でする方向に持っていければよいのですが」
「なに、ヴェロッサ・アコースが八神はやてに抱く感情は否定的なベクトルに傾きつつある。すでにな」
はやてを『悪』とすることを諭しはしたが、はやてを監視しているアシュレイに同調するということは、すでにはやてに対して懐疑的であることの証左。
常のヴェロッサならば自らがすでに偏った見方になってしまっていることに気付いてもいいだろう。査察官はあらゆる視点から物事を見て事の良し悪しを見極めねばならないのだから、一方的な考えに偏ることは褒められない。
アシュレイの存在が、ヴェロッサの感覚を狂わせてしまっているのだ。
アシュレイは非常に中立的な存在で知られた知識顧問官。どの勢力にも組することはない――と、見られている。ましてヴェロッサはアシュレイのその泰然さに尊敬の念を抱いている。
そんなアシュレイがはやてに対して寛容と厳格を以って見定めようとしているため、ヴェロッサはアシュレイに同調することはまだ中立を保てると錯覚しているのだ。アシュレイが自分のことを『同志』と認めてくれたということもまた一因だろう。
すべてが計算された策略のようで、フローリアンは言葉もない。『思考捜査』のレアスキルもなしに他者の思考・性格・心理を読み解き、信用を得て、本人さえ気づかないうちに望まぬ方向へ誘導してしまう。あからさまに強引な手法で強硬策に走るミヒャエルとはまるで対照的。それでいて――冷徹。その様は『完璧主義』のフローリアンをして完璧だと思わしめた。
「である以上、八神はやての行動はヴェロッサ・アコースにとって常に否定的に捉えがちになろう。存外、事は勝手に動くかもしれん。とにかく今は状況を観察する。君も今は特に目立つ行動をせず、『日常』に徹したまえ」
「承知いたしました。アコース査察官への過剰な警戒は解くよう心がけます」
フローリアンが胸に手を当てて丁寧に頭を下げる。彼女の『完璧主義』を満足させられたのか、非常に気配も穏やかになっていた。『若造』ではなく『アコース査察官』と呼称も元の穏やかなそれに戻っていることに安堵しつつ、アシュレイは1つ頷いて返すのであった。
彼女が手を当てている胸元で、逆三角形のバッジが鈍く光る。黒と白と黄の3色で構成されたそれは、アシュレイの胸元でも怪しく光っていた。