本当に、いた。
異形の怪物。人ならざる者。
人間の魂を餌とし、無意識に世界を壊してしまう存在。
(あれが、悪魔……!)
視線の先にいる、確かに悪魔と呼ぶに相応しい禍々しい姿を前に、固唾を呑む。
ふと、善子は悪魔の足元にあるものに目がいく。それはタイヤのついた鉄の塊。黄色い模様はついさっき見たばかりの、今自分が乗っているバスの外装そのものだった。
(まさかっ、あの爪でバスを切り裂いたの……!?)
「鞠莉さん!大丈夫ですか?!」
数瞬、悪魔の姿に呆気にとられていた善子だったが、梨子の悲鳴にも似た叫びに正気に戻る。
視線を向けると、強く打ったのか、鞠莉が頭を抑えよろけながら立ち上がった。
「え、えぇ、なんとか……」
「二人とも! 早くここから離れるわよ!」
鬼気迫る善子の様子に二人は目を丸くして驚くが、今はそれどころではない。悪魔が右手を振り回しながらこっちに向かって走って来る。そして二人は悪魔に気づいてない。
慌てて二人の手を引っ張り、狭い車内を走る。幸い他の乗客は既に避難し、あとは善子たちと運転手のみ。
善子がコンクリートの地面を踏んだ時、悪魔はバスの後部に向かって爪を振り下ろす瞬間だった。
───ズバァッ!
なんの抵抗もなく、爪はバスを切り裂いた。ガラスのリアウィンドウも、鉄製の車体も、まるで最初からそういうオブジェだったかの様に、綺麗な切り口に合わせて斜めにずれる。
ブルブル、と。
善子は自分の体の震えを感じた。一般人なら得体の知れない怪物を前に恐怖するのは当たり前のこと。しかし、それとは別にもう一つの恐怖が善子の中にあった。
───あの怪物と、戦わなければならない。倒さなければ、ならない。
高速で移動する鉄の塊すらも容易く切り裂ける凶器を持つ、あの怪物と……
怯える善子の背後で、鞠莉と梨子も怪物に気づき、驚きの声をあげる。
「な、何よあれ?!」
「ま、まさか、さっき鞠莉さんが言ってた怪物って……!」
「お客様!早く避難を!!」
バスから降りてきた運転手の声を聞き、善子は我に返る。
未知の怪物に周囲はパニック状態だった。
『善子何してるの!早く変身よ!!』
「ぁっ……」
腰にベルト───ヨハネドライバーが現れ、骸骨からヨハネの声がする。善子は震える手でクロウクリスタルを取り出す。
がシャンと音がして骸骨の口が開く。変身するには、そこにクロウクリスタルを入れる必要があるのだが、恐怖で手が震え、思うように入れることが出来ない。
(早く、はやく変身しなきゃっ……!!)
ドライバーに視線を落とし、必死に手を動かす善子は気づかない。彼女に向かって悪魔が右手を振り上げながら走ってきていることに。
(はやくっ……はやく!!)
「よっちゃん、危ない!!」
悪魔が善子の眼前にまで迫った瞬間、後ろにいた梨子が善子の肩を抱き、横に跳ぶ。悪魔はその鋭利な右手を振り下ろすと、豪快な破壊音を立ててコンクリートが深く抉れる。
空中を舞う瓦礫の一部が梨子の右足に落ちた。
「いっ……!」
「り、リリー!」
「二人とも!はやくこっちに!!」
鞠莉が駆け寄り二人の手を掴む。しかし足の痛みで梨子はうまく立つことが出来なかった。急いで善子が肩を貸すも、悪魔は待ってくれない。今度は三人に向かって、右手を振るう。
(だめっ、間に合わな───)
───黒い靄が怪物にまとわりつき、動きを止めた。
何が起きたのかわからず、三人はポカンとしていたが、『早く行きなさい!』という聞き覚えのある声に正気に戻り、急いでその場を離れた。
──────
「……これで良しっと!梨子、痛くない?」
「はい、なんとか……ありがとうございます」
数分後、怪物のいた場所から離れた三人は、瓦のすぐ近くにある廃ビルの中にいた。鞠莉は梨子をベンチに座らせ、ガーゼを当て包帯を巻く。軽い打撲のようで歩くときに痛みはあるが、大した怪我ではなかった。梨子は平気なことをアピールするかのようにプラプラと揺らして見せる。
「……ごめんなさい、リリー。私のせいで……」
「よっちゃんのせいじゃ無いよ。悪いのはあの怪物なんだから。私こそ、逃げるのに足引っ張っちゃってごめんね」
俯いて謝罪する善子の手を握り、梨子が微笑んで励ます。その言葉に善子は自分が情けなくて、溢れそうになる涙を唇を噛むことで堪えた。
(私が、ちゃんと変身できてれば……)
『ほんと、その通りよね』
自責の念に駆られていると、イラついた声が善子の脳内に響く。つい周りを見渡すが、ヨハネの姿はない。そういえば、自分の中にいると言っていたことを思い出す。
(ヨハネ、さっきはありがとう)
『次は無いわ。あんたがまた変身できずに死にそうになっても、私は助けない。容赦無くあんたを見捨てる。契約はね、あんたが死なないと破棄されないのよ。戦えない奴と一緒にいるよりも、さっさと死んで別の人間と契約した方がましだわ』
『肝に命じて置くことね』と、捨て台詞のようにそう言うと、それ以降ヨハネは喋らなかった。語気の強さと口調の荒さから、そうとう怒っていることが伺えた。
しかし……
(あんなのと、戦うなんて……)
先ほどの悪魔の暴れ様が頭の中でフラッシュバックし、善子は自分を抱くように腕を掴む。自分があの悪魔と戦い、そして勝てるイメージが湧かない。
それどころか、あの爪に切り裂かれて、即死してしまうイメージのみが、善子の脳内を埋め尽くす。
(それに、あの悪魔、私を狙ってた……私が、契約したから……?)
「はぁっ……はぁっ……!!」
顔は青ざめ、呼吸は荒くなり、ガチガチと噛み合わせが合わなくなる。今更ながら、とんでもない世界に足を踏み入れてしまったことを理解した。
戦える力はある。しかし現実は漫画のように甘くは無い。
ずっと前から分かっていた。自分は主人公じゃ無い。死ぬのだ。首を切られたら、心臓を貫かれたら、血を流し過ぎたら。
辛うじて生きていられたとしても、五体満足でいられる保証もない。
(怖い。いやだっ、戦いたくない!死にたくないよっ……!)
恐怖で壊れそうになる心を押さえ込むように、腕に力を入れる。しかし震えは止まってはくれなかった。
(死にたくない!死にたくない!死にたく───)
ぎゅっ
柔らかく、暖かい何かに包まれてる。
気づくと善子は、鞠莉と梨子に抱きしめられていた。
「心配しなくても大丈夫よ善子。私たちがついてるわ」
「そうそう。次にあいつが出たら、私がやっつけちゃうんだから!梨子ちゃんビーム!ってね」
優しく諭すような言葉に、体を支えられるような気さえした。
二人も、怖かったはずなのに、梨子は怪我までしてるのに、恐怖でいっぱいになる善子を、それでも勇気づけようとしていた。
もちろん、二人は善子の事情は知らない。震える理由も、ただ怪物が怖かったからとしか思ってない。それを善子は分かっていた。
分かっていた上で……その励ましに、体の震えは止まった。
「マリー……リリー……」
泣きそうになる顔を腕でゴシゴシと擦り。一度だけ抱きしめ返すと、パッと二人から離れる。
「ふっ、あなた達の助けなんて必要ないわ! あんな悪魔、この堕天使ヨハネにかかれば、指先一本で倒せるんだから!」
ビシィッと決めポーズをとる善子。いつも通りの様子に三人は顔を見合わせて笑いあった。
「さてっと、二人はここでウェイトしててね。すぐ迎えを寄越すように連絡するから」
携帯を取り出し、家に電話を掛ける鞠莉。そういえば曜へのお見舞いに行く予定だったことを思い出すが、この状況で行くのは少し無理がある。今日家に帰ってから、電話をしてみよう。そう考えていると、閑散としたビル内に、壁にもたれかかる鞠莉の声が響いた。
「ハロー。えぇ、私よ。……うん、ちょっとトラブルがあってね。迎えが欲しいの、〇〇町にある───」
───ドゴォォオオ!!
突如、破壊の爆音が鳴り響き、瓦礫と共に鞠莉の体が宙に浮いた。一メートルほど浮かんだ体は無抵抗のまま地面に叩きつけられ、ゴロゴロと転がる。すぐには、何が起きたのか理解出来なかった。
それが、悪魔が持ち前の怪力で鞠莉の背後の壁を吹き飛ばした音だと分かった瞬間、善子は駆け出した。
「マリー!」
「鞠莉さんっ!?っ……ぐぅっ」
梨子も続こうとするが、足の痛みでうまく立つことが出来ない。善子は鞠莉に駆け寄ると、急いで安否を確認する。
「マリー!大丈夫!?」
「うっ……」
善子の呼びかけに鞠莉は小さく呻く。まだ息があることにホッと安堵する善子。しかし、安心するのもつかの間、悪魔が再び右腕を振り上げて自分に襲いかかってきた。
「っ……」
再び恐怖に支配されそうになりながらも、クロウクリスタルを取り出す。ヨハネは何も言わないが、すでにドライバーは腰に現れていた。急いで骸骨の口に入れようとするも、勢い余ってクリスタルが指から滑り落ちてしまう。
既に怪物は近くまで来ている。拾っていては間に合わない。
死を覚悟し、ぎゅっと目を閉じる善子。
怪物は右腕を───振り上げたまま善子の横を通過した。
「───え?」
その事に拍子抜けしペタンと腰を落とす善子。しかし、脳裏に浮かんだある一つの考えに、一気に顔から血の気が引く。
「まさかっ───」
───そう、
(
最初、バスの後部を切り裂いた時、一緒にいたのは……?
バスから外に出た時、怪物が私を目掛けて駆けてくる、その後ろにいたのは……?
今、私を見向きもしないで通り過ぎて、その先にいるのは……?
)
───悪魔の狙いは、善子ではなかった。
「───リリーー!!!」
叫んだところでもう遅い。
怪物の爪は梨子の頭に向かって、容赦無く横薙ぎに振るわれる───。