そこは夜。
ぼんやりと霞む視界。
それでもわかる、月の大きな夜だった。
眠気が襲い来る。
途切れそうになる集中力を、気力で保たせる。
震える手を噛み、血を流す。すると痛みが離れかけた感覚を呼び戻す。
そして再び、針の穴に糸を通し続けるような、繊細でいて単調でいて、失敗できない膨大な作業に身を投じるのだ。
見上げれば、そそり立つ湾曲した壁面。
私は血の滲んだ手で、その壁に配線と設置を施してゆく。
うわごとのように呟きながら、何かを築いてゆく。
たった一人で。何分も。何時間も。
夜が明けるまで――。
「朝じゃん」
目覚めると、やっぱり朝だった。
夜ではない。どうやら、机の上で作業したまま、腕を枕に寝落ちしていたようだ。
ふむ、寝る時くらいソファーの上で、ブランケットを被りながらゆっくりしたいものだが……それは今日の夜に回すとしよう。
今は、朝食を食べたら学校の支度を済まさなければ。
……って、時間もかなり切羽詰まってるじゃないか?
おかしい。レム睡眠は浅い眠りだって聞いたはずなのに。
「急がなくては……うぐっ」
起き上がろうとして、首に激痛が走る。
寝違えた。
机の上で手品の小道具の仕込みをしたまま眠った反動がここに来たらしい。
「寝不足だけで勘弁してほしかったな……」
仕方ないので、首を傾げたまま早めの朝食を取る。
取ろうと思ったが、首が傾いたままでは啜るという動作が難しい。
「やれやれ」
私は早々に朝食を諦めて、さっさと身支度だけ整えることにした。
斜めの角度のままに、姿見で自分を微調整。
「うーん、頬に跡ついてる。学校までに消えるかな……」
「にゃぁ」
「んー? そりゃもう当然さ。これが残ってたって、私が格好良いのは変わらないし……」
「んにゃんにゃ」
「はいはい、朝ごはんね。わかってるよ」
「にゃ」
今日も朝早くから慌ただしいが、上手い感じにやっていくとしよう。
「じゃ。いってくるね、ワトソン」
「にゃ」
通学路にて、首を傾げながら考える。
昨晩のマミの暴走。
あの後、実質的にあれを引き起こした私の思慮の浅さといったら酷いものだなと、すぐに反省した。
“魔法少女はいずれ魔女になる”。
なるほど、真実を知らない魔法少女がいきなりその事実を突きつけられても、困惑するに決まっている。
人によっては酷いショックを受けるかもしれない。
私には、その辺りの配慮が全く足りていなかったのだ。
これからは、もっと気をつけて喋らなくてはならないだろう。
……そう考え始めると、他にも口から滑らせてはいけないものがありそうだ。
……知らないうちに私、誰かを傷つけていないかな。
ちょっと不安だ。
いや、しかし。それはそれとしてだ。
マミは今、大丈夫だろうか。
昨日はあの後、泣きじゃくるマミに成功率四十%弱のカードマジックを披露するなど、彼女をあやし続けたのだが、効果があったのかは不明だった。
一応、彼女の部屋まで送りはしたけれど……今頃、自宅でソウルジェムを真っ黒にさせていたらと思うと気が気でない。
私は首を傾げているが、これは疑問というより懸念である。
うーむ、思い悩むことの多いこと……。
「おっ?」
「くるっぽー」
歩いていると、以前におんぼろな教会前で見かけたやつにそっくりの、白い鳩と出くわした。
よし。さっそく捕まえよう。
時間停止は使わない。
変身もしない。
ただ強化した身体だけで、鳩を追う。
「待てー!」
待てと言って待つわけもない。
鳩は私を小馬鹿にするかのように、颯爽と町中を低空飛行してゆく。
学校側に追い詰めようとしていたつもりが、随分な遠回りになりつつある。
鳩はそれだけ素早く、タフだった。
すれ違う朝の通勤スーツ共は、どれも似たような浮かない面持ちで歩いている。
彼らは全力で鳩を追う私をちらりと見て、“おかしなやつだ”と顔をしかめてみせたり、“気楽でいいな”とため息をついたりしている。
だが、そのような視線など、私にとってはどうでもいいことだ。
私にとって今一番重要なのは、鳩なのだから。
夢を追いかけて、何が悪い?
「……あっ」
なんて馬鹿正直に追いかけていたら、必死に逃げていた鳩が大きな建物の窓に侵入してしまった。
あれは何階だろうか。ともかくまずい。
「だが、袋のネズミとも取れるか……? いや、でもさすがにもう時間が……うううむ……」
よし、決めた。
「ちょっとくらいなら遅刻しても平気だろう」
なんたって、私は優等生だからね。
「……ほむらちゃん、まだ来てないんだね」
一限目が終わった教室は、短い中休みによって緩めの空気が漂っている。
そんな中でまどかとさやかの目についたのは、容姿端麗な転校生の空席だった。
「確かにねぇ。何の連絡もしないで休むなんて……ほむら、何かあったのかな」
「……大丈夫かな。魔女とか……何かあったんじゃ」
魔法少女の活動は、危険なものだ。
ここ数日の魔女退治見学によって、二人とも正しい認識を持ちつつある。
魔女の結界の中で死んだ場合、遺体は見つからない場合がほとんどだという。
何気なく教わった一つの言葉が、どうしてか今、まどかの頭から離れなかった。
「うーん……まだ一限目が終わったばかりだし、なんとも……」
さやかが言ったその時、教室の戸が開く音がした。
誰かが来たのだ。
二人はほとんど反射的に、そちらへ顔を向けた。
「……おはよう」
が、それは暁美ほむらではない。
先輩であり魔法少女の、巴マミだった。
ひとつ下の学年の教室を訪れた彼女は、その整った容姿もあってクラスから注目されていたが、視線は何かを探すように、室内を泳いでいる。
「マミさん! おはようございます」
「おはようございます」
「お、おはよう、美樹さん、鹿目さん……ええと、暁美さんは?」
「ほむらは今朝からいないんです……欠席とか遅刻とか、何も言ってないみたいで」
「マミさん、何か知りませんか?」
同じ魔法少女なら、知っているかもしれない。
だが、マミの表情は明らかに寝耳に水といった風であった。
「え……私は、知らないけど……心配ね、どうしたのかしら」
まだ学校に来ていない暁美ほむら。
友人の二人は純粋に心配しているようだったが、昨晩の出来事の当事者であったマミとしては、内心気が気でなかった。
(暁美さん……? まさか、そんな……昨日の事で怒っているのかな……そうよね、当然だわ。あんな、乱暴な……錯乱したからって、いくらなんでも……)
昨晩のマミは疲れ果ててすぐに眠ってしまったが、目覚めた朝には強い後悔に襲われていた。
唐突に知った魔法少女の真実。それにもまだ整理はついていない。
だが何よりも、同じ魔法少女であるほむらを、動転していたとはいえ殺しかけたという事実が、自分のことながら信じられなかったのだ。
それでも、しっかりと記憶はある。殺意を持って、撃ったことも……。
(私、やっぱり危ないからって……見捨てられちゃったのかな。……でも、そんなの当然よね……私、昨日暁美さんのこと、あんなにひどいこと)
思い悩むマミの背後に、ひょいと人影が現れる。
「おはよう、マミ」
「ひいっ!?」
「うおっ」
「ほむらちゃん?」
“みんな何をそんなに驚いているのだろう”。
そんな顔をして現れた彼女こそ、話題の渦中にいた魔法少女、暁美ほむらであった。
「おはようほむら、心配してたんだぞー?」
「何かあったの? ほむらちゃん。もしかして、病気とか……」
呆然としたまま未だ復帰しないマミをよそに、ほむらは二人を安心させるように薄く微笑んだ。
これといって変わった様子はない。いつも通りの自然体の彼女である。
「いいや。ジョギングしてたら遠回りしてしまったようでね。私は平気だよ」
「すげえ健康的……ってアンタ病弱じゃなかったんかいっ」
「走れば大抵の病気は治るものさ」
さやかはビッと立つ親指を、胡散臭いものを見るような目で見つめていた。
「ところでマミ、そこどいてくれないと私が教室に入れないんだが」
「あ、暁美さん……」
「ん?」
この教室では大っぴらにし辛い話題であると、マミはテレパシーに切り替える。
『あの。昨日の……怒ってない?』
『別に』
『……ごめんなさい私、どうかしてたわ……ううん、ショックが大きすぎた、……いえ、私が脆すぎたのね。頭がパニックになっちゃって、それで……』
『え? コーヒーの話じゃないの?』
『え?』