「……?」
病室のベッドの上で、上条恭介はゆっくりと目を覚ました。
窓の外は暗い。
中途半端な時間に起きてしまったせいか、彼はどうにも落ち着かない気分だった。
「いや、違う」
が、すぐに覚醒した感覚は、それを否定する。
落ち着かない。寝起きだから。それだけのことではない。たったそれだけで済ませるような、そんな簡単な違和感ではなかったのである。
(これは……変な時間に目覚めたからってわけじゃない。何か、おかしい。懐かしいんだ……何かが……そう、何か……)
恭介は体を起こし、身じろぎした。
「え?」
やはり、感じたのは違和感。
それもはっきりとした、大きすぎるものであった。
(なんだ、この感覚……)
間違いではない。
その懐かしい感覚は、紛れもなく彼自身の左手から発せられるものであったのだ。
「そんな」
シーツの衣擦れ。蒸れた包帯の不快感。消え去った麻痺。
(嘘だろう)
忘れ去っていたはずの全ての感覚が、自分の左手に戻っている。
それは、もう二度とありえることではないと諦めかけていた、彼にとって何物にも代えがたい願いであった。
「たちの悪い夢を、見させるなよ……!」
希望は裏切られるもの。この世界には失意しかない。
だから唐突に降って湧いたその幸運を、恭介は信じられなかった。
しかしその左手がしっかりと――動いてしまえば。
もはや彼には、現状を信じるより他にない。
「う、うそ……そんな、ことが……!?」
喜んでいいのか、驚いて良いのか、笑っていいのか。
それとも、泣くべきなのか。
今の彼には、判断がつかない。
とにかく恭介はこの左手が現実なのだと第三者の目で証明してもらうために、急いでナースコールを押したのだった。
「ひどいよ、キュゥべえ……どうして嘘ついてたの?」
「嘘をついていたわけじゃないよ」
まどかの部屋の窓際で、白猫の影が揺れ動く。
大きな尻尾はいつも通り、気まぐれな様子で左右に振れていた。
まどかにはキュゥべえのその平静さが、とても不気味なものに見えていた。
「そんなの、ウソだよ……知ってるのに言わないなんて、騙してるのと同じだよ」
「僕は人間じゃないんだから、思考回路が全く同じだとは思ってほしくないな、まどか」
「……」
「これでも僕は僕なりに最善を尽くしているつもりなんだよ?」
悪びれもしないキュゥべえは、小動物のように首を傾げる。
しかしそんな媚びた仕草も、今は詐欺師の振る舞いの一つのようである。少なくともまどかはそう感じた。
「……ソウルジェムが濁りきると、グリーフシードになるなんて……」
今日、まどかがさやかから聞かされた話は、あまりにも衝撃的なものであった。
魔法少女が魔女になる。それは、今までの彼女の中の魔法少女観を大きく覆すほどの、あまりにも悲惨な真実。
「それを知らずに契約しちゃってたら、私……!」
「けど君たちは暁美ほむらから、ソウルジェムは魂だということは聞かされているじゃないか」
「今では聞いたけど、言わなかったじゃない……ひどすぎるよ、キュゥべえ……」
「その魂が濁りきるのだから、予想はつくものと思っていたんだけどなぁ。僕は正直、ある程度の危機感は伝わっていたかと」
「……無茶いわないでよ!」
まどかの涙が頬から溢れ、毛布の上に落ちた。
「私が知らずに契約しちゃったら……! 魔女になったらどうするの! 世界はどうなるの!?」
「大変なことになってしまうだろうね。けれど、それは確実な未来じゃないんだ」
「だからって……!」
「要はソウルジェムが濁らなければいいだけの話だろう?」
無感情な赤い瞳。
人の感情を意に介さない無機質な声。
窓際の彼をよくよくじっくりと眺めて、まどかは本能的に、彼とのこれ以上の言い合いは不毛なのだと悟った。
「……帰って」
「……」
「キュゥべえって……もっと、話が通じるかと思ってたのに……」
「やれやれ、嫌われちゃったか……まったく、困ったものだよ」
キュゥべえは首を振り、呆れるような仕草を見せた。
とはいえ、その人間臭い仕草を見て、今更まどかが心を動かされることもないのだが。
「だけどまどか、これだけは覚えておいてほしい」
「……何を?」
「ワルプルギスの夜を倒すには、並大抵の力じゃ無理なんだ」
「……」
「だから願い事を決めたら、いつでも僕を呼んで」
最後にそう言い残して、白い猫は窓から去ってゆく。
彼はあくまで手段を提示するだけ。それはいつでも突っぱねることができるもので、他者から強制されるものではない。
しかし、
そう思ってしまうと……やはり、そうだとしても、まどかは悩まざるを得ないのだ。
「……さやかちゃん……」
まどかはそれから眠りにつくまで、ベッドの上で膝を抱え、静かに泣いていた。
「ん?」
私は目が冷めた。
真上に見えるのは、いつもの見慣れた天井である。
私は速やかに起き上がり、時計を確認した。
「……夜か」
どうやら、いつの間にやら私は眠ってしまったらしい。
身体には毛布がかけられ、体は適当な空きスペースに横たわっていた。
慣れない起床をしたと思ったら、そういうわけだったのである。
「……?」
いや、まてよ。おかしい。
私は今日、こんな寝方をした覚えはない。
そもそも私は寝た覚えなどない。夕食だってまだだったのだ。ありえない。
確か最後に、ええと、なんだ。記憶喪失ではないはずだぞ。思い出せ。
確か、……アイスクリームを食べて、OLと話して、それで……。
……そこから……アパートまで戻ってきたのだろうか。……酷く曖昧だ。
「……っつ」
そんなことを考えていると、頭が痛んだ。
右こめかみの、奥辺り。そこから響く鈍痛を、右手で擦る。
「あ、これなんだか思い出す時のあれみたいだな……」
頭痛があると、過去の記憶を思い出す。そんな演出は世に多い。
別段思い出したくもない暁美ほむらの過去であるが、ついにそれらしい兆候が出てきてしまったようだな。
……まあ、どうせただの突発的な頭痛なんだろうけども。
思い出したら思い出したで構わない。
けれど、どうせなら新たな自分として何のしがらみもなく、今のままで生活を満喫したいものだな。
「……にゃぁ……」
「眠そうな鳴き声だね、ワトソン」
私が頭を押さえる姿を見て心配でもしてくれたのか、ワトソンが擦り寄ってきた。
「よし、私も一緒に寝てやろう。さあおいで、寝返りで潰したりはしないから」
「……にゃ……」
今日はもう寝て、明日の学校に備えなくては。
それに明日は、魔法少女になったであろうさやかの報告もあるに違いない。
楽しみだ。