美樹さやかのマンション。
ここへは何度か足を運んだことがある。
彼女との友好関係を築こうと幾度も努力をしてみたけれど、だいたいのケースでは美樹さやかが私の考え方を受け入れられないがために、関係は破綻する。
協力を取り付ける意義を感じなくなったのは、そう遅い時期でもなかった。
いいえ。今は美樹さやかの事は今はどうでもいいわね。
今考慮すべきなのは、このマンションにいる杏子と、訪れているはずの巴マミだ。
巴マミは無視しても良い。けれど、佐倉杏子を無視することはできない。
杏子を殺さないと、私の気が済まないから。
……でも、まさかあの状態で生きていたなんて。
美樹さやかによって治療されるとは……出来すぎた偶然というべきか……それとも、神様がくれた奇跡なのかしらね。
とはいえ奇跡もそのとき限りで、今日も来ることはないのだけれど。
「さて。美樹さやかの部屋は304号室だから……」
アスファルトの上から見上げると、見覚えのある姿に思考が一瞬だけ遅延した。
美樹さやかの部屋のベランダから、制服姿の巴マミが現れたのである。
彼女は私を視認し、こちらに小さく手を振っている。
「あら、暁美さん。魔女退治は終わったのね?」
「ええ」
(……“ええ”、ね…)
さて。
あの顔。あの目。
巴マミのああいった表情は、どんな時に出るものだったかしら。
「佐倉さんの服も干してあるし、中にも痕跡はあるんだけど……どうも、中に居ないみたい」
「本当に?」
すかさず尋ねる。
巴マミの目を見る。
落ちついた上級生の目。
優しげな、それでも長年魔女と戦ってきた、強い目。
眼球の動きは見逃さない。
「……ええ、他人の家にずっと居るわけにもいかなかったんでしょうね」
「……そう」
彼女の目に揺るぎは無い。
嘘はついていないか?
いいや。
巴マミはハッタリが上手い魔法少女だ。
魔法少女との騙し合いだって幾度も経験している。
嘘をついている可能性は十分にある。
「嘘でしょう?」
「……っ」
ほら眼球が揺らいだ。そしてすぐに抑え込んだ。
見逃さない。三階から私を見下ろすその目には、確かな恐怖と動揺が垣間見える。
その綻びを確信して、私は口元をゆがめた。
「――佐倉杏子、出てきなさい」
ここにいるのね。
教えてくれてありがとう、巴マミ。
もう帰っても大丈夫よ。
「だから、佐倉さんは……」
「口を閉じなさい。巴マミ」
「……!」
巴マミが驚きに閉口した。
そうね、それも仕方ないのかしらね。
この“私”は、随分と風変わりみたいだから。
まあ、もう、どうだっていいけれど。
「ねえ、杏子。私の声はきっと、その部屋にも聞こえているのでしょう?」
「……」
無視するの。
酷いわ、杏子。
それとも、私の声が遠すぎるの。
「聞こえていないのかしら? そんなはずはないわよね」
「……」
返ってくるのは、緊張した面持ちで私を静観するだけの、巴マミの沈黙だけ。
……そう。誰も答えないの。薄情ね。
『杏子、テレパシーは通じるわよね。聞こえているでしょう?』
『……』
無言。無音。
ひどいわ。
『テレパシーでも私を無視するというの? それとも、本当にそこに居ないのかしら』
沈黙。
まただんまり。
ああ、もう、じれったい。
隣町からここまで来るのに、結構な時間を使ったのに。
もう、足踏みをしている余裕は無いのに。
佐倉杏子。ああ、杏子。
憎い。佐倉杏子が憎い。
殺してやる。
絶対に!
今すぐに!!
『――ッ……ァアァアアァアァアッ!!』
『ひゃっ!?』
『っぅ……!』
私の思念があげた憎悪の咆哮に混じり、二人の短い悲鳴も聞こえてきた。
『――確かに聞こえたわよ、杏子』
そして私は今まさに、口元が三日月のように歪んでいることだろう。
『いるのよね。そこに。駄目じゃない、教えてくれないと』
グリーフシードは貴重だ。時計の砂は止められない。
手負いの杏子如き、地の力で圧倒しなくては。
「さあ、行くわよ」
変身する。
即座にアスファルトを蹴り、3階のベランダへ飛び移る。
すぐ隣で目を見開く巴マミを無視し、美樹さやかの部屋へ繋がるガラス戸を開き、中へと侵入した。
「居ない」
が、無人。
さやかの部屋が荒れた様子は無い。
さっさと玄関から退避でもしたか。
だとしたら厄介だ。逃げ道はいくらでもある。
大胆な手を使えば、他人の部屋に上がり込むなりすることで隠遁も可能だ。
時間を止めようとも、捜索範囲はあまりに膨大。追跡はできなくなる。
「暁美さん!」
「……」
ああ、後ろからうるさいのがついてきた。
面倒臭い。
「……何?」
今、巴マミに構っている余裕はない。
私の左手のソウルジェムが警鐘を鳴らしている。
「暁美さん、よね?」
巴マミはそんなことを訊ね、魔法少女姿に変身した。
警戒としては当然。しかし銃は出していない。彼女にしてはかなり珍しいケースだろう。
普通ならば疑わしきを躊躇なく撃つ人なのに。
「何故佐倉さんを……?」
そんな彼女の怯えた目は、私の気分を悪くさせる。
不安定な目。弱気といえば優しい表現だ。しかし彼女は錯乱した時にも、そんな目を見せることがある。
この目が何度、私を苦しめたことか。
「率直に言うわ。佐倉杏子を殺す」
「何故!?」
「黙りなさい、巴マミ」
「っ」
「今のは予告よ、貴女の問いに答えたわけではない」
一歩、マミが後ずさる。
そして金縛りにあったかのように、自ずと動かなくなる。
……いつからだろう。私が凄むだけで、彼女が退がるようになったのは。
長い時間の中で、一体私の何が研鑽されたというのかしら。
怒り? 殺気? 闘志?
まあ、どうでもいいことだわ。
今やこの感情は、最も間近にある邪魔者にぶつけるだけだもの。
(……くっ)
左手にわずかな痺れが走る。
まずい。感覚が薄れてきたか。
思った以上に余裕はない。
「杏子、この部屋のどこかにいるのはわかっているわ」
杏子が私の存在に恐怖心を抱いているのであれば、彼女は私のテレパシーを受けて多少のパニックに陥ったはずだ。
生まれ持った逃げの才能はあるかもしれないが、それでも見知らぬマンションの中で鬼ごっこをする度胸が湧くだろうか。
玄関からさっさと出ていった、と見せかけて、実はまだ部屋に残っているのではないか。
「杏子、出てきなさい」
ベッドを蹴り、ひっくり返す。
いない。
「杏子、どこにいるの」
椅子を蹴る。
机の下にもいない。
だとすれば後は……。
「さあ、杏子、後は無いわよ」
クローゼットに微笑みかける。
向こうから私は見えているだろうか。
別に、向こうの視点などどうでもいいけれど。
終わりの時は来た。
これでやっと、まどかを守れる。
「さあ、死になさい……」
「駄目!」
クローゼットに手をかけようとしたその時、黄色のリボンが襲いかかってきた。
*tick*
単調なわかりやすい攻撃だ。
私に読めないはずがない。
*tack*
「へぐぅっ!」
時間停止解除と共に、マミの身体は勢いよく窓へと突っ込み、外へ投げ出された。
腹部にお見舞いした四発の蹴りの威力がそれだった。
「無駄な魔力を使わせてくれたわね、巴マミ」
リボン相手では時間停止を使わざるを得ない。
手間を掛けてくれたわ。
まあ、巴マミはそういう人間だから、この程度なら別にいいのだけれど。
でも、これ以上私を邪魔するつもりなら、私も本気で殺しにかかる。次はないというだけの話だ。
「さて……」
さあ。巴マミの事はどうだっていい。問題は杏子よ。
この杏子は殺さなくてはならない。
まどかに甘い言葉を囁く悪魔め。
「杏子」
クローゼットに向かって、魔力を込めた脚を振りかざす。
「――地獄で家族に逢いなさい」
私の蹴りは、確かにクローゼットを叩き割った。
木製のそれは派手に破砕し、見る影もない。
「……」
中には散乱する衣服が木片にまみれ、重なり落ちている。
美樹さやかのものだろう。
それ以外には……何も入っていなかった。
「~~!!」
佐倉杏子に、してやられた。
その許し難い事実だけで、私のソウルジェムはもはや限界だった。
「ぁああぁぁあああッ!」
近くのデスクに転がっていたボールペンで左腕を掻き毟る。
このままでは不味い。
杏子を殺したい。けれど今はもう難しい。
ああ、自分の魂を優先しなくては。
杏子を、違う。ソウルジェムを。
早く。早くグリーフシードを……。
「あの、クソアマめぇええぇッ……!」
巴マミが突っ込んだ窓ガラスから表へ飛び出す。
屋根伝いに跳ぶ最中に、植え込みの緑の上で倒れる巴マミの姿があった。
それはどうでもいい。
あらゆる全てを無視して、私は街を駆けた。
ああ、今は全てをどうでもよく思わなければ。
早く家に帰って、グリーフシードを使って浄化して、寝よう。
考えては駄目だ。
考えては駄目……。