自室。
グリーフシードでソウルジェムの濁りを拭った私は、毛布の上に倒れ込んだ。
そして、毛布を身体に巻きつける。
外の世界を遮断するために。自分の世界に篭るために。
いつからだろう。こうしておかないと、私は心を保てなくなってしまった。
どこかで聞いた気がする僅かな物音や騒音が引き金となり、記憶を誘発し……心を乱してしまうから。
「……」
そして暗い毛布の中で、自分のソウルジェムの輝きを抱いて瞑想に耽る。
自らの魂すらも監視して、異常があればすぐに処置を施すためだ。
バカみたいな話。
近頃の最大の敵は、自分自身なのだから。
「にゃぁ……」
「!」
毛布の中に黒猫が入りこんできた。
見覚えのある猫だ。今までに何度も何度も助けてきた、私にとって縁の深い猫。
「エイミー……」
「にゃ……」
「……そっか。今はワトソン、っていうんだっけ」
ソウルジェムが瞬いた。
……いけない。自分に嫉妬してしまうなんて。
「……」
このままではいけない。
もう私は限界を感じたのだ。
全てを、私に託さなくてはいけないのだ。
他ならぬ私のために。
まどかのために。
「……」
ソウルジェムを左手で握り込み、耳にあてがう。
それは海辺で拾った貝殻のように、魂の流れをささやかな音に変える。
私の脳には……いや、魂には。二つの人格が存在する。
ひとつは限定的で、主に“この世界”の記憶しか持っていない、もう一人の私。
もうひとつは、それを内包する全ての私。
限定的な方の“暁美ほむら”へと、私のコントロールが移った時。
全ては彼女に託されたはずだった。
私が持つ負の記憶を全て忘れ、全てを捨てて生きるはずだった。
けれど、どういう巡り合わせか、彼女は綺麗な道筋を作り、わざわざ私が立てた“立ち入り禁止”を蹴飛ばして、今のここまできてしまった。
暁美ほむらは、やっぱりまどかと出会う運命なのだろうか。
それもまた因果だとでも……。
「……身勝手なあなたなら、身勝手に運命の輪を外れてくれると思ったのに」
記憶の葉を揺らし、枝をゆらし、最後には木をも揺らしてしまった。私を呼び覚ましてしまった。
結果として、全てが台無しになった。
けどそれは私にも責のあること。
私がケアをしなくてはならないこと。
……私が、後片付けをしなくては。
――――――
――――
――
意識が部屋に落ちる。
私の過去の部屋。
歪んだソファーと、漂うイメージフレームがあるだけの、空虚な部屋。
私の頭の中だけにある、私の心の
ここに来れば、また彼女に会えるのだろう。
『突然ここへ飛ばされたのが一つ目に驚いたこと。そして来てみたはいいが、先に君がいなかったことが二つ目だよ、暁美ほむら。君はいつも、先にこの部屋で待っていたのにね』
シルクハットを被り、ステッキを携えた私がソファーに座っていた。
彼女は足を組み、余裕ありげにそこに存在している。
私は黙って、彼女と向かい側のソファーに腰を落とした。
『何度となく君と出会った事はある。しかし、私は君を抽象的な深層心理くらいにしか考えていなかったよ』
『……』
饒舌。
『でも昨日わかった。……ここは君、暁美ほむらの世界なのだとね』
『……』
『そして君は、何故私が君と会話ができるのかは不思議だが、間違いなく私と同じ、“暁美ほむら”だ』
得意げに話す様は、誰にも似ていない。
少なくとも私ではないみたいだし、前例となるような人格は、誰と例えようもない。
私なのに、初めて見るようなタイプの人。
それが、この“暁美ほむら”だった。
『……君と対話ができるのなら、聞きたいことは結構ある。……いいかな』
『……ええ』
もとより、私はそのつもりだった。
『身近なことから聞こう……どうして、杏子を殺そうなんて酔狂なことをしようと思ったんだ?』
『……私の、為よ』
杏子。いけない。あの目を思い出す。
『杏子を殺して何のメリットがあるというんだ。まどかを魔法少女に勧誘したからか?』
『……間接的にはそう、けど直接的な理由が他にあったから』
『ほう』
『ただ、それを説明する時間は無い……こんな短い夢の中じゃ、いつまで経っても終わらない話が続くわ』
『……』
彼女は訝しげに私を見つめ、手の中のステッキを弄んでいる。
『安心しなさい。彼女は無事。もう杏子には手を出さないから』
『! 本当か?』
『ええ、もうそんな気分じゃなくなったもの』
『気分……だと』
向かい側の私の目つきが鋭くなる。
ステッキが手放され、床に落ちて高い音が響く。
『君は、気分で杏子を殺すのか。暁美ほむら』
じゃきん。と、盾の中から取り出されたのは、一本のカットラス。
彼女は立ち上がって、鋭利な刃を私の首元に突きつけている。
『物騒なものを仕舞ってくれないかしら。魔力の無いその武器では、無駄よ』
『ここで君を殺せば、暁美ほむらはどうなるのかな』
『どうにもならないわ。貴女の目覚めが悪夢になってるだけ。この空間について何も知らない貴女に、どうこうできるのかしらね』
『……』
納得がいかない。もどかしい。
彼女はそんな顔をしている。
『……言ったでしょう。杏子は無事だし、誰も怪我はしてないわ』
『! ……そうか』
『ええ。貴女は私を、魔法少女を殺し続ける殺人鬼か何かと勘違いしているのだろうけど……いえ、でも合っているのかしらね』
紛れもなく私は、人殺しなのだから。
『……君は、魔法少女を殺した事があるんだろう』
『ええ、あるわ』
『今まで』
『“数えるのをやめるくらい”』
『……』
『……ふふ、でも良いのよそれは。仕方のない事だったから』
『……君がわからないよ、暁美ほむら』
『?』
もう一人の私が深く息をつく。
『私は君の為にあらゆる事を頑張ってきたつもりだ。けど、私は途中から君の為に努力することを放棄してしまった』
『……何の努力もする必要はなかったわ』
『厚意を無駄にするなよ、そして応えてほしかった』
寂しそうな目で、見られてもね。
『……君は、魔法少女だが……それでも、普通の女子中学生として生きることもできただろうに』
……――。
『………………何も知らないくせに』
『!』
『知ったような口を聞かないでよ!? 私がどれだけ普通の女子中学生として生きたいと、今まで願ってきたか!』
『お、おい』
『何度も何度も私は頑張ってきたの! 貴女のやってきたことなんて些細! 私と比べれば、貴女なんて……!』
怒鳴り散らした私の手が、彼女の両手に掴まれる。
離せ。そう叫んでやりたかった。
でも。
『……そうだな』
『……!』
彼女は悲しそうに微笑んでみせる。
『……すまない、私は何も知らないのに、軽率だったよ』
私の手は、暖かかった。
……沸騰した精神が落ち着いてくる。
……大人げない。彼女は、何も知らないというのに。
『なあ、暁美ほむら……私はこのまま、どんどん私の時間を失って……消え去ってしまうのかな?』
手を握りながら尋ねる彼女は、憂いある表情を浮かべていた。
『……ええ、このままだと、そうね』
『そうか……』
諦めの笑みは、自分でも見ていて辛いものがある。
『君は、この……私の記憶も持っているのかな?』
『ええ……おかしなことばかりの、変な記憶だけどね』
『なに? どこがだ』
本当にこの私は“なに?”という顔をするから、こっちが不思議に思う。
首を傾げたいのはこちらの方だ。
貴女は本当に私なのか、と。
『……けれど、このまま何もしなければ、という事でもあるの』
『え?』
『手段がないわけではないのよ』
『しゅ、手段とはつまり』
興奮しないで頂戴。手が痛いわ。
『……あなたが、見聞きして、歩いて、感じて……主導権をもって、私を動かせる時間を手に入れる……そういう手段よ』
『本当か!?』
そう。私はそのために、彼女に会いにやって来たのだ。
『頼む。お願いだ。君の全ての時間が欲しいとは言わない』
『……』
『少しでも良い、マミたちと一緒に過ごせる時間を、私にも分けて欲しい! 頼む!』
『……謙虚ね』
『え?』
『私の時間、全て欲しくは無いの?』
『……欲しくない、と言ったら嘘になるな』
彼女はシルクハットを取って、頭をかいた。
『でも暁美ほむら、君が悪い魔法少女でないと……今なら、信じられるんだ。なんとなくね』
『……そうかしら』
『元はと言えば、この身体は君のものだ。君が良い人であるならば……そんな君から時間を取ろうとする事自体、私の傲慢な願いでもある』
『そんなことないわ。……貴女だって、私なんだもの。私の時間を有する権利はある』
『……』
『“そうは思えない”って顔をしているわね』
せっかくのまっさらな人生なのだから、好きにしたら良いのに。
……でも、そうね。悩んでいるのなら、丁度いい。
『大丈夫よ。どうせこれから、貴女は全てを知ることになるのだから』
『……?』
私は立ち上がり、左腕を見せつけた。
『……ねえ、貴女はこれを何だと思ってた?』
銀色に輝く円盤の盾。
それを指し示すと、彼女は少しだけ眉を歪めた。
『それは……時を止められる盾だろう』
『そうね。時を止められる盾……けど同時に、これは砂時計でもあるの』
『砂時計?』
『ええ、砂時計……ひっくり返して、落ちた時間をさらさらと戻すことのできる砂時計』
中に入っている砂は限定的。
ここからここまで。容量は既に決まっている。
『……時間操作……』
『この魔法を手にした時から、私の迷走は始まっていたのよ』
『どういうことだ』
『それを今から知るのよ、“暁美ほむら”』
盾から拳銃を取り出す。
使い慣れた
『……何を』
『今から貴女に撃つのは、ただの弾じゃない。私の魔力を込めた、魔法の弾……貴女と、それを包む私との間の壁を取り払う弾よ』
『意味がわからな……』
言葉を遮り、銃口を暁美ほむらの右こめかみに押し当てる。
『……』
冷や汗が黒い銃口に垂れた。
『境界が消え去れば、貴女は私に戻れるわ……ただし荒療治になるから、二人の“暁美ほむら”の記憶が混じって、全ての記憶を共有することになるけどね』
二度も使う魔法ではない。
本来、こうして使いたい手段ではなかったのだ。
『その後、私は風穴を空けた人格を潜り、再び奥底に篭って眠りにつく……まあ、とにかく撃てばわかるわ』
『な、なあ、少し心の準備を―――』
『大丈夫よ、理解するのは一瞬だもの』
本来こうして講釈する必要もないのだ。
それでも口頭で示すのは、ちょっとしたこちらの親切心に過ぎない。
『そして、……自分に押し付けるなんて、最低だとわかっているけど……記憶を見ても、どうか耐えて』
同時に、謝罪でもある。
『……私はもう、“暁美ほむら”として生きてはゆけない。私は……貴女を信じるしか、道がないのよ』
――タァン。
軽い音と共に、魔法の銃弾は暁美ほむらの側頭部を打ち抜いた。