クレマンティーヌ:ズーラーノーン十二高弟のひとり。土下座は苦手。
カイ:自称鬼畜の助平おやぢ。土下座は得意。
アインズ・ウール・ゴウン:魔導王。土下座はよく見る。
第20話「疾風走破、跪く」
◇◆◇
結論から言えばクレマンティーヌは、カイに付いてアインズ・ウール・ゴウンを探ろうと決めた。
彼女を追っている周辺国最強国家スレイン法国が敵対を避けたアインズ・ウール・ゴウン。
その力を見極める必要があったからだ。
少なくともカイに付いて行けば、ひとりで探るより危険度が低い。
いざとなればカイを盾にして自分だけでも逃げられる。
そんな打算もあった、が――。
(……来るんじゃなかった)
柔らかな真紅の絨毯の上にひれ伏しながらクレマンティーヌは酷く後悔していた。
まさかカイが真昼間の真正面から遺跡に向かうとは思わなかった。
遺跡周辺を警邏していた化け物の迫力に慄き、ログハウスから姿を見せた二人のメイドの美貌に戸惑い、夜会巻きのメイドに案内された玉座の間。
白く輝くような壁には金の細工を施され、どこまでも高い天井には色とりどりの宝石が輝くシャンデリアがいくつも吊り下がっている。
壁に下がっているのは見たことも無い紋章が描かれた巨大で豪奢な旗だ。
この広間だけでもスレイン法国にあるあらゆる建築を遥かに凌駕している。
だが玉座の大きさや豪華さは些細なことだ。
柔らかな絨毯の左右に形容しがたい異形の、そして強大な化け物の群れがずらりと並んでいる。
それらがただの彫像や置物でないことは、かすかな吐息が聞こえてくることからも分かる。
そして左右の化け物たちから生じる凄まじい圧力さえも、クレマンティーヌの後悔の原因ではなかった。
正面から伝わる異質の、そして叩きつけられるような圧力と恐怖は桁が違った。
水晶の玉座へと続く階段を守護するように立っている――おそらく側近か幹部であろう――それらは恐怖の権化だ。
黒衣に身を包んだ銀髪の美少女。
直立する白藍色の昆虫人。
蛙頭が二本の足で立ち、人間の自分が蛙のように這いつくばっていることにクレマンティーヌは腹を立てるがどうしようもない。
この広間に在る者の中で、クレマンティーヌは最弱の存在だからだ。
そして――。
階段を上った先、おそらく水晶で出来ているであろう玉座にそれは居た。
玉座に座っていたのは紛れもなく死と恐怖の支配者。
黒い翼を持つ白衣の美女を傍らに置き、グロテスクに捻れた黄金の杖を弄ぶ髑髏を晒した
エ・ランテルの墓地で、それも間近で見たあの髑髏、そして恐怖を見間違えることはない。
柔らかな絨毯の上でひれ伏しながら、クレマンティーヌは自らの四肢が震えるのを感じている。
「アインズ様、ユグドラシルの
傍らの美女がカイの名を口にする。
ログハウスで名乗ったときにクレマンティーヌが初めて耳にした
(……はん。薄汚い見かけ通りに変な名前だね)
その変な名前を今まで教えられなかったことに立腹するが、今はその感情を吐露できる状況ではない。
玉座の間の支配者は眼窩に灯る赤い輝きを強くして髑髏の口を開いた。
「まずは自己紹介をするとしよう。我が名はアインズ・ウール・ゴウン。このナザリック地下大墳墓が支配者にして、アインズ・ウール・ゴウン魔導国の王である」
その言葉にカイがもう一度、頭を下げ、クレマンティーヌも震えながらそれに続く。
上目遣いで様子を窺うと、運悪く
慌てて目を伏せるクレマンティーヌだが、魔導王は逃してはくれない。
「ふむ。キサク殿の連れには見覚えがあるな。顔を上げてよく見せてもらないか?」
こう言われて顔を見せない訳には行かない。
クレマンティーヌは震えながら顔を上げ、魔導王に引き攣った笑みを見せた。
「ほほう。ふむ。なるほど……。名を聞いても?」
小さく振り返ったカイに答えるよう促される。
「は、はい。ク、クレマンティーヌと申します」
血の気が引いて意識を失いそうになる中で、なんとか自分の名を名乗った。
「……クレマンティーヌか。そうか思い出した。お前とはエ・ランテルの墓地で会ったな。あの時、私が手ずから葬り去ったつもりだが思ったより元気そうだな。息災であったか?」
「は、ははぁ!」
ついに魔導王に感づかれクレマンティーヌは頭を伏せたまま恐怖に震える。
両顎が上手く噛み合わず、歯の根も合わない。
「ワタクシからご説明してもよろしいですかぁ?」
カイが用心深く口を挟んだ。
「ワタクシの後ろに居りますのは本人が名乗りました通りクレマンティーヌという女でございます。かつてアインズ・ウール・ゴウン魔導王陛下に抗い愚かにも身を滅ぼしたと私も聞き及んでおります。さりながら蘇ってからは前非を悔いて性根を入れ替え、ワタクシの肉壺ガイドを死んだつもりで努めておりますです、はい」
「死んだつもりか……なるほど上手いことを言う」
魔導王はカラカラと笑った。
一緒になって笑う真似もできずクレマンティーヌはただ頭を伏せ続ける。
「――ちなみに蘇ったとはどのような手段を用いたのかな? 魔法によるものか? それともアイテムを使用して?」
「ワタクシの魔法によるものです、はい」
「なるほど……。蘇りの魔法は何を?」
「
かつて聞いたものとは違う魔法の名を聞いてクレマンティーヌは混乱する。
(
そんなクレマンティーヌを余所に、魔導王は蘇りの魔法について思考を巡らせていた。
「ちなみにカイ・キサク殿は
「いいえ。ワタクシが身に付けておりますのは
「そうか……。クラスの組み換えを考慮しても
魔導王の言葉が途切れた。
「――ふむ。興味深い話に少し夢中になってしまったようだ。キサク殿の魔法とそこの女については後ほど詳しい話を聞かせてもらうとしよう」
「情報を集めることは何よりも重要でございます。魔導王陛下がお気になさるのも当然のことかと」
「……理解してもらえて何よりだ。それでキサク殿は、なんでも私に聞きたいことがあって、このナザリック地下大墳墓にやってきたとか?」
「はぁい。全知全能にして全ての事象を司る魔導王陛下にお尋ねしたいことがございまして参りました」
褒めるにしても度が過ぎて、かえって怒らせるのではないかとクレマンティーヌは心配する。
「……全知全能とは大袈裟だな。私とて知らないことは多い――」
そんな言葉を聞きなれているのか魔導王はカイの言葉を謙虚に受け止めた。
配下の化け物全ては魔導王の言葉を冗談と捉えているようで、玉座の間全体の緊張が僅かに緩む。
「――そして仮に知っていたとしても教えられないこともある。故に全てのことに答えられる訳ではないことは理解できるな?」
「はぁい」
カイが大きく頭を下げる。
「……そうか。それならば良い。では問おう、カイ・キサク殿」
魔導王に促され、カイが口を開いた。
「ワタクシは……ワタクシの造物主を捜しております」
「……ほう。お前の造物主がこのナザリック――アインズ・ウール・ゴウン魔導国に居る、と?」
魔導王は僅かに顎を上げ広間の天井に視線を送る。
そこにはいくつもの旗が翻っているだけで、その視線の意味はクレマンティーヌには分からない。
そもそもカイの言う“造物主”とは何なのだろうか。
黒髪の少女はカイの
「いいえ。その確証はございませんです。ただ、ワタクシの造物主であるカルボマーラ様はかつてアインズ・ウール・ゴウンに行きたいと仰っておりました」
「ふむ。……カルボマーラ……殿、か……」
魔導王はカイの言葉をかみ締めるように吟味する。
その言葉はカイに語りかけているようでもあり、内なる自分に確認しているようでもあった。
「その名を持つ者がここにいる、と?」
「可能性がある、と存じております、はぁい」
魔導王はその髑髏の頭を巡らせ傍らの美女、そして階段下にいる化け物たちに目を配る。
美女も、階段下の化け物も、魔導王を見てそれぞれが頭を小さく横に振った。
「残念ながらその名に聞き覚えはないな。我が部下たちも知らないようだ。どのような姿かを示すことはできるかな?」
「いささか小さなものではございますが御姿の画像がこちらに」
カイが上着を広げ、その裏に張られた黒髪の素朴な顔立ちの少女の絵姿を魔導王に見せる。
魔導王は眼窩の赤い光を強め、カイの懐をしばらく見つめていた。
「そのような容貌の人物に見覚えはないな。どうやらキサク殿の期待には応えられないようだ」
そう語る魔導王をカイは上目遣いで見つめていた。
カイの顔にはいつもニヤニヤ笑いはなく、魔導王の言葉の真偽を確認するような真剣さがある。
玉座の傍らに立つ美女、そして玉座へと続く階段を守護する魔物たちが、そんなカイの視線に不快感を見せた。
その圧力はカイの後ろでひれ伏しているクレマンティーヌにも嫌というほど感じられる。
(ちょ……機嫌を損ねたら殺されるって判るだろ馬鹿。強い奴とは喧嘩しないんだろ?)
あの
地面を這い回る小さな虫けらを知らずに踏み潰すように。
そして、ここにいる化け物のどれもがクレマンティーヌを容易く肉塊にできるはずだ。
「カルボマーラ様が居られないんじゃあ仕方ねえ」
カイの口調が変わる。
その変化は大広間に漂う不快感を明確な殺気に変えた。
逃れられぬ死を覚悟しながら目の前に座る男に付いてきたことをクレマンティーヌは改めて後悔する。
「それじゃあ、ここに
その言葉にどれほどの力があったのだろう。
全ての化け物、そして魔導王さえもが身じろぎした。
それは爆発的な殺気となってに襲い掛かり、元漆黒聖典第九席次のクレマンティーヌの意識を奪いかける。
霞む視界と意識が混濁する中、黒い影が揺らめいたことに気づく。
「――っ!!!」
突如襲ってきた大気の塊にクレマンティーヌは枯れ葉のように吹き飛ばされた。
かつて二人組の吸血鬼から受けた
紫の瞳に映ったのは黒いドレスの美少女の抜き手をカイがナイフで食い止めている光景だ。
クレマンティーヌを襲ったのは直接の攻撃ではない。
黒衣の少女がカイに襲い掛かったときに生じた衝撃波が彼女を吹き飛ばしたのだ。
美少女の桁外れの能力に、そしてそれを食い止めるカイに、クレマンティーヌは驚愕する。
少女の瞳は殺意で赤く輝いていた。
「いと尊き御方の名を呼び捨てにするとは不敬千万! その罪、万死に値するっ!!」
少女の声は限りなく美しく、それでいて恐るべき殺意に満ちていた。
凝縮された桁違いの殺気に堪らずクレマンティーヌは嘔吐する。
漆黒聖典元第九席次という矜持がなければ心臓の鼓動さえも止まっただろう。
「……ほう。
這いつくばり嘔吐するクレマンティーヌの耳にそんな呟きが届く。
黒衣の少女の足元が霞んだ。
蹴りを繰り出したと分かったのは、カイがもう一本のナイフでそれを受け止めたからだ。
「ぎぎぎっ! 生意気なっ!!」
呪詛のような少女の呻き。
だが攻撃を受け止めたカイにも余裕はなく、その薄汚れた額には汗が滲んでいた。
クレマンティーヌが守勢を強いられるカイを見るのは初めてだった。
平時であればからかうことも出来たが、今は死の恐怖しか感じない。
クレマンティーヌを片手であしらえるカイを追い詰める少女。
彼女もまた神の力を持つ者なのだろうか。
この遺跡から、いや、大広間から生きて出られる可能性が急激に下がったことをクレマンティーヌは感じた。
「そ、そいつは済まねえなぁ。ペロロンチーノ――さんはカルボマーラ様のお知り合いだったからよぉ」
守勢の中、カイが言葉を搾り出した。
「ペロロンチーノ様の……知り合い?」
カイの言葉に黒衣の少女と大広間全体の殺気が困惑に変わる。
少女が、そして全ての化け物たちが戸惑い、救いを求めるように視線を彷徨わせた。
彷徨う視線の先は水晶の玉座であり、化け物たちを収めるのはやはり魔導王だった。
「……シャルティアよ。控えよ」
「は、はいっ!」
それまでの攻撃が幻だったかのように黒衣の少女――シャルティアは動きを止める。
優雅に飛び上がったかと思うと玉座に続く階段の前にひらりと戻った。
おそらく最初に立っていた位置と寸分の違いもないだろうと、クレマンティーヌは理由もなく確信する。
シャルティアが己の胸元をしきりに気にしているのは、内なる怒りを抑えるためであろうか。
魔導王が髑髏の口を開く。
「私の部下が失礼なことをした。彼女は自分の造――関係者の名を聞き衝動が抑えられなかったのだ。部下の失態は私の失態でもある。この場は私に免じて許して欲しい」
魔導王がおもむろに頭を下げ、謝罪の言葉を口にしたことにクレマンティーヌは驚愕した。
その言葉に真摯なものが込められていたことにも。
そして大広間を埋め尽くす化け物全てが彼女と同じく驚愕し動揺しているようだった。
「そのお嬢さんの気持ちは分かるぜぇ。俺だって同じだからな。でなきゃ、こんな恐ろしい場所には来やしねえ」
カイは顔の汗を薄汚いタオルで拭いながら魔導王の謝罪を受け入れる。
その口調は砕けたままだ。
「……どうやらアインズ様に対する口の利き方がなっていないようですね」
蛙頭の化け物の言葉をきっかけに大広間全体に殺意が戻ってくるが、それを魔導王が片手を上げて制する。
「……良い。配下でない者の言葉遣いを改める気はない。その言葉遣いも伴うリスクも考えてのものであろう」
それはカイの言葉遣いを容認しつつも、生じる危険性を明言したものだ。
ゆっくりとカイが顔を上げ、魔導王をじっと見据える。
「魔導王陛下お心遣いに感謝するぜぇ。他所行きの言葉じゃあ本音も言えやしねえ」
「……ふむ。それは、よく分かる……な」
魔導王のその言葉には妙に実感が篭っていた。
絶対的な支配者であるアインズ・ウール・ゴウンにも本心を言えないことがあるのだろうか。
(んなワケないか)
有り得ない話だとクレマンティーヌはその思い付きを打ち消した。
おそらく共感する振りをして、より大きな罠に相手を誘い込む下準備なのだろう。
エ・ランテルの墓場で聞いた漆黒のモモンの口調を思い出す。
(ただの力自慢の剣士だと思ったんだけどね……)
ようやく思考が落ち着いてきたクレマンティーヌは己の吐瀉物を避けながら、カイと魔導王が見える位置まで這って進んだ。
「それで? キサク殿の
魔導王の問いにカイは考える素振りを見せる。
玉座の間に沈黙が続く。
「アインズ様の問いに答えな――」
白いドレスの美女の叱責を手を上げて制したのは魔導王だ。
あのカイがかつてないほど熟考しているのは、その後姿からもクレマンティーヌには理解できた。
カイがおもむろに口を開く。
「――俺自身はペロロンチーノさん自体を見たことがねえ。俺が知ってるペロロンチーノさんの話は全部カルボマーラ様からお聞かせいただいたことだ。特に俺を作ったときの話だがなぁ」
「……その話を聞いても?」
やけに用心深く問う魔導王にカイが小さく頷いた。
まるで身を乗り出しているようにも見えるが、死の支配者がそんな態度をするはずはないとクレマンティーヌの常識が否定する。
「カルボマーラ様はペロロンチーノさんに聞いた“えろげ”を参考にして俺を作ったって仰っていたぜぇ」
魔導王の眼窩の光が強く輝いたように見えた。
“えろげ”という名称に興味を惹かれたのだろうとクレマンティーヌは考える。
その名称に覚えはないが、話の流れから察するに何かを生み出す魔道書の類だろうか。
「“えろげ”が何なのか、俺には分からねえが――」
カイはそう前置きした。
「ペロロンチーノさんは“えろげ”マスターで、その知識はカルボマーラ様以上だそうだ」
先ほどカイを襲った
彼女は“ペロロンチーノ”の主人なのか愛人なのか。
そんな関係者の力を褒められたことがやはり嬉しいのだろうか。
先ほど見せた化け物じみた力とは、大きくかけ離れた人間らしい仕草にクレマンティーヌは少し安堵する。
「他にもカルボマーラ様はペロロンチーノさんに随分お世話になったみてえだ。エロ系モンスターがPOPする場所、エロ系アイテムの作り方、エロ系傭兵NPCの情報。色んなことを教えて貰ったって仰っていたぜぇ」
カイの話を聞いていた魔導王が少し俯き骨の指を額に当てる。
「そうそう。最初に出会ったきっかけはカルボマーラ様の見た目に、ペロロンチーノさんが騙されたからって仰ってたなぁ」
カルボマーラは見た目通りの少女ではないのか。
“えろげ”という得体の知れない物を参考にカイを作ったとなれば、その正体はエルフやドワーフといった長命種族か、あるいはクレマンティーヌも知らない
「カルボマーラ様はそんなペロロンチーノさんに感謝する一方で“えろげ”の嗜好が違うって、いつも残念がっていたぜぇ。同じ“えろげ”の話題で盛り上がれないってな」
魔導王の様子は何かに苦悩しているようにも見えた。
だが
カイのもたらすカルボマーラとペロロンチーノの情報を分析しているのだろう。
おそらくは絶対的強者の、いや神々に関する情報である。
敵対するかも知れない同格の存在について分析検討し過ぎることはない。
「そしてペロロンチーノさんはアインズ・ウール・ゴウンに居る、と言っていた。……俺が知ってるのはそのくらいだぁ」
カイの話がひと段落して、広間全体に張り詰めていた緊張感が和らいで空気が緩やかなものになる。
魔導王がゆっくりと顔を上げた。
「カルボマーラ
魔導王の問いかけにカイが頭を左右に振る。
「最初は“うんえい”が用意してた傭兵“えぬぴーしー”をお使いになっていたらしい。その後、“大型あっぷでえと”で拠点無しで“えぬぴーしー”が作れるようになって、そのときに俺をお作りになったそうだ。それからはカルボマーラ様と俺の二人旅だったぜぇ」
「大型アップデートか……なるほど」
カイの話をかみ締めるように魔導王が呟く。
クレマンティーヌには言葉の意味は分からないが、魔導王を納得させるだけの説得力があったのは間違いなさそうだ。
「旅の途中、カルボマーラ様は何度もアインズ・ウール・ゴウンに入りたかったと仰っていた。だから
化け物たちの排他的な意識が不快感になったのだろうか。
大広間全体に不穏な空気が漂い、クレマンティーヌの身がぶるりと震えた。
そんな怪しい雰囲気を魔導王の言葉がかき消す。
「さて。キサク殿の話を聞いてこちらもいくつか確認したいことができた」
カイが魔導王の顔を見つめる。
「まずカルボマーラさんは何――なんという種族だ?」
「俺と同じ、人間だぜぇ」
「そうか……」
カイの答えに魔導王は小さく何度も頷いた。
カルボマーラが人間と聞いてクレマンティーヌは混乱する。
人間の、それも幼女といってもいい小さな子供が、桁外れの強さとカイを作り出す能力を持っていると言う。
それはもはや神話の世界だ。
勿論、このナザリック地下大墳墓もまた神話に出てくる代物であり、そこに紛れ込んだ自分がどれだけ矮小で儚い存在であるか強く思い知らされた。
スレイン法国が人類の存続のためと、他種族への過剰ともいえる弾圧行為を行っている理由をクレマンティーヌは改めて理解する。
「それで……カルボマーラさんとキサク殿は、いつ別れたのだ?」
魔導王の問いにカイの口元が固く引き結ばれる。
いつもそんな顔をしていればいいのにとクレマンティーヌは思う。
カイは口を開きかけては閉じを何度か繰り返し、それからゆっくりと話し出した。
「いつだったかはもう覚えていねえ。随分と前のことだったからなぁ……」
カイが搾り出す言葉には言いたい気持ちと言いたくない気持ち、それら相反する感情が含まれていた。
「カルボマーラ様は俺にアイテムを預けて、
(……あのダッシュウッドの
半裸の女みたいな魔物ばかり居た遺跡と、そこで食べた獣の肉とシロメシ、そして帽子を被ったハーフエルフの端正な顔立ちをクレマンティーヌは思い出す。
「狭い
カイの顔は魔導王に向いていたが、その濁った目はどこか遠くを見ているようだ。
「
カイが持っていた数多くのマジックアイテムは、あの遺跡で手に入れたものかとクレマンティーヌは納得する。
「そんなとき、俺はふと
魔導王の眼窩の赤い
「造物主の言葉に逆らって
その言葉にカイは顔を歪ませ、
「ああ。その通りだ……」
しばらくの無言の後、ふいにカイが顔を上げた。
「でもなあ。
その言葉に化け物たちで溢れる大広間全体が、柔らかな優しい雰囲気に包まれる。
意外な雰囲気に戸惑う一方で、この恐るべき化け物たちがそんな感情を持っている事実にクレマンティーヌは驚いた。
「外に出た俺をカルボマーラ様が見咎め、処罰するというのであれば、納得して死ぬことができるってもんだ。その後でお仕えできねえのは心残りだろうがなぁ」
階段下を守護している幹部の化け物たちが、それぞれ小さく頷いた。
カイと同様、この幹部たちもまた
「
魔導王の身がやや前に傾いだように見えた。
「山を下りると馬車が通ってたんで後つけたら着いたのがエ・ランテルって町だ」
「……エ・ランテルで情報収集を?」
魔導王が漆黒のモモンとして居た町だ。
そしてクレマンティーヌが潜伏し、モモン――アインズ・ウール・ゴウンに殺された場所でもある。
「情報収集はユグドラシルの基本だからなぁ。とりあえずの宿は借りたがカルボマーラ様はいねえし、どこを捜せばいいかも分からねえ」
共感する部分があったのか魔導王は何度も頷いた。
「
「そこでその女を?」
魔導王の視線を感じてクレマンティーヌは身体を硬直させる。
視線はすぐにカイへと戻った。
「生きた人間よりは死んだ人間の方が何かと都合がいいからなぁ。それから
「アインズ・ウール・ゴウンの名を聞いたのは誰からだ?」
何気なく魔導王が尋ねる。
だが、この質問には情報の出所を探る意図があることをクレマンティーヌは感じ取った。
「しばらく帝国を
(……おや?)
それでもカジットたちの名を出さないあたり、隠れ家を借りている義理をカイが感じているのだろうか。
その一方で、帝国貴族から情報を得たというのが嘘ではないあたりカイの用心深さも窺える。
「なるほど。帝国貴族から、か……。目的が果たされていると考えて良いのかな?」
魔導王の呟きに傍らの美女と階段下の蛙頭が満足そうに頷いた。
この
(向こうは
カイの話が終わり沈黙が大広間を支配した。
化け物たちのかすかな吐息と、自分の呼吸音がやけに大きくクレマンティーヌの耳に入ってくる。
沈黙を破ったのは大広間の
「まずキサク殿の最初の問いに答えよう」
カイが魔導王に向き直った。
「ペロロンチーノさんは……
その言葉は重く哀しみに満ちていた。
大広間全体が重苦しい雰囲気に包まれる。
そしてカイが問いかける。
「……そうかい。それで、いつ戻ってくんだ?」
「それは……まだ、分からん」
カイを襲ったシャルティアが、その美貌を哀しげに歪ませた。
魔導王の傍にいる美女、そして階段を守る化け物たちが目を伏せる。
「手がかりは無し、か……」
カイは魔導王の言葉の意味を噛み締め呟いた。
これでカイがこの場所に留まる理由はなくなった。
無事にこの墳墓から出る方法をクレマンティーヌが考えていると、カイがもう一度両膝を突きひれ伏した。
慌ててクレマンティーヌも膝を突く。
「アインズ・ウール・ゴウン魔導王陛下におきましては、この度、貴重なお時間を割いて下さって感謝の言葉もございません」
「あ……いや。気にすることはない。こちらも興味……貴重な話をキサク殿から聞けたことを感謝しよう」
この場を引き上げるつもりなのだろうカイの口調は会談の最初のものだ。
魔導王の“感謝”という言葉に周囲の化け物からは嫉妬と羨望の感情が伝わってくる。
「そう言って頂けるだけで身に余る光栄でございます」
「そうか……。ではカイ・キサクよ。これは私からの提案だ」
そう言うと魔導王は片手を差し出した。
まるで握手をするときのように友好的に。
「私の……部下になる気はないか?」
ざわりと大広間に緊張感が広がった。
嫉妬と羨望が強くなり、はっきりと戸惑う様子を見せる化け物もいる。
その様子に変化が無いのは王に侍る美女と蛙頭くらいだ。
「永久に仕える必要はない。ただ、そうだな。カルボマーラさんが見つかるまでで構わない」
カイは魔導王を見つめていた。
あの濁った目にどんな意思が込められているのかクレマンティーヌには分からない。
「部下になればカルボマーラさんを探す手伝いをしよう」
「……ならないときは?」
「そのときは……そうだな。身の安全は保障しかねる、といったところか」
酷く残酷でどこまでも尊大な申し出だった。
だが、この
それはクレマンティーヌの理性も感情も、そして肉体もが理解していた。
スレイン法国はもはや優先すべき脅威ではなく、アインズ・ウール・ゴウンと敵対しないことこそ最優先に考えるべきだと。
あの黒衣の美少女の力を知り、周囲の化け物の力を感じた以上、カイに拒否できる要素は無い。
それに何よりこれだけの勢力をもってすれば、カイの求める
(……カイちゃんが
クレマンティーヌが持っている情報のほとんどは、この数ヶ月でカイの知るところとなった。
新たな情報を仕入れるにしてもクレマンティーヌひとりよりは、ここにいる化け物たちを使った方が、より多く精度の高いものが得られることは違いない。
カイがカルボマーラを最優先に行動することは、あのズーラーノーンの隠れ家での一件で理解している。
(そしてカイちゃんにとって私の価値はってーと……何にもないね)
元漆黒聖典第九席次の武力も情報収集能力も、この伝説の軍勢を前にしては意味が無い。
では肉欲を満たす道具としての価値はというと、ログハウスに居たメイドや魔導王に侍る美女、美少女の美貌を見てしまうと勝ち目が無いことくらい誰が見ても判る。
(カイちゃん好みの女だって簡単に調達できるよね……)
価値無き者に訪れるであろう死を感じながら、クレマンティーヌはもはや恐怖に
かつてカイの言った通り、自分は死んだ存在なのだ。
この数ヶ月の出来事は有り得なかったものを
用が無くなれば元の死体に戻るだけだ。
(せめて苦しまずに済めば御の字か……)
そう考えるクレマンティーヌの前でカイが立ち上がった。
それから大広間全体を、そしてそこにいる化け物たちを吟味するようにゆっくりと眺める。
ちらりと膝を突いているクレマンティーヌに目を留め、そして通り過ぎた。
やがて魔導王に向き直ったカイは神妙な様子で頭を下げた。
「ありがてえ申し出だが……お断りするぜぇ」
大広間全体の緊張感が敵意に変わった。
周囲から叩きつけられる殺意と、カイの常識外れの無謀さにクレマンティーヌは混乱する。
カイが言葉を続けた。
「ここは……デカくて豪華すぎだぁ。建物も装飾も、魔導王陛下に忠誠を尽くしている
大広間の雰囲気がまた変わる。
殺意の中に戸惑いと安堵の感情が混じっていた。
「――たとえ
「――っ!」
クレマンティーヌは怒りで我を忘れた。
素早く立ち上がるとカイの前に回り込んで戸惑う中年男の顔を殴りつける。
「手前ぇ、何しやがる!」
「何しやがるってのは、こっちの台詞だ! 見つかるまでで良いって言ってんだよ? アンタ、鬼畜モンだろ? 相手を旨く利用して目的を果たしゃいいだろうがっ!!」
カイは驚いた様子でクレマンティーヌを見た。
どうせ何の痛みも感じていない癖に、そして痛みが自分の拳にしかないことにも腹が立つ。
その怒りはクレマンティーヌを振り返らせた。
「大体、アンタもアンタだ。居なくなった親を探してる奴に、自分の子になれって聞く訳ねえだろ。このおっさんは有能なんだよ? 使えるんだよ? もうちょっとマシな誘い方しろよ!!」
玉座を指差して言いたい事を全部吐き出した。
そのままクレマンティーヌはその場に座り込む。
しばらく沈黙が続いた後、大広間全体が敵意で満たされた。
クレマンティーヌの激情をぶつけられた魔導王はその髑髏を傾げ、何事も無かったように口を開く。
「それで……キサク殿の考えは変わらないのかな? 連れの考えは違うようだが?」
魔導王の酷く冷静な声を聞いてクレマンティーヌは我に返った。
自分の行為を振り返り足元から底知れぬ恐怖が這い上がってくる。
魔導王を相手に啖呵を切ってしまった以上、もはやどうすることもできない。
そんなクレマンティーヌの頭に触れるものがあった。
顔を上げるとカイの手が頭に乗っていた。
「やめろっ」
慌てて立ち上がると、その手を振り払ってカイの背後へと下がる。
気安く頭を触ったことに文句を言いたかったが、強大な敵意に満ちたこの大広間で、それを口にする勇気は無い。
「
「……そうか」
カイの変わらぬ答えに魔導王は短く応じた。
水晶の玉座に座り直したアインズ・ウール・ゴウンが、酷く落ち込んでいるように見えたのはクレマンティーヌの気の所為だろうか。
僅かな沈黙の後に魔導王が口を開く。
「――キサク殿はこれからどうするつもりだ?」
「これからもやることは同じだぜ。カルボマーラ様を探すだけだぁ」
「そうか……。そうだな。では、その女は?」
魔導王に視線を向けられクレマンティーヌの全身が強張る。
ひたひたと近付いてくる死が目に見えるようだ。
「これは俺の肉壺だぁ。この
カイはそう言うが、魔導王がそれを許さないだろう。
そう予想できるのは、大広間に満ちる殺気が今なお薄れていないからだ。
「その女はかつて私に剣を向けた。
魔導王の言葉に化け物全ての意識がカイの背後に集中した。
その鋭く尖った敵意と殺意の塊はクレマンティーヌを押しつぶさんとする。
カイがちらりと背後を見た。
「この女は一度、魔導王陛下に滅ぼされ装備を奪われたって聞いたぜぇ。殺して装備を奪ったんなら、殺した側がどうこう言うのは筋違いじゃねえか?」
クレマンティーヌへの敵意が僅かに和らいだのは、その一部がカイに向けられたからだろう。
それでもクレマンティーヌの運命は大海原に舞い落ちた枯れ葉よりも、依然危ういことに変わりはない。
「それに魔導王陛下への無礼ってのも、むしろ陛下のご意思に即していたように俺には聞こえたがなぁ」
魔導王は髑髏の顎に手を当てて考える素振りを見せる。
「――なるほど。その女が私の望みに近い言葉を言ったことは認めよう。だが、その言葉には少々忠誠、というか敬意が足りなかったようには感じなかったかね? 私に敬意を持たぬ者はいずれ私に牙を剥く。……私は臆病でな。将来の禍根は早めに潰しておきたいのだよ」
玉座の間が沈黙で支配された。
カイもアインズ・ウール・ゴウンも言葉を発しない。
これが魔導王の最後通牒だと感じた。
既に一度処刑されたクレマンティーヌには解る。
ここに居る化け物たちは、いずれも彼女を容易く殺せる存在だ。
カイが居たところでその結果は変わらない。
死の支配者とその軍勢からは逃れることはできない。
精々どのように殺されるかを請い願うだけだ。
それさえも聞き入れられる保証は無いのだが。
「それじゃあ、こいつを渡すからよ。それでこの女を見逃しちゃくれねえか?」
カイが薄汚れた上着の胸元から銀色の板を取り出した。
「……ばっ!」
思わずカイを罵倒しそうになってクレマンティーヌは口篭る。
触ることすら許さなかったマジックアイテムを手放そうとするカイ。
カイが掲げる銀の輝きがやけに眩しく目に映る。
蛙頭の化け物が進み出てカイから板を受け取った。
「っ! これは……」
蛙頭は小さく驚きの声を上げると、足早に玉座まで進み恭しく魔導王に銀の板を捧げた。
それを手にした魔導王の髑髏の赤い輝きが大きくなる。
「これは……
「ああ。
カイの説明を聞いてか聞かずか、魔導王は捻くれた黄金の杖を手放し銀の板を骨の指でしきりに操作している。
黄金の杖は倒れることなくまるで意思があるかのように魔導王の傍に立っていた。
「なるほど。しかしこのアイテムはユグドラシルの
魔導王の言葉がふいに途切れた。
そして再び大広間に訪れる沈黙。
魔導王が呟いた言葉の意味はクレマンティーヌに理解できるものではない。
だが、銀の板に受けた衝撃は間違いない。
やがて魔導王がその髑髏の口を開いた。
「――これを用いて
「……ああ。昔話や噂は勿論、この女が知ってた話や、この女に調べさせた情報を元にな」
「だが……見つからなかった?」
「今のところは……な」
「……そうか。そうだな。今のところは、だな」
カイが俯き、魔導王はわずかに頭を動かして髑髏の眼窩を上に向けた。
その視線は大広間の天井ではなく、その先にある空を見つめているようだ。
俯いたカイの背中がクレマンティーヌの目に小さく映る。
しばらくの間の後、魔導王はおもむろに銀色の板を差し出した。
「……これはキサク殿に返そう」
その言葉は大広間全体を驚愕させた。
傍にいた美女、そして
いつも飄々としているカイも驚いた様子で顔を上げていた。
「ありがてえ話だが……それじゃ、この女はどうするおつもりで?」
魔導王が軽く手を上げ化け物たちを静まらせる中、カイが親指でクレマンティーヌを指し示す。
「その女も……良い」
魔導王はもう一度片手を上げた。
「クレマンティーヌ――だったな。お前とお前の装備からは私は多くのことを学んだ。そのことによってお前の悪意と不敬を
クレマンティーヌはただひれ伏して深く
そうして魔導王の気が変わらないことを願うのが最善だと判断する。
「しかしながら、次に私と我が配下に剣を向けるようなことがあれば容赦なく抹殺する。それまではアインズ・ウール・ゴウンの名において、クレマンティーヌに害を為す真似はしないと約束しよう。……それで良いな?」
「アインズ・ウール・ゴウン魔導王陛下の寛大なる配慮に心より感謝するぜぇ」
カイが両膝をつき、クレマンティーヌに倍する丁寧さでひれ伏した。
魔導王は黄金の杖を手に取り水晶の椅子から立ち上がる。
銀の板は蛙頭の化け物の手を経てカイの元へと戻った。
カイは銀の板を懐に入れると立ち上がる。
「それじゃ。そろそろお
「……いいだろう。この度は有意義な時間を過ごす事が出来た。シャルティアよ。ナザリック地表部まで<
魔導王の命令にシャルティアが舞い上がり、今度はふわりとカイの前に降り立った。
その優雅な動作と笑顔はクレマンティーヌに天使を連想させる。
スレイン法国で信仰系
シャルティアが流れるように白い指先を動かし、カイの目の前に黒い空間がぽかりと浮かぶ。
これもカイが用いる転移魔法の類なのだろうか。
この魔法とあの並外れた攻撃力があれば、世界に魔導王が支配できぬ場所などないとクレマンティーヌは断言できる。
「どうぞ、入りなんし」
黒いスカートを摘んで小さく礼をすると、シャルティアはたおやかな白い手でカイを闇の空間へと
カイが小さく会釈し、クレマンティーヌに向かって軽く手招きする。
クレマンティーヌは慌てて立ち上がると、足早にカイの後ろに付いた。
カイが玉座を仰ぐと、それを見ていた魔導王と視線が交錯する。
「カルボマーラさん……見つかるといいな」
魔導王の言葉はその口調に比べて酷く
その
「ああ。俺も魔導王陛下と
とても幸せを願う風ではない敬意を欠いた物言いだったが、それでも魔導王は満足そうにカイに頷いて見せた。
◇◆◇
シャルティアが作った闇の空間は遺跡の地表部へと繋がっていた。
草原を照らす日はまだ高い。
魔導王との面会時間は体感以上に短かったようだ。
二度と味わうことが出来ないと思っていた外気がクレマンティーヌの肺を満たす。
冷たい空気に意識が冴えてくるのが分かったが、身体の方はそうではなかった。
極度の緊張から開放された肉体に力が入らず、クレマンティーヌはぐにゃりとその場にへたり込む。
「んー? どしたぁ? か弱いお姫様の真似事かぁ? 人殺しのくせに演技力があるじゃねえか」
少し離れたログハウスの前に居る二人のメイドに助けは要らないとカイが手を振る。
「あ、あんなところに行って私を殺す気かよっ! 普通の人間なら百回は死んでるよ」
「……手前ぇが勝手に付いてきたんじゃねえか」
呆れたようなカイの口調。
その言葉に一理あるが、そもそもカイが
悪いのはカイだとクレマンティーヌは確信する。
「あーもー疲れた。歩きたくなーい。カイちゃんの魔法でさ。ぱぱっと移動しようよー」
クレマンティーヌは歩きたくなかった。
張り詰めていた緊張が解け、全身を倦怠感が包んでいる。
この気だるさはエ・ランテルの死体安置所で蘇ったとき以上だ。
そういう意味ではクレマンティーヌは二度目の死を経験したことになる。
カイはぐるりと周囲を見回してから、呆れた様子で言う。
「……ったく、しょうがねえな。ほらよ」
しゃがみ込むとクレマンティーヌに背を向けた。
薄汚い貧相な背中が、やけに大きく見える。
気恥ずかしさよりもクレマンティーヌの中の倦怠感が勝った。
這いずるようにしてその背中にしがみ付くと、カイが立ち上がる。
「まったく……。肉壺に“さあびす”するようじゃあ鬼畜モンの名が泣くぜぇ」
「けけっ。カイちゃんがおんぶするのは年寄りだけかと思ってたよー」
「うるっせえなぁ。お前は爺婆より重いんだから静かにしてろ」
「そりゃ重いよ。若いからねー」
「……ったく。嫌味も通じねぇ」
全身にまとわりつく倦怠感はあってもクレマンティーヌの気分は晴れやかだった。
カイの嫌味も愚痴も気にならない。
なにせ魔導王アインズ・ウール・ゴウンが自分に手を出さないと宣言したのだ。
だが、あのときの状況、そして魔導王の言葉は信ずるに値するものだった。
クレマンティーヌの自由と命を奪う強大な力の二つのうちひとつが消えたのだ。
肩の荷が半分以上下りたと分かって浮かれないほうがどうかしている。
思考に余裕が出来たのかクレマンティーヌは気になっていたことをひとつ思い出した。
「そーいやさー、エ・ランテルで私に使った魔法、
「……さあな」
カイの言葉は素っ気無い。
「もしかしてーもっと凄い魔法だったりしたのかなー? カイ・キサクちゃーん?」
「覚えてねえ。ていうか、何ぎゅうぎゅう締め付けてんだ? 歩きにくいだろうが」
「んー? 落ちないようにしてるだけだって。ほらほら、カイちゃんの大好きなおっぱいだよー」
「……ふん。鎧のごつごつが痛えだけだぁ」
カイが素直に話す人間でないことは知っている。
そして桁外れの力を持っている癖にそれを誇示しようはしないことも。
そんなカイの用心深さが自分にも向けられていることに腹が立つ。
だが、今のクレマンティーヌにはその怒りを許容できるだけの余裕があった。
「これで私はあの
「多分、な」
「後はスレイン法国の追っ手を撒くだけかー」
「そうかもなぁ」
クレマンティーヌは法国について以前ほど心配はしていない。
今後、スレイン法国はアインズ・ウール・ゴウンに対応するために多くの
場合によっては国そのものが失われる可能性さえある。
そしてクレマンティーヌは、そんな強大な魔導王から命の保障をされた。
これはエ・ランテルに潜伏していた時期よりも遥かに好ましい状況だ。
「カイちゃん、これからどーする? 聖王国か都市国家連合、あと竜王国だったら私が色々案内できるよー? 評議国とか南方とかだと案内できないけどね」
「そうかい」
どこに行くにせよスレイン法国から離れさえすれば、逃げる時間も遊ぶ時間も、そして誰かを殺す時間だって充分に稼げる。
そして今まで以上にカイ・キサクとも上手くやっていける。
神経質なほど大切にしていた魔法の板を渡してまでクレマンティーヌを助けようとしたのだ。
彼女を憎からず思っているのは間違いなく、時間をかけさえすれば過剰にも見える用心深さもやがて薄れていくだろう。
「さっきから生返事ばっかー。なんか気になることでもあんの?」
「ああ。……お迎えのようだぜぇ」
「んー?」
カイの視線の先に目を向けると二つの人影が立っている。
見覚えのあるその影にクレマンティーヌはにやりと笑った。
化け物の警邏範囲からは遠く離れ、丘をひとつ越えてもう遺跡は見えない。
「おんやー? カジっちゃん? やっぱし私たちの様子を窺ってたんだー?」
疑わしげな表情を浮かべたカジット・バダンテールと、もとより表情が見えないフード姿の従者だ。
クレマンティーヌはカイに背負われたままカジットたちに近付いた。
「随分と機嫌が良さそうだなクレマンティーヌよ」
カジットの問いにクレマンティーヌは満面の笑みを浮かべた。
「そりゃあもう。
「くっ……やはりアインズ・ウール・ゴウンに
殺意を帯びたカジットにクレマンティーヌは思い出したように言う。
「あー。そういやズーラーノーンのこと紹介するの忘れてたわー。ごめんごめーん」
「……何だと?」
カジットは明らかに戸惑っていた。
既に帰属意識は消えていたクレマンティーヌだが、それでもズーラーノーンを裏切る真似はしていないしするつもりもない。
ようやく巨大な死の恐怖から解放されたのだ。
わざわざ新しい危険を生み出す必要はない。
「そんな訳だからさー、あの
「どういうことだ?」
「私とあちらさんは話がついたってこと。だーかーらー
唖然とするカジットたちを見ながら、クレマンティーヌはカイに猫のように顔を擦り付けた。
中年男の煩わしそうな反応が心地良い。
そんなカイの動きがふいに止まった。
「――どうやら、潮時のようだなぁ」
「……ん? カイちゃん、どったの?」
「おい、クレマン」
無言のまま、カイが顔を見つめた。
その視線にクレマンティーヌは不穏なものを感じ取る。
「……なに?」
突然、カイの手に視界を塞がれる。
「あばよ」
何かを言おうとしたクレマンティーヌの意識がぶつりと途切れた。
◇◆◇