その点をご理解の上で、ご利用される事をお願いいたします。
―暗い雨―
「じゃあね。何かあったら、すぐに誰か呼ぶんだよ」
そう言って病室を出ていく谷崎さん。あたしは頷いてその背を見送った。小さく手を降る亜希子さん。そして、病室の扉が閉まる。と、
「……!……!?」
「………?」
「……!!……!!」
「…!!」
扉の向こうから、何やら言い合う声が聞こえてきた。合間には、何か固いものを叩く様な音も。そして、しばらくすると……。
カララ……
もう一度病室の扉が開いて、裕一が頭をさすりながら入ってきた。思わず、身構える。
「イテテ……。あ、里香。ゴメンな。ちょっと、空け過ぎた」
そんな事を言いながら、ニヘラと笑う裕一。その様子は、いつもと変わらない。でも……。
「……遅かったね。裕一。何してたの……?」
「いや、ちょっとディルームで漫画を読んでたら居眠りしちゃってさ。でも、亜希子さんがついていてくれたんだな。お前放っといて何やってんだって、ゲンコくらっちまったけどな」
そう言う裕一の頭には、確かに大きなタンコブがあった。だけど、あたしの関心はそんな事には向かない。
「……ディルームで、漫画読んでたの……?」
「おう」
「じゃあ、何で服、濡れてるの……?」
「あ……」
裕一が、しまったと言った顔で言葉に詰まった。
そう。彼の身体は、しっとりと濡れていた。まるで、今まで雨の中にでもいた様に。ザワリ。心が疼く。嫌だった。とても嫌だった。ずっと隣りにいた裕一が、突然知らない所に行ってしまった様な、そんな気持ちがした。
「裕一、来て」
ベッド脇にかけてあったタオルを手に取りながら、彼を呼ぶ。
「な、何だよ?」
「いいから、来い」
ちょっと語気を強めて言うと、怒らせちゃ不味いと思ったのか、ヘコヘコと近寄ってきた。パサ。間近まできた彼の頭に、タオルを被せる。そして――
ワシャワシャワシャッ
裕一の頭を思いっ切り拭きまくった。
「うわ、ちょ、何すんだよ!?」
「うるさい。黙って拭かれなさい!!」
ワシャワシャッ ワシャワシャッ
拭きまくる。これでもかというくらい、拭きまくる。
「痛い!!痛いって里香!!タンコブ出来てんだぞ!?」
「黙れ!!こんなに濡れて!!風邪ひいたらどうするの!?」
「いや、それより問題はお前だろ!!そんな力むなって!!また、何かなったらどうするんだよ!!落ち着け!!ってか痛いって!!痛い痛い!!」
「落ち着くのは裕一でしょ!!」
「!!」
あたしの声を聞いた裕一の動きが、ピタリと止まった。
パフッ
そのまま、彼の頭を胸に抱き抱える。彼の顔が、一気に熱くなるのがパジャマ越しに分かった。
「り、里香?」
「……亜希子さんから聞いた」
ピクリ
腕の中で、裕一の身体が震える。構わずに続ける。
「……移植の話、本当……?」
「………」
答えがない。その沈黙が、殊更あたしの不安を煽る。
「……本気じゃ、ないよね……?」
沈黙。
「……馬鹿な事、考えてないよね……?」
やっぱり、沈黙。
「ねえ……裕一……」
すがる様に、問う。
「答えてよ……」
その不安を紛らわす様に、裕一を抱き締める。湿った服から、微かに雨の匂いがした。
相変わらず、裕一は何も言わない。普通なら、亜希子さんの様に馬鹿げた話と笑い飛ばすべきなんだろう。けれど、今のあたしにはそうは出来ない理由がある。
――モモ――
――文伽さん――
夢と、現の狭間で出会った少女達。彼女達の言葉が、止む事なく頭の中で反響する。証が欲しかった。彼女達の言葉を否定する証が。裕一の。彼の口から、あれは一時の気の迷いだと否定する言葉が。だけど、彼は何も言わない。言ってくれない。続く沈黙。不安が、確信に変わろうとしたその時、
グイッ
急に、身体が引かれた。
「あ……」
思わず、声が漏れた。裕一が逆にあたしを抱きしめ返していた。温かい胸板。湿ったジャケット。それに、顔がギュッと押し付けられる。強く香る、雨の匂い。その奥に感じる、彼の鼓動。それが、酷く静かに聞こえたのは、気のせいだろうか。
「……大丈夫だ」
彼が言う。
「大丈夫だから、心配すんな」
それは、確かにあたしが求めていた言葉。けど。だけど。
「オレは、ずっとお前の傍にいるから」
だけど、違う。
「約束したろ。ずっと、一緒だって」
違う。これは、あたしの求めている言葉じゃない。
「守ってやるから。ずっと、ずっと、守ってやるから」
形は同じ。だけど、そうじゃない。これは、この言葉は――
「裕一……!!」
あたしが、たまらず声を上げたその時、
ガチャッ
唐突に、病室の戸が開いた。裕一の身体が、パッと離れる。
「ごめんなさい。随分、待たせちゃったわね」
そんな言葉と一緒に入ってきたのは、ママだった。手にはスーパーの袋を持っている。何処かで、買い物をしてきたらしい。
「いえ。大丈夫です。里香も、どうって事なかったですし」
作った様な笑いを顔に張り付けながら、言葉を返す裕一。そんな彼に向かって、ママが言う。
「裕一君、そろそろ帰りなさい。雨が降ってるし、日も暮れたわ」
「でも……」
躊躇する様子を見せる裕一。正直、あたしも帰って欲しくなかった。ママも、そんなあたし達の気持ちを察してはいるのだと思う。一瞬困った様な顔をする。それでも、次に放つのは大人としての言葉。
「駄目よ、裕一君。明日も学校でしょう?何かあったら連絡するから、今日は帰りなさい」
少しの間。そして、頷く裕一。
「分かりました。お願いします」
「あ……」
思わず身を乗り出すあたしから、裕一の身体がス…と離れる。
「里香、じゃあな。具合悪くなったら、すぐにおばさんか看護師さんに言うんだぞ」
そう言って、裕一は出口に向かう。
「待って……!!」
「こら、里香」
追いすがろうとしたあたしを、ママが押し止める。
「我侭言っちゃ駄目よ。裕一君には、裕一君の生活があるんだから」
「でも……」
「どうしたの?いつもはこんな事ないのに……」
不審がるママの向こうで、裕一が微笑む。
「心配するなって。明日、学校が終わったらすぐに来るから」
「ごめんなさいね。ちょっと、気が弱くなっちゃったのかしら?すっかり甘えちゃって……」
「いいえ。それじゃ……」
裕一が扉を閉じようとした時、ふと彼の視線が虚空を見上げた。
「どうしたの?」
ママが訊く。
「いえ……。何か、鈴の音が……」
「!!」
一瞬、心臓が跳ねた。
「鈴の音?何も聞こえなかったけど……」
小首を傾げるママに、裕一が笑いかける。
「そうですね。空耳みたいです」
そして、締まり始める扉。
「裕一……!!」
呼びかけるあたしの視線の向こう。閉まりかけの扉の向こうで、裕一が笑いかけるのが見えた。
リン……
閉まる扉。軋む音に混じって、微かに鈴の音が聞こえた様な気がする。
閉まる瞬間、扉越しに見えた夜空は雨。
月は、見えなかった。
続く