その点をご理解の上で、ご利用される事をお願いいたします。
―雨道―
雨が降っていた。
ずっと雨が降っていた。
もう、いつから降っていたのかも覚えていない。濡れた自転車のハンドルを握りながら、僕は傘の隙間から夜空を覗いた。空を、厚く覆う雲。降りしきる雨の合間にも、当然の様に月は見えない。溜息を一つついて、また自転車を押し始める。ふと後ろを振り返ると、遠くに見える灯りの群れ。若葉病院から漏れる光が、雨の帳の向こうでユラユラと揺れている。もう、何をしても、何を思っても、里香に気取られる心配はない。フウ、と息をついて、傘を下ろす。途端、落ちてくる水滴が身体を打つ。けれど、それが妙に心地いい。この上なく里香の事を案じている筈なのに、今はその里香から離れられた事を安堵している。その矛盾が滑稽で、僕は少しククッと笑った。
それにしても、さっきは危なかった。もう少しで、計画がばれてしまう所だった。いや、頭のいい里香の事だ。もう、勘付いてしまっているのかもしれない。計画を立てる前に、思った事を亜希子さんにこぼしたのもまずかった。意外とお喋りなんだな。亜希子さん。まあ、普通なら本気にする人はいないだろうけど、里香が周りの大人に相談する可能性はある。里香の事を良く知っている人間なら、彼女が妙な世迷言を言わない事を知っているだろう。そこから、話が広がる可能性もある。ひょっとしたら、計画の実行を急がなきゃいけないかもしれない。もっとも、その事自体はやぶさかじゃあない。里香の心臓は、いつどうなるか分からない。早ければ早いほど、里香をその苦しみから開放してやる事が出来る。計画実行後の事に関しては、あまり心配していない。周りの大人達がきっとしっかりやってくれる。そのためには、意思表示をしっかり遺しておかなけりゃいけない。馬鹿正直にドナー登録するのは駄目だ。手間がかかるし、事後に心臓がちゃんと里香に移植されるか分からない。見ず知らずの奴に回されちゃあ、意味がない。やっぱり、ここは遺書を遺して、それに里香に心臓を提供する旨を明記しておくのが賢明だろう。一番の問題は、僕を終わらせる方法だ。普通の自殺じゃいけない。心臓移植は、脳死者からの提供でないと、適応されないのだ。意図的に脳死になる方法。それが、分からない。少なくとも、件の本には書いてなかった。当たり前だけど。とりあえず、頭を打って脳を損傷するのが一番簡単そうだけど、それにしたって加減が難しい。控え過ぎたら痛いだけだし、やり過ぎたら完全に死んでしまう。さて、どうしたものか。それさえ分かれば、今すぐに実行してもいいのだけれど。
ピシャリ
考えながら歩いていたら、足が水溜りを踏み抜いた。冷たい感覚に下を見下ろす。ユラユラと揺れる水溜り。そう言えば、何かで言ってたな。脳は3分間酸素が供給されないと死ぬとか何とか。つまり、3分間息を止めればいい訳だ。何日か徹夜するなり、睡眠薬を飲むなりして、風呂で寝てみようか。上手くいけば、湯船で眠りこけて……ああ、でもなぁ。それでも、完全に溺死してしまう可能性はついてまわる。難しいな。本当に難しい。
そんな事を考えていたら、だんだん頭が加熱してきた。落ちる雨が当たる度、ジュウジュウと音と湯気が立ちそうだ。もういっそあれだ。死神みたいなのが出てきて、僕の魂を適度に引っ張り出してくれたりしないだろうか。事が済んだら、用済みの魂は差し上げても構わないから。
「いらないよ。そんなもの」
だよなぁ。そんなうまい話、ある訳が……ん?
不意に入れられた相の手。驚いて上げた視線の先で、白いワンピースが揺れた。
――リン――
澄んだ鈴の音が、降りしきる雨音に混じって聞こえる。
呆然と立ち尽くす僕の前に、いつの間に現れたのだろう。女の子が一人、佇んでいた。酷く、風変わりな女の子だ。見た感じ、歳は僕よりも数歳下。だけど、その顔は幼いくせに妙に大人びている。長い髪も、肌も、着ているワンピースも真っ白で、ただ一つ真っ赤なシューズが強く目に焼き付いた。でも、一番奇異だったのはその右手にあったもの。鎌だった。女の子の身長の倍はある、長くて大きな首刈り鎌。それはまるで……。
「モモ……あいつ、やっぱり見えてるよ」
急に、もう一つの声が聞こえた。驚いて下を見ると、女の子の足元にチョコンと座る黒猫が一匹。赤い首輪をして、大きな鈴をぶら下げている。少し動くと、その鈴がリリンと鳴る。さっきの鈴の音はこれらしい。それにしても、今聞こえた声の主がいない。男の子の声らしかったけど、何処にいるのだろう。まさか、この猫が喋ったなんて馬鹿な事は……。
途端、その猫が金色の目でこっちを見た。そして――
「おい!何ジロジロ見てるんだよ!?」
喋った。
「う、うわぁあああ!?」
思わず、腰を抜かしてしまった。手から離れた自転車が、ガシャンッと大きな音を立てて倒れる。それに吃驚したのか、黒猫が尻尾をブワワッと広げて飛び上がる。その拍子に、
バサリッ
背中から、蝙蝠のそれの様な翼が伸びた。飛び上がった黒猫は、そのまま空中で静止。パタパタと羽ばたいて宙に浮かぶ。
「おい、急に大きな音立てるなよ!!吃驚するだろ!!」
浮かびながら喚く黒猫。もう、訳が分からない。
「な、何だよ!?それ!!猫じゃないのか!?」
驚きと恐怖でろくに呂律も回らない。そんな僕を冷ややかな目で見ていた女の子が、ハァ、と溜息をつく。
「そんなに喚かないで。話も出来ない」
そう言いながら、僕に向かって歩いてくる。長い雨降りで水の溜まった道。その中を歩いてくるのに、水音がしない。泥が跳ねる様子もない。赤いシューズは、綺麗なままだ。そう言えば、この雨の中に傘もなしでいるのに濡れている様子もない。その事に気づいて、冷えた身体にますます怖気が走る。脳裏に浮かぶ言葉は、ただ一つ。
「ゆ……幽霊……?」
「お――ま――え――も――か――!!」
思わず呟いた言葉に、空飛ぶ黒猫が噛み付いてきた。
「全く、この間からモモの事、幽霊だのお化けだのって!!モモは”死神”だってーの!!」
「!!」
その言葉に、心臓が飛び跳ねた。
”死神”?今、”死神”って言ったか?
僕は、近づいてくる女の子を凝視する。
真っ白い姿は、僕の思い描く死神のイメージとは程遠い。けれど、言われてみれば、肩に担がれた大鎌はまさに死神のそれで……。
ゴクリ
カラカラの喉が鳴る。頬伝う雫が、雨なのか汗なのか分からない。呆然と見つめる僕を、女の子の黒真珠の様な瞳が見下ろしてくる。
「お前……死神って、
「……この
そう言って、女の子は宙を舞っていた黒猫を招いた。
「やるの?」
「やなんだけどね」
溜息つきつき、頷く女の子。それに応じる様に、黒猫がクルリと身を丸める。尻尾の先を器用に掴んで形作るのは、黒い輪っか。その穴の中に、女の子がズボリと手を突っ込んだ。黒猫が「ひぁあ!!」とか何か卑猥な声を上げたけど、気にしてる余裕はない。穴に突っ込まれた女の子の腕が反対側から出てこない。猫の輪っかを境目に、虚空に消えている。目の前で繰り広げられる異端事。思わず後ずさる僕を一瞥すると、女の子は悶える猫の輪っかから腕を引き抜いた。
引き抜いたその手に握られていたのは、一つのカードケース。それを開けると、中のカードを一枚、僕に差し出す。
「どうぞ」
恐る恐る受け取ると、それは身分証明書の様だった。
『死神「A」の100100号』
そこに書き込まれていたのは、紛う事なく死神の二文字。
ゴクリ。また喉が動くけど、飲み込む唾はもう出なかった。
「100100号。呼びにくいなら、モモって呼んで。100と100だから」
表情のない顔で、白い死神がそう言った。
しばらくの間、沈黙が降りた。僕も、モモと名乗った死神も、そして得体の知れない黒猫も、誰も何も言わない。
シトシトと雨の降る音だけが、辺りに満ちる。
「………」
「………」
「………」
最初に耐え切れなくなったのは、僕だった。搾り出す様に、声を出す。
「……死神……。本当に、死神なのか……?」
「何度も言わせないで。
そう肯定の言葉を繰り返すモモ。少し不機嫌そうな顔の彼女と、手の中の身分証明書を代わる代わるに見る。雨は降り続けている。僕はもうびしょ濡れだ。だけど、彼女は濡れない。サラサラと流れる雪色の髪の横で、蝙蝠の翼を生やした黒猫が舞っている。その身体が揺れる度、首輪の鈴がリンリンと鳴る。その音を聞いている内に、何かが身体の内からこみ上げてきた。それは見る見る喉まで登ってくると、口から外へと漏れ始めた。
「く……くく……はは、あはははは……」
溢れ出る、乾いた笑い。モモは何も言わない。黙って、笑う僕を見ている。
「あはは……死神だって?
笑いながら、地面を叩く。泥が跳ねて、顔を汚したけれど、気にする余裕なんてなかった。怖い。酷く、怖かった。だけど、笑いは止まらない。まるで、何かのたがが外れてしまった様に感じた。
座り込んだまま笑い続ける僕を見下ろして、飛んでいた黒猫が心配そうに言う。
「ねえ、モモ。大丈夫?壊れちゃったんじゃない?」
「大丈夫だよ。ダニエル。今は少し、混乱してるだけ」
そう言って、モモは僕を見つめ続ける。その視線の中で、僕は笑い続けた。声が枯れ尽きるまで、笑い続けた。
数分後、ようやく笑いが尽きた僕は、はぁ、と大きく息を吐いた。
「落ち着いた?」
黙って見守っていたモモが、そう声をかけてくる。
「……覚めないトコ見ると、夢じゃないんだな……」
枯れた声でそう答えると、モモは黙って頷く。
「お前、死神なの?」
「しつこいね。やっぱり、壊れたかな」
呆れた様な声音。でも、しかたないじゃないか。こんな状況でまともでいられる奴がいたら、そいつこそ異常者ってものじゃなかろうか。
と、そんな僕を見ながらモモが言った。
「”あの娘”は、すぐに受け入れてくれたんだけど」
ん?
妙に気になる言葉が、耳に触った。
”あの娘”?”あの娘”って誰だ。
麻痺しかけていた思考が、ある可能性に気が付いた。気が付いた途端、急激に胸の中が冷えていく。そして、に湧いてくるのは、黒い、黒い、ドス黒い感情。
「……おい……」
声に険がこもるのが、自分でも分かった。
「……誰だよ……?」
モモはすぐには答えない。ただ、妙に覚めた眼差しで僕をを見下ろしている。そんな彼女を、威圧する様に睨む。
「誰だよ?”あの娘”って……」
口から吐き出される、暗い声。けれど、モモは動じない。
「誰だよ……?」
もう一度、言う。答えは半分、分かっていたけれど。
と、モモが動いた。ゆっくりと手を上げて、僕の後ろを指差す。その先にあるもの。振り向かなくても分かる。分かっていたけど、心がざわめいた。
「知ってるでしょ?」
モモは言う。
「”あの娘”だよ」
「――!!――」
次の瞬間、僕は飛び起きてモモの胸倉を掴んでいた。
続く