その点をご理解の上で、ご利用される事をお願いいたします。
―不安―
思い出す。
昨夜の事を。
夢かとも思った。
幻かとも思った。
けれど、違う。
違うと言っている。
刻まれたスリ傷が。
グショグショに泥にまみれた服が。
そして、この身体を病ませる熱感が。
”あれ”は現実だったのだと、教えてくる。
紛う事のない、現実だったのだと。
ああ。
ああ。
何て、禍しい事だろう。
何て、忌まわしい事だろう。
そして。
そして。
何て、素晴らしい事だろう。
そう。
僕は。
僕は、初めて。
神を冠する存在。
それに、感謝した。
その日の午後。緩く暖房の入った病室は程よく温まり、軽く眠気を誘う空気に包まれている。そんな空気の中、秋庭里香はまんじりともせずにベッドの上に身を起こしていた。その視線が向かうのは窓の外。シトシトと滴る雨の向こう。まるで、そこに思う人がいるとでも言うかの様に、秋庭里香は見つめ続けていた。
「里香、どうしたの?そんなに怖い顔して」
ベッドの傍らで椅子に座っていた母親が、そんな様子の我が子に小首を傾げる。そんな彼女に、秋庭里香は呟く様に言う。
「ねえ、ママ……」
「ん、なぁに?」
「裕一、まだ来ないのかな……」
その言葉を聞いて、秋庭里香の母親は思わず笑ってしまう。
「何だ。どうしたのかと思えば、裕一君の事を考えてたの?」
「……ん……、ちょっと……」
妙に歯切れの悪い返事。この子にしては、珍しい事だと思う。そう言えば、昨日の別れ際、離れる事を妙に渋っていた。何か、あったのだろうか。そんな事を考えながら、時計を見る。針は午後4時30分を指している。とうに、学校は終わっている。戎崎裕一は部活動はしていない。確かに、些か来るのが遅い様だ。いつもの彼なら、帰りのHRをサボってでも飛んできそうなものなのだが。
「そうね。ちょっと遅いわね。何か、あったのかしら?」
「!!」
その言葉に、秋庭里香が微かに身を震わせるが、彼女の母親は気づかない。
「……ママ……」
「ん?」
娘の呼びかけに顔を向けると、彼女が真剣な顔でこちらを見ていた。
「ちょっと、裕一の家に電話かけたい」
急な頼みに、目を丸くする。
「どうしたの?きっと、裕一君何か用事が出来たのよ。心配する事ないわ」
「いいから。連れてって」
両手を合わせて懸命に頼み込んでくる、秋庭里香。やれやれ。すっかり夫の身を案じる新妻気分ね。そんな事を思い、苦笑いしながら腰を上げる。
「まだ無理しちゃ駄目。電話は、私がしてくるわ」
「でも……」
不満そうな顔をする娘に、秋庭里香の母親は釘を刺す。
「いいから。まだ、お医者さんに無理は厳禁て言われてるでしょ。またあんな事があったら、一番悲しむのは誰だと思うの?」
「む……」
その言葉に、ムッスリとしながらも黙り込む秋庭里香。しばしの沈黙の後、こう言った。
「じゃあ、お願い……」
その言葉に、秋庭里香の母親はフと微笑む。
「いい子ね。それじゃ、ちょっと行ってくるけれど……」
娘の我侭に付き合いつつも、注意しておく事は忘れない。
「何か変だと思ったら、すぐに看護師さんを呼ぶのよ」
「うん。分かってる」
そして、母親は病室を出て行った。
ここは、病院内。携帯電話の類を使う事は出来ない。まして、救命の為の精密機械があるこの部屋なら尚更だ。入院患者と、その付き添いが外界と連絡を取る手段は、ディルームにある公衆電話しかない。
「歯痒い」と、秋庭里香は思う。ここは安全と引き換えに、制約された箱庭。その制約の中で許された自由すら、思う様に出来ない今の自分。こんなにも、自分の身体を疎ましく思った事はない。想う人の安否を知る事すら、満足に出来ないのだから。小さく溜息をつくと、その身をベッドに沈める。枕に委ねた頭を満たすのは、ここ数日に起こった出来事の数々。その全てが、
そう、全ては
白い死神の通告も。
古装の配達夫に届けられた手紙も。
そして、看護師・谷崎亜希子によって伝えられた話も。
これらは皆、数日の間に与えられた情報。その全てが、一つの可能性を示唆していた。それは、戎崎裕一の死。彼が、自分の心臓を秋庭里香に移植する事を望んでいると言う突拍子もない話。普通に考えれば、健常人の心臓を別人に移植するなど、馬鹿げている事この上もない。
けれど、秋庭里香は知っている。戎崎裕一は、普段であればただのヘタレでしかない。だけど、自分に関する事に至っては、時に常軌を逸した真似をするという事を。病院の壁面を命綱一本で走り、病室のベランダに飛び込んできた時の事は、忘れない。いや、一生、忘れられないだろう。
その無鉄砲さに、救われた事もある。だけど、今回は話が全然違う。ひょっとしたら、その直情的な衝動が最悪の方向に向かっている可能性がある。
「その時が来るまで、一緒にいる」それが、秋庭里香と戎崎裕一の約束である。秋庭里香には、いつか必ず終わる。それは、決まりきった事。それを理解し、覚悟した上で戎崎裕一は彼女と一緒にいる事を選んでいた筈である。けれど、退院してから続いた日々は、あまりにも優しかった。その分、それが崩れた事の反動は大き過ぎたのかもしれない。彼の誓いを揺るがせる程に。あの日、倒れた自分を見た時、戎崎裕一は何を思ったのか。もし、秋庭里香のいない世界に絶望を覚え、それに恐怖する自分に気づいたのだとしたら?もし、何としても、何を犠牲にしても、秋庭里香を永らえさせようと思ったのだとしたら?
彼が行き着いたであろう答えに、背筋が震えた。
昨日の別れ際、戎崎裕一の態度は明らかにおかしかった。本気ではないのだろうと問う自分に。馬鹿な事を考えてはいないかと問う自分に。ただ、大丈夫だと笑うだけだった彼。何か、思い詰めた様な顔をしていた。ひょっとしたら、計画の実行を決意してしまったのかもしれない。
不安はどんどん、大きくなった。出来る事なら、彼をずっと手元に置いておきたかった。その首に首輪をつないでも。その四肢を拘束しても。自分の目の届く場所に置いておきたかった。歪んでいると言われてもいい。過ぎた執着だと言われても構わない。ただ、怖かった。彼を、失う事が怖かった。彼のいない世界に在らなければいけない事が、怖かった。これまで、考えた事もなかった。自分の大切な人間が、自分よりも先に死ぬかも知れないという恐怖。戎崎裕一が抱き続けていたであろうそれの抗い難さを、秋庭里香は初めて本当の意味で知っていた。
今日、戎崎裕一は秋庭里香の元を訪れてはいない。いつもなら、必ず傍にいてくれる筈の彼がいない。不安は幾重にもとぐろを巻き、心の中を満たしていく。今すぐにでも、この閉鎖された空間を飛び出したい。彼の元に行きたい。惑う心を、抱きしめたい。けれど、それは今の自分には叶わない事。一度鼓動を止めた心臓。今度、同じ事を繰り返したらどうなるか分からない。数日、動く事の叶わなかった身体。筋力が落ちて、自力で歩く事もままならない。全てが、医療の助けがなくては回らない、継ぎ接ぎの我が身。
「この身に代えても」なんて、出来はしない。それをすれば、彼をもっと深い奈落に突き落とすだけ。
悔しい。
歯痒い。
だけど、どうにもならない。
今の自分に出来るのは、母親の報告を待つ事だけ。
秋庭里香は、歯噛みする思いで病室のドアを見つめ続けた。
どれほどの時間が、経っただろう。
ギィ……
病室のドアが、軋みを上げた。
ビクリ
思わず竦み上がる身体。そして、病室のドアがゆっくりと開く。
入ってきたのは、やはり母親だった。見た所、その顔には焦燥の様子も絶望の気配もない。息を呑んで報告を待つ娘の顔を見ながら、彼女は言った。
「今日、裕一君は来れないみたいね」
「―――っ!!」
病んだ心臓が、ビクリと跳ねる。
「ど……どうして……?」
戦慄く様に問う、秋庭里香。そんな娘の様子に、母親は怪訝な顔を向ける。
「どうしたの?里香。昨日から、何か変よ?」
「いいから!!どうして、裕一来ないの!?何か、あったの!?」
放っておくと、ベッドから飛び降りてきかねない勢いの秋庭里香。母親は、慌てて押し止める。
「こらこら、何を慌ててるの?裕一君、風邪をひいただけよ」
「か……風邪……?」
あっさりと伝えられた、どうと言う事はない答え。一気に気が抜け、浮かしていた腰がポスンと落ちる。
「裕一君、昨夜びしょ濡れで帰って来たんですって。それで、夜中から熱が出て寝込んじゃったみたい。途中で、転ぶか何かしたのかしらねぇ?」
不思議そうに小首を傾げる母親。けれど、それに同意する余裕は秋庭里香にはない。
「風邪……。風邪、なんだ……」
まだ、トクトクと波打つ心臓。それを、パジャマの上から押さえる。ハア……ハア……。ゆっくりと息を整え、鼓動を収める。
「ちょっと!!大丈夫!?」
「うん……大丈夫……」
慌てて駆け寄ってくる母親に、そう言って笑みを向ける。
「風邪……だったんだ……」
それならば、今日ここに来れないのは当然だ。それに、熱で臥せっているのならば、馬鹿な事をする余力もないだろう。胸の中で渦巻いていた不安が、少しだけ疼きを収める。
「ほら、少し休みなさい」
母親が、秋庭里香の身体を優しくベッドに横たえる。
「ママ……裕一に、何かあったら……」
「大丈夫よ。ただの風邪だって言ったでしょ?治ったら、また来てくれるわ」
その言葉が、優しく心を凪いでいく。大きい息継ぎを一つ。そして、秋庭里香は束の間の安らぎへと落ちていった。
続く