その点をご理解の上で、ご利用される事をお願いいたします。
―凶兆―
雨が降る夜だった。
シトシトと、雨が降る夜だった。
激しく、荒ぶるでもなく。
儚げに、霧と散るでもなく。
シトシトと。
ただ、シトシトと雨が降る。
そんな、五月の夜だった。
その夜、あたしは不意に目が覚めた。何かがあった訳じゃない。ただ唐突に、眠りから
「ん……」
そっと、身体を起こす。ベッドに馴染み過ぎた身体が、キシリと軋んだ。気づくと、胸がトカトカと鳴っていた。一瞬、ビクリと胸を押さえる。でも、違う。これは、病気がもたらす乱れじゃない。間違いはない。幾度か経験した事。身体が、覚えている。でも、それならこの動悸は何なのだろう。嫌だ。何か、凄く嫌な感じだ。酷く、不安を駆り立てる鼓動。まるで、これから何かが起ころうとしているかの様な焦燥感。人は、時として凶兆を察する時があると言う。”虫の知らせ”とかいうやつだ。後で思えば、これがそうだったのかもしれない。でも、この時はそんな事、知る由もない。あたしはただただ、戸惑うだけだった。
病院の消灯時間はとうに過ぎていた。常夜灯だけの薄暗い病室。ママは、いない。あたしの病状が安定したから、夜には家に帰る様になっていた。若葉病院は完全介護制。余程の事がない限り、親族でも宿泊は出来ない。何の事はない。今までが特別だっただけ。看護体制が普通になったという事は、あたしの身体が一番危ない所を抜けたと言う事。それは、結構な事だと思う。
先生は言っていた。本当は、心室細動の再発を防ぐために植え込み型除細動器(体内に植え込む、小型のAEDの様なもの)の採用が望ましい。けれど、あたしの心臓ではそれの植え込み手術でさえ、行うにはリスクが伴うと。今更だ。出来るものなら、とうの昔にやっている。そう。要するに、全ては今までと同じと言う事。何が変わる訳でもない。悲観する事は、何もない。あたしはあたしのまま。そういう事だ。
ようやく、目が薄闇に慣れてきた。動悸はまだ、収まらない。閉められたカーテン。その向こうから聞こえるのは、微かな水音。相変わらず、雨が降っているらしい。もう、どれほどになるだろう。あたしが倒れた日から続く雨。もう何日も、月も太陽も見ていない。
そして、見ていないのは裕一の顔も同じ。
彼が風邪を引いて来れなくなってから、もう三日。その間、音沙汰は全くと言っていい程ない。便りがないのは良い便りと言うけれど、件の不安が消えた訳ではない。いや。むしろ様子が確認出来ない分、日々の不安は大きくなっている。三日も経っているのだ。風邪はもう治っている筈。なのに、何故彼は来てくれないのだろう。最後の日に見た裕一の顔が思い浮かぶ。貼り付けたような笑み。何かを思い詰めた様な顔。「ずっと一緒だろ」と繰り返した、あの顔。それに、”彼女”達の言葉が重なる。
――あなたの近くにはもう一つ、危うい魂がある――
――“死にそうにない人”なんて、いないよ――
――死は、全ての
亜希子さんの話が本当なら、裕一は、自分の心臓をあたしに移植させようとしている。そのためには、裕一は自分を脳死状態にしなければいけない。けれど、意図的に脳死になる方法なんて、ありはしない。それが、絶対の障壁になる。裕一は馬鹿だけど、そんな事に気づかない程の考えなしじゃない。重々、承知の筈だ。心配なんて、しなくていい。
何度も、自分にそう言い聞かせた。
だけど、渦巻く不安は消えない。何かが、引っかかる。何かの可能性を、見落としている。何だろう。あたしは、何を見落としているのだろう。
凶兆を告げる動悸は止まらない。まるで、何かを急かす様に高まっていく。もう、我慢は出来なかった。時計を見ると、表示されている時間は午前二時十二分。流石に夜更かし好きな彼でも寝ているだろうけど、それなら叩き起せばいいだけ。ベッドの脇にあるテレビ台。それに手を伸ばすと、下に付いている引き出しから仕舞っていたバックを引っ張り出す。手元に引き寄せたそれから取り出すのは、携帯電話。
本来、
ごめんなさい。
誰ともなしに謝って、携帯を操作する。電源を入れ、呼び出すのは裕一の携帯番号。それをタップして電話をかける。一拍の間。そして、鳴り始める呼び出し音。途端――
♪~♪♪~♪~♪~♪~♪♪~
「!!」
突然、扉の向こうから聞こえてくる着信音。聞き間違える筈もない。裕一の携帯の、着信音だ。
「え!?」
一瞬、頭の中が真っ白になる。どうして?どうして、彼の携帯が
あたしが呆然とする間に、扉の向こうであたふたと慌てる気配がして、着信音がピタリと止まった。その瞬間、空回りしていた頭の中の歯車が噛み合う。そう。この事態の答えは一つしかない。
いるのだ!!彼が!!裕一が、そこに!!
「裕一!?」
思わず、叫ぶ様に声がける。答えは、ない。ただ、走り去っていく音だけが扉越しに聞こえた。
「待って!!裕一!!裕一なんでしょ!?」
ビンッ
ベッドから降りようとする身体を、腕から伸びる点滴の管が引き留める。
「――っ!!この!!」
ビッ
点滴の針ごと、固定していたテープを引き剥がす。血の雫が散ってパジャマに赤い模様を残すけど、気にしている暇はない。
「裕一!!」
彼を追って、ベッドを降りる。けれど――
ガクンッ
「きゃっ!?」
床についた両足に、力が入らない。膝がカクンと折れて、前のめりに倒れてしまう。かろうじて両手で支えたけれど、立とうとする足はカクカクと笑って、言う事を聞かない。
一週間近く、ベッドの上だった身体。足の筋力が、衰えているのだ。
「こんな……時に……!!」
何とか、ベッドにすがって立ち上がる。けれど、それが限界。筋肉が落ちた足は物理的に動かない。こうしている間にも、裕一の足音はどんどん遠ざかっていく。
「裕一……待って……!!」
追おうとしたけれど、またカクリと膝が落ちる。使えないものに頼っても、時間の無駄だ。手と膝で身体を引っ張って、這う様に進む。
あたしは確信していた。何故こんな時間、こんな所に裕一がいるのか。話は、簡単だ。人の気の薄いこの時間ならば、邪魔される可能性は低い。設備の整った
そう。彼は、裕一は今夜、
間違いだらけ。
その通り。間違いだらけだ。
人なんて、そんな簡単に死ねるもんじゃない。
人なんて、そんな簡単に死んでいいもんじゃない。
命も、死も、そんな軽いものじゃない。
簡単に、投げ出していいものじゃない。
容易に、受け入れていいものじゃない。
例え、それが誰かを生かすためだったとしても。
それが他の人達の悲しみを考えない行為なら、そんなのは
そして、何より。何よりも。
あたしが、認めない。受け入れない。許さない。
裕一を死なせて、あたしが生きる?冗談じゃない!!そんな生き方、あたしの方からお断りだ。あたし達の約束は、そんな爛れ切ったものじゃない。一緒に生きて、一緒に歩いていく。それが、あたし達だった筈。
その事を、裕一に思い出させなきゃいけない。
彼を、見ている悪い夢から目覚めさせなきゃいけない。
一歩一歩が酷く遠い。筋力の落ちた身体は、鉛の様に重い。早く。早く行かなきゃならないのに。
時間がない。間違いなく。
裕一が、どんな手段を思いついたのかは分からない。だけど、何か考えがある事は間違いない。そして、それが決して準備に手間取る様な事ではないのも確か。
病院の朝は早い。当直の看護師さん達は、午前四時くらいから本格的に仕事を始める。その時間帯までに、事を決める気に違いない。急がなきゃいけない。でないと、全ては手遅れになる。這いながら、伸ばす手。それが、何とか扉の取手に届いたその時――
キリッ
突然、胸に痛みが走った。
「―――っ!!」
思わず、胸を押さえる。
――しまった――
そう思うと同時に、扉の取手を頼りに立ち上がろうとしていた身体が崩れ落ちた。そのまま、成す術なく床に転がる。
ドッドドッドッドッドドドッ
「あ……ああ……」
押さえる胸の奥で、心臓が苦しげに呻く。今まで感じていた不安の動悸とは、まるで違う。瞬時に悟った。駄目だ!!これは、駄目だ!!
「……う……あ……」
もう、言葉を紡ぐ事もままならない。急激に暗くなっていく視界。意識が、消えかかっている。
「ゆ……いち……」
形にならない声で、彼を呼ぶ。どうして。どうして、今なのだろう。今でさえなければ、いつでも良かったのに。
頬を、温かいものを伝う。苦痛の涙じゃない。悔しかった。ただ、悔しかった。彼を、止められない事が。彼の傍に、いれない事が。彼の目を、覚ましてあげられない事が。
裕一は、きっとまだ走り続けている。間違った、破滅に向かって。もう、その意味すらもなくなるのに。
そう。意味はない。あたしはきっと、これで終わる。そうなれば、もう裕一が死ぬ意味はないのだ。
暗闇に落ちていく視界の向こうに、走っていく彼の後ろ姿が見えた。
駄目。止まって。向こうに行っては、駄目。
闇の中で、手を伸ばす。だけど、届かない。
やめて。やめて。いいの。もう、いいの。あなたが死ななきゃいけない理由なんて、もう、何処にもないの。
必死に叫ぶ声も、届かない。
届かない。届かない。何も、届かない。
彼は走る。真っ暗な、破滅に向かって。
あたしは堕ちる。真っ暗な、絶望に向かって。
そして、全てが闇色に染まって――
「マヤマ。コードR9941。承認を」
『了解。コードR9941、承認』
遠くでそんな声が聞こえた。途端、
ハアッ
身体が、新しい空気で満たされる感覚。夜闇に朝日が差し込む様に、暗かった視界がパアッと晴れた。
「う……」
「気が付いた?」
かけられた声に、胡乱だった思考が刺激される。ハッと上げた視線の先で、紺色の
続く