その点をご理解の上で、ご利用される事をお願いいたします。
表紙作成絵師:ぐみホタル様(https://skeb.jp/@Gumi_Hotaru)
――霹靂――
全ては突然だった。
本当に、突然だったんだ。
忘れていた訳じゃなかった。気を抜いているつもりじゃなかった。覚悟だって、決めていた筈なんだ。
だけど。
それでも。
僕の心には、甘えがあったのかもしれない。そんな事は、もっと先の事だと。何事もなく過ぎていく日々の優しさに溺れて、知らず知らず現実から目を逸らしていたのかもしれない。
だけど。だけどさ。
こんなのって。こんなのって、あんまりじゃないか!!
あの時、言っただろ!?言ったよな!?五年はもつって!!オレの腕にかけて保証するって!!言ったろ!?なぁ!!なぁ!!夏目!!なぁ!!
――里香が、倒れた――
それは、とても肌寒い五月の日だった。本当に、この季節には珍しいくらい。朝からシトシトと雨が降っていて、まるで梅雨が季節を飛ばして来たみたいだった。それでも、僕と里香はいつもどおりの道を、いつもどおりに通って学校に行った。僕は「急に寒くなったけど、大丈夫か?」なんて訊いた後に、自分が大きなクシャミをしてしまった。ズルズルと鼻を垂らす僕を見て、里香は「汚い」とか言いながらケラケラと笑っていたんだ。
そうさ。いつも通りに、笑っていたんだ。
けれど、その日の四時限目――
パーポーパーポーパーポー……
遠くから聞こえてきた救急車の音が、半分居眠りをこいていた僕を叩き起した。救急車の音なんて、そう珍しくもない。けれど、その時の音は何かが違った。まるで、心臓を鷲掴みにされる様な不安感。あれが、虫の知らせと言うやつかもしれない。僕が戸惑ううちに音は見る見る近づいて来て、とうとう学校の前に止まった。
流石に教室の連中がどよめき出す。授業をしていた英語教師の仁志田が静めようとしたけれど、そんなの焼け石に水だった。ザワザワと皆が騒ぐ教室。そこに、扉をぶち壊す様な勢いで誰かが飛び込んできた。
ほとんどの奴はポカンとしていたけど、僕はそいつらを知っていた。
吉崎多香子と……苗字は知らないけど、綾子とか言う女生徒。
二人とも、里香のクラスメートだ。吉崎多香子は、怖いくらいに切羽詰まった顔。綾子の方は、もう半分泣いていた。ざわつく教室を、吉崎の目が何かを探す様に見回す。その視線が僕を捉えた途端、吉崎が怒鳴った。いや、叫んだと言った方がいいかもしれない。
仁志田が、「何だ、お前達!!」と咎めたけれど、その声がかき消えるくらいの勢いで叫んだ。
「戎崎先輩!!先輩が……秋庭先輩が!!」
その時の吉崎の声を、僕は一生忘れない。忘れられない。焦燥と恐怖と、混乱と絶望がないまぜになった叫び。それが鋭いピックの様に、僕の心臓を貫いた。
他の連中にも、その叫びの意味が伝わったのだろう。ざわついていた教室が、波を打った様に静まり返った。まるで、テレビの音量をゼロにしたみたいに。
次の瞬間、僕はその静寂を置き去りにして、教室の外へと飛び出した。仁志田が呼び止める声が聞こえた様な気がしたけど、かまっちゃいられなかった。吉崎達が、慌てて後を追ってくる気配があったけど、気にする余裕はなかった。走った。ただ、走った。準備運動もなしに過負荷をかけられた肺と心臓が金切り声を上げたけど、それすらも無視した。走って。走って。走りまくった。生まれてこの方、あれほど速く走った覚えはない。けど、遅かった。まるで、汚泥の溜まった底なし沼を走る様な感覚だった。風も、空気も、そして自分の身体すらも、重かった。邪魔だった。重石の様に絡みつくそいつらを振り払う様にもがきながら、ただひたすらに走りまくった。
チラと窓の外を見た時、昇降口の前に止まる救急車が見えた。後部の扉が開いていて、救命員らしい格好をした男達が、水色の救命ベッドを車の中に運び込む所だった。そのベッドの上に、一人の女の子が横たわっていた。ベッドから垂れた長い黒髪が揺れている。遠目だったけど、見間違える筈がなかった。里香だ!!間違いなく、里香だった。里香は、ベッドの上に横たわったまま、ピクリとも動かない。その事が、僕の恐怖を煽る。まさか!!そんな!!嘘だろ!?混乱する僕の視界の向こうで、救急車の扉が閉まる。白い車体のパトランプが回り始める。待てよ!!待ってくれ!!苦しい息の中、声にならない声で叫んだけど、そんな声が届く筈もなかった。
ようやく昇降口についた時、そこにはもう救急車も里香の姿もなかった。汗だくで息を切らす僕の耳に、遠ざかるサイレンの音が嘲笑う様に聞こえていた。
昇降口には、保険の先生を始めとした数人の教師達がいて、何やら話し合っていた。その周りには、野次馬の様に集まってる生徒がいて、やっぱりヒソヒソと何やら言い合っていた。だけど、決定的に違う事は一つ。真剣に言葉を交わす教師達に対して、野次馬連中のそれは、好事の気配に満ちていた。小声だし、幾人もの声が混じって、何を言ってるのかは分からない。ただ、その声の中に多分に好奇心が混じっている事は間違いなかった。
ヒソヒソ ヒソヒソ
コソコソ コソコソ
それを聞いている内に、胸の中に暗い炎が灯った。怒りだった。どうしようもなく、腹が立った。
何だよ。何なんだよ。お前ら。里香が苦しんでるのに、何ヒソヒソ話してやがるんだよ。面白いのか!?興味深いのか!?里香が、里香がこんな事になっているのに!!それが、面白いのかよ!?
ここに来るまでに溜まっていた、焦燥や不安、行き場のない感情。それにそいつらの声が油を注ぐ。引火は容易だった。メラメラと、炎が燃え上がる。限界だった。喉まで上がってきた炎を吐き出す様に、口を開く。パサパサに乾いた唇がピッと裂けて、鋭い痛みが走る。構わない。炎を、声に変えて放とうとしたその時――
「お前ら!!何をやっとるかぁああ――――!!」
物凄い怒鳴り声が響いた。僕の怒りは、その勢いにあっさりと細切れて散った。まるで、燃える炎が嵐に飲まれて吹き散らされる様に。
怒鳴り声の主は、国語教師の近本覚正。鬼大仏だった。鬼大仏は、屯っていた野次馬に向かって声を張り上げる。
「何をコソコソやっておる!!授業中であるぞ!!教室に戻れぇええ――――!!」
鬼大仏のあだ名は伊達じゃない。その迫力に野次馬連中は竦み上がり、蜘蛛の子を散らすように去って行った。
はは。やっぱスゲェや。
怒りが蹴散らかされて、ポッカリと感情に穴が空く。そこに、疲労と無力感が一気に雪崩込んできた。途端に萎びた肺に空気が逆流し、酷く咳き込んだ。気持ちの悪い汗が噴き出して、足がガクガクと震えて来た。たまらず座り込む。
身体が、動かない。ただ、ガクガクと震えるだけ。声を出そうにも、喉が痙攣してヒッヒッ、とか細い声が漏れるだけ。
ああ、何してんだよ!!こんな所で、こんな事してる場合じゃないだろが!!行かないと!!里香の所へ!!立てよほら!!すぐに自転車置き場へ行って!!自転車に乗って!!救急車を追いかけるんだ!!早く!!早く!!早くするんだよ!!里香が待ってるんだ!!里香が!!里香が!!
焦れば焦るほど、身体から力が抜けていく。乱れた呼吸が収まらない。どんなに心で叱咤をしても、身体が言う事を聞いてくれない。ただ、無力にもがくだけ。どうする事も出来なかった。
「戎崎先輩、どうしたんですか!?」
混乱する意識の片隅で、そんな声が聞こえた。後を追いかけてきた吉崎達が、廊下で崩れ落ちている僕に気づいたらしい。駆け寄ってきて、座り込む僕に手をかける。背中を叩いたり、さすったり。だけど、そんな事は何の意味もなかった。呼吸がどんどん苦しくなって、このままでは気を失うと思った時、
「こら!!お前ら、教室に戻れと言っただろう!!」
そんな怒鳴り声が響いて、吉崎達がビクリと身を竦めた。鬼大仏がこっちに気づいたのだ。文字通り、鬼の様な形相で近づいてくる。けれど、その表情がピクリと動いた。
「む、戎崎。どうした?」
そう言うと、腰を屈めて僕の顔を見た。一瞥してすぐに「いかんな」と呟いて、保険医の先生を呼んだ。
保険の先生は急いで近寄ってくると、僕の様子を見て眉をしかめた。
「過呼吸を起こしてる。ビニール袋……を持ってくる暇はないわね」
すると、先生は僕の頬をペシペシと叩いた。朦朧とした意識が、少しだけハッキリする。
「戎崎君、分かる?」
僕が頷くと、先生は「なら、私の言う通りにして」と言って、鬼大仏を見た。鬼大仏の大きな手が、僕の身体を壁にもたれかけさせる様に横たえる。そして、保険の先生はゆっくりと僕に語りかけ始めた。
「息を止めて、10数えて。息を吸わない様に、気をつけて……」
言われるままに、息を止める。10まで数えたらところで、先生がまた声をかける。
「はい、吐いて、リラックスして……。鼻で息を吸って……、はい、今度は3秒吐いて……吸って……」
そのまま、3秒間息を吐いて、3秒間息を吸う事を1分くらい繰り返えさせられた。息を吐く度、先生が「リラックス」と優しく声をかけてきた。
そんな事を数回繰り返しているうちに、呼吸が落ち着いてきた。意識が本格的にはっきりしてきて、僕はようやく大きく息をついた。
そんな僕を見て、保険の先生は「もう大丈夫ね」と言うとニッコリ微笑んだ。
「戎崎先輩……」
「良かった……」
ずっと様子を見ていた吉崎達が、そう声をかけてくる。二人共、顔が半泣きだった。無理もない。こいつらだって、里香の事でいっぱいいっぱいだっただろうに。そこで僕にまでこんな有様を見せられたら、パニックになって当然だ。僕は、情けなさでいっぱいになった。
でも、しょげてる暇なんかなかった。僕は先生達に「ありがとうございます」とお礼を言うと、壁にすがる様にして立ち上がった。まだ足がガクガク言ったけれど、気合で活をいれた。綾子が、慌てた様に声をかけてくる。
「先輩、どこ行くんですか!?」
「決まってるだろ……。里香の所に、行かなくちゃ……」
「そんな!!無理ですよ!!今の今まであんなだったのに!!」
「そんなの、関係ねぇよ!!」
思わず怒鳴ってしまった。綾子が、ビクリと身を竦ませる。少なからずの罪悪感が湧いたけれど、それでも止まるわけにはいかなかった。行かなきゃいけない。里香が。里香が待ってるんだ。
フラフラと歩み出そうとした時、僕の前に大きな身体が立ち塞がった。見上げると、そこに仁王の様な顔をした鬼大仏が立っていた。
「戎崎。何処へ行く?」
強く、威圧する様な声だった。いつもの僕なら、適当にペコペコして退散する所だ。けれど、今は引けなかった。
「……言ったでしょ?里香の所に行くんです……」
「貴様が行って、何が出来る?」
出来る事なんて、ありゃしない。そんな事、とっくの昔に分かりきってる。今だって、僕は僕自身の事すら、どうする事も出来なかった。悔しいけど、鬼大仏達大人の手助けがなけりゃ、情けなく気を失っていた筈だ。だけど、それでも。
「……何も、出来ません。でも、待ってるんです……。里香が、待ってるんです……。オレ、行かなきゃ……!!行かなきゃいけないんです……!!」
まだふらつく足を踏ん張って、僕は睨んでくる鬼大仏の目を睨み返した。
一拍の間。そして――
「……そうか」
鬼大仏がそう言って、保険の先生に目配せした。頷く、保険の先生。鬼大仏が、突然後ろを向くと、腰を屈めた。
「乗れ。戎崎」
「……え?」
「その有様で、一人で行けると思っておるのか?車で送ってやる。負ぶされ」
「え?え?」
鬼大仏の言っている事が、すぐには理解出来なかった。だって、そうだろう。鬼大仏と言ったら、厳しくて、怒鳴ってばかりで、生徒の事情や気持ちなんて、考える筈もなくて……。
けれど、その鬼大仏が僕の目の前で自ら身を屈めていた。いつも見下している筈の生徒の、僕と、里香のために。その事実が飲み込めなくて、僕はただ、呆けていた。と、そんな僕の両脇を誰かが掴んだ。見ると、吉崎と綾子が、両方から僕を抱え込んでいた。
「「よいしょ!!」」
二人の声が重なる。僕の身体を、女子二人分の力が押す。足の踏ん張りが効かない僕は、そのまま鬼大仏の背に倒れ込んだ。
「近本先生!!戎崎先輩を、お願いします!!」
吉崎達が、いっせいに頭を下げた。「うむ」。鬼大仏が頷くと一緒に、太い両腕が僕の身体をガッチリとホールドした。そのまま、軽々と持ち上げられる。
「戎崎、急ぐぞ。舌を噛むなよ」
そう言うと同時に、鬼大仏が走り始めた。
「戎崎先輩、頑張って!!」
「秋庭先輩の事、お願いします!!」
後ろから、吉崎達の声が追いかけてくる。他の先生達の視線も感じた。優しい、とても優しい視線だった。何かがこみ上げてきて、僕は鬼大仏の背中で少し泣いた。
……とても広い、背中だった。
高校の敷地内から、一台の車が走り出していく。
落ちる雨を蹴散らしながら走り去るそれを、”彼女達”は屋上のフェンスの上から見つめていた。
シトシトと降り注ぐ雨の中。少しも濡れる事もなく、見つめていた。
「ああ、びっくりした。もう終わっちゃうかと思ったよ」
赤いシューズの横。チョコンと座った黒猫が、ハァと息をつきながらそう言った。その身体が揺れるたび、赤い首輪に付けられた鈴がリンと鳴る。
「そうだね。とりあえずは……かな」
綺麗な声。黒猫の頭の上から響く。サラリとなびく、白い髪。
真っ白な少女が、そこにいた。
少女は言う。幼いけれど、大人びた声。
「でも、まだ分からない。”あの子”からは、まだ死の匂いは消えてないから」
「そうだね。きっと、ボク達の事も見えると思うよ」
相槌を打つ黒猫。隣の少女の、顔を見上げる。
「会いにいくの?」
呟く様な問い。少女は、小さな相方を見下ろす。
「何か、嫌そうだね。ダニエル」
訊き返される問い。ダニエルと呼ばれた黒猫は、眉をしかめる。
「そうだなぁ。気は進まないなぁ……」
「どうして?」
わざとらしく小首を傾げる少女。響く、大きなため息。
「だってさ、会うとモモが辛くなるじゃん。いっつもそれで、傷ついてる」
優しい気遣い。それに微笑みで返すと、モモと呼ばれた少女は小さな相方を抱き上げる。
リリン
涼しげに、鈴が鳴く。
「ありがとう。ダニエル」
そう言いながら黒い毛皮を撫でると、ダニエルは嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らす。
「でもね……」
「……分かってるよ」
自分の言葉を遮った相方の言葉。目を細めるモモ。そんな主人の眼差しを見つめ返して、ダニエルは言う。
「どれだけ、一緒にいると思ってるの?モモの言いたい事も、気持ちも分かってる」
「………」
答える声はない。その代わり、クシャクシャと黒い毛皮を撫でる。少し、荒っぽく。
「ちょ、ちょっと待ってよ!!せっかく整えた毛並みが乱れちゃうじゃないか!!」
抗議するダニエル。謝る代わりに、笑いかける。
「じゃあ、行こうか?」
「はいはい。分かったよ」
そして、黒猫を抱いた少女は消える。まるで、降りしきる雨の中に溶け込む様に。
リン
名残香の様に響く鈴の音。後に残るのは、シトシトと泣く雨の呟き。