もうそろそろか。
フロントガラスの端に映る山を見て、運転席に座る田所はそう思った。
初夏、速度制限ギリギリで走る黒塗りのセンチュリーは、影のない高速道路で日光を浴び、中には熱がこもる。
「遠野、ちょっとエアコンの温度を下げてくれ」
助手席に座る遠野は「はい」と言ってエアコンを操作すると「もうつきそうですか」と聞いた。
「たぶん」
「お金持ちの人って、何でこんな遠くに別荘を建てるんでしょうね」
「金は好きだけど、人間は嫌いなんだろ」
高速道路を降りると、小さな町並みが見えた。
外装がはがれ、ぼろぼろの店屋が立ち並ぶが、それなりに人がいて活気はあった。
その道をゆっくりと進みながら、田所は自分の体の匂いをかぐ。
「遠野、どうだ。まだ臭いか」
田所が問うと、遠野は苦笑いを浮かべ、小さくうなずいた。
「はい……まだちょっと」
「そうか」
田所は息を落として答えた。
普段から臭い臭いと言われているので、朝から風呂に入ったり、香水をつけてみたりとしているのだが、根深いものらしく、どう抵抗してもよくならない。
遠野に言って、自分のアタッシュケースから香水を出してもらうと、それを体にふる。
これで、ごまかせるといいんだが。
そう思いながら運転していると、目的の家が目に入ってくる。
高い塀に囲まれたその家は、見たところ四階はあり、横幅も家三つ分はある。
周りとは場違いなそれは家というよりも、突然町に現れた宮殿のようだ。
「はえ~……」それを見上げた遠野は、声を漏らした。「すっごい大きい」
「さすが大企業、コート物産社長の別荘だな」
家正面にある門扉につくと、警備員に門を開けてもらい、中に入り脇にあった駐車場に車を止め、二人で玄関に向かうと、すでに扉は開かれており、中ではタキシード姿で顔のいかつい男が立っていた。
「どうもはじめまして、谷岡ってもんです」谷岡は田所に向かい、右手をさし出した。「よろしく」
田所はその手を握ると、谷岡と目を見合わせた。
「田所というものです。こちらこそよろしく」
コート物産社長、谷岡。名前は知っていたが、こんなヤクザまがいの見た目をしているとは、思ってなかった。
谷岡は握られている手に力を入れると、田所に見定めるような目を向ける。
「噂はかねがね聞いてる。法外な金を取るが、手術は必ず成功させる。無免許医師のブラック・ファックってのは、あんたのことだな」
それを聞いて、田所は困ったように眉を寄せた。
どこの誰が言い出したのかは知らないが、見た目が色黒で、過去に強姦容疑をかけられた理由で広まった名前、ブラック・ファック。
実力に関しては疑われていないのが幸いだが、いい迷惑だ。
「まあ、そう呼ぶ人間もいます」田所は遠野を指した。「こちらが、助手の遠野です」
「よろしくお願いします」
と遠野は頭を下げた。
「とりあえず、中で話そうや」
谷岡にそう言われ二人は家に入ると、応接室に案内された。
暖炉のあるその部屋で、裸でハープを持った女性の絵が後ろに飾られたソファーに座ると、谷岡も対面に座った。
「あれは、確か去年の冬の出来事だった」座ってすぐ、谷岡は話し出した。「ある晩、俺は娘のノリカを寝かしつけた後、書斎で明日に使う会議の資料をまとめていた。すると、誰かが扉をノックしたと思ったら、ノリカの声が聞こえたんだ。お父さん、顔が何か変だよってよくわかんねぇこと言うもんだから、イタズラか何かと思って、ドアを開けたら……」
そこまで言うと、谷岡は手で口を閉ざした。
「どうなっていたんですか」
田所が問うと、谷岡は膝に手を乗せて立ち上がった。
「いや、口では説明しづらい。みてもらった方が早そうだ。ついてきてくれ」
そう言われ、谷岡と共に応接室を出ると、廊下の一番奥まであるくと、ドアを開く。
その中は地下への階段になっていた。
薄暗い階段を下っていくと、ぼろぼろのドアが見えた。
谷岡が入った後、続くように二人も中に入る。
そこはとても小さな部屋だった。上に電球が一つぶら下がっており、本棚とベッドが一つ。
ベッドにはノリカらしき子供が、後頭部を見せて寝ていた。
身長から考えると十歳と言ったところだろうが、今のところ特に異常は見当たらない
見ていると、音で目を覚ましたのか、ノリカが体を起こしてこちらを向いた。
瞬間、田所は言葉を失った。
その顔が人間のものとは思えないほど、ブスだったからだ。
目、ほほ、唇、あご、すべてがはれぼったくふくれ上がり、その中央にがっしりとした鼻がある。
思わず目を背けたくなる容姿だった。見るに耐えないとはこのことだ。
「う、うもう」
と遠野は口を押さえて下を向いたが、田所はギリギリのところで耐え、しっかりとノリカを見た。
「酷いですね、これは酷い……谷岡さん、これは最初からこのような状態で?」
「ずっとこんな感じだ」谷岡も、ノリカを直視しないようにしている。「いいんだか悪いんだか、変わった様子は無い」
「お父さん、この人だれ」
小さな化け物は、顔にそぐわぬ少女の声でそう聞いた。
「この人たちはお医者さんだ。ノリカの顔を治しに来たんだ」
「早速だが」田所は一歩、近づく。「ちょっと見せてもらうよ」
すり足で、ゆっくりとノリカに近づき、吐き気をこらえながらも顔をよく見て、手を伸ばし「失礼」と顔を触った。
肌はまるで弾力がなく、異様に硬かった。
「病院に何度か見てもらったが」谷岡が説明する。「どうやらその顔には筋肉がつまっているらしい。原因不明の奇病だそうだ。どの医者に聞いても、直す方法は分からないといわれた」
「それで私のところに」
「そうだ」
「なるほど、分かりました。いったん戻りましょう、ここでは話しづらい」
応接室に戻り同じソファーに座ると、田所と遠野は深呼吸した。
ただ見るというだけで、ここまで神経を使ったのは初めてだ。
「ところで、質問なんですが」遠野が聞く。「病院でレントゲンは撮られてるみたいですが、手術はしなかったんですか。とりあえず、筋肉だけでも切除すればいいのに」
谷岡は静かに首を振った。
「いや、そうは言ったんだが、どの医者も切れないの一点張りだ」
「そうでしょうね」田所が割って入った。「何かあれば執刀医と病院の責任だ。これを切ろうなんて人間は、国内に何人いるか」
「あんたはどうなんだ、ブラック・ファック」
谷岡そう言って、じろりと田所を見る。
「私はブラック・ファックではなく、田所です。患者を前にして、逃げ出すような医者ではありません。ただし、高いですよ」
谷岡の目がさらに鋭くなる。
「いくらだ」
「成功報酬で11億4514万円でどうでしょう」
「分かった、払う」谷岡は即答した。「大事な一人娘なんだ、金には変えられん」
「では早速、手術を始めさせてもらいます。遠野、さっきの地下の部屋に準備を」
遠野は「はい」と返事をすると、部屋を出て行った。
「おい、ちょっとまて」焦ったように谷岡は言った。「あの地下室で手術ができるのか。もっと、ちゃんとした病院でやるべきじゃないのか」
「申し訳ないが、私は無免許なもんでね、簡単に手術室を借りれる人間じゃない。ですが、安心してください、安全には最大限に考慮して行いますよ」
数分後、地下室の真ん中ではビニールの簡易手術室ができていた。
いざという時に、いつもトランクに忍ばせているものだ。
特注で作らせているもので、中は病院の手術室と大差ない。
谷岡からノリカの変異前の写真を受け取ると、全身麻酔でノリカを眠らせ、簡易手術室に運んだ。
手術着に着替えた田所と遠野が中に入ると、外では谷岡が見守る中、田所はノリカの顔にメスを入れる。
素早い手際で顔のすべての皮膚を取ると、その内側の筋肉があらわになる。
「原因はいったいなんでしょうか」その光景を見て、隣に立つ遠野が言った。「こんなの見たことありませんよ」
「さあ。筋肉が増える病気はいくつかあるが、こんな一か所に集中して、大量に増えるなんてものは聞いたことがない」
筋肉はかなり固く、色は白色で、普通のものと比べて血管が通っていないようだった。
切除していくと、下には顔の脂肪らしきものが見えてきた。
「筋肉の下には、そのまま元の顔があるみたいだ」
田所は筋肉をハサミでつまみ、浮かせながら言った。
「つまり、顔が突然に変異したというわけではなく、顔の上に大量の筋肉が現れたというわけですか」
「そういうことだな」
すべての筋肉を切除し、皮膚を縫合しおえると、顔に包帯を巻いて手術を終了した。
「どうなんだ!」簡易手術室を出るや、すぐに谷岡が田所に言い寄ってきた。「ちゃんと元に戻るのか」
「筋肉の下に、そのまま顔がありました。変異前と大差なく戻るでしょう」
「そうか……」谷岡はほっと胸をなでおろした。「それはよかった。ありがとう、ブラック・ファック」
「田所です。安心するのはまだ早い。原因はいまだ不明ですから、これからなにが起きるか分からない」
「ああ、そうだったな」
「とりあえず、包帯が取れるまでは様子を見させてもらいたい」
「家には客人用の部屋がある。そこに泊まってくれ」
「どうしてカレーなんですか」
谷岡の客室用の部屋で、高そうな机に座った遠野がふてくされた顔で言った。
手元にはレトルトのポンッカレーが、調理済みで置かれてある。
「俺はカレーがいいんだよ」
対面に座る田所は、ポンッカレーを食べながら答えた。
「せっかく谷岡さんが晩ご飯を一緒にって、言ってくれているんですから、お言葉に甘えればいいのに。きっと豪華ですよ」
「興味ないな、行きたいならお前だけ行けばいい」
「先輩がカレー食べてるのに、僕だけ食べるわけにはいきませんよ」
「そんなこと知るか、俺はポンッカレーが一番好きなんだよ」
「こんなレトルトカレーのどこがいいんですか」
ぶいぶいと文句を言いながらも、遠野はカレーを食べだす。
「誰がなんと言おうと、これ以上にうまいもんはない」
「ふつーのカレーですけどね」
田所はなにもいわず、黙々とカレーを食べていると、突然ドアが開き「ブラックファック!」と谷岡の叫び声が叫びき、中に入ってくると、田所の胸倉をつかんだ。「お前、顔は元に戻ると言ったはずだろ!あれはどういうことだ!」
「落ち着いてください」田所はなだめるように言った。「いったいなにがあったんです」
「なにって……とりあえず、俺について来い!」
谷岡に言われるがまま後を追い、ノリカの眠っている地下室に行くと、田所はノリカを見て絶句した。
包帯に包まれたノリカの顔が、パンパンに膨れ上がり、今にも包帯がはちきれそうになっていたからだ。
「お父さん」包帯越しに、ノリカは言った。「顔が痛いよ」
まさか、そんなはずは。
田所はそう思いながら、恐る恐る包帯を外していくと、またあのブスが包帯の中から現れた。
「どういうことだ、説明しろ」
応接室に入り、谷岡が威圧感を見せてそう聞くと、田所は首を横に振った。
「分かりません」
「分からねぇじゃねぇぞお前。金はすでに払ってんだ」
「もちろん、失敗に終わればそれは返金しますよ。申し訳ないが、病名もなにもわからない以上、説明のしようがない。筋肉があんなに膨らむことも、切除したものが一日たたずに戻ることも普通じゃない」
「お手上げってことか」
「現状では」
谷岡は右手で自分の額をつかみ、深いため息を吐くと「そうか」とつぶやいた。
「この病気にかかる前、なにか予兆のようなものはなかったんですか」
田所が聞くと、谷岡は少し考えるそぶりを見せた後、首を横に振った。
「いや、ない。いつも通りだった」
「じゃあ、いつも食べてないものを食べたとか……どこかを強く打ったとかは」
谷岡は顎に手を置いて、下を見て数秒考えると「あ」と目を開いて顔を上げた。「あった、多分だが、あいつこけて顔をケガしている」
「どこで、どういうふうにですか」
「この部屋だ」
田所は眉を寄せた。
「この部屋?」
「ああ、あいつが使用人と追いかけっこをしていた時、この部屋でこけて、顔を擦りむいたらしい」
「なるほど」
田所は立ち上がって、応接室を見まわした。
ソファーが二つ……暖炉が一つ……窓が一つ……ハープを弾く女の絵が一つ……まさか。
田所の頭に、一つの考えが浮かんだ。
遠野は窓から入る日光で目を覚ました。
客室のベッドはかなり上質な物のようで、寝心地はとてもよく、ぐっすり眠れた。
あの日は、もう夜ということで、話は次の日に持ち越しとなったが、本当にノリカちゃんは元に戻れるのだろうか。
そう思いながら、隣のベッドを見やると、すでに田所はそこにはいなかった。
それを見た遠野は「あれ」とつぶやいて首をかしげた。
基本的に先に起きるのは遠野で、田所が先のことはほとんどない。
部屋の中を見回しても、誰もいない。
「あれ、先輩」
どこに行ったのかと思い、立ち上がると、机の上に一つあるメモに目がいった。
「こんなの、あったっけ」
遠野はそのメモを手に取り、書かれている内容を読んだ瞬間「え」とつぶやくとその場で固まった。
これって……どういうこ――
突然、大きな音を立ててドアが開くと、手に拳銃を持った谷岡が入ってきた。
「お前!」
谷岡は怒号を飛ばすと、遠野に銃口を向けた。
「いひぃ!」遠野は思わず、両手を上げてメモを落とす。「ななな、なんですか」
「ノリカは!……ノリカはどこだ!どこにいる!」
「ノ、ノリカちゃんは」
遠野が落ちているメモを指さすと、谷岡がすぐさまそれを乱雑に拾い上げて見ると、すぐに遠野の顔の前に突き出した。
「どういう意味だ!」
そこには――ノリカの治療をする。三日後には帰る――とあった。
遠野は首を横に強く振る。
「分かりません」
「分かりませんじゃねえぞ!どこだ、言え、撃つぞ!」
「本当に知らないんです。さっき起きたら、これが置いてあって、どこかに行っちゃってたんですよ」
谷岡は歯を食いしばりながら震えると「チキショウ!」と銃のグリップを机に叩きつけた。「あの野郎……もしかしたら、ノリカをどっかに売る気じゃねぇだろうな」
「いえ……それはないと思います」
遠野が答えると、谷岡は鋭い目を向ける。
「あいつは金のためなら、なんだってする男だろ。11億もふっかけやがって」
「確かに先輩は無免許で、性欲の獣で、臭くて、汚くて、顔のイボがキモくて、法外な治療費とりますけど、あの人は医者です、患者を絶対に見捨てません」
谷岡は遠野の目を見ながら、深く深呼吸をした。
「分かった。お前のその言葉、信じてやる。だが、もしあいつが三日後、ここに戻ってこなかった時……その時は」谷岡は鬼の形相で、遠野に顔を近づけた。「お前を殺すぞ」
三日間、遠野は逃げられないよう、客室に閉じ込められていた。
トイレに行く時も、わざわざ谷岡が付いてくる徹底ぶりだった。
その谷岡はいま、拳銃を手に遠野の前に座りながら貧乏ゆすりをしていた。
「今日だぞ、分かってるんだろうな」
「もちろんですよ」
そう答えたものの、自信はなかった。
よくよく考えれば、田所はかなり時間にルーズだった。三日後と書いてあったが、もしかしたら四日後や五日後になるかもしれない。
しかし、谷岡の雰囲気を見るに、今更そんなこと言える状態でもない。
携帯にも連絡は取れないし、まさか遠野がこんな状態になっているとも思っていないだろう。
窓の外に目をやると、すでに日は暮れかかっている。
不安からか、脇から汗が流れ丁度そのとき、ノックがなった。
谷岡がドアを開くと、使用人の男が顔を出した。
「ああ、谷岡様。ただいま、ブラック・ファック様が――」
「田所だ」
使用人の言葉をさえぎり、田所がノリカを連れて部屋に入ってきた。
「ノリカ!」叫んだ谷岡はすぐにノリカに駆け寄る。「大丈夫か、なにかされなかったか」
「ううん」
とノリカは首を振った。
「そうか……それはよかった」ノリカから目をそらしながらそう答えると、谷岡は立ち上がり田所を見た。「お前どこに行ってやがった」
「治療です。メモならおいていったはずですが」
「どこに行ったのかも書かれていなかったし、ノリカの顔はちっとも戻っていないじゃねえか!」
「それは――」
「もういい!」有無を言わさず、谷岡は叫んだ。「下らねえ言い訳は聞きたくねぇ。消えろ!今すぐにだ!」
「どういうことなんですか」日没後、谷岡の家の塀に停めたセンチュリーの中で、遠野は聞いた。「説明もなしにノリカちゃんを連れて行って」
「どう説明しても、連れて行かせてはもらえないだろうと思ったからな」
「ちゃんと説明すれば、分かってくれましたよ」
「いや、あの谷岡は絶対に一緒についてきた。脇からいちいち口出しされたらたまらん」
「そんなことで……まあいいです。それより、分かったんですか、病気の原因は」
田所は腕をくんだ。
「まあ、たぶんな」
「なんだったんですか」
「あくまで憶測だが、あれは火に対する体の防御反応だと思う」
「火、ですか?どうして」
「患者はあの応接室でこけているんだ、それも冬に」
「冬?」と遠野は首をかしげた。「冬が何か関係あるんですか」
「あの部屋には、暖炉があったろ」
田所が言うと、遠野は「あ」と言って、思案するように目を動かした。「そうか、暖炉に火がついていたんですね」
「使用人に話を聞くと、あの日は来客があって、くべていたそうだ。そして、ちょうどその日、患者は追いかけっこをして、こけたんだ、暖炉の前で。どれだけの火の粉や熱風が顔にかかったのかは分からない。だが、それが体の防衛本能を引き起こして、顔に筋肉をつけてしまった。患者の顔についていた筋肉、覚えてるか?」
遠野はうなづく。
「はい。固くて、色も白く、血管も少なかったです」
「あれは、かなり燃えにくいだろうな」
「たしかに……それで、どんな治療を」
「火による拒絶反応でああなったのなら、体を火に慣れさせればいい。山の中で、毎日のように火をくべて、近くで見せた」
「それで治るんですか」
「体が火に驚いた結果ああなったんなら、それで治るのが道理だろう」
「なるほど。しかし、火の防衛本能って本当にそんなことあり得るんでしょうか。あの顔にも、たった一日でなったんでしょう。それも、筋肉を摘出してもすぐに戻るなんて」
「人間の体というものは、時に人智を超えた奇跡を起こすもんだ。もしかしたら、いまにも筋肉が消え――」そこまで言うと、田所は手を口にあてた。「消えると……」
「どうかしたんですか」
田所の様子を不思議に思った遠野がそう言うと同時に「まずい!」と田所はセンチュリーを飛び出した。
「クソ!」
谷岡は書斎でウィスキーをショットグラスで一気に流し込むと、机を叩いてうなだれた。
頼みの綱であったブラック・ファックは役に立たず、病院にも期待はできない。
どうすることもできない現実を前に、ただ唸りながら酒を飲んだ。
酔いが回ってくると、絶望は苛立ちに変わってきた。
俺がなにしたってんだ。どうして俺の娘だけが、こんな目に合わなくてはいけないんだ。ふざけやがって。
そんなことを考えていると、不意にウィスキーボトルの横に置いてある拳銃に目が行く。
「あいつら……」脳裏にブラック・ファックと遠野の顔が浮かんだ。「殺しとくべきだったか……どうせ、手術も適当にやったんだろ」
怒りで拳が震え、それを振り上げ、ショットグラスに叩き落そうとした瞬間、ノックの音を聞いて腕が止まる。
「お父さん」ドアの奥から、かすかにノリカのらしき声が聞えた。「開けて」
ノリカの部屋は書斎の隣にあった。
顔が変わって以来、使用人が怖がることや、周りの人間に知られようにするため、ずっと地下に居させていたが、ブラック・ファックに連れ去られて戻ってきた今日ばかりは、部屋に戻ることを許していた。
「ああ、いま開ける」酒の回った力ない足取りで立ち上がると、ふらふらと歩きながらドアまで向かい、開いた。「どうしたノリ――はあああぁ!」
谷岡はノリカの顔を見ると、声を上げてしりもちをついた。
ノリカの顔が縦に長くただれて、ぽっかりと開いた真っ黒な両目と口の穴がある化け物になっていたからだ。
「ぼどうざぁん」
とくぐもった声を発しながら、ノリカはゆらゆらと谷岡に近づいていく。
谷岡は声にならない声を上げながら、尻をすらしながら後ずさりすると、机の上に手を伸ばした。
机に手を這わせ、ウィスキーを倒しながら拳銃を手に取る。
震える手で化け物に標準を合わせると、目を強く閉じ「すまない」とつぶやき、引き金を引いた。
乾いた発砲音が部屋に響いた。
腕に違和感を感じ、目をゆっくり開くと、目の前にはブラック・ファックの顔があった。谷岡の両手を握り、銃口を上へと向けさせていた。その先、天井には小さな穴が開いている。
「自分の娘を撃つやつがあるか!」
ブラック・ファックは強く握られた谷岡の手から、拳銃を取り上げると、思い切り顔に平手打ちをした。
谷岡は衝撃で体を後ろにのけぞらすと、ゆっくりと体を起き上がらせる。
「そ、そいつはもうノリカじゃない」谷岡は震える声で言った。「化け物だ」
「よく見ろ!この子の顔は皮が大量に余っているせいで、おかしく見えてるだけだ」
「皮?」
「そうだ。大量の筋肉が皮膚の下にあった。それが消えれば、こういうことになるだろう」
筋肉が消えた?
「それは……つまり」
「治ったんですよ、この子は」
「ブラ……田所!」
谷岡はノリカの皮膚を摘出した後、なにも言わずセンチュリーに歩き出していた田所に向かって叫んだ。
田所は踵を返す。
「なんでしょう」
「いや、まだ礼も言う前に行っちまうもんだから」
「礼なんて必要ありません。謝礼はちゃんといただきましたから」
「ああ、そうか。それなら、礼じゃなく謝罪をさせてほしい。疑ってしまって本当に――」
「それも結構だ」
田所は言葉をさえぎって言うと、谷岡は困ったように眉を寄せた。
「結構って、そう言われても謝らなきゃこっちの気が収まらねえ」
「あんたの気なんて、どうでもいい。それより、私よりも先に謝らなくてはならない人間がいるんじゃないですか」
すぐにノリカの顔が浮かんだ。
「ああ、ノリカのことだろう。もちろん、すまないと思ってる」
「すまないと思ってるだと?あんた、自分がなにをしたのか分かって言ってるのか」
「もちろん、分かってる。ただ、あんな化け物みたいな顔になっていたんだ。仕方がなかったんだよ」
「なにを言ってるんだ。あんた、あの子の親だろう。親ってやつは、自分の子供の顔がおかしくなろうが、体がおかしくなろうが、頭がおかしくなろうが、それでも死ぬまで愛してやるのが親ってもんじゃないのかね」
谷岡は口を閉ざし静かに立ち尽くすと、センチュリーはエンジン音を立てて門の外へと消えていった。