ブラック・ファック   作:ケツマン=コレット

10 / 21
ブラック・ファック

 医者っていったい、なんなんだ。

 これで何度目か、頭に沸いたその問いは、目線の先、病室の窓から見える青空に消えていく。

「ちょっと、先生」

 ぼーっと空を眺めていた遠野は、はっとして横を向く。

「あっはい」

 見ると、ベッドに寝転ぶ患者が怪訝そうな表情を浮かべていた。

「なに……オレの体になんかあったの」

 どうやら、遠野の様子を見て、不安を感じたようだった。

「いえ」

 笑顔を作り、遠野は手を振る。「ちょっと寝不足が続いてまして」

「寝不足? おいおい、あんたオレの主治医だろ。そんなことで、へたな仕事してもらっちゃ困るよ。ちゃんと寝てくれよ」

「す、すいません」

 謝って頭を下げるも、そんなこと言われたところで、どうしようもない。と心の中で呟く。

 研修医は、というよりも、医療現場は激務だ。朝から晩まで働き詰めで、休む暇もない。

 指導医には毎日のように怒られ、看護師からは監視され、家に帰るのはいつも夜の11時以降。軽くシャワーを浴びて気絶するように眠れば、朝食を食べてすぐに家を出る。

 土日には休みをもらえるが、担当患者に何かがあれば、すぐに呼び出しが来る。いつ何時でも、気が休まることがない。

 さらに、一週間に一度は夜間当直もあり、その日は寝ることができず、数時間の仮眠をとって、いつものように仕事を行う。

 研修が終わり医者となると、これよりもさらに過酷な職場環境になるというのだから、笑える話ではない。

 給料は、生きるのに困らない程度にはもらっているが、その労力と見合っているとはいいがたい。

 まあ、その昔に研修医の低報酬が問題となり、2003年に法律が作られたからそれだけもらえているが、それ以前は月5万円なんていう、異常な報酬がまかり通っていたのだ。それと比べれば、恵まれているといえば、恵まれているのかもしれない。

 しっかり眠って、ちゃんと仕事をしてほしい。患者はみんなそう思うだろうし、病院で勤務する医者や研修医たちだって、そうしたいと思っている。だが、そんなことをすれば、ここ下北沢病院は成り立たないのだ。

 しかしながら、遠野にとっては収入も激務も、たいした不満ではなかった。もとより、こういう職場だということは熟知していた。

 何よりつらかったこと、それは、ここ下北沢病院で働き出し、いろんな人間と接していくほど、医者というものの本質が見えなくなったからだ。

 病院は一企業だ。赤字が続けば倒産するし、経営が大事なことはよくわかる。ただ、ここには患者を札束で数えるような、そんな損得勘定が見え隠れする。

 本来なら6人ほどが入れる部屋を、わざわざ一人用の豪華な個室にして、政治家や社長あたりを相手にし、お礼金なんかをもらえば、名のある教授が優先的に手術を行う。

 組織としての構造も最悪だ。常に上の人間が幅を利かせ、すべてを決めている。一番の出世への近道は、手術をすることではない、ゴマをすることだ。

 派閥争い、出世争い、圧力や理由のないイジメ。そして、そんな中を着実に順応していっている自分。

 いつの間にか、愛想笑いがうまくなった。会話の中で、他人を持ち上げるのがうまくなった。必要最低限の行動で、患者を対処するのがうまくなった。

 そのつど、見えなくなっていった。自分の理想とした医者の姿が。

 昔は、確かにハッキリと見えていた。だがいまは、すりガラスの向こうにあるかのようにぼやけている。

 そのぼやけた輪郭を目でなぞるたび、思う。

 医者っていったい、なんなんだ。

 午後10時。仕事が終わり、更衣室で私服に着替え、薄暗い廊下を歩く。

 そのとき、微かにウンコのようなにおいがした。

 どこかに汚物の入ったオムツでも落ちているのかと、視線を動かしていると、すぐ近くの病室から扉越しに話し声が聞こえた。

「医療費のことなんですけど」

 子供の声だ。

 確かここは、たると、という難病の少年が使っている個室だ。

 長い間、手術できる人間が見つかっていなかったが、最近になって現れて、ここで手術をしたと聞いた。

 どうやらその費用について話し合っているようだった。

 別に聞きたいわけではないが、離れる理由もないので、引き続きにおいの出所を探す。

「364万円ですよね」

 たるとから発せられたその金額を耳にした瞬間、遠野の体は硬直させ、ゆっくりと病室の方を振り返った。

 364万円? そんな金額を請求したのか。

 確かに、病気は下北沢病院ではどうしようもないほどの難病だった。それでも、ありえない金額だ。

 金持ちに対しての要求ならまだわからなくもないが、たるとの家は普通の家庭だ。簡単に払える金額ではない。

「ああ、そうだ」

 手術を担当した医者らしき男の声が聞える。

 汚い声だった。きっとブサイクに違いない。

 当然のように答える医者の声を聴いても、遠野にはもう嫌悪感すら湧いてこなかった。あったのは、医者という職業に対する諦め。

 難病の子供を救える腕はあっても、何よりも大事な人としての心がない。

 もうどうでもよくなった。自分の行く末も、なにもかも。

 急にどっと体が重くなった気がした。

 さっさと帰ろう。そう思い、踵を返したそのとき、

「だが、それは普通の患者の場合だ」

 遠野は足を止め「え?」と思わずたると、と同じ言葉を重なるように言った。

「キミと私は友達だろ」

 フっと笑う声が聞えた。「助け合うのが友達ってやつだ、金は要らない」

 頭が真っ白になった。ドン、と脳天から衝撃がきたようだった。 

 病室の中では二人が話を続けているが、遠野の耳には全く入ってこない。

 足元から湧きたち全身へとめぐる、ろくでもない人間と決めつけていた自分への恥の感情と、謎の興奮。それが遠野の体温をぐっと上げ、耳を赤くした。

 不意に扉が開き、医者らしき男と目があった。色黒で体のがっちりとした、目の横に小汚いイボのある、予想通りブサイクな男だった。

 男は遠野をみて「なにか?」と聞いてきたが、

「いえ、なにも……」

 遠野が茫然とそう答えると、男は不思議そうに眉を動かした後、背を見せて廊下を歩いていった

 顔を見れば分かった、性欲の獣だ。きっと部活の後輩なんかを家に呼んで、睡眠薬入りアイスティーでも飲ませて昏睡レイプとかしてるに違いない。

 体臭もウンコくさい。においの出所は、この男だったんだ。きっと、ろくなものを食べていない。

 大学も留年してそうだし、イクときにイキスギィとかいいながら、甲高い声を上げるだろう。年上の人間を呼び捨てにしてそうだし、枕も無駄にデカいはずだ。筋肉はステロイドで作った偽りの筋肉だ。ハゲてるし。

 ウンコの擬人化、ステロイドハゲ、鈴木福。

 侮蔑しようと思えば、いくらでもできる風体の人間だった。でも、医者だった。

 自分の理想としていた、医者の背中姿が、確かにそこにあった。

「あの!」

 医者が数歩進んだところで、遠野は呼び止めた。医者が足を止めてこちらに振り返かえると、遠野は息を呑んでいった。「あの……な、名前を、教えてくれませんか」

「名前」

 医者は怪訝そうな表情を浮かべた後「田所だ。医者をしている」と答えた。

「田所さん。いや、田所先輩」

「せん……ぱい?」

 田所は首をかしげる

「はい、そう呼ばせてください」

 医師免許を持ち、遠野が先生と呼ぶ医者はたくさんいる。でも、それら有象無象と田所は違う。自分の求める医者像の先を行く人間だ。それを敬いたかった。

「まあ、悪い意味はないんだ、好きにするといい」

「ありがとうございます。それで先輩、一つ聞きたいことがあります」

 遠野は目を真剣なものにして問う。「医者っていったい、なんなんでしょうか」

 いままで、どれだけ考えても出なかったその答え。きっと、田所は明確な答えを持っていると思った。だが、

「さあ、わからん」

 田所の口から出たのは、あまりにも適当なものだった。

「分からないって……いや、先輩ならわかるはずです。先輩は誰よりも医者です。だったら、医者としてあるべき、確かな答えを――」

「わからんと言ったらわからん」

 田所はぶしつけに遠野の言葉を遮り、続けていった。「理由だとか意味だとか、考えたことがない。ただ、患者を治療し続けた。そしたら、いつの間にか医者になっていただけだ」

 いつの間にか……医者に……。

 遠野はぐっと全身に力を入れ「なるほど」と一つ呟いた。

「悪いな、分かりやすいな答えじゃなくて」

「いえ、とてもいい答えだったと思います」

 目を閉じ、遠野は深々と頭を下げた。「ありがとうございます」

「礼には及ばない。失礼する」

 田所がその場から離れる気配を感じても、遠野は頭を上げなかった。

 その状態のまま、遠野はある確信を得ていた。

 自分の描く理想への道のりは、いまだ見えない。でも、その先に先輩がいる。

 学ぶんだ。先輩から……僕が医者になるための、大切なものを。

 その後、遠野が田所の助手として行動を共にするのは、研修が終わった3か月後のこと。 

 

 

 

 

 ムンバイはインドの東、海沿いに位置する大都市である。

 海岸近くには高層のビルやマンションが立ち並び、その反対には中流層のアパート、そのさらに奥にはボロボロの家や、屋根代わりのブルーシート、大量に干された洗濯物が見える、スラム街がある。

 高層マンション、364階の一室。応接室らしき小部屋のソファーに座る田所が外を眺めると、そのスラム街を一望できた。

 資本主義によって生まれたその強烈な格差を感じると、なんとも言えない気持ちになる。

 そんな田所に対し、対面に座る、見るからに金持ちだと言わんばかりの、金に染まった腕時計や指輪を身に着けた小太りのインド男は、ソファーに座って余裕のある笑みを浮かべながら、中味のない話を喋り続けていた。

「いやー聞きしに勝るとは、まさにこのことでしたねぇ。いくらでも払うといっても、首を横にふる医者ばかりでして。私も、当事者である息子も半ば、諦めていました。そこで小耳にはさんだ神の腕を持つ名医、ブラック・ファック。半信半疑でしたが、この目で見て確信しました。あなたこそが世界一の名医だ」

「何度も申し上げますが、私の名前は田所です。ブラック・ファックと名乗った覚えはありません」

 休みなくしゃべり続ける男に辟易しながら、田所は面倒くさそうに答える。

「あーいや、これはこれは申し訳ない。しかしですねぇ、インド一の名医とうたわれた人間でさえ、無理だといった手術を、30分程度で終わらすというのですから、これはもう神業。いえ、あなたそのものが神といっていい。ここだけの話ですが、息子もかなり自暴自棄になりましてね。殺し屋を雇ったんだ、もうすぐ死ぬんだと、訳の分からないこともわめいておりました」

「そうですか」

 田所はイライラしながら、膝を揺らす。

「やはり日本の方は手先が器用なのでしょうね。最近ここインドにも日本企業の進出が盛んでして。このマンション周辺では、よく日本人を見かけます。きっとあなたもご存じだと思いますが、数年前から医療業界にも進出した……ハハ! 名前を忘れてしまいました。ともあれ、私は日本人の方によく助けていただいています。もちろん、あなた含めてね」

「それはどうも」

 田所が仏頂面でそう答えると、男は目をきょろきょろと動かす。

「あー、それで……まだ何か話すことでもおありですか」

 目を閉じた田所は、鼻から思い切り息を吸い、ゆっくりと吐きだした。

「報酬を」

 その一言で、男はハッとして眉を上げると、

「ああ! これはこれは申し訳ない、全く忘れておりました」

 胸ポケットから小切手らしき紙とペンを取り出す。「それで、いくらでしたか」

「1億9190万円です」

「そうでしたねぇ」

 男は少しだけ眉を動かし、ポケットから出したハンカチで額を拭いた後、小切手にその金額を書き込み、田所に渡す。「ありがとうございました。また、息子に何かあった時は、よろしくお願いします」

「報酬がいただけるなら、いつでもお伺いしますよ」

 田所は立ち上がった。「では、失礼します」

「下には車を待たせてます、空港までの足にしてください」

「それはどうも」

 男と一緒に部屋を出ると、36畳の巨大なリビングで待っていた遠野が駆け寄ってきた。

「先輩、終わりましたか」

「まあな」

 いつもなら、海外に出るときは日本に待たせているが、今回はあーだこーだといってなぜかついてきていた。

「失礼なこと言ってませんか。ちゃんと、香水は振りましたか」

「大丈夫だ」

 面倒くさそうに、田所は答えた。

 依頼人の話に延々と付き合わされたところに、母親のようにあれやこれやと、無駄な世話をやいてくる遠野にイライラした。

 これなら、何と言おうと置いてくるべきだった。

 二人はエレベータで下におりて、エントランスを通り過ぎ、出入り口をでた。

 顔に地獄のような日差しが刺すと、すぐそこでは黒い車と、それの前に立つインド人の運転手が見えた。

 運転手は、田所たちと顔を合わせると頭を下げ、

「運転手です。よろしくお願いします」

 と片言の日本語でそう言った。

「空港まで頼む」

 田所は伝えて二人で後部座席に乗り込むと、車は動き出した。

「日本語、お上手なんですね」

 発進するや、遠野が運転手に対しそういった。

「ハイ! 昔、私の村に、日本人の医者が来ました。その時、教えてもらいました」

「へえ、インドの村に。立派な人だったんですね」

「ハイ! 僕は、お金なかったですけど、お金とらずに治療してくれました。だから、日本人好きです。お医者さん大好きです」

「タダでですか」

 感心したようにうなづき、そう呟いた遠野が、疑ったような目で田所を見る。

「なんだ」

 すぐにそれに気づいた田所は訪ねた。

「先輩、今回の手術でいくらいただいたんですか」

 田所は軽く首を振って、ため息をつき、

「お前には関係ないだろ」

 と目線を窓の外に投げる。

「僕は先輩の助手ですよ、手術も手伝いました、知る権利があるはずです」

「お前が勝手についてきたんだろ……たく」

 そう言うと、田所は「1億9190万円」ボソリと付け加える。

「1億きゅ――取りすぎですよ!」

「別にいいだろう! 難しい手術だったんだ。それに、相手は超がつく金持ちだ。たいした痛手でもない」

「もちろん分かってます。先輩じゃないと手術できないような、難しい病気だったってことも。先輩が、いざというときは、お金がなくとも手術してくれる、根の優しい人だってことも」

「それはだな」

 田所はばつの悪そうに口ごもる。「まあ……成り行きだったり、気分だったりがあるんだ。別にやさしさでやってるわけじゃない」

「何でもいいですけど、やっぱりこの手術で2億は取りすぎです」

「1億9190万円だ」

「ほとんど一緒じゃないですか!」

「あの」

 運転手が気まずそうに割って入る。「あんまり、喧嘩はよくないと思います」

「申し訳ないが、部外者は黙っていてくれ」

 田所はそっけなくそう返し「オレの仕事の報酬はオレが決める。いちいち口を出すな、何度もいってるだろ」と遠野にいった。

「いいえ、今回ばっかりはいわせてもらいます。先輩の技術が素晴らしいにしても、分相応というものがあります。取り過ぎは良くありません」

「いてもいなくても大差ない助手のくせして、口だけは達者だ」

「な――」

 その言葉が癇に障ったか、遠野の一気に怒りをおびた。「大差ないって、先輩の手術についていけるの僕ぐらいしかいないでしょ」

「オレはいつもお前に合わせてゆっくりやってやってるんだ。いない方がましだ」

「僕がいなかった掃除も洗濯も、たまりっぱなしですよ」

「実生活の話なんてしてないだろ。だいたい、家事ぐらいオレだってできるし、家政婦を雇えばいいだけだ」

「先輩のウンコ臭い洗濯物なんて、誰も洗えませんよ」

 田所は舌打ちして、

「ともかく! 医者でもないお前に、とやかく言われる筋合いは無い!」と声を荒げた。

 遠野は怒りの表情のまま、何か言いたげに田所をにらんでいたが、不意に前を向くと、

「すいません、車を止めてください」

 と運転手に言った。

 運転手は戸惑い「え……いや、でも」と言葉を濁していると、

「降りたいそうだ、とめてやれ」

 田所にそういわれ、しぶしぶ、近くの歩道脇に止まった。

 遠野がシートベルトを外し、ドアを開けて車から降りると、

「せいぜい、変なのに引っ掛けられないよう、気を付けるんだな」

 田所は吐き捨てるようにいった。「まあ、お前のような爬虫類みたいな男、引っ掛ける物好きはいないだろうがな!」

 遠野は何も返さずドアを閉め、ひとり空港の方角へと歩いていく。

「あの……よろしいのですか」

 運転手が心配そうに、そう声をかけたが、

「いいんだよ」

 田所はため息交じりにいった。「あいつが勝手に下りて行ったんだ。それより、早く出してくれ」

 

 

「あの、ほんとによろしいんでしょうか」

 遠野と別れ、1時間ほどが経った頃、空港がすぐそこまで見えてくると、恐る恐るといった様子で運転手が尋ねてきた。「遠野さん……でしたっけ。置いて帰ってしまっても」

「キミには関係のない話だろう」

 田所は突っぱねたが「いや、でも」と心配そうにつぶやく運転手に対し、

「あいつはあいつで、金も帰りの航空チケットも持ってる、心配しなくていい」

 と面倒くさそうにいった。

「そうですか。それなら、まあ」

「ああ、だからさっさと空港に――」

 そこまでいったところで、田所は手を口に当て言葉を止めると、続けてこういった。「すまないが……ちょっとそこの路肩に止めてくれるか」

「え……まあ、はい」

 運転手はどこか腑に落ちない様子で、車を止めた。

 すると、田所はコートのポケットすべてを確認した後、手を額に当てて目を閉じた。

 帰りのチケット……遠野が持っていたんだった。

 今更、気が付いたその事実にうなだれ、嫌な汗をかく。

 あんなことをいっておいて、1時間後にチケットがないからと顔を合わせるのは、さすがに気まずい。

 金は一応ある。自分のサイフと約2億円の小切手が。

 それを使えば、ジェット機の1つや2つ借りれるだろうが、そのような使い方はしたくない。

 どうしたものか。

 腕を組み思案していると、不意に運転席からコンコンとガラスを叩く音が聞えた。

 顔を上げると、男が一人、窓のそばに立っている。

 手で窓を下げるようなジェスチャーをすると、運転手はそれに従った。

 駐車を注意されるのかとも思ったが、運転席のそばに立つ男は警官には見えなかった。

 いや、そもそもインド人にも見えない。東アジア。日本人に近い。

 運転手とその男は、何度か言葉を交わすと、急に不自然なほど静かになった。

 いったいなんだ。

 眉をひそめ、男の顔を見ようとしたとき、後部座席、田所が座ってない方のドアが開く。

 すると、見覚えのある、上半身筋骨隆々で下半身が貧弱な、色黒の男が入ってきた。

「なっお前は、漫画家の――」

 突然、飛んできた男の拳と、顎に来る衝撃。

 頭がくらくらとして、後ろのドアにもたれかかると、男は田所の体を引き寄せ、背中を向けさせると、その下半身とは裏腹に太く力強い腕を首に回して「落ちろ!」という言葉と共に締めあげる。

「あ……が……や、やめ……ろ」

 田所はその太い腕をつかみながら、悶えてた。

 意識が遠のいていき、もう少しで完全に消えてしまいそうになった時、腹部を殴られ、痛みと酸欠で席に横になった。

「落ちたな」

 確信めいてそう呟く男に「お前……目的はなんだ」と聞いたが、返答はなく、再度顔を殴られて気を失った。

 

 

 目覚めると、いつの間にか椅子に座らされていた。

 はっきりとしない頭で。何度も瞬きをしながら、周りを見渡す。

「う……クォクォア」

 どうやら廃ビルの一室のようだった。

 打ちっぱなしのコンクリートが四方を囲い、左手に窓を取り付けるものと思わしき四角い三つの穴から、光が入ってきている。田所のちょうど真上には、適当にぶら下げられ、いまにも落ちてきそうな電球がつるされていた。

 そして、田所の右前、部屋の角には運転手が、眠っているかのように頭を垂れて、椅子に座らされて、その隣には田所がいつも持ち歩くアタッシュケースが置かれてあった。

「おい、大丈夫か」

 そう声をかけ、立ち上がろうとしたが、体が上がらなかった。

 どうやら、両足を椅子の足に、両手を背もたれに縄で結ばれているようだった。見るところ、運転手にも同じような拘束が施されている。

 それと同時に、気が付く。

 隅に置かれている運転手。対し、田所は部屋の中央。

 どうやら、メインはオレのようだ。そう思っていると、

「お、お目覚めかぁ」

 運転手の横にあるドアが開くと、二人の男が入ってきた。

 田所は、その二人に見覚えがあった。

 一人は葛城 蓮。髪は短くまとめられ、左手には竹刀と縄が握られてある。

 この男は、過激派左翼組織、アクシードの幹部だ。

 数年前に下北沢署、署長の一人息子を誘拐し、拷問、強姦した罪で警察に追われている。しかし、その息子がどう見ても、小さめのそこそこ筋肉のある20代だったため捜査が遅れ、その隙に海外に逃亡した凶悪犯だ。

 そして、その左に立つ、馬用のムチを持ったもう一人の男。

 金髪で大きめのグラサンをした、上半身と下半身の均整がとれていない、まるで北京原人のような男は、

「フン……まったく」

 田所は鼻を鳴らすと、軽蔑の眼差しを向ける。「そういう人間だったとはな。漫画家の久保帯――」

 名をいおうとした瞬間、男の持っていたムチが田所の頬を叩き、火で焼かれたかのような激痛が、当たった部分を中心に広がった。

「そっちの名前はよしてくれよ」

 ニヤニヤと笑みを浮かべながら、男はムチをしならせた。「こっちではタクヤで通ってるんだ。子供の夢は壊すべきじゃないだろ」

 衝撃によって裂かれた頬から血を流しながら、田所はタクヤを睨む。

 タクヤは日本では、それなりに名の知れた漫画家で、何度かテレビにも出ていた。

 アクシードにはその資金力から、裏で金を渡している組織があるという噂があったが、その正体はこの男だろう。

「で、貴様らの目的はなんだ」

 田所が問うと「ちょっと黙れ」と蓮が竹刀の先端で顎を無理やり上げさせる。

「ペラペラ、ペラペラと。自分が捕まってる側だってことを忘れんなよ」

「捕まっているからこそだ。これは目的あってのことだろう。なら、さっさとそれを教えてほしいな。なんなら、お前らの目的はオレだろう。運転手は関係ないはずだ、解放しろ」

「誘拐の現行を見られたこいつを、野放しにするわけないだろ。それと、交渉は平野さんの仕事だ」

「平野?」

 聞いたことのない名前を、田所は復唱した。「そいつは誰――ウ」

 問うた瞬間、のどに竹刀の先端が軽く突かれた。

「平野さんの名前を、軽々しく口にするんじゃねぇよ」

「お楽しみ中かい」

 ドアが開く音と共に、また男がひとり入ってくると、蓮とタクヤは振り返った。

「平野さん」

「店長」

 タクヤがなぜか、平野という名前ではなく、店長と呼ぶこの男が、どうやら親玉のようだった。身長は190ほどあり、顔立ちはかなり整っている。

「すみません」

 顔を合わせるや、すぐに蓮が頭を軽く下げて謝る。「ちょっとこいつ、生意気だったんで、軽く叩きました」

「たいしたことしてないなら、別にいいんだ」

 と平野が田所の前に立つと、自然と蓮とタクヤは一歩下がった。「初めまして、アクシード会長の、平野と申します。キミが噂のブラックファックだね」

「そんな奴しらんな。オレの名前は田所だ」

「まあ、名前なんてどうだっていい。それよりも、僕らはキミに提案したいことがあるんだ。キミがため込んでいるお金、どうか僕たちの活動資金に使わせてもらえないだろうか」

 そんなことだろうと思った。

 数年前。ちょうどタクヤの漫画の連載が終わったころ、アクシードは目立った活動を行わなくなっていた。

 タクヤからの資金調達ができなくなったからだろう。そこで、金を持っているオレが狙われたわけだ。

「断る」

 当然、田所は突っぱねる。「どうして貴様らに金をやらねばならん」

「国をよりよくするためだよ、ブラックファック君。日本国はいったい、我々に何をしてくれた? 格差は広がるばかりで、官僚どもはうまい汁をすすることしか考えていない。でも、莫大な税金だけは、国民から絞り上げるんだ。我々は正義の使者だ。世の中の不逞な輩を見逃すわけにはいかない。我々には正義の鉄槌で、この腐った国を矯正する義務がある」

「そう思うんなら、お前たちで勝手にやってろ。オレを巻き込むな」 

「半分でいい。キミのため込んでいる財産の、半分だ。キミの手術費用は、平均で364万円。週に一度、手術するにしても年に1億9000万円だ。それに、たいした暮らしはしてないだろ。野獣邸と呼ばれる、中古の家にずいぶん昔から住んでる。まったく、どれだけため込んでいるのやら。そうやって、金を腐らせておいても、いいことはないだろう。ブタと守銭奴は、死んで初めて役に立つという。ドイツのことわざだ」

 内情を詳しく話す平野に、田所は眉を寄せた。

「ずいぶんと、調べ上げてるんだな」

「まあね」

 平野はポケットから携帯を取り出し、田所に見せた。「アクシードには優秀な人間がたくさんいてね、調べさせたのは数時間前さ。すでにキミの家にも向かっている。金がどこにあるのかも、すぐにわかるよ」

「金が家にあると言った覚えはないがな」

 田所がそういうと、

「そうなんだよ」

 と平野は不敵な笑みをにじませた。「キミがもし、金を何かに換金して、どこか遠くに隠しているとすれば、それを見つけだすのは容易ではない。だから、こうやってキミに頼んでいるんだよ。無駄な手間はかけたくないからね。で、どうかな、頼まれてくれるか」

 数秒、間を挟むと、田所は軽く肩を揺らして笑った。

「何度もいわせるなよ。貴様らに渡す金は、一銭もない」

 そう言うと、平野の顔からすっと表情が抜けを落ち、冷たい目で田所を見下げる。

「もう一度いっておくが、アクシードには優秀な人員が集まっている。時間さえあれば、必ず金のありかに行きつく。そして、いま我々がいるここはインドの山奥にある廃ビルでね。数年前、日本の企業がある特殊なスパイスを作るために建てたものだ。まあ、その社長がビルを作ってすぐに死亡し、会社はつぶれたようで、所有者もなく長年放置されている。ふもとから、車では行けない特殊な道を20分もかけた先にあって、確実に誰も来ない。それとね……僕の後ろにいる、この二人はとっても得意なんだ」

 平野は首を左右に回し、二人を見る。「何よりも、調教がね。正直、提案を断るというのは、賢い選択とはいえない」

 調教、などと言ってるが、それが拷問を指すことは明らかだった。

「金を渡せば、悪いようにはしない」

 と平野は続ける。「キミも運転手もすぐに解放しよう。キミが稼いだ金は、ちゃんと日本国を修正するために、正義のために使う……さあ、金のありかをいってくれ」

 田所は、鋭い目で三人を順にみると、

「――ペッ」

 口にためた唾を、平野の靴に履き捨てた。

「なっおま、お前!」

 平野は体を飛び上がらせて、つばのついた足をぶんぶん振る。「何をする!」

「お前らにやれるもんは、そいつぐらいだ。オレの唾は体臭と同じく臭くてな、一月はウンコのようなにおいが消えんぞ」

 平野は先ほどまであった余裕を消し、怒りの眼で田所をにらむ。

「愚かだな。近年の医者は金のことしか考えないのか」

「下らんことに金は使わんだけだ」

「まあ、いいだろう」

 平野はタクヤから受け取ったハンカチで靴を拭き、投げ捨て「遊んでやれ……くれぐれも殺さないように」と踵を返して部屋から出て行った。

「おじさんはねぇ」

 蓮は竹刀を足元に置き、田所に見せつけるように、縄を両手でピンと張らせた。「お前みたいなねぇ、クソ生意気な野郎の悶絶顔が大好きなんだよ」

 悪趣味な。そう思っていると、タクヤが髪の毛を後ろに引っ張り、無理やり上を向かせ、口元を緩ませた。

「死ぬ寸前まで痛めつけてやるからな」

 平野は財産の半分を渡せば、解放するといった口ぶりだったが、たぶん、それは嘘だ。

 過激派組織であるアクシードでは、地下便所や、川の土手の下爆破テロを何度も起こしている。(ニコニコ本社もいく度となく爆破しているが、慈善活動とされている)そんな連中が、連れ去った人間を、金ごときで開放するとは思えない。

 ここは山奥。もし……金の行方を知られたら――

 そこから田所は考えるのをやめ、これから行われるであろう拷問を前に、静かに目を閉じた。

 

 

「先輩、遅いなぁ」

 ムンバイの空港。人の行きかうロビーの椅子に座った遠野は、周りをきょろきょろと当たりを見回した。

 ポケットから二枚のチケットを取り出し、それを見る。

 田所のチケットは、遠野が持ってる。これがなければ、すぐには日本に帰れない。

 口論にはなったが、さすがに下北沢に帰れないのはかわいそうなので、遠野は田所が来るのを待っていたが、いつまでたっても現れなかった。

 最初は、顔を合わせるのが恥ずかしいから、どこか遠くからでも見ているのかと思ったが、あの目立つ恰好で、日本人のウンコ臭い男がいたら、すぐに見つかるはずだが、どうにも見当たらない。

 田所は1億9190万円を持っている。小型飛行機の一機や二機なら、借りれてしまいそうだが、

「先輩が、そんなことにお金を使うなんて、思えないしなぁ」

 もうすぐ、遠野達が乗る飛行機の搭乗時間となった。

 なにか嫌な予感がした遠野は、ポケットから携帯を取り出した。

 

 

「あー、オレションベンしてぇな」

 拷問が始まって30分がたったころ、蓮が軽い様子でそういった。

 顔面やその服の下に大量のあざを作り、口から血を流す田所が頭を下げて呻くと「あ、そうっすかー」とタクヤが頬に指を食い込ませ、田所の顎をつかみ上げる。

「じゃあこいつにぃ……人間便器ぃマスクをつけて、そこにションベンするってのはどうっすか?」

「いいねぇ」

 ご満悦に蓮がそういうと、

「フフン♪」

 タクヤは鼻唄を鳴らし「じゃあ参るか」と人間便器マスクを取りに行こうとしたとき、平野が部屋に入ってきた。

 そのとき、蓮とタクヤ、田所までもが、その平野が放つ不穏な雰囲気に気がつく。

 力強い足取りで田所に向かって真っすぐ歩く平野に、蓮とタクヤは自然と後ろに下がった。

「どうした、ずいぶんご機嫌ななめ――」

 瞬間、平野の思い切り振りかぶった平手が、すさまじい勢いで田所の頬を叩くと、首が飛んでいきそうな衝撃と共に、椅子ごと横に倒れ、みぞおちに蹴りが入った。

「この野郎、舐めたことしやがって」

「あの、あの。平野さん」

 唖然としながらも、蓮がそう聞いた。「いったい、なにが」

 平野は怒りを隠さずに、蓮と目を合わせた。その表情から見える、燃え盛るような怒りに蓮が微かに震えると、再度、田所の腹に蹴りを入れる。

「このウンコ、山を買ってやがった!」

「や、山?」

 ヤクヤが首をかしげる。「どういうことっすか、店長」

「19%だ」

 平野は肩で息をした後、答えた。「こいつが持っている、日本の領土。日本は75%が山地だ。山なんて腐るほどある。それを、手術費用で買いあさってやがった」

「じゃあ、現金は」

「ほとんど持ってないんだろうな。全部、山を買うのに当てていたようだ」

 蓮が、平野とヤクヤを往復して見たあと「じゃあ、山を売れば」と提案したが、

「無理だ」

 と平野が即答した。「どこもかしこも、奥地にある、誰が欲しがるかもわからない山だ。一般開放してるようで、一部キャンパーの間で噂になっているらしいが、金になる気配はない」

「なんで……そんな金にならないような山を、こいつは――」

「お前らは知らんだろうな」

 蓮が口に出した疑問を、田所が遮った。「自然の美しさを、尊さを。人は簡単に壊そうとする、それを守ることの何が疑問なんだ。お前らにも教えてやりたいほどだ、木々の生い茂る山でする野グソは最高だぞ!」

 田所がそう言い終えると同時に、平野がまた蹴りを入れると、首筋にナイフを押し当てた。

「どうやら死にたいようだな、ヤブ医者」

 首から一筋、血が流れるも、田所はバカにしたように鼻を鳴らした。

「どうせ、最初から殺す気だったんだろう」

 図星だったのか、平野は顔をゆがめ、鬼の形相で田所をにらんだ。

 ナイフを横に振れば、頸動脈が切られ、田所は確実に絶命する。その状態のまま、平野は固まり、じっと田所と目を合わせた。

 田所は覚悟を決め、その目をそらすことなく睨み返していたが、不意に平野は、首からナイフを離して立ち上がり、踵を返して部屋の隅、運転手の方向へと歩き出した。

「待て、なにを――」

「あああぁ!」

 田所の声は、平野によって太ももにナイフを突きたてられた、運転手の悲痛な叫び声によってかき消される。

「その通りだ」

 平野はナイフから手を離して振り返る。「最初から殺す気だったよ。お前も、運転手も。でも、気が変わった。お前だけは簡単には殺さない……タクヤ、あれを持って来い」

「あれっすか」

 タクヤは戸惑った様子で答えた。「でも、こいつなんかに――」

「いいから持って来い!」

 押し黙ったタクヤは、すぐに部屋から出て行った。すると、両手で持てるほどの、四角の黒い箱のようなものを持ってくる。

「奥にぶち込め」

 平野の命令で、蓮とタクヤは田所の拘束を解くと、両腕を掴み、無理やり後ろ側にあったドアの中へと入れられた。

 背中を押され、その場に倒れると、すぐにドアは閉じられ、部屋は真っ暗になる。

 すぐに立ち上がり、ドアを開けようとしたが動く気配はない。施錠されたようだった。

「クソ!……いったい何をする気だ」

「箱をよく見ろ」

 ドアの向こうから、平野がそう言った。

「箱?」

 たぶん、タクヤが持ってきたあれだ。どうやら、入る際に一緒に投げ入れられたらしい。

 田所は振り返り、暗闇に目を凝らす。

 部屋の中にある光は、施錠されたドアの隙間から入る微かなもので、すぐには箱の位置をつかめなかった。

 だがそのとき、部屋の中央より少し左、赤い光が見えた。

 その光は、ただ発光しているだけではなく、動いているようだった。

 悪寒が走った。なにか嫌な予感がした。

 冷汗をぬぐい、恐る恐るそれに近づき、手で持ち上げる。

 そこに見えたのは、

 ――36:43.64

 赤いランプによって照らされた数字の羅列。それは、時間が進むほどに小さくなっていく。

「時限爆弾だ」

 田所の脳裏によぎった単語を、平野はいった。「本当はニコニコ本社を爆発するために用意したんだが、気が変わった。お前をバラバラウンコにしてやる」

 言葉を返せなかった。頭が冷たくなり、全身が震えた。

「いっておくが、解除できるなんて思うなよ。ドラマやアニメに出てくる無能が作るものとは違う。配線なんてないし、解除方法もない……。じゃあな、せいぜい綺麗に吹っ飛ぶんだな」

 平野の嘲笑と、3人の足音が離れていくと、田所はその場で膝をついた。

「チクショウ」

 そうぼやき、ポケットに手を突っ込んだ。

 幸い、蓮とタクヤの二人は田所から携帯を没収していなかった。電源も切っていたので、電話がかかってくることもなく、最後まで気が付くこともなかった。

 だが、電源を入れようとしも、光が付かない。

 触ってみると、後ろの部分が軽く砕け、へこんでいた。拷問を受けた際、携帯の入っていたポケットに衝撃があり、壊れてしまっていたようだった。

 これでは、助けを呼ぶこともできない。

「クソ……ったれが」

 田所は携帯を投げ捨てると、歯を食いしばり、地面を殴った。

 もうどうしようもない……終わりだ。

 絶望が全身から力を奪うと、田所はドアに寄り掛かって座った。

 足の先で寿命を刻んでいく爆弾を見ながら、ふとよぎったのは遠野と出会ったときのことだった。

 変な奴だと思った。爬虫類と明石家さんまを、足して2で割ったような見た目をしていた。

 医者とはなにか。そんなことを聞かれた気がする。なんと返したかは忘れたが、それがきっかけで、遠野は助手をするようになった。

 遠野は医者になりたがっていた。だから、ずっとオレのそばにいたんだ。なのに、

 ――医者でもないお前に、とやかく言われる筋合いは無い。

 よぎったのは、遠野に向けた最後の言葉。

 あの一言は、自分が思う以上に、遠野を深く傷つけたのだろうと考えると、田所は深く後悔した。

 まさか、あれが最後になるとは思ってもなかった。喧嘩をすることは何度かあったが、次の日には遠野はいつもと変わらないように接してくれていた。

 きっと、日本に帰るころには、またいつも通りに戻るんだと、のんきにそう考えていた。

 謝りたかったが、携帯の壊れたいま、それすらできない。

「すまない、遠野」

 田所は唇を噛み、闇の中でつぶやいた。「……本当にすまない」

 もう、考えることもなくなった。

 茫然と床を見つめる視界の隅で、爆弾のタイマーが淡々と進んでいた。それを、なんの感情もなく、ただ何もすることがないという理由で、静かに眺めていた。そのとき、

「……え?」

 聞こえてきたのは、誰かの足音。

 アクシードの三人が戻ってくるとは思えない。

 もしかして……。

「おい……おい! ここだ」

 田所は声を上げてドアを叩いた。すると、

「先輩、ここですか」

 聞こえたのは、遠野の声だった。

「遠野! お前、遠野だな。確かだな」

「はい」

 突如として差した一筋の光明に、田所は頬が緩んだ。

「しかし、どうやってここが分かった」

「忘れたんですか、GPASSですよ」

 ハッとした田所は、胸のあたりに手を当てた。

 内ポケットに入っていたGPASS。衛星通信により、携帯から所持者の位置がわかる機械だ。

 遠野から持たされていたものだったが、存在を完全に忘れていた。

 助けがきたのはよかったが、まだすべてが解決したわけではない

「遠野、実はこのドア、施錠されていて開かないんだ。そっちから――」

「ああ! せ、先輩」

 田所の要求は、遠野の切羽詰まった声に遮られた。「あの、あの……部屋の隅で、運転手さんが」

 その声で、田所は運転手のことを思い出した。

「そうだ、オレをここに閉じ込めた連中が、運転手を刺したんだ。とりあえず、オレをここから出してくれ」

「は、はい!」

 遠野がドアを調べる音がするも「このドア、鍵がかかっています。こちらから開けるのも、無理そうです」

 生まれた希望は、すぐさま萎んで消えた。田所は落胆と共に、強く目を閉じたが「とりあえず、運転手の容態を見てくれ」と頼む。

 運転手は、まずいところを指されていた。

 太ももの付け根には、大腿動脈と呼ばれる、直径が9ミリほどもある、人体で二番目にお太い動脈があり、それが二股に分けられた大腿深動脈が、太ももから膝にかけて流れている。

 完全に血管を切断していたら、最悪の場合、約5分程度で失血死となる。

 もしナイフが直撃していれば、運転手の命はすでに……。

 田所は目を閉じ、遠野の報告を待っていると、

「意識……あります。小声で返答もしてます」

 その報告を聞いて、田所はほっと息をなでおろした。

 いまも意識があるということは、少なくとも動脈を深くは傷つけていない。だが、

「ですが……出血は、大腿深動脈からのようです」

 遠野はそう続けた。「ナイフが動脈を一部傷つけているようで、出血はかなり酷いです」

「お前が運べば、間に合いそうか」

 遠野から返答はなく、間に合わないことを察した田所は、歯を食いしばった。「……クソ」

「先輩……どうしましょう、このままじゃ」

「どうするって、一つしかないだろう。遠野、そこにオレのアタッシュケースがあるな」

「はい、ありま――」

 遠野は声を詰まらせた。「先輩……まさか」

「そのまさかだ。お前がやれ、遠野」

 田所がそう言うと、ドア越しからも遠野の緊張が感じられた。

「いや……そんな。ぼ、僕は一度も手術したことなんてないんですよ」

「オレの手術を何度も見てるだろ」

「で、でも――」

「そいつを救いたくはないのか!」

 ドアを叩き、田所は叫んだ。「……運転手を救えるのは、お前しかしないんだ。こんなことしている間にも、血液は流れ続ける。遠野……やれ、やるんだ」

 懇願するように、田所は額をドアに当てていった。

 返答はなかった。ドアの向こうは、誰もいないのではないかと思うほどの静粛に包まれている。

 額からつたった汗が、田所の汚いイボに乗り、横に流れると「先輩、僕……やります」遠野がそういった。

「よし。やるぞ、遠野」

 田所は、遠野へと様々な指示をした。

 まずアタッシュケースにある、麻酔で運転手を昏睡状態にした。人体は睡眠時には心拍数が下がるので、若干の止血効果がある。

 次に、遠野の来ていたTシャツを、太ももの付け根へ輪にして結ぶ。そして結び目に、これもアタッシュケースに入っていた25センチのバイブを差し込み、右に回すと輪が締まり、太ももが強く絞められる。

 これで止血は完了となるが、それほど効果があるものでもない。太ももの動脈周りには骨や筋肉、脂肪などが邪魔をするため、止血が難しい。

 強烈に水の流れるホース。それを手で少し強めに握る。その程度しか効果はないだろう。だが、ないよりましだ。

 回したバイブを輪に差し入れ、動かないように固定すると、遠野は開創器を取り出した。

 それはハサミ型をした装置で、持ち手の部分はハサミと大きく変わらないが、刃に当たる部分には、手術する際の切り口を開くため、三本の鉤が向かい合うようについてある。

 ハサミとは逆に、持ち手の部分を閉じると、鉤のついた先端が開くようになっており、中指を入れる輪の上についているトリガ―を引くと、その状態で固定されるようになっている。

 それを使い、中に鉗子を入れられるよう、ナイフの切り口を慎重に開く。

 必要最低限。鉗子が一本、入れられる程度に広げた。

「よし、準備完了だ……後は」

 田所は唾液を呑む。「ナイフを引抜き、動脈をふさぐだけだ」

 遠野は吐息と共に「はい」と返事した。

 ナイフはいま、傷つけた動脈の傷口を塞いでいる状態だ。それを引抜けば、当然、大量の出血がある。そこに鉗子を入れ、直径1センチにも満たない血管を探しだし、塞ぐ作業は困難を極める。

 田所からは見えないが、出血はかなり酷いという。もし、塞ぐのに手間取ってしまえば、失血死にもなりかねない。

「お前のタイミングでいけ、遠野」

 田所のその言葉に、遠野は重い沈黙で返す。

 こればかりは、やれといわれて、やれるものではない。

 眼前の人間の生き死にを左右する。その行為に心を決め、自分の意思で動けなければ、確実に失敗する。

 田所はただ待った。遠野が動きだすそのときを。

 10秒……20秒。

 胸が締め付けられるような無音の間に、田所がぐっと拳を握ると「……先輩」とか細い声で、遠野が効いてきた。

「あの……先輩はたくさん手術をしてますけど、怖くないんですか。もし……もし、なにかのミスで患者が死んだらって……思ったり……」

 ハハっと、遠野が笑う声が聞えた。「すいません、そんなわけないですよね。先輩はとっても手術が上手で……きっと、もう慣れっこですよね」

「いや……ある」

「……え?」

「あるさ。人間は必ずミスをする、俺だって例外じゃない。ほかのことで失敗しても、俺が損をするだけだ。でも、手術を失敗すれば……」

 目を閉じ、田所は語り続ける。「簡単な手術なんて、そうそうない。確かに、昔よりはプレッシャーを感じることが少なくはなった。でも、いまでもたまに、手術するのが怖くなって、メスを投げ捨てて逃げたしたくなるときがある……表情には絶対に出さないがな」

「そういうとき、先輩はどうするんですか」

「どうもしないさ。どうやったって、恐怖をぬぐいさることはできない……でも、やる。いま、その時にやらなきゃ、患者が死ぬ。俺がやるしかない。そう思ったとき、体が……手が勝手に動いてやがる」

 田所は自分の手のひらを見て、頬を緩ませた。すると、ドアの向こうから深呼吸の音が聞こえ「いきます」遠野の意思のこもった声が聞えてきた。

「ああ……いけ」

 田所は顔の前で両手を組み、祈った。

 その手に、汗が一つ額から落ちると、

 ――カラン。

 聞こえたのは、傷口から抜きとり、床に投げ捨てられたナイフの音。

 田所のまぶたの裏に、遠野の見ているであろう風景が、鮮明に映る。

 開いた傷口から、あふれ出る血液。

 鉗子を入れ、動脈を探る。

 だが、簡単には見つからない。

 それもそうだ。色のついた水の中に落ちた、コインを手探りで見つけるようなものだ。

 聞こえるのは、鉗子で傷口の中を探る音。ピト、ピトと床に落ちる血液。切羽詰まった遠野の息づかい。

「いけ……遠野」

 田所はつぶやいた。「大丈夫だ。俺にはわかる……できる、お前ならやれる……やれ――」

 爪が食い込むほどに、拳を握った田所は、力いっぱいに叫んだ。「――やれ、いけっ!遠野!!」

 刹那、この世から音が消え去ったのかと、錯覚するほどの静粛。

 次の瞬間、遠野は息を止めていたのか、肺の空気をすべて吐き出すような呼吸音がした。

「先輩……先輩」

 遠野は息を切らしながらも、ハッキリとした口調でいった。「やりました……止めました! 動脈を!」

「よし!よし!」

 喜びあまり、田所はドアを叩いた。「よくやったぞ、遠野! すぐに鉗子を固定するように、上から包帯を巻くんだ」

「はい!」

「30分以上の血液遮断は危険だ、すぐに運び出して……」

 興奮状態で説明を続けていた田所に、すっと冷気が背筋を撫でた。

 何度か瞬きをして、肩越しに後ろの床に目をやる。

 暗闇の中、赤い数字を刻む黒い箱。

 唇を噛み、田所はその前にひざまずく。

「先輩!」

 遠野の声だ。「運転手さんを運んだら、すぐに助けを呼びますから、それまで――」

「どれぐらいかかる」

「え?」

 1呼吸を置いて、再度田所は聞く。

「いったい、どれぐらいかかりそうだ」

「はい。ふもとのすぐそばに、小さな町がありますから、30分後には」

 ――30分。

 田所は爆弾に顔を向けると、そこには、

 08:10.00

 その時間には、あまりにも足りないリミットが目に入った。

 爆弾を持つ手に力が入り、自然と頭が下がった。

 無理……か。

「先輩? なにか、あったんですか」

 遠野の問いに、田所はすっと息を吸うと「いや……何もない」それを悟られないよう、平常心を装う。

「それより、さっさとそいつを運んでやれ。血液を失いすぎた、早急に輸血が必要だろう」

「あ、はい!」

 遠野が運転手を背負い、部屋から出ようとしたとき「それと!」と田所がいってドアの前に立つと、遠野が足を止めた。

「……今日の、車の中でのことなんだが……悪かった。つい、あんなことをいってしまって」

「ああ、あれですか。いや、いいですよ、そんなあらたまって。先輩の口が悪いのは、いつものことじゃないですか。僕も、ちょっと真に受けすぎました」

「いや、あれは冗談でもいっていいものじゃなかった。本当にすまない……それとだ。お前は、お前の意思で、お前の手で、その運転手を救ったんだ。お前はもう、立派な医者だよ」

 お世辞などではない。心の底から自分の思った気持ちを、最後に伝えたかった言葉を、田所は語った。

 満足だった。もうなにもいう必要はない。そう思ったとき、遠野が、なにかを感じ取るような、静かな間があった。

「なにをぼーっとしてる、早く行け」

 田所がそういうと、

「先輩、なにか隠してませんか」

 案の定、遠野は気が付いた。

 田所は、それが気のせいだと思わせるよう、フンっと鼻を鳴らす。

「この状況で、なにを隠すというんだ」

「いや、隠しています」

 遠野は確信した口調で、素早く返答する。「先輩、教えてください。いったい、この扉の向こうには、なにがあるんですか」

 田所はぐっと口を閉ざしたが、嘘が無駄であることを悟ると、ゆっくりと口を開いた。

「この部屋には……爆弾がある」

 遠野が息を詰まらせる音が聞えた。

「なんで……そんな、爆弾が」

「俺をここに閉じ込めた、アクシードの連中がやったんだ。本当は、ニコニコ本社を爆破するために作ったものらしい。この部屋の広さじゃ、確実に即死だ」

「そんな!」

 遠野は声を荒げる。「な、なんで先輩にそんなことするんですか! あの無能本社なら、いくつだって爆破してもいいのに、どうして先輩に」

「そんなこと考えても無意味だろ。早く逃げろ、あまり時間もない。爆発まで5分14秒を切った、早く逃げろ」

 そう言うも、遠野がその場を離れないのを感じ「なにをしてる! さっさと行くんだ!」と叫ぶも、動く気配はなかった。

「先輩……僕、助けを呼びます」

 遠野のその声は、必死に涙をこらえていた。「ヒンディー語はできないけど、日本語の通じる人たちに――」

「無理だっていってるのが分からないのか! 建物を壊すほどの爆発を、直撃して生きてるやつがこの世にいたのか! 下らないこと言ってないで早く行け!」

「嫌です。先輩、僕は医者です。死にそうな人間を、見捨てることなんてできない」

 一瞬、言葉を失った田所は「そうだったな」と吐息交じりに答えた。

「わかった、好きにしろ。ただ、爆発にだけは巻き込まれないよう、さっさとこの場を離れろ、いいな」

「はい」

 遠野が出口まで走る音が聞こえると「先輩! 絶対に助けますから、待っていてください」そういった。

「ああ、分かった。待ってる」

 そう答え、遠野の足音が完全に聞こえなくなったのを確認すると、田所は腰を落とした。

待っている。そう答えたものの、なにをしたところで無意味だ。それは、遠野もわかっていることだろう。

 先ほどと、たいして結果は変わらない。それでも、運転手は助かった。まあ、救ったのは遠野だが、二人いっぺんに死ぬよりましだ。

 不意に手のひらを見つめる。

 オレにたった一つだけあったもの、医術。それで、救えるだけ命を救ってきた。

 不意に、脳裏をよぎる患者たち。その顔を思い出すと、田所は一人頷いた。

 十分だ……十分、オレはやった。助けた。救った……もう、いま死んでも――

 諦めるな!

 突如、頭に沸いて出たそれは、過去に自分が何度も、生きる気力をなくし、自ら死にゆこうとする人間たちに向けた言葉。

 いままでになんども、生きたくても生きられなかった者たちを見てきた田所は、簡単に命を捨てようとする、そんな連中が嫌いだった。

 もう無理だ。

 放っといてくれ。

 どうせ死ぬ。

 そんな悲観的な言葉たちに、田所はすぐにそう返してきた。だというのに――

「……オレが諦めてどうする」

 震えた声でそう呟くと、爆弾をにらみつけた。

 ――00:45.45

 残り40秒程度。諦めてたまるか。生きるぞ、オレは。

 部屋の中に目を凝らすと、奥に人間便器マスクと、積み上げられた74冊の単行本。

 ――00:36:40

 爆弾を部屋の角に置き、その上にマスクと単行本を投げ捨てる。

 ――00:09:31

 全てを投げ終え、息を切らしながら、対角線、爆弾から一番離れた隅に走った。

 ――00:01:14

 隅で丸くなると、頭を抱えて田所は叫んだ。

「死んでたまるかっ!」

 ――00:00.19

 体に、強烈な風と熱を感じた瞬間、誰かが右手を握った。

 

 

 

 気が付くと、目に入ったのは、木々の間に見える映る夕焼け空だった。

 いったい、どうなったのか。うまく動かない首を回し、周りを確認すると、どうやら爆発した勢いで、森に吹き飛ばされたようだった。田所の周りには一緒に吹き飛んだ瓦礫が散乱し、硝煙の臭いが渦巻いている。

 体の感覚がなかった。いたるところが骨折し、皮膚が焼け、剥がれていることは、なんとなくわかる。無事だと分かるのは、ギリギリ動く首から上と、ほとんど無傷の右手。

 おかしい。すぐにそう感じた。

 普通であれば即死の爆発だった。なのに、なぜかまだ意識がある。

 それを不思議に思っていた、そのとき、

 ――先生……先生、聞こえる?

 頭の中で、聞き覚えのある声が響いた。

 もしかして……君は。

 ――びっくりした? 僕だよ、みのるだよ。

 数年前、田所の腕の中で死んだ、みのるの声だった。

「どう……して……キミが」

 ――ごめん、先生。これは超能力で残した遺言みたいなものでね、先生の声は僕には聞こえないんだ。

 みのるの最期。血まみれの手で、握った右手の感触を、田所は思い出した。

 ――先生、本当にありがとう、僕のこと信じてくれて。僕、とっても嬉しかったよ。だから、最後の力を振り絞って、これを残したんだ。もし、先生の身に、なにか危険なことがあったとき、一度だけ先生のことを守ってくれる力を。

「そう……だったのか」

 死の寸前に、オレのことを思って……。

 ――僕の力じゃ一度が精いっぱいだったよ。ごめんね。この力で、先生が助かったのなら、僕はうれしいな……ねえ、先生。僕は死んじゃったけど、後悔してないよ、先生と出会えたから。だから……だから絶対に、先生は死なないで……じゃあね……また、会おうね。

 田所の体を包んでいた、ぬくもりのようなものが、萎んでいく。

「み……のる」

 右手を上にあげると、ぬくもりは体を抜け、天に昇っていった。

 ありがとう。

 心の中で感謝をのべると、右手は下がった。

 すぐに、田所は助かるために思考を凝らすが、体が動かないいま、できることはほとんどなかった。

 現状、助かるには、かなりの技術を持った医者が必要だ。この近くに、そんな者がいるとは思えない。医療器具や薬、輸血なども数がいる。

 そして、なによりもこの立地だ。車が通れないといっていた、救急車での搬送は見込めない。

 可能性があるとすればヘリコプターだが、田所を探すのに手間取るだろうし、ヒンディー語を話せない遠野が、それをすぐに要請できるとも思えない。

 考えた末、出た結論は、生存することは絶望的だということだった。

 それでも、田所は諦めなかった。生き残る方法を考え続けた。

 しかし、途切れ途切れとなっていく、意識と呼吸。

 死、それを直感した。

 すまない……みのる君。

 謝罪の念とともに、田所は目を閉じた。

 

 

 ぼやけた意識の中で、田所は自分の体が揺れていることだけを理解した。

 全ての感覚があいまいで、焦点が合わず、頭が茫然としている。

 いつの間にか、なにかに森の中を運ばれていた。

 巨大な動物。ゴリラ?

 そう思うも、顔に当たる毛の感覚が、ゴリラの物ではなかった。

 徐々に分かっていく、その動物の正体。

 もしや……お前は……あのときの。

 ヴォー。

 空気を震わせるような、そんな気味悪い鳴き声を動物が発すると、田所は担架に乗せられ、山小屋らしき場所に入れられた。

 中は大量の医療器具にあふれていた。

 様々な薬や、輸血パックが運ばれていく。

 弱弱しい心音を示す心電図。そこに書かれたロゴに、見覚えがあった。

 Tanioka。Tが黒い拳銃を模している、医療器具につけるには、センスのないロゴ。

 そのとき、誰かが右手首を握り、脈を測った。

 前々から思ってたが、悪運が強い野郎だ。どうやら死ぬには早いらしい。

 隣に立つ男は、そういって、ヘヘっと笑う。ある男の不愉快な笑みが、脳裏に浮かんだ。

 俺も手伝おう。いまじゃあれだが、一応、元医者だ。

 アリガトウゴザイマス。

 そう答える、強烈な片言の男。

 間違えるはずがない、こいつは――。

 その男は、田所の眼前に、包帯に半分覆われた顔を近づけた。

 アナタハ、コンナトコロデ、シヌベキジャナイ。

 男は、ニッとぎこちない笑みを作ると、田所の手術を始めた。

 薄れゆく意識の中、田所は涙し、思った。

 俺は、自分には医術しかないと、勝手にそう思っていた。

 だが、どうだ。いつの間にか……こんなにも――

 

 

 

 

 下北沢は世界一のホモスポットだ。

 住民のホモビ出演経験は80%と、全国平均の40%も高い。

 そこで広がる、一つの噂。

 下北沢には、とてつもなく腕がいい医者がいるという。

 体臭はウンコ臭く、要求される報酬は莫大。だが、どんな病気も、確実に治すと言われる無免許医師。

 常に付き添う助手が一人いる、全身つぎはぎまみれの、その男の名前は――

 

 

 

 

 

ブラック・ファック 完

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。