命日の誕生日
一つ、二つ。
薄暗い窓の外で、雪がゆっくりと落ちていくと、田所の顔に小さな痛みが走った。
椅子から立ち上がり窓に顔を近づけると、うっすらと自分の顔が映る。
左目の上から、右に頬にかけてある、ゆるい湾曲をしたツギハギを指でなぞる。
「雨が降る前は、古傷が痛むとはよく聞くが……こういうことか」
「先輩!」
声とともに、ドアが開く音がして振り向くと、サンタの恰好をした遠野が立っていた。「夕ご飯ができましたよ、早く食べましょう。今年は七面鳥を焼きましたよ」
遠野の高揚ぶりに、田所は呆れて目線を窓に戻した。
「いい歳して、クリスマスイブごときに、なにをそんなに興奮してる」
「べつにいいじゃないですか。年に一回の行事、楽しみましょうよ」
くだらん。
そう言いたげに、田所は大きな音で、フンと鼻を鳴らす。
田所はクリスマスというものが、好きではなかった。
普段、十字も切ったことも、ミサに行ったことも無い連中が、キリストの誕生日にかぎって、ここぞとばかりに舞い上がる。
商品の頭にクリスマスと名前を付け、特別感をあおった商品が店頭に並び、テレビではすでに114514回は聞いたであろう、女が歌うお決まりのクリスマスソングを、バカの一つ覚えのように流している。
寒いし、日照時間も少ないから、屋上で肌も焼けない。そして、なによりも――
「クリスマスとやらに、いい思い出がないんでな」
脳裏に、あるクリスマスの日の記憶が舞い戻ると、田所は大きなため息をついた。
なにかを察した遠野が「そう、ですか」とつぶやくと、リビングから電話の音が鳴った。
「あ、でてきます」
遠野が駆け足で向かっていくと、きっと手術の依頼だろうと、田所も後から歩いて続いた。
電話のそばまで来ると、二言ほど会話をした後「手術の依頼です」と遠野が受話器を渡してきた。
「もしもし、変わりました」
「浩二か」
聞こえたのは、歳を感じる男の声だった。
「いえ、私の名前は……」
名前はあっていた。だが、否定の言葉を出してしまった田所は、違和感を覚えて固まった。
いつも電話をしてくる相手は、田所のことを、ブラック・ファックと呼ぶものがほとんどだ。そのため、条件反射的に否定してしまったのだが、今回は田所の名前を呼んだ。それも苗字ではなく、下の名前だ。
そう思うと、どことなく、声にも聞き覚えがあるような気がした。
曖昧ながらも電話の向こうの相手が見えてくると、田所の表情は不穏なものとなっていく。
「違う、とは……どういうことだ」
疑問に思ったか、相手は問う。
「あ、いや、気にしないでくれ。いつもの癖でね」
田所がそう言うと、相手はフッと小さく笑った。
「そういえば、こっちでは、ブラック・ファックで通っているらしいな」
その返答で、田所はその相手に確信を持った。
間違いない……この男は……。
「私のことがわかるか」
そう聞かれると、田所は険しい表情で一呼吸置いた後、口を開く。
「健二だな」
「健二……」
相手はポツリとつぶやくと、またフフっと笑った。「名前で呼ぶか。親子だというのに、堅苦しいな」
相手は田所の実の父、田所健二だった。
「親子?」
田所の声には、ほんの少し、怒りに似た不快感のようなものが滲んでいた。「オレ達はもう関係ない人間だろう。あんたがオレ達を捨てたとき、オレが何歳だったか覚えてるか」
田所が5歳の頃、健二は、母である唯と離婚していた。
それから田所は、母一人の手によって育てられた。
そして、あの日に――。
湧き上がる怒りを、田所は深い呼吸とともに落ち着ける。
「もう20年も前の話だ。今更そんなことを引っ張って、親子だなんてよく言えたな」
「つれないことをいうな。確かに、形式上は親子ではないのかもしれない。だが、お前の中には確かに私の血が流れている」
そう語る健二に、
「だからどうした。血の繫がりなど、そこに思いがなければ、たいしたものではない」
と田所は一蹴した。「それよりなんだ、手術の依頼なんだろう」
「ああ、実は私の恋人に手術が必要でな。金なら払う、できればすぐにタイに飛んできてくれないか」
「すぐに……か」
田所は少し離れた場所に立つ、遠野を横目で見る。「オレも暇じゃないからな。それに、今日はクリスマスイブだ。色々と用もある」
「そうか。無理そうならいいんだ、タイにだって名医はいる。ただ、できるなら一番と言われている医者にやってほしくてな。それに……」
不意に、健二が黙る。
「それに、なんだ」
田所が問うと、
「いや、なんでもない」
健二はすぐにそう答えた。「金ならいくらでも払う」健二は連絡先の電話番号を告げ「今年中で予定に空きができたら、連絡をくれ。じゃあ」そう言って電話を切った。
受話器から話中音がなると、田所はそれを下におろし、じっと見た。
母を捨てた人間だ、乗り気にはなれない……。だが――
「先輩……食べますか」
遠野の声に、ハッとして顔を上げると「ああ、食べるか」と田所は受話器を置いて、リビングの机に座った。
机の上には豪華な料理が並び、その中央には、色黒ホモ男優のケツにも見える小麦色をしたローストターキーが居座っている。
ぼんやりと、そのターキーを見つめていると、不意にすっと目を閉じて、
「すまん、遠野。出てくる」
次に目を開いた瞬間、田所は立ち上がりそう言った。
「ええ! い、今すぐですか」
「そうだ」
そう答えると、田所はすぐに野獣邸を出た。
田所にとって健二との思い出は、消したい過去だ。できれば顔も合わせたくはない。
しかし、いまのままでは、クリスマスの度に胸に湧き上がる、この陰鬱とした感情は消えることはない。
目をそむけ続けても、なかったことにはならない。
時に、過去と向かい合う必要があるのだろう。なにかを忘れるためには。
タイ、正式にはタイ王国は、日本から約4545㎞南西の方角に位置する国だ。
年中暖かく、クリスマスの現在も過ごしやすい気温で、半袖で外に出ている人間がほとんどだ。
国民の90%以上が仏教徒の宗教国家であるタイでも、この日ともなると、繁華街はクリスマスの文字であふれる。この辺りは日本とは変わらない。
特に健二が住んでいる高級住宅地の近くにあるデパートの前には、夜になったら光り出すのであろうLEDライトが大量にまかれた巨大なツリーが飾られてあり、カップルたちがそれを背にしながら写真を撮っていた。
「一人身には堪える絵だ」
それを見て、ぼそりとつぶやいた田所は、足早に目的地へと向かう。
住宅街を歩いくと、ひときわ大きな豪邸が見えた。
周りの建物も、決して小さなものには見えない。しかし、目先にあるそれと比べると、途端に安っぽく見えてくる。それほどのものだった。
その豪邸は高い塀に囲まれており、正面にある固く閉ざされた門には、二名のライフルを持った男が、門を守るように立っている。健二の雇った私兵だろう。
あまり知られていないが、タイでは許可証さえ発行すれば、銃の許可が認められてる。アメリカに劣らない銃社会なのだ。
その分、拳銃による事件や、金品を狙った強盗も多い。ベンツ所持者たちのほとんどが銃を所持していると言われているほどだ。
私兵と話すと、すぐに門が開かれて中へ入った。
小奇麗な初老の使用人が家から出てきて、田所を中へ案内する。
濃い赤の絨毯が敷かれた、大理石の廊下を歩いていくと「こちらです」と使用人が扉を指した。
使用人に礼を行った後「失礼する」と中に入ると、そこはどうやら社長室のようで、奥はに、ツヤのある大きな机があり、何故かワインボトルが一つ置かれてある。その手前にはガラスのテーブルとL字になっておかれたソファー。
そして、机の奥、黒いレザー生地の椅子に座り、こちらに背もたれを向けながら、健二であろう男が、片手にワインを持っていた。
来るときに見えた巨大なツリーが見える向かいの窓からは、強烈な夕焼けが差し込んでいるため、逆光によってその姿は黒く、影となっている。
入った時の声は聞こえているはずだと、田所はなにもいわず、手前のソファーに座った。すると、
「このワインはな、お前の生まれた年の物なんだ」
背を向けたまま、健二はそう語った。「急いで取り寄せたんだ、再開を祝してな。どうだ、お前も一杯」
「オレはビール党だ。ワインの味なんてわからん」
田所が突っぱねると「そうか」とグラスに残ったワインを飲みほし、こちらに椅子を回転させ、グラスを机に置いた。
「久しぶりだな、浩二」
約20年ぶりに、田所は父親と対面した。
最後にその顔を見たのは5歳のときだ。記憶もおぼろげであったため、健二の顔になんの懐かしさもない、初老の男の顔だ。
しかし、まったく同じではないが、どこか自分と同じような面影、雰囲気を感じた。
それを思うと、やはりこいつとは血がつながっているんだなと、少しいやな気持ちになる。
「――お前、その顔は」
健二は、田所の顔を見るや、絶句し目を見開いた。「どうしたんだ。なんだ、その傷は」
「半年ほど前に爆弾を食らってな。この顔なんてかわいいもんだ、服の下もツギハギまみれで、温泉も気楽に行けなくなった。まあ、あんたには関係のない話だが」
「爆発に……」
健二は息をのむ。「障害は残っていないのか」
「左手に少し。ただ、右手は完全に無傷だ。手術の腕に関しては心配いらない」
「そうか……。しかし、その顔を見るに、下手な医者に当たってしまったんだな。世界一の名医なんだろう、そんなツギハギは自分で――」
「急を要する手術だったんだ」
常に、健二の前では感情は抑えるように努めていた田所だったが、この時ばかりは明かな不快感を前面に出して言った。「並みの医者に手を付けられていたら、確実に死んでいたと言い切れる。憶測でものを語るな」
一間の静粛の後、健二がボトルを持ち、ワインをグラスに注ぐ。
「そうか……すまないな、不快にさせたのなら謝ろう。で、どうなんだ、そっちの調子は、ずいぶんと稼いでるそうじゃないか」
「たいしたことじゃない」
「金さえ積めば、大抵のことはやってくれると聞いた」
「その通りだ、なんでもしよう」
「ん? いま、なんでもするって言ったよね」
健二はまるで、重要な証拠を握った刑事のように、ねっとりとした口調で田所の言葉に確認を取った。
「確かに言ったが、それはもちろん、医療面でのことだ。変なことを考えるな」
「別に近親相姦のフェチはない。ただ、タイに来てからの癖でな。しっかりと確認をとっておかないと、後から何をいわれるかわからない」
「癖……いったいなんの仕事をしているんだ。ずいぶんと立派な暮らしをしているが」
「不動産業さ。ここでは、日本人であることは大きなステータスだ」
そう言って、健二はグラスを口に運び、傾けた。「みんな簡単に信用してくれる。年中暖かいから、寒さとも無縁だ……。たまに、日本の冬が恋しくなるがな」
「冬、あんなものの、なにがいいのやら」
そういって、田所は鼻を鳴らした。
「寒さは死だ、冬はそれを我々に知らしめてくる。確かにつらいが、その分、生の暖かさを感じさせてくれる。特に、冬に食べるラーメンは格別だ。覚えてるか、一度だけ、家族全員でラーメン屋の屋台に行ったことを」
「いや」
思い出そうとする素振りもなく、田所は首を振る。
「二つ頼んだんだ。お前じゃ一人前を食べきれないからな。私と唯のラーメンを少しだけ分けたんだ。あの時は……幸せだった」
「なら、なぜ別れたんだ」
田所がそう聞くと、健二は口にグラスを近づけようとしたところで、手を止める。
これは、田所が一番聞きたかったことだった。母は、決して別れた理由を口にしようとしなかった。
実の息子である自分にいうのが難しいほどの、なにか大きな理由があったのではないか。
その答えの見えない謎を抱えながら、これまでを過ごしていた。
「唯からは聞いていないのか」
健二はグラスには口を付けず、机に置いていった。
「何度か聞いたことがあるが、うやむやにするだけで、ハッキリとは答えてくれなかった」
「それもそうだろう」
あまりにも適当な、健二の返答に、
「なに?」
と田所は眉を寄せた。「どういうことだ」
「どうこうとも、特に大きな理由なんてものはない。特別一緒に居たいという気持ちがなくなった。別れたくなった。だから別れた。それだけの話だ。ハッキリ言わなければならないほどのことじゃない」
「別れたくなったから?」
あまりにも拍子抜けする理由に、田所は唖然とした。
健二が母と別れた後、田所は女手一つで育てられることになった。
健二からは仕送りとして、養育費が毎月送られてきたが、当然、それだけで生活はできない。
母は慣れない仕事をし、何とか田所を育てたが、暮らしは非常に貧しかった。
広さ6畳のアパートで、毎晩遅くに、疲れを滲ませて帰ってくる母親の姿を、田所は毎日見ていた。
せめて、なにか理由があれば、そのことにも少しは納得がいったのかもしれない。
しかし、健二から出てきたのは、とてつもなく自分勝手で、想像もしていなかったものだった。
「別に嫌いになったわけでも、イヤになったわけでもない。ただ飽きてしまったんだ」
健二は、グラスを回し、ワインを嗅ぎながら、当然のことを説明するように語る。「人の感情なんて、その時々で移り変わるもの。ひっついたり離れたり、恋仲などそんなものだ。そもそも、男女の仲だ。世間一般の常識的な恋愛観からは、かけ離れている。日本では、異性間の結婚も認められていないんだ。別れるべきだったのさ」
「下らん。国が認めないから、常識的ではないから、そんな理由でやめてしまうのは、ただ意思が弱いだけだ。誰にも迷惑をかけていないんだ、男が女を、女が男を愛してなにが悪い。適当な言い訳を語るな」
田所の言葉に、健二は考えるようにグラスを見つめ「確かに、その通りだな」といって一口飲んだ。「まあ、なんにせよ、たいした理由はない。唯にもちゃんとそう言った。彼女も納得していたよ」
「そのせいで、母がどれだけ苦労したか分かっているのか」
責めるようにいった田所の言葉に、健二はわずかに視線を下げた。
「悪いとは思っていた。私も、もっと早くに不動産事業がうまくいっていたら、もう少し楽な生活をさせていた」
「嘘をつくな」
「嘘じゃない」
すぐさまそう返した健二に、
「なら、なぜ母の葬式に来なかった」
田所も即座に問うたが、健二はそのまま黙って固まった。
母である唯は、田所が10歳の時に死亡した。
その時の光景は脳裏に焼き付き、十年以上たったいまでも、鮮明に思い出すことができる。
そう、あのクリスマスの日。
金に余裕はないため、当然プレゼントは用意できない。
だが、少しでもほかの子供たちのように、クリスマスを楽しんでほしいという思いか、毎年、小さなツリーとケーキだけは用意してくれた。
一緒にケーキを買いに行こう。
そう言って近くのケーキ屋に向かった。
ホールサイズを買う余裕はない。田所が選んだ二切れを持ち、店を出て家に帰る途中だった。
田所は家に帰るのが楽しみで、小走りで母の前に出て行った。そのとき、
――バン。
突然、後ろから大きな音が聞こえ、振り返ると同時、田所は絶句し、その場に立ち尽くした。
停車する車と車の、ほんの小さな間で、母親が倒れていたからだ。
ホモビの撮影だった。
試合を終えて、車で帰路に向かう3人のサッカー部員たちが、疲れからか、不幸にも黒塗りの高級車に衝突してしまい、そのヤクザに事務所に連れていかれ体をもてあそばれるも、拳銃を見つけたことにより一転攻勢。ヤクザの体をいたぶりつくし、銃殺するといった内容の物だった。
その冒頭の衝突する撮影で、偶然にも母は巻き込まれた。
まだ幼かった田所は、すぐに状況が理解できなかった。だが、アスファルトに広がっていく鮮血を見て、本能的に母が危機的状況にあることを察した。
それでもなお、田所は動けなかった。なにをどうすればいいのか、冷静な状況判断ができなかった。
すぐさま周りの大人たちが救急車を呼び手術を行うも、日付はクリスマス。ごった返す車は、救急車の到着を遅らせ、さらに、ケガがあまりにも大きな致命傷だったため、たいした延命にはならず、死の間際、最後に母が田所に言ったのは、
「私は健二さんを恨んでいない、だからあなたも恨まないで」
そんな、自分を捨てた人間への配慮だった。
なぜ、最後にそれを伝えようと思ったのか、理由は分からない。
田所に恨みを持ちながら、生きてほしくなかったからか。それとも、最後まで健二を愛していたからなのか。
なんにせよ、母はその数分後に息絶えた。
特に親族と深く交流もなかった母の葬式は、一等親、つまりは兄弟や、祖父母たちのみで粛々と行われた。
田所は不本意であったが、一応、元とはいえ夫婦の中であった、健二にも手紙で連絡を入れた。
しかし、葬式当日に来ることはなく、代わりに来たのは3日後に振り込まれた、1919万円という大金だった。
手切れ金。
一応、息子だから、親として金を渡しておく。だから、これ以上は私にかかわるな。そんなふうなメッセージに思えた。
実際のところ、そういう意図があったのかは定かではない。だが、たとえそれが田所のことを思って送られた金だとしても、葬式に来なかったことが許せなかった。
それは、この男はもう、母になんの興味もない。その証明に他ならなかったからだ。
最後の最後に、母はこの男を庇ったのか。そう思うと、いたたまれない気持ちになり、はらわたが煮えくり返りそうになった。
田所はその金を受け取らず、全額送り返し、その後、連絡を絶っていた。
「大事な商談があったんだ」
重苦しい沈黙の後、健二はため息をつき、そう答えた。
「商談? それは、母の葬式以上に大事なものだったのか。行かなければお前が死んでしまうようなものか、それとも、路頭に迷う羽目になるようなことだったのか」
そう問いかけるも、健二は答えない。
「母に対し、ほんの少しでも謝罪の気持ちや、萎えてしまったとはいえ、愛情が残っていたのなら、来ていたのではないか」
眉間にしわを寄せた健二は両ひじを机につき、顔の前で拳を握り、
「なにをいっても、言い訳になるな」
と小さな声で語った。「なんにせよ、悪いとは思っている」
「適当ことを言うな」
「いや、本当だ。唯とお前には本当に――」
「上辺だけの謝罪など、必要ない」
有無を言わさぬ田所の言葉に、健二は口を閉ざした。「たとえ、それが真摯なものだったとしても無意味だ。もう20年以上前のこと、恨んじゃいない、だから謝罪は必要ない……ただ――」
田所は立ち上がり、冷酷な目で健二と見合った。
「許しもしない。だから、お前が私たちに謝罪する権利も、ない」
時刻は夕刻。
ツリーのイルミネーションが点灯を始めたのだろうか、窓から入ってきた人工的に点滅する光が、何も語らない二人を照らし続けた。
通されたのは隣の部屋だった。
清潔に保たれており、手術用具一式がまとめられている。
その部屋の真ん中、椅子に座る頭にフードをかぶった一人の男。
「見せてやりなさい」
健二がそういい、その男がフードをおろすと、
「ハンセン病だな」
すぐに田所はそういった。
その顔には、赤黒く変色した、ひび割れにも似たしわのようなものが、いたるところにあった。
ハンセン病とは、らい菌の感染に引き起こされる、慢性細菌感染症である。
初期症状は末梢神経障害による、手足のしびれや、紅斑や
その昔、まだ治療法が分かっていなかったころ、顔中が赤黒い丘疹まみれになる見た目の悪さに、人によっては変形により、溶けたアイスクリームのように顔がただれ、ガイコツのようになってしまう者もいた。
さらに、非常に低い確率ではあるが空気感染するため、一時期の日本ではハンセン病患者を隔離し治療していたことから、患者やその親族が強烈な差別を受けることがあった。
現在では投薬による治療が確立されており、ほとんど初期段階での治療が可能となっている。だが、
「ずいぶんと放置していたんだな」
ハンセン病の男を見て、田所はそういった。「早いところで治療していれば、こんなあとも残らなかっただろうに」
「私が仕事で、タイを出ているときになってな。前にも同じような症状があった時は、自然に治ったから放置していたらしい。私が帰ってきて、すぐに病院に行かせたが、このざまだ」
らい病は空気感染する確率が低いが、感染した後、ハンセン病を発病させる確率も、また発病したとしても、それが続く確率も低い。
人間の持つ免疫細胞によってやられてしまうからだ。発病するにしても、幼児や老人といった免疫の低い者である。
一見そんな風には見えないが、この男は虚弱体質のようで、その結果ここまで症状が進んでしまったのだろう。
「この顔を治してほしいということか」
田所は健二に問う。
「そういうことだ。報酬は1919万円でどうだ」
「いいだろう。顔の相当をいじることになるが、形や見た目に希望はあるか」
「ない」
健二は即答する。「好きなようにしろ」
「なら、さっさと始めさせてもらおうか。準備はすでにできているんだろう」
「もう始めるのか。数時間前にタイについたんだろう? 疲れているんじゃないのか」
「飛行機での移動なら慣れてる。この程度、どうということはない。それに……」
田所は、重たい口調でこう付け加えた。「ここに長居する理由もない」
それを聞いた健二は、なにかを考えるような間の後
「それもそうだな」
どこか投げやりに、そう答えた。
すべての準備をおえ、手術帽にマスク、白衣を着用した田所が、手術台に寝る患者のそばに立つと、向かいに同じ恰好をした健二が立った。
「なにをしている」
田所がきいた。「監視のつもりか」
「いや。ただ、天下一の名医、ブラック・ファックの腕を間近で見させてもらいたいだけだ」
田所は面倒くさそうに鼻から息を吐くと、
「その名を、名乗った覚えはない」
メスを額に入れた。
そこからはすさまじい速さだった。
額の皮膚を取り終え、用意されていた皮膚を移植すると、すぐに左目の周辺、頬、鼻と摘出、移植、縫合を繰り返していく。
その光景に、思わず健二は息をのむ。
「凄まじい速さだな。こんな技術、いったいだれに学んだ」
「誰に学んだわけでもない」
田所は手を止めずに答える。「ただ、早ければ早いほど、患者が助かる。だから早くした。それだけだ」
30分後、田所はメスを置き、患者の顔に包帯を巻くと、ほっと息をついた。
「これで終わりだ」
「1時間足らずか……天下一は伊達じゃないな」
「もうすぐ患者も起きるだろう。そのときに、特に異常がなければ帰らせてもらう」
健二の賞賛の声も無視し、田所は部屋の隅にあった椅子に座った。
「なぜ医者になろうと」
健二は田所の前に立ち、聞いた。
「別になんだっていいだろう。なんでそんなことを聞く」
逆に質問すると、
「唯が死んでしまったからではないかと思ってな」
健二が神妙な面持ちでそう答えると、田所は不機嫌そうに目線をそらした。
確かに、医者を目指した理由は、その一つだ。ただ、それを健二に見透かされたことが不快だった。
「答える義理はない」
田所がそう突っぱねると、患者が起きる声がし、田所は立ち上がってそばに立つ。
「聞こえるか」
「ア……オハヨ、ゴザイマス」
患者は片言の日本語でそう答えた。
「日本語? 話せるのか」
「スコシ……ケンジサンニ、ナライマシタ」
「そうか、それは都合がいい。どこか痛いところはないか」
いくつか質問をし、特に異常がないことを確認する。「大丈夫そうだ。包帯は3日後に取ってくれ。それまで顔には触らず、安静に」
「ワカリマシタ。アノ……ヒトツ、ヨロシイデスカ」
「まだ何か」
「ジツハ、ケンジサンノ――」
「話はもういいだろう」
患者がなにかを言いかけたとき、不意に健二が割って入ってきた。「確認は済んだんだ。それとも何だ、お前もこいつのことが気に入ったか」
「下らんことをいうな。そういうならいい、さっさと帰らせてもらう」
田所が踵を返し、部屋を出ようとドアノブに手をかけたとき、
「報酬は後日、必ず払う」
健二がそう言うと「ああ」田所は背を向けたまま、そっけなく返事する。
「それと……健康には気を付けろ、特に体には」
意味不明な言葉だった。医者に対し健康に気をつけろなど、釈迦に説法だ。
「そうする」
これで会うのも最後だろう。
そんなことを思いながら、田所は返事をして部屋を出た。
出るとすぐに使用人に案内を受け、外で待つ車で空港まで送ってもらうことになった。
夜のクリスマスは人でごった返し、車も渋滞でなかなか空港につかなかった。
「いつ頃になりそうだ」
田所は運転手に聞いたが、わからないとしか返ってこなかった。
歩いていこうかとも考えたが、窓の外に見える、歩道を埋め尽くす群衆をみると、それも難しい。
車の海でもがき続けること1時間、空港近くになると、やっと景色が緩やかに流れ出す。
便の時間は間近に迫っていた。
「ありがとう」
ギリギリのところで間に合い、田所は礼をいって車を降りると、空港内を走った。そのとき、ポケットの中で携帯がバイブレーションを鳴らした。
「こんな時になんだ」
走りながらも携帯を取り出して見ると、そこに表示されたのは健二の番号だった。
不意に足が止まり、田所は携帯の画面を凝視した。
なんの真似だ? 今になって、電話で謝罪でもしようというのか。だとしたら本当のマヌケだ。それとも、また体に気を付けろなんて、くだらない話でもするつもりなのか。
どちらにせよ、聞いてやる義理はないし、田所は電話にでたくなかった。
だが、健二の番号を見た瞬間から、胸の中で湧きたつざわめきが、携帯から目を離させなかった。
クソ……いったい……何なんだ。
歯を食いしばり、ぐっと目を閉じた田所は、
「……はい」
通話ボタンを押して、携帯を耳に当てた。すると、
「モシモシ! コウジサン、デスカ」
出たのは健二の恋人だった。
「その声は……なんであなたが」
「ケンジサンガ! ケンジサンガ、タオレマシタ!」
「何だって!」
驚いて、田所は声を上げた。「いったい、なにがあったんだ」
「ケンジサン、ビョウキデ。デモ、クルマイッパイデ、ビョウイン、イケナク――」
「なにをしている!」
突然、健二の怒号が飛ぶと、電話を取り上げるような音が聞えた。「悪いな、電話なんかしてしまって」
健二は息を切らしており、かなり弱っているようだった。
「どうしたんだ」
「我々は……もう、何の関係もない人間だろう。心配しなくていい、たいしたことはない。じゃあな」
健二が弱弱しくそう答えると、一方的に電話は切られた。
田所は携帯を一瞥した後、すぐに空港の電光掲示板を見上げる。
走ればギリギリ間に合うが……。
田所は振り返って、出口に目を凝らし、眉間にしわを寄せた。
「……クソ」
「どうして電話なんてした」
健二は自室のソファーに横になりながら、隣に立つ恋人に、タイ語でそう聞いた。
「だって、このままじゃ、健二さんが死んでしまうと思って」
「だからと言って、あいつに電話なんてするんじゃない……あいつとは、もう関係のない人間――うぐ」
胸への突き刺さるような痛みに、健二は手を押さえて悶えた。
「大丈夫ですか」
健二は額に脂汗をにじませたまま、何も答えない。
「やっぱり、浩二さんに来ていただいた方が」
「いや……だめだ」
息も絶え絶えに、健二は首を横に振る。「あいつは……やらない……私の……手術など」
「やらない? どうしてですか」
「あいつは……私を恨んでいる。口では……恨んでいないなんていっていたが……目を見ればわかる……だから……きっと……いや、必ず手術はしない……ましてや、私の命を助けるためなど」
健二は一月ほど前から心臓病を患っていた。
本来は、タイ一の名医と呼ばれる、無類のアクエリアス好きの人間に、3日後に手術を行ってもらう予定だった。
しかし、急なこの事態だ。使用人に頼み、こちらへ来るよう依頼してもらっている。
幸い、手術用具一式はあるし、輸血用の血液も常備してある。だが、
「健二様」
息を切らした使用人が、部屋へ入ってきた。「先ほどイクサバータ様がこちらへと出発されました。ですが、この交通状況ですので、来るまでに相当、時間がかかるかと」
「そ、そうか」
間に合うかどうかは分からない。しかし、待つほかない。
健二はつらそうに肩で息を繰り返し、目を閉じる。
痛みと酸欠で、意識がもうろうとし、いまにも失神しそうになる。
すると、ぼんやりとした頭の中で、過去の思い出が思い起こされていく。
健二は最悪の家庭環境で育った。
両親は健二に対し、まったくと言っていいほど興味がなかった。夜遅くに帰ってきては、なにもいわず寝て、なにもいわず出て行く。健二はろくに掃除もされていないアパートの一間で、ずっと一人きりだった。
食事は、定期的に両親のどちらかが買ってきて、机に置かれている大量のコンビニおにぎり。それを、無音の中、腹を満たすためだけに食べた。
愛情、そんな者とは無縁の生活。
その反動か、必死に勉強とアルバイトを積み重ね、一人暮らしをして大学に入学すると、恋愛活動にいそしんだ。
顔も器量もよかった健二は、交際相手に困ることはなかった。
だが、付き合っても2ヶ月やそこらで、どうしても愛情がなくなり、すぐに別れてしまう。
原因は分からなかったが、困ることもなかったので、特に気にもしなかった。
ホモビ会社に就職後も、いろんな男をとっかえひっかえしていたが、ある時、2ヶ月経っても、3ヶ月経っても、一緒に居たいと思えた人物と出会う。
浩二の母である、唯だった。
女である唯。最初は、どうせすぐに別れるんだから、異性でもいいだろうと、軽い気持ちで付き合ったが、どうしてかその関係が続いた。
どこまで続くものかと思っていると、1年がたち、唯が浩二を産んだ。
自分の息子の誕生を健二は喜び、あまり裕福でないながらも、それなりに幸せな家庭を築いていった。
しかし、田所が5歳となったあのとき、急に健二の中から唯への愛情が消え去った。
唯は自分にとって、特別な存在だと思っていた。しかし、それは絶対的なものではなかったようだった。
それがどんどんと、顔や行動に出ていたのだろうか、どうかしたのか、とある日、唯は唐突にそう聞いてきた。
極力、普通に勤めているつもりだった。一家の主である自覚も、浩二を育てななければならないという義務感もあった。
それでも、興味のない人間と一緒に過ごしても、何の刺激もなく、ストレスでしかない。
それに、周りの目もあった。やはり異性といると、なにかと噂になる。それも心地がいいものではなかった。
正直にそれを話し、別れを切り出すと、唯はすぐに承諾した。
別れてすぐ、健二はタイへと飛び不動産業を始めた。友人のツテがあったのもそうだが、唯のいる日本から、できれば離れたかったのかもしれない。
そして、数年がたったとき、唯が死んだことを知らされた。
50余年。長いようで短い人生の中で、いまの自分が一番、金も地位もある。しかし、唯や浩二と過ごした日々の中で感じた幸福は感じられなかった。
その幸せな記憶も、いまとなっては苦い思い出だ。
私はいったい……何をしていたんだろうか。
胸の中で自問すると、突然、部屋のドアが開かれた。
使用人が電話をしたといってきて、まだ30分もたっていない。
誰だ。
そう思い目線を向けると、
「お前……は……浩二」
それは死の間際に見えた幻影か、かすれた視界に田所が見えると、健二は気を失った。
ピ……ピ……。
最初に入ってきたのは、そんな心電図の音だった。
意識を取り戻した健二は、自分が呼吸器を取り付けられているのを確認すると、隣に人の気配を感じ、顔を向ける。
そこには、田所が疲れた表情で椅子に座っていた。
「もしかして、やったのか、手術を」
健二はすぐにそう聞いた。
「まあな」
そっけなく、田所はそう答える。
「そうか……悪かったな、進まないことをさせて。私の手術など、したくはなかっただろう」
田所は何も答えなかった。その沈黙は、肯定を意味しているのだろう。「空港から、急いで来てくれたのか……どうして」
「私は医者だ。危険な状況の人間を、ほっておくことはできない」
「相手が、許しがたい人間でもか」
「そうだ」
田所は目を閉じ、ゆっくりうなづいた。
「フフフ、さすがだ。お前は本当の名医だよ」
ふと、どこからかお湯が沸騰する音が聞こえ、隅にあるコンロの方に目を向けると、小さな取っ手着きの鍋が一つ火にかけられていた。「あれは、なんだ」
「ああ、ちょっと腹が減ってな。何か食うものを探していたら、あんたの机の引き出しにインスタントラーメンを見つけた。いくつもあったから、一つぐらいかまわないだろう」
そういって、田所は立ち上がり、鍋と箸をもって戻ってくる。
「もちろん、構わないが、気を付けろ」
「なにがだ」
「賞味期限は、数年前に切れている」
麺を口に運ぼうとしたと田所の手が止まるが、
「まあ、大丈夫だろう。消費期限じゃないし、保存食だ」
とそのまま口に運び、麺を啜った。
「うまいか」
健二は聞いた。
「不味いインスタントラーメンなんて、聞いたことがない。しかし、なんで期限切れのラーメンなんか置いていた。何かの記念品か」
「いや、私が買ったんだ……今日、話をしただろう、お前たちと一緒に、ラーメン屋の屋台に行った話を」
田所は一瞬、手を止め「ああ」と返事をして、ラーメンを食べる。
「唯が死んだと聞かされて、数年たった後だったか。ある時だ……突然、あのラーメンの味を、もう一度味わいたくなった」
健二がそこまで言うと、田所は口を動かすのを止め、黙って目の前の虚空を見つめた。
「もちろん、日本の、それも屋台のラーメン屋の味など、ここで味わえるわけがない。だから、それを買った。ほんの少し高めの、インスタントラーメンだ。あの時ほどじゃなくても、なんとなくの味や、暖かい思い出は、感じられるんじゃないかと……だが、無理だった。喉を通らなかったんだ……ほんの少しでも、ラーメンの味や触感が、口の中に入り、お前たちとの思い出が顔をのぞかせると、腹の奥底が気持ち悪くなって、吐きだしてしまうんだ」
感極まったのか、体を震わせた健二は、両目から涙を流した。
「私にはなかったんだ。嫁と子供を捨て、その嫁の死に目にもあわず、ましてや葬式にも行かなかった男に、昔の甘美な思い出を、もう一度味わう権利なんて。それができるのは、ちゃんと道理に生きた人間だけなんだと、思い知ったんだ」
健二は、涙であふれ充血した目を、田所に向ける。
「お前の言う通りだ、たいした理由じゃなかった。確かにあの日、葬式に行かなかったことで、私は富を得て、事業は成長した。だが、大切なものを失った。私は間違っていた。いまでも、そのことを後悔している。浩二……本当に……本当にすまなかった。私がバカだった。許してくれなんて言わない……ただ、謝らせてくれ……すまなかった」
なんの嘘偽りのない、心からの謝罪だった。
それを、聞いているのか、それとも聞き流しているのか、田所はじっと黙っていると、不意に止まっていた手が動き出し、食事を再開した。
その間、健二はなにも語らず、じっと田所の言葉を待った。
数分の間、部屋にラーメンのすする音が響き、田所がスープもすべて飲み終えると、
「ごちそうさま」
といって席を立ち、鍋をおいて出口へと歩いていく。
なにも言葉を返さない田所に、健二は消沈するも、それも仕方ない、自分が悪いのだと自分に言い聞かせていた、そのとき、
「母は最期……死ぬ前にこういっていた」
田所はドアノブを握り、背中越しに健二にいった。「あんたを恨んじゃいない……と」
恨んでいない……私を?
「そうか……そうか。あいつは……私を」
ぎゅっと、胸が締め付けらるような痛みが広がると、健二は声を上げながら涙を流した。
空気を震わすよなその声は、田所が出て行っても止むことはなく、クリスマスの夜に響き渡った。
なんであんなことをいったんだ。
深夜、真っ暗な道のりを歩きながら、田所は一人思う。
あんなたわごと、聞いてやる義理はなかった。すぐに部屋を出て行くことも、なにもいわずに去ることだってできた。その権利が、自分にはあった。
だが、オレは母の最期の言葉を教えることを選んだ。
気まぐれなんかじゃない。明確に、自分の意思で、伝えてもよいと判断したから伝えた。
それに、母が生きていたとしたら、きっと――いや、絶対にそうして欲しいと願っただろう。
ふと、視界に現れた巨大なツリーを見つめ、田所は足を止める。
もう0時になろうというのに、イルミネーションはまだ
それと、記憶の中にある、子供の頃、母が買ってきた小さなツリーを重ね合わせ、田所は小さく笑い、つぶやく。
「甘いんじゃないか……俺も……母さんも」
ゆっくりと視界を上にあげていくと、頂点には強烈に光る、星型のライトが見えた。
それに目を細めると、田所はあることに気が付いた。
毎年、クリスマスになると必ず胸を覆う、重く陰鬱とした感情。
それが今、綺麗さっぱり、なくなっていることに。
軽くなった胸に、大量の空気を取り込み、微笑とともに吐きだすと、田所はツリーを背に空港へと歩き出した。
ブラック・ジャック6巻 第68話「えらばれたマスク」より