忙しい。
この激動を、その一言で終わらせてよいものだろうか。
患者の対応は文字通り夜通し続いた。
空が暗くなり、待っている患者が眠りだしても、ポイテーロたちは1時間程度の仮眠を取っただけで、ひたすらに対応をし続けた。
ポイテーロたちの仕事が終わる頃には、雲ひとつない透き通るような青が空に広がっていた。
眠たいような、眠くないような。
寝ているような、起きているような。
そんな感覚をさまよいながら、ポイテーロは誰もいない踊り休憩室で座っていた。
ちょうど昨日の今頃、この机の下で揺れが収まるのを待っていた場所だ。
今、病院の周りでは昨日出勤していなかった医者たちや警察が、遺体の身元確認と整理を行っている。
まだ完璧に終わったわけではない。ただ、とりあえずのポイテーロの今日の仕事は終わったということろだ。
幸いにもポイテーロの家族は全員無事だった。
さっさと帰りたいという気持ちでいっぱいだが、今はその帰る気力も振り絞れない。
ここでまた仮眠でもしようかと思っていたその時、ドアが開くと研修医が入ってきた。
奇しくもここで同じように、揺れに怯えていた二人が揃った。
「お疲れ様です」
そう言って疲れ切った表情のまま前の席に座る。
「お疲れ様」
ポイテーロも同じく疲れ切った表情で返した。
座ってすぐ、研修医はポケットからタバコを一本取り出して火をつけた。
院内はもちろん禁煙だったが、今だけは別にいいだろうと何も言わなかった。それよりも
「君、吸うのか?」
少し驚いたようにポイテーロは聞いた。
同じ病院に長く努めているが、吸っている様子を見たことはなかった。
「職場では吸いませんよ。こんなご時世です、自慢できるようなことじゃないんでね。だから普段は家だけです」
といってタバコの煙をはくと、疲れた表情が少しだけ緩んだ気がした。
「僕にも一本くださいよ」
「あなたも吸うんですか」
研修医は目を丸くして聞いた。
吸ったことはなかった。タバコなんてバカが吸うものだと思っている。
だが、今はバカになりたい気分だった。
「吸わない。ただの好奇心だよ」
「そうですか。残念ながらこのタバコは患者が一本だけ忘れていったものを拾ったんですよ。これだけしかない」
「なら、その吸いかけをくださいよ」
全く、と研修医は苦笑しながら最後にしっかりとタバコを吸う。
先端の火が強く、赤く照ると口から煙を吐いて、咥えていたタバコをポイテーロに渡した。
すぐにそれを吸ってみると、なるほど、やはりバカが吸うものだと思いながら、ポイテーロも煙をはいた。
暫くの間、二人の沈黙の間に煙がゆらゆらと舞っていた。
「やめようと思うんですよ。医者を」
不意に研修医が切り出した。
「そう。どうして?」
興味なさげにポイテーロは返して、またタバコを吸う。
「僕はね、沢山の患者を救うのが夢でした…でも、今日だけで何人の人を殺したんでしょう」
「それは僕もおんなじだ。医者としての仕事を全うしただけ。誰にも責められる裏筋合いはない」
「分かっていますよ…それでも…耐えられない」
絞り出したように口からこぼれたその言葉に、ポイテーロは何も言わず空を眺め、またタバコを吸う。
やはりニコチンは毒だ。胸に秘めていた言葉を、煙とともに吐き出してしまう。
「僕が医者になった理由は、優越感だ。誰かに褒められたかった。天才と敬われたかった…誰かを、みんなを見下したかった。自信も、自負もあった。でも、今日わかったよ。僕一人でできることなんて程度がしれてるって。自分なんて、大したことはないって」
黙ってこちらを見ている研修医の目は虚ろだ。
だが、同じ考えで合ったことは手にとるようにわかった。
「そう考えたらさ、なんか吹っ切れたんだ。無力な人間なら、無力な人間なりに、人を救うために頑張ろうと俺は思う。それが、今日俺が殺した人たちにできる、唯一の手向けだと思う…正直言って、僕は君が嫌いだった。何かにつけて嫌味を言ってくる君が」
「僕も、院長の息子で、何かにつけて見下してる感じがして、君のこと嫌いでしたよ」
「お互い様だな。そんな君は、この現場から決して逃げずに、患者のためにやれるだけのことはやりきった。君は立派な医者だよ。だからさ―ー」
ポイテーロは立ち上がると窓際まで歩いて、空を眺めた。「もうちょっとだけ、あがいてみないか。僕が運営する病院には、君みたいな根気のあるやつが必要なんだ」
「あなた、もう院長気取りですか」
「ああ、なるさ。僕を誰だと思ってるんですか」
ポイテーロが笑いながら答えると、研修医も笑ってみせた。
「まったく、院長からのスカウトは断れない」
「それはよかった」
窓を開けると心地の良い風が吹いた。
それを感じると不意に田中教授に会いたくなった。
聞いた話では教授は死後、この国の何処かに散骨されたらしい。
一段落したら今日のことを伝えに行こうと思う。
あの人が漂う、この国の何処かに。