ブラック・ファック   作:ケツマン=コレット

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持たざる者

「はぇ~、すっごい大きいゾ」

 黄色のヘルメットに作業着姿の三浦は、目の前にそびえたつビルを見上げながらつぶやいた。

 いま三浦が作っている建物はまだ鉄骨を立てている段階だが、20階建てだそうだ。

 それですらとてつもなく大きなものだと思っていたが、前のものはそれの倍以上の大きさだ。

「なにやってんすか、三浦さん」

 声がして振り返ると、同じ作業着姿の後輩がこちらに歩いて来ていた。「もうすぐ作業始まりますよ」

「あ、申し訳ないゾ」

「どうしたんですか、こんな何にもない場所で」

「ほら、みろよみろよ」

 三浦はビルを指さした。「めちゃくちゃデカいダルルォ?」

「このビルですか。そりゃそうですよ、何たってあのポンッカレーを作ってる会社の本社なんですから」

 三浦はまたビルを見上げた。

「あのポンッカレー……だからこんなに大きいビルが建てれるのか」

「でも最近は大変らしいですよ」

「なんでだゾ」

「昔のインスタントカレーは斬新なもんでしたけど、今じゃいろんな会社が売ってますからね。売り上げはかなり落ちているようで、数年前に新しく社長になった木村って人はかなり四苦八苦してるって話です」

「あっちはあっちで大変ってことかゾ?」

「そういうことですね。まあ僕らには関係のない話ですよ、住む世界が違いますから」

「お、そうだな」

 三浦はビルの最上階に目を凝らした。

 下北沢を一望できるその景色を想像してみる。

「きっと、すっごい綺麗な景色が見えるゾ」

 

 

 ポンッカレービル、最上階の社長室では、木村が雲一つない青空を映す窓を背に、黒光りする社長椅子に座り、その前には額に汗をにじませている幹部とその部下が立っていた。

「僕は3月も前に命令したはず。それを今更できないというのはどういうことだ」

 腕を組み、眉間にしわを寄せると、三回り以上も下の幹部は肩を丸めみるみる小さくなっていった。

「あの……先月に少し問題がありまして、計画の流れに少し支障が出ると報告をしていたのですが」

「だからどうした!」

 木村の怒号で幹部と部下は小さく飛び上がった。

「申し訳ありません」

 部下が頭を下げながら言った。「私の責任なんです。私が発注日時を――」

「君には聞いていない!」

 木村の叫び声が部下の言葉をかき消す。「何かしらの問題があったのは聞いていた。だったら、他の部分で急ぎをかけさせて時間に間に合わせるのが君の仕事だろう!君はどういう気持ちで幹部を名乗っているんだ。恥を知れ!」

 幹部は何かを言いたそうに唇を動かすと、すぐに頭を下げた。

「申し訳ございません」

「まったく」

 木村は胸の中にある怒りを吐き出すかのように息を吹くと、椅子を後ろに回転させて窓の外を見やった。

 父である先代社長が、急にホモビ男優になると言いだし、退社してから二年がたった。

 半ば無理やりの形で座らされた社長という椅子。乗り気ではなかったが、父がここまでにしたものをさらに大きくしてやろうという気持ちもあった。

 だが、社長に就任してからというものの、業績は常に右肩下がり。

 どれだけ尽力しても業績は変わらず、現状を変えようと今までのものとは違う別のものを提案しても、幹部たちからは常に否定の声が出る。

 さらに今回のミス。こんなことをしている間にも、ポンッカレーの株価が下がっていっていると考えると、目の前に映る青空を感じる暇もなく、はらわたが煮えくりかえりそうな怒りとともに、部下への不満が次々と湧き出てくる。

 怒りは心拍数を上げ、眉間にみるみる皺が寄せ集まっていく。

 どいつもこいつも、何で……何で僕の思い通りに――

 そのとき、腹に突き刺さるような痛みを感じた。

「あっい……ああ」

 体にうまく力が入らず前のめりになり、床に倒れた。

「社長!大丈夫ですか」

 すぐに幹部の駆け寄る音が聞えたが、木村にはそれに答える余裕はなかった。

 悶絶している木村を見て、幹部はすぐに部下に命令した。

「私は救急車を呼ぶ!君はどこか近くに医者がいないか探してきてくれ!」

 

 

「だからだな、明らかにこれの味がおかしかったんだよ」

 ポンッカレー本社、一階の受付の女性に、田所はポンッカレーの箱を見せながら言った。

「そう言われましても、箱には特におかしな部分は。中身の方はどうなさいましたか」

「食べた」

 受付は困ったように首をかしげた。

「えっと……すべてでしょうか」

「ああ、全部食べた」

「そうなりますと、私どもとしても対処しかねまして」

「ああ、分かっている。だが、私は毎日……毎日だぞ、このカレーを食べてるんだ。その私がおかしいというんだから、絶対に味はおかしかったんだよ。弁償しろとは言わない。ただ上の人間に、この事実を私の口から――」

「医者の方はいませんか!」

 突然、フロアに男の声が響き、田所は話すのをやめて声の方を見た。

 スーツ姿の男が、顔を真っ赤にして叫んでいる。

「どなたか!医者!医者の方!」

「私は医者だが」

 田所がそういうと、男は即座に田所の元へと走ってきた。

「話しはエレベーターでします、急いで来ていただけますか」

「いいですが私は高――」

「いいから早く!」

 男は田所の手を強引に引っ張り、無理やり近くのエレベーターに乗せると、すぐに最上階のボタンを押した。

 エレベーターが動きだした後も、男は落ち着く様子なく体を小刻みに揺らしている。

「患者の容体を聞かせてもらえますか」

 田所がそう聞くと「ああ、はい」と男はいい、田所の方を向いたと同時に「う、臭!ウンコ臭!」と手で鼻を覆い、横を向いた。

 田所は一瞬、顔をしかめると「失礼」といって、持っていたアタッシュケースから香水を取り出し、体にふった。

「こちらこそ申し訳ありません。実は社長が倒れまして」

「意識はあるんですか」

「分かりません。あるような、ないような」

「なるほど」

 チャイムが鳴るとエレベーターのドアが開いた。

「こっちです」

 すぐに歩き出した男についていき、社長室とドアに書かれている部屋に入ると、膝を付いている初老の男の隣に、社長らしき男が倒れていた。

「そのウンコ色は……もしやあなたはブラック・ファック」

 田所のことを知っていたのか、初老の男は目を丸くしてそう言った。

「そう呼ぶ人もいますが、私の名前は田所です。その方を診るので少し離れてもらえますか」

 初老の男がすぐに立ち上がると、田所は膝をついて社長の症状を診る。

 その間、後ろからこそこそと声が聞えてきた。

「君、困るよ」

「申し訳ありません。まずかったでしょうか」

「いや……よかったよ。でもまずいことにはなる。まあ、社長の命にはかえられん」

 二人が話あっている中、田所はすぐに社長のズボンに血がにじんでいることに気が付いた。

 ベルトを外しズボンを脱がすと、血に染まった下着が目に入る。

 それも脱がしてみると、肛門からとめどなく血が流れてきていた。

「救急車はいつ来ると」 

 田所は聞いた。

「10分後には」

「10分……間に合わない」

 田所はそういうとアタッシュケースを開いて、注射器を取り出した。

「い、いまなんと」

 初老の男がそう問う。

「10分後では間に合いません、この場で応急処置します。輸血も必要です、血液型を調べますので、ここにいる社員の方をありったけ呼んでください」

「輸血ですか。それはまずいですよ」

 田所は社長の腕に注射器の針を入れる寸前で手を止めた。

「どうしてですか」

「社長の血液型はHM-114514なんです」

「何だって!」

 田所は声を上げた。

 HM-114514型。それは先天性のドホモのみに確認される血液型で、人類に0.0019%しか存在しないものだ。

「同じ血液型の方はいないんですか?」

「お父上が同じ血液型なのですが。今はホモビの撮影のため、サイパンに」

「なんてこった」

 田所は頭を抱えた。

 HM-114514型の血液は希少で、大病院でもそうそう保存している所はない。

「とりあえず、輸血の準備はしておきます。同じ血液型の人を探してきてください」

 田所がそういうと、二人はすぐさま社長室を飛び出していった。

 賭けるしかなかった。0.00019%が近くにもう一人居る奇跡に。

 多分、無理だろう。そう考えていると、思った以上に早く初老の男が帰ってきた。

「ブラック・ファック先生!この方が同じ血液型だと」

「ですから私はたどこ――なんですって!」

 田所は顔を上げて初老の男が連れてきた、ヘルメットと作業着姿の見るからに池沼そうな男を見る。

 立ち上がり、その男に近づいて聞いた。

「あなた、お名前は?」

「三浦だゾ」

 ゾ?

 まるでアニメのキャラクターのような語尾が引っかかるが、そんな話をしている場合ではない。

「三浦さん。あなたの血液型は本当にHM-114514なんですか」

 田所は汗をにじませながら聞いた。

 今のアタッシュケース内にある道具では、HM-114514型を判別することは不可能だった。

 もし別の血液を入れてしまえば、特有の拒絶反応で穴という穴から糞が飛び出して死ぬ。

「お、そうだゾ」

 田所は眉を寄せながら三浦の顔をじっと見る。

 正直、信用ができない。だが、今は彼の言葉を信じるしかない。

「三浦さん、血液をいただけますか?」

 田所がそういうと、三浦は当然のように即答した。

「困ったときに助け合うのは当たり前だよなぁ?」

 

 

 まぶたの奥から光を感じ、木村はうっすらと目を開けた。

 ぼやけ、ピントの合わない視界を調整するように何度か瞬きをすると、白い天井が目に入る。

 隣に目をやると浅いピンク色のカーテンと点滴が、その反対には夜の空を映す窓が見えた。

「あれ……ここは、病院?」

「目が覚めたか」

 足元の方から声が聞え、体を起こそうとすると「まて、俺がそっちにいく」と色黒の男が木村の隣に立った。

「あなたは?」

 木村は聞いた。

「俺の名前は田所浩二。君の治療をさせてもらった医者だ」

「治療?」

「そうだ。君は過度のストレスによって、腸破裂を起こした。最近、柔い便が続いてないか」

 木村は頷いた。ここ最近、ビュブルルル、ポンッ!といった感じの便しか出ていなかった。

「それだ」

 田所は指をさしていった。「それで腸がダメージを受け続け、破裂したんだ。俺が社長室で応急処置してなきゃ、今頃死んでるよ」

「応急処置?」

 木村は一瞬、下を向くとハッとして顔を上げた。「僕の血液はHM-114514ですよ」

「分かってる。実は近くに同じ血液型の――」

 そのとき、病室のドアが開く音に田所が黙ると、坊主で池沼面の男が入ってきた。

「失礼するゾ~」

「あなたは誰ですか」

 木村は少し戸惑いながら聞くと、田所はその男の肩に手を置いた。

「この人が、君と同じHM-114514型だった三浦さんだ」

「え?」

 木村は口を開くと、そのままの状態で固まった。

 自分と父以外でその血液型の人間が日本にいるとは思っていなかったからだ。

「もう治ったのかゾ?」

 三浦がそう聞くと、田所は軽く首を横に振る。

「いや、まだ完治はしてない。ただ、すぐに退院できるだろう」

「ああ、それは良かった」

 木村がそういって、ほっと一息つくと、

「だが、安心するな」

 と田所がいいながら、横を向いた。「一度、破裂した内臓は元には戻らない。また激昂なんてしたら、同じことが起きるかもしれない。注意しておけ」

「あ、ちょっと」

 田所が歩き出すと、木村がそういって止めた。「ありがとうございます、田所さん。謝礼の方なんですが」

「それはすぐに会社へ請求させてもらう。それより、三浦さんに礼をいうんだな。この人がいなけりゃ、君は死んでたんだからな」

 そういって、田所は病室から出ていった。

「本当にありがとうございます、三浦さん」

 木村はすぐに礼をした。「あなたのおかげで助かりました」

「気にしなくていいゾ」

「いえ、命の恩人ですから、お礼をさせてください。すぐに部下に頼んで、100万円ほど包ませますので」

 三浦はすぐに首を横に振った。

「そんな大金もらえないゾ。俺はただ血液をあげただけで、そんなたいしたことしてないダルルォ!?」

「でも」

 木村は一瞬、手を顎に当てて考えた。「そうだ、僕が退院したらご馳走しますよ。それならどうですか」

「お、いいゾ~コレ」

 

 

「なんか、よくわかんないゾ」

「え」

 木村は対面に座る三浦の表情に驚いた。

 地上18階にある会員制高級レストラン、糞喰漢。特別な接待でしか使用しないものだ。

 味には絶対の自信があったが、料理を口にした三浦はおいしいともまずいとも違う、困った顔をしている。

「口に合いませんでしたか」

「それよりも、なんかここ」

 三浦は周りをきょろきょろと見回す。「すっごい落ち着かなくて、味がわかんないゾ」

「どの辺がでしょうか」

 木村はそう聞いた。

 白を基調とした広い店内には、かなりの余裕をもって机が並べられ、静かに流れるバイオリンの旋律が、窓の外に映る夜景をより一層、美しい物としている。他の客も二組しかいない。

 この状況で、落ち着かないというのは木村には理解できなかった。

「全部だゾ。こんな高級な店は来たことなくて、食べるのに集中できないゾ」

 木村は頭を掻いた。

「それは困りましたね」

 何とか三浦が落ち着くのを待ったが、一向にその気配はなく、結局ろくに料理は食べずに、二人はレストランを出た。

 輸血の礼として連れてきたのに、こうなっては意味がない。

 どうしたものかと考えていると、

「あ、そうだ」

 唐突に三浦がそういった。「俺の行きつけの銭湯があるから、そこにいこう」

「銭湯ですか」

「そうだゾ~。すっごい大きくて気持ちいいゾ」

「そうですか」

 木村は顔を横にやると、少し困った顔をした。

 銭湯の存在は知っていたが入ったことはなく、どんなものかも想像できなので不安だ。

「どうせなら、先生も誘うゾ」

 そういって、三浦は携帯を取り出す。

「え、先生ってもしかして」

「当然、田所だゾ」

 

 

「あっつぅ~」

 風呂場のドアが開かれ、体から湯気を上げた三浦が出てくると、後から田所が続く。

「ビール!ビール!あっつー!」

「中では飲食禁止ですよ」

 と最後に木村も出てきた。

 もっとボロボロの銭湯ではないかと心配していたが、思いのほか最近できたような綺麗な所だった。

 初めての銭湯だったが、二人が一緒のため緊張はなく大いに楽しめた。

 脱衣所で体を拭いていると、

「三浦さん、腹へってないですか」

 と田所が聞いた。

「腹減ったなぁ」

「この辺にぃ、うまいラーメン屋の屋台、来てるらしいんですよ」

「あっそっかぁ」

「行きませんか?」

「いきてーなー」

「行きましょうよ。じゃけんすぐ行きましょうね」

「おっそうだな。あっそうだ、おい木村ぁ」

 呼ばれるとは思わず、木村はハッとして顔を上げた。

「あ、何ですか」

「木村も腹減ってるか?」

「ああ」

 木村は右上あたりをみて、腹の調子を確かめる。「はい、すいてます」

 先ほどのレストランでは、三浦のこともあってあまり料理を口にしていなかった。

 ラーメンぐらいなら軽く入るだろう。

 銭湯を出た三人は歩いて10分ほどにあったラーメン屋の屋台に行くと、ラーメンを三杯頼んだ。

 すぐに出てきたラーメンを、木村は啜った。

 味は普通だ。まずくはないが、おいしくもない、だが、

「めちゃくちゃうまいゾ~これ」

「ですよねえ!このチャーシューがたまんないんですよ」

 二人は食べるなり声を上げた。

「どうだ木村はぁ」

 三浦がそう聞いてくると、木村は笑って答える。

「ええ、おいしいですよ」

 空気を悪くしては悪いと、そう答えた。

「本当かあ?」

 田所が疑ってくる。「いつもいいもん食べてるから、実はたいしておいしいと思ってないんじゃないのか」

「いえ、本当においしいですよ」

 そういって、木村はまた麺をすする。

 三人は麺を食べ終えると、三浦と田所は器を両手で持ち上げ、汁をすべての飲み切り同時に器を置いた。

「あーうまかった」

 三浦はぽんぽんと腹を二回たたいた。

「お二人とも汁も飲んじゃうんですね」

「本当は塩分が高いから、飲まない方がいいんだけどな」

 田所がそういうと三浦は、

「汁を全部飲まないと、ラーメンを食べたって気にならないゾ」

 と笑った。

 会計を済ませると、大通りでタクシーを捕まえ、ドアが開かれると木村は二人に向かっていった。

「今日は楽しかったです。また機会があったら」

「お、そうだな。また誘っていいか?」

 三浦がらしくない心配をすると、田所が笑った。

「遠慮することないでしょ、何てったって血を分けた兄弟だ」

「そうですね」

 木村は同意した。

「そっかぁ。じゃあまた一緒に食べるゾ」

「ええ、また。では」

 木村はそういってタクシーに乗り込んだ。

 運転手に目的地を告げ、木村は、たまにはこんなのも悪くないか、と思いながら後ろへと流れていく街並みを静かに眺めた。

 

 

「くそ」

 木村は社長室で一人つぶやいた。

 輸血の件から二ヶ月、ポンッカレーは窮地に立っていた。

 売り上げは変わらず下がり続けており、田所に払った1919万円の治療費もかなりの痛手となっている。

 父に助言を求めようとも思ったが、前回のホモビ撮影後すぐ、別の撮影のためアフリカに向かってしまい、また当分帰ってこないそうだ。

 部下に頼んだ銀行からの融資も、かなり渋られているようで、正直いつ支援を切られるのかもわからない状況だ。

「何か……何か打開策はないのか」

 すでに数百時間、考え続けているそれをまた思案する。

 背を丸めながら考え続けるも、答えが出る気配はなかった。

 倒産。

 その単語が脳裏をかすめたとき、突然に社長室のドアが開いた。

「社長!」

 同時に額に汗をにじませた幹部が部屋に入る。

「どうしたんだ」

 その様子に戸惑いながら、木村は聞いた。

「インドのジュンペイ家と話が付きました。カレーのレシピを、一部のみ、他の会社に漏らさないのが約束できるのであれば、使用を考えてもいいと」

「それは本当か!」

 それは一月ほど前に提案されていた企画だった。

 ジュンペイ家の人間だけに、口頭のみで伝えられるとされる伝統のカレーを、ポンッカレーの新商品として扱えないかというものだったが、そんなカレーを企業に、ましてや日本の会社に使わせてくれる可能性は限りなく低いと思われていた。

 だが、まさか交渉にこぎつけるとは。

「価格交渉の日時は?」

 木村は問う。

「4日後というのが、あちらからの提案です」

「必ずその日に行くと、伝えておいてくれ」

「分かりました」

 幹部は踵を返して部屋から出ると、木村は安堵の吐息と共に椅子に座ると、静かに目を閉じ、口角を吊り上げた。

 いける……これなら立て直せる。僕の会社を。

 

 

 仕事を終えた三浦は、後輩と一緒に組み立て式の足場を下にくだっていた。

「今日は暑かったっすね三浦さん」

 後ろからついてくる後輩がいった。「今日も終わったら銭湯いきませんか」

「お、そうだな。あっそうだ、木村もさそうゾ~コレ」

「木村って、もしかしてポンッカレーの木村社長ですか」

「そうだゾ」

「本当ですか。本当にあの木村社長が?」

 後輩は三浦が輸血の件で、木村と仲良くなったと信じていなかった。

「だからラーメン一緒に食べたって言ってるダルルォ!?」

「三浦さんって典型的な池沼だから、いうこと信用できないんですもん」

「ポッチャマ」

 三浦はしょぼんと、肩を落とした。

「いやいや、冗談ですって。ちゃんと社長に僕のこと紹介してくださいよ」

「当たり前だよなぁ?」

 談笑しながら階段を下っていき、三浦が地面に足を付けようとしたその時、

 カァン――

 突然、隣から謎の金属音が響いた。

「うお!」

 後輩はそう叫ぶと同時に、とっさに音の方に目をやると、ジッポライターが地面に落ちていた。「ジッポ?」

「すいまへ~ん」

 上から声が聞えてきて、後輩が見上げると同僚が手を振っていた。「落としちゃいました。けがはありませんか」

 どうやら落ちたライターが手すりに当たったらしい。

「バカやろう!気を付けろ!」

 後輩は怒号を飛ばした後、前を向いた。「まったく、びっくりしましたね、みうら――」

 後輩はそこまでいうと、息を飲んで固まった。

 三浦が地面に倒れていたからだ。

「三浦さん!」

 すぐに後輩は階段を降りると、そばに膝をついて肩をゆすった。「どうしたんですか!」

「いや……ちょっと、こけて……お尻を打って……うぅ」

 三浦はそういうと、額から脂汗をにじませ、唸りながら顔をゆがめた。

「お尻を打った?それだけですか、それだけでこんな――」

 その時、視界の隅、三浦の履いている灰色のズボンから、見慣れない色が見えていることに気が付いた。

 恐る恐る、後輩は立ち上がり三浦のお尻を見ると、そこは鮮血に染まっていた。

 

 

「いつ出発しますか」

 4度目の質問だった。

 同じ質問を何度もされているというのに、乗務員は嫌な顔一つせず笑顔で「10分後でございます」と答えた。

「ありがとうございます。何度もすいません」

 と木村がいうと、乗務員は礼をしてその場を去った。

 それを見送ると、木村はビジネスクラスのシートに身を預け、目を閉じながらも、右の足を上下に揺らした。

 焦ったところでどうしようもない。しかし、明日はジュンペイ家との交渉日、ポンッカレーの未来が決まる日だ。落ち着かないのは当然だ。

 まだ指示はないというのに、木村の腰にはシートベルトがつながれている。

 まだなのか。

 再度、同じ質問をしたい衝動に駆られ、横を通り過ぎた乗務員に声をかけようとしたとき、携帯が鳴った。

 もしや、ジュンペイ家との間で何かあったのかと、すぐさま携帯を取り出して耳に当てた。

「もしもし!何かあったのか」

――ああ、あった。

 その言葉を聞いて、さっと頭から血の気が引いた。

 一体なにがあったのかとすぐに聞こうと思ったが、その前に別の疑問が湧き出た。

 声だ。電話から聞こえた声が、部下のものではないような気がした。そして、どこか聞き覚えもあった。

「えっと……だれ、ですか」

――田所だ。

「え?」

 木村は驚きながらも聞いた。「ど、どうしてあなたが。僕の携帯電話の番号も知らないはずじゃ」

――三浦さんの携帯電話からかけてる。それより大変だ、三浦さんが倒れた。

 木村は言葉を失った。

 三浦さんが?

 茫然とする木村に田所は続ける。

――こけて尻を打ったひょうしに、肛門が縦に割れたらしい。どうも日ごろから酷使していたようで、それが原因みたいだ。

「それで……どうなんですか」

――すぐに手術が必要だ。応急処置をして何とか時間を稼いでいるが、時間の問題だ。HM-114514型の血液も岡山の県北にしかなく、間に合わない。今すぐ来てくれ。

「僕が行くんですか」

――当たりまえだ!お前以外に誰がいる。

 携帯を握る手が震えていた。

 どうする……どうすればいい。

「何とかなりませんか。今から大事な商談が――」

――何をいってるんだお前は!

 田所の叫びが、木村の言葉を遮った。

――いったい誰のおかげで生きられてると思ってるんだ。この人がいなければ、お前は死んでいたんだぞ。

「確かにその通りです。でも……でもですね」

――三浦さんの命より会社を取るのか……お前は。

「いえ、そういうわけでは」

「お客様」

 いつの間にか隣にいた乗務員に呼ばれ、木村はハッとして顔を上げる。

「ああ、はい」

「申し訳ありませんが、すぐに離陸となりますので、携帯電話をお切りいただけますか」

「え、あっと……はい、すぐに切ります」

「お願いいたします」

 礼をして歩き出す乗務員の背中を、息を切らして見ながら木村は悩んでいた。

 行かなければ三浦は死ぬ。だが、この飛行機を降りれば、明日のジュンペイ家との商談はなくなる。そうなれば、会社はほぼ確実に倒産だ。

 手にある切られていない携帯からは、田所が叫んでいるのか、かすかに声が聞えてくる。

 その時、木村の脳裏には三浦と田所の三人で、共に入った銭湯とラーメン屋の屋台の光景が流れた。

「そうだ……助けなきゃ」

 三浦と別れる前の最後の姿。

 それが映ると木村はシートベルトのバックルに手をかけた。

 あと指に力を入れれば、ベルトは外れる。

「お客様」

 その様子を見た乗務員が隣に来て聞いた。「どうかなさいましたか」

「すいません」

 木村は乗務員を見ず、目の前の何もない空間を見ながらいった。「僕……僕は――」

 ――カチ。

 木村の震える親指が、携帯の電源ボタンを押した。

 その状態で固まったままの木村に乗務員は「お客様?」と木村の顔を覗く。

「何でもありません。大丈夫です」

 木村はかすれた声でそう答えた。

「そうですか。具合が優れなくなりましたら、すぐに乗務員にお申し付けください」

「はい。ありがとうございます」

 木村は窓の外に目をやった。

 飛行機はゆっくりと飛行場を旋回し、滑走路に乗るとスピードを上げていく。

 機体が地上から離れていき、雲を抜けると、星が散る夜空が目に映る。

 機内は水中のように静かだった。木村の心の中も同様に。

 ただ、その静けさが、何よりも恐ろしかった。

 

 

 手術室前、田所は切られた携帯を耳にあてがいながら、目の前の壁を見ていた。

 ゆっくりとその手を下におろし、その場で固まる。

 何分そうしていただろうか、手術室のドアが開かれて医師が出てきた。

「ブラックファック先生!木村社長はまだなのですか!」

「ええ……容体は」

「もう限界が近いです」

「そうですか」

 田所は手術室へ入ると、手術台に横たわる顔を青くした三浦のそばに立った。

 まだギリギリ意識があった。だが、いつ落ちてもおかしくはない状況だ。

「田所先生」

 三浦は苦悶の表情を浮かべながら聞く。「き……木村は」

 田所は深く息を吸い、それを吐き出した後、笑顔を浮かべていった。

「だいぶ前からここに向かっています。もうすぐ着きますよ」

「あっそっかぁ……それは……よかったゾ」

 そういうと三浦は笑みを作り、眠るかのように目を閉じた。

 意識を失い、死にゆく三浦を、田所はただ見ているしかなかった。

 30分後、心拍数の低下を知らせる警告がなり、そして――

 ――ピー。

 心停止を知らせる耳ざわりな騒音が、手術室に響いた。

 

 

「いやぁ大成功でしたね」

 飛行機を降りてすぐ、後ろからキャリーバックを引いてついてくる部下がそういうと、

「そうだな」

 と木村は憂鬱な顔のままそう返した。

 商談はあり得ないほど、うまくまとまったが、木村はそれを素直に喜べなかった。

 三浦さんはどうなったのだろうか。

 巨大な窓の外に映る飛行場を見ながら、それを思う。

 ため息を一つ落とし、前に向き直った瞬間、木村は足を止めた。

 数メートル前、こちらを見る黒い衣装に色黒の男が見えた。

「先にタクシーを捕まえておいてくれ」

 木村は足を止めて言った。

「え……はい」

 部下は木村とその男を往復してみた後、首をかしげると出口へと歩いていった。

 それを見送ると、木村は歩いて田所のそばに立つ。

 数秒の間、二人は見合ったまま、何もいわなかった。

「三浦さんは」

 ぼそりと、木村はつぶやいた。

「死んだよ」

 田所はまっすぐに木村を見据えていった。

 木村は息を詰まらせた後「そうですか」と体を震わせながら答えた。

「そうですか……だと」

 田所は鋭い目つきで、木村を睨みつける。「お前が来れば、三浦さんは死ななかったんだぞ。それを、まるで他人事か」

「いえ、悪いとは思っています……ただ、僕にも僕の事情があることは分かってほしい」

「それは、命の恩人であり、友人である三浦さんを殺さなきゃならないほどの事情か」

「そういうわけでは」

「じゃあどういうわけなんだ」

 田所のその言葉に押し黙った木村は、目を閉じて下を向いた。

 こっちには、こっちの事情があるんだ。それを何だ。

 そう思うと、腹の底から怒りが込み上げてきた。

「あなたは……何なんですか」

 木村は苛立ちをあらわにしながらいった。

「何?」

 その様子に、田所は眉を寄せた。

「何なんですかと聞いてるんです。僕がどうして、あなたのいうことを聞かなきゃならないんだ。確かに命を助けてもらいました。けど、それだけで僕はすべてをあなたたちに捧げなくてはいけないんですか」

「まて、少し落ち――」

「大体」

 木村は田所の言葉を無視して続ける。「あなたが請求した莫大な治療費だって、一つの要因なんですよ。それを、まるで僕だけが悪いみたいに……会社がこんな状況でなければ行きましたよ。でも部下は使えないし、企業競争だって激しいんですよ!」

「おい木村、話を――」

「分かった口きかないでくださいよ。こっちは大変なんですよ。正論めいたこといって、自分が正しいとでも思ってるんですか。何も知らない奴が……何の責任ももたない奴に!うだうだいわれる筋合いは無い!僕は社長なんだ!会社のために輸血を断って――」

 木村は空港内に響くような大声で叫んだ。「いったい何が悪い!」

 その時、下腹部に鈍い痛みを感じた。

「うっ」

 腹を抱えその場でうずくまると、近くに歩いてきた田所を見上げた。「た、田所さん」

「俺はいったはずだ。壊れた内臓は、元には戻らないと」

 その言葉を聞いた瞬間、木村は力なく地面に頭を打ち付け、気を失った。

 

「いや~あなたがあの有名なブラック・ファック先生ですか」

 救急車で病院につくなり、調子のよさそうな禿げ頭の医師がそういった。

「私の名前は田所です」

「失礼しました。しかし、あなた木村社長とご友人とは」

 田所は運ばれていく木村を一瞥した後「ただの知り合いです」と答える。

「そうですか。それで、どうでしょうか、お知り合いのために手術を手伝ってもらえたりしませんでしょうか」

 医師はそれを期待するかのように、ほほを吊り上げていった。

「慈善活動はしない主義なんだ」

「ああ、そうですか。ではですね、私の名前だけでも憶えて――」

「先生、大変です!」

 看護師の叫び声が、医師の声をかき消した。

 医師は面倒くさそうに振り向くと「いったい何だね」と聞いた。

「木村社長の血液型にHM-114514 型が」

「ひょえ!」

 医師がすっとんきょうな声を上げ、田所を見た。「それは、そうなのですか」

「ええ、彼はHM-114514型です」

 田所がそういうと、医師は顔を真っ青にした。

「そんな。こんな有名人が死んだとなると、病院の名が」

「調べたところ、岡山の県北にしか同じ血液はないそうです」

 看護師がそういと、すがるような目で医師は田所を見た。

「先生……あの、血液を持っていませんか。もしくは同じ血液型の方など」

「一人知っています。彼の友人でね」

「え!」

 一転、医師の顔は明るくなった。「いやぁそれは良かった!やはり、持つべきものは友というやつですね」

「その通りだ。しかしながら、彼は手放してしまったのですよ」

 田所はそういって、病院の出口へ歩き出した。

「自らの手でね」

 




ブラック・ジャック12巻(チャンピオンコミックス)第161話「上と下」より

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