「この患者で最後か?」
看護師長にそう問いかけると、最後ですと返答が帰ってきた。
20時間ほどだろうかぶっ通しで手術し続けていた田所の顔には疲れが見え、そのもとより臭かった体臭はその強度を増し、歩く殺戮臭気とかしていた。
田所の周りの者は鼻に脱脂綿を詰めて、なんとかそれを紛らわしていた。
しかし、そのことに文句をいうものは誰ひとりいない。
その医療技術を見れば、体臭など気になるものはいない。
手術室を出ると威厳ある面構えをした男が、後ろに二人助手を連れて立っていた。
貫禄、風格。そして周りの医者からの畏怖。
人目で院長とわかる雰囲気をしていた。
鼻に脱脂綿を詰めているが。
「この度は本当にありがとうございました。アクシードの医者、看護婦一同を代表して院長のわたくしから、お礼を申し上げます。あなたのおかげで、どれだけの命が救われたか」
「どういたしましてだ。ただ、感謝なら謝礼という形でもらってもかまわないかな?」
「謝礼…とは、いかほどのものかと」
院長の頬を一筋の汗がつたう。
その汗は、ブラックファックといえば高額の医療費をふんだくると知ってのものだろう。
「そうだなぁ。この俺を20時間も働かせたんだから、相場でいうと1919億円ぐらいが妥当といえば妥当なんだけどなぁ~、俺もなぁ~」
意地悪な顔をしながら田所は院長の顔をチラチラみると、黒目は揺れ首に力が入り、見るからに狼狽しているのがわかった。
「まあ今回のはボランティアみたいなもんだ。この国には田中教授の目もある。364万円ぐらいで勘弁しとこうかな」
「ありがとうございます」
院長は助手と共に深々と頭を下げる。「お疲れでしょう。被害の少ないホテルで宿が取れましたので、そちらでお休みになってください」
「いやいい。今はみな復興で忙しいだろう。客人をもてなしている暇などないはずだ。それに俺はこの国には墓参りに着ただけだ。さっさと帰る」
再度、深々と頭を下げる院長のもとをさり、院内の院内の患者たちを足早に見て回る。
診察のためではない。田所は探していた、タルトの姿を。
もし怪我をしているならここに来ているかもしれないからだ。
タルトもその母も、連絡手段を持っていなかったので、今後連絡を取るために車番をさせていた男の番号を聞いていた。
様子を伺わせようと電話をしようとしたその時、不意に見知った顔が見えた。
いまだ患者で溢れているエントランスの椅子に座る男。
あの村で合ったバスの運転手だ。
いい記憶はない。ただ、今はこいつに聞くしかない。
「無事だったのか」
田所がそう話しかけると運転手は目を合わせた瞬間、ばつの悪そうに目をそらす。
「何だてめぇ、何のようだよ。怪我した俺たちを笑いに来たのか?」
「俺は医者だ、そんな趣味はない。ただ一つ聞きたいことがある。俺と一緒にいたあのハーフの少年、タルトはどこにいる」
「タルト?」
運転手はわざとらしくそういった。「あのガキか。見てないなぁ」
明らかに何かを隠していた。
しかし、いまこの男にいくら問い詰めても、なにもないとしらばっくれるだけだろうと、その場をさろうとしたその時、
「タルト君?」
そばにいた頭に包帯を巻いた少年がそう漏らした。
「君、なにか知ってるのか?」
田所はすぐに膝をついて聞いた。
「僕、タルト君見たよ。怪我してたんだ」
「怪我」
田所の目がカッと見開く。「じゃあ、ここにいるのか?」
少年は首を横にふる。
「乗ろうとしてたんだ、バスに。そしたら…ドアが閉まって、おいてきちゃったんだ」
ドアが…しまった? おいてきた?
腹の底から湧いた熱が、脳天まで登ってくるのを感じながら、ゆっくりと運転手の方を向く。
運転手は悪気なさげに、はんと鼻を鳴らした。
「そういや乗ろうとしてたな。いや、バスが満員でな、乗れなかったんだよ。だいたいあいつら肌が白くて、豚と見分けがー」
瞬間、田所の拳が頬を撃ち、2本の奥歯を飛ばしながら運転手は倒れた。
「お、お前」
運転手は頬を抑えながら田所をにらみつける。「俺は患者ーヒィ!」
倒れた運転手の胸ぐらを田所はつかみ、凄んで顔を近づける。
「なぜそんなことをした! 人間のクズが、彼は子供だぞ! どうしてそんなことができる!」
田所の激高に運転手は強がったように笑ってみせた。
「は、ハン! よそ者のお前に俺の気持ちなんてわかるかよ」
「わからないな。分かってたまるか。何の罪もない子供に八つ当たりする愚か者の気持ちなど」
「ああ、そうやって俺の息子も殺されたんだ。あるとき車乗ったレスリング軍人に、遊び半分でな。虫も殺さない優しい子だった。俺は同じことをしただけだ。いや、なんならあいつが勝手に怪我をしたのをおいてっただけだ。俺は何もしてねぇ」
「自分が間違ったことをしていないとでもいいたいのか!」
「そうさ、俺は何も間違っていない!」
田所の脳裏に、タルトの会話がよぎっていく。
「あの子はな…医者になるのが夢だった。お前みたいなクソ野郎にも治療してやるのかって聞いたら、あの子は言ってたよ、人種なんて関係ない。怪我や病気をしてるなら、助けるのが医者だって。心優しい子だ。あの子に、貴様は同じことを言えるのか」
運転手は何も言わず、ただ下に目線をそらす。
「お前は自分の親に、友に、愛する誰かに!」
脳裏に、輝くメスを振るタルトがよぎる。
「自分の死んだ息子に、同じことが言えるのか!」
運転手は食いしばった歯の隙間から、嗚咽のような、うめき声のような、そんな音を出しながらその場で突っ伏した。
これ以上この男に割いている時間はない。
「タルト!」
田所は踵を返して走った。
「母親の方はその…どうも聞いた話じゃ、家の下敷きになって。山が火事でして…それで」
「わかった、それはもういい」
運転しながら携帯を握る田所は、眉間に深いシワを刻んでそう答えた。「その子供は、タルトはどうした」
「それが、ここにはいなくて。バスに乗って病院にいったって聞きましたけど」
「病院にはいなかったんだ!」
田所は思わず声を荒げる。
「いやぁ、そう言われましても。あっしも家族ではないので」
「金はいくらでも払ってやる。村中を探し回れ!」
そう吐き捨てて、田所は電話を切ると携帯を助手席に投げた。「チクショウ!」
苛立ちをぶつけても無意味なことは理解している。
しかし、焦る気持ちが冷静さを失わせていた。
車を飛ばして30分ほどが立った時、地平線の先から倒れている人影らしきものが見える。
くっと田所は歯を食いしばる。
頼む、違ってくれ。
その思いは裏切られ。距離が近づくとその姿がタルトのものだと確信する。
「タルト!」
5メートルほど手前に車を停めて、タルトのそばに走っていく。
うつ伏せに倒れていたタルトを仰向けにして、田所は体を抱えた。
「せん…せい?」
虚ろな表情でタルトはつぶやいた。「先生なの?」
「そうだ、助けに来たぞ」
高熱があり、頭部の打撲に腕にも骨折にと思わしき跡がある。
出血もひどくタルトが夜通し歩いてきたであろう道には、血液の跡が点々と残っていた。
息をするのがやっとの状態だ。
それを総合的に診て、すべてを察した田所は目を閉じた。
タルトは…もう…。
「先生…本、ある? 家から持ってきたんだ」
最後の力を振り絞るかのように、タルトはいった。
「本? いやどこにもない」
田所は周りを見渡したが本らしきものはなかった。
おそらく来る際に何処かに落とし、それすら気が付かなかったのだろう。
「じゃあ、メスは」
メスはタルトの左手にしっかりと握られていた。
気を失っても、これだけは決して離さなかった。
「あるぞ。ちゃんと左手の中に」
田所はメスを握ったタルトの手を、自分の左手で包む。
「よかった…」
タルトは安心したかのように微笑んだ。「先生…みて」
田所は振り返り、タルトの視線の先を見た。
「空、青いよ」
「ああ…そうだな」
そこには国境も、壁も、分け隔てるものなど何もない、澄み渡る青空がどこまでも広がっていた。
出典 THE BLUE HEARTS『青空』
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