ニューヨークの冬は冷える。
冷たいコンクリートの臭いは独特のようで、人をよく死に誘うらしい。
だからこの時期は非常に繁盛する。
嬉しいんだか、悲しんだか。
そんな感情は、もうとっくの昔におぼろげになってしまった。
死体のように冷たいドアノブを開けて、新庄はカフェに入る。
カフェと言っても、スタータチバックスのようなおしゃれな空間じゃない。
半分バーのような、地元の人間たちが時間つぶしに来るような、古臭いカフェだ。
普段から新庄が使うような場所じゃないが、こういうのも嫌いじゃない。
アタッシュケースを足元に起き、濃い木目の丸テーブルに腰掛け、すぐにコンコンとテーブルをノック。ウエイトレスを呼ぶ。
恰幅の良い、男のウエイトレスだった。
「コーヒーを頂きたい。湯気のたった、マグマみたいに熱いやつを」
新庄はいつものように、ニヤケ面の冗談交じりで答えて見せたが、対するウエイトレスは、OKなのかNOなのかよくわからない返事でカウンターの奥に入っていった。
立ち飲みをしている地元住民たちの、見ているようで見ていないような、チラチラした視線が集まる。
なるほど、どうやら歓迎はされていないようだ。
落ち着くことはできないが、まあ体を温められればそれでいいと思い、ポケットから携帯を取り出す。
次の取引先だ。
「ハイ、木下です、ハイ、ちょっと道が混んでまして」
職業柄、恨みを買う可能性があるため偽名を使うことが多い。
当然、道など混んではいない。
こんな寒い日はコーヒーでも飲まないと仕事にならない。
「そうですね、到着はだいたい2時間ぐらい……」
そこまで言ったところで、視界の隅にあるものが写り、言葉が止まる。
合うのはあの日ぶりか。
ツギハギまみれの顔になって、前よりも分かりやすくなった。
まあ、顔がまるっと変わっても、その全身から出る刺激臭で誰だかすぐに分かるだろう。
田所。いやブラック・ファックのほうが有名か。
「ええ、また到着時間がわかりしだい、連絡しますよ」
そう言って携帯をきった。「やあ、奇遇かな?」
「そうだな。この寒さで、お前の雑な手術痕が痛む」
田所が嫌味を言うと、さっきまで湯だっていたかのような、白い煙を渦巻かせたコーヒーが運ばれてきた。
「勘弁してくれ、メスを持たなくなって長いんだ」
新庄はカップを取ると、対面にあるからの椅子をそのカップで指す。「座れよ、腐れ縁」
「結構。長居はしない」
つれないなぁ。どうやら俺にはナンパの才はないようだ。
そう思い、クックックと肩を揺らして、コーヒーに口をつけたが、熱っとすぐに口から離す。
「ほんとにマグマみたいだな」
新庄は軽やけどをした唇を、指先でなでる。「お前も頼むといい。だいぶ温まるぞ」
「それも結構だ。お前とゆっくりするために来たんじゃない……まだ人殺しを続けているのか?」
人殺し。
そのワードを聞くと、ピクリと新庄の眉が動いた。
ゆっくりとカップを机に置く。
「何度も言わせるなよ。俺が行っているのは安楽死。立派な医療だ」
「人をイカしてこその医療だ。こちらこそ何度も言わせるな」
「苦しんでいる人間から、その苦しみを取りさっているだけさ」
「話にならんな。まあ、お前とそんな話をしに来たんじゃない」
田所はコーヒーの湯気に視線を落とした後、続けた。「いくらだ」
新庄の一瞬の思案の間を挟む。
いくらと問われても、田所相手に仕事をした覚えがない。
「えっと……何がだ。このコーヒーか?」
「手術代だ! 貴様が俺を治療したんだ。好きな値段をつけろ。他人に高額な料金を請求してるんだ。高額でも文句は言わない」
目を丸くした新庄は、またクックと笑いながら、コーヒーを一口含んだ。
「お前は、本当に根っからの医者だな。そうだなぁ」
もったいぶるようにそう言うと、不意にコーヒーの湯気に目がいった。「このコーヒー。奢ってもらおうかな」
「そんなものでいいのか。後からやっぱり、とかそういうのはなしだぞ」
「いわんさ。特にお前相手には。何をされるかわからん。ただそうだな、確かに少額すぎる。ちょっと話に付き合ってくれよ。いい薬が手に入ったんだ。自慢させてくれ」
田所の視線がギロリと鋭くなる。
顔にツギハギが入ったからか、前より威圧がすごい。
柔い老婆の皮膚なら、本当に切ってしまいそうな視線だ。
「まあ聞いてくれよ。今朝がた手に入った新薬でな。名前を『オモミモモモ・フェラドキシン』っていうんだ。その昔、レスリング帝国が証拠を残さずに毒殺するために開発したんだ。何がいいって、その死にざまだ。心臓に優しいお薬でな。1時間9分19秒かけて、ゆっくりとおねんねさせてくれる。終わった後は、安らかに佇む眠れる森の美男子だ」
「くだらん。そんな物を研究する暇があるなら、病気を治す新薬を開発しろ」
「遅れてんなぁ。今や安楽死が合法の国も出てきたぜ。これは最新の医療だ。遅れた老害になるなよ、田所」
田所は返事のかわりに、くそっと言わんばかりに歯を食いしばった。
それを眺めながら、飲み終えたカップを新庄は置いた。
「まあ、顔の皮膚も新しくなったんだ。これを気に、頭の中身もアップデートしろよ。じゃあ、俺は新薬をもって新しい患者のアタッシュケースがない!!!」
新庄は足元を見ると、目が飛び出さんばかりに見開いた。
先程まであったアタッシュケースが、さっぱりなくなっている。
「チクショウ、スリか! 田所、お前見てなかったか!」
「い、いや。全く」
新庄は椅子が倒れる勢いで立ち上がり、バーカウンターの奥にいるバーテンに詰め寄る。
「おい! あんたらスリ見てないか」
バーテンも周りの客も、小首をかしげるばかりだった。
外様の荷物がスられようが、しったことではないと言わんばかりだ。
「ちくしょう!」
そう吐き捨てると、新庄はカフェから走って出ていった。
「おい待て!」
体が勝手に新庄を追うために動いていた。
自分には関係ない話だが、入っていた薬が薬だ。ほおってはおけない。
後に続いて外に出ようとした時に「ちょっと待ちな」とウエイトレスに腕を掴まれた。
「先に出たダチの分の料金がまだだ。出たいなら払っていってくれ」
どうせ払うつもりだったので金を出した後、田所は聞いた。
「あんたスリは見なかったか」
「さあね」
言い方に含みがある。
なにか裏があるのは確かだ。
「良いサービスだった。チップもだそう」とコーヒー10杯分の金を握らせると、すらすらと語りだした。
「ここいらじゃ有名な盗人の坊主がいる。ヒデってんだが、そいつなら近くのアパートに母親と住んでるぞ」
田所はすぐにバーテンの言っていたアパートに向かった。
中に入ると貧困層のアパートらしく、昼間から喧騒の声が各所で響く。
すれ違った年老いた男に、ヒデはどこにいるのか聞くと、すぐに部屋番号を教えてくれた。
その部屋に駆けつけ、扉を開けた瞬間、目の前の光景に田所は叫んだ。
「飲ませてしまったのか!」
すでにヒデらしき少年が、ベッドに横たわる母親に薬を飲ませている様子が目に入った。
何も言わず逃げようとするヒデを「待て!」といって首根っこを掴む。
「貴様、自分が何をしたのかーー」
言葉を聞かず、暴れるヒデに怒り心頭に達した田所は顔をビンタした。
「話を聞け、クソガキが!」
「ヒィ! なんでも言う事聞くから許して」
「ああ、分かった。ならお前は何をした。あの薬を飲ませたのか? なぜだ」
「だ、だってアレは心臓にいい薬だって」
くっと田所は先程までの新庄との会話を思い出す。
そんなことを言っていたような、なかったような。
「バカ! アレは毒薬だ。貴様の母親はあと1時間9分19秒で死ぬぞ」
「な、なに言ってるんだ。そんな言葉には騙されないにょ。ちゃんと心臓にいい薬だって聞いたんだ」
このガキは。
怒りの臨界点にきた田所は、ちょうど近くにあった竹刀でヒデの太ももを思い切り叩いた。
「であ痛い!」
「この口の減らないガキが。自分のやったことを思い知らせてやる!」
少年と呼ぶには、あまりにも体が大きく、筋肉質でムダ毛の処理がいき届いていないヒデにムカついたのか、そこから筆舌に尽くしがたい、拷問とも思える所行をヒデは受けた。
手始めに鞭打ちで太ももを赤く染めた後は、その部分に蝋燭攻めで熱々のロウをかける。
このあたりから、目的を忘れて痛めつけるのが楽しくなってきた。
熱い熱いと言うので、今度は風呂場に持っていって冷水シャワーを顔面にかけてやった。
寒い冬には堪えるのか、錯乱したヒデは「溺れる! 溺れる!」と叫び続ける。
そのままトイレに顔面を入れ込み、ゴボゴボしているのをみて、さあ次は何をしてやろうかと考えていたとき、ハッと田所は我に返った。
こんなことしている場合ではない!
「じ、自分のしたことがわかったか!」
「分かった分かった、言う事いくよ!」
「よし、分かればいいんだ」
なんとかうまく誤魔化せたようだが、すでに30分ほど時間が立ってしまっていた。
「いいか、もう時間がない。貴様が盗んだこのアタッシュケースの持ち主を探すんだ。まだこのあたりでお前を探してウロウロしているはずだ」
ヒデが行ったのを確認して、すぐに母親の容態を確認する。
「クソ、すでにかなり心拍が弱ってきている。強心薬を射つか? いやだめだ、迂闊なことはできない」
田所はひたすらに待つしかなかった。
30分ほど経ち、ヒデが帰って来たかと思うと、新庄も後ろからついてきた。
よく見ると、ヒデの顔に青タンができていて、衣服は更にボロボロになっている。
「す、すまん田所。ついカッとなって、この少年を拷問していたらこんな時間に」
「何をしているんだバカヤロウ!」
「え、でもおじさんもーー」
「うるさい!」
何かいいかけたヒデに、もう一発、田所は平手打ちを食らわせた。
「どうすればいいんだ、新庄」
母親のそばに田所が駆け寄ると、新庄もそばに立つ。
「解毒用の薬があるが、経口摂取じゃ間に合わない。心臓の便に直で打てば、効くのが速いみたいだ」
「何分ぐらいで効く」
苦い顔で黙る新庄に、田所は叫ぶ。「新庄!」
「36分程」
ぐらりと視界が歪んだような気がした。
すでに薬を飲んでから1時間が経っている。30分後に効いたとして、助かるのか。
「心臓が止まっても、人工心肺を繋いで、大型ペースメーカーを使えば延命はできるそうだが」
このボロアパートがあるようなスラムに近い場所に、人口心肺のある病院が、果たしていくつあるのか。
よぎる不安。しかし、それを思案している間もない。
「いくぞ!」
田所は母親を担ぎ、すぐに外に出た。
タクシーを呼び、近くの一番大きめの病院に急ぐ。
「薬物中毒です。すぐにオペがしたいが、人工心肺はあるかね」
すぐに受け付けの人間に問うたが、急な事で状況が飲み込めないのか、えーっといって、なかなか返事が帰ってこない。
「急用なんだ、アナル・ストークスが起きる危険性もある!」
アナル・ストークスとは、肛門に血液が流れないことで、肛門細胞が壊れ、最悪死にいたる病だ。
「ワシが院長だが。急に言われても困るしーー」
騒ぎを嗅ぎつけて、でてきた院長に「私はブラック・ファックだ」と叫ぶと、院長は目を丸くした。
「ムムム、あなたがあの無免許強姦医師」
「なんでもいいが、オペ室を貸してもらう。人工心肺の準備も頼む!」
「後5分だぜ。もう諦めたほうがいいんじゃねぇか」
新庄がそう聞くと、田所は「3分あれば心臓まで開いて見せる」といって、手術衣に着替えだした。
拍動は途切れ途切れで、アナル・ストークスはすでに起きかけていた。
時間もない。
正直、新庄は諦めていた。
自分のせいではない。ヒデとかいうムカつくガキが、勝手にやったことだ。
そんなことを自分に言い聞かせながら、時間の都合で遅れるであろう、次の依頼人になんと言い訳するかを考えていたとき、
ーーバカな
オペを開始するときにはすでに、心停止まで時間は2分をきり、1.9分程になっていた。
この状態で心臓の手術をしようなどと、思う外科医はいない。
いたずらに死体を切り刻みたい医者など、どこにいるというのか。
それでも、この男は。
田所は、やってのける。
確かに患者は肉の少ない、細身の女だ。
それを踏まえた上で、開胸から心臓到達まで神がかりの速さだ。
時間は、おおよそ1分とすこし。
つい、顔が引きつってしまう。
この力が俺にあったら、安楽死なんて生業にしていないのかも知れない。
そう思わずにはいられない。
すでに田所は心臓に解毒薬を注入し始めていた。
「人工心肺、動かすぜ」
嫉妬、尊敬。悲しみ、怒り。
入り混じった感情を押し殺し、人工心肺を動かそうとしたとき、
「おい、こいつ動いてないぞ!」
新庄の叫びに、周りは騒然となる。
技師が再起動を試みるも
「ダメです、故障です、動きません。すいません、ずっと使っていなかったもので」
田所の腕は確かに神がかりだ。
だがそれでも、神を味方につけることはできない。
心臓の動きは瀕死の虫のようだった。
もう、終わりだ。
「しゃーないぜ、田所。お前はよくやったーー」
「黙れ!」
言葉を遮り、叫ぶ田所の目は、未だ絶望をしておらず、その今にも止まりそうな心臓を、かじりつくように見えている。
田所とは腐れ縁だ。
あって話した回数は数えれるほどだが、性格はよく知っているし、何を考えているのかだいたい分かる。
こいつ、動きを見ている。
それを見てやろうとしているのは、骨越しの胸部圧迫ではなく、直接の心臓マッサージ。
外科手術ではないことはない。体が虚弱な人間に対しては、胸部マッサージよりも適切な場合がある。
ただ相手は心臓病の患者だ。
下手なことをすれば心臓がおしゃかになる。
できたとしても、薬が効き出すのは30分以上経った後。
それが可能なのか?
疑念渦巻く中、まるで産まれてすぐの赤子を取り上げるように、田所は心臓を両手で包む。
まだ、ギリギリ心臓は動いている。
それに合わせるように、補助するように、田所の手が動き出した。
大丈夫なのか。
胃の底を引っ張られているような緊張感に、自然と金玉が小豆代の大きさになる。
そしてそれは、田所の手の動きに合わせ、戻っていく意識レベルと同じように、和らいでいく。
「田所……やった、やったぞ!」
「今、話しかけないでくれ」
「う、悪い」
そう、今うまくいったとしても、5分後も同じようにいくとは限らない。
それでも、10分……20分。
奇跡は継続していく。
しかし、神の手を持つ田所でも、限界がある。
皆が固唾をのんで見守り、30分がたった。
「げ、限界だ」
目の虚ろな田所は、ボソリとそう呟いた。
「おい、もうちょっとだ頑張れ」
「無理だ、もう腕がつりそうだ。動かなくなる」
「30分がたってる。もうすぐ助かるかも知れないんだ」
「ああ、分かってる。だから変わってくれ」
「誰にだ。お前以外に、誰かこんなゲイ当できるってんだよ」
「お前だ」
心臓を一本の糸が通り過ぎたような、そんな感覚があった。
「ば、バカ言うな」
思わず、声が震える。「俺はお前じゃない。俺がやったら、心臓が潰れて終わりだ」
「このまま俺がやっても、心臓が動かなくなって終わりだ」
「そうかもだけどよ、俺じゃないほうがいいんじゃないか。内蔵見たのも、お前の手術いらいだ。執刀医ならこの病院に他ーー」
「お前だ」
有無を言わさず、田所は言った。「他じゃだめだ。お前がやるのが、一番助かる可能性が高い。だから、お前にやらせる。当たり前だ」
新庄は目を丸くし、息を呑んだ。
俺が? 安楽死を生業としている、この俺がか?
へへ、っと緊張と喜びが入り混じったような笑みを、新庄は見せた。
「お前のお眼鏡にかかっちまったのならしかたねぇや、やるよ」
「当たり前だ。お前は、医者だろう」
「ああ、そうだった」
新庄は田所の手に自分の手を重ね、そのリズムを感じ取る。
適当にはしていない。心臓の弁の位置や、血液の流れを計算して、優しく、愛撫するかのように扱っているのが分かった。
それを、必死で新庄は手に覚え込ませていた。
「手を抜くぞ、新庄」
「いつでもいいぜ」
「3……2……1!」
田所の手が抜かれると同時、命の熱が、手のひらを通じて、新庄の心臓へと伝わってきた。
今宵は満月だった。
凍えるような寒さだが、体の中はまだ熱い。
その熱を発散するかのように、新庄は病院の屋上で、手すりによりかかりながらタバコを吸っていた。
いまだ心臓を掴んでいるかのように、手のひらに残った熱と、拍動の感覚が消えない。
新庄の心臓マッサージが始まり、10分が経った頃に、心臓が再鼓動を始めた。
目立った後遺症も、心臓に異常もなかった。
ヒデの母親は助かった。
「ひとまず、一件落着か」
新庄の隣に、同じように手すりに手をかけて田所が言った。「どうだい大将。殺すのと助けるの、どっちが気分がいい」
皮肉めいた質問に、新庄は思わず苦笑いした。
「舐めんなよ大将。俺だって医者の端くれさ。命が助かるに越したことはない」
「ふーん、そうかい。ところで、この手術代は誰が払ってくれるんだろうな。元をたどれば、お前の不注意だよな」
「な! いや、お前。俺だってお前の手術をーー」
「ちゃんと俺はコーヒー代を払ったぜ。お前がそういったんだ。それで相殺はなしだ」
数秒考えた後、新庄はガクッと肩を落とした。
でも、その顔は笑っている。
「まったく。地獄に落ちるぜ、ブラックファック」
「ああ。そのときは、お前も一緒かもな」
ブラック・ジャック
第177話「死への一時間」より