ブラック・ファック   作:ケツマン=コレット

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求めた理由

 堅牢な車体の外から、くぐもったサイレンの音が聞こえる。

 様々な医療器具が揺れる救急車の中では、これから起こる事態に備え、救命救急士の石井が静かに心を落ち着かせていた。

 しかし、何度やってもなれないものだ。

 現場というのは、着くまでどうなっているか分からない。

 パニックになった肉親に群がる野次馬。それらが、貴重な患者の時間を奪うことは、決してまれではない。

 気づくと、隣で座る新人が小刻みに震えているのが分かった。

「落ち着け」

 石井がそういうと、新人がこちらに顔を向ける。「そんな調子じゃ、いざって時にパニくるぞ。着いたら慌てずに、一つずつ、覚えてきたことをすればいい。困ったら俺に指示を仰げ」

「は、はい」

 新人の体から、少しだけ力が抜ける。

 正直、石井も不安だった。だが、ここで先輩である自分が自信のない表情を見せれば、新人の不安を煽ることとなる。

 どんな状況だろうと、常に冷静でいる。この職業で上に立つ人間の絶対条件だ。

「患者は12歳の男」

石井は現場の情報を、再度確認させる。「自転車で走行中に、電柱にぶつかって転倒、頭部からの出血だ。分かってるな」

「はい」

「俺はすぐに患者のところに行く、お前は担架を。頭部以外の外傷の有無を確認し、心停止していれば心臓マッサージにAED。特に問題がなければ、すぐに乗せて治療だ」

「はい」

 新人がそう返事をしたときには、顔からは強張りが消えていた。

 ちょうどそのとき、救急車が止まる。

「よし」

 石井は新人の肩を叩いた。「行くぞ」

 後部のハッチが上に開き、救命道具をもって地面に降りた。

 案の定、患者の周りに群がる野次馬。必死に無意味な写真を撮ろうとする様も、もう見飽きた。

「どいてください!」

 石井がそう叫ぶと、野次馬は左右に分かれ、道を作った。

 その中には、道端に倒れている患者らしき少年と、数人の大人がそれに寄り添うように立ったり、膝を突いたりしている。

 そこに向かうさなか、石井はそっと眉をひそめる。

 患者の頭に包帯が巻かれていた。

 誰かが治療をしたのか。

「失礼します」

 すぐに患者の容体を確認した。

 伝えられていた頭部の出血は包帯によって止まっているようだ。他は胸部に骨折と、腕に怪我がいくつか。心臓はちゃんと動いている。

「この子の治療をおこなった方は?」

 新人が担架を持ってきたのを確認しながら、患者の周りにいた人達に聞いた。

「それが、名前もいわず、どこかにいってしまって」

 と一人の男性が答える。

 どこかへいった?用事でもあったのか。

「この事故を見た方は?」

 男女が二人、手を上げた。「どちらかでよろしいので、同乗をお願いできますか」

 女性の方がそれに応じ、患者を担架に乗せて救急車に運んだ。

 救急車が走り出してすぐ、石井は耳を疑った。

「心停止?」

 女性は頷く。

「はい、心臓が止まってるっていってました。その子を治療した……たぶん医者の方が」

 だが、さっき確認したときにはちゃんと動いていた。一度、止まった心臓というものは、中々再鼓動することはない。

「AEDを使っていたのですか」

「ええ……たぶん」

 女性は自信なさげに答えた。

「たぶん?」

「はい。その医者の方が使っていたと思います。その人が体を触ったとき、なんかすごいショックがあったんで」

「ショックとは」

「その子の体が、一瞬浮いたんです。こう、ビクって」

 石井は呆然と女性の顔を見た。AEDにそんな力はない。

「えっと……その人の手元にAEDが?」

「それは、見たような……見てないような」

「体に何かを張ったりは」

 女性はゆっくりと首を横に振る。

「いえ」

 何がなんだか分からず、言葉を探していると、

「石井さん」

 と新人が呼んだ。

「どうした」

「これ、見てくださいよ」

 新人はそうやって、患者のシャツをめくり上げ、体を見せる。「こことここに、痕が」

 新人のさした左胸部の上と、右わき腹を見ると、軽いやけどのような痕が見えた。

 それはAED特有のものだった。だが、

「何だこれは」

 石井は思わず、そう声を漏らした。

 AEDの痕なら、湿布のような四角い形であとが残る。しかし、そこにあったのは5つの点。

 弧を描き等間隔に並んだ四つと、その少し下に一つ。

 ちょうど、指先を立てて当てたような、そんな痕が残っている。

「石井さん……これ、なんでしょうね」

「……分からない」

 石井はそう答えるも、二つだけ分かることがあった。

 たぶん、そいつは医者だ。そして、確実に人間ではない。

 

 

 夕暮れ時、遠野は近くのスーパーから買い物を終え、住居である野獣邸に帰っていた。

 左右のビニール袋の内、右の中には、大量のポンッカレーが入っている。毎週金曜日はこれでないと、田所は機嫌を損ねるのだ。

「そんな偏食だから、体がうんこ臭いんですよ」

 と一人つぶやきながら歩いていると、野獣邸が目に入ったとき、ぎょっとして足を止める。

 野獣邸のドアに上がるための階段前。インターホンと小さな門がある場所に、短髪でメガネをした、タキシード姿の男がアタッシュケースを持ち立っていた。

 その男は一瞬マネキンかと思うほどに、直立不動だった。

 治療の依頼をしに来た人間には見えず、自分の知らない田所の知り合いかと思い、そっと近づいていていくと、まるでフクロウのように無表情のまま、首だけを回転させて顔をこちらに向けた。

「あ、ど、どうも」

 その動きに、さらに遠野は動揺する。「先輩のお友達ですか」

 そう聞くと、不自然な間のあと、ニッとぎこちない笑顔を作って、男は答えた。

「タカダ、キミヒコダヨ」

 

 

「誰だ、この人は」

 田所は帰ってすぐ、リビングの椅子に座る謎の男のことを遠野に聞いた。

「え、先輩のお友達じゃないんですか。高田公彦さんですよ」

 その遠野と一緒に椅子に座っている高田は、背筋をこれでもかとピンと伸ばしている。

「知らん、見たことがない」

「ハジメマシテ。タカダ、キミヒコダヨ」

 高田は場違いなタイミングで、棒読みの自己紹介をした。

 なんなんだ、こいつは。

「帰ってくれ」

 田所がそういうと、遠野が立ち上がる。

「ちょっと先輩、それは失礼じゃないですか」

「勝手に家にあがっといて、お邪魔してますの一言もないこいつが一番失礼だ」

「そうですけど……ほら、海外の方かも知れないじゃないですか。とりあえず、目的を聞きましょうよ」

「お前が聞いてないのか」

「それが、聞いても何も話さなくて。たぶん、先輩に直接いいたいんですよ」

 フンと田所は鼻を鳴らした。

 意味が分からん。

 田所はずいっと顔を高田の前に出す。

「で、あなたの目的はなんですか」

 高田はすぐには答えなかった。しんとした間のあと、高田は眉一つ動かすことなく、口を開く。

「アナタハ、ナゼ、イシャヲ、シテイルノデスカ」

 ポカンとした間のあと、田所は二度頷く。

「なるほどな。帰ってくれ、頭の病気は取り扱ってない」

「先輩、言い過ぎですって」

「エ、ヤダヨソンナノ」

 高田がそういうと、あまりにも礼を欠いたその言葉に、田所はいいかげんカチンときた。

「いいから帰れ!これ以上いると警察を呼ぶぞ!」

 また、妙な間が挟まる。この高田という男は、非常に会話のレスポンスが悪い。

「ワカッタ、キョウハキゲンガ、ワルイヨウデスネ。アシタ、マタキキマス」

「お前の顔をみると機嫌が悪くなるんだ」

「ソレハ、ジョークデスネ。ヒジョウニ、オモシロイデス」

 田所がぐっと拳を握ると、遠野が肩に手を置いてなだめる。

「デハ、シツレイ」

 高田は直線的な動きで、床に置いていたアタッシュケースを取り、椅子から立ち上がり、玄関へ向かう途中、足を止めた。「アナタ、ヒジョウニ、オブツノニオイガシマス。キヲツケタホウガ、イイヨ」

 そういい、また歩き出した。

 田所は何度も小さく頷いた。

「なるほど、オブツ、汚物ね、うんこということか、うんこ臭いといいたいのか」

 そういうと、突然自分の座っている椅子を両手に持ち、立ち上がった。「この野郎!ぶっ殺してやる!」

「先輩!」

 その田所を、遠野は羽交い絞めにして止めた。「落ち着いてください!」

「離せ、あいつだけは殺す!」

「マタキマス」

 と玄関のほうから声が聞こえると、田所は大声で叫び返した。

「二度と顔を見せるな!」

 

 

翌朝。

「先輩、先輩」

 田所が朝食を食べているとき、遠野が窓の外に立って手招きしてそういった。

「どうした」

 トースターをかじりながらそこまで歩くと、遠野は窓の外を指差す。

「ほら、あそこ」

 その先には、玄関のインターホンを背にして立つ、高田の姿があった。

「あの野郎」

 田所は怒りに歯を食いしばる。「どれだけ俺をおちょくれば気が済むんだ」

「いや先輩、先に話を聞いてください。実はあの高田さん、昨日の夜からずっとあそこにいたみたいなんです」

「え?」

 田所は眉を寄せて遠野の顔を見た。「一晩中あそこにいたのか」

「はい。昨日、寝る前に窓の外を見たときも、あそこにいたんです」

「何でそれを俺にいわなかった」

「絶対に面倒を起こすでしょう。それに、時間が経てば帰ると思ったんですよ」

 むう、と唸ったあと、田所はじっと高田を見る。

 その背中姿は微動だにせず、まるで人形だ。一日中立っていたとは到底、思えない。

「やっぱり、何かの病気なんじゃないですか」

 遠野がそういうと、田所は興味なさそうに「さあな」と答え、椅子に戻った。

「先輩、どうしますかあの人」

「立ってるのが趣味なんだろう、だったら立たせておけばいい」

「先輩」

 何かを求めるように遠野は呼んだが、田所は鼻を鳴らして返した。

「あんな奴を相手してる暇はない。どうせすぐにどこかへ行くだろう」

 そういって、田所はトーストをかじった。

 

 

 その夜。

「どこへ行くんですか」

 田所が着替えて玄関に向かう途中、遠野が聞いてきた。

「ちょっと用事」

 本当はソープへ行くつもりなのだが、遠野もそれが分かっているのか、

「早めに帰ってきてくださいよ」

 と詳しくは聞かなかった。

 鼻歌交じりに玄関をあけ、階段を数歩下りたところで、田所の眉間に皺がより足が止まった。

 まだ、高田がそこに立っていた。

 時刻は午後10時、朝から今までずっと立っていたということになる。

 しかし、その背中姿は早朝のものと変わりなく、揺れ一つない。

 普通ではないことは分かっていた。だが、ここまでとは考えていなかった。

 こいつのせいで足を止めるのもバカらしいと思い、階段をくだり、門を開けると高田の顔がこちらに向いた。

「ア、センセイ。チョット、キキタイコトガ、アリマス」

 田所は無視し、歩いていく。

「センセイ」

 後ろから声がしたが、田所は振り向かなかった。

 そのままどんどんと歩を進め、野獣邸から離れていったが、後ろからついてくる気配はない。

 不意に足を止めて振り返ると、高田は何事もなかったかのように、またインターホンの前でお得意の直立不動をしている。

 田所は深いため息を一つ落とし、周りをきょろきょろと見た。

 このままじゃ、ずっとあそこに居座られそうだ。変な噂を立てられたらたまらん。

 舌打ちを一つ鳴らし、そのまま高田に近づいていく。

「おい」

 呼ぶと、高田は首だけをこちらに向けた。

「センセイ、シツモンヲ――」

「分かった。分かったからさっさと質問をして、消えてくれ」

 高田はちょうど45度、首を傾げさせた。

「キョウモ、キゲンガワルイノデスカ」

 また、自然に舌打ちがなる。

「いいから、さっさと質問をしろ」

「ワカリマシタ。ブラック・ファック、アナタハ、ナゼ、イシャヲシテイル、ノデスカ」

「命を救うためだ」

「デスガ、ヒトハイズレ、シニマス。ソノコウイニ、イミハ、アルノ」

「そんなことはどうでもいい。死にかけている人間がいるなら、俺は助ける。ただそれだけだ」

「イミガ、ワカリマセン。ソノコウイヲ、クリカエシタ、サキニ、ナニガアルノデスカ」

「さあ、そんなこと考えたことがないね」

「ボクハ、ズット、カンガエテマス」

 田所はじっと高田の顔を見る。

「なんだ、お前も医者か」

「イシャ、デハアリマセン。ゲンミツニ、イウト、イリョウキグデス」

「はあ?」

「ボクノ、ホンライノ、ナマエハ、ONANII-4545、ガッシュウコクガ、ツクッタ、ゼンジドウ、シュジュツロボット、デス」

田所は目を見開いた。

 合衆国?ロボット?

「お前、本気でいっているのか」

 半信半疑に、田所は聞いた。

 普通なら嘘だと決めつけるところだが、一日中、家の前に立っていたところを見るに、もしかしたら、という思いが湧く。

「ハイ、コレヲ、ミテクダサイ」

 高田は右手を開くと、全ての指先が開き、そこからメスやハサミが出てきた。

 田所は息をのみ、その様を見ていた。

 こいつは……本当にロボットだ。

「クチカラワ、コガタカメラモ、ダセマスシ、ユビサキカラ、デンキショックモ、デマス。ワカッテ、モラエタカ」

「あ、ああ」

 あまりにも予想外の出来事に、困惑しながらも田所は答えた。

 ありえない。しかし、目の前で起きたことを見るに、信じるしかない。

「だが、なんでそんな機械が俺のところに」

「ボクハ、ガッシュウコクノ、チカニ、ホカンサレテイマシタ。トキニ、ソトニデテハ、ヒトヲチリョウシテ、マタ、モドサレル、ソノ、クリカエシ。ボクハ、ギモンヲ、モチマシタ。ナゼ、ボクハ、ヒトヲ、チリョウシナクテハナラナイ」

「機械も疑問を持つんだな」

 嫌味ではなく、率直な感想だ。

「ボクニハ、コウドナ、AIガ、ソナワッテイマス。AIハ、ギモンヲミツケテハ、コタエヲ、サガシマス」

「それで、そこを抜け出して、俺のところに来たというわけか」

「ハイ。デスガ、キイテモ、マダ、ワカリマセンデシタ。センセイハ、ズット、イシャヲ、シテイマス。キケバ、コタエガ、ワカルカト、オモッテイタ」

「当たり前だ。人さまから聞いて、分かるもんじゃない」

「デハ、ドウスレバ」

「治療しろ。治して治して、人を助けまくれ。そうすれば、いずれ分かるんじゃないか」

「キカイニ、イズレ、ハアリマセン。イチドデ、スベテヲ、リカイシ、キオクスル」

「それでも繰り返していれば、分かることだってある。例え機械でもな」

「ソウイウ、モノデスカ」

「そうだよ。ところで、なんでお前さんは機械のくせして片言なんだ」

 そんな高度な機械なら、多くの言語を扱え、すべて流ちょうにいえるはずだ。

 患者の対象が日本人になることぐらい、製作者も想像しているはず。

 さらに言えば、外見も日本人だ。白人でも黒人でもなく、勤勉なイメージのある日本人にしたというのは、分からなくもないが、それなら片言なのがなおのこと気になる。

「ボクハ、200ノゲンゴヲ、アツカエ、スベテ、イワカンナク、ハナセマスガ、ニホンゴダケハ、ハカセガ、センモンカヲツカワズニ、ミズカラ、インプットヲ、オコナイマシタ。ハカセハ、ヒジョウニ、ニホンカブレノ、カタデシタ」

「なるほど」

 田所は苦笑した。

 相当、自分の日本知識に自信があったのだろう。

「ハイ。ニンジャ、サムライ、ブルースリー、スシト、ヨクイッテイマシタ」

「お前も大変だな」

「イエ」

「それで、俺への質問は終わったわけだが、これからどうするんだ」

「マタ、コタエヲサガシマス。ベツノクニヘ、イキマス」

「すぐに出るのか」

「イエ。ヒコウキデ、フツガゴニ」

「その間、どこに居るつもりだ」

「ボクハ、キュウケイヲ、ヒツヨウト、シマセン。イエハ、ヒツヨウナイ」

「お前みたいなのが、直立不動でそこら辺に居たら、周りの人間が怖がるぞ」

「デハ、ロジデ、ジットシテイマス」

「なおのこと恐ろしい……ならほら」

 田所は野獣邸を親指で指した。「使えばいい。無駄に広いから、お前みたいなのが二日ぐらい、どうということはない」

 高田は首を野獣邸に向けた後、田所に向き直り、

「アリガトウ、ゴザイマス」

 と腰を直角に曲げた。「デスガ、キモチダケ、ウケトッテオキマス」

「ん、なんだ、なにか問題でもあるのか」

「ハイ」

 高田は顔を上げる。「ボクハ、ガッシュウコクニ、ネラワレテイマス。スグニ、ボクヲ、ハカイスルタメノ、ニンゲンガ、ヤッテクル。イエニイルト、メイワクガ、カカリマス」

 田所は言葉を失うと「そ、そうか」とばつの悪そうに答えた。

 それもそうだ。こんな高等技術の塊が逃げたとなれば、すぐに全力で捕獲を図るはずだ。

 機密技術の漏えいを防ぐために、強引に破壊してくるということもありうる。近くにいることは非常に危険だ。

「アンシン、シテクダサイ。ボクハ、ツチノナカデモ――」

 そのとき、高田は突然、話すのを止めて、田所とは真逆の方角に顔を向けた。

「なんだ、どうした」

 もしや、その追っ手がきたのかと思い、田所が聞くと、

「イエ」

 高田は田所に向き直る。「トオクデ、ジコガ、オコリマシタ。ヒトリノカタガ、フショウシテイル、ヨウデス」

「事故?」

 そんな音は全くしなかった。「ケガをした人数まで分かるのか」

「ハイ。スグニ、ムカイマス」

 そういって、高田は田所が行く道とは反対方向に走り出した。

 それを見た田所は「おい!」とすでにかなり遠くにいる高田を呼んだ。

 高田が振り返るのを見て、田所はいう。

「お前は自分が医療器具だといったな。違う、お前は医者だ」

 遠くで高田が首をかしげるのが見えた。

「プログラムだろうがなんだろうが、患者を助けに駆けつけるやつは、みんな立派な医者だ。もう自分のことを医者じゃないなんていうな。分かったか」

 数秒の間の後、高田が頷く。

「たのんだぞ」

 また、高田は頷いて、すぐに走っていった。

 その姿を見送った田所は、振り返ると鼻唄交じりで歩き出した。

 

 

 事故現場には破壊されたスクーターの破片が散っており、すでに野次馬が数人、シャッターのしまった店のそばで倒れる血まみれの男をかこっていた。

「シツレイ」

 その間をするりと抜けて、患者に近づく。

 意識はあり出血も少ないが、外傷が激しい。

 すぐに頭を触り、ソナーで中の状況を確認する。

 強い衝撃を受けたのか、硬膜下出血が起きている。今すぐ治療が必要だった。

「あんた、誰だ」

 ツナギ姿の男が隣でいった。どうやら事故の相手らしい。

「ボクハ――」

 その瞬間、高田は思考した。

 田所は自分のことを医者だといった。しかし、医者は人間にしかなれない。機械である自分は、完璧な手術をこなすだけの医療器具だ。

 ここに駆け付けたのも、プログラムでそうインプットされているだけだ。人間が他人を助けようと思う時に巡らせる思考とは、大きくかけ離れている。

 いくら計算しても、どう解釈しても、自分は医療器具だった。だが

「……イシャデス」

 そう答えていた。「ハナレテイテ、クダサイ」

「ああ、ありがとうございます」

 男が離れたのを確認すると、周りに見られないよう指先から医療器具の先端だけを出して、治療を開始した。

 どうして医者と答えたのか、自分でも分からなかった。

 ただ、なぜ人は、自分は人を治療するのか、その理由が少しだけ分かった気がした。

 

 

 田所は風俗街を練り歩きながら、どの店に行くかと迷っていた。

「たまにはソープ以外もいいかもなぁ」

「アノォ」

 後ろから声をかけられ振り返ると、サングラスをした少しやせ気味の黒人が立っていた。「チョト、キキタイコト、アリマス」

「なにか」

「コノヘンデ、ジコ、ナカタデスカ」

「事故?」

 変な質問に、田所は思わず声を上げた。「いやぁ……知らないな」

「ソデスカ。アリガトゴザイマス」

 と黒人は頭を下げて田所から離れた。

 田所は不思議そうに前に向き直り、また歩き出した。

 なんで事故なんか聞くんだ。

 そう思い、むっと眉を寄せた。

 忘れてた。そういえば……高田は事故の現場に――

「ホントデスカ!」

 後ろから先ほどの黒人の大声が聞こえ、足を止めて振り向くと、女二人にペコペコと頭を下げていた。「アッチデスネ。アリガトゴザイマス!アリガトゴザイマス!」

 そのとき、田所は見逃さなかった。

 その礼の音量にちょっと引きながらも、笑ってその場から離れる女二人に手を振ったあと、不気味に微笑む黒人の笑みを。

 なんだ、いまの笑みは。

 黒人が近くの路地に入ると、田所は自然とそれを足早に追っていた。

 路地に入った瞬間、目に入ったのは誰もいない一本の細い道だ。

 あいつ、どこに行った。すぐにこの細い道を駆け抜けたのか。

 不意に上から音がし、顔をあげると屋上に靴のかかとがかすかに見え、すぐに消えた。

 どういうことだ。上がったのか、このビルの間を。

 田所は頭から血の気が引くのを感じた。ビルには一応、窓や取り付けられた排水管はあるが、あの速度で上がるのは人間では不可能だ。

 だとすれば、あいつは人間じゃない。そして、狙っているのは――

「クソ!」

 田所はすぐに走り出し、遠野へと電話をかける。

 ――はい、もしも――

「いますぐ車を出してくれ!」

 田所は全力で走りながら叫んだ。「高田が危ない!」

 

 

 完璧だった。

 現状、自分ができる最大の治療を行っていた。

 患者のバイタルも正常。残すは頭部の縫合のみ、あと数分で治療は終わる。

 だが、高田は気づいていた。

 その遠距離の事故の患者数すら把握できる聴覚は、広範囲の人間、一人一人の足音を聞き、判別することができた。手術モードに入ると、そちらにメモリをさくため範囲は狭まるが、それでも突然の妨害を防ぐため、半径10メートルの人間は把握できる様になっている。

 その中で、一つの異質な音。

 明らかに人間の関節の音ではない。機械、それも戦闘用だ。ゆっくりと、近づいてきている。

 今すぐ逃げるべきだった。しかし、高田は離れなかった。

 高田のAIは原則として、治療が終わっていない状態で離れることを許されていない。

 縫合をおえるころには、相手の足音は野次馬の中に紛れてしまった。

 高田は静かに後ろを向き、自分を取り囲む群衆を見た。

 この中にいるのは分かる。しかし、高田のことを意識しているのか、音がしないうえ野次馬にうまく紛れているようで、誰だかわからない。

 ともかく、高田はおろおろしながら立っているツナギの男に「終わりました」と告げて、立ち上がった。

 男からの大丈夫なのか、生きてるのかといった質問に、機械的に答えながらも、高田は群衆に目を凝らす。

 相手が確実に持っていると思われるのは、注射器ほどの大きさをしたスタンガンだ。

 サイボーグ等を即座に無力化するために使われる強力なもので、全てが機械で作られた高田が食らえば、完全に動けなくなってしまう。

 さいわい相手も人が注目している場所では使ってこないだろう。全ては合衆国、最高機密の技術だからだ。それを漏らすようなことは極力、避けてくる。

 だが、じきにここから人もいなくなる。すぐに移動しなくてはならない。

 高田のAIは医療用だ。こういった状況を打開するために作られてはいないし、戦闘も不可能だ。

 いまの状況では、逃げるのは確実に不可能だ。そう、いまのままでは。

 そう思ったとき、救急車がサイレンの音と共にやってきた。

 やっとか。

「どいてください!」

 野次馬をかき分けてきた救命救急士と目が合う。「あ……あなたは」

 その救命士の目には、どこか戸惑いと驚きを感じられた。

「カレノ、チリョウヲ、シマシタ。イシャデス。ドウジョウシマス」

「ああ、はい」

 患者は担架に運ばれて、高田が一緒に乗ると救急車は走り出した。

 

 

 

 タキシード姿の男はじっと窓の外を見ていた。

 まるで別のことを考えているようだが、石井の質問に対しては的確に答えを返してくる。

 患者を診ている新人も、男を横目でチラチラと見る。

 普通なら注意するところだが、患者の応急処置は見たところ完璧だし、昨日の少年を助けたであろうこの男を、見ずにいろという方が難しい。

 その石井の探るような目に、男は気づいたのか「ナニカ」と聞いてくる。

 聞くかどうか迷った。しかし、次のときには、自然と口に出していた。

「あなたは、もしかして昨日の朝に起きた事故で、少年を助けた人じゃないですか」

 新人が横目で食い入るように、こちらを見ているのが分かる。

 男は一瞬の間の後、目をそらし「イエ」と答えた。

 だが、石井にはわかった。

 こいつだ。

 人間としての、医者としての勘が、確実にこの男だといっていた。

「ソレヨリ、ボクハ、ヨウジガアリマス」

 高田は後ろを振り返っていった。「オリマス。ミナサン、ツカマッテイテ、クダサイ」

 救急車のドアを横にスライドさせると、すさまじい風が中に吹き荒れた。

 石井も新人も、突然の行動に言葉を失う。

「おい!なにをしているんだ!」

 運転手が叫んだ。

「スイマセン、スグニ、オリマス」

 男は平然とそう答え、そのまま外に飛び出そうとしたとき、

「ちょっとまってくれよ!」

 と石井は膝をつきながら叫んだ。

「一つ……一つ聞かせてくれ」

 石井は風の音に消されないよう、声を張っていった。「あんた、なにもんだ」

 男は肩越しに後ろを向くと、石井の目をじっと見つめる。

「アナタト、オナジデス」

「え?」

 そう返すと、男はニッとぎこちない笑顔を作った。

「イシャデス」

 そう答え、外へと飛び出していった。

 風が吹き、男のいなくなったドアを見ながら、石井はぼそりとつぶやいた。

「ああ……だろうな」

 

 

 クラウドは合衆国に所属するサイボーグ兵だ。

 黒人にしては細いその体には高密度の筋肉と、下半身には人工皮膚の下に凄まじい馬力をだす義足という名の兵器が隠されてある。

高さ10メートルの跳躍、100メートル4秒の走りを2時間維持が可能で、その蹴りに耐えれる人体はない。

 移動はビルの上を移動することで、人目につくことはなく、先に高田が来るであろう下北沢病院へとついた。

 病院の屋上で、クラウドは救急車が来るのを静かに待っていた。

 遠くから聞こえるサイレンの音、それを耳にした時、サングラスのふちにあるスイッチを押す。

 特殊な可視光線の視認を可能にするそれは、周りの景色を大きく変えた。全ての壁は透け、中の人間を映し出す。

 それを救急車に向けた。

 人間が三人、高田らしき人影はない。

 クラウドの眉にぐっと力が入る。

 逃げたのか。だが、患者を運搬中の救急車を、途中で停車させたとは考えられない。よほどのことがない限り、運転手は車を止めないはずだ。

 途中で無理やり下車したとすれば、医療用ロボットの高田の損傷は軽いものではない。

 クラウドは頬にかすかな笑みが浮かべると、すぐさま別のビルへと飛び移り、その場を離れる。

 そう遠くへはいけない。救急車の順路をたどれば、すぐに見つかるはずだ。

 サングラスは一度、透過機能を起動させると、30分使用後には充電に入り一日の間、使用ができなくなる。

 制限時間は30分。それでも見つける自信は大いにあった。

 それにはONANII-4545だけをとらえ、強調させる機能があったから。壁越しでも透過範囲である20メートル内に入れば、それで見つけられる。

 ピピピ、ピピピ。

 サングラスから警告音と共に、視界に赤く強調された人型が見えた。

 そこに目を凝らした時、クラウドはフンと鼻を鳴らす。

 高田はもっと人の多い場所に隠れると思っていた。しかし、いたのは人通りの少ない河川敷。

 ここにいるということは、極力人間たちに迷惑をかけないためか、もしくはなにか考えあってのことだろう。

「医療用ロボットに、なにができる」

 クラウドは英語でそうつぶやいた。

 近くまで来ると、見られないように路地に降り立ち、そこからは徒歩で近づいていく。

 その聴力によってこちらが近づいていることは把握しているはずだが、高田は河川敷に立ち、特に動く様子はなかった。

 街頭によってうっすらと照らされた河川敷を見ると、くるぶしの少し上ほどに伸びている草が生い茂る場所で、高田は川をじっと見ていた。

「もう逃げないのか」

 英語でそう聞くと、高田は首だけをこちらに向け、また川に戻しながら答える。

「まあな」

「諦めのいい奴は好きだぜ」

 クラウドは近づきながらいった。「締まりのいいケツの次にな」

「それはよかった」

 クラウドがあと数歩進めば触れられる距離に立つと、高田はクラウドに体を向けた。

 顔の半分が完全につぶれていた。体のところどころも服が破け、人工皮膚がはがれ金属が露出している。

「さあ、どうする」

 高田は両手を前に出した。「拘束するか。それとも、スタンガンを撃つか」

「ハハ。まあ抵抗しないってなら拘束でもよかったが、ここまで逃げられといてそれだけっていうのは」

 クラウドは右ポケットからスタンガンを取り出した。「ないよな」

「そうか」

「じゃあな。俺が患者になった時は、よろしく頼む。まあ、いまのお前は初期化されるだろうけ――」

 高田の腕にスタンガンを突き刺そうと、足を一歩踏み出した刹那、高田の指から閃光が走り、右の目じりに衝撃を受けた。

「うお!」

 突然のことに目を閉じて、体をのけぞらせた。

 クソ、電気ショックか。

 目を開くとサングラスはひび割れ、壊れたのか透過機能はなくなっていた。

「クソ!」

 右手でサングラスを取り、顔を上げるとこちらに背中を向ける高田が見えた。

 目的は透過能力のあるサングラス。それを無力化した後、隠れる気だ。

「逃がすか!」

 すぐに追うため走り出そうとしたとき、なにかに足を取られその場に倒れる。

 見ると高田が作ったのであろう、草で作られた大量の輪があった。

 古典的な。

 舌打ちと共に前を向くと、クラウドは鼻で笑った。

 逃げようとする高田。しかし、動きはぎこちなく右足を引きずっている。

「バカが!」

 足で草の輪を引抜きながら立ち上がると、凄まじい速さで高田に近づき、右足を振った。

 風を切る轟音と共に、高田の膝から下が砕け散り、その場に突っ伏す形で倒れる。

「ハン、自分の損傷度を計算に入れてなかったな」

 クラウドはそういったが、高田は茂みに体を沈めたまま何も答えない。

「まあ、医療用AIにしてはよくできていたよ」

 高田の背中を踏みつけ、力を入れるとメキメキと音が鳴る。「詰めは大いに甘かったがな」

 それでも、無言のままだ。

「別に連れて帰らなくてもいいんだ。お前を破壊して、メインメモリだけを引抜けばそれで済むんだからな」

 やはり、なにもいわない高田に、クラウドは眉を寄せた。

 壊れたか。いや、体を部分的に破壊しただけだ。この損傷で壊れることはあり得ない。

「どうした」

 クラウドは高田の短い髪を引っ張り、顔を上げさせた。「なぜ黙って――」

 瞬間、クラウドは息を呑む。

 高田の口から細長い一本の管。胃や腸内を見るための、小型カメラのチューブが伸びていたからだ。

「お前、なにを――うっ!」

 突然、急に体から力が抜け、クラウドはその場に倒れた。

 地面に手を突き、体を起こそうとするも足に力が入らない。

「クソ!なんだ、なにしやがった!」

 足を見ると、右の太ももに刺さったスタンガンと、それに巻き付く小型カメラが見えた。

「この野郎」

 高田が何も答えなかったのはこのためか。いつの間にか落としたスタンガンを、小型カメラで拾うために。

 最新鋭の兵器もこうなっては鉄の塊だ。その重さでうまく動けずにいると、ずるずると川の方へ体を引きずる高田が見えた。

「なんの真似だ!」

 高田は川の目の前で止まると、ゆっくりと首だけをクラウドに向けた。

「私は医者だ。患者の元へ行く……お前らの所へは帰らない」

 そういって川に入ると、高田は川下へと流れていった。

 その様子を静かに見ていたクラウドは、高田が見えなくなった直後、鼻で笑った。

「別にいいさ、お前が川の底に沈んでくれれば、俺のミッションは終わりだ」

 クラウドは携帯を取り出すと、電話をかけた。

「もしもし、ONANII-4545の破壊を完了した……いや、川に自分から沈んでいったよ。後で秘密裏に回収してくれ。それより動けないんだ、すぐに迎えをよこしてくれ」

 

 

 高田には高い防水機能があった。だが、破損している場所からゆっくりと水が中へと侵食していた。いずれ機能が停止するのも時間の問題だった。

 体から浮力がなくなっていき、ついには顔までつかろうとしたとき、高田は目を閉じた。

 もう……もうあそこに居るのはこりごりだ。たまに駆り出されては、金持ちたちの相手だけをさせられる毎日は。

 博士はそんなことのために、私を作ったのではない。多くの人々を救うために作ったのだ。

 頼む、流れてくれ。川の果てまで、海のかなたまで。あそこに帰らされ、本来の目的をはたせないままの日々を過ごすぐらいなら、誰もいない水の底で眠らせてくれ。

 そう願うと、高田の頭は川に呑み込まれ、静かに体が沈んでいく。

 機能の完全停止まで、おおよそ5分と計算した。

 ここで沈めば、のちに合衆国へ回収されて、記憶の初期化をされたのちまた金持ちどもの相手をさせられるのだろう。

 全力は尽くした。それがこの結果なのだから、仕方がないのだろう。

 だが、一つだけ心残りがあった。

 医者が人を治す、分かりかけたその意味。その答えが出なかったこと。

 それを悔いていると、高田の嗅覚に異変が生じた。

 臭気。下水に来たのか。いや、この川はそんなところにはつながってはいない。

 そのとき、なにかに体が引っ張られ、上へと引き上げられ、そして、

「ぶはぁ!」

 その誰かの声とともに、水面に引き出された。

 目を開き、顔を後ろに向けると、必死に土手に伸びるロープをつかむ田所と、そのロープを引っ張る遠野が見えた。

「セ……ンセイ」

 ロープによって土手に引っ張られ、川に引き上げられると、田所はその隣で手を突いた。

「さすがに……こいつは重い」

「大丈夫ですか」

 遠野がすぐに二人の元へと駆け寄る。

「大丈夫じゃない」

 田所はずぶ濡れの服をそのままに、立ち上がった。「すぐに運ぶぞ」

 遠野は頷くと、高田を背負い、止めてある黒塗りのセンチュリーに歩き出した。

「センセイ」

 高田は遠野の後ろからついてくる田所にいった。「ボクハ……モウ、シュウゼン、フカノウデス……ドコカニ、ハイキ――」

「ふざけるなよ」

 田所は高田の言葉を遮った。「俺は医者だ。死にかけてるやつを見過ごせない」

「ボクハ、キカイ――」

「関係ない……治すぞ」

 その言葉を聞いたとき、高田は分かった。

 そうか、これが医者か。

「センセイ……オネガイ……シマ……」

 その言葉を最後に、高田は機能を停止させた。

 

 

 高田と遠野が乗り込んだのを確認すると、田所はセンチュリーを野獣邸へと走らせ、その間、遠野には優秀な修理工であるケンへと電話をさせる。

 すぐに野獣邸につくと、二人がかりで中の地下の手術室へと運んだ。

「先輩、高田さん、返事をしませんよ、これで治るんですか」

「治る」

 田所は断言する。「大丈夫だ」

 機械が水で壊れる原因は、ほとんどのばあい漏電によるものだ。つまり電気が通ってさえいなければ、そうそう壊れることはない。

 つまり、重要な場所に水が浸入する前に高田は電源を落とした、そう田所は予測した。

 それに、高田は最後にいったのだ。自分に対し、お願いしますと。

「スパナやらドライバーやら、何でもいいから持ってきてくれ」

 田所はいった。「あとドライヤーも。とにかく中を乾かすぞ」

 遠野が走ると、田所は動かない高田に訴えるようにいう。

「高田、お前は立派な医者だよ。こんなところで死ぬべきじゃない、お前のことを待ってる人間が、救える人間がたくさんいるんだ」

「先輩!」

 遠野が両手いっぱいに荷物をもってくると、床に置いた。

 それらは精密機械を前にするには、あまりにも頼りない工具だった。だが、田所はそれを手に取った。

 お前ならきっとわかる、医者が人を治す意味を。だから、こんなところでは終わらせない。

「俺は絶対にお前を治すぞ、高田」

 

 

 数か月前、ジャングルの奥地にあるトラノアナ村に、一人の医者が突然やってきた。

 その医者は顔に包帯を巻き、足が不自由だった。

 最初、村の皆は彼を不気味に思い、近づかなかった。その風貌もさることながら、こんな村に、わざわざ医者が来るなんて思ってなかったからだ。

 だが、ある村の子供をすくったことを皮切りに、徐々に通う人間が増え、いまでは他の村からも患者が殺到し、毎日長蛇の列を作った。

 一人では到底、無理な量だった。しかし、その医者は決して患者を手を付けずには返さなかった。

 今日も最後の一人を返すころには、外は真っ暗になっていた。

 それを確認すると、一人の少年が小さな病院とは名ばかりの掘っ立て小屋に入っていく。

「先生」

 机に向かって何かを書き込んでいた医者は、顔をこちらに向けた。

「おお、君か」

 医者は肌の色が違ったが、言葉はとても流ちょうだった。「ケガはもう治った」

「うん」

 と頷いて腕を見せる。

 一月前に家の屋上から落下して、骨折した場所だ。

「それはよかった。それで、なにか用事でも」

「先生、聞きたいことがあるんだけど」

「なに」

「先生は毎日、病気の人を見てるけど、なんでお金もあんまりもらえないのに、そんなにいっぱい頑張って、みんなを治してあげるの」

 医者は一瞬の間の後、フフと笑い、ニッとぎこちないながらも、屈託のない笑顔を作っていった。

「人を助けるのに、理由が必要かい?」

 


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