ブラック・ファック   作:ケツマン=コレット

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あの時見た

 子供だ。

 目の前にいる子供が、かじりつくように、古ぼけたテレビを見ている。

 そのモニターに映るのは二人の男。ロープに囲われた四角いリングの中で、ボクサーパンツ姿でグローブをはめ、拳を打ちあっている。

 手前の男が素早い動きでパンチを繰り出し、相手の顔に命中するとガクンと膝を落とした。

 くるりと踵を返し、コーナに戻る男。湧き上がる歓声。コールするレフェリー。立ち上がらんとする相手。そして、それをじっと見る子供。

 あれ、なんだ……これ。これは確か――

 

 

「――おい。おい聞こえんのか、お前よぉ!」

 その声で、達也はハッとして目を覚ました。

 目の前には短い金髪にサングラスをした、セコンドの本田が達也を見下ろしていた。

「おい大丈夫かお前、いま気うしなってたろ」

「ああ……だい、大丈夫」

 ぼんやりとした頭で本田の奥にいる、息を切らし、コーナーに座りながらセコンドから話しかけられている男と、まばらに人が座っているリング外の観客席を見て、達也は徐々にいまの状況を思い出した。

 そうだ、俺はボクシングの試合をしていたんだ。

 相手はJHBC(日本ホモボクシングコミッション)バンタム級10位の男。これに勝てば、入れ替わりで達也が10位となる非常に重要な一戦だ。

 それを理解すると同時に、よみがえる数秒前の記憶。

 ラウンド6、息が上がり、動きが鈍くなったところに、相手のいいパンチを顔に受けてしまい、グラっと視界が揺れた。そこから記憶がない。

 たぶん、倒れると同時にゴングが鳴り、ほとんど意識のない中、本能のみでコーナーまで戻ってきたのだろう。

 もしゴングが鳴っていなかったら、確実に負けていた。

「お前、本当に大丈夫か。もし無理ならレフェリーにいうぞお前」

「いや……まだやれます」

 体の様々なところが痛み、立つのも難しい状況だった。

 だが、今日のために必死で練習をしてきたのだ。こんなところでは終われない。

 レフェリーから指示があり、達也は立ち上がってリングの中央まで歩く。

 相手と向き合い、拳を構えるとゴングが鳴った。

 じっくりと相手を観察しながら、出かたをうかがう。

 相手もかなりダメージをおっているのか、苦しそうな顔から疲労が見える。

 まだ勝機はある。

 そう思い、一歩間合いを詰めた瞬間、相手の左ジャブが飛んできて、頬をかすめた。

 間髪入れず、右ストレートが撃たれるが、体を後ろにそらせ、ギリギリでかわす。

 達也が後ずさり、元の間合いに戻ると、また相手の出かたをうかがう。

 その後、何度か拳を振り合うも、限界の近い二人は相手のパンチを極力、当たらないよう動き、なかなか勝負が決まらなかった。

 らちが明かねぇ。

 そんなことを思っていた時、背中にコーナーポストが当たる感覚があった。

 ヤバイ、いつの間にかコーナーに。

 そのときだ、達也の顔に狙いをすました、鋭い目をした男の顔が見えた。

 くる。避け――いや、先に俺が。

 相手の頭の軌道先めがけ、ストレートを放ったその瞬間――

 ダン。

 顔にすさまじい衝撃を受けると共に、視界が真っ白になった。

 凄まじい耳鳴りの音、それが遠のいていくと、ぼんやりとした視界がゆっくりと鮮明になっていき、いくつかの光を放つライトが見えた。

 それが天井だと分かり、いつのまにか顔を上げながら、両腕をだらんと下に垂らした状態で立っていることに気が付いた。

 不味い、まだ立ってる、攻撃される。

 すぐさま顔を前にして、拳を構えたそのとき、

 カンカンカン。

 ゴングの音と共に目に入ったのは、倒れる相手と腕を振るレフェリーだった。

「あれ」

 勝ったのか……俺は。

 何が起きたのかわからずに、茫然と立っていると、リングに上がってきた本田が達也の腕を肩に乗せた。

「おい聞こえるか!」

 本田の問いに、達也は小さくうなづいた。返事をする気力はなかった。

 コーナーまで運ばれて、椅子に座らされると、本田は達也の顔を触る。

「最後のパンチ。相打ちだったが、こっちもかなりいいのをもらっちまったな。どこか痛むところはないか」

 あのときのパンチが相打ちだと知ると、頭の中心あたりから頭痛がしていることに気が付く。

 その痛みがどんどんと大きくなっていくと、それは目の奥あたりからしているのが分かった。

「目……目が……い、痛い」

 まぶたを強く閉じ、両手で目を抑えた。

 すさまじい痛みが目の奥から湧き出る。

「目か!目が痛むのか!」

 本田がそういうと、達也は必死にうなずいた。

「ヤバイ、救急車を呼んでくれ!」

 その本田の声が聞こえたとき、達也の脳裏に最悪の言葉がよぎった。

 

 

 

 

「眼球への衝撃が原因の、網膜剥離と緑内障だな」

 達也の話を聞くと、机を挟み対面のソファーに座る田所は、すぐにそう答えた。

「まあそうだ」

 達也はそういって、かけているサングラスを指で押し上げた。「左目の視力は0.01以下。視界も狭まって、ところどころが黒く塗りつぶされてるみたいに見えなくなってる」

「それで、わざわざうちに来てもらったところ悪いが、網膜剥離は一応治療が可能だが、治ったとしてもボクシングを続ければ、再発の可能性がある。何より緑内障だ。こっちは進行を遅らせる薬はあっても、完治はない。治すことはできないんだ」

「もちろん、分かってる。網膜剥離で引退したボクサーを何人も知っている」

「ならなぜうちに来た。私は医者だ、就職先の斡旋はしていない」

「俺は目の治療をしてくれとは、一言もいってない」

 田所は一間、逡巡したあと口を開いた。

「どういうことだ」

「目じゃない、俺の体を治療……いや、強化をしてくれ。筋肉の量を増やしてくれればいい」

「何だと」

田所は驚愕して目を見開いた。「私は医者だ、人を治すのが仕事だ。人体改造は請け負っていない」

「なら目を治してくれよ」

 達也がそういうと、田所は困ったように口を閉ざし、右の眉を下げた。

「俺はボクシングが続けられればいいんだ。目は治せないんだろう?だったら、それを補える筋力をくれ。俺をボクシングができる体に治してくれ」

「屁理屈だ、それとこれとは話が別だろう」

「いいや、一緒だね。それにあんた、金を積まれればなんだってする、無免許医師のブラック・ファックだろ」

「勝手に周りがそういっているだけだ。それと、私の名前は田所だ。ブラック・ファックと一度も名乗ったことはない」

「何だっていいさ、金はある。親の遺産だがね」

 達也はそういって両手を広げた。「とにかく俺の体を強くしてくれよ」

「しつこいぞ。それに、そんな手術はしたことがないんだ、どうなるかは分からない。失敗するか、体が異常をきたして死ぬかもしれないんだぞ」

「愚問だね、先生。俺はガキのときからボクシングだけを続けてきた。学歴も、コネもない、ボクシングしかないんだ。こんな目で社会に放りだされても、何処も行く当てがない……結果は目に見えてる、野垂れ死にさ。どっちにしろ死ぬんだ、だったら希望がある方を選択する。先生、あんただってそうするだろ」

 突如、訪れる沈黙。

 その中、達也の目をじっと見ていた田所は、小さなため息を一つ落とし、口を開いた。

「治療……いや、改造費は1919万円だ」

「オーケイ。ありがとう、先生」

「ただし」

 田所は念を押すように、力強くいう。「このことは一切他言しないこと。それと、その体はボクシング以外のことに使うな。それが条件だ」

 一つ目の条件は、きっとこれ以上、同じ手術を行いたくないからだ。だが、達也はいわれなくとも、最初からそのつもりだった。こんなことがバレてしまえば、様々なところから批判を受けるのは目に見えている。

 そして二つ目は、その力を使い、他の競技を荒らさせないための条件だろう。

 それが分かると、達也はフンと鼻を鳴らした。

「先生、二度も言わせないでくれよ。言ったろ、俺にはボクシングしかないって」

 

 

「今日は長丁場になるぞ。気を引き締めろ」

 地下室の手術室で、手術着にマスク姿の田所がそういうと、同じ格好をした遠野は乗り気でない様子で、手術台で眠っている達也を見た。

「先輩、いいんですか、こんなこと引き受けて」

「仕方がないだろう、引き受けなきゃ死ぬ勢いだったんだ。少なくとも熱意は本物だ」

「だからって、こんな不正、僕は許せませんよ。真面目にトレーニングしている人たちに失礼です」

 遠野の意見はごもっともだ。

「確かにその通りだが、今回は見逃してやってくれ。こいつにはボクシングしかないんだ、俺と同じだ……俺にも医術しかない」

「そんなこと――」

「ともかく」

 何か言いかけた遠野を、田所はすぐさま遮った。「俺は手術するっていっちまった。でも、二度と同じ手術はしない、こいつが最初で最後だ。だから頼む」

 遠野は何か言いたげな表情のまま、田所をじっと見た後、目を閉じ「わかりました」と頷いた。

「じゃあ、さっさと始めよう」

 心電図と呼吸器を取り付け、手術道具をそろえると、すぐに田所はメスを達也の腕に入れた。

 皮膚がさかれ、その引き締まった筋肉があらわになる。

 筋肉というものは、主に三つの種類に分けられる。

 白く、瞬発力のある速筋。

 赤く、持久力のある遅筋。

 そして、その速筋と遅筋の間にごく少量、二つの性質を半分ずつあわせ持つ、ピンク色の中間筋。

 体の部位にもよるが、大体の場合、遅筋と速筋が5分5分の割合で占めており、断面がモザイク状になる様に、筋繊維の束が折り重なっている。

 達也の筋肉を見るに、白色、速筋が少し多く、かなりのパンチを打つのだろうと想像する。

「そんなに膨らんでないんですね」

 筋肉の摘出中、遠野がそう呟いた。

「まあ、筋肉っていうのはかなり重い。階級制度があるから、つけすぎは禁物だ」

「なるほど」

 上腕二頭筋のほとんどを摘出し、縫合をおえる。

「後どれだけこれを繰り返せばいいんですか」

「これと前腕と肩、それを左右の腕から摘出。次に首、胸筋、腹筋、体幹。太もも、ふくらはぎ。最後に背中だ」

「終わるころには日が暮れてそうですね」

 

 

 暗闇の中、意識がゆっくりと引き起こされていく。

 体が何かに押し付けられているかのように重い。

 達也が目を開くと白い天井と、体にかかっている毛布が見えた。

 どうやら小さな部屋のベッドに寝かされているようだ。近くの窓からは日の光が見え、今が朝だと分かる。

 けだるい。

 そう思いながらも、かかっている毛布をどけようとすると、すさまじい違和感を感じた。

 重い、この薄い毛布が、とてつもなく重く感じる。

 そのとき、不意に見えた自分の腕を見た瞬間、達也は言葉を失った。

 自分の物とは思えないほどの、異質なほど細い腕がそこにあったからだ。

「いやいや、落ち着け」

 パニックになりかけた心を鎮めようと、体を寝かせ、天井を見る。「筋肉をとっぱらったんだ、そりゃ細くなるよ、ならなきゃおかしいだろ」

 乱れた息をゆっくりと整えながら、全身を少しだけ動かしながら、その感覚を確かめる。

 ほぼ全身、体が異様に細くなっているのが分かる。

 そこで、また少しだけ心拍数が上がる。

 当然こうなっていると分かっていたのだが、それを実際に感じると少し不安になる。

 怖ぇ……自分の体を見たくねぇ。

ベッドから起き出す勇気がわかず、ここからどうしようかと、うじうじ悩んでいると、ガチャリとドアが開く音と「調子はどうだ」と田所の声が聞えた。

「先生か」

 達也はそう返しながら、体を見ないよう必死に首だけを動かして田所を見ようとする。

「何をしている」

 それに見かねた田所は、達也のそばに立って言った。

「いやぁ、実はよう、体をあんまり見たくなくて」

 田所はフンと鼻を鳴らした。

「さっさと慣れることだな、一週間はそのままだ」

「い、一週間」

 長いように思えるが、短いようにも感じる。「もうちょっと急げねぇのか」

 達也がそう問うと、田所は首を横に振った。

「前にも言ったが、こんな試みは初めてなんだ。長引く可能性はあっても、短くなることはない。わかったらさっさと立て、食事の用意がしてある」

「うぅ、分かったよ」

 少しずつ、ゆっくりと、達也は体にかかっていた毛布をどかした。

 幸い体の様子はゆったりとした患者衣によって隠されている。

 立ち上がるのに特に違和感はなかった。いつものように体を起こし、ベッドから立ち上がると、田所と見合う。

「へえ、筋肉を取っちまったから、立つのも難しいんじゃないかと思ったが、わりと普通だ」

「筋肉は重いからな。それに人間の体は、立つことが前提で作られ、さらに脳は無意識に楽な筋肉の使い方をさせている。だから、ただ立っているという行為に、そこまで力は使わない」

「なるほどな」

「ついてこい、リビングに案内する」

 歩き出した田所についていき、部屋を出て廊下を歩く途中、

「なあ、先生」

 と達也は話しかけた。

「なんだ」

「先生、言ってたよな、もしかしたら失敗するかもって」

「まあな。前例がない以上、どうなるかは分からない」

「もし、そうなったらさ、俺の食い物に毒を入れてくれよ。なんだったら、寝てる間に注射してくれてもいい。とにかく、知らないうちに殺してくれ」

 それを聞いた田所は、数歩進んだ後、足を止めて達也に振り返る。

「どうしてそこまでする」

 急にそう問われ、少し驚いたが、達也はすぐに返事をした。

「だからいったろ、先生。俺にはボクシングしかない。できないなら、野垂れ死ぬしかないって」

「なら、なぜそこまでボクシングにのめりこんだ。他のことを捨ててまで、自分の命を賭してまでボクシングにこだわる理由はなんだ」

「そりゃ……あんた」

 達也は真剣な表情の田所を見ながら考える。

 俺がボクシングをする理由……。

「ボクシングで勝つのが好きだからだよ」

 数秒の思案の後、達也は答えた。「ガキのときから、とにかく好きだった。拳を打って、相手がリングに倒れたときは最高の気分になる」

「本当にそれだけか」

 田所は鋭い目線で問う。

「それ以外何がある。ボクサーってのはみんなそんなもんだよ」

 つかの間の後、田所は「お前に手術したのは」と呟くと、前に向き直り背中を見せ「間違いだったのかもな」と歩き出した。

 今更なにを言う。ボクシングってのは、それが楽しいからするもんだ。

 達也は鼻を鳴らし、田所に続いて歩いた。

「後悔しても遅いぜ。なんにせよ、手術は最後までキッチリ頼むよ」

 

 

 

 

 ボクシングジム、ホンダ△では、数人の男たちが汗を垂らしながらトレーニングに励んでいた。

「オラ!腰引けてんぞお前!」

 本田がサンドバッグを叩く新人に叫ぶと「はい!」という掛け声とともに、サンドバッグは揺れた。

 その様子をじっくり眺めながら、本田はサングラスの奥でかすかに眉を寄せる。

 才能はそれなりある。しかし、これといった光がない。少なくともチャンピオンの器ではない。よくてランカー手前止まりだろう。

 新人に聞こえないよう、静かにため息を漏らす。

 ジム経営というのは厳しい。それなりに地位のあるボクサーに、試合をしてもらわないと存続も危うい。

 残念ながら、いまのホンダ△ジムにランキングに食い込めるほどの、才質のありそうな人間はいなかった。

「あいつのケガがなけりゃな」

 本田はぼやいた。

 達也は粗削りながらも、輝くものがあった。努力をおこたる様子もなく、チャンピオンになれる可能性も十分にあった。

 だが、一月前の試合で目の異常で入院。網膜剥離と緑内障の併発だ。

 あの時、セコンドとして限界が近い達也を止めておけば、という後悔はある。

 しかし、相手も限界近く、勝ちの目は十分にあったし、引けと言ったところできっと引かなかっただろう。なにより達也の何がなんでも立ち上がり、常に強引にせめていく性格を考えれば、あの日大丈夫だったとしても、いずれ同じようなケガをしたのではないか、という考えもあった。

 どちらにせよ、もう後の祭りだ。あいつはもう、リングには戻ってこれない。

 そんなことを思ったとき、ジムのドアが開き、中の全員が足を止め、出入口に顔を向けた。

 そこには、サングラスをした達也が立っていた。

「よお、みんな久しぶり」

 全員が何となく口を閉ざしていた。もうここには戻ってこないと思っていたからだ。

「おーおーおー、どこ行ってたんだお前よー」

 全員が固まる中、本田がそういって近づいていく。

 目の前に立ち、達也の体に目を通す。

 トレーニングをしていなかったせいか、前よりほんの少しだけ体が萎んだように見えた。

「あんなケガがあったんだ……仕方ねぇよ」

 本田は今までのトレーニングを思い出しながら、もの悲し気に語った。「お前はよく頑張った」

 達也はふざけたように右の眉を下げ、首をかしげた。

「なんの話っすか、本田さん」

「何って、お前……別れの挨拶に来たんだろ」

「別れの挨拶?どうして」

「いや、お前な、もうボクシングは――」

「いったい、いつ俺がボクシングができないなんて言いました?」

 達也は本田が答える前に、そう言った。「やれますよ、まだまだ俺は」

 本田は茫然とした表情で、達也の顔を見る。

「お前、本気で言ってんのか」

 ボクシングはれっきとした競技だ。だが、グローブをはめているとはいえ、鍛えた人間が本気で殴り合う以上、死ぬことだって十分あり得る。

 それを、片目がほとんど見えていない状態の男が、できるわけがなかった。

 それは全ボクサーの共通認識だ。目がダメになったらボクサーはやめる、当然のことだ。

 当然、達也もわかっているはずだ。だが、

「本気も本気っすよ。冗談に聞こえますか。いま俺はバンタム級10位なんすよ、誰がこんなところで終わるんですか。さっさと次の試合を決めてくださいよ」

 どう聞いても冗談にしか聞こえな。

「はぁ……どぉしよっかなぁー」

 本田は冗談めかしながらそういうと。「やっぱダメだぁ。俺の首もかかってっからよ。目がダメになった人間をリングには上げられねぇ」

「どうして」

「わざわざ言わなきゃ分かんねぇのか!」

 達也のふざけた質問に、本田は語気を荒げる。「目がダメになった人間が、どうやってボクシングすんだよ……わかったらさっさと帰れ」

 本田は踵を返し、また元の場所に歩き出した。

 達也の気持ちは分からなくもなかった。あそこまでボクシングに打ち込んだのだ、こんなことで引退なんてしたくはなかっただろう。

 だが、これが現実なのだ。こうやって厳しく突き放し、現実に戻してやるのも、元セコンドとしての役目だ。

 それに、達也も本心ではわかっているはずだった。いまの状態では到底、ボクシングなんてできないということを。

 きっとそのまま帰っていくだろう、そう思ったとき、

「待ってくださいよ」

 達也が呼び止めてきた。

 本田は足を止め、振り返った。

 別れをいう気になったか。

「なんだ」

 本田が聞くと、達也はニヤリとし、サングラスを指で押し上げた。

「決め付けるのは、やめてもらっていいっすか」

「なにぃ?」

「そういうことは、ちゃんと確かめてから言ってくださいよ」

 こいつ……本気で……。

 思わず言葉を失った本田は、鼻を鳴らして言った。

「グローブの場所は覚えてるよな、つけてこい」

「はーい」

 達也が更衣室へと歩いてくと、本田は新人の方へと歩き出した。

「おい、お前上がれ」

 と本田は新人にそういいながら、親指でリングを差した。

「ええ、でも達也さん目が――」

「いいか」

 本田は新人の肩に手を回して、耳元でささやいた。「あいつはな、まだ諦めきれてないんだよ。無理だってほんとは分かってても、心がそれを否定してんだ。あいつが綺麗さっぱりボクシングをやめられるよう、お前が引導を渡してやれ。それが、お前が達也にできる、唯一のことだ。分かったか」

 

 

 カン。

 ゴングの音と共に、双方が中央へと歩き出し、左手を前に出してグローブを軽く当てた。

 二人のスパーリングを、ジムの全員が固唾を飲んで見守る。

 結果は目に見えていた、達也の敗北だ。

 何かしらで、片目を一時期でも見えなくしていた人間なら分かる、片目だけでは距離感がまったくつかめないということを。

 ボクシングにおいて、それは致命的だ。パンチの当たる距離、当てられる距離が分からないし、避けることも難しくなる。

 これは達也が最後の意地を見せるための、この場を去るための儀式だと。皆がそう思っていた。不敵な笑みを浮かべる達也以外は。

 相手の出方をうかがいながら、小刻みに揺れる二人。

 先に動いたのは新人の方だ。一歩踏み込んだのち、素早い左ジャブ。

 力を抜き、速度を追求したジャブは、プロでもそうそう避けられるものではない。

 当たった、全員がそう確信したと同時に、言葉を失う。

 避けていた。しかも、ただ避けたのではない。いつの間にか、新人の横に達也が立っていた。

 すぐに新人は後ろに下がり、距離をとった。

 なんだ、いまのは。

 新人には当てたという確信があった。相手が避けるような様子は、まったくなかった。だが、拳は空を切った。

 それだけではない、直前まで目の前に居たのに、次の瞬間には横にいた。瞬間移動でもしたのか、と思うほどの人間離れした速さだった。

 謎の汗が額から湧き出て、頬を伝う。

「なに縮こまってんだ。そっちが来ないなら、こっちから行くぜ」

 達也がそう言った瞬間、左にステップし、それを目で追ったが、追い付いたときには右に飛んでいた。

 即座に目線を合わせるも、また右へ、左、右にフェイントをかけまた左。

 凄まじい速度で動く達也をとらえようとするも、残像を見るので精いっぱいだった。

 この状態で、いつパンチが来ても避けることはできない。だが、達也はもてあそぶかのように、ひたすらに新人の視界から外れるよう、ステップを踏む。

 不意に、完全に視界から達也が消えた。

 すぐさま首を左右に振ったが、どこにも姿がない。

 あれ、どこに――

 そのとき、新人は気が付いた。リングを囲う人間たちの目が、見開かれ自分の方に集まっていた。そして、その目の焦点が自分の後ろにあっていることを察し、ゆっくりと振り向くと、

「よう」

 と達也が仁王立ちで立っていた。「気づくのがおせーよ」

 ポンと達也が左手で軽く腹を叩くと、新人は腰を抜かしてその場に座り込んだ。

 達也がその場を去り、リングを下りても、足が震え立つことができなかった。

 その状態のまま、ゆっくりと首を動かしながら周りを見ると、誰一人、何も言わず、動こうともせず、その場に固まっていた。

 不意に、本田を見つけ目が合うと、新人は静かに首を横に振った。

 

 

 その動きの意味を、本田は直感的に理解した。

 こいつは、もうボクシングをやめる。いや、できなくなる。あんなものを見せつけられたら、もう立ち直ることはできないだろう。

 そして……あいつは。

 本田は、震えた声でつぶやいた。

「化け物だ」

 

 

 

 

 勝負はラウンド1で終わった。

 ゴングが鳴り、JHBCバンタム級チャンピオンと達也は向き合った。

 そこからは、一方的な試合展開となった。

 チャンピオンを中心に、すさまじい速度でリングを飛び回る達也。

 チャンピオンの拳は何度も空振り、時折「うっ」と体を横に曲げる。

 目にもとまらぬ速さのパンチが、腹に当たったのだ。それを視認できるのは、観客の中でも、達也を偶然にも視界にとらえることができた数人だけだった。

 腕を前でがっちり合わせて、ガードの姿勢をとりながら、チャンピオンは何とか達也の攻撃を受けまいとするが、その様をあざ笑うかのように、達也は何度もボディブローをお見舞いする。

 しびれを切らしたチャンピオンが拳を前に出した瞬間、顎に達也の右拳が撃ちあがると、背中から落ちるように、その場に大の字で倒れた。

 湧き上がる歓声に達也は両手を上げて応えると、悠然とリングを下りて行った。

 

 

 下北ホテル、イベントホールには多数の記者とカメラマンが集められていた。 

 ドアが開き、本田に続き達也が出てくると、大量のフラッシュが二人を照らす。

 それは壇上に上がり、椅子に座っても続いた。幸い二人はサングラスをかけているので、そこまで辛くはない。

 前代未聞、半盲のボクシングチャンピオンの誕生は、日本中、いや世界中を震撼させた。

 今やどの新聞も、一面に達也の姿が映っている。

 自分に向けられる大量のカメラとフラッシュ。それにちょっとした優越感を、達也は感じていた。だが、

「もっと嬉しいもんだと、思ったんだがな」

 そうボソリとつぶやくと、

「お、なんか言ったか」

 と本田が聞く。

 達也は「いや」と軽く首を振った。

 チャンピオンベルト、自分に向けられるカメラ、好機の目、今の地位。

 昔から夢見たものが、今すべて自分にある。

 だが、達也の心は乾いていた。何か足りない、そう感じる。

「ズルして手に入れたもんってもんは、こんなもんなのかな」

 記者たちが一人ひとり立ち上がり、達也へと質問を投げる。

――今どのようなお気持ちですか。

――その気持ちを、誰に伝えたいですか。

――ハンデを乗り越えての勝利でしたが、どのような苦難がありましたか。

 この手の人間に対する、ありきたりな質問達だ。それを達也は、こちらもありきたり答えで返していく。

 特に面白みのない記者会見だった。だが、ある質問で会場は一気に緊張感に包まれた。

――ドーピング疑惑については、どうお考えですか。

 記者たちの顔と持っているペンに、力が入っていくのが分かった。

 達也は急な活躍を怪しまれ、前から何度もドーピング疑惑が上がっていた。

 10位をギリギリで倒し、のち緑内障になった男が、急にパワーアップしたのだから、当然といえば当然だ。

「それに関しては、もう疑惑は晴れています」

 達也はなんの焦りもなく、静かにマイクを握って答える。「俺は何度も検査を受けました。試合前に3度、試合後に2度もです。まあ疑われていますから、それを払拭するため全部受けましたが、結果はすべて陰性でした。いったい何が疑問なんですか」

――達也さんが緑内障になる前の試合を、何度も拝見いたしましたが、どう見ても動きが違いました。これに関してどうお考えですか。

「確かに、俺自身そう思います。まあ、みなさんにはきっとわからないと思いますけど、見えなくなったことによって見えることや、吹っ切れたとことがあるんです。それが俺を急激な成長に導いたのだと思います」

――……ありがとうございます。

 その記者は納得のいかない様子で、質問を終えた。

――今後のご予定をお聞かせいただけますか。

 達也は鼻を鳴らした。

「いちいち言わなくてわいけませんか。ここまで来たら、もう最後まで行きますよ」

 そう言って、達也はマイクをおいて立ち上がった。「次はWLGSBC(ワールド・ラブゲイセックス・ボクシングコミッション)のベルトをもらう!」

 声高らかに宣言すると、凄まじい勢いのフラッシュが達也を照らした。

 そうだ。世界チャンピオン、世界一だ。それになれば、この心の渇きも、きっと潤う。

 

 

 

 

 半年後。

「ついにここまで来ちまったか」

――快挙!WLGSBC4位と1位を両者1ラウンドKO!!――

 そうでかでかと書かれた新聞の一面を見ながら、本田はそう呟き、サンドバッグを叩く達也を見た。

 拳が打ち込むたび、重量級ボクサーが殴ったのかと錯覚するほどに、サンドバッグは揺れた。

 次は、ついにチャンピオンへの挑戦だ。それを意識しているのか、達也のトレーニングにも熱が入っている。

「あんま張り切んなよ」

 本田がそういうと、達也はサンドバッグから目を離さずに答えた。

「なに言ってんすか。チャンピオンですよ、チャンピオン。一応、仕上げときますよ。まあ、そんなことしなくても楽勝でしょうけど」

 バンバンバン!

 すさまじい速さの右左右、ワンツースリーのパンチがサンドバッグに打ち込まれ、破裂音に似た音が鳴る。

 はたから見れば、きっと達也の勝利を疑うものはいないだろう。

 だが本田には、長年近くにいた経験からなのか、何か嫌な予感がしていた。

「なんすか、なんか言いたいことでも」

 その様子を不思議に思ったか、達也がそう聞いてくると、本田は「いや」と首を振った。

「何でもない」

 ここで不安を煽るわけにはいかないと思い、そう答え目線を横にやった。

 気のせいならいいんだが。

 

 

「お疲れーっす」

 そういってジムを出た達也は、イヤホンを耳に付け、NONA REEVESの『LOVE TOGETHER』を聞きながら走り出した。

 ジムトレーニングの終わりには、帰り道までの1㎞程度の道を、この曲をリピートしながら走るのが恒例だった。

「ぶっとばしてよDJ……エビバディゲッダン」

 リピートが3週目に入り、そう小さな声で歌っていると、

「ん?」

 突然、体に違和感を覚え、その場で足を止めた。

 なんだ……いま、体が。

 乱れた息を整えながら、違和感の正体を探る。

「ハア……気のせいか……いや」

 そのとき、いつまでたっても息が整わず、心臓が強く脈打っていることに気が付いた。

 たいした走り込みじゃない、なのにまだこの状態なのはおかしい。

 原因は一つしか浮かばなかった。

 

 

 ピンポーン。

 田所がリビングで一人『オッス 水泳部だらけのふんどし祭り』を見ているときに、インターホンが鳴った。

「遠野――」

 出てくれ、と言いかけてやめた。いまは外に出ている。

「まったく、こんな時間に何の用だ」

 しぶしぶ立ち上がって玄関に向かい、ドアを開けた瞬間、達也が倒れこんで入ってきた。

「お!ど、どうした」

 思わず声を上げて驚いた後、膝をついた。

 達也は苦しそうに肩で息をしながら、顔を上げた。

「ああ、先生。い、息が」

「息ぐるしいのか、今すぐ体を診る」

「ああ、頼む。だけど、その前に一つ、やらなきゃいけない大事なことがあるんだ」

「大事なこと?」

 いまこの状況で、他にやるべきこととは、いったいなんだ。

 そう思っていると、達也は苦笑いを浮かべながら、ドアの方を親指で指した。

「外でタクシーが待ってるからよ、金払ってくれないか?」

 

 

「まったく、ふざけやがって」

 達也が寝るベッドの隣で、田所は毒づいた。

「だから金はちゃんと三倍にして払うって。いまの俺は結構、金持ちだぜ」

「そう言う問題ではない」

「そうカッカしないでくれよ。それより、原因は何だったんだよ。注射してもらったら収まったけど」

「100だ」

 不意に謎の数字を言われ、達也は首をかしげた。

「100……がなんだ?」

「今のお前の、平時の心拍数だ。ちなみに一般人の平均は60から75。スポーツマンなら40だってざらにいる。安静時にこれなら、試合中は300……いや400にもなったかもしれない」

 何となく、達也は原因を察した。

「それって、つまりよ」

「ああ、筋肉が原因だ。どうやら、俺が強化した筋肉は普通より多くの血液を必要とするようだ。試合中はいつ止まってもおかしくないほどだっただろう。それによって心臓に強い負担がかかり続け、今の状態になったということらしい」

「なるほどね」

 達也はそう答え、天井を一点見つめた。

 JHBCチャンピオン、WLGSBC1位で終わりか。

 達也はフフと小さく笑う。

「まあ、十分だろ」

「諦めがいいな、もっとわめくと思っていたが」

「なに言ってんだよ。もうできないって状況から、ここまでこれたんだ。先生には感謝してもしきれないよ」

「そうか……筋肉は再度摘出し、元の状態に戻して移植する」

「わかった」

 そういって、達也が立ち上がろうとすると、

「まてまて」

 と田所が止める。「どこに行く気だ」

「どこって、帰るんだよ。安心してくれよ、もうトレーニングも試合もしない。ただ、明日からテレビの取材とか、ロケがあるんだよ。ほら、俺って有名人だろ、そういう仕事も多いんだよ」

「バカ言うな、お前の心臓はいつまで持つか分からないんだぞ」

「そうだな、持たないかもしれないし、持つかもしれない。俺は後者に賭けるね。だから頼む、ちょっとだけ時間をくれよ、相手に迷惑をかけたくないんだ」

 田所は深い溜息を吐いた。

「クソ……1週間だけだぞ。それが過ぎたら、お前を麻酔で無理やり眠らせてでも、手術を行う、いいな!」

 

 

 

 

「では、最後にチャンピオンへの意気込みを聞かせてください」

 とある喫茶店の個室で、インタビュアーがそういうと、達也はぐっと力拳を作って答える。

「もちろん、必ずベルトを勝ち取ります。ファンのみなさん、俺がチャンピオンになるところを見ていてください」

 インタビュアーの隣に座るカメラマンが、何度かシャッターを切ると、取材は終わりとなった。

 挨拶を終え、別の席で待たせていた本田と共にタクシーに乗ると、フーと息を吐いた。

 仕方がないとはいえ、ああやって嘘をつくのは神経を使う。今日はいくつか仕事が入っており、すべて嘘をつくことになるだろう。

 それと、試合前に失格となる理由も作らねばならない。ただ出場したくないから、という理由での欠場は許されない。

 頭を休ませる暇がない。

「次は下北沢テレビだ」

 隣で本田がそう言った。

「ああ、わかりました」

「クソ、俺はお前のマネージャーじゃねぇぞ」

 本田は達也の仕事管理を任されており、今はほとんど達也のマネージャー状態だった。

「まあまあ、ホンダ△ジム最初で最後のWLGSBCチャンピオンかもしれないんですよ。そのての仕事も、セコンドとしての役目ですって」

 達也は笑いながらそういい、肘をついて窓の外を見た。

 まあ、チャンピオンにはなれないんだけどな。

 

 

テレビクルーと一緒に来たのは、ホンダ△ジムからそう遠くはない下北沢高校だった。

 世界的アスリートによる若者との触れ合い、それを撮りたいようだ。

 全ての授業が終わり、皆が部活にいそしむ中、教師に連れられて各部活を回り、生徒と話をしていく。

「君ならやれるさ」

「できないと思ったら、一生できないよ」

「応援してる」

 適当にそんな言葉をかけていくが、自分の言葉で明るくなった青年たちの顔を見ると、悪い気はしなかった。

「こちらが柔道部です」

 畳が敷かれた部屋に入ると、付き添いの教師がそう言った。

 達也が入るや否や、練習していた生徒たちは手を止めて、達也に挨拶をした。

「気にしないでくれ」

 達也は手を振ってそう言った。「みんな練習を続けて」

 二人一組になって、組み合っている生徒たちを、静かに見学する。

 あらゆる場所から息巻いた声が響いていた。

 そのとき、ふと達也の目に留まる生徒がいた。

 奥にいるその生徒は、がっと相手に組まれると、すぐさま投げ飛ばされた。

 相手が変わっても同じだ、ぼーっと立っていると、相手が組にかかり、投げ飛ばされる。

 身長は並で肩幅も広い。だが、一回り小さな明らかに弱そうな生徒にも、簡単に負けていた。

 ついその生徒を凝視していると、

「あの生徒なんですが」

 その様子に気づいたか、付き添いの教師がそういい、達也が顔を向けると、どこか言いにくそうに続けた。

「実は、緑内障なんです」

「緑内障?」

 すぐに視線を戻し観察すると、確かにどこか相手を見にくそうに顔をしかめていた。

「どうして、緑内障の子が柔道を?」

 達也は聞いた。

「我々も危険なので止めたのですが、本人の強い意志で」

 自分と同じ緑内障、それで頑張っている子供に対し、湧き出た感情は恥だった。

 あの子は緑内障でも頑張ってるのに……俺は。

「よろしければ、お話しをしていただけませんか」

 教師のその提案に、少し悩んだものの、断るのも変だと承諾した。

 数分だけ話がしたいと柔道部の顧問に伝え、その少年と外に出る。

 緊張した面持ちで立ち会う少年に、達也は何といっていいかわからず、言葉を探した。

 大体、こういう時は達也が先に話しかけるが、声が出ない。

 ディレクターが、早く何か話してくれと、ジェスチャーで伝えてくるが、何もできずただ立ち尽くしていると、少年がぎこちなく話し出した。

「緑内障……なんですよね」

「ああ、まあね」

「それなのに、すごいですね、日本チャンピオンなんて」

「まあ、うん」

 生徒の言葉一つ一つが、達也の胸に鈍い痛みを与える。

「僕も緑内障で、頑張ってますけど……どうも、とても達也さんみたいになれそうにないです」

「なに言ってるんだよ。君ならきっとやれるって」

 達也は自然と、必死になって少年を励ましていた。

 それは、自分が不正をしているという、後ろめたさがあるからだ。

「ホントですか」

「ああ、俺を見ろよ」

 達也はばっと両手を広げた。「緑内障だけど、必死に努力してここまで来た。俺にできたんだ、君にできない訳ないだろ」

「確かに、いいところまでは行けるかもしれません。でも、必死に努力して、みんなに勝っても、同じだけ努力した、同じ力を持った人間には勝てないと思います。どうあがいても、目が見えない分、僕たちは弱い。絶対に一番にはなれない」

「そんなことはない。同じだけ強くても、気持ちが強ければ勝てる」

「あの世界チャンピオンが相手でもですか」

 達也は眉を寄せた。

「世界チャンピオン?」

「はい。WLGSBCバンタム級チャンピオンです」

「そいつは、そんなに強いのか」

 達也は聞いた。

 勝つのは当たり前だと思っていたし、心臓のことを知ってからは棄権する気だったので、対戦相手のことをちゃんと調べていなく、顔も強さも知らなかった。

「はい、動画で何度も見ました。多分、達也さんと同じぐらい強いです」

「そうか」

 そういって、達也は黙った。

 素人の少年の意見だ、鵜呑みにはできないが、筋肉を改造してある自分と見比べ、同じ力量だと思われるほどの相手だとすれば、それは相当なボクサーだろう。

 不意に、少年の真っすぐな目に達也は気づき、サングラスの奥で黒い瞳が震えた。

「勝てますか」

「あ、ああ!」

 自然と声を張り上げていた。「勝つ、勝つさ!見てろよ、俺が――」

 達也はドンと自分の胸を叩いた。

「俺がチャンピオンになるとこをよ」

 

 

「お疲れ様でしたー」

 テレビクルーの軽快な挨拶に「どうも」と軽く返して別れると、本田と一緒にタクシーに乗った。

 ホンダ△ジムつくと、本田だけ下して、達也はタクシーに残った。

「おい、お前トレーニングは」

 本田がそういうと、達也は疲れた様子で首を振った。

「今日は疲れたんで、帰って休みます」

 運転手に家の住所を伝え、タクシーが発進すると、達也はシートにもたれかかり、目を閉じた。

 脳裏に、あの緑内障の少年のことがよぎる。

 嘘だ。そうだ、俺は嘘をついた。戦わない。いや、戦えない。もうすぐ俺は元の体に戻る。仕方ないさ、命には代えられない。死んじまったら元も子もないだろ。だから……だから。

 達也はゆっくりと体を前に倒すと、膝に肘をつき両手で顔を覆った。

「クソ」

 そう小さくつぶやいた後、達也は運転手に新しい行き先を伝えた。

 

 

「ふざけたことを抜かすな!」

 田所は玄関で土下座する達也を見下げ、そう叫んだ。

 その声に驚いたか、部屋から出てきた遠野と一瞬、顔を合わせると、達也は頭を下げたまま言った。

「頼む、一週間……いや、一年だけ待ってくれ」

「1週間から一年とは、ずいぶん数字の変わりが激しいな。まあ、どちらにしろ無理だ。お前は自分の体のことを分かって言ってるのか。一度手術した人間だ、そいつは医者として死なせるわけにはいかない。俺の提示した期限より前だが、逃げられちゃかなわん。今すぐ治療する」

「そこを頼む、先生」

「無理なものは無理だ。いっておくが、俺から逃げようと思っても無駄だぞ。とっ捕まえて強制的にするか、それが無理ならお前がやったことを週刊誌に告白する」

 微動だにせず、ただ土下座を続ける達也をにらむと、田所は踵を返して歩き出した。

「遠野、こいつを地下の手術室に運べ。今すぐ手術を――」

「ガキと……約束しちまったんだ」

 田所は足を止めて、ゆっくりと振り返ると、顔を上げた達也と目があった。

「緑内障のガキだ。そいつは、そんな状態でも柔道で頑張ってる。そいつに、俺は優勝するって、見てろっていっちまった」

「だったら、俺じゃなくその子供に土下座しに行ったらどうだ。僕はどうしようもない嘘つきです、ごめんなさいってな」

「先輩!」

 聞きかねたか、遠野が割って入った。「言いすぎですよ。達也さんは、その子供のことを思ってこうやって頼んでるんですから」

「知ったことか、こいつの都合で人殺しにされちゃたまらん」

「先生……俺だって、死にたくはない」

 達也は真剣な表情で言った。「出来れば手術を受けたいさ。でもよ、あのガキを励ませるのは、俺しかいないんだよ。あの約束だけは、嘘にはしたくねぇ。だから頼む。チャンピオンとの試合まで、激しいトレーニングは抑えるし、試合が終わったらここに直行して、すぐに手術を受ける。今度こそ約束する。だから先生……お願いします」

 達也が床に頭を叩きつけると、ゴンと音が鳴った。

「先輩」

 遠野が何かを訴えるような目を向けてくると、田所は軽く首を振り「ふざけやがって」とまた踵を返した。

「試合中、心臓に強い打撃を受けたら棄権しろ、いいな」

 田所がそういうと、後ろから大きく息を吸う音の後に、

「ありがとうございます!」

 と達也の声が響くと、田所は家の中へと戻っていった。

 

 

 

 

「今日はもう上がります」

 達也がそういうと、本田は「ああ、そうか」と返し、時計を見た。

 トレーニングを始めてまだ、30分ほどしか経っていなかった。達也が緑内障になった後のトレーニングメニューは、すべて本人任せだった。

 さすがに短すぎるとも思ったが、もともとトレーニングをさぼるような人間ではなかったため、なにか考えがあるのだろうと口は出さなかった。

「本田さん、チャンピオンとの試合はまだ決まらないんですか」

「いまだに交渉中だが、一応三か月後ぐらいにはできそうだと聞いてるが、どうだ?」

「三か月後」

 達也はそうボソリとつぶやくと、くるりと踵を返す。「俺はいつでもいいっす。できるだけ早くお願いします。じゃあ」

 そういってジムを出ていく達也の背中に、なにか異様なものを本田は感じた。

 

 

 達也は8畳一間のアパートに住んでいた。

 ファイトマネーやテレビでの出演で金はそうとうあったが、家族もなく毎日トレーニング付けの日々なので、これ以上広い住居を欲しいとは思わなかった。

 ホンダ△ジムからタクシーで帰ってきた達也は、電気も付けず、その部屋の中央に敷かれてある布団に胡坐をかいて座った。

 じっと何もせず、ただ目の前の虚空に目を凝らす。

 三か月後……その日になるかは分かんねぇが。その試合が俺の最後の試合だ。

「絶対に勝つ」

 そう自分に言い聞かせると、ゆっくりとまぶたを下ろし、軽い瞑想状態のまま、一日が過ぎるのを静かに待った。

 

 

 

 

 下北沢COOTホールを埋める大量の観客は、まだ試合も始まっていないというのに、その興奮によって熱がこもっていた。

 不意に電気が薄暗くなり、青コーナー奥の扉がライトによって照らされ、そこから達也と本田が出てきた瞬間、歓声と拍手によってホール内の空気が激しく揺れた。

 リングまで続く道を、両脇にいる観客たちと手を叩きながら進み、リングに上がった。

 その後、今度は赤コーナー奥の扉にライトが集まり、そこから赤いボクサーパンツに長い金髪をカチューシャで持ち上げ、前髪が扇のように広がっている、WLGSBCバンタム級チャンピオンのバイオレンスが顔を出した。

 その後に続き、長髪に青いセーターの、セコンドのセックス。同じく長い金髪にサングラスをし、黒い上着を着たチーフセコンドのマネーが続く。

 明らかにアウェーな会場をものともせず、チャンピオンは悠然と歩を進めていき、静かにリングに上がった。

 リングアナウンサーによって両選手とルールの説明がなされる中、達也は対角線上にいるバイオレンスと目を見合わせていた。

 達也が気迫のこもった目線を送るも、バイオレンスはだらりと力を抜き、興味のないテレビでも見ているかのような目を向けてくる。

 両者が中央に立ち会い、レフェリーから注意事項の説明を聞いているときも、それは変わらなかった。

 説明が終わり、背を向けて自分のコーナーに戻るさなか「俺なんか眼中にないってか」と小さくつぶやく。

 いいぜ、こっちはそんなに時間もかけらんねぇ。その余裕――

 両者がコーナーで向き合い、ゴングの音と共に中央に立つレフェリーが右手で拳を作り、後ずさると、両者はまっすぐ中央に向かった。

 すぐにへし折ってやるよ。

 達也は間合いに入る寸前のところで、右左とステップを踏み、左ジャブを放った。

 驚異的な速さのステップで一瞬、相手の視界から外れ、そこからの最速のジャブ。

 いまの今まで、これをかわした者はおらず、達也は自信をもってジャブを出した。が、

「え」

 達也は思わずそうこぼす。

 左手はバイオレンスの顔を数センチはずれ、当たっていなかった。

 嘘だろ、避け――

「があ!」

 突然、腹に衝撃を受け、達也は後ろにのけぞった。

 すぐさま両手を構え、バイオレンスを見るも、相手から追撃の様子はなかった。

 まさか、かわされるとは思ってもおらず、驚きのあまり体が固まり、反撃がくるという当たり前のことすら頭から抜けていた。

 じわりと広がる腹部の痛みを感じると共に、達也に一つの疑念が生まれる。

 本当にあいつは自分の意思でかわしたのか?

 達也は何度か自分の試合をテレビで見たことがあるが、ステップからのジャブは、おおよそ人間にかわすのは不可能だろうと思うほどだった。

 あれを生身の人間がかわす?

「あり得ねぇだろ」

 達也はリズムよく体を揺らしながら、攻め時をうかがう。その間、バイオレンスは静かに拳を構えていた。

 偶然だ。

 達也は左にフェイントをかけ、すぐに右左とステップを踏んで、再度左ジャブを打った。

 完璧だ、早さもさっきよりある。今度こそ――

 が、グローブはバイオレンスの頬をかすっただけだった。

 反撃のフックを今度は反射的によけ、また距離をとると、達也の額から脂汗が吹き出る。

 嘘だろおい、見えてんのかよ。

 多分、達也さんと同じぐらい強いです。

 高まる心臓の音と共に、緑内障の少年が言った一言を思い出した。

 あの言葉は間違いではなかった。

 どうする。どうすればいい。

 相手と距離を図りながら、どう攻めるかを考えていると、

「どうした、もう来ないのか」

 バイオレンスがそう言った。

 その顔には、いまなおやる気を感じられない。だが、

「なら、こっちからいくぞ」

 その言葉と同時に、一気に達也に距離を詰め、間合いに入ってきた。

 その驚きによる一瞬の硬直ののち、達也はジャブを放ったが、まったく形のなっていないジャブは簡単によけられた。

 まずい、心臓を――

 とっさに右手で顔をガードすると同時に、肘で心臓部を守ったが、

「くっ」

 相手の左拳が、右の横っ腹に撃ち込まれ、達也は呻き声を上げる。

「ぐ、あがっ」

 再度、同じ個所に拳が撃たれた後、体を強くひねらせた右フックが、今度は左の腹にめり込み、体がくの字に曲がる。

 その状態のまま、後ろにのけぞる様に下がると、達也は苦しそうに顔をしかめた。

 相手のパンチをよけ、的確に攻撃を当てることによってポイント勝ちを狙う、テクニック型のボクサーだと思っていたが、さすがチャンピオン、そのパンチも一級品だった。

 今まで感じたことのない、内臓がねじ切られているかのような痛みが、腹から引かない。

 その様子を感じ取ってか、バイオレンスはすぐさま間合いを詰め、攻撃に来た。

「うう」

 達也は両手を前にガードを固めながら、逃げるように距離を開ける。

 ひたすら逃げながら時折、思い出したかのように拳を出すも、すべてカウンターをとられ、反撃を受けるため、最後の方は全く手を出さず、ひたすらに逃げ続けた。

 そしてラウンドの終わりを告げる鐘が鳴った。

 挑戦者が無様に逃げる姿を見て、冷え切った会場の様子を感じながら、達也は自分のコーナーへと戻っていく。

 本田が置いた椅子に座り、今だに鈍い痛みを放つ腹を撫でる。

「おいお前、逃げてばっかじゃ勝てねぇぞ」

 本田が隣でそういうと、達也は顔を一瞥して軽く頷いた。

「分かってますよ。ちょっと相手のペースに呑まれたから、回復まで待っただけです。次のラウンドはこっちが取ります」

 カン。

 ラウンド2が始まってすぐ、達也はステップを踏み、バイオレンスの周囲を飛ぶように回り始めた。

 数々のランカーを惑わし、マットへと沈めた高速ステップ。完全なる死角からの攻撃なら、避けられないはずだ。

 相手の横につき、顔がこちらではなく前を向いているのを確認した後、足を踏み込み右手を上げた。

 いままでのお返しだ、こいつを――

 全体重を乗せ、前のめりに拳を出そうとした刹那、達也は見た。

 こちらではなく、前を向いているバイオレンスの横顔。だが、その目は真横にいる達也を捉えていた。

 こいつ見てる。止め――ダメだ、止められない。

 顔に向かっていく右ストレートを、バイオレンスは体を後ろに引き、最小限の動きでかわされた。

 その次の瞬間、顎にすさまじい衝撃を受けると、前傾姿勢だった達也の体が直立になり、そのまま後ろに倒れた。

 揺れる視界がリングライトに照らされると、レフェリーのコールが聞えてくる。

 ワン!トゥー!

 やべぇ、立たねぇと。

 上半身を起き上がらせて、膝に手をついて立ち上がろうとするも、足にうまく力が入らない。

 スリー!フォー!

 クソ、こんな負け方できるかよ。

 何とか力を入れて立ち上がり、ファイティングポーズをレフェリーに見せると、すぐに再開の鐘が鳴った。

 このままでの流れではまずいと、何とか攻勢に出たかった達也だったが、そこで足が止まる。 

 どう攻めればいい。

 ステップからのジャブや、視界を外れてからの攻撃をよけられたいま、達也には攻め手がなかった。

 半盲の状態では相手の懐に常にいるのは危険だ。だからこの二つの、相手の攻撃を食らわず、一方的に攻撃が可能な戦法をとり続けてきた。

 それが効かない相手にはどうすればいい。

 相手をにらみながら、達也は自問するも、そんなこと考えてもいなかったことに、すぐさま答えなど出るはずもなく、どうも動けずに立ち尽くした。

 無論、その間に相手がただ待ってくれるはずもなく、間合いを詰められると、ラウンド1と同様、達也は逃げた。

 どうする?負ける、負けちまう。考えろ。

 バイオレンスに追われながら、リング内をグルグルと周り、撃ち込まれる拳を避けつつ考えるも、何も思いつかない。

 気が付くと、いつの間にかコーナーに追い詰められていた。

 バイオレンスはゆっくりと近づいてきて、攻撃の機会を見ていた。

 そのとき、達也に妙案が浮かぶ。

 カウンターだ。相手だって攻撃中は無防備、その間は攻撃はかわせないはずだ。

 半盲の達也には、それは難しいことであるということは分かっていた。もともと、そういったテクニックを要するものも得意ではない。

 だが、全ての攻撃を避けられる以上、そこにしか勝機がなかった。

 やってやる。

 見えている方の目を凝らし、じっと相手の攻撃を待つ。

 一応、強化されてある筋肉のおかげで、避ける速度も素早くなっている。どうしようもなく無理な話でもないはずだ。

 バイオレンスが両者の攻撃範囲に入ると、二人はいつでも行けるようリズムよく体を揺らす。

 達也には攻撃の気がなかったが、相手にそれを悟られぬよう、雰囲気だけは出していた。

 大丈夫だ、俺ならやれる。こい……こいよ。

 達也が左肩を少し上げ、攻撃のフェイントを見せた瞬間、バイオレンスは一歩踏み込み、右フックを繰り出した。

 見えた。

 達也は上半身を右にそらし、そのフックを避けると、返す刀でその姿勢のまま右アッパーを繰り出す。

 完全に無防備な状態、決まると確信したそのとき、

 パン。

 その音とともに、達也の拳が右に弾かれた。

 バイオレンスの左拳がその拳をはじいたのだ。

 パリングと呼ばれる、相手のパンチをはじく技術だった。普通、この状況で出来る人間なんているはずがなかった。

 そのことに驚く間もなく、左、右と顔面にパンチを受けた。さらに右のアッパーを腹に受けると、達也は腹を抑えながらうずくまり、口からマウスピースが落ちると、その後すぐその場に倒れた。

 レフェリーのカウントが始まっても、達也はすぐに立ち上がれなかった。

「ああ……あああ」

 そう呻き、痛みに耐えながらマウスピースを拾い上げ、口に入れると、ブルブルと震える体を立ち上がらせ、ファイティングポーズをとる。

 再開の鐘が鳴るも、そこからはラウンド1と同じ、達也はひたすら逃げ続けるしかできず、そのままラウンド2も終了した。

 フラフラの状態で自分のコーナーに向かい椅子に座ると、いつの間にか会場がまるで通夜のような静けさであることに気が付いた。

「本田さん……どうしよう」

 達也は困り果てた様子で、隣の本田に聞いた。「何も効かねえんだよ、全部よけられる。こんなの勝てねぇよ」

 眉間に深い皺を寄せた本田は、一度下を向いた後、顔を上げて言った。

「やめるしかねぇな、その戦い方を」

「やめる?」

「そうだ。ステップからのパンチだとか、相手の攻撃をかわして攻撃、なんて器用な奴がやることだ。本来お前がやるようなことじゃねぇ」

 確かに、言われてみればそうだ。

 目がこうなったからこうしているが、本来はそんなことが得意じゃない。つまり付け焼刃の戦術だった。

 だが、

「けど……それをやめたら、どうすればいいんすか」

「一つしかねぇだろ」

 ぐっと達也に顔を近づけた本田は、険しい表情のまま答えた。「お前のボクシングをだよ」

 

 

 会場が静かだ。

 バイオレンスは椅子に座りながらそう思った。

 ホーム側の選手が負けているとはいえ、ここまで静かなのは初めてだった。

 それほど、試合の内容が衝撃的だったのだろう。

「おいさっさと決めちまおうぜ」

 隣でセコンドのマネーがそういうと、

「やっちゃいましょうよ」

 と後ろ、リングの外でセックスが続いた。

「簡単に言うな」

 なんの考えもなく話す二人を諭すように、バイオレンスは言った。「相手はかなりのハードパンチャーだ。あまり大胆にはいけない」

「でも、お前なら楽勝だろ?」

 マネーがいうと、

「まあな」

 そう軽く返した。

「ならさっさと決めてくれよ」

 セックスが駄々をこねる子供の用に言った。「わけー男どもを待たせてんだよ。さっさと倒して遊ぼうぜ」

 それを聞いて、マネーは笑った。

「ああ、ファイトマネーもがっぽり入る。今夜はたっぷり楽しもう」

 バイオレンスは鼻で笑う。

「お前らは、俺の気も知らねぇで、いつもそんなことしか考えてねぇな」

「なに言ってんだよ」

 マネーはぐっと右手で拳を作る。「そのための右手、あとそのための拳?金!暴力!セックス!金!暴力!セックスって感じで」

 また、バイオレンスは鼻で笑った。

 この二人はいつもこの調子だ。試合のことなんて興味がない、俺が生み出す金と、それを利用しての遊びにしか興味がない。

 もちろん、その恩恵を受けているからこそ、こうして三人で仕事をこなしているのだが。

 バイオレンスは向かいのコーナーに目をやる。

 達也の隣で必死に何かを話しかけている、サッカー選手の本田を意識したのであろうが、どう見ても所ジョージにしか見えない男を見て思った。

 たまには、ああいう熱心な奴にも、隣にいてほしいものだ。

「まあいい」

 そう呟き「今日はどんな男だ」

 バイオレンスはセックスに聞いた。

「8人、全員20代だ。そのうち3人はあんたの望み通り、金で釣ったガタイのいいノンケだよ」

「オーケイ」

 バイオレンスはぺろりと唇を舌で舐めた。「さっさと終わらせてくる」

 ラウンド3が始まり、中央へと歩いていく。

 見ると、達也の顔から先ほどまであった、迷いのようなものが消えていた。

 あの所ジョージに何をいわれたのかは知らないが、迷いがなくなったところで強くなるわけじゃない。

「さっさと決めるぜ」

 すぐさま近づいていくと、達也は今までと同じように、その素早いステップで逃げた。

 顔は変わっても、やることはいっしょか。

 ラウンド2と同じような展開だった。ひたすら逃げる達也を、バイオレンスがパンチをしながら追う。

 ステップは達也の方が圧倒的に速いため、なかなか攻撃も当たらなかったが、すぐにコーナーには追い詰めることができた。

 すぐさま、踏み込めば拳が当たる距離に入ったが、バイオレンスは謎に思った。

 達也の顔、まだ迷いのない顔をしている。

 何か考えがあるのか?

 狙うとすれば、もう一度カウンターだが、それは無理だ。バイオレンスには単純な動きしかしない達也の行動など、手に取るように分かった。

 身体能力にかまけ、技術を磨いていない。力だけはあるバカの典型例だ。

 軽くジャブを打ち、相手の出かたをうかがうも、ガードするだけで何もしない。

 何を考えているのかわからない。だが、相手の攻撃を受ける気もしない。

 時間を喰うだけだ。さっさと終わらせよう。

 バイオレンスが左の腕を少しだけあげると、達也の体が右に動く。

 それを見逃さず、すかさず踏み込み、右ストレートを顔に打ち込んだ。

 右拳に来る衝撃は、それがクリーンヒットしたことを意味していた。

 よし、当たった。しっかりと体重を乗せたパンチだ、ダウンは確実だろう。しかしあの顔は何だったんだ。結局なにもしなかったが。何もできなかっただけか……ん。

 ザワザワザワ。

 バイオレンスの耳に、なにかが騒めく音が聞えた。

 なんだこの音は――まて、達也はどこに行った。なんだ、これは。白い……光?ぼやけている――まさか。

 バイオレンスがハッと目を開くと、リングライトの光と共に、激しく騒めく観衆の声とコールするレフェリーの声が耳に入ってきた。

 スリー!フォー!

 何が起きた。いや、その前に立たないと。

 腰を上げ立ち上がると、すぐに膝が折れ、その場にしりもちをつく。

「う……うう」

 まるで床が揺れているようだった。それほど強いパンチを食らったということだろう。

 ファイブ!セックス!

「ま、待て。立つ!立つぞ!」

 バイオレンスは体を揺らしながら立ち上がると、グローブを構えた。

 試合が再開すると共に、いったい何が起きたのかを思い出そうとするも、右ストレートを出した後の記憶がすっぽりと抜けている。

 よけられた?いやあり得ない。確実に当たった感触があった。ならなぜ――

 それを理解したのは、達也の顔を見た後だった。

 バイオレンスのパンチが撃たれたのであろう右側の頬が、膨れ青くなっている。

 だが、その悲惨な顔の状態とは裏腹に、達也の顔には笑みのような表情が浮かんでいた。

そこで、バイオレンスは気が付く。

 捨て身だ。達也はバイオレンスの拳を受け、その状態のままパンチを放ち、ダウンさせたのだ。

 あり得なかった。あれだけのパンチを食らえば、脳は揺れ体は一瞬、硬直するはずだ。

 しかし、目の前の達也はそれをやってのけた。そう確信させる、異様な雰囲気があった。

 それを可能としたのは、強靭な顎の筋肉とタフネス、そして勝利への執念。

 バイオレンスは先ほどまでの、自分の姿勢を改めた。

 楽な相手だと思っていた。簡単に勝てると信じていた。だが違う、こいつには執念がある。鬼気迫るような執念が。

 バイオレンスの顔に真剣みが帯び始めると、達也はさらににやりと笑う。

「やっとマジになったかよ」

 そう言い、迫りくる達也に、バイオレンスは引き下がるしかなった。

 相手の捨て身の攻撃。これを見させられては、なかなか攻撃に移れない。さらに、まだ先ほどのパンチによるダメージが残っており、反撃も難しかった。

 ガードを固め引き下がるバイオレンスに、達也はすぐさま近づき、ボディーにパンチが撃ち込まれる。

「くぅ」

 ステップの速度は達也の方が上、簡単に間合いを詰められてしまう。だが、そのパンチを食らって一つ分かることがあった。

 威力がない。

 バイオレンスが下がっていたことによって、達也も不完全なパンチを出していたのだろうが、ここまで威力がないのは、達也の体にもダメージが残っているからだ。

 当然だ。あれほどのパンチを食らい、無事であるはずがなかった。前ラウンドでのダメージもある。全てを考慮しても、今の状況はほぼ五分だ。

 だが、足を止めて撃ちあうわけにもいかない。そうなれば、タフネスのある達也に軍配が上がる。なら、

 下がるバイオレンスに、再度、達也がパンチを繰り出すと、それを左手ではじき、右フックで達也の顔を撃った。

 達也が二歩後ずさると、バイオレンスは深追いせず、その場で拳を構えた。

 テクニックは俺が上。この調子で、確実にダメージを与えて、判定勝ちを狙う。

 ひたすら下がるバイオレンスに、無我夢中で追いかけ、パンチを放つ達也。それに対し、きれいにカウンターを取っていく。

 バカの一つ覚えか。

 そう思ったとき、

 トン。

 背中に当たるゴムの感触と、両脇に見えるロープ。

 いつの間にか、コーナーに追い詰められていた。達也は何も考えずに、パンチを出しているわけではなかった。相手の攻撃を受け、冷静さを失っていたバイオレンスはそのことに気が付かなかった。

 徐々に近寄って来る達也に、バイオレンスの額から汗が一つ流れていく。

 どうする。相手は捨て身でくる、全力での攻撃はできない。だとすれば、どうやってここから抜け出す。

 考えている間に、間合いに入られた。

 下がらせようと軽いジャブを打ち込むも、顔に何発か当たっているというのに、達也は一歩も引かない。

 これ以上、近づかれればもう相手のパンチをよけられない。力任せの打ち合いになる。そうなるとまずい。しかし、打開策はない。

「クソぉ!」

 深く踏み込み、右ストレートを達也に当てた瞬間、左の頬にとてつもない衝撃が来ると、体ごと右に吹き飛び、ロープに弾かれて地面に倒れた。

「あ……うう」

 なんてパンチだ。顔が吹き飛びそうになった。

 レフェリーのコールを聞きながら、バイオレンスはロープに手をかけて立ち上がろうとして、顔を上げたとき、両膝を付き、うつむいている達也が見えた。

 バイオレンスのストレートは、達也をダウンさせていた。レフェリーのコールは両者にされていたものだった。

 レフェリーのカウントが6になった時、両者が立ち上がり、ちょうど終わりを告げるゴングが鳴った。

 おぼつかない足取りで、バイオレンスがコーナーに戻り、椅子に座るとすぐに不安そうな顔をしたマネーが隣にやってくる。

「おいバイオレンス――」

「分かってる!」

 バイオレンスは声を荒げ、マネーの言葉を遮った。「まさかあんな戦法で来るとは、思ってなかっただけだ。安心しろ、負けはしない」

「つってもあの捨て身の攻撃に、なにか打開策でもあるのか」

「まあ見てろ」

 バイオレンスはコーナーにいる達也に目を凝らす。「次で終わらせる」

 

 

「つっ」

 血まみれの口を水でゆすぐと、刺さるような痛みを感じた。

「お前、このままじゃ体が持たねぇぞ」

 心配そうに本田がそういう。

「大丈夫っすよ。先に相手を倒しますから」

「バカ!そうじゃねぇ。相手を倒せても、このままじゃ体がいっちまうぞ。ボクシングが続けられなくなってもいいのか」

 どちらにしろ、もう達也は引退する気なのだが、本田はそれを知らない。

「すいません、本田さん。俺、こいつに勝ちたいっす。けど、勝つにはこれしか方法がない。だからやります」

 本田はぐっと口をつぐむと、達也の口にマウスピースを入れていった。

「もしもん時はタオルを投げる。恨むなよ」

 達也は頷くと、立ち上がり、リングの中央へと向かった。

 バイオレンスと向き合うと、ラウンド4のゴングが鳴る。

 達也はすぐに相手へと近づいていった。先のラウンドと同じように、逃げならジャブを放ってくるバイオレンスを、達也はコーナーに寄せるように追う。

 しかし、相手もそれを意識しているのか、なかなかコーナーに追い詰めることができなかった。

 何度も顔や腹に当たるジャブに、ダメージが蓄積されていく。

 それでも諦めず、ひたすらに追い続けると、ラウンドも後半に差し掛かった時、やっと追い詰めることができた。

 さあ、こっからだ……打って来い。

 にじり寄る達也に、静かに拳を構えるバイオレンス。

 間合いに入り込んだとき、すぐにバイオレンスが踏み込んできた。

 来た――。

 その瞬間、達也はぐっと顎と首に力を入れ、覚悟を決めながら右アッパーを繰り出す。

 達也の意地と執念が可能とする、捨て身のカウンター、これが決まれば勝負が決まるという確信があった。だが、

 まて……これは。

 顔に当たるバイオレンスのグローブ。しかし、そのグローブから一切の力を感じなかった。

 そして、グローブの左端からは、バイオレンスの体がスライドして見えてきた。

 そう、この捨て身の攻撃には、致命的な弱点があった。グローブによって半盲の達也には、相手の姿が完全に見えなくなることだ。

 相手が全体重を乗せた攻撃を放ってくる。その前提で、達也は大体の位置を予測し、攻撃をしていた。

 それを分かっていたバイオレンスはただ軽く、達也の視界を遮るためだけに右手を出し、体重を乗せず体を左へと移動させていた。

 当然、達也のアッパーは大きく空を切る。

 真左にいるバイオレンス。

 腰をそり上げ、右手を上にあげる達也。

 ガードは不可能だった。

 腹に左フックが撃たれ。

「うっ」

 わき腹に右フック。

「ぐ」

 再度、腹に左フック。

「かあ」

 最後に、わき腹にアッパ―がめり込んだ。

「ぐはっ」

 やべぇ……息が。

 腹への四連撃で、肺が横隔膜によって押し上げられたのか、息を吸えなくなった。

 痛みで両手が下がり、腰が曲がり顔が前に出ると、その顎にアッパーが打ち上げられた。

 キイイイイン。

 酷い耳鳴りの音が聞えた。

 上をむく顔に引っ張られるように、体が後ろにそれていき、そのまま後ろに倒れていく。

 視界はスローモーションとなり、回転しながら上に飛んでいくマウスピースがよく見えた。

 これは、何度も感じたことがあった。立ち上がることができない、確実なダウンの感覚だ。

 ゆっくり、ゆっくりと体が床へと近づいていく。

 首を横にやると、驚愕している観客の顔が映る。

 みな、達也を見に来た人間たちだろう。

 悪いな、みんな……俺、もう無理――。

 そのときである。目の前の景色が一瞬にして変わった。

 それはあの時、緑内障となった試合に見た、あの幻影だ。

 子供が、かじりつくように、古ぼけたテレビを見ている。

 モニターに映る二人の男。リングの中でグローブをはめ、拳を打ちあっている。

 手前の男が素早い動きでパンチを繰り出し、相手の顔に命中するとガクンと膝を落とした。

 くるりと踵を返し、コーナーに戻る男。湧き上がる歓声。コールするレフェリー。立ち上がらんとする相手。

 達也は苦笑する。さしずめ、クールにコーナーに戻ってるこいつがバイオレンスで、倒れてるのが俺って感じか。

 すると、その画面をみる子供も、観客と同じように何やら騒ぎ出した。

 どこのガキだか知らねーが、こう俺側の人間が倒れて騒がれてるの見ると、気分が悪いぜ。

 そのとき、ふと不思議に思った。

 その子供の騒ぎ方である。何となく、喜んでいるようには見えない。

 このガキ、なんだ……ちょっとまて、ここは。

 そして、達也はすべてを思い出した。

 そうだ……このガキが。いや……俺が……あの時見ていたのは。

 

 

 バタン。

 達也が倒れると、その傍らにマウスピースが落ちた。

 それを見て勝利を確信したバイオレンスは、右手を上げてくるりと踵を返すと、自分のコーナーへと歩き、両腕をロープに置いてレフェリーを眺める。

 ワン!トゥー!

 無理だ。あれを食らって立てるやつなんて――

 バイオレンスは息をのんだ。

 レフェリーの足元で、グローブを床に押し当て、立ち上がろうとする達也が見えた。

 まだ立てるのか。

 達也はマウスピースを拾い上げ、ファイティングポーズをとる。

 だが、もう限界だろう。

 そう思い、再開の鐘と同時に、達也に詰め寄ろうとした瞬間、バイオレンスの足が止まった。

 両腕を前に出し、ガードの姿勢をとる達也。そのグローブによって半分隠れた顔から、それまでの物とは違う、凄まじい闘志を感じた。 

 その目を見て、バイオレンスはなにかを直感した。早く、達也にまだダメージがあるうちに終わらせなければならない、なにかを。

 バイオレンスは近づき、ガードの上から達也へ連撃をくり出した。

 グローブによって防がれてはいるが、衝撃はある程度伝わる。いまの達也にとってはそれすらつらいはずだ。

 休む暇を与えず、的確にガードの開いた場所にも拳を当てていく。

 不意に達也の右手が上がり、反射的に顔に攻撃を撃ち込んだ。

 だが、すぐさま捨て身のことを思い出し、肝を冷やしたが、達也は後ろにのけぞっただけで、攻撃は来なかった。

 いまのダメージ状況では、捨て身の攻撃もできなくなっているようだ。

 ますます、今が好機だと思い、連撃の手を速めていく。

 倒れろ、倒れろ。

 打ち込む度にそう願うが、ぐっと足を踏み縛る達也はなかなか倒れそうになかった。

「クソ」

 息の上がったバイオレンスは、いったん距離をとった。

 すると、肩で息をするバイオレンスに、達也はすり足でにじり寄る。

 その目は、まるで獰猛な獣のようだった。それに気圧され、バイオレンスもゆっくりと後ずさっていく。

 トントンと達也はリズムをとりながら、体を揺らしただした。

 くるか。

 そう思い、バイオレンスは身構えた。

 もう相手も限界に近い。次で決める。

 二人はじっと見合った。

 10秒……20秒。

 永遠とも思える沈黙が、二人の間を通り抜けていく。

 それをつまらなく思ったか、リング近くにいた観客があくびをした時、沈黙は破られた。

 達也が左にステップを踏んだ後、左のフックを繰り出す。

 不意の移動にバイオレンスは一瞬あっけにとられたものの、顔を引きそれをかわした。

 よし、これで終わり――

 右腕を構え、撃ち込もうとしたその刹那、達也と目があった。

 燃え盛るような、闘気のおびた目。

 目があったのは、ストレートを撃ちこむ前のほんの一瞬。だが、その一瞬で脳裏に焼き付くほどの衝撃を、バイオレンスは受けた。

 ダメだ……こいつ、やる気だ。

 捨て身を察知し、とっさに右ストレートに偽装したフェイントを繰り出した。

 前に出るグローブ。だが、バイオレンスの体は右へと移動していく、そのとき、

 トン。

 そのグローブが達也の顔面に押され、弾かれた。そのまま、達也はバイオレンスへと近づく。

 達也はその攻撃を、フェイントだと信じたのか、体を前に出していた。

 それは危険な賭けだ。

 もし本気のストレートを撃っていた場合、自分からそれを受けに行くことになる。

 そんなことになれば、パンチに相手の体重だけではなく、自分の体重も乗り威力は倍増し、確実に立ち上がれないほどの威力になる。最悪、後遺症の残るケガを負う可能性だってある。だが、達也はそれをやってのけた。

 いまだバイオレンスの体は空中にあった。その間に達也は左足を踏み込み、そして、

 

 

 ドン。

 思い切り左足を踏み込み、渾身の力で放った右アッパーが、バイオレンスの体に打ち込まれた。

 バイオレンスの両足が一瞬、床から離れ、足がつくとそのままうつ伏せ倒れた。

「うがあああ」

 腹を抑え、のたうつバイオレンスをしり目に、達也はリングロープまで歩き、脇を乗せて体を休ませる。

 まだ頭がはっきりしなかった。正直、いま立てているのも、あれだけのパンチを撃てたのが奇跡だと思うほどだ。

 レフェリーのカウントが7になった時、立ち上がるバイオレンスの姿が見えた。

 同時にラウンド終了のゴングが鳴った。

 達也は手でロープを持ち、体を支えながらコーナーへと戻る。

「達也!」

 本田が達也に抱き着くと、ゆっくりと椅子に座らせた。

 力なく座り込む達也を見て、本田は言う。

「達也……お前やっぱ――」

「伊藤文学って……しってます」

 達也が突然、そういうと、本田は強く頷いた。

「ああ、伝説のボクサーだよ」

 伊藤文学。

 JHBC元フェザー級チャンピオンだった男だ。

 達也は笑いながら話し出した。

「覚えてますか、チャンピオンに挑戦したときの試合。あんとき、俺はガキだったんですけど、どんだけ攻撃を食らっても、倒されても、引かず前にガンガンいくあの人見て、かっこいいなって思ったんすよ。倒されるたんびに、頑張れ、立てって騒いでました」

 本田の顔を見ると、それに同調するかのような表情が見えた。

 それをうれしく感じながら、達也は続けた。

「俺もこんな、周りからすげーって思われるような、勇気をもらえるような、そんな男になりたくて、ボクサーになったんっすよ。だから、まだ終われないっす。あの人なら、こんなところで引き下がらない」

「その気持ちはよくわかるよ。けどな、その人が最後どうなったかは、当然知ってるよな」

「はい」

 WLGSBC挑戦中に、網膜剥離になって引退した。だが、

「けど、あの人は、きっと後悔してないと思います」

 本田はため息をつきながら頷いた。

「そうだな……行ってこい」

「はい」

 震える足で立ち上がると、のそのそと中央へと歩いていく。

 それはバイオレンスも同じだった。ボディーへのダメージがかなり効いているのか、足どりが異様に重い。

 中央で見合ったとき、二人は互いの限界が近いことを感じた。

 このラウンドで終わる。

 ゴングが鳴ると、二人は示し合わせたかのように、近づいて間合いに入った。

 もう引くことはできない、ここからは意地の張り合いだ。

 最初に手を出したのはバイオレンスだった。左フックが達也の顔に当たると、それを返すように、達也も左フックを見舞った。

 そこからは、ひたすら同じ技の応酬だ。

 右フックには、右フックを。ストレートには、ストレートを、アッパーには、アッパーを。

 二人は避けることなく、引くことなく、ただパンチを撃ち続けた。

 だが、不意に均衡は崩れた。

 両者体力の限界で、もういくつパンチを撃ったのか、もはや分からなくなっていた時、達也の右ストレートが当たると、バイオレンスはふらつき、一歩だけ後ずさった。

 もうろうとする意識の中でも、達也はそれを見逃さなかった。

 これで……これで終わりだ。

 一歩踏み出し、再度、右ストレートを撃ちこんだ。が、

 パン。

 バイオレンスの左手が、それを下に弾いていた。

 バイオレンスには、その達也の拳は、ほとんど見えていなかった。無意識の中、幾重も繰り返した技を、本能的に繰り出していた。

 達也の体が前によれ、体勢を崩すと、その顔にバイオレンスの右フックが当たった。

 視界が揺れ、体の感覚がなくなる。だが、達也は倒れなかった。ギリギリのところで耐えた

 攻撃をしたバイオレンスも、前に出した右腕をそのままに、いまにも倒れそうに肩で息をする。

 気力も体力も出尽くしていた二人は、その状態のまま、なかなか動き出さなかった。

 そんな中、先に動き出したのは達也だった。

 右腕を引き、撃ち込もうとした瞬間。

「うおおおぉ!」

 雄叫びを上げたバイオレンスが、最後の力を振り絞り、先に右のストレートを撃った。

 それはちょうど、心臓の部分に当たり、達也の体を硬直させた。

 体が動かなかった。足の感覚がなかった。息ができなかった。全身がブルブルと震え、いまにも倒れそうだった。

 やべぇ……とぶ……意識が。

 体から力が抜け、前に傾いていく。

 そのさなか、最後の最後、途切れかけた意識の底、達也の脳裏に見えたのは、緑内障の少年。

 ダン。

 倒れる寸前、足が前に出て体を支えた。

 見てるよな……きっと。

歯を食いしばり、顔を上げてバイオレンスと見合う。

 もうバイオレンスに、動く気配はない。

 全身を奮い立たせ、右腕を構えると、

「ああああぁ!」

 雄たけびとともに、右手を前に出した。

 それをバイオレンスは正面から受けると、体は後ろに倒れた。

 ワン!トゥー!

 レフェリーが駆け寄り、カウントが始まる。

 達也はその場から動かず、じっとその様子を見守った。

 スリー!フォー!

 立つな、そのまま寝ていてくれ。

 ファイブ!セックス!

 頼む……そのまま。

 そのとき、バイオレンスがゆっくりと立ち上がった。

 セブン!エイト!

 無表情のまま、静かにレフェリーの方を見て、両手を構え――

 ナイン!テン!

 コールが終わった瞬間、糸の切れた人形のように、バイオレンスはその場に崩れ落ちた。

 ほんの一間の静粛が、会場を包み、そして、

『うおおおおおお!』

 リングを揺らすほどの歓声が、会場を響き渡った。

「やったな、達也!」

 本田がすぐに駆け寄り、達也を担いだ。

 達也はなにも答えることができず、椅子へと運ばれると、天を仰いで笑った。

 伊藤さん……俺はどうしようもなく、ずるい人間です……けど、ちょっとは、あんたに近づけたかな。

「おい、達也!大丈夫か……返事を――」

 歓声と本田の声が遠のいてゆき、視界は閃光に飲み込まれていく。

 喜びに満ちた達也の魂は、体を抜け出していくと、ゆっくりとリングライトの中へと消えていった。

 

 

 

 数年後。

 田所は一人、墓の前に立っていた。

 そこは緑の多い、海の見える墓地だった。

「気持ちがいいな。練習漬けだったお前には、落ち着けるいい場所じゃないか」

 水平線を眺め、自然の香りを感じた後、田所は続けた。

「お前がやったことは不正だ……だが、少なくとも、お前に手術したことは、間違ってはいなかった……はっきりわかんだね」

「せんぱーい」

 遠くから遠野が呼ぶ声が聞えてきた。「依頼者の方が待ってますよ」

「いま行く」

 そう返事をした後、墓を一瞥して、遠野の元へと歩いていった。

 その墓には不思議なことに、金銀銅、様々なメダルと、いくつものトロフィーが供えられていた。

 


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