ブラック・ファック   作:ケツマン=コレット

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表と裏

「分かりました、すぐにやらせてもらいます……なに?……もう一つですか」

 

「へえ……こちらは……娘さん……息子さん……お孫さんですか?……だったら誰――まさか」

 

 

 

「いい家たてたなぁ」

 机に座る、金髪のオールバックに眼鏡をかけた新庄は、リビングを見渡しながらそう言い、遠野が出したコーヒーをすすった。「下北沢……立地も悪くない」

「何の用だ」

 新庄の与太話を無視して、対面に座る田所は要件を聞いた。

「おい、用がなきゃ来ちゃいけないのかよ。俺たち友達だろ」

「腐れ縁、と言うやつだ。特別会いたいことはない」

「そう言うなよ、久々に日本によったから、時間さいてわざわざ来たってのに」

「だったら、もっと別のことに時間を使ってくれると助かる」

「先輩」

 その返事を咎めるように隣に立つ遠野が小声でそう言ったが、まるで聞こえていないかのように田所が無視すると、新庄は「フフ」と笑った。

「変わってないなあ、お前。まあ元気そうで何よりだ。コーヒーありがとう、おいしかったよ。じゃあな」

 新庄が部屋から出て玄関の開閉音がすると、すぐに遠野が言った。

「先輩、なんであんなこと言うんですか。お友達でしょう」

「ちゃんと聞いていたか。腐れ縁だ、昔からの知り合いってだけで、友人ではない」

「知り合いですか。何をされてる方なんですか」

 田所は新庄が座っていた椅子に目を凝らし、何かを考え込むように間を置いた後、

「人殺しさ」

 そう小さくつぶやいた。

 

 

 

 

「こちらです」

 依頼者である30代の女性に連れられ病室に入ると、個室で老人が一人、体の各所に様々なチューブを付けられ眠っていた。

 茂呂感家、日本の19大財閥の一つだ。

 その元長だった男は今、死の淵にいた。

「肝臓がんですか」

 田所はその老人を見下ろしていった。

「はい」

 老人はすでに数年前から寝たきりの生活で、その間にもほかで何度も手術を行っていたようだった。

 肝臓がんが分かったのは一月ほど前。依頼者である娘は何とか父であるこの老人を生かそうと、あらゆる病院に声をかけたが、すべて断られたそうだ。

「腫瘍の数も多く、肝機能も体力もない老体には、手術は無理だろうと」

 娘は悲しそうにそう語った。

「なるほど、確かにその通りだ」

「ですが、神の手を持つ天才、ブラック・ファックさん、あなたなら」

「私の名前は田所です、ブラック・ファックと名乗った覚えはありません」

「ああ」

 娘は動揺して、口に手を当てた。「も、申し訳ありません」

「いえ」

 そう答え、田所は老人を見た。

 齢77。過去に何度も手術歴がある、寝たきりの人間。肝臓の手術は不可能。

 だがそれは、あくまで一般論の話だ。

「いいでしょう、引き受けます。謝礼の方は、成功報酬で1億1451万4千円でどうでしょう」

 田所がそういうと、娘の顔は一転し、ぱっと明るくなった。

「はい、小切手でお支払いします。でしたらすぐに手術を――」

「なんの話してんだよ。俺も仲間に入れてくれよー」

 突然、聞きなれた声が後ろから田所の耳に入り、振り向くとドアの前に、足を肩幅より少し大きめに開きながらも、右に少しだけ重心を寄せ、サイコパスを思わせる、ぎこちない笑い顔を作った新庄が立っていた。

「新庄!」

 とっさに、田所は娘の前に出ると「うげ、臭っ!」といって娘は鼻に手を当てて膝をついた。

 田所がハッとしてその娘を見下ろすと、

「気を付けろよ」

 と新庄が頬を吊り上げた。「お前の体臭はバイオテロ並なんだからよ」

 田所は新庄をにらみつける。

「新庄、お前どうしてここにいる」

「どうしてって、俺が患者の元に来る目的は、一つしかない」

 まさか。

「殺しに来たのか、この人を!」

 田所が語気を荒げると、新庄は眉を寄せていう。

「言い方が悪いな、救いに来たといってくれ」

「そ、それは……どういう意味ですか、田所さん」

 苦しそうに鼻をふさぐ娘は、その話を聞いて立ち上がった。

「こいつの名前は新庄、報酬で人を殺す人間です」

「何度も言わせるなよ」

 新庄は田所を咎めるようにいう。「俺が行うのは安楽死だ、ただの殺人じゃない。いいかげん覚えろ」

 安楽死、という言葉を聞くと、娘の顔から血の気が引いた。

 田所はその娘の顔を一瞥すると、

「誰の依頼だ」

 と新庄にきいた。「本人はこの通り寝たきりだ、お前に依頼をする人間はいないはずだ」

「その方の息子。お前の後ろにいる、お嬢さんのお兄さんだ」

 田所が後ろを向くと、娘は静かに頷いた。

「はい、兄がいます……でもどうして」

「お兄さんは医者だ。この病院の院長でな」

 新庄は歩き、老人の隣に立った。「こんな手術、到底無理だと分かってるんだろう」

「だが、俺ならできる」

 田所がそういうと、新庄はその顔を見て、にやりと笑った。

「だろうな」

 思わぬ返事に虚を突かれ、田所が固まると、新庄はベッドの奥にある窓まで歩き「ちょっと臭いから開けるよ」といって開くと、窓枠に手を置いて外を眺めた。

「お前が治せないのは、死体だけだ。きっと手術は成功する。だが、問題はそれだけじゃない」

 新庄は振り向いて、窓枠に腰掛けると、老人から伸びるチューブのうちの一つを指さした。「お嬢さん。これ、なんだかわかりますか」

 娘は首を横に振った。

「いえ」

「胃ろう、ってものでしてね、物を食う力がなくなった人間が直接、胃袋に栄養を運ぶためにつけるもんなんですよ。これをすると、わざわざ面倒な食事をしなくてすんでしまい、自然と物を食べなくなる……食べるという機能が衰退するほどにね。どういう意味か分かりますか」

 娘が何かを考えるように、視線を床に落とすと、新庄は続ける。

「あなたが毎日食べる美味しい料理を、まったく食べられなくなると考えるといいでしょう。それだけじゃない、送り込まれる栄養素だけじゃ、日に日に体は痩せ、弱っていく。こんな体じゃ男も抱けない。ぐっすりと眠るのだって難しい。希望なんてどこにもない、ベッドの上で雲でも見ながら死ぬのを待つしかない」

 娘は何も答えずに、目を泳がせた。

「やめろ!」

 その様子を見て、田所は叫んだ。「この人を惑わせるんじゃない」

「俺は事実を述べているだけだ」

 田所は自分の体臭が臭わないよう、少し離れた状態で娘の顔を見た。

「娘さん。いいですか、死んでしまえばそこで何もかも終わりです。まだあなたには、伝えたいことや、やりたいことがたくさんあるでしょう。何より、あなたは父親にまだ生きていてほしいはずだ」

「無責任だな」

 新庄がいった。「お前は生かした後のことを、何も考えていない」

 田所は振り向き、新庄に鋭い目を向けた。

「お前だって、殺した後のことなんて考えちゃいないだろう」

 そういうと、新庄はとぼけたように肩をすくめた。

「あの」

 そのとき、娘がそうつぶやき、二人は黙って視線を向けると「兄と……相談してきます」とそそくさと病室を立ち去った。

 不意に、病室にしんとした沈黙が訪れる。

「77年」

 静寂が3分ほど続いたとき、つぶやくように新庄はいった。「よく生きた方だろう。財閥の長だったんだ、もう体も限界だ。老体が悲鳴をあげていらっしゃるよ、死なせて差し上げろ」

「黙れ。現代医療は進んでいる、まだまだ死ぬには早い」

「その現代医療が問題だ。ただ生かせばいいってもんじゃないだろう」

「だから殺すのか」

「そうだ」

 そう答える新庄に、田所は軽蔑の眼差しを向けた。

 それを見て新庄は鼻を鳴らす。

「正確には、この人の息子が、だがな。俺は依頼を受けたに過ぎない」

「だからといって、人を殺すなんて馬鹿げてる」

「息子がか?」

「どちらもだ」

 新庄は少し上を向き、長い吐息を漏らした。

「なあ田所、俺とお前は表と裏だ。患者を救いたいという目的は一緒。ただ、過程と結果が違うだけ。まあそれでも、やっぱり俺は裏、日の当たらない日陰者。多くの人間が表であるお前を求めるだろう。だがな、時に裏が必要なときだってあるのさ」

 田所は瞑目して首を横に振る。

「その考え、俺には一生分かりそうにない」

「分からなくていい、生きるか死ぬかのコイントス、どちらの面が上か、決めるのは――」

 突然、病室のドアが開き、緊張した面持ちの娘が入ってきた。

 二人は口をつぐみ返答を待っていると、娘は深呼吸の後、口を開いた。

「兄と相談してきました……手術をお願いします」

 ほっと胸をなでおろす田所に、

「決めるのは、その親族か本人だ」

 と新庄は小さく笑うと、肩をポンと叩いた。「おめでとう、表だ」

 

 

 手術室に入ると、麻酔によって眠る老人の周りには、サポートをする手術室看護師の他に、大量の医者が並んでいた。

 その中から、一番若そうな、40代ほどの男が前に出ると、

「今回は、勉強させていただきます」

 と頭を下げると、それに続き他の全員が続き頭を下げた。

 その男が顔をあげると、その帽子とマスクの間から見える目には、明らかな疑惑の色が見えた。

 田所は、なんとなく、その男のことを察する。

「息子さんか」

 そう聞くと、一瞬の間の後、男は頷いた。

「はい」

 確か新庄が院長だといっていた男だ。

 親の力もあるのだろうが、この年齢で病院の院長ということは、それなりに実績あっての物だろう。

「見るのは勝手だが、邪魔はしないでくれ」

 そういって、田所が手術を始めようとしたとき「あの」と息子に呼ばれ振り向いた。

「手術……可能なのですか」

 息子は、いまだにそのことが信じられない、といった様子だった。

 田所は息子に対し、正面から向き合った。

「私には、治る見込みのない患者を切る趣味はない」

 

 

 田所が行う手術は、腹腔鏡手術と呼ばれるものだ。

 まず初めにへそのあたりに、10ミリほどの切れ目を入れ、そこに棒状の内視鏡を挿入する。

 それにはライトと炭酸ガスを放出する管も一緒になっており、腹をガスによって膨らませると、ライトが中を照らし、患者の足元にあるモニターに内臓の映像が出力される。

 次に、肝臓部、左の腹部に三か所、5ミリの切れ目を三角形になる様に入れる。

 そこには棒状の電子メスと、持ち手の部分にトリガーのようなものが付いている、二本の鉗子(ハサミ型をした組織をつまむための器具)を挿入する。

 カメラを通した映像を見ながら、この三本で手術を行うのだ。

 この方法は普通の開腹手術と違い、患者への負担が軽い。大きく腹を裂く必要がないので、出血も傷も小さくすむ。

 だが、メリットだけというわけでもない。

 見るのはカメラから送られる映像、器具は棒状のため、普通に手術を行うよりも難易度が高く、執刀医にはかなりの技量が求められる。

 電子メスでの熱による傷口の縫合は、縫合不全になってしまうことが多く、さらに少しのミスで出血にもつながってしまうため、それらが要因での合併症によって、術後に死んでしまう患者もいるほどだ。

 当然、手術には慎重を期すため、必然的に手術時間も長くなる。

 負担が少ないとはいえ患者はすでに死期の近い老体であり、時間をかけられる余裕はない。

 腫瘍の数も4つと、かなり多い。普通に考えれば無理な話だ。だが、

 ――ばかな。

 カメラから送られる映像を見て、息子は言葉を失った。

 モニターに映る電子メスと二本の鉗子。それらが異質な速さで動きながらも、機械のような的確な動きで腫瘍を切除していく。

「一つ目だ」

 田所がそういって、鉗子で腫瘍を取り出すと、慌ててやってきた看護婦のもつトレイに置いた。

 早すぎる。

 驚愕する息子の後ろで、他の医者たちの声が上がった。

「なんて早さだ」

「これがブラック・ファック」

「まさに神の手だ……少し体臭が臭うが」

 医者の誰かがそういうと、カメラに目を向けている田所の眉がピクっと動いた。

「うむ、臭い」

「この臭いは腐った魚か」

「いや、ウンコだろう」

「もはや手術のうまいウンコだ」

「やかましい!」

 突然、田所は口を大きく開けて叫んだ。「邪魔をするなら出ていけー!」

 見学していた息子以外の医者たちは慌てふためき、蜘蛛の子を散らすように手術室から立ち去った。

「まったく、失礼な奴らだ」

 そうぼやき、手術に戻る田所に息子は頭を下げた。

「申し訳ない、代わりに謝罪します」

「別にいい」

 田所は明らかに不機嫌そうに、そう返事する。「君が悪いわけじゃない……二つ目」

 また腫瘍が取り出される。

 その神がかり的な手術を息子は黙って見ていた。

 自分との技量の差、それを痛感していると、

「君は、親父さんを安楽死させる気だったらしいな」

 不意に田所がそう聞いてきた。口を動かしながらも、手術の速度は全く変わらない。

「ええ……まあ」

 息子は答えにくそうに、そう返事をした。

 寝たきりで、なにもできなくなった父親とはいえ、安楽死させるという選択をとったことに後ろめたさがあった。

「なんだ、仲でも悪かったのか」

「そんなことはありません。僕がここまでになれたのは、父のおかげです。尊敬しています」

「ならどうして」

 田所が問うと、息子は何もいわずうつむいた。

「3つ目だ」

 田所が腫瘍と取り出すと、息子は小さな吐息の後に続けた。

「先生……父は限界が近い、もう立ち上がることすらできません。ただあの病室で、死ぬのを待つことしかできないんです。この手術が成功しても、もらえる時間はせいぜい1,2年。なら、いっそ一思いに殺してあげた方が親孝行なんじゃないかって――」

「勝手なことをいうな」

 田所は一瞬、手を止めると目線を息子に向けた。「まだ生きてる人間を殺すのが親孝行。そんな馬鹿なことがあるか」

 その勢いに息子は一瞬、気圧された。 

「なら……どうすればいいんですか」

「話しをしてやれ」

 そう答えて、田所は目線をモニターに戻した。「楽しかったこと、悲しかったこと。なしえたこと、失ったこと。なんだっていい。とにかく顔を合わせて、話をしろ」

「そんなことでいいんですか」

「死ねば、そんなことすらできなくなる」

 当然の反論に、息子は返す言葉が見つからなかった。

「嬉しいことがあれば、共に喜んでくれるだろう。迷ってることがあれば、きっと道しるべになってくれる……それに、お前さんはまだ、親父さんに死んでほしくないんだろう」

 息子はゆっくりと頷いた。

「なら、死ぬその時まで一緒に居てやれ。それが唯一できる親孝行だ。これで最後」

 最後の腫瘍と取り出すと、メスと鉗子を抜き踵を返した。「後は頼んだ」

「先生!」

 田所が足を止め肩越しに後ろを見ると、息子は深々と頭を下げた。「ありがとうございます」

 田所はほほ笑み「私は報酬分の仕事をしただけさ。礼には及ばない」と手術室を後にした。

 

 

 そろそろだろう。

 そう思い、田所が病室を訪れると案の定、老人は目覚めており、じっと天井を見つめていた。

「お目覚めですか」

 田所が枕元に立つと、老人は何もいわず、ゆっくりと田所の方に視線を向けた。

「初めまして、あなたの手術をさせていただきました、田所というものです。安心してください、手術は成功しました」

 老人は手術が終わってすぐのため、まだ調子がすぐれないのか、かすかに開いた皺まみれのまぶたから見える、小さな黒い点を田所に向けるだけだった。

 何を考えているのか、その表情からはうかがい知れない。そんな老人に、田所は続けて語る。

「あなたは、もう老い先短いかもしれない。それでも、あなたの息子さんと娘さんは、あなたを必要としてる。生きてほしいと願っている。まだまだ、あなたには生きる価値がある」

 田所は老人の目をじっと見つめた後、軽く頭を下げた。「では、失礼します」

 老人を背にし、ドアに向かって足をすすめたとき、

「ご」

 ――ご?

 突然、後ろから声のようなものがし、振り返ると、老人と目があう。

 その目は、まっすぐでありながらも、今にも泣き出しそうも見えた。

 なにか。と聞こうとした瞬間、

「父さん!」

 突然、後ろのドアが開き、後ろから二人の重なった声が響くと、田所の両脇を息子と娘が通り過ぎ、すぐに老人の元に駆け寄った。

 笑顔で手を取り合い、幸せを分かち合う家族を見て、邪魔をするまいと、田所はなにも言わず、すぐにその場を立ち去った。

 後1,2年の命かもしれない。だが、その時が来るまで、あの幸せの時間がきっと続くのだろうと、田所はそう信じていた。

 あの時までは。

 

 

 銀色のパウチが沈む鍋の中は、グツグツと煮だっていた。

 遠野はさい箸でパウチを取り出すと、すでにご飯をもってあった皿に中身を注いだ。

 もう一つそれを用意すると、両手に持ち、机まで歩くと「どうぞ」とふてくされたように言い、田所の前に置いた。

「なんだその顔は。飯がまずくなる、やめろ」

「もともと、たいして美味しくもないでしょう」

 そう返して、遠野は田所の対面に座り、もう一つの皿を自分の前に置いた。

「何をいう。ポンッカレーは世界で一番うまいんだ」

 そういって、田所はカレーを一口食べた。

「ただのレトルトカレーでしょうが。だいたい、なんで急にポンッカレーが食べたいなんて言いだしたんですか、今日は金曜日じゃありませんよ」

「別に金曜日以外、食べないとは言った覚えはない」

「急すぎますよ、もう夕飯の準備もしてたのに……何かいいことでもあったんですか」

「別に」

 田所はそう返事をすると、もう何もしゃべらないといった様子で、黙々とカレーを食べだす。

「もう、勝手だなあ」

 遠野は文句を言い、カレーを口に運ぼうとした瞬間、電話の音が部屋に響いた。

「遠野」

 と田所は電話を指さす。

「たまには自分が出てくださいよ」

 遠野は椅子から立ち上がりながら言った。「依頼者だったら先輩に代わるんですから」

「それ以外だったら面倒だろ」

 それ以外のことなんてほとんどないでしょ、このハゲウンコ。

 と心の中で悪態をつきながら、遠野は電話にでた。

「はいもしもし、こちら田所――」

『田所先生ですか!』

 突然、切羽詰まった女性の声が、受話器から聞こえてきた。

 遠野はビクっと肩を浮かせた後、

「いえ、僕は助手の遠野です」

 と返事をすると、

『あの、先生に代わってください』

 女性は、はやる気持ちを抑えるかのようにそう答えた。

「先輩」

 遠野は黙々とカレーを食べている遠野に話しかけた。「電話を変わってくれと」

「なんだ、どんな依頼だ」

 田所は立ち上がって、受話器を受け取る。

「いえ、ただ代わってくれと。なんだか焦ってるようでした」

「焦ってる?」

 そうつぶやくと、田所は受話器を耳に当てた。「代わりました、田所です」

 田所がそういうと、受話器からは遠野がわずかに聞こえるほどの音量で、二言ほど女性の声がすると、田所の顔が一瞬にして深刻な顔つきに変わった。

「どうかしたんで――」

 なにが起きたのかを、遠野が聞こうとしたとき、

「悪い、出る!」

 と受話器を置いて田所は玄関に走っていった。

「ちょ、ちょっと先輩!」

 遠野の呼び声も聞こえていないのか、何の返事もなく田所は野獣邸から出て行った。

「何もかも急だな、もう」

 大変なことでもあったのかな。

 疑問に思いながらも、ポンッカレーにラップをしようと、キッチンに行こうとしたとき、インターホンの音が鳴った。

 

 

 田所が病室に訪れたときには、二名の看護婦がベッドの両脇に立ち、息子が老人の上にまたがり、必死に心臓マッサージを施していた。

「先生!」

 すぐに娘が駆け寄ってくると、田所は聞いた。

「いったい何があったんですか」

「分かりません、急にお父さんの息が止まって」

「息が止まった」

 田所が老人に目を向け、近づこうとしたとき、その惨状を見て足を止めた。

 息子が体重を乗せ、胸部圧迫を行うたびに、老人につけられた呼吸器が血に染まる。

 もう肋骨は砕け、何本も肺に突き刺さっているのだろう。

 時に、親族が寝たきりの親などへの延命治療を頼んだ時に、このような光景が見られる。

 このままでは、たとえ心臓が動き出しても死ぬのは確実。だが、心臓マッサージをやめてしまえば、脳に血がいかなくなり死んでしまう。

 ベッドの両脇に立つ看護婦たちは、何もせずただ老人が血を吐くさまを見ていた。どうあがいても結末は同じなのだ。だが、それでも息子は心臓マッサージを続けた。

 生きてほしいという強い気持ちが、やめることを許さず。その気迫に押され、その場の誰も、彼を止めようとしなかった。

 だが、こんなことを永遠に続けるわけにはいかない。

「もういい」

 田所が息子の肩に手を置いたが、やめる気配はない。

「やめるんだ」

 田所は肩をゆすった。「いたずらに体を傷つけるな」

 ピタリと心臓マッサージが止まると、息子はその場で頭を垂れ、うなだれた。

「兄さん、でよう」

 なにも語らず、体を震わせる息子を、娘が背中に手を添えながら病室から出した。

 一呼吸置いた後、看護師たちが死体の服を整えると、呼吸器や繫がれたチューブを外し、血で染まった口の周りを綺麗に拭いていく。

 その様を黙ってみていた田所は、胸ポケットから今日受け取った小切手を取り出すと、そっと枕もとにある台の上に置いた。

 そのとき、偶然見えた、少しだけめくれた布団から出る腕。同時に、湧き上がる違和感。

「失礼」

 そういって、その腕を握り目元に近づけた。

 見えたのは真新しい注射の痕。

 手術したときには、こんな痕はなかったはずだ。なのになぜ……まさか――

 不意に胸の中を満たしたある疑念と共に、田所は病室を出た。

 息子に話を聞こうとしたが、廊下の椅子に座る息子はいまだ意気消沈し、娘が隣に座って慰めていた。

 ダメだ、まだ話をできる状況じゃ――

 突然、ポケットの中の携帯が震えた。

 すぐに踵を返しながら携帯を手に取り、その場を離れながら耳に当てた。

「なんだ」

『あ、先輩』

 遠野の声が聞えてきた。『どこに居るんですか、急に出て行っちゃって』

「悪い、いま立て込んでるんだ。切るぞ」

 そう答え、携帯を耳から離し、画面を見て切ろうとした瞬間、

『ちょっと、新庄さんが来てるんですよ』

 遠野の声が聞こえ、田所は息をのむと、すぐさま携帯を耳に戻した。

「いま、なんていった」

『ですから、新庄さんが――』

「新庄がそこにいるんだな!」

 田所は自然と遠野の言葉を遮り、声を荒げていた。

 それに驚いたか、

『そう……ですけど』

 とうろたえた様子で遠野が答えると、

「すぐ戻る、新庄を絶対にそこから出すな!」

 田所はそういい、電話を切って病院の廊下を駆けた。

 

 

 

 駐車場に車を止め、階段を駆け上がりドアを開ける。

 乱雑に靴を脱ぎ捨て、廊下を歩きリビングに行くと、机でコーヒーを飲む新庄と、少し離れた位置で立つ遠野が見えた。

「先輩」

「すまん遠野」

 遠野の言葉に、田所はすぐに返答した。「ちょっと、自分の部屋に戻っていてくれるか」

「え、でも――」

「頼む」

 田所の真剣な表情を見てなにかを悟ったのか「分かりました」と遠野はリビングから出た。

 それを見送った田所は、新庄の隣に立ち、端的に言った。

「お前だな……あの老人を殺したのは」

 新庄はうっとうしいといった様子で眉を寄せると、小さく首をかしげ、コーヒーをすすった。

「何度も言わせるな、俺は患者を救っただけだ」

「ふざけるな!」

 田所は力いっぱいに机を叩いた。「この人殺しが、なんであの人を殺した」

「俺は私欲で薬は使わん。依頼がなきゃ仕事はしない。お前だってわかってるだろ」

「黙れ、あの人の親族は娘と息子しかいない。彼らがそんな依頼をする訳がない、いったい誰がお前に依頼を――」

 したというんだ。そういいかけたとき、ある可能性が脳裏をかすめると、言葉をとめ、震える手で口を押さえた。

 まさか……そんなはずが。

「生きるか死ぬかのコイントス」

 新庄がそういうと、田所はハッとして顔を上げた。

 にやけ顔の新庄は、ゆっくりとポケットの中に手を入れた。その一挙手一同を、田所は口を閉ざして見ていた。

「決めるのはその親族か本人。優先順位は――」

 田所の額から汗が一筋流れると、新庄はポケットの中から長方形の、ちょうど七夕に飾る短冊、あれを一回り大きくしたような紙をとりだし、机の上に置いた。

「本人が上だ」

 こ・ろ・し・て・く・れ。

 つたなく、形悪く、へたくそな、だが確かにそう読めるひらがなが、そこに書かれてあった。

 田所は言葉が出なかった。頭の中が真っ白になり、全身が打ち震えた。

「俺とお前が病室にいった時、どうやら目を閉じてはいたが、意識はあったみたいでよ。急に呼び出されたときは驚いたよ、俺のことなんて知らないと思ってたからな」

 喜々として語る新庄には目もむけず、田所はただその紙に釘付けになった。

 息がうまくできなくなった。大きめの呼吸を、少し遅い間隔で何度も繰り返した。

 ゆっくりと湧き上がってくる疑問と、そして怒り。

「なんで」

 田所は歯を食いしばりながら、その紙に手を伸ばした。「どうして」

「おっと」

 田所の手がその紙に振れる寸前、新庄はさっと紙を取り上げた。「悪いがこれは証明書だ、お前とはいえ触らせるわけにはいかない」

「それは……本当に本人が書いたのか」

 田所は藁にもつかむ思いでそう聞いた。だが、そんなことは田所にも分かっていた。新庄が、そんな偽造をするわけがないということを。

 それを見透かしているのか、新庄は茶化すように笑った。

「俺が死にかけの老人をまねて書いたとでも。まあ、そういうこと言われたときのために、ちゃんと動画も撮ってるけど、見るか?」

 田所は何も言わず首を振る。

 つい数時間前だ。家族三人で幸せそうに手を取り合っていた姿が、いまも鮮明に思い出せる。

 なんでだ……みんな、あんたに生きてほしいと思っていたのに……なんで。

「傷心のところ悪いが、実はもう一つあるんだ」

 新庄がそういうと、うつろな目をした田所は、

「もう一つ?」

 と顔を上げ、小さな声で聞いた。

「そうさ、さっきの紙がもう一枚……誰にあてたもんだと思う?……これがビックリ、お前さ」

 田所は息を詰まらせた。

 最後の言葉を、息子や娘じゃなく……俺に?

「ちゃんと聞いたんだぜ」

 と新庄は笑った。「娘か息子か、それとも孫か。全部ちがうって首振ってよ、もしやと思って、お前の名前を出したらそうだってさ。ほら」

 と新庄はもう一枚の紙を置いた。

 そこには、先ほどの紙と同じよう、つたない字で、す・ま・な・い、と書かれてあった。

 すまない……だと?

「謝るぐらいなら――」

 最初から、死ぬんじゃない。

 虚脱感が全身を巡り、田所はその場に膝をついた。

「命は一つしかないから」

 新庄は椅子から立ち上がった。「だからこそ、生きたい時まで生きて、死にたいときに死ぬ……当然のことだろう」

 そう言って、リビングを出る直前、足を止めると。

「コーヒー、おいしかったと、助手の子に伝えといてくれ。じゃあ、またな」

 新庄が去ると、ドアの開閉音がした。

 田所は一人、フローリングに目を落としていた。

 生きたいときに生き、死にたいときに死ぬ……生とは、死とは、そんな単純な物なのか。

 また、あの幸せの光景が脳裏をよぎると、田所はぐっと拳を握りしめた。

 違う……違う。そんなはずがない。

 立ち上がり、廊下を走ると、裸足のまま玄関をでて、階段を下り門を出た。

「新庄!」

 名を呼び周りを見たが新庄の影はなかった。それでも、田所は叫んだ。

「余命いくばくかも無く、死にたいと願っている人間がいたとして、その人間に生きてほしいと、思うは愚かか!願うは悪か!叶えるは罪か!俺は……俺はそうは思わない、人間は一人で生きてない、生きてる限り誰かに生かされ、誰かを生かしているんだ!……生き続けなければならないんだ、簡単に死んではならないんだ!……だから、たとえどんな人間でも俺は人を治し続けるぞ……自分が生きるために!!」

 

 

 生をむさぼる野獣の雄叫びが下北沢の空にとどろくと、新庄は笑った。

「近所迷惑だな、おい」

 そうつぶやき、じっと夜の住宅街に目を凝らすと、あの時の、老人との最後の会話が思い起こされていく。

 

「分かりました。こいつはちゃんと、ブラック・ファックに届けますよ」

 そういって、台においてある紙を取ろうとしたとき、その老人は死が近いとは思えない俊敏な動きで、手を紙の上に置いて、それを制した。

 突然のその行動に息をのみ、

「まだ……何か」

 と新庄が聞くと、老人はぎこちない動きで紙をつかみ、そして――

 

 

 新庄は振り返り、もう見えなくなった野獣邸の方を見ると、

「まったく」

 と苦笑いを浮かべ、前に向き直り歩きだした。「ずるい奴だよ」

 

 

 とぼとぼと、力ない足取りでリビングに戻った田所の目に、不意に老人が残した遺書が目に入った。

 なぜ、そうしたのか、自分でもわからない。別に違和感があったわけではない。その行動に、明確な理由は全くなかった。

 だが、その紙に秘められた何か、強い意志のようなものに突き動かされるように、田所はその紙に近づき、ゆっくりと裏返した。

 裏面には、同じような文字でこう書かれてあった。

 あ・り・が・と・う。

 野獣邸の一室、田所がたたずむそのリビングには、夜を刻む時計の針だけが静かに響いていた。

 


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