ブラック・ファック   作:ケツマン=コレット

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決断

「おお!このランタンいいなぁ」

 早朝4時、店員に勧められたランタンを持った大坊がそう言うと、それを目線の高さまで上げながら、少し離れた多田野に見せる。「おい、これどうだ。めちゃくちゃ明るいぞ」

 多田野は面倒くさそうに頭を掻き「いいんじゃないの」と適当に返事をする。

「なんだよ、テンション低いな」

「こんな朝っぱらからあげられるかよ。まだ日も出てないぞ」

 そう答えながら、多田野は周りを見渡した。

 24時間営業のアウトドアショップだが、やはりこの時間帯には自分たち以外にほとんど人はいなかった。

 一緒に来ている波多野も、多田野と同じく眠そうにしている。

「なんでこんな時に買うんだよ、キャンプは今日だぞ。数時間後には森の中だ。こういうのは事前に買っておくもんだろ」

 多田野が聞くと、大坊は呆れたように首を振った。

「分かってねぇな、こういうのはな、直前に買うのが楽しんだよ。使ってるところを想像しながらな」

「そういうもんなのか」

 多田野は大坊の持ってるカゴの中を指さした。「それは何に使うんだ」

 そこにあったのはノコギリだ。

「これで木を切って、それで焚き木をするんだよ。その火で炊いたコメはめちゃくちゃうまいぞ」

「木炭でいいんじゃないか」

「それじゃあ普通だろ。極力その場の物でやるのが面白いんじゃないか」

 なんだそれは。と思っていると、

「確かに面白いかも」

 波多野がそう言い、ウィヒ!と奇妙な声で笑い「俺も色々見てくる」

 と店の奥に歩いていく。

「ほら、お前も選べよ」

 大坊が多田野の肩を叩いた。

「ああ」

 そう適当に答え、陳列されてある道具を見ても、キャンプなど一度も経験のない多田野には何がどういうものか、まったくわからなかった。

「もうちょっと楽しそうにしろよ」

 その様子を見かねてか、大坊がいった。「せっかくお前のプロ祝いなんだからさ」

「そういえば、そうだったな」

 そう呟くようにいいながら、多田野は目の前の虚空に目を凝らした。

 多田野がプロ野球ドラフト会議によって、横穴ゲイスターズから指名を受けたのが2ヶ月ほど前のことだ。

 高校時代はチーム打率0.196ながらも、その肩でチームを甲子園出場に導き、立教大学に入学してからも括約は止まらなかった。

 それが認められ、みごと名だたるほかの選手を差し置き、一位指名を受け取る事ができた。

 子供のときから憧れていたプロの世界。その夢が叶うと思うと、言いようのない達成感があった。だが――

 多田野はなんとなく、一人でぶつぶつ言いながら様々な品を手に取る大坊に目をやる。

 大坊、波多野とは中学からの仲だ。同じ野球部で大学まで、約10年も一緒だったことになる。

 チームメイトを超え、家族に近い存在だった。ずっとこいつらと同じチームで野球をやるんだろうと、なんとなくそう考えていた。

 だが、現実は違った。ドラフトによって指名されたのは多田野だけで、二人は会社に就職しサラリーマンとなった。

 もちろん、それを理由にプロを断るなんて馬鹿な真似はしない。そんなことは、きっと二人も望んでいないだろう。それでも、どこかすっきりとしない感情が、いまだに多田野の中に渦巻いていた。

「俺さ」

 突然、大坊が目の前の陳列された品を見ながらそういった。「中学だったか、高校だった忘れたけどさ、お前らとずっと野球をやってるんだろうなって、そう考えてたんだよ」

 多田野は隣に立つ大坊の横顔を見た後「俺もだよ」と返事をし、目線を前に戻した。

「もちろん、プロで同じチームってのは、奇跡でもないと無理だってのは分かってた」

 と大坊は笑う。「けどさ、違うチームでも親友として、プロ野球選手として、野球を続けるんだろうなって。でも、結果はダメだった」

「なに言ってんだよ。まだ分かんないだろ。社会人野球からプロになった人間もいる」

「俺の就職希望先の日本ペイントには野球チームはない……波多野は銀行だけど、ないのは一緒だ」

 多田野が眉を寄せて唇をかむと、大坊は続けていった。

「ドラフト、最後の最後まで、たのむ、俺の名前が出てくれって願いながら見てた。結局名前は出なかった。そのとき俺めちゃくちゃ泣いてさ。今までこれだけのために頑張ってきたってのに、もう終わったんだなって。今までの練習なんだったんだよって……けどさ、思ったんだよ。多田野がプロに行く、それで十分だって」

 多田野は何もいわず横目で大坊を見ると、その目には涙が浮かんでいた。

「お前は才能があった。高校のときも弱っちい俺たちを、甲子園まで引っ張ってくれた……一番強い、一番の親友がプロになってくれた、俺はそれが嬉しい。十分だ。十分すぎる」

 大坊は涙目ながらも、薄く笑みを浮かべて多田野に顔を向けた。「多田野、俺はお前を応援する。もちろん、横ゲイのチームを含めてだ。だからさ、勝ってくれ。勝って勝って勝ちまくって、お前がどれだけ強いか、プロの連中に知らしめてやってくれ……いまの俺の願いはそれだけだ」

大坊のまっすぐな目からは、震えるような強い思いを感じた。

 多田野は「ああ、わかった」としっかりとその目を見て頷いた。

 すると、大坊は笑いながら目線を横にした。

「悪いな、変なこと言って」

「別に悪くなんてない……なあ」

 多田野は少し右に歩きあるものを手に取った。「やっぱり、森っていったらさ」

「なんだ」

 大坊が問うと、多田野は右手に持ったものを見せた。

「やっぱり、ハンモックはいるよな」

 大坊はニッと口角を上げると、

「分かってきたじゃん」

 と多田野の背中を叩いた。

 

 

 買ってきた荷物を白のバンに積め、大坊は運転席に、多田野は助手席に乗った。

「忘れ物はないか」

 大坊がそういうと、多田野は後ろを振り返り、左右のうち右側だけたたまれた後部座席の後ろにある、積み上げられてある荷物を見て、

「いや、ない……と思う」

 と自信なさげに答えた。

「まあ、あってもわかんねぇか。発進する前に、これ頼む」

 大坊はポケットから携帯を取り出し、多田野に渡した。「お前も電源切って適当なところに置いといてくれ」

「え?」

 多田野は携帯と大坊を、往復して見た。「なんでこんなことするんだよ」

「キャンプの醍醐味の一だ。社会や周りとの繫がりから一時的に離れるんだよ」

「大事な連絡が来たらどうするんだよ」

「なんか心当たりがあるのか?」

「いや無いけど」

「だったらいいじゃん。それに見ないっつっても24時間だけだ。ほら、どっかにしまってくれ」

 少し不安はあったが、まあいいと思い、多田野は助手席を離れ、後ろの荷物が積まれたラゲッジスペースに行くと、適当な小物が入っている袋に入れ、助手席に戻った。

「ありがとう、じゃあ出発だ」

 大坊がそういうと、バンはゆっくりと発進した。

 空は薄暗く、寝静まる民家や、ぼんやりと光を放つ24時間営業の店が、いくつも後ろに流れていく。

 他の車もほとんどない道路は、いつもの騒がしさが嘘かのように静かだった。

 その様子を、震えるエンジンと、ラゲッジでガタガタと揺れる荷物の音を聞きながら、多田野は眺める。

「いいな、この時間帯。静かだし、なんか……ワクワクする」

 多田野がそういうと、大坊は嬉しそうに笑った。

「だろ。俺もこの行く前の運転が大好きだ。お前、キャンプのセンスあるよ」

「まだ森にも入ってないのにか」

「この良さがわかるんなら十分だ」

「そうか……なら俺も趣味にしようかな、キャンプ」

「いいじゃん、俺がいろいろ教えてやるよ」

「ああ……じゃあ、そん時はさ、お前のこと誘ってもいいか」

 プロ野球選手になれば、普通のサラリーマンとは違う生活になり、休みも合わなくなるだろう。

 ただでさえ社会人になり別々の場所で働くことになれば、顔を合わせる機会も少なくなる。それでも、親友としての関係を続けていけるのか不安だった。

 たまにあう休みにだけ、誘うのは迷惑なのではないだろうか。そんなことを考えていると、大坊は「ハハ」と顔をほころばせた。

「俺以外に、誰を誘うんだよ」

 その顔をみて、視線を落とした多田野は、

「それもそうだな」

 と静かに頷きながら、頬を緩めた。

 

 

 アウトドアショップから出発して2時間。

 日は完全に上がり、雲一つない空は黒色のアスファルトを強く照らしていた。

 高速道路から下りて山の中へ続く、右や左にくねくねとうねる道路を進んでいく。

 どうやら山と山の間に作られた道路のようで、右手には上へのきつい傾斜に大量の杉の木、左手の下には川とその先に別の山が見える。

「もうそろそろか」

 その風景を見て多田野が聞いた。

「ああ」

 大坊がそう答えると、多田野は後ろを見た。

「他に車もないみたいだけど、どういうところなんだ」

「俺がいつも行ってる穴場でな、キャンプ好きでもそうそう知ってるやつはいない。いいとこだよ、人の介入が少ないから自然が多くて動物も沢山いる。あんまり人に教えるなよ」

 バンがトンネルへと入ると、一気に視界が暗くなり淡いオレンジ色の光に包まれた。

 不意に違和感を覚えた多田野は、後ろを向いた。

 誰も座っていない左後部座席と、たたまれた右後部座席、ラゲッジの荷物。何も変わっているところはなかった。だが、

「なあ……俺たち何か忘れてないか」

「え?」

 大坊は少し首を曲げ、横目で後ろの方を見た。「まあ、なにかは忘れてるんじゃないか」

「いや、そういう軽いもんじゃなくて、もっと重要な――」

 多田野はそう答え、顔を前に戻したそのとき、「大坊!ブレーキ!」

 前に黒い車が見えると同時に、多田野は叫んだ。

 咄嗟に前を向いた大坊がブレーキを踏み込む。

 タイヤとアスファルトがこすれる耳ざわりな音と共に、体が後ろに押されシートに食い込むと――

 バン。

 衝突音と同時に、今度は体が前に倒れた。

 しばらく、その状態のまま動けなかった。

 10秒ほどがたち、ゆっくりと顔を横にやると、ハンドルを両手でつかんだまま真っ青な顔をした大坊と目があう。

「やべぇよやべぇよ」

 大坊がかすれるような声でそういった。「どうする」

「どうするって……謝るしかないだろ」

「お前、財布しまっとけよ」

「財布?なんでだよ」

 問うと、大坊は震える指で前の車を指さした。

 それを見た多田野は頭を少し上げ、フロントガラスに顔を半分出して前を見ると、黒塗りのセンチュリーが見えた。

 その瞬間、それ乗っている人間のことを考えると、さっと頭から血の気が引いた。

 ヤクザ?チーマー?少なくとも、一般の人間を想像することはできない。

「お……俺が行ってくる」

 唐突に大坊がそういい、シートベルトに手をかけようとすると、多田野がその方に手を置いた。

「待て、一人じゃまずいだろ、俺もいく」

「一人でいい」

 大坊は多田野を制するように、目を見てそういった。「お前は大事な時期だろう、俺が話を付けてくる」

 多田野は言葉を詰まらせて、肩から手を離した。

 大坊のいうとおり、多田野はドラフトによって入団が決まったばかりであり、下手にこの話に介入してしまうと、入団取りやめという事態になるかもしれなかった。

 確かにこの事故は大坊の不注意が招いたものだ。だが、視線をそらさせてしまった多田野には、自分にまったく非がないとは思わなかった。

 どうするべきか、迷っているときに、多田野はあることに気が付く。

「なあ大坊……なんか、鳴ってないか」

「はあ?」

 シートベルトを外しながら、大坊はいった。「なるって、なにがだよ」

「いや、なんか……後ろから」

 二人が同時に後ろのラゲッジを見ると、確かに音が聞こえていた。

 プオ……プオ……。

 その不愉快な高音の機械音は、何かに密封されているのか、こもって聞こえた。音のすぐあとに人の声がしているが、うまく聞き取れなかった。

 その音と声が、連続してなり続けている。

 どこかで聞き覚えのある、不安を煽るような奇妙な音。

 それを黙って聞いていると、表情を一切変えず大坊がボソリとつぶやいた。

「地震……速報」

 ゴゴゴゴ。

 どこからか聞こえた地響きの音がすると、小さく車が震えた。

 地震――。

 息をのみ、そう思った瞬間、すさまじい揺れが二人を襲った。

 とっさに両手でシートをつかむも、そのすさまじい振動に振り落とされそうになる。

 落ちるラゲッジの荷物、次々に割れる蛍光灯、なにかがガラガラと崩れ落ちる音。

 ドン、と下から突き上げられるような強い衝撃を受け、車体が微かに浮いたような感覚を覚えると、強く目を閉じて両手に全霊の力を入れる。

 早く……早く収まって――。

 ガン。

 突然、頭に強い衝撃を受け、全身から感覚が消え失せた。

 なんだ……今……なにが……。

 何が起きたのかもわからぬまま、多田野は意識を失った。

 

 

 地震が収まって1分ほどが経っただろうか。

 大坊はいまに掴んだシートを離せずに、全身に力を入れた状態で、ぐっと目を閉じていた。

 もう、大丈夫か。

 少しずつ手から力を抜いていき、手を離した瞬間、ハっと息を吐いて力を抜いた。

 肩で息をしながら頭を下げた後、顔を上げて目を開けると、視界は真っ暗になっていた。

 地震ですべての蛍光灯が壊れたらしい。

「多田野……多田野、生きてるか」

 暗闇の中、助手席らしき場所にあたりを付け、そう聞くも返事がない。

「おい、多田野」

 両手を伸ばし、手探りで多田野を探すと、腕らしき場所に左手が当たった。

「多田野、返事をしろ」

 腕を持ち軽く体を揺らしたが、反応がない。

 どうなっているのか確認するためヘッドライト、バックライトのスイッチを入れたが、地震で何かが壊れたのか反応しなかった。

 車内の上部、運転席と助手席の間についてあるルームランプもつけてみたが、こちらもダメだった。

 携帯のライトで照らそうと思いポケットに手を入れるが、多田野にラゲッジのどこかにしまわせていたことを思い出す。

 後ろを向くも当然、真っ暗で何も見えない。

 ラゲッジには大量の荷物が散乱しているだろう。もしかすれば、なにかの下敷きになり携帯は壊れているかもしれない。

 なによりも、この中で携帯を見つけ出せるのか。

 茫然と闇を見つめていると突如、後ろから微量の光が大坊を照らし、周りの輪郭がほんの少しだけ見えるようになると、大坊はすぐさま前に向き直った。

 見ると真っ暗なトンネルの中で揺れ動く一粒の光が、徐々にこちらに近づいてきていた。

 すぐにその光は携帯の物と分かり、その後ろに人型の影があった。

 光が近づくと人影は鮮明になり、色黒で黒いコートを身に着けた、たくましい肉体をした男が映る。

「大丈夫か」

 その男がそう聞いてきた。

「はい、俺は大丈夫です」

 すぐさま大坊はそう答えて、多田野の方に目をやるが、男の持っている携帯の光が遠いためか、ほとんど姿は見えなかった。「あの、助手席に返事をしない友人がいるんです。中を照らしてください」

 男が近づいて中を照らすと、大坊は言葉を失った。

 多田野の頭があった助手席の頭部付近のボンネットが、なにかに押しつぶされるかのように、内側にへこんでいた。

 それに頭をぶつけたのか、顔の左半分を血で染めた多田野は意識を失い、前のめりに倒れ、シートベルトによってその体が支えられていた。

「多田野!」

 大坊は叫んで、すぐに多田野の体を抱き寄せた。

 そのとき目に入ったフロントガラスは、左側だけ瓦礫や土によって覆われており、助手席のドアのガラスも割れ、大きめの瓦礫がいくつか入ってきていた。

 どうやら、トンネルが倒壊し、多田野がいた左の部分に降りかかったようだ。

 後ろを向くと、ラゲッジも左側がへこみ、ガラスが割れている。

「意識はあるか」

 男が落ち着いた口調でそう聞くと、大坊はハッとして多田野に顔を近づける。

「ないみたいです」

「とりあえず状態を診たい。その多田野君は動かせるか」

「は、はい」

 診る。という言葉で、その男が医者であると理解した大坊は、すぐに多田野のシートベルトを外して、車の外に出した。

「これを持っていてくれ」

 多田野を寝かせると男にそう言われ、携帯を持たされた。「できるだけ全身を照らすように頼む」

 大坊が頷き、携帯で多田野を照らした。

 男が大体、全身を見終わったと思ったところで、

「どうですか、大丈夫ですか」

 と大坊は聞いた。

「調べて分かるのは左足と左の鎖骨の骨折だけだ。ほかにも周辺の骨にヒビが入ってるかもしれないが、命に別状はない」

 骨折、と聞き大坊はすぐさま質問する。

「先生!そいつ、野球選手なんです。玉を取れなくなるような後遺症とかは?」

「いや、その手のものは、いまのところ見当たらない」

「そうですか」

 大坊はほっと胸をなでおろした。

「ところで、君たちは携帯を持っていないか。光を確保しておきたい」

「ラゲッジに携帯とランタンがあるんで、壊れてなければ」

「ランタン?キャンプに来ていたのか」

「はい」

 大坊は頷いた。

「ならランタンだけじゃなく、使えそうなものは何かに入れてありったけ持ってきてくれ。食料もだ。これから必要になるかもしれない」

「分かりました。携帯、お借りします」

 大坊は車のラゲッジスペースに入った。

 案の定、荷物は散乱しており、足の踏み場もない状態だった。

 それらをかき分けながら、バックを見つけた大坊は、左手で中を照らしながら、使えそうなものを探す。

「あの!組み立て式の椅子っていりますか。かなり小さめの物です」

 大坊は外の医者に聞こえるようにそう聞いた。

 数秒の間の後、

「一応、入れておいてくれ。何が必要になるかわからない。軽めの物はとりあえず入れてくれ」

 返事が来ると「分かりました」と答えてバックにそれを入れた。

 ランタンと携帯を探しながらも、とりあえず持ち運べるものと食料はバックに入れていく。

「携帯……携帯はどこだよ」

 ぶつぶつと言いながら、小さな袋を開けていると、ラゲッジスペースの隅に転がっていたランタンが目に入った。

「やった」

 大坊はそれを手に取ると、携帯の電源を切ろうとしたとき、電波が一本もないアンテナが見えた。

「圏外なのか」

 思わずそう呟いた。

 あんな地震があれば、きっと街にも甚大な被害があり、大変なことになっているはずだ。ここに助けが来る可能性はかなり低い。

 つまり、自分たちでこの倒壊したトンネルを抜けなければならない。それを見越して、医者は必要なものをバックに入れろと命令したのだろう。

 大丈夫なのか。俺たちだけで、ここを抜け出せるのか。

 不穏な気持ちが全身を覆い、じっとアンテナの表示を見ていると、

「アッー!」

 突然、外から人間の声帯から出たとは思えない、喘ぎ声のようなものが聞こえ、

「ちょっと来てくれ!」

 と医者が叫んだ。

 ランタンを持った大坊が外に出ると、目覚めた多田野が苦悶の表情を浮かべていた。

「アッー!い、痛いい……アッー!」

「それで彼を照らしてくれ」

 医者の指示通り、大坊はランタンを着け、多田野を照らした。

 歯を食いしばり歯茎をむき出しにして喘ぐ多田野の顔からは、大量の脂汗が噴き出し、油を塗ったような光沢があった。

「多田野君、私は医者だ」

 医者が多田野の耳元で、囁くように言った。「落ち着いて。どこが痛いか教えてくれ」

「首……首が」

「それは左側の首のあたりだな」

 多田野が苦しそうに頷くと、続けて聞いた。「足はどうだ。左の足だ」

「足は……分かりません」

「なら他どうだ、痛む場所は」

「背中が、じりじりします」

「そうか。少しだけ触るぞ」

 多田野の背中の左側に、医者が手を当てると、多田野は「ウウ」と唸った。

「どんな感じだ」

「と、とにかく痛いです」

「そうか。他にはないか」

 多田野が首を振ると、医者は頷いた。

「分かった。すぐに痛み止めを持ってくる」

「お願いします」

 医者は大坊からランタンを受け取り、トランクの部分が瓦礫によってつぶれた、黒塗りのセンチュリーの運転席に入ると、アタッシュケースを一つ持ってきた。

 その中から注射を取り出し、なにかを入れて多田野に打ち込むと、表情がゆっくりと柔らかくなっていった。

 その後、頭の傷に包帯を巻いていく。

「先生」

 大坊が問うようにそう言うと、医者はすぐに答える。

「どうも肩甲骨にもヒビが入っているようだ。大丈夫、後遺症はない。それより、そっちはどうだ、使えそうなものは」

「はい。一応、バックに詰めたんですけど、携帯が見つからなくて」

「そうか。つぶれている可能性もあるものを、これ以上探す必要もないだろう。早くここを移動しよう、そのバックをもってきてくれ」

 大坊が車からバックを持ってくると、医者がランタンをもってそれを担ぎ、多田野は大坊が背中におぶった。

「悪いな」

 医者が謝罪した。「私の体はステロイドで作った偽りの肉体なんだ。あまり力は出せない」

「いえ、大丈夫ですよ。大学時代は野球してたんで、こいつぐらい軽いもんです」

「そうか。じゃあ、どちらに進もうか」

 と医者は首を振った。

 前に進むか、それとも後ろに戻るか。

 大坊の記憶が正しければ、ここはトンネルの丁度中間、進もうが戻ろうが大差はないはずだ。

「じゃあ前に進みましょうか」

 大坊がそういうと、医者は同意して、二人は前へと進みだした。

 トンネルの中はいたるところが倒壊し、大小の瓦礫がいたるところに落ちており、時には瓦礫と砂利の山が半分道をふさいでいた。

 床には砕けた蛍光灯が散乱し、それを踏むたび音が鳴る。

 そんな中を、少し先にいる医者が持つランタンの光だけを頼りに進んでいく。

「そう言えば、自己紹介がまだだったな」

 歩きながら医者がそう言った。「私の名前は田所だ。見てのとおり医者をしている」

「僕の名前は大坊っていいます、大学生です。こいつは多田野っていって、二か月前にドラフト指名を受けた、バリバリのプロ野球選手です」

「まだ……だよ」

 大坊の背中で、喋りづらそうに多田野がいった。「まだ入団はしてねぇ」

「ああ、そうだったっけ」

「だったっけ……ってなんだよ」

 二人のやり取りを聞いて「フフ」と田所が小さく笑って言った。

「仲がいいんだな」

「はい」

 と大坊が意気揚々に答える。「こいつとは中学から一緒なんですよ。それで、プロ祝いってことでキャンプに……あ」

 そのとき、大坊は田所の車に追突したことを思い出した。「あの……すいません。車、ぶつけちゃって」

「いや、あんなところで止まっていた私も悪いんだ。バッテリーがいかれてしまってな」

「いえ、俺が悪いです。一瞬、前から目を離しちゃって、本当にすいませんでした」

「気にしないでくれ。いまはここから脱出することを考えよう」

「はい」

 時に田所が注意を促がしながらも、黙々とトンネルを進んでいくと、大坊の体に疲れが見え始めた。

 多田野の体重は80キロある。それを持ち続けるというのは、鍛えた肉体といえど簡単ではない。

「大坊……いけるか」

 それを勘づいたか、多田野が聞いてきた。

「大丈夫だ。お前ぐらい軽いもんだよ」

 大坊は気丈に答えたものの、その様子からは疲労があるのは明らかだった。

「なあ……もう俺は助からないっていうなら、置いていってくれ」

 その多田野の言葉に、大坊は声を荒げた。

「お前、なに言ってんだよ」

「お前たちの……足手まといにはなりたくない」

「変なこと言うなよ、こうやって喋れてるんだ、全然大丈夫だろ。ねえ、先生」

 田所は肩越しに大坊を一瞥した後「ああ」と答え、前に向き直った。

 ちょうどそのとき、少し先からオレンジ色の光が見えてきた。

「どうやら、生き残ってる蛍光灯があったらしい」

 それを見て田所がいった。「そこまで言ったら、少し休憩をしよう」

 蛍光灯の下に多田野を寝かると、持ってきたウィンナーやパン、ハムなどを食べた。

「しっかし、運がないですよね」

 パンを食べながら大坊がそう言った。「こんな時に、こんなところで地震なんて」

「そうでもないぞ」

 田所がそう返すと「え」と大坊が顔を向ける。

「キャンパーと医者。この状況で助かるには、最高の組み合わせだと思わないか。現にこうやって、けが人を診れて、光があって、食べ物もある。もし私たちがただの旅行者だったら、こうなってはない」

「ああ、それもそうですね」

「悲観的に考える必要はない、きっと助かるさ」

 そういって田所は立ち上がった。「少し先を見てくる、君たちは休んでいてくれ」

 ランタンを持った田所が歩いてくと、砂利や瓦礫によって遮られていき、その光はすぐに見えなくなった。

「ほら、お前も食え」

 大坊がハムを多田野の口元に持っていと、多田野は首を振った。

「いや、いい」

「食わねぇと体力つかないぞ」

「俺はおぶられてるだけだ……お前が食え」

「なんだよ、人が親切にしてやってるのに」

 ぼやきながら、持ったハムを口に入れようとしたとき、

「おーい!大坊君、ちょっと来てくれ!」

 と先の暗闇から田所の声が響いてきた。

「お前、食ってろ」

「だからいら――むぐ」

 大坊は何か言いかけた多田野の口にハムを無理やり入れると、立ち上がって田所の元へ歩いていく。

 瓦礫をさけ、砂利の壁を横によけると、膝をついた田所がおり、地面に置かれたランタンがその顔を下から照らしていた。

「どうかしたんで――」

 そのとき、汚物の臭いが鼻をつき、大坊はとっさに手で鼻をふさいだ。「何ですかこの臭い。もしかして、下水道ですか」

 問うと、田所は一間おいて答えた。

「いや、それは私の体臭だ」

「いやでも、このウンコみたいな臭いは」

「体質なんだ」

 なんとも言えない沈黙が挟まる。

「あの……すいません」

 肩を落とし大坊が謝ると、田所は手を振った。

「いや、気にしないでくれ。こういうのには慣れている」

「そう、ですか。ところで、なんで俺を呼んだんですか」

「一応、君には説明しておこうと思ってな」

 大坊は首をかしげた。

「説明?なんのですか」

「非常に言いにくいが」

 田所はそう言って横に目線を向けた後、また大坊の顔を見た。「最悪の場合、多田野君はここに置いていくことになる」

 その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。

 全身が凍り付いたかのように冷たくなり、その不安を表すかのように黒目がブルブルと震えた。

「どういう……ことですか」

 大坊は微かに開いた口から、小さな声でそう聞いた。

「彼がこの先どうなるかは正直わからない。骨折を長時間放置すれば、一部の血管を止めたり内臓を傷つけたりするかもしれない。それに、すでにショック症状が起こっている」

「ショック症状って、いまは普通にしゃべってるじゃないですか」

「現状、外から見える症状がないだけだ。心拍数から考えると、軽いショック症状がある可能性が高い。骨折を放置して、人の背中に背負わせて運んでいるいまの状況は、非常にまずい。いずれ症状が悪化して、呼吸困難や心停止に至るかもしれない」

 困惑の表情を浮かべ目線を泳がせる大坊に、田所は続けた。

「何よりも痛み止めだ、実はもう一回分しかない。君は私の車のトランクがつぶれているのを見ただろう」

 大坊は頷いた。

「あの中にはそれなりの医療器具や、痛み止めもあった。だが、私が持っているアタッシュケースの中には、応急処置用の道具しかない。痛み止めも、そう多くは入っていないんだ。もし、最後の痛み止めが切れれば、彼は痛みに耐えられないだろう。そうなれば、運ぶことは難しくなる」

「い、痛み止めは、どれぐらい持つ物なんですか」

「3、4時間だが、彼にはケガがある。内臓の動きも過敏になり、薬が早く切れやすい状態だ。2時間しか持たない可能性もある」

 大坊は何も答えられなかった。頭がふらふらとゆれ、いまにも倒れそうになると、ハッとして顔を上げた。

「じゃあ早くここから脱出しないと。こんな休憩してる間にもあいつの痛み止めは――」

「まて」

 田所は狼狽する大坊の言葉を遮り、肩に手を置いた。「焦りは禁物だ。下手に急げば、君までケガを負うかもしれない」

 焦るな?……そんな、無理を言わないでくれ。

 そう思った大坊は、下を向き何度か肩で息をした後、

「なら、なんで俺にそんなこと言ったんですか」

 と聞いた。「別に言わなくてもよかったんじゃ。あいつに知らせないなら、おれも知らないままで、よかったんじゃないですか」

 そういって顔を上げると、田所の顔はランタンからの光によって、顔に濃い影を作っていた。 

 その影を響かせるような声で、田所は言った。

「時間が必要だろう……親友を置いていく……その決断には」

 

 

「なんだ……ずいぶん元気になったな」

 休憩が終わりまた進み始めたとき、多田野がそういうと、大坊はすぐに答えた。

「まあな。休憩してメシ食ったおかげかな」

「大坊君」

 田所が前を向いたまま言った。「焦って足を外すなよ。背中には多田野君がいるんだ」

「そうだ」

 と多田野。「これ以上ケガしたら……シャレにならない」

「わかってるよ」

 そう答えたものの、自然と足は素早く動き、その気迫に押されるように田所の足も先ほどより少しだけ速くなる。

 頭の中では田所との会話が何度も反復されていた。

 決断?……ふざけるな。こいつをおいて行けるわけがない。大丈夫、大丈夫だ。きっと……きっとすぐ外に出られる。

 だが、その祈りはすぐに打ち砕かれた。

「まて」

 そういって田所が足を止めた。

「どうかしたんで――」

 大坊はそこまで言うと口を閉じた。

 目の前には、行く手を阻む大きな瓦礫と砂利の壁が見えたからだ。

「どこか、横から抜けれないですか」

 大坊がそういうと、田所はランタンを高く上げその壁を入念に調べ、答える。

「ない……引き返そう」

「そんな」

「落ち込んでる暇はない。行こう」

 消沈している大坊にそういって、田所は来た道を戻りだした。

 すぐに大坊も後を追う。

「すいません、俺が進むっていったばっかりに」

 大坊がそういうと、

「お前は悪くない」

 と多田野が答えた。「どっちが開いてるかなんて……誰もわからないだろ」

「そうだ、謝ることはない」

 と田所も同意する。

 確かに非はないかもしれない。それでも、自分の選択によって多田野の命が危ぶまれていることが、大坊は許せなかった。

 なんで……俺はあの時、進むなんて。

 後悔はさらに足を速めていく。

「大坊君、もう少しゆっくりと進もう」

 それを察し、田所がそう言ったが、大坊はすぐに切羽詰まった様子で答える。

「いや先生、急ぎましょう。また同じ道を戻らなくちゃいけないんです、できるだけ早く出たい」

「急いだところで、そのぶん多く休憩を取るはめになるだけだ」

「休憩も必要ありません。このまま休まずに行きます」

「大坊君」

 田所は足を止め、大坊の方に振り向いた。「言っただろう、焦りは禁物だと」

 ランタンだけが照らす暗闇の中、二人は黙って見合った。

 田所が正しいことは分かっていた。それでも、どうしても前のめりに、ならずにはいられない自分がいた。

 行き場のない感情が、大坊の肩を、腕を、足を、小さく震わせていた。そのとき、

「アッ……ク」

 多田野がそう喘ぎだした。「先生……なんか、痛みが」

 大坊は首を回して多田野を見た。

 目を強く閉じ、額に脂汗をにじませている。

 痛み止めが切れだしたのだ。

 前を向くと、田所は何かを考え込むように、視線を横にそらせていた。

 きっと頭の中では、これからどれだけ歩くのか。そして、その間、最後の痛み止めが持つのかを考えている。

「多田野君、もう少し我慢できるか。連続して痛み止めを投与するのは、体に良くないんだ」

 嘘だ。

 大坊は田所の表情と、答えるまでの思案を見て直感した。

 痛み止めを連続で投与するのは、確かに毒かもしれない。だが、決して行ってはいけない、ということでもないはずだ。ここで使えば、最後まで持たないかもしれないから、多田野を納得させるため適当な理由をつけているだけだ。

「そうですか……分かりました」

 多田野が苦しそうにそう答えると、二人は歩き出した。

 そこからは、大坊が一歩踏み出すたびに、多田野は痛みにもだえ呻き声を漏らした。

 大坊にも、こうなってしまった原因は自分にあると、呻き声を聞くたびに胸がギリギリと痛んだ。

 そして、ついにその時がきた。

「アッー!」

 多田野の叫び声がトンネルに響くと、大坊の首にかけられた右手が皮膚をつかんだ。

「多田野!」

 大坊はすぐにその場に多田野を下した。

「痛ッ……いッ」

 多田野は悶絶し、歯を食いしばっていた。

 背中におぶられているとなると、骨折箇所の鎖骨が直に当たることになる。

 それによる痛みが尋常ではないものだと、その表情が物語っていた。

「思ったより早いが、やむをえんな」

 田所がそういい、アタッシュケースから注射器を取り出し、多田野に痛み止めを投与した。

 その間に、大坊は道の先を見る。

 まだ車の所にすら、戻れていない。

「先生……これじゃ」

「難しいだろう」

 二人が眉を寄せ、言葉を交わしていると、

「何ですか……何か、あったんですか」

 と多田野が不思議そうに二人を見ながら聞くと、田所が少し言いづらそうに説明をする。

「多田野君、実は痛み止めは、いまの注射したもので最後なんだ」

「え」

 多田野は固まった。「それって……つまり」

「もしいまの痛み止めが切れれば、君はここを出るまで、あの痛みに耐える必要がある」

 多田野は言葉を失い、顔をみるみる青くしていった。

 それを見た大坊は、その場で両手をついた。

「悪い、多田野……俺のせいだ。俺が進むっていったから――」

「だから……いってるだろ」

 多田野は大坊の言葉を遮ると、一つ深呼吸をしていった。「お前のせいじゃない……偶然、閉じてたんだ、仕方ない……それより、早く進もう。俺の痛み止めが切れる前に」

 大坊は「すまん」といって頭を下げると、多田野を担いで、また進みだした。

 一度来た道だ、詰まることなく早くは進めたが、車の場所に戻るまでそれなりに時間を要した。

 この暗闇の中だと、時間の感覚というのは曖昧になっている。だが、そんな状態でもわかることが一つあった。

 このままでは確実に持たない。多田野の痛み止めは、外に出るまで。

「大丈夫か」

 田所が振り返り、そう聞いてきた。

 正直、体は限界が近い。多田野を背負いながら、かなり歩いたうえ、休憩や食事もろくにとれていない。

 見ると田所からも疲労が感じられた。大坊より背負っているものが軽いとはいえ、普段から運動など無縁な人だろうし、ステロイドで作った偽りの体だ、相当無理をしているだろう。だが、

「いけるか」

 田所が鋭い目で問うてきた。

 そのとき、大坊にはわかった。多田野を助けたい気持ちは、この人も同じなのだと。

 息を呑んだ大坊は力強く頷いた。

「はい」

「なら行こう」

「はい!」

 二人はその体にムチを打ち、また前に歩き出した。

 トンネルには足音をかき消すほどの、二人の荒い息が響いた。

「大坊……もういい」

 多田野が懇願するようにいった。「もう……俺を置いていってくれ」

 そんな多田野の様子も意に返さず、大坊は足を止めることなく語った。

「なあ、多田野。俺あの時、思ったんだ。ドラフトに選ばれなかった時、今までの辛かった練習は、いったい何だったんだって。でも、今わかったよ。このためだ……お前を背負うために、お前を生かすために、俺は練習をしていたんだと思う。だから神様は、俺に野球をさせていたんだと思う」

「適当なこというなよ」

 大坊の背中に、涙が染みる感触があった。

「理由なんてなんだっていい、俺は運ぶぞ、お前を……プロのマウンドに!」

 大坊は吠え、さらに足を速めた。田所も、最善の注意を払いながら、その足を速めていった。

 

 

 どれだけ歩き続けたのか、もう覚えてはいなかった。疲労困憊の肉体と酸欠状態の脳は、様々な感覚を失っていた。

 もう限界だった。田所もそうだ、息遣いで分かる。

 だが二人は止まらなかった。執念と気迫がその背中を力強く押していた。

 だが、残酷な現実は文字通り、巨大な壁となって二人に立ちふさがった。

 足を止め、二人は横並びになり前のそれを見上げた。

 山なりに積み重なった砂利と瓦礫によって作られた壁。どこにも横道はなかった。

「嘘だろ……こっちもかよ」

 失意の底、絶望にした大坊は、震える声で呟いた。

 痛み止めは持った。しかし、道が閉ざされていては、なんの意味もない。

 両目に涙がにじみ、その場で膝を突こうとしたそのとき、

「まて」

 と田所が壁を見上げながらそう言った。

 田所がランタンを消すと、壁の頂点から一筋の小さな光が漏れているのが見えた。

「光だ」

 大坊がそういうと、田所はランタンをつけ、バックとアタッシュケースをその場に置き壁を登りだした。

 トンネルの高さは4.7メートル、下の方はまだ傾斜が緩やかだが、上の方はかなりきつく、最後の方は垂直に近い。

 田所は所々出ている瓦礫をつかみながら、その光の場所まで行くと、力いっぱいに殴った。

 ガラ、という音とともに瓦礫が崩れ穴が開くと、そこから光が差し込む。

「外だ!」

 田所はそう叫んで、また殴り穴を大きくした。「通れるぞ」

 それを聞いた大坊は、笑顔を作ると両手を上げて喜んだ。

「やったぁ!出れる、出れるぞ多田野!」

「声がでかい」

 多田野はそう答えたものの、その声は笑いを含み、喜んでいるのが分かった。

 穴の奥を覗き込んだ田所は、大坊の元に戻ってきた。

「外側は傾斜がかなりきつい。外に出たら、こちらには戻れそうにない」

 そういい、ポケットから携帯を出した。「電波も通った。ヘリを呼ぶ、君はバックからヒモになるものを出して、体に多田野君を巻き付けて登るんだ」

「はい!」

 バックの中身をあさりハンモックを見つけると、一つは二人の胴をくっつけるように、もう一つは多田野の膝下を通し、自分の胴に巻き付けた。

 ハンモックがしっかりと結ばれていることを確認し、立ち上がり壁を見上げたとき、大坊は思った。

 いけるのか……この壁、多田野をおぶった俺が……登り切れるのか。

 先ほど田所が登ったところを見たが、何も持っていない状態でも、ギリギリといった様子だった。

 体には疲労が溜まっている、そんな状態で、この傾斜を上がり向こう側まで行けるのか。

 よぎる不安を、首を振ってかき消した。

 大丈夫だ、登れる。

 そう自分に言い聞かせて。

「いくぞ」

 そういって、大坊は瓦礫に足をかけた。

 すぐによじ登らなければならないほどに、傾斜は急となった。そこから、穴までの位置は視線の先2メートル。

 出っ張った部分をつかみ、足を乗せる。すぐに、簡単にはいかないと分かる。

 それでも歯を食いしばり、その壁を上がりだした。

 残り1mまで行くと、壁はほぼ垂直になった。

 手と足の力だけで、ゆっくりと、少しずつ上がっていく。

 穴まで、あと20センチ……10センチ……。

 もう少しだ。

 そう思ったとき、大坊は体の動きを止めた。

 動けない。両手両足、力の限界だ。どれか一つを動かせば、他が耐えられなくなって落ちる。

 上がれ……上がれ!

 そう願うも、限界に達した手が離れ、下に落ち着地した瞬間、

「あああっ」

 右膝に激痛が走り、大坊は叫んだ。

 着地の際、曲がった膝が出っ張った瓦礫に当たってしまった。

 大坊は傾斜のない下まで歩くと、膝を抱えその場に座り込む。

「だい……だい、ぼう」

 息苦しそうな多田野の声をきき、大坊は肩越しに後ろをみると、顔をゆがめた多田野が見えた。

 落ちた衝撃は、体を密着させている多田野にも伝わっていた。

「悪い、多田野」

「いや……いい……それより、お前……登れるのか」

 大坊は一瞬、言葉を詰まらせると、

「ああ、いけるよ」

 と気丈に振る舞った。「ちょっとコツがいるみたいだ。次は行ける」

 そう答えたものの、あの壁を登り切れる映像が浮かばない。

「大坊君」

 と携帯を下した田所がいった。「ドクターヘリは要請できた。乗り込めれば、多田野君をすぐに治療することもできる。ただ、救援隊は来ない。被害の大きい都心部にみんな向かったらしい。つまり、多田野君は我々が運び出さなければいけない」

「はい、任せてください。絶対に……絶対に登って見せますから」

 せっかく無理をしてここまで来たんだ。登れませんでしたでは、終われない。

 再度、大坊は壁を登り始めた。

 右足に力を入れるたびに、膝に鈍い痛みが広がる。

 穴まで、30センチ……20センチ……。

 そのとき、次の場所に足を駆けようとした瞬間、自然と手が離れ、また下に落ちた。

 緩い傾斜を滑りながらも体制を整え、その場に膝を突く。

「すまん」

 大坊は謝ったものの、多田野から返事はなく、つらそうに息をするだけだった。

 大坊は見上げ、穴を睨みつける。

 こんなに近くにあるのに……なんで。

「クソ!」

 大坊は叫ぶと、また壁を登りだした。

 30センチ……20センチ……あと、10センチ。

 またそこで体が止まった。穴はもう目の前。入ってくる光が大坊の顔を照らしている。

 行け……行ってくれ体……登ってくれ……頼む……頼む!

 いくら願えど、体はその場から動かず、10秒後に手が離れて落ちた。

 大坊は肩で息をすると、壁に手を突き、頭を下げて涙を流した。

「なんでだよ。すぐそこなんだよ……もうちょっとなんだよ。なのになんでだよ……なんで俺は登れないんだよ」

 拳を握り、壁を殴った。「クソ!クソォ!!……あともうちょっと……穴が近かったら、俺に力があったら、登れてるんだよ……あとちょっとなんだよ」

 涙がとめどなくながれ、頬を伝っていく。

 無理なのか……多田野を置いていくしかないのか。そう思ったとき、

「大坊君!」 

 突然、後ろで田所が叫んだ。「多田野君の様子がおかしい、すぐに下すんだ!」

 大坊はすぐに瓦礫から降り、ハンモックを外し多田野を寝かせた。

 多田野の顔からは血の気が引き、うつろな目をして、いまにも消え入りそうな呼吸を繰り返していた。

「チアノーゼだ」

 それを見て、田所がいった。「ショック症状が原因だろう。強い衝撃を受けて、悪化したのかもしれない」

「い、痛い」

 多田野がか細い声で呟いた。

 ついに、痛み止めも切れ始めた。

「先生」

 すがるような声で大坊はそういって田所を見たが、壁の穴を見るだけで何も答えなかった。

 もう、手がない。

「大坊」

 不意に、多田野がいった。「大坊……どこだ」

「ああ、いるぞ!どうした」

 大坊がしゃがみ返事をすると、多田野は痛みに顔をしかめた後、いった。

「いままで……ありが……とうな」

 突然の感謝の言葉。大坊は返す言葉が見つからず、黙って多田野の言葉を聞いた。

「楽しかったよ……お前と一緒にする……野球。お前と出会えて……よかった……本当によかった」

 大坊は強く握られた両手の拳を地面につけると、強く歯を食いしばった。

 脳裏には、多田野と出会ったときからの思い出が流れていく。

「お前は……よくやってくれた……悔いはない」

 多田野は大坊の顔をみると、その目から涙を流した。「俺を置いて……行ってくれ」

「うううっ!」

 大坊は頭を地面につけ、唸り声を上げて泣いた。

 ごめん……ごめん、多田野。

 口には出さず、何度も心の中で謝った。

 親友を置いていかなければならない、自分の無力さに打ちひしがれていると、

「大坊君」 

 田所に呼ばれ、大坊は顔を上げ袖で涙をぬぐう。

「なんですか」

「多田野君の体重は、何キロだ」

「は、80キロです」

 大坊は嗚咽をもらして答えた。

「そうか」

 田所は何かを思案するかのように、数秒目線を横にやった後、大坊に言った。「君は言ったな、あともう少しだけ力があれば、あの穴まで行けると」

 大坊はその言葉の真意がわからず、首をかしげた。

「は、はい」

 田所は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した後、続けた。

「人間の体重の比率は、頭部が8パーセント、胴体が46パーセント、足一本が17パーセント、それが二本で34パーセント……残りの12パーセントが両腕、つまり……多田野君の場合、約10キロ」

 突如、語られ出した体重の比率。そして、両腕の重さ。

 これからいわれることを察した大坊は、絶句して田所を凝視した。

「先生、もしかして」

 田所は鋭い視線を大坊に向け、口を開いた。

「彼の両腕を切断する」

 腕を……切断? 

 常軌を逸したその提案に、大坊は固まった。

 確かに10キロ軽くなれば、この壁を登れるかもしれない。だが、

「大丈夫なんですか……そんなことして」

「わからない。出血や、痛みによるショックに耐えられないかもしれない。でも助かるにはこの方法しかない。10キロ軽くなれば、君は穴まで登れるんだろう」

「登れたとしても、腕はどうなるんですか。こいつはプロの入団が決まってるんです」

「難しいだろう。だが、私が必ず治して見せる」

 大坊は言葉を返せなかった。

 腕を切断して、何事もなかったかのように治すなんて話は、簡単に信じられるものではない。

 何よりも、これを決定する権利は自分にはない。決めるのは――

「お願い……します」

 多田野がそういった。「切ってください……僕の腕を」

「お前いいのか」

 大坊が聞くと、多田野は白くなった唇を緩ませた。

「死ぬよりましだ……それに俺は、信じるよ……先生と……お前を」

「俺を?」

「持ってきてるか……ノコギリ」

 大坊が頷くと、多田野は続けていった。「綺麗に切ってくれよ……治しやすいように」

 大坊の握られた拳が、じっとりと汗で濡れる。

「俺でいいのか」

 腕は投手の命だ。それを切り落とすということは、殺すに等しい。そんな行為を、任せてもらえるほどの人間なのか、大坊には自信がなかった。

 だが、多田野は当然のことのようにいった。

「お前以外に……誰に頼むんだよ」

 大坊は一瞬の間の後「ハハ」と小さく肩を揺らして笑った。

「それもそうだよな」

 そうだ。この場所に、腕を切るプロがいたって、そいつにはやらせない。こいつの腕だ、俺が切らないでどうする。

「先生、やりましょう」

 覚悟を決めた大坊は立ち上がり、田所にそういった。

「ああ、すぐに準備をはじめよう」

 まず初めに、大坊たちはハンモックの布を5つの長方形に切った。

 そのうちの二つは丸め、多田野の脇にあてがうと、それをまたハンモックの布で肩ごと強く縛り付ける。

 脇には腋窩(えきか)動脈と呼ばれる巨大な血管があり、これを圧迫することで腕に流れるほとんどの血を止めることができるという話だ。

 次に、アタッシュケースに多田野の背中をのせ、両腕をまっすぐに横に広げさせると、肘を組み立て式の小さな椅子に乗せる。

「悪い、ちょっと踏むぞ」

 と大坊は多田野の右の肘に足を乗せ、ノコギリを田所に指示された肩の場所にあてがった。

 そして、ハンモックの布を多田野の口に入れ噛ませ、暴れないよう田所が両肩を押さえつける。

 最後に、切断した腕を止血するための包帯を置いておく。

準備は完了した。後は、切断後すぐに治療ができるように、ヘリコプターを待つだけとなった。

 この状況では、だた待つという行為だけでも、心臓が高鳴り息がつまる。

「そう言えば、言い忘れていた」

 張りつめた空気の中、不意に田所が口を開く。「私は治療費の高い医者ということで、ある界隈では有名でね」

「え?治療費で――」

「ウィニングボールだ」

 大坊の言葉を遮り、田所がいった。

 野球の最終回。守備側がスリーアウトを取り、試合に勝った時の最後のボールのことだ。

「ドラフト1位ルーキーが、初試合でノーヒットノーランを達成した場合のそれは、いくらぐらいする」

 田所が聞くと、大坊は鼻を鳴らした。

「20億はくだらないんじゃないですか」

「なら19億1900万円だ。金で払えないなら、等価の価値の物をいただく。必ずだ」

「やるしかなくなったな」

 大坊は多田野と見合い、ニッと笑った。そのとき、

「きたぞ」

 遠くからヘリの音が聞え、田所がそういうと、大坊に目配せをした。

 それを確認すると、大坊は多田野の顔を見る。

 口には布が詰められている。話すことはできないが、

 ――頼むぞ。

 真剣な表情が、そう言っていた。

 大坊は頷くと「分かった」と返事をし、ノコギリを持つ両手を強く握った。

 ヘリの音がどんどんと近づいてくると、心臓の音もそれに比例して大きくなり、そして――

「いまだ!いけ!」

 田所の合図とともに、ノコギリは引かれた。

 肉を裂く感触が手に伝わり、血がにじみ出てくると、

「ンンンッ!」

 多田野が悲痛な声を上げた。

 それに大坊は一瞬の躊躇を見せたが、

「止まるな!」

 田所の怒号が飛び、瞬時に我に返った大坊は、手を動かしだした。

 ノコギリを引くたびに、多田野は叫び、暴れる。

 大坊はそれを見ないよう、必死に切ることに集中した。

 ゴトリ。

 切り終わると同時に、足元に転がる腕。すぐさま田所はそれを拾い上げ、切り口に包帯を巻きつける。

 多田野の顔は涙と汗でびしょぬれになり、胸を上下させて苦しそうに息をしていた。

 その間、大坊は血にまみれたノコギリをじっと見ていた。

 手に残る切断の感触が消えず、いまにも吐きだしそうになる。

「次だ!」

 包帯を巻き終えた田所が、また多田野の両肩を押さえつけ言った。「何をしてる、早く」

 ハッとして顔を上げた大坊は「はい」と左の肘に足を置き、ノコギリを肩に置いた瞬間、視界の隅に見えた多田野の顔。青白く、いまにも気を失いそうだというのに、その目は力強い光がともされていた。

 こいつは覚悟を決めてるんだ。俺が怖気づいてどうする。

「いくぞ!」

 大坊が声を張り、ノコギリを引いたとたん、その傷口から細い血が噴き出し、顔にかかった。

 視界が真っ赤に染まった。それでも、大坊は止まらなかった。一心不乱にノコギリを動かし続け、左の腕も切断した。

 同時に手からノコギリが落ち、大坊は息を荒げて膝に手をついた。

「休んでいる暇はないぞ」

 左腕に包帯を巻きながら、田所は言った。「いけ、上がるんだ」

「はい!」

 大坊は腕のなくなった多田野を背負い、胴体をハンモックで結ぶと、すぐに壁に上り始めた。

 瓦礫に足をかけた瞬間、すぐに分かる。

 さっきより軽い、これならいける。

 軽快に壁をよじ登っていき、すぐに残り20センチの場所まで上がった。

 さらに上がり、残り10センチ。ついには5センチとなり、最後、穴に手を伸ばすだけとなったそのとき、右膝に激痛が走り、その場で止まった。

 眉間にしわが寄ると、すぐに大坊は鼻を鳴らして笑った。

 多田野は腕を切ったんだ……それに比べればこの程度――

「なんともねぇよ」

 焼ける右膝に力を込め、体が持ち上がると、伸ばした右手が穴をつかんだ。

 

 

 

 

 テレビの音が鳴り響くリビングでは、ソファーで行儀悪く横になり、ひじ掛けに足を乗せている田所が寝ていた。

 ディスプレイにはプロ野球の試合が映っている。

「またつけっぱなしで寝てる」

 遠野はぼやいて、机のリモコンを持ち上げると、

「おい、変えるなよ」

 と田所の声がした。「見てるんだよ」

 振り向くと、寝ていたと思っていた田所は目を開けていた。

「先輩、野球なんて興味あったんですか」

「まあ、最近な」

 どうせ見てるのは試合じゃなく、筋肉質のいい男なんだろうと思ったが、遠野は口に出さなかった。

 テレビを見ると、かなり一方的な試合になっているようだった。

「すごい強いですね……いま守っている方のチーム」

 遠野がそういうと、田所が得意げに答える。

「まあな。何てったって、投手がいい」

「投手がいいって、先輩そんなに野球詳しくないでしょう」

「野球は詳しくないが、選手はよく知ってる。何たって、俺が――」

 そのとき、テレビから異様に興奮したアナウンサーの声が鳴り、田所の声をかき消した。

――横ゲイ対日ホモ!810‐0!前代未聞、入団一年目、初試合の多田野数人がノーヒットノーラン達成を達成しました!

 

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