ブラック・ファック   作:ケツマン=コレット

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クソ雑魚なめくじ

 極彩色の鳥が夕暮れの太陽に向かい、声を上げながら飛んでいった。

 緑の濃いジャングルの中でそれを見た二人は「もうそろそろ引き返すか」と一人が聞くと「そうだな」ともう一人が返す。

 低地熱帯雨林のインドネシアの森には、多種多様な生物が生息しており、中には絶滅危惧種に指定されているものもあった。

 しかしながら、個体が少なく、絶滅間近であればある程、希少価値が上がり高く売れる。

 二人の背負う膨らんだバックの中からは、鉄のケージが揺れ、ぶつかり合う音と、キーキーと鳴く小動物の声が響いていた。

「なあ知ってるか」

 帰り道の途中、後方にいる相方が聞いてきた。「この辺でよ、ゴリラが出るって噂」

「さあ、知らねぇな」

「近くの村の奴が見たって聞いたぜ」

「なにかの見間違いだろう」

 そう返したものの、それは半分自分に言い聞かせたものだった。

 もし本当だとして、遭遇してしまえばまずいことになる。基本ゴリラはおとなしいのでじっとしていれば襲われることはないが、どんな動物でも気が立っていれば何をするかわからない。装備も何もない現状、最悪死ぬことになる。

 それを考えると、自然と体が前のめりとなった。

「おい、もうちょっとゆっくり行こうぜ」

「バカ、お前が変なこと言うのが悪いんだろ。だいたい、その話が本当だったらどうするんだよ」

 そう答えながら、止まることなく足を進めていたそのとき、ある違和感に気が付く。

 先ほどまで後ろから続いてきていた足音、それがなくなっていた。

 振り向くと相方の姿がない。

「おい……どこ行った」

 呼んでみるも返事はない。

 早く進みすぎてはぐれたのか。そう思いながら、来た道を戻っていく。

 周りを見渡していると、右手の奥、少し先で座り込みながらうつむいている相方が見つかった。

「どうした」

 少し声を張るも、相方はうつむいたまま何も答えない。

 こけて頭でも打ったか。

 草をかき分け近づいていき、手前まで近づいたそのとき、男の体がその場で硬直し、目が見開かれた。

 相方の頭は確かにこちらを向いていた。だが、その下にある体は180度後ろを向き、こちらに背中を見せた状態で木によりかかかっていた。

 うつむいていたのではない。首の骨が折れ、頭が支えられなくなっていただけだった。

 なぜこうなったのか。誰がやったのか。

 そんなことを考える余裕はなかった。

 うまく動かない体を一歩ずつ、ゆっくり後ろへ下がらせていく。

 三歩下がったとき、背中に何かが当たった。

 頭部と首筋に感じる、動物らしき毛の感触。

 壊れたゼンマイ人形のように、ぎこちない動きで振り向くと、自分の背丈を優に超える人型の影があった。

 全身を打ちふるわせながら、その影を見上げたその瞬間、

 ゴキ。

 耳ざわりな音と共に、景色が90度回転すると、男はその場に倒れた。

 巨大な影は男のバックを両手で引きちぎり、中に詰まったケージを壊していく。

捕らわれていた動物たちが次々と逃げていくと、少し離れた場所からその影を囲うように、その場に留まった。

 すべてのケージを壊し終えると、影は男の腹を裂き、右手を突っ込むと血に滴る臓物を引抜いた。

 じっとそれを見つめた後、影はまるで戦利品を掲げるかのように、臓物を掴む右腕を上げると、

「ヴォーーーー!」

 大地を揺るがすような力強い鳴き声が、森に轟いた。

 

 

 

 

 インドネシアの北東に位置するアポロンは、都心部から遠く離れた田舎の村だ。

 古ぼけた石造りの家が点在する中、丘の上、その村には似つかわしくない、家三件ほどの大きさはある豪邸があった。

「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」

 そこから田所が出ると、家の持ち主である男は涙ながらに感謝しながら、後に続いてきた。

「礼には及びません。ないとは思いますが、息子さんに何かあったら連絡をください」

 そう言うと、白塗りのレンタカーに乗り村を出た。

 時刻は11時。日が暮れるころには都心部に戻り、帰りの便に乗れるだろう。そう思っていた。

 ガコン。

車を走らせて2時間ほどが経ったとき、謎の音と共に車体が微かに揺れると、徐々に速度を落としていった。

「クソ、なんだ」

 脇に停め、ボンネットを開けるとエンジンが白い煙を吹いていた。

「チクショウ。レンタカー屋の野郎、無知な観光客だと思って、整備不十分の物を貸しやがったか」

 携帯を取り出すも、基地局が近くにないのか圏外になっている。

 ふつふつと沸き起こる怒りを、田所は深呼吸して抑え込む。

 こんなところで怒り狂っても、どうにもならない。体力を消費するだけだ。

「フン、車がなんだ、俺は医者だぞ、こんなものなんかより何倍も複雑なものを、毎日のように切ってるんだ。簡単だ、修理なんて」

 息巻いてボンネットの中に手を入れ、エンジンの部品を触った瞬間、すさまじい勢いで煙が噴き出て、田所の顔に熱波がぶち当たった。

「アチチッ!アッツィ!」

 顔に手を当て、転げまわった後「このオンボロめ」とライトの下あたりを思い切りけると、

「いいいぃーー」

 とそのぶつけた足を抱えながら、片足で車の周りを飛び回った。

 痛みが引くと、落ち着きを取り戻した田所は周りを見渡した。

 だだっ広い草原に、地平線へと続く砂利道。遠くに小高い丘と、森らしきものも見える。

 近くに街や村がありそうな気配はない。

「この野郎」

 とぼやき、田所はアタッシュケースをもって道を歩き出した。

「帰ったらレンタカー屋を訴えてやる」

 

 

 綺麗な満月が夜空を照らしていた。

 その下ではどこで見つけたのか、いびつな形をした木の棒を突きながら、田所は黙々と力ない足取りで進んでいた。

 のどはもうカラカラで、腹の虫は鳴り続けている。しかし、いまだに道の先に見えるのは横一直線の地平線だけだ。

 不意に足がもつれ、その場に倒れ込む。立ち上がろうとするも、体が動かない。

 クソ……こんなところで――。

 木の棒へと伸ばした手が、力なく地面に落ちると、田所は気を失った。

 

 

 

 

「たいしたケガじゃないからさ。大丈夫だって、安心しろよー」

 その軽々しい男の声で田所は目を覚ました。

 田所は固いベッドの上に寝かされていた。視界には、所々ヒビ割れている黄土色の天井と、自分の腕につながれている点滴が見える。

 首を声の方へ向けると、白衣を来た金髪の医者らしき男が、前に座る少年の頭に包帯を巻いていた。

「こーやって、ぱぱぱっとやって、終わりっ!ね、平気でしょ」

 医者が頭をなでると、少年は静かに頷いた。

 その後ろに立っていた母親らしき女性が、両手を合わせ何度も礼を言うと、

「気にしないで気にしないで。またなんかあったら、すぐに来てよ」

 医者は軽く返し「じゃあね」と子供に手を振り母子を見送った。

「ここは、病院か」

 一通り事が終わったのを見て、田所がそう話しかけると、医者はこちらを向いた。

 綺麗な小麦色に焼け、鼻筋の通った日本人らしい顔立ちが見える。

 田所を見ると、医者はニッと笑い、白い歯を見せた。

「目覚めたんですか。そーですそーです、ここ病院なんすよ。ちょっとオンボロっすけどね」

「そうか。ありがとう、助かったよ」

「いやいや、礼ならここまで運んだ村の奴にいってやってください。脱水症状と疲労が重なって気を失ってたみたいなんで、点滴させてもらいました」

「そうか。私の名前は田所だ、君と同じ医者をしている」

「あ、やっぱり日本人っすか。実は俺もなんすよ、豪っていいます」

 豪が出した手を、田所は握った。

「こんなところに日本人とは、珍しいな」

「まあ、いろいろ事情がありましてね。どうっすか、これから昼飯なんで一緒に食べますか。つっても、ポンッカレーぐらいしかありませんけど」

 

 

「うまい!やはりポンッカレーは最高だな」

 診察室の隣の部屋、机に座り豪と向かい合う田所は、ポンッカレーを食べると即座にそう言った。

「喜んでもらえてよかったっすよ」

「しかし、なんでポンッカレーなんて持ってるんだ。この辺りじゃ売ってないだろう」

「たまーに日本の味が恋しくなる事があるから、定期的にまとめて買うんすよ。そういや、販売元の会社変わったんすよね、ポンッカレー」

 豪はスプーンを口に運びながら聞いた。

「そうだ。だが、味は全く変わっていない。この味を引き継いでくれた会社には感謝しかない。本当なら毎日食いたいところだが、日本にいる助手が味だの栄養だのとうるさくてな」

 不意に隣から動物らしき鳴き声が聞こえ、そちらの方を向くとドアが見えた。「いま、何か鳴き声がしたが、気のせいか」

「気のせいじゃないっすよ。オレ、本当は獣医なんすよ」

「獣医?」

 田所は眉を寄せ、豪の顔を見て聞いた。「獣医がなんでこんなところで、人間相手に治療を」

 豪は手を止めると、遠い目をして語った。

「オレ、昔から森が好きで、特にこのインドネシアの森はすごい憧れていたんっすよ。沢山動物がいて、きれいで。けど、人間が生み出す汚染物質や、金目当ての密猟のせいで、病気になったり、ケガを負ったりする動物がたくさんいるって、それ聞いていてもたってもいられなくて、動物たちを助けるためにここに来たんっすけど……」

「動物はわざわざ診察に来なかった……ということか」

 田所がそういうと、豪は苦笑いをして頷いた。

「まあそういうことっす。病気だケガだので、医者の元に向かうのは人間だけっすからね。医者不足だったここの村の人たちは、オレに治療を依頼してきました。まあ、人間も動物です。ほかの動物たちと同じような病気になるし、治療法も大差ない」

「なるほど。それで、人間の治療をメインにしながらも、こうやって動物たちの治療も行っているということか」

 田所は動物の鳴き声がする部屋のドアを見た。

 中には治療された動物たちが、完治するまで保護されているのだろう。

「立派じゃないか」

 田所が言うと、豪は頭をかいた。

「いや、そんなこと――」

「先生!」

 突然、外から豪を呼ぶ叫び声がすると、豪はすぐに立ち上がって診察室に向かった。

 その後に田所も続いていくと、男が意識のない女性を肩に乗せ、診察台に寝かせた。

「丘から落っこちて、頭うっちまって!先生、お願いします助けてください!」

 男が錯乱気味にそういうと

「すいません」

 と別の女性が病院に入ってきた。「先生、せきが止まらなくて」

「あ、ちょっと待って――」

「私が診よう」

 豪の言葉を遮り、田所はそう言って診察台に寝る女性の元に立った。「君はあっちの女性を診てくれ」

「田所さん、さっき目覚めたばっかりじゃ」

「自分の体のことは、自分で分かるさ。さっき飯も食ったし、もう大丈夫だ。それに、君には恩がある。是非とも手伝わせてくれ」

「なら、お願いします」

 二人は協力し患者を診ることにしたが、それでも次から次へと、さばききれないほどの患者が、病院へと訪れてきた。

「いつもこんな人数を相手にしてるのか」

 田所は患者を診ながら聞いた。

「いえ、今日はいつもより多いっすね。つっても、月に二度ぐらいは、こんな感じであふれかえることがあります。この辺には、ここしか病院がないっすから」

 田所は出入口に並ぶ人間たちを一瞥する。

 これが月に二度。そうでない日でも、かなりの人数が来ているに違いない。

 そんな状況でも、こうやって医者をしている豪に、田所は感心した。

 訪れる患者たちの中には、田所ではなく豪に見てほしいと依頼する人間も多くいた。

 田所が臭いというのも一つだが、それより大きいのは、豪に対する信頼感だ。

 患者たちが豪と顔を合わせたときに見せる笑顔が、何よりもその証だった。

 彼がどれぐらいここにいるのかは定かではないが、1年そこらではないことは、それを見れば分かった。

 二人は休むことなく働いた。田所を助けたという男もやってきて礼をしたり、村の人間が豪に食べ物を持ってきたりもした。

 日も落ちかけ、空がオレンジ色に染まると、患者の数はほとんど減り、2人ほどが並んでいるだけとなった。

 そろそろ終わりが見えてきたと思っていたとき、森のそばで倒れていたという男が運ばれてきて、診察台に寝かされた。

 その患者を診た瞬間、田所と豪は言葉を詰まらせた。

 右腕が内側に折れ、骨が飛び出していた。かなりの出血もある。

「これはここでは手に負えない」

 その様子を見て、豪がいった。「車を用意して、近くの大きな病院で手術してもらうんだ」

「いや、ちょっと待て」

 と田所。「出血がひどい、ここで応急処置だけでもしていこう。私が持っていたアタッシュケースはどこに」

「隣の部屋に置いてあります。食事をした部屋の奥に」

「よし、ならその患者をベッドの上に運んでくれ」

 そういって、田所は隣の部屋からアタッシュケースをもって、診察室に戻ったが、患者はベッドに運ばれず、豪は黙ってその患者を見下ろしていた。

「おい、なにをして――」

 そのとき、患者を運んできた男が、その手に握っているものが目に入った。

 両手で掴めるほどの大きさのケージ。中には全身が茶色の毛に覆われ、丸くつぶらな目が特徴的な、小さな猿のような動物が入り、鳴き声を上げていた。

「それは」

「こいつが倒れていた場所の近くに落ちてたんです」

 男はそう答えた。

 密猟。その言葉が脳裏をかすめると、豪の背中を見た。

 豪は自分のことを獣医だといっていた。こんな過酷な仕事の合間にも、動物たちを治療し、助けている人間だ。そんな彼からすれば、この男はなによりも嫌悪する存在だろう。

 だからと言って、治療しないわけにもいかない。

 田所は豪の隣に立った。その顔には曇りが見える。

「豪君、患者をベットに運ぼう。治療して、ちゃんと法に裁いてもらうんだ」

 数秒の間の後、

「そうっすね」

 と豪は頷いた。「すいません。ちょっとぼーっとしてて」

「いや、いいんだ」

 三人がかりで患者を運び、応急処置をおえて男は別の病院へと運ばれた。

 その後、残りの患者を診察している間も、豪の表情は晴れなかった。

 

 

 窓の外は漆黒だった。街灯などないこの村では、夜になるといつもこの調子だという。

 光に集まった虫が飛び回る蛍光灯の下で、二人は昼と同じくポンッカレーを食べていた。

「マジで助かりましたよ。田所さんいなかったら、どうなってたか」

 豪が感謝をのべると、田所は静かに首を振る。

「私は恩を返したまでだよ。それに、君の本分は獣を治すことだろう。本当であれば、私のような人間がこういう場所で医者をするべきなんだ」

「そんなことないっすよ」

 豪は窓の外に視線を投げた。「最初は金のためでしたよ。面倒だなって思いながらも、それもこれも、動物を助けるためって思って頑張ってました。けど、長くここで医者してると、みんなスゲー優しくしてくれて、気が付いたら家族みたいになってて、それがうれしくて。いつの間にかここで人間を治療するのが、目的になってました。もちろん、動物を治すってことも忘れてないっすけどね」

 そういい、豪は白い歯を見せて笑った。

「君は本当に素晴らしい人間だな。日本のボンクラどもに、爪の垢を煎じて飲ませてやりたい気分だ」

「そんな、オレなんてまだまだっすよ」

 照れたようにそう返した豪が、カレーをすくい口に近づけると、田所は聞いた。

「話は変わるが、聞きたいことがある……密猟者のことなんだが」

 その瞬間、豪の眉が微かに動くと、口に入りかけたスプーンがぴたりと止まる。

 豪はゆっくりとそのスプーンを下げ「なんですか」と聞く。

「あの手の患者は、よく来るのか」

「いや、稀っすよ。本当にたまにっす」

「そうか。その時は、君はちゃんと治療をしてやるのか」

「当たり前じゃないっすか」

 豪は不機嫌そうに目線をそらした。「犯罪者とはいえケガ人です、やらないわけにはいかないっすよ」

「だが、本当のところはどうなんだ」

 見透かすように田所が言うと、豪は一瞬の間の後、長い息を吐いて答えた。

「治療なんてしたくないっすよ。この手で殺してやりたいぐらいっす」

 そうだろうな、と田所は思った。

 あの時、大ケガをしていた密猟者を見下ろす目には、確かに殺意に近い物があった。

「豪君。気持ちはわからないでもない。だが、我々は医者だ、人を裁く権利はない」

「わかってますよ」

 豪は語気を鋭く答えた。「わかってます……けど、あいつが捕まえていたのは、スローロリスだったんです」

「スローロリス?」

 聞きなれぬ名前に、田所は首をかしげると、豪はその動物について説明する。

 スローロリスは、その名の通り動くのが常に遅いのが特徴的な、体長30㎝前後の猿だ。

 夜行性で主に木の上に暮らしている彼らは、絶滅危惧種に指定されていた。その主な理由は密猟者による乱獲である。

 その物静かでかわいい見た目から、ペットとして高い人気を持ち、最終的には一匹50万円ほどで取引されることもある程だ。

 貧富の差の激しいこの地域では、それは非常に楽ながらも、とてつもなく大きな稼ぎになるため、密猟者が後を絶たないという。

 問題はそれだけではない。

 密貿易を阻止し、何とか輸出される前にスローロリスを捕らえられたとしても、大体のものは、ペットとして買われた際に飼い主を噛まぬよう、歯をすべて抜かれているのだ。

 一度抜いた歯はもう戻っては来ないため、自然に帰ることはできなくなる。

 乱雑に抜かれた歯の傷口から抜歯感染にかかることも多く、感染した場合の致死率は90%。

 密猟者の捕獲方法も、木の上で捕まっているスローロリスに向かい、パチンコで鉄球を当て、落として捕まえるという残虐なもので、それによりケガとして残っていた骨折や脳出血により、助けたとしてもかなりの数が死んでしまうそうだ。

 そんなスローロリスに対し、豪はかなりの思いがあるようだった。

「本当にか弱い動物なんすよ。しかも、ワシやオラウータンみたいな天敵も多くて、森のおやつだの、クソ雑魚なめくじだの言われてます。このままじゃ本当に絶滅しちまう。それはみんな知ってるんです……なのに、金のために捕まえるクソ野郎は全く減らない」

「警察に密猟者たちを捕まえるよう、頼めないのか」

 田所が聞くと、豪は乾いた笑いを浮かべ、首を振った。

「ダメっす。何回も動いてもらうように頼みましたけど、この広大な森でどこに居るかもわからない、密猟者を探す暇も人員もないって。所詮、その程度ってことっすね。スローロリスが絶滅しようが、みんなそんなに興味ないってことっすよ」

 日が過ぎると共に絶滅に近づくスローロス。それを自分勝手な理由で捕まえる密猟者に、何もしない警察。

 豪からは、それらに対する怒りよりも、それを通り越した失望や諦めに近い感情が見えた。

 田所はかける言葉が見当たらないでいると「でもいいんすよ」と豪は不気味な笑いを浮かべて言った。

「ちゃんと、裁いてくれるやつはいますから」

 意味深なその言葉に、田所は問う。

「なんだ、裁くとは」

「ゴリラです」

「ゴリラ?」

「はい」

 豪は頷いた。「この辺りで急に現れたんですよ。そいつが、森に入った密猟者を次々に襲ってるんすよ。森にはよく死体が転がってるって話です。今日、腕をおられていたやつも、きっとそいつにやられたんすよ」

 豪はフンと鼻を鳴らしてつぶやく。「ざまあみろって感じっす」

「ゴリラ……か」

 そうつぶやいた田所は、顎に手を当てた。

 確かにゴリラは人を襲うことはある。だがそれは、知らず知らずのうちに縄張りに入っていた時や、気が立っているときだけだ。

 基本はおとなしく、心優しい動物だ。次々に人を襲うとは思えない。

「本当にゴリラなのか。別の動物じゃなくて」

 田所は聞いた。

「はい。ある襲われた密猟者の証言だと、巨大な人型の影がやってきて、殴られたって。そいつは背骨が折れて、歩けなくなってましたよ」

 豪はまるで自分の手柄であるように、顔をほころばせた。「だから、オレが何かする必要はないんす。自然を愚弄する人間は、自然に殺されるんすよ。だから、せめて治療はやってやりますよ、不本意っすけど」

 密猟者が自分勝手な行動により、命を落としたり大ケガをする。自業自得であり、そこに何の感情もないが、豪のそれを過度に喜ぶ様子は、少し不思議に思えた。

「確かに、ゴリラが人を襲うのは、ちょっと考えづらいかもしれません」

 豪は軽く両手を広げる。「でも実際に起きてることなんすよ。オレはね、これは神の罰だと思ってます」

 豪が口に出した神という言葉に、田所は眉を寄せた。

「神だと?」

「そうっすよ。元々、この辺りにはゴリラはいませんでした。でも、ある日、急に現れて密猟者を襲ってるんですよ。これは裁きです。森の神から、密猟者たちに対するね」

 なるほど、確かにそう考えることもできるかもしれない。だが――。

「想像上の存在を信じたくはないな」 

 田所は答え、皿の横に置いてあるコップを取り、水を一口飲んだ。

「田所さんも医者でしょ。だったらあるはずだ。神の仕業としか思えない現象が起きて、目の前の患者が助かる事が」

 豪がそういうと、田所の脳裏に、過去治療を行ってきた患者たちの記憶が巡った。

「確かにある」

 田所は断言した。「神の仕業とも思える奇跡は、何度か目にした」

「ならどうして」

「もし、そんな存在がいるとするなら、私の経験上では、人の命を救う神よりも、奪う悪魔の方が多いということになる。できるなら、そんな存在はいないでくれた方が助かる」

 田所がそういって、皿に残った最後の一口を食べると、豪は「そうっすか」とつぶやき、押し黙った。

「まあ、この類の考え方というのは、昔からいろいろあるもんだ。君の考え方を否定する気はない。神がいると信じる人間は、いまでもたくさんいる」

 田所は皿をもって立ち上がった。「ごちそうさま」

「ああ、洗い物ならオレがやっときますんで、先に寝てください。それと、このベッド使ってください」

 と部屋の隅にあるベッドを指さす。「オレ、診察室のベッドで寝ますから」

「いや、泊まらせてもらう身だ、私が診察室で寝るよ。ところで、ここから市街地に向かう移動手段はないか」

「明後日にはバスが来ると思います」

 田所は食器を台所に置くと「明後日かぁ」と困ったようにいった。

「あ、もう手伝いは大丈夫っすよ」

 と豪。「今日みたいなのは、毎日続かないっすから。明日は普通に戻ってると思うんで、オレ一人だけでやれます」

「迷惑をかけている以上、私に手伝わないという選択肢はないさ」

「そうっすか、じゃあ明日も――」

 と何かを言いかけたとき、豪のポケットから携帯が鳴り、取り出して耳にあてた。「オレは動物たちの世話をしてから寝るんで、田所さんは先に寝といてください……あ、もしもし、佐々木さんですか」

豪は佐々木という人間と通話しながら、ポケットから鍵を取り出し、動物が保護されている部屋のドアを開けて中に入った。

 すると、内側から鍵のかかる音がした。

 逃がさないためか、それとも誰かが中に入り、菌を出入りさせないためか。なんにせよ厳重だ。

 それだけ、ケガや病気を負った動物の治療というのは、慎重を期すものなのだろう。

「人間相手の方が楽かもしれないな」

 そんなことを一人言いながら、田所は診察室のベッドで眠りについた。

 

 

 

 

 翌日は豪のいった通り、患者も多くはなく、二人で軽く雑談を交えながら患者を診察していった。

「先生!うちの弟のあれが、相手のケツから抜けなくなっちまったんだ」

「分かった、すぐに向かう」

 豪はすぐに立ち上がった。「田所さんはここをお願いします」

「ああ、分かった」

 田所がそう答えると、豪はすぐに病院を出て行った。

 ふむ、暇だな。

 窓に映る空を眺めながら、そんなことを思っていると、男が入ってきた。

「先生あの――」

 病院に田所しかいないことが分かった男は、首を回して周りをみた。「あの、豪先生は」

「急用でしてね、いまは私しかいないんだ」

「えっと……そうですか」

 男は明らかに不安そうに答える。

「大丈夫です、心配しないでください。あなたの信用する豪先生が、私にここを任せたんだ」

「まあ、そうですよね。じゃあお願いします。あの、お尻が痛くてですね」

「分かりました。下に来ているものを脱いで、お尻をこちらに」

 下半身を裸にした男はヨツンヴァインになり、田所に尻を見せた。

「肛門性行のしすぎによる裂傷ですね」

 田所は顎に手を添えていった。「薬を塗っておきましょう。一週間以内には、痛みも引くはずです。そのままの状態で、待っていてください」

 男を待たせ、田所は隣の部屋に入り、手間にある薬棚を開けた。

「肛門性行による裂傷の薬は……どこだったか」

 そのとき、コートの内ポケットに入っていた携帯が震え、右手で薬を探しながらも、左手で携帯を取り出し、画面を見る。

 そこには遠野と表示されていた。

 そういえば、出国するときは今日帰ると伝えていた。それがいつまでたっても帰らないものだから、心配してかけてきたのだろう。

 田所はすぐに通話ボタンを押し、耳にあてた。

「もしもし」

『もしもし、先輩ですよね』

「そうだ」

 田所は答えながらも、手と首を動かして薬を探す。

『なかなか帰ってこないから、心配しましたよ』

「いやすまん。ちょっとハプニングがあってな」

『何があったんですか』

「いや、話すと長い。いまちょっと人を待たせて――」

 会話により気が散ったが、奥に手を入れた際、瓶を一つ倒してしまった。「あっ……まあ、とにかく三日以内には戻れる、心配するな。切るぞ」

『あ、ちょっと――』

 遠野の言葉を聞く前に、田所は携帯を切り、倒した瓶を直したそのとき、

「ん……これは」

 その瓶に書かれていた文字を見て、田所は眉を寄せた。

「アナボリックステロイド」

 それは田所が昔、愛用していた筋肉増強剤だった。

 使用後はちょっとウンコ臭いだけだった体臭が、劇的にウンコ臭くなり、しかもハゲた。やめておけばよかったと、いまでは苦い思い出なのだが、そんなことはどうでもいい。

 なぜ、こんなところにアナボリックステロイドがあるんだ。

 ステロイドは、確かに薬として様々な病気に対し使用される。だが、一般的に医療として使われるステロイドは、糖質コルチコイドを主成分とするもので、名前に同じステロイドとあるものの、効果、用途は大きく異なる。

 アナボリックステロイドが医療に使われる事は、かなり少ない。使用するにしても、錠剤にして使うのがほとんどだが、瓶に入っているそれは液状で、半分ほどがなくなっている。

 豪の見た目からして、彼自身が使用しているとは考えられない。

 なら、いったいなぜ。

 疑問に思い、中の薬を片っ端から見ていくと、様々な医療薬を熟知している田所でも知らないものが大量にあった。

 治療用のものではない。憶測だが、アナボリックステロイド同様の、肉体改造に使われるものだろう。

 名も知らぬ薬たち。それを見据えた田所には、何か嫌な予感がしていた。

 もしや……彼は――

「先生、いつまでこのかっこで待ってればいいんですか」

 診察室から聞こえてきたヨツンヴァインになっている男の声で、田所は我に返ると、

「すまない、いま向かう」

 薬を手に取ると、アナボリックステロイドを一瞥して、診察室に戻った。

 

 

 

 

 早朝、まだ空は薄暗く、村に人が起きている様子はなかった。そんな中、豪は目覚めるとすぐに動物を保護している部屋に入る。

 中には大小さまざまな檻に、多種多様な動物たちが入っていた。

 一匹ずつ、症状を確認しながら、餌をやっていく。

 だいたいを見終わったころ、最後にその部屋の一番奥、布で被された2m四方の檻を見上げた。

 布を手に取り、中をのぞき込むと小型の懐中電灯で中を照らす。

「もうそろそろかな」

 そういって、にやりと頬に笑いを含ませると、ポケットから携帯を取り出し、電話をかけた。

「あ、もしもし、佐々木さんですか。どうも、こんちわーす……いや実は、前にもらった薬がもう切れちゃって、もう一箱――」

「やはりそういうことか」

 後ろから声がして、とっさに布から手を離し後ろを振り向くと、田所が鋭い視線をこちらに向けて立っていた。

 すぐに部屋に入った時、鍵を閉めていなかったことを思い出す。

 まだ誰も起きるはずのない早朝だったので、警戒を怠っていた。

「すいません、急用です。後で折り返します」

 豪は佐々木にそういって携帯を切ると、動揺を抑えながら言った。「田所さん、勝手に入るのはやめてください、ここはデリケートな場所なんすよ」

「すぐに出て行くさ、その檻の中身を見たらな」

「どうしてっすか、田所さんには関係ないでしょ」

「なら逆に聞くが、どうしてその檻だけを隠している。どうして私には見せられないんだ。何よりも」

 田所の力強い眼光が、豪を突き刺した。「薬棚にあった、医療用ではない薬たちは何だ」

 一間、豪は反論を考えるために、口を閉ざし思案したが、すぐに無駄だと考えやめた。

「どうやら、全部お見通しって感じっすね……分かりました、見せてあげますよ。コイツをね」

 豪は布を握ると、下に引っ張った。

 宙を舞い、落ちる布。そして、あらわになった檻の中。

 それを見た瞬間、田所は目を強く見開いた後、豪をにらみつけた。

「やったな……貴様」

「ちゃんと見てやってくださいよ」

 豪は誇らしげに笑うと、振り返って檻を見た。「オレの最高傑作であり……息子っす」

 中では体長1mほどの動物が体を丸めて眠っていた。

 一見、ゴリラにも見える。しかし、よく見ればその姿は大きく違う。

 全身を覆う毛は茶色。顔にあるつぶらな瞳に、不規則に発達した両手両足。

 スローロリス。それが巨大化したものだった。

「大変だったんすよ、ここまでにするのは。色々な薬を試して、研究して。半年ほど前っすよ、安定してここまでにすることが可能になったのは。筋力骨格を変えた上に、DNAも書き換えてます。生まれる子供も、同じようにこの姿で生まれます。すごいっしょ」

「やはり、密猟者たちを襲っていたのは」

 田所が問うと、豪は喜々として答えた。

「ええ、こいつらっす。これでもまだまだ小さい。大きくなれば2mに近くなります。そうなれば、人間なんて一撃っすよ」

「君は、自分が何をやっているのか、分かっているのか」

「分かってますよ。分かったうえで聞きます。何がダメなんすか。配合による品種改良なんて昔からある話だし、いまどき遺伝子組み換えだって普通っす。それと何が違うんすか」

「それはちゃんと目的があってのものだ、自然を壊すようなことはやっていない」

「オレだって同じっすよ、別に自然を壊してるわけじゃない」

 豪は声に怒りを含ませた。「壊してるのは、密猟者の方だ。そいつらから守るためには、クソ雑魚なめくじのこいつらを、メチャ強ごりらにするしかないんだ!……それの何が悪いんすか」

「そうか」

 田所はあきれたように目を閉じていった。「ならこい」

「こい?どこにっすか」

 豪が問うと、田所は振り返って背を向けた。

「外にだ。お前がなにをしたのか、見せてやる」

 その意味深なセリフに、豪は一瞬、不穏な空気を感じたものの、すぐにそれを鼻で笑った。

 いったい、オレがなにをしたっていう。

 そう思いながらも、田所に続き、病院の外に出た瞬間、豪は言葉を失った。

 足元に転がる、痩せこけた一つの死体。

 二足歩行特有の手足と、茶色い毛。どこからどう見ても、それは自分が育てたスローロリスだった。

「これは、森に入ってすぐのところで見つけたものだ」

 田所はいった。「ほかにも、いくつか死体が転がっていたよ」

「いったい誰にやられたんすか」

「分からないのか」

 そう問われ、豪は首を横に振ると、田所は豪に指を指した。「君がこうしたんだ」

「オレ?」

 豪は戸惑いながら、田所と死体を往復してみる。「オレ……オレがなにしたっていうんですか。オレはただ、こいつらを改良しただけで――」

「骨格と筋力だけを改造すれば、他は何も変わらないとでも思っているのか!」

 田所は怒号を飛ばし、豪の言葉を遮った。「考えてもみろ、この体になれば、こいつらはどうなる。食事はいまのまま、木の実や虫のみで済むのか。この筋肉を維持し、動かすエネルギーはなにで補う」

 豪はハッとして口に手を当てた。

 当然、食事が変わるのは当たり前だ。だが、そんなこと想像もしてなかった。

 田所は続ける。

「必要な大量の栄養を取るために、他の中型動物たちを捕食するだろう。今まで天敵としていた、オラウータンやヘビなどだ。なら逆に、新たに改造された、こいつらの天敵はいったいどこにいる。ひたすら他の生物を捕食し続けるが、こいつらは誰に捕食されるんだ。いまのこいつらの天敵はなんだ」

 そんなものはいない、と豪は思った。

 スローロリス達を改良する際、決して他の生物に負けないことが目標だったからだ。

「なら、ちょっと考えればわかるな。こいつらは減ることなく、増え続けるんだ。確かにスローロリスの繁殖力は低い。だが、それは他の小動物と比べた際のものだ。最大2mの大型動物となったいま、その繁殖力は、同じ大きさの動物を凌駕する。そうなれば、どうなるか」

 豪は青ざめると、静かに首を振った。

 どうなるか、そう問われるも、その先を考えたくはなかった。

 ただ、田所の語る真実を聞いている事しかできなかった。

「捕食対象が完全にいなくなる。その先に待つのは、餓死だ」

 餓死。

 その言葉は、豪の全身に重くのしかかった。

 豪は死体を見下ろす。

 こいつは誰かにやられたのではない。食べるものがなくなって、餓死したのだ。

「君は、密猟者達がスローロリスにやられていくのを、裁きだといっていたな。自分が神にでもなったつもりでいたか。違う、君は神なんかじゃない、悪魔だ。密猟者を懲らしめたいという理由だけで、生態系を崩し、食物連鎖を壊し、スローロリス達を殺した。これからも、まだまだ彼らは死んでいく。君が改造したことによってな」

「そんな」

 豪は震える声でそういった。

 茫然と目の前の虚空を見つめ、視線を揺らす。

「どう……どうすればいいんですか」

 豪はすがるように、田所にそう聞く。「いまから、あいつらを……スローロリス達を助ける方法はないんですか」

「知らん」

 田所は突っぱねた。「私よりも君の方が、はるかにこのスローロリスに詳しいはずだろう。獣医として、改造した者として」

 確かにその通りだ。だが、豪の頭には何一つ、解決策が浮かばなかった。

 自責の念に、ただ歯を食いしばることしかできなかった。

「まあ、なにもしなくても、すぐに終わる」

 田所は突然そう口にした。

「どういう意味ですか」

「今日、緊急でインドネシアの軍が、ここに来るという話を耳にした。巨大化したスローロリスを駆除するために」

 豪は息をのんだ。

「どういうことすか……なんで駆除なんて。あいつらが殺してるのは、死んで当然の密猟者だけだ!」

「つくづく想像力がないな。彼らが、密猟者と一般人を見分けて、前者だけを襲っているとでも思っているのか」

「え?」

 豪はすぐにその言葉の意味を悟り、目を見開いた。「まさか」

「すでに一般人にも被害が出ている。なんの罪もない人間のな。それを放置できるはずがないだろう」

 その事実に、豪は愕然とした。

 まさか、何の罪もない人間を殺しているなんて。

 故意ではない。それでも、そうなった以上は、自分の責任だ。

 拳を握り閉め、足元をにらみつけていたそのとき、突然やってきた軍用車らしき車5台が、音を立てて村を通り過ぎていった。

「まずい!」

 それを見た瞬間、豪は叫び、森の方へと走り出した。

 なにか考えがあるわけではない。それでも、ただスローロリス達が駆除されていくのを、黙って待つこともできなかった。

 森につく頃には、軍用車から下りた軍人たちが、列をなして並んでいた。その手には、銃器が握られている。

「待ってくれ!」

 豪は軍人たちの前に立ち、両手を横に広げた。

「貴様、なにをしている!」

 奥にいる上官らしき男が声を張り上げた。「そこをどけ!」

「頼む!少しだけ時間をください!オレが――」

 そのとき、後ろから草をかき分けるような音がすると、軍人たちが豪に向かい銃を構えた。

 振り返ると、木々の間から巨大なスローロリス3体が顔を出していた。

 よく見ると、何日間も食事ができていないのか、かなり痩せている。

「待て!」

 豪はスローロリスの顔を見ながらも、軍人の方に右手をだした。「オレが何とかして見せますから!」

 そう訴えるも、いまだにこの状況を解決する方法は浮かばない。

 数秒の間、ただ立ち尽くしていると、

「なあ……オレだよ。わかるか」

 豪はそう問いかけた。

 目の前の3体のうち、どれが豪が育てたものか判別はつかない。

 それでも、そのうちの一体でも、自分を知ってる個体がいることを願いながら、豪は語りかける。

「ごめんな、オレが変なことしちまったから。けど、大丈夫だから。何とかするからさ……だから、だからよ……ゆっくり……ゆっくりこっちに来てくれ」

 神様、お願いします。こいつらを、オレに助けさせてください。

 懇願しながら、豪が一歩、森へ近づくと、なにかを確かめ合うように、スローロリス達は顔を見合わせた。

 通じた。

 そう思い、豪はそっと顔をほころばせる。

「そうだ、大丈夫だから、頼む……こっちに来い」

 スローロリスが豪の方を見ると、豪は軽くうなづいて手招きした。

 だが、スローロリス達が来ることはなく、3体は同時に両腕をあげ手で頭をつかんだ。そして、

『ヴォーーーー!』

 突然、響いた3体の共鳴するような叫び声。

 その両腕には、強く力が込められているのか、ブルブルと震えている。

「なんだ……なんだよ!いったいなにをしてるんだ!」

 豪が叫ぶも、3体は止まることなく叫び続け、そして――

 ゴキ、ゴキゴキ。

 豪の耳にも聞えた、骨の折れる音。同時に見える、真横に捻転したスローロリス達の首。

 3体が倒れ、動かなくなっても、豪はその場を動けなかった。

 目の前で起きた、三体同時の自害。どうして、という疑問すら湧き上がらないほどに、豪は放心状態におちいった。

「なにを突っ立っている」

 いつの間にか、隣に田所が立っていた。「いくぞ」

「いく?」

 豪はいまにも消え入りそうな、かすれた声で答えた。「なにをしに」

 後ろを見ると、軍人たちも何が起きたのかわからず、その場に立ち尽くしていた。

「全てを見届けにだ。こい」

 言われるまま、田所についていき、森に入る。

 すぐに見えたのは、そこら一帯に転がる死体と、いまから自害しようと、向き合いながらも両手で頭を掴み、叫んでいる4体のスローロリス。

「やめろぉ!」

 豪は叫んで駆けていくも、すぐさま首がねじられ、次々とその場に倒れた。

「あ……ああ」

 豪は膝をつき、死体に手を添える。「なんで、こんなことを」

 理由は分からない。しかし、彼らはなにかに突き動かされるように、死んでいく。

「悟ったんだろう」

 豪を見下ろして、田所がいった。

「なにをですか」

 田所は周りを見渡すと、目を細めて答える。

「自分たちに……もう居場所がないということを」

「居場所」

 豪はつぶやいて、一帯の死体を見渡した。

 それを奪ったのは、まぎれもない、自分だ。そう思うと息が苦しくなり、強烈に胸が締め付けられた。

 そのとき、無意識に豪の目線が、ある場所にいった。

 そこには何もなかった。だが、まるで吸い寄せられるように、豪はそこへ向かい歩いていく。

 少し進み、開けた場所が目に入ると、豪は静かに涙を流した。

 そこには餓死している死体が、いくつも横たわっていた。そして、その死体達のそばに必ず1体、小さなスローロリスの死体があった。

 共に横になっているか、抱き寄せているか、上に覆いかぶさっているか。状態は死体によってさまざまだ。だが、それらが母子であることは一目瞭然だった。

 ヴォー。

 不意に聞こえた、かすかなスローロリスの声。

 目をやると、木にもたれかかっている母親らしきスローロリスが見えた。

 そのうつむいている様子からして、母親はすでにこと切れている。しかし、その両腕によって大切に持ち抱えられた子供は、体を上下させながら、いまも消え入りそうな呼吸を繰り返していた。

 もう、死ぬのは時間の問題だ。

 あまりにも悲惨な光景に目を閉じ、顔を横に向けると、

「目をそらすな!」

 田所のその声に、ハッとし顔上げ、田所と目を合わした。「君がやったことだ……見届けろ、すべてを」

 豪は嗚咽をもらして下を向くと、顔を正面に向けた。

 留まることなく涙を流しながらも、全身に力を入れ、じっとスローロリスを見つめる。

 すると、子供が手を持ち上げ、すっと豪の方へと伸ばした。

 目がよく見えず、同じスローロリスだと間違えたのか。それとも、人間だと分かったうえなのか、それは定かではない。

 ただ一つ分かるのは、助けを求めているということだけだった。

 豪は子供へと手を伸ばすと、ゆっくりと近づいていく。

 その手が触れようとした瞬間、子供の手が落ち、眠る様に目を閉じると、そのまま動かなくなった。

 豪は伸ばした手を力強く握ったあと、母親を両腕で抱き、その子供のいる胸に顔を押し付け、大声で泣き叫んだ。

 その様子を、何を思ったか、枝の上から、木と木の間から、茂みの陰から、動物たちがじっと見ていた。

 咎人が泣くのをやめる、その時まで。ただじっと。

 

 

「あっちです」

 女性がそういって指さすと、確かにその先にはバス停のようなものがあった。

「ありがとう」

 礼を言い、田所はバス停へと向かう。

 歩きながらも、肩越しに後ろの小さな村を一瞥した。

「せいぜい、罪を償うんだな」

 前に向き直り、視界の隅に少し先にある森が入ったそのとき、あるものを見つける。

 もしや。

 そう思い、足早に森に入り、草をかき分けていくと、逃げる動物を両手で捕まえた。

「ヴォー、ヴォー」

 田所の手には体長10センチほどの、筋肉が付いたスローロリスがつかまれ、その手を振りほどこうと体を揺らながら声を上げていた。

 どうやら、唯一の生き残りのようだ。

 それを見て、田所は考えた。

 もうこの森に、こいつの食料はほとんどない。育ててくれる親も、同じ種の仲間もない。餓死するか、それを逃れても、別の動物に食われるか、人間に殺されるか。何にせよ、こいつに未来はない。なら――。

 田所は左手をスローロリスの頭に当てた。

「いっそ、ここで殺してやるのが情けか」

 目を閉じ、すっと息を吸い、首をねじ切ろうとした瞬間、力を抜いて鼻から息を吐くと、その場にスローロリスを落とした。

「ヴォーー」

 スローロリスは鳴きながら、その場を去っていく。

「情けだと、笑わせる。そんな理由で私が……いや、私たちが、彼らを殺す権利なんてない」

 田所は踵を返し、バス停に向かうさなか、一人思った。

 この地球上では、これまでに色々な生物が、自然の流れの中で環境に適応できず絶滅していった。

 理由は様々で、繁殖法に難があったか、突然の地殻変動に遭遇したか、もしくは、他の動物に殺され尽くしたか。

 人間も動物だ。

 その人間の傲慢により、スローロリスという種が滅ぶというのであれば、それもまた、自然の流れの一つなのかもしれない。

 


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