ブラック・ファック   作:ケツマン=コレット

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たった一つの取り得

「まったくあの人は」

 そう言って遠野は、下北沢駅近くの駐車場でセンチュリーから降りた。

 昼下がり、朝ほどではないが、駅前にはそれなりに人が歩いていた。

 遠野はトイレットティッシュペーパーを右手に一つ持ち、駅の中へと入っていく。

 駅員に訳を話し、改札機を抜けさせてもらうとトイレに直行した。

 中に入った瞬間、激臭が鼻を突く。

「先輩、どこですか」

 鼻声でそう聞くと、

「ここだ」

 と奥から二番目の個室から、田所の声が聞えてくる。

 その個室の前に立つと、鍵が開く音がしドアが少し開く。

 だが、そこから何もしてこない。

「手を伸ばしてくださいよ」

 遠野は言った。

「便座に座った状態では、そこまで届かん。入って、どうぞ」

「絶対に嫌ですよ」

「なんだ、人をバイ菌みたいに」

「いまは、バイ菌みたいなもんですよ」

 遠野はドアの隙間に、トイレットペーパーを持った手を入れる。「ほら、とってください」

 田所は「ぬう」と不満の声を漏らすと、トイレットペーパーを受け取った。

 水の流れる音の後、個室から田所が出てくる。

「いや、悪い。ここの紙はいつも切れていてな、困ったもんだ」

「困ってるのは僕ですよ」

「ちょっとくるだけだろう、それにほら」

 田所はコートを開いて、膨らんだ胸ポケットを指す。「お前の言いつけ通り、GPASSをちゃんと常備している。位置はすぐにわかっただろう」

 GPASSは衛星通信によって、地球上のどこに居るかを割り出す装置だ。

「そういう問題じゃありませんよ。そもそもそれは、先輩が急にどっかいっちゃうことが多いからでしょう。トイレットペーパーを運ぶために持たせたんじゃありませんよ」

「まあ、そういってくれるなよ。人間というのは、天気と便意にはかなわないものだ。それより、さっさと帰ろう。こんなところに長居は無用だ」

 

 

 (すばる)は駅から少し離れた地点で配っていた、ポケットティッシュを一つ持ち、定期券で改札の中に入ると、トイレに向かった。

 鼻の息を止めながら、奥から二番目の個室に行くと、ドアは開かれ中には誰もいなかった。

「あれ、ここにいたはずなんだけど」

 なんだか紙がなくて困っているようだったから、ティッシュを持ってきたが、どうやら解決したらしい。

 済んだのならいいかと、昴はティッシュをポケットに入れた。

 

 

「昴はマジメだなぁ」

 下北沢病室。個室のベッドに寝転ぶ賢は、昴の話を聞いてそう返事すると、窓の外に目を向けた。

「まあ、困ってるなら助けないと」

 隣の椅子に腰かける昴も、窓の外に目をやる。

 空は青く澄み、その手前、そばに見える紅葉の葉が、黄色から赤へと美しいグラデーョンを作っている。

 すると昴は、ちょうど3年前、賢が入院してすぐお見舞いにきた日を思い出した。

 あのときも、窓の外ではきれいな紅葉が見えた。

「綺麗だな、紅葉」

 昴がそういうと、賢は窓から目を離さず、

「もう、3年もたつんだ。この景色も見飽きたよ」そう答える。

 素っ気のない返事に、昴が困っていると、賢は昴にも聞えるような大きなため息の後、続けた。「なあ昴、一つ頼みたいことがあるんだ」

「なんだ。なんでもいってくれよ」

「うん」

 賢は突然、毛布をどかしてベッドから下りた。

「おい、お前。そんな急に動いたら――」

 昴の注意も無視して、隅にあった戸棚を開けると、手に果物ナイフを持ってそばまで歩いてくる。

「これ、母さんが置いていったんだ」

 昴の手を取り、それを無理やりつかませる。「昴、頼む、これでオレを殺してくれ」

 昴は一瞬、言葉を詰まらせ「お前、何言ってんだよ」とナイフを離そうとするが、賢の手がそれを許さない。

「大丈夫、首を切ればすぐだよ」

「そういう話じゃ」

 その手を振り払おうとするも、賢は両手で握りこみ、離さなかった。

「お願いだよ。こんなこと頼めるの、お前しかいないんだ」

「バカ、とりあえず手を――」

 腕を振っていると、急に賢は顔をゆがませて、その場に膝をついた。

「賢!」

 昴は焦ってナースコールを押そうとするが「いい」と賢がいったのを聞いて、手を止める。

「こんなこと……よくあることだよ。いちいち看護婦の人呼んでたら、迷惑だ」

「でもお前、もしかしたら死ぬかも――」

「いいんだよ」

 賢は昴の言葉を遮って、そういった。「それなら、それで。死ねるなら、それでいい」

「賢……なんでそんなこと言うんだよ」

「なんでって……決まってるだろ」

 賢が顔を上げると、涙のたまった目が見えた。「オレはただ……またお前とテニスがしたいだけだ」

 頬を伝う涙。

 昴はそれを、ただ見ているしかなかった。

 

 

「あ、コーヒーは大丈夫だっけ」

 病院庭のベンチに座る昴に、賢の主治医である(あきら)がそういって、両手に握っているコーヒーを見せる。

「はい、大丈夫です」

 と昴は受け取り、プルタブを開けて飲んだ。

「もう3年か、早いなぁ。キミももうすぐ高校卒業だ」

 明は昴の隣に座り、コーヒーを飲んだ。「いつもお見舞いに来てくれて、ありがとうね。キミが来る日は、賢君、調子がいいんだ」

「いえ。僕にできるのなんて、これぐらいですから」

 昴は病室でのことを思い出して、眉をひそめた。「先生、あいつはいつ退院できるんでしょうか」

 明は難しい顔をして、遠くに目をやった。

 病院の患者だろうか。患者衣を着た子供が、親とサッカーボールで遊んでいる。

「だいぶ前にも、言ったと思うけど」

 明はコーヒーを一口含み、ため息を一つもらす。「彼の病気は、とても難しい物なんだ」

「心房中隔欠損症ですよね」

 明は目を丸くして昴を見た後、ふっと顔をほころばせた。

「よく知ってるね。勉強したの」

「はい」

 昴はうなづく。「でも、これって手術で治せるんですよね」

「うん。でも、賢君の場合はちょっと複雑でね」

 そこから明は、賢には内臓に先天性の疾患があることや、その体を手術することが難しいことを説明した。

 明は、知識のない昴のために、かみ砕いて説明をしてくれているが、それでもただ手術が難しいということしかわからなかった。

 そんな自分の無知が、昴は憎かった。

「手術はできないんですか」

 説明を聞き終えたのち、昴がそう聞くと、明はため息とともに首を振る。

「毎日、いろんな病院の先生に頼んではいるんだけどね」

「明先生は」

 昴がそう聞いた瞬間、明の顔からすっと表情が消えると、立ち上がり、暗い顔で昴を見下ろすと、深々と頭を下げた。

「すまない。僕にはどうやっても無理だ」

「そんな、顔を上げてください。先生が悪いわけじゃない」

「いや、悪いのは僕だ」

 明は頭を上げない。「医者だというのに……何もせず、彼が疲弊していくのを見てるしかない。医者失格だ」

 一間の無音の後「賢の体は、いつまで持つんですか」と昴が聞くと、明は頭を上げた。

「心房中隔欠損症っていうのは、安静にしていれば、死ぬようなことはない……けど」

 明は振り返り、賢のいる病室、805号室に目を凝らす。「体力は日々落ちていってるし、最近の彼は精神が不安定で、それが体に影響を及ぼしていてね、不整脈が出る回数が日に日に多くなっていってるんだ。彼は若い、2年なら手術しなくても大丈夫かもしれない。でも、そこから先の保証はない」

「2年」

 賢の年齢には短すぎるタイムリミットを、昴は不安と共につぶやいた。

「もちろん、彼が調子を戻してくれれば、死ぬ心配なんてないんだけどね」

「でも、手術しない限り死なない保証はないし、テニスもできませんよね」

 昴が問うと、明はぐっと眉を寄せた。

「ああ、その通りだ」

 その事実に、昴は静かに目を伏せた。

 頭の中で、涙を流した賢の顔が思い起こされると、昴は顔を上げる。

「あの、僕にできることは、なにかありませんか」

 そう伝えるも、明の表情は暗い。

「昴君、その気持ちはありがたい。けど、キミにはキミのやらなくちゃならないことが、たくさんあるはずだ。もうすぐ卒業だ。進学するには勉強は必要だし、就職だったとしても準備が――」

「3年間です」

 昴は力強い口調で、明の言葉を遮った。「その間、あいつはたった一人で、不安と戦っていたんです。賢は僕の親友です……もう、傍観者でいたくありません」

 明は口をつぐみ、悩むように視線を横にした後「ちょっとまってて」とその場を離れ、建物へと入っていくと、10分後、大きな茶封筒をもってきた。

「これを」

 と昴に茶封筒を渡す。「賢君の、胸部のレントゲンとカルテだ。本当は、こういうものを持ち出すのは、あまりいいことではないから、なくさないでね」

「はい……。それで、僕はこれで何をすればいいんですか」

「探しに行くんだ。彼を……賢君を手術できる人間を」

 

 

 その日から、昴は毎日、医者を探して下北沢中を探し回った。

 そして、すべての医者に聞いた。

「彼を手術できますか」と

 すると、

 

 

「確かに難しいが、私の腕なら」

 

 

「俺様なら楽勝だな」

 

 

「この僕ならできるだろね」

 

 

「私くしに任せれば簡単ザマス」

 

 

「きょきょきょ!私の名前をご存じない」

 

 

 反応は悪くなかった。

 だが「じゃあ、手術をお願いできますか」と聞くと、

 

 

「いや、最近いそがしくてね」

 

 

「……き、気分がのらない手術はしないんだ」

 

 

「僕はできるんだけど、助手の腕がなくて」

 

 

「ウチのペスが最近、病気で」

 

 

「いや~ついこの前、ホモビの撮影で腰をいわせてしまって」

 

 

 言い訳をつけて、できないと断る医者ばかりだった。

 それでも、昴は諦めることなく、医者を探し続けた。

 1日最低1人。日によっては5人と会った。

 それでも、手術できる者は見つからなかった。

 そんななか、流れが変わったのは、85人目の医者と会ったとき、

 

 

「私には無理だろう」

 頭にバットマンのマスクをつけた医者、バッドマンはカルテを一通りみて言った。

「そうですか」

 昴は反応悪く、そう返した。

 最初は断られるたびショックを受けていたが、85人目ともなると、もうその感情も薄くなる。

「だが」

 バッドマンはカルテから視線を上げた。「手術できる人間は知っている」

 昴は目を見開いて、バッドマンの顔を見る。

「本当ですか! それはいったい、誰なんですか」

「その前に、一つ質問がある。キミの年齢を教えてくれるかな」

「年齢……18歳です」

 その質問を謎に思いつつも、そう答える。

「18歳……もう働いてるの」

「学生です」

「学生? あ、ふーん」

 バッドマンは何かを察するかのように。口に手を当てた。

「あの、学生なのが何か?」

 昴が質問すると、バッドマンはため息交じりにいった。

「……一つ問題があってね」

 

 

「私は高いぞ」

 入るなり通された応接室らしき場所で、対面に座る田所は、賢のレントゲンを見るなり手に持っていたそれを机の上に置き、そう言った。

 もはやできて当たり前だ、といわんばかりの、その余裕の表情と、そして、

「成功報酬は1919万円だ」

 バッドマンのいった通り、学生には到底払えないような報酬額に驚いた。

「1919万円」

 思わず、その額を小さくつぶやく。

 自分がどれだけ働けば、そんな大金を生み出せるのか、正直わからなかった。

 いや、一生無理なものかもしれない、だが、

「あの、田所先生」

 昴はすがるような表情を、田所に向ける。「僕は高校3年生の18歳です。とてもそんな金額は払えません。ですが、卒業後すぐに働いて少しずつ払います。絶対です。ですから、手術をお願いできませんか」

「初対面の人間を信用できるほど、私はお人よしじゃない」

 田所はソファーに体をうずめると、冷めた目で見下ろしてくる。それでも、昴は引かない。

「カルテにのってる彼は、僕の親友なんです。もう3年も寝たきりなんで。また、こいつにテニスをさせてやりたいんです。お願いします」

「さて、その話も本当かどうか」

「先輩」

 田所の返答を咎めるように、脇に立っていた助手らしき男がそう言ったが、

「お前は黙ってろ」

 と田所は一蹴する。「まあ、私も守銭奴ってやつでね。金はあればあるほどいいと思っている。キミが確実に金を払ってくれる、信頼に足る人間なら、その話を受けてやらんでもない」

「信頼……ですか」

「そうだ」

 昴は一間、考え「それは、どうすれば」と問うと、

「36万円だ」

 田所は腕を組んで、そう答えた。「今から一月、30日以内に36万円を持ってこい。もちろん、他人に借りるなんてものはなしだ。ちゃんとキミがその体で稼いだものを、ここに持って来たら、それを信頼として、後払いで手術を引き受けよう」

 1919万円と比べると額は減るが、それでも36万円は大金だ。

 家にある貯金箱には8万5千円が入っている。それを合わせても、一日1万円程度稼がなくてはならない計算だ。

 一日の大半を学業にとられる学生の昴では、稼ぐのは難しい。

 田所も、それを分かったうえでの要求をしたのだろう。

「ちなみにだが」

 田所は意地の悪そうな笑みを浮かべた。「これを受けたうえで、金が払えないようなことがあったら、もう私が手術をすることはない。口だけの人間を相手にしている暇はないからな……さあ、どうする。やるか。やらないのか」

 ここを逃せば、もう手術できる医者は見つからないだろう。

 しかし、金を用意するのは難しい。失敗すれば、田所に手術をしてもらえなくなる。

 瞬きを忘れ、ぐっと全身に力を入れた昴は、額から一筋汗を流した後、重い口を開いた。

 

 

「なんであんなこと言ったんですか」

 昴が家を出ると、遠野は不機嫌そうにそう言った。「相手はまだ子供ですよ、助けてあげましょうよ」

「子供だから助けるのか」

 田所は窓際に立ち、野獣邸から離れていく昴の背中を見つめた。「なら、大人だったら見捨てるのか」

「いや……そうことじゃなくて」

「私は、他人を見た目や年齢で判断しない。行動と結果で判断する。もし彼が本気だというのであれば、一月後、またここにくるだろう。金を持ってな」

 

 

 

 

「すごいっすよね。連チャン(連続)でリーチするなんて」

 午前8時。人がごった返す繁華街で、パチンコから出た金子がそういうと、

「あたりまえやん」

 と景品の入った大きな紙袋をもった北村は、意気揚々と返事した。「指のさじ加減っつーの? 女のあそこを愛撫でるようなこのソフトなタッチ。リールの志村けん、10回もぬがしたん俺しかおらんで」

 調子のいい北村に、金子は愛想笑いで返す。

 引っ越しの仕事を抜け出しているため、二人は青いつなぎ姿だ。

「それよりも、いいんですか? 勤務中に油売って」

 繁華街を抜け、人のいない住宅街に入ったところで、まだ仕事に慣れていない金子が心配して問うと「ええんや」と北村は焦る様子なく答える。

「一軒目は昨日の引継ぎやろ、もうだいたい終わっとるやん。金子、朝っぱらから気ぃ張っとったら後もたへんで」

「はい」

「いかにさぼるかっつーのも、仕事の、うちや」

 トラックが止められた小ビルが見えてきたとき、北村は眉間にしわを寄せ、首を前に出してトラックを凝視した。「おい、あれ」

 金子も北村の視線の先に目を凝らすと、トラック後部の荷台が開いていた。

 中には引っ越しの荷物が詰まっている。

「あかんあかん! 泥棒や!」

 北村は焦り、手に持っていた紙袋を強引に金子に持たせ、トラックに走った。

「ちょ、ちょっと」

 すぐに金子も、後を追う。

 二人で荷台の前にくると、その中でこちらに背中を向けて立つ、同じ青いつなぎ姿の男が目に入った。

「お前、誰や」

 北村がそういうと、男は振り返った。

 歳はかなり若そうで、胸には金子たちと同じ引っ越し会社のロゴがあった。

「あ、どうも。バイトで入った、昴っていいます」

 昴と名乗った青年は、軽く頭を下げる。「お二人はいませんでしたが、仕事時間になったので、荷物を運んでいました。ダメでしたか」

「あ、いや」

 北村がそう口にして、何か知っているか、という目を金子に向けてきたので、すぐに首を振った。

 どうやら、会社が急に入れたバイトらしい。

「事前に連絡がなかったから、ちょっとびっくりしてな」

 北村が言った。「悪いな、ちょっと用事があって、抜けててん」

「ああ、そうですか」

 昴は生真面目そうな雰囲気でそう返すと、段ボールをもって荷台から降りる。「引っ越しのバイトは初めてなんで、いろいろ教えてもらうこともあると思いますが、お二人とも、どうぞよろしくお願いします。じゃあ、これ運んできます」

 

 

「若っかいのに、よう働くやつやったなぁ」

「そうですね」

 仕事が終わってすぐ、会社近くの立ち飲み居酒屋で飲んでいた二人は、さっそく昴の話題となった。

 仕事が早いおかげで、今日は予定の2時間押しで終わり、その後もすぐに別のアルバイトがあると、走って行ってしまった。

 すでに軽く酔いがまわっている北村は、焼き鳥を一つ口に入れると、うまそうに小グラスで焼酎をあおった。

「ふー……なんかめっちゃ張り切ってたけど、あれじゃあいつかぶっ倒れてまうで」

「それ、昴君に聞いたんすけど」

 と金子も焼酎を一口して、答える。「……どうも、手術費用を稼がないといけないみたいなんですよ」

 それを聞いて、北村は口に運ぼうとしていた焼酎のグラスを止めた。

「手術費用?」

「はい。昴君の友達が、なんか心臓の病気らしくて。それは、ある医者にしか手術できないんですって。で、その医者から結構な額の手術費用を、請求されてるみたいです」

「結構な額なぁ……。なんぼなん」

 北村はそう聞き、グラスを傾けたとき「1919万円です」金額を耳にした瞬間、ブーっと口に入っていた焼酎を勢いよく吐きだした。

「うわ! なにしてんすか、ビチャビチャですやん」

 店員からもらったおしぼりで、二人で机を拭くさなか、北村はいう。

「さすがに嘘やろ、めちゃくちゃな金額やん。高校生に払えるわけない」

「いやそれがですね。1月以内に36万稼いでこれたら、後払いで手術を受けてくれるっていう話なんですよ」

「それでもキツイやろ」

「まあ、だからあんだけ、焦ってるんでしょうね」

「ああ……そうか」

 北村は焼酎で膨らんだおしぼりを、端に置くと「おい、あいつの電話番号、聞いてるか」と金子にいった。

「一応、聞いてましたけど、なんで」

「いやな、知り合いに、手貸してほしいゆうてるところがあんねん」

 

 

 その日から、昴はバイト漬けの日々を続けた。

 普通のアルバイトではだめだ。かなり高報酬でないと、目標を達成できない。

 最初は仕事を探すので一苦労だったものの、行く先々でバイト仲間や社員の人たちが、働き先を紹介してくれた。

 

 

「バイト君、もうちょっと照明あげて。男優のケツが見えるよに」

「はい」

 

 

「キミ、控えの汁男優たち呼んできて」

「はい」

 

 

「昴くーん。疑似精子おねがーい」

「はい」

 

 

「ここで脱がすから、キミは一般の人がこないか見張ってて」

「はい」

 

 

「ちょっとウンコしてもらえる」

「はい」

 

 

 一月後、昴は口座の数字を見て驚愕した。

 50万円。学業の合間でありながら、30日で目標を大幅に上回る金額を稼いでいた。

 必死で働いていたため、自分がどれだけ稼いでいるかの実感もなかった。

 昴は興奮気味に、50万円すべてをおろした。それを背負っていたTHE NORTH FACEのリュックに入れ、銀行を出る。

 外は大雨だった。レインコートを羽織った昴は、野獣邸へと自転車をこいだ。

 寒くはなかった。興奮で、体が熱いほどだった。

 人がほとんどいない歩道を、顔に雨を受けながら駆け、橋を登ったそのとき、

「誰か助けて!」

 雨音の中、子供の叫び声を聞いて、昴は橋の中腹で自転車を止めた。

 周りを見渡すも、子供の姿はない。

「溺れる! 溺れる!」

 また、声が聞えた。今度は方角がはっきりと分かり、自転車から離れて橋の下を覗くと、2mほど下、雨によって水位を増した川の中で、小学生らしき子供が一人流されていた。

 両手をばたつかせて、何とか顔を出しているが、いまにも沈んでしまいそうだった。

 子供はどんどんと流され、昴から離れていく。

 周りを見渡すも、この大雨で誰も人はいない。電話で助けを呼んでも、きっと間に合わない。

 オレがやるしかない。

 そう直感したとき、昴は自転車を飛ばし、緑色のフェンスが立つ川の側面を進んでいく。

 子供を大きく通り過ぎた後、スタンドを下さす、その場に自転車を横にしてレインコートを脱ぎ、リュックを置くと、フェンスに指をかけてよじ登る。

 上まで行くと、そこからジャンプで川にダイブし、中央まで泳いだ。

 ちょうどそのとき、川上から少年が流れてくると、両腕でしっかりとつかむ。

「だい、大丈夫?」

 声をかけるも、体力をかなり消耗したのか、ぐったりとした少年は何も答えなかった。

 その体を抱きながら、川下へと流されながらも端に泳いでいると、それを見ていたのか、フェンスの内側で手まねきをする2人の大人が見えた。

 そこまで泳ぐと、40代の男が手を伸ばし、少年ごと昴を引き上げた。

「大丈夫だったか? いま救急車を呼ぶから」

 男にそう言われるも「いえ」と返事をして、昴は立ち上がった。

「すいません。僕、用事があるんで。行きます」

「え、ちょっと」

 男の言葉を無視して、ビショビショの服のままフェンスを乗り越え、道路に着地すると昴は走った。

 後ろからは男が呼ぶ声が聞えたが、昴は意に返さず、リュックを置いた場所へと向かう。

 肩で息をし、寒さで体が震え出してくると、倒れた自転車が見えた。だが、

「あれ……なんで」

 リュックがなかった。

 誰かにとられたのか、雨によって流されてしまったのか。ともかく、周囲を血眼になって探した。

 30分ほど探し続けたとき、不意に足から力が抜けて、その場に突っ伏した。

 体力の限界だった。川を泳ぎ、水を含んだ冷たく重い衣服のまま、雨の中を散策していたのだ、そうなるのも当然だろう。

 両ひざを膝を突き、天を仰ぐと、薄黒い曇天が昴をあざ笑うかのように、顔を濡らした。

「もう、ダメなのかな」

 ため息と共にでたつぶやきが、雨音にかき消されると、昴は静かに目を閉じた。

 まぶたの裏には、賢と一緒にテニスをしていた時の光景が映る。

 ――オレはただ……またお前とテニスがしたいだけだ。

「うん……オレもだ」

 昴はそういと、両足を踏ん張って立ち上がった。

 

 

 

 田所は腕を組み、雨の降る外を見ていた。

 時刻は午後6時。暗さも相まって、汚いイボが見えるほど、窓にはうっすらと自分の顔が移った。

「先輩」

 後ろから遠野に声をかけられ、振り向く。

「おお、どうした」

「いえ。ただ、外をじっと見てるから」

「まあ……」

 田所は表情を変えず、窓に向き直る。「天気が悪いなあと思って。別に、たいした理由はない」

 一間、雨音がなる静粛のあと「先輩、やっぱり――」と遠野が何か言いかけたとき、インターホンが鳴った。

 田所は玄関の方に顔を向けた後、遠野と目を合わすと、

「でてきます」

 と遠野はすぐさま駆けていった。

 田所はふうっと一つ息を落とし、応接室へ向かおうとしたとき

「先輩!」

 遠野の声が響き、何があったのかと足早に向かうと、玄関には全身をずぶ濡れにした昴が立っていた。

「どうしたんだ」

 困惑している遠野と、なにもいわない昴を往復してみて、田所はそういうと、昴は深々と頭を下げた。

「申し訳ありません、田所先生。お金は用意できたんですが……なくしました」

「えぇ!」

 遠野が驚きで声を上げると「なくしたとは、どういうことだ?」とすぐに田所が尋ねると、昴の口から、50万円を稼いだこと、川で子供がおぼれていたこと、その間にリュックがなくなっていたことを聞いた。

「なるほどな」

 田所は頷く。「それで、金はちゃんと用意できたが、持ってはこれなかった、ということか」

「はい」

「まるで、小学生のいいわけだ。宿題はやっていた、けど忘れてきた」

 遠野がその発言を咎めるような視線を、田所に向けると「おっしゃる通りです」と昴が答えた。

「ですが、信じてほしい。僕はちゃんと、お金を稼いで届けにきたことを。ですから――」

「手術をしてほしいと」

 田所がさえぎってそう言うと「はい」と昴は頷いた。

 なにかを考えるように、田所は顎に手を置くと、

「それはなかなか……難しい話だな。時間が必要だ」

 といって親指で家の中を指さした。「風呂に入って来い、その間にどうするか考える。遠野、いろいろ用意してやれ」

 

 

 

 昴が風呂に入っている間、田所は応接室でソファーに座り、携帯でホモビをストリーミンング再生で見ていた。

 今や携帯端末でAVが見れる時代だ。

「いい時代になったもんだ」

 そう呟くと同時、ドアが開くと遠野と昴の二人が入ってきた。

 昴の恰好は患者衣だ。

「悪いな」

 田所はいった。「うちにはキミの背丈にあった服は、それぐらいしかなくてね」

「いえ、着させていただけるだけ、ありがたいです」

「そうか……。遠野」

 田所がアイコンタクトで応接室を出るよう促すと、遠野は昴に心配そうな顔を向けた後、出て行った。

「そこにかけてくれ」

 田所は体面のソファーを、昴に促す。

「はい」

 昴が座ったのを見た後、田所は前かがみになって口を開いた。

「私もいろいろと考えたんだがな、信じようと思う」

「本当ですか」

 昴はハッとして、顔をほころばせる。

「ああ、キミがホモビスタッフで50万円を稼ぎ、ここに持ってこようとして、なくしたのは信じる……だが」

 田所はしっかりとした口調で付け加える。「キミは約束通り、金を持ってこれなかった。これは確かだ」

 昴は肩を落とす。

「はい」

「約束がちゃんと守れなかった以上、ペナルティがあるのは当然だ。そこで、君に聞きたい。そのペナルティは、どういうものにしようか」

 昴は田所にも見えるほどに、ぐっと拳を握った後、意思のこもった目を田所に向ける。

「何でもします」

「ん? いま何でもするといったか」

 田所が復唱すると「はい」きっぱりと昴は答えた。

「何だってやります……僕のたった一つの取り得は、真面目さです。命令されればすぐに動きます、何でも全力でやります。1919万円分、しっかり働きます。だから……賢の手術を、お願いします」

 机に額が当たりそうになるほど、昴が頭を下げると、田所は数秒それを眺め。

「なるほど、分かった」

 といって、昴が顔を上げてすぐ部屋を出た。

 朱肉と共に、紙二枚とペンを持ってくると、スラスラと契約の内容を紙に書き込んでいく。

「いっておくが」

 手を動かしながら、田所はいう。「何でもする以上、体をやすめる日があると思うなよ。食事も最低限だ、眠る時間だってあるか。21世紀に奴隷制度の復活だ……。さあ、ここに名前と拇印を」

 田所は紙を回し、ペンと朱肉をおいて、紙の下の方を指さすと、昴はすぐさま名前を書いて、指を朱肉に押し付け、拇印を押した。

 それを見て、田所はふっと笑った。

「迷いがないな」

「はい。だって、賢の手術をしてくれるんでしょう」

 あまりにも真っすぐなその返答に、田所はまた笑った。

「まあ、そうだな。この契約書の効力は、手術が終わってすぐだ。賢君とやらが健康になれば、この契約書がある限りキミは私の奴隷だ。忘れるな。それと、私が契約書をなくすなんてことは、考えない方がいい。肌身離さず常に持っておくからな。あと」

 田所は契約書を端に寄せ、新しい白紙の紙に、田所は賢の手術を行うと書き、名前と拇印を押した。「ほら、手術の契約書だ。またなくすんじゃないぞ。それと、ついでこれもやろう」

 田所はポケットから財布を取り出し、一万円札を昴の前に置いた。

「えっと、これは何ですか」

 昴が動揺した様子で聞くと、田所は足を組み、余裕の表情をみせた。

「それでタクシーでも拾って、手術の報告でも行くんだな。なーに気にするな。これから君には、その札の1919倍も働いてもらうんだ。もらっておけ」

「ああ、はい」

 その契約書と札を手に取り、昴は立ち上がってドアの前に立つと、田所の方に向いた。「あの、ありがとうご――」

「礼ならいい」

 田所は手を振り、その言葉を遮った。「報酬分の仕事をするまでだ。手術は明日だ。それまでにぽっくりいかないよう、安静にしておくんだな」

「はい。では、失礼します」

 昴が部屋を出ると、すぐに玄関から外に出て行く音が聞えた。

「まったく……今の時代には珍しい、生真面目な男だ」

 そう呟いて、田所は奴隷契約書を折りたたみ、コートの胸ポケットに入れた。

 

 

「え……どういうこと」

 賢が体を起き上がらせ、目を丸くしてそう答えると、昴はもう一度、言った。

「だから、手術ができるんだよ。治るんだ」

「でも、オレの手術は、先生難しいって」

「見つけたんだ。賢の手術ができる医者を」

「本当か」

 賢は興奮気味に、昴の両肩をつかんだ。「なあ、嘘じゃないよな」

「オレが嘘ついたことなんてないだろ」

「そっか……そうだよな」

 賢は顔をほころばせると、両目から大粒の涙を流した。「クソ真面目なお前が、嘘つくわけないよな」

 その顔を見ると、昴も嬉しくなり、笑顔を作りながら涙を流した。

 自分がやってきた、すべての努力が報われた。心の底からそう思えた。

「お前が見つけてくれたのか」

 涙を袖で拭きながら、賢がそう聞くと、昴は頷いた。

「うん」

「大変だっただろ」

「まあね」

 確かに大変だった……というより、これからも大変だ。

 もちろん、ここ一ヶ月、ずっと金を稼ぐために働いた事や、契約の事は賢には離さない。変な気を使わせたくないからだ。

 そのとき、昴はふと不思議に思った。

 田所先生、どうしてオレがホモビスタッフで働いていたこと――。

「なあ、昴」

 その賢の声で、思考の途中だった昴はハッとして顔を上げる。

「あ、どうした」

「一月前、変なこといってゴメンな。オレ、ちょっとおかしかったよ」

 昴は、自分を殺してくれと懇願した賢のことを思い出す。

「仕方ないよ、あんな状況だったんだ」

「そんなことないさ、本当にごめん。それと、ありがとう……本当にありがとう」

「礼なんていいよ……オレはただ、また賢とテニスがしたかっただけだから」

 それを聞いて、賢はフフっと鼻をならし、また涙を一筋流すと、

「ホントにお前は……真面目な奴だな」

 笑い交じりでそう言った。

「ああ、そうだよ。それが、オレのたった一つの取り得だから」

「そうか……それなら――」

 そう言うと、賢は涙目ながら、数年ぶりに見る満面の笑みを作った。

「――オレの取り得は……そんなクソ真面目な親友がいることだ」

 下北沢病院。いつも無人のように静かな805号室には、その日、絶え間ない笑い声が響いた。

 

 

 

 

「先輩、本気なんですか」

 賢の手術を行うため、下北沢病院に向かう途中、助手席でふくれっ面を見せる遠野に「本気も本気だ」と田所は黒塗りのセンチュリーを運転しながら答えた。

「これは彼も承諾したことだ。何も問題はない」

「でもあんな契約書、人権無視ですよ、憲法違反ですよ」

 田所はフンと鼻を鳴らす。

「法が怖くて、無免許医師が務まるか。それにいつも言ってるだろ、報酬はオレと患者の問題は、お前は黙ってろって」

「いいえ、今回ばっかりは見逃せません。だいたい、先輩はいつも――」

「ちょっといいか、ラジオつける。静かにしててくれ」

 田所は逃げるようにラジオをつけると、遠野は口をへの字にして黙った。

 ラジオからはニュースが流れてくる。

 ――般道で全裸にさせ、性行為を行わせ撮影したとして、わいせつ物陳列罪の疑いで逮捕しました。調べによりますと監督は、確かにやらせました、露出最高。と容疑を認めています。

「まったく、めちゃくちゃな奴らだなぁ」

 田所が感想を述べるも、遠野は不機嫌なまま窓の外を見て、何も答えない。

 ――次のニュースです。川に流されていた少年を、助けた男性を探しています。昨日午後5時ごろ、下北沢の川で体格のゴツイ小学生が流されていたところ、近くにいた20代と思われる男性に助けられました。その際、それを見ていた別の男性が引き上げたところ、用事がある、と言って名前もいわず、その場から去りました。下北沢警察署は表彰のため、男性の身元を探っています。また、川近くの公園に、その助けた男性の物らしき、ホモランドセルことTHE NORTH FACEの――

 不意に田所は、下北沢駅前の駐車場に入り車を停めると、ラジオを止めた。

「先輩、なにしてるんですか、ここは駅ですよ」

「いや、ちょっと用事だ」

 田所はシートベルトを外して、外に出た。「すぐ戻る」

 足早に駅に向かうと、駅員に訳を話し改札の中に入り、トイレに直行した。

 中には誰もいない。

 奥から二番目の個室に入り、下着をおろして便座に足をかけて座った。

「で……でますよ」

 ジョボッ、ジョボボボボボ……ジョボボボボボ!バチィッ!ミュリッ……ギュィィッ……ポンッ!ブチィ……ブッチッパ!!……チョポン。

 スッキリした田所は、ペーパーホルダーを見ると、わざとらしく眉を寄せ、

「ああ、そうだった……。ここのトイレはいつも」

 とコートの内側に手を入れた。

「紙がないんだ」

 




ブラック・ジャック12巻(チャンピオンコミックス) 第148話「落とし物」より

ノンケロン様 おとをと様 教えていただきありがとナス






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